毒l、 茶 道 親 α斗 に耐へ・なければならないと思ふのであります。 如何に健全なる宗教的精神と共の生活態度が戦争の聖 ゑる目的完遂の詩の推進力となるかを考へるならば、叉 長い戟ひの後‘一位曾人心の飢渇を癒すのは、何人の手に 依うでなされるかと云ふ事に思ひを潜めるならば、私共 の人生に果せられた任務と仕事の重大性は‘白づと明ら かにされると思はれます。
私
の
茶
道
観
中 村 貫 茶道に入って問のない自分が‘茶遣を論やると言ふ事 は借越であるかも知れない。しかし好きな遣を論十ると 一広ふ事は‘別に悪い事では−泣いと思ったから、商の皮を 厚くして筆をとった。わっしょ/\と御輿を嬉いでゐる 若人を見て、公祭騒ぎをする日本人の、その野盤さを笑 ふ人も有るが、彼等にとっては、との御輿携が唯一の安 全捕なのである。吾々知識階叡と誇ってゐる、鵠普者E
もには、彼等のとの純真な境地が却って羨ましく思はれ 註 い で も な い 。 一大 O 世の中は、常にもがもな‘渚消ぐ、海士の小舟の網 手 可 愛 し も 。 と、鎌倉右大臣源質朝は、北保氏の迫害に堪へかねて漁 夫の穏筑な生活を羨んだではないか。 現代文化の、機械的生活に迫ひ詰められて、窮現在喧 喋と多憶とに疲れ果てた現代人の煩問苦情は、各人をし て自暴自棄の枇品目主義に陥らしめるか、さもなくぽ喪狂 自殺より外に行き場のたい絞に思はしめる。とれを悟っ て何等かの安全地帯を求めよう ξ すれぼ、ま守護術の世 界に隠れるより外に注はあるまい。華やかで官能的た洋 地 市 と か 、 感 莞 抵 の 交 墜 と か 、 未 来 抵 の 絢 主 聞 と か 種 々 様 々 た事術も、一時の休憩所として惨酷注文明の嵐を避ける 事は出来よう。併し、他を期待し、ひとりの遣を外して 行く者にとって、それは決して永劫の安住地では左い。 しからば現代の吾々は、如何なる安全地帯を求めたらよ い の で あ ら う か 。 世人は茶の湯と言ふと、すぐ御隠居さんの慰みものか た腿さんの嫁入り仕度の一つである位にしか考へてゐな いのである。茶道とはそんなものではない。 茶道は道義的た‘叉蹄接的た堅苦しい一一聞を具へてゐ るが、他方面には‘自然風物の愛より、茶器愛玩の事術的‘風雅的危噌好を多量に含んでゐるのである。それが 篤、古来より園梓書道の精華として、華道と並び五日が困 問有の淳風良俗たる棺儀作法と合致して、婦女子は勿論 武士町人の健全なる情操と、高雅友趣味とを養って来た のである。自然を愛し、自然に親しむと云ふ事は‘吾々 人生にとって歓くべからざる事賓である。都舎のピル街 K 、終日生活してゐるサラリーマンが、稀には郊外を散 策すると一匹ふのも‘自然の懐に一瞬でも抱かれたい話で あ ら う 。 春は花に、夏は山に維を探り、秋は紅葉に、冬は雪と 向然の輿へるま L に、自然を観賞するのも悪い事ではた い。欄漫たる柵慢の一枝を見るのも美しい事ではあるcし かし‘共の一枝に.一片の短冊がヒラ/\してゐるのを 見れば、誰れしもより高雅な風流味を味はふだらう。自 然 E C行持と合致したものを、五日々人間は理想とするので ある。飴をしゃぶって花見をする野暮漢はいざ知らや、 上戸は酒杯に花鱒を浮かせ、下戸は花より園子と人生の 快を叫ぶのを見れば、自然と人生のデリケートた関係を 此底 K 鷲見するのである。人聞は環境から作られ、逆に 入聞が環境を作るものである。一再ひかへれば、人聞は一世 舎から作られ、逆に人聞が枇舎を作るのである。 手よ の 現 茶 主 主 原始時代に.二人の問に行はれた他意たき食餌の分配 と、母と子との聞に行はるる無垢の諸法則、叉伺人とし ては、その母の筑房に槌る頃から食物に閲する事は、最 も密母珪ものであった。故に、人聞の文化は、食物を切 りはたしては考へられない位である。人聞は相手同士の 聞に存する諸法則の中で、何時しかその都合の好い部分 だけが慣用せられ、それが習慣となり‘とれ等の習慣を 基礎にして、多くの人 K の都合の好いものだけが行はれ 叉それが習慣と成り、その脅慣が挽練せられ、子供同士 の交りが、青年同士の交りとなり。