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10.戦争未亡人と茶の湯

ドキュメント内 新島八重と茶の湯 (ページ 31-46)

 圓能斎による戦争未亡人の自立支援と女性に於ける茶の湯の興隆の関 係を指摘しているのは、三田富子氏である。

 いまは、女性が茶の湯の大部分をしめています。昔は茶の湯は男子 のものでした。では、なぜ、女性がこうまで多くなったのでしょう。

 私がわが師にきいたところでは、明治の日清、日露の戦後のあと、

夫を戦に失った戦争未亡人が数多くでき、その人たちは働くに職がな かったといいます。

 そのとき、裏千家の家元円能斎がその未亡人に許状をおくり、これ をもってお茶を教え、子供を育ててゆきなさいと励ましたそうです。

その当時の女性の職場といえば、女工か仕立物か髪結いくらいでした から、未亡人はよろこんでお茶を習いお茶を教えはじめたといいます。

 また、その伝播に力があったのは、村雲御所の尼公さまが、全国の 末寺に裏千家のお茶を習うようにといってくださったからだそうで す。現代の女性のお茶はこうして、生きることを助けるためにはじめ られ、それが根付いて現代の盛況になったのです97)

 「村雲御所の尼公さま」とは、伏見宮一品邦家親王の第6王女、村雲 日栄のことである。1855(安政2)年生まれで、数え2歳の時、当時は

京都市村雲(堀川通今出川下ル)にあった日蓮宗瑞龍寺に入り、のち、

瑞龍寺門跡となった98)

 日露戦争直後の

1906

年、尼公は村雲婦人会を設立した。同婦人会の趣 旨について、その委員長を務めた松森霊雲は、「〔尼公は〕日露戦争後に 於きまする婦人問題に、非常に御考を悩まされ其の理想と抱負とを実現 されます第一歩として、法華経の信仰を中心とした村雲婦人会を設立せ られ、此の婦人会を基礎として、総ての婦人問題を解決し給はんとのご 抱負であります」と述べている99)。したがって、上記の三田氏の「全国 の末寺」とは村雲婦人会のことと思われる。

 実は、この村雲尼公は、京都の篤志看護婦人会の会長を務め、既述の とおり、八重に篤志看護婦会の「看護学助教」嘱託を任じた、八重とも 親交のあった女性であって、八重は1905年の談話で彼女のことを次のよ うに述べているのである。

 京都の篤志看護婦人会は今では千六名の会員があり非常な勢ひでご ざいます、会長はご承知の通り村雲尼公に御願申して、副会頭は大森 知事の夫人でございます、何れもご熱心の御方許りでございますから、

今日の様な盛大を見ることが出来ました100)

 篤志看護婦人会で大きな働きをし、戦争未亡人救済のための愛国婦人 会でも活躍した女流茶人のパイオニアである新島八重を軸に見れば、そ の八重と長期にわたって交流した圓能斎の戦争未亡人救済のための女性 への茶道普及事業、および、八重と同じ篤志看護婦人会で活躍した村雲 尼公の宗門の婦人に対する裏千家茶道の普及には、ほぼ間違いなく八重 との交流の影響が認められるであろう。

 その八重は、

1932

(昭和7)年6月

14

日、病のために

87

歳で亡くなる。

 告別式は、同志社女子部の栄光館においてキリスト教で行われたが、

その中で牧野虎次は、八重の最晩年を次のように述べている。

 〔八重は〕元来快活ニシテ物ニ拘泥セラレザル風ハ、疾病ニ対シテ モ同様ナルモノアリ。最後ニ至ルマテ嗜メル茶道三昧ニ日ヲ過シ、興 到レバ時ニ心身ノ運動其度ヲ過シテ顧ミズ、以テ逝去ノ前日ニ至レ リ101)

 八重の体調が悪化したのは、亡くなる6日前の6月11日に大徳寺内で 茶筵があり、山内の各席を歩き回って著しく疲労を覚えたことと、それ にもかかわらず、6月13日に柳馬場六角のあたりの茶筵に出席したため に激烈な腹痛を訴えたことが原因であった102)

 無理をして茶会に出たために命を落としたと言えなくもないが、死の 直前まで茶を楽しんだと言うことも出来るであろう。

 臨終のとき、八重は全く苦痛無く眠るように逝去したという103)。八 重の心中では、キリスト教信仰と茶の湯が相まって、彼女に安心立命の 境地をもたらしていたのであろうと私は考える。

 八重の死化粧をしたのは、八重の茶友であった。その一人の栗田宗近 女は、次のように語っている。

 