隣り同士の交りが漸 弐吐舎の交渉とたって、更に家庭の撲と、世舎の仕来り が隔 k 相侠って一種の作法が形作られたのである。しか してその仕来りは、仕来りとして成長し、親から子に人 から人に時間へられて来たものである。普からとれを撲と 一去って、子供が食膳に向って、磐を持つ時分からの食事 の仕方に初められ、漸次成長するに従って、必一作進退を 始とし物の吾首ひ方、家の出入の事に及び、鵜て人中陀出 ての棺儀作法と成ったのである c であるから.食聴は民 族的、園家的、或は地方的特色を持つ以上、五日 k 日 本 人 一 は、純日本式食時を心得なぐては成らたいのである。 然るに洋食のエテイタフトなれば一週り心得てゐるが ・ 4 、
一
a ’私 茶 選 観 の と一民ふ人々が、果して純日本式の食事法を心得へてゐる であらうか。﹁時始食﹂と言った孔子の言も、此の謹の事 を意味してゐるのであらう o 人 間 の 秩 序 が 一 一 言 葉 と 作 法 に よって保たれて来事仏以上、その言葉と、作法とを探究す る事の必要な事は、今更いふまでも左い。されば吾が園 民が数千年来保ち来たった、その秩序の一要素たる調特 の作法を探究せやして、日本精神の妙諦を味はふ事が出 来得るであらうか。 尤もとの正しい食聞を識り、好会﹂扶、好き作法 b L 得 る には.必やしも茶道によらねば成らぬといふ語けではた いが、他の時儀期日修の様に無味乾燥でなく、健全なる情 操と典雅なる趣味とをその慰霜としつ L 茶道に携り、と れに親しんでゐる内に何時とは・なしに、その好影響に蝿 れて、これ等の諸目的を達成し得るととに成るのである 斯の如き淳厚淳美紅茶道も、﹁近時形式に流れて来た﹂ L \一五はれるのは遺館な事であるが.時代の艶援に従っ て、共の時代に遁醸すべき茶道が生れた、と一五ふ事は事 貰である。しかし昔も今も、和敬清寂の四題目 bL 共の主 眼として、斯道に精進して来た事は、日本文化史の物語 ってゐる庭である。和とそは茶道の民生命であり、和友 ︿ば‘茶道なしと一区つでも過言ではないのである。 一 六 和とは聖徳太子の‘十七僚憲法の最初に﹁一円以和母 島氏﹂とあるのがそれで、平和第一を主義在するのは、古 来日本の園民性なのである。 和は相封的に見て、他人と相和する意義がるるばかり でなく、絶封的に見て‘自分自身の心の平和をも意味す るのである。茶の濁紫の平和は、即ちととに存する。決 して形式的な堅苦しさに囚れ、珍器、名物をもって黙茶 するのが吾 K の 言 ふ 茶 道 で は な い の で あ る 。 茶 人 と 一 古 口 へ ぽ誰でも知ってゐる千利休も‘茶の湯とは、ただ湯をわ かし茶をたて L のむばかりなり・本を知るぺし。 釜一つ持てば茶の湯はなるものを、よろやの道具好 む っ た 在 さ 。 ム ﹂ 言 っ た り 、 松 平 不 味 公 の ﹁ た だ ご と ﹂ の 中 に も 、 夫れ茶の湯は、東山慈照院の時、能阿輔、相阿蝿等、台 子の茶の湯を専らにし、誠に AE 銀をちりばめ、名器を集 めて、楽耀の至極紅りとぞ。共の後、珠光法師に烹りで は少々是を略す。然れさも六品質敷に台子を飾り、珍器を 集めて鮎茶ありとなり。ム口子の茶の湯は、結構を本とし 少しも略儀を致すととなし、今いふ民台子、皆とれ能相 の用ひし明なり。珠光以後、武野紹鴎‘四島宇の座敷に 袋棚といふ欄を飾り、大に略して賭茶す。とれよりして
紹鴎、利休相談にて、草山地位の茶の湯を作り、専ら蹄林 の清規に本づき.白露地の本蹴と定む。 ζ れ茶の湯の根 本なり。営世の茶の湯といふは、皆草庵の茶友り。探る を美をつくし結構を成すことに成りしは、にが/\しき 事たり。利久の霊魂も、たりはてたる茶 O てい、さぞ口 惜しく思はん、と察し入り候。是非もたき浮世と存ゃる の み 。 と嘆き、更に箸修に流るる茶舎を非難して日く、 人をもてなさんに、食物器物、天より下らや、地より 湧か・?と見れば、共の人々の程々に見合せ、金未なきゃ ろにあるべき事・なり。家作は勿論、茶器食器に至るも‘ 此の心得にて然るペし。