 お友達は、まあ新島八重さんでした。いいお人でした。八十八で没 くなられたのですが、日頃から夏死んだらこの帯、冬ならこれ、とちゃ んと用意してありました。おなくなりになった時は、私ら茶友達がよっ て、チャンと死化粧をしてあげました。もうそれからは昔のお友達は 一人もありません104)

        

 八重の後半生は、このように、その最期の時まで、キリスト者の女流 茶人として生きたのである。

11.まとめ

 利休宗易・古田織部の流れを継ぐ茶人である山本道句・道珍の子孫で あった八重は、茶人としての血が流れているが、彼女自身も茶人として

の先祖を意識していたと考えられる。

新島逝去後、八重は裏千家12代家元又玅斎に入門し、その子息で、 自 分の子供ほどの年齢の同

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代圓能斎の直弟子として女流茶人の頂点を極 める人となった。

八重の茶名「宗竹」はおそらく、会津戦争で節に殉じた肉親や友人知 人を思い、節(せつ、ふし)に由来する弱竹(なよたけ)から引いたも のであろう。

茶室は圓能斎によって寂中庵と名付けられたが、それはおそらく禅語

「空空寂寂中」に由来し、老年の八重が執着や煩悩、屈託から免れた静 かな心の境地であったことを物語る。

 新島旧邸は、八重の生前には全体で路地と茶室を構成するものであっ たと考えることが出来る。洋間や食堂は「待合」となった。「腰掛」は 中庭に通じる出入り口の外に設けたと考えられる。必ず襄の書斎を客が 通ることとしたので、襄の思い出を語ることが寂中庵での茶会の大きな テーマとしたかった八重の心情が知れる。寂中庵では、入り口にすだれ をかけてにじり口とした。

 八重は夫・襄から神を信じることによって「心之平和」が得られるこ とを学び、その信仰を深めていったが、八重にとっては、茶の湯も、キ リスト教と相まって彼女に和敬静寂による心の平安をもたらすもので あった。

八重が女学校に茶道教育を導入するのに働きがあったことも見逃せな いが、それ以上に、圓能斎や村雲尼公とともに、戦争未亡人の救済のた めに女流茶人を育成し、茶道教室の経営による戦争未亡人の自立に対し て働きがあったことも間違いないであろう。八重自身、茶道にかかるお 金のために大沢徳太郎の提案により有償で茶道を教えていたのであっ た。なにより、八重は会津戦争のために父や弟を亡くし、前夫の川崎尚 之助と離別した、戦争の被害者であった。

 八重は、自らの努力で女流茶人のパイオニアとなり、「茶の湯」界の 頂点を極めた。また、圓能斎の力もあって、女流茶人の育成も行った。

 茶人としての八重は、自らが先導して、男の世界だった「茶の湯」界

を女性に解放し、圓能斎や村雲尼公とともに、女流茶人を主流とする現 代「茶の湯」界の流れをつくった。それは、篤志看護婦として従軍し、

看護婦の地位向上に尽くしたことと同等以上の彼女の功績と考えること が出来る。

 八重にとって茶の湯そのものは四十年を越える彼女の耐久朋だった が、茶友は彼女が心を許せる心の友であった。彼女の死化粧をしたのも 茶友であった。

八重のおかげで、同志社は裏千家と特別の関係で結ばれ、キリスト教 主義の教育に加えて、京都の地にあって日本を代表する伝統文化の一つ である茶の湯の伝統と文化が、同志社の伝統と教育に彩りと厚みを加え ることになった。

 キリスト者茶人としての八重の願いとは、自らの左手を枕に召天した 愛夫襄と、いずれ天国で再会を果たし、天国に設けた茶室で愛夫を茶事 でもてなすことではなかったか。私にはそう思えるのである。

1) 筒井紘一「圓能斎宗室と新島八重」千家茶道の継承図録(中央公論新社、2010年)。

同『茶人交友抄』(淡交社、2011年)。廣瀬千紗子「新島八重の茶の湯」、同志社 同窓会編『新島八重 ハンサムな女傑の生涯』(淡交社、2012年)。本井康博『ハ ンサムに生きる 新島襄を語る(七)』(思文閣出版、2010年)、吉海直人『新島 八重 愛と闘いの生涯』(角川選書505、平成24年)等。

2) 拙稿の元となった研究発表は、2012年8月4日に同志社大学今出川キャンパス

で行われた同志社大学同志社社史資料センター第一部門研究8月一日研究会で 行ったものである。

3) 本項の論考は、宮崎十三八氏の業績・「山本覚馬・八重の出自」(『新島研究』

No.82、同志社新島研究会 1993年)に多くを負っている。宮崎氏は既に他界さ れておられるが、生前、自宅の庭の一部を提供され、同処に学校法人同志社が「山

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