然るを嘗世は、道具を見せに呼 びながら道具御覧に御入あれと云はやし℃、茶の湯とて 相招き、茶の湯は第二とし、客も道具を一専らに春め、主 も亦‘道具を自慢して、扱又懐石は、懐石の鐸を知らね 故.色々のことを思ひ付き‘金銀を入れて、容を呼びな がら、位 K と忠ふとと‘片腹痛きとと友り。 世の人の笑ふ所、誠に感服の事たり。 と 一 去 っ て ゐ る ・ 通 り 、 そ ん な に 形 式 的 堅 苦 し さ に 囚 は れ る のが、茶道の精神ではないのである。 H とこまでも、和敬 清寂の法則に従ひ‘大自然の風味をそのま L 茶碗に盛つ 私 茶 溢 観 '7.) て.自然の涼味を満哩する、風流味とそ必要なのである しかし、﹁人は道具を使ふ動物及り﹂と云ふ、西諺の言 葉にもれ中、普から茶人は茶器を鑑賞し、多くの名物道 具を作ったのである。最粛な茶道観から見れば、此の現 物喪志の茶道は、茶道で友︿‘邪道であると云ふので、 茶人の茶器愛玩を蔑閥し、道具茶の湯として攻撃するの であるが、とれはまた、一種遺製者流の議論であって、 武土が魂とする’万を選定し、舟胡が水竿を濯ぷ気持とか はらないのである。それはかならやしも、日本に稜達し た茶道を、文化史の上から夜間したものでは・ないのであ る 。 勤倹質素を主義とする、水戸家に於て、道具好た哀公 はた時間不評判であったが、大正の御代に水戸家の財政を 絞ったのは、その哀公が道具好であった需に保有された 諸担具の賓立てであった。叉尚武勤倹を主義’とする島津 家でも幕末及び、維新の営初に同家に入った名物茶器が 近年同家入札の際に、最高債を呼んだのである。道具好 き‘骨董いじりが家を減すとのみきめつけてゐた、儒者 一流の議論に封して、痛快友皮肉では友いか。 しかるに世人的製茶論をき︿に、大なる原因は徳川幕 府が、自家擁護の篤に奨励した漢撃により、それを皐ぶ 4 h ハ
私 市立 ,.,,
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叡 の ものをして‘遂に支那崇拝者を積出せしめ、何事 K よ ら や支那流に解緯せんと企闘し・支那思想を以て我が事を 親、もし割り切れぬ問題に逢着するい駄に、とれを排斥し とれを非難せんとする傾向を持つに至った事である o 又 それと同様に、近代西洋文明の輸入と共に、西洋崇拝者 がぱで︵自由︶の旗印を上げて‘支那思想輸入以来、日 本精紳を源流とする‘閤由宇及びその思想的産物に封して 罵言議悔を恋しいま L にしたと同ヒ様に、質貨危純日本 的 淳 一 厚 淳 美 の 茶 道 を 排 斥 し た の で あ る 。 叉 古 来 附 学 者 の 眼 から見て、茶道は遊戯の部に入れられ、間碁や持棋と同 列にし‘間単に遊び道共に過ぎないものとして、取扱はれ で来た事も原因してゐる。それ等は、茶人即ち賠茶人‘ 宗匠連が所謂茶人文官で、少しも撃聞をしないから、賠 茶法の停技にのみ拘泥して、遊び事、戯れ事の宣演をや っヱ来たからであるとも云はれてゐる。そとで儒者、道 事者の勤倹論、道徳設から見て、茶道は参修的、亡闘的 遊戯であると罵倒されてしまったのである。現代人が茶 遣を解したいのは、との事が探︿頑脳に法み込んでゐる 誌ではないだらろか。 茶道は古来の愚者が喝破せる如く、亡図的遊戯で有ら ろか、何も得る底のない有暇人の徒然の慰みものであら 一六問 ろ か 。 小堀遠洲公害捨交には次のやうにある。 夫れ茶の湯とて外にはなく‘君父に忠孝をつくし、家 k の 業 柵 附 怠 な く ・ 殊 に 奮 友 の 交 を う し な ふ 事 − な か れ 。 事 仲 は 震 、 夏 は 車 内 葉 が く れ の ほ と と ぎ す 、 秩 は い ’ r・2
寂さまさ るタの空.多は雪の暁、いづれも茶の湯の風情ぞかし。 道具とても、珍らしきによる可らや。名物とて、かは りたる事なし。古きとて、共のむかし新し。ただ家に久 しく停はりたる道具とそ名物なれ。古きとて、ただ賎し きを用ひ守、新しきとて形よろしきは捨つぺからや。数 多きこと乞羨ま歩、少きをいとはや、一日間の道具たりと も、幾度ももてはやしてとそ、末 K 子孫迄も偉はる遭あ 乙ペし。一飯を進むとも、心ぎし厚く、多味なりん﹂も主 たるものの志うすき時は、早瀬の鮎、水底の鯉、とても 味ひあろべからや。躍の露、山路のったかづら、明暮れ 来ぬ人をまつの幕風の釜のにえ一音たゆるととなかれ。 松平不昧公もとれに倣って、 茶の湯は稲葉に置ける朝露のごとく、枯野に映ける・な でしとのやろにありたく候。 と一民ってゐる。とれが毘の茶道精神である。叉失のやう ・ な 面 白 い 話 し も あ る 。太閣が飴り茶に探って、政治を疎かにされるのはよく ないと云ふので、加藤清正が、千利休を殺さうと思ひ、 縞比茶室を窺って見たが、利休が棄を取れば‘左の防ぎ となり、茶杓を取れぽ右の楯となり、何虚からも切り込 めたかったので、大いに感心して、利休の弟子に成った と一五ふ話しがある。とれは勿論作り話しであらうけれ
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茶道の極設に達すれば此のやうに、人格、精神の陶冶に 成 る の で あ る 。 叉働問柴西は、入唐七て茶の種も彼土から携へ来り、茶 の民衆化を企てた、功勢ある人でるるが、その柴西が再 度入唐して師うて来た営時、時の将軍が病魔に侵され、 品 弔 問 に 加 , 持 を 命 じ た が 、 柴 西 は 良 薬 で あ る と 一 去 っ て 一 一 回 の茶と、喫茶養生詑と一五ふ書を将軍に献じた。将軍はそ の茶を召して大費御感悦であったとか。 共の喫茶養生記の中に、 マ タ 茶 ハ 也 養 生 之 仙 制 捜 也 。 延 齢 之 妙 術 也 。 山 谷 生 レ 之 共 地 神 霊也。人倫探 L之 共 人 長 命 也 。 天 竺 唐 土 問 貴 = 重 之 − 。 と 記 し 、 叉 共 の 中 に 、 五味︵服、甘、酸、半、苦︶を五行︵地、水、火、風 窓︶に配し、五臓︿肝、肺‘心、牌、腎﹀に配し、心臓 は苦味を司る故に、人々苦味の不足から‘不健康に成る 私 茶 喧〉 主主 観 と 断 じ 、 日本閣不 L食 = 苦 味 − 乎 。 但 犬 同 調 喫 レ 茶 。 故 心 臓 無 レ 病 。 亦 長 命 也 。 我 国 多 有 = 病 清 人 − 。 是 不 レ 喫 レ 茶 之 所 レ 致 也 。 と 云 ひ 、 喫 茶 法 と し て 、 喫茶法、極熱湯服レ之、方方些二三匙、多少随意、但湯 少 得 レ 好 、 共 亦 随 意 、 一 I k 。 殊 以 レ 濃 購 L美 、 飯 酒 人 後 喫 レ 茶 、 則 消 レ 食 也 。 と 説 い て ゐ る 。 日本人が‘食事の後に茶を飲むのは、所謂食物の毒を 消 す 潟 で あ る 。 之等の事賓を見ても‘茶道の歴史は古いものなのであ って、決して遊段ゃ、娯紫としてあっかつては成ら白も のであり、共の奥の深さは計り知れないのである。 世人が茶の湯の非を説くのを聞けぽ、一理あるととを 一耳ふ。しかし皆員の茶道精紳を知らないで、夫婦羅され た茶の湯を見てゐるからでるる。利休﹁茶の湯百首﹂の 中にも 共の遣に入らんと思ふ心とそ、我が身ながらの師匠 ・ た り け む 。 習 ひ っ L 見てとそ習へ習はやに、善悪いふは尽なり け れ 。 と設いてゐるではないか。 一 六 五'fl、 茶 主 主 観 VJ 特に最近では、此の超非常時に青年婦女子が.そのや ろ な 泊 極 的 遊 戯 に 祭 々 と し て ゐ て よ い の か と 罵 旦 一 目 さ れ る かも知れない。しかし‘その言葉は間違ってゐる。茶道 の始原が、元組、天正の戟園時代に費生した理由を検討 して見るに、殺伐に流れる人の心に潤を輿へ、血ばしっ た限に、一滴の目輔衆を典へるには、心の相、精神の再陶 冶とそ必要なのであった。 ネ ヅ ミ の 昔 を 、 敵 の 足 一 一 日 で は な い か ム ﹂ 疑 り 、 水 烏 の 飛 び 立 つ 一 背 に 、 敵 来 れ り と ‘ 思 ふ 心 の 浅 間 し さ 、