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新宮への旅 : 茶人、川上不白との出会い

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Academic year: 2021

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Ⅰ.はじめに 多くの人にとっての観光の楽しみは、日々の生活を離れ非日 常空間を経験することにあるだろう。初めての土地には、「行っ て」、「見て」、「触れて」、初めて手にする発見、感動、疑 問がある。そして、そうした場所は必ずしも自分の暮らす場所 から遠く離れているわけではない。今回の旅行先となった新宮 市(以下、新宮と記す)は、和歌山県で生まれ育ち、現在 も関西で暮らす私にとって地理的にも心理的にも比較的近い と言えるが、この旅は私に新しい発見をもたらすとともに、日々 触れてきた文化・習慣を改めて見直す機会となった。そんな 経験の軸となったのが、江戸時代中期に活躍した新宮出身の 茶人・川上不白(かわかみ・ふはく)である。 不白は、茶道流派の三千家と並ぶ江戸千家をおこし、新 宮と茶の湯の文化をつなぐ重要な人物である。しかし、彼の 名を知る人はどのくらいいるだろうか。かく言う私も、新宮を訪 れたことがなく、川上不白という名前も聞いたことがなかった。 しかし、2019 年に川上不白生誕 300 年・紀州藩付家老水 野氏入部 400 年を祝う記念茶会(図 1)が催され、この記 念イベントに合わせて新宮を訪問し、不白を知った。なお、水 野氏の紀州藩付家老としての役割が、新宮と江戸をつなぎ、 後に茶人としての不白を生み出すことになるが、これについて、 詳しくは後で述べたい。  この新宮への旅行を企画したのは、私が所属する同好団体 「紀州の和菓子と文化を考える会」である。川上不白の人生、 茶道・和菓子文化の豊かさを学び、新宮の歴史と文化を体 験することを目的とし、茶会への参加と市内の和菓子店の訪 問を含む市内散策が組まれていた。この旅行を通じ、私は不 白の名とともに新宮における茶の湯と関わる歴史・文化の一面 を知り、またそこでの茶会への参加を契機に、茶道と女性の 関係についても考えるようになった。本稿では、まず新宮の特 徴を概観し、川上不白の茶人としての活動、そして新宮での 茶会体験をきっかけに私が疑問に感じ、調べた茶道と女性の 関わりについて論じたい。   Ⅱ.新宮の特徴 ― 江戸・東京とのつながり 新宮は、紀伊半島の南端に位置するまちである。現在、 高速道路の建設が進んで大阪からのアクセスが良くなったが、 和歌山県北部の住民にとっては、県内でありながら日帰りが可 能とは言い切れない位置にある。 この地域は温暖多雨で、豊かな水資源と森林資源に恵ま れ、古くから自然崇拝に根差す熊野信仰が受け継がれてきた。 その熊野信仰の三山の一つである熊野速玉大社やその摂社 である神倉神社、そして阿須賀神社があり、平安時代後期 から鎌倉時代前期にかけてこれらの聖地に詣でる熊野詣が盛 んにおこなわれてきた。そのため、新宮は熊野速玉大社の門 観光フォーラム

新宮への旅—茶人、川上不白との出会い

My trip to Shingu, Wakayama:

Tracing the life of Kawakami Fuhaku, the life Japanese tea master

明山 文代

Fumiyo Akiyama

和歌山大学国際観光学研究センター(CTR)客員ジュニアフェロー キーワード:茶道、伝統文化、川上不白、新宮

Key Words: tea ceremony、traditional culture、Kawakami Fuhaku、Shingu

図1  川上不白生誕

300

年・水野氏入部

400

年記念茶会

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前町として発展した。 戦国時代には、堀内氏が新宮を中心に熊野地方を治めて いたが、江戸幕府成立後、新宮は紀州藩の領地となり、紀 州藩主浅野幸長が統治した。ところが、1619(元和 5)年より、 浅野家に代わって水野家が新しい領主となり、幕末まで治め ることになった。水野家が新宮の領主となった背景には、紀 州藩主の交代があった。1619(元和 5)年に安芸国広島藩 主福島正則の改易に伴い、紀州藩を治めていた浅野家が広 島藩に移されると、そのあとに徳川家康の十男徳川頼宣が紀 州藩主として 55 万 5 千石の石高で入部した。その時、幕府 より頼宣の「付け家老」として二家が任ぜられた。ちなみに、「付 け家老」とは、将軍からの命令を受け、その大名の家老とし て付属された家臣のことで、藩主を補佐する一方、大名に匹 敵する所領と城を与えられた。新宮には、付け家老に任ぜら れた水野重央(みずのじげなか)が入部し、新宮城(丹鶴城) と3 万 5000 石を統治した。もう一方の付け家老に任ぜられ た安藤家は田辺に入部した。安藤家は紀州藩の藩政に参与 することが多く基本的に国詰めであったが、水野家は江戸詰 めとなった。そこで、水野氏の入部後、新宮には江戸との交 流が生まれ、新宮産の炭や熊野材が海路を使って江戸に送 られるようになった。三都から遠く離れ、紀伊半島の最南端に 位置する新宮ではあるが、海路を通じて江戸と結ばれ、良質 の新宮炭や熊野材を積み出す代わりに、江戸から新しい文物、 文化が流入した。こうした中央とのつながりは、明治期以降に も引き継がれていった。 このように、川上不白が生まれ育った当時の新宮は、江戸 幕府との政治的つながりが深く、江戸と物資の流通があり、 多大な文化的影響も受けていたのであった。 Ⅲ .川上不白の人生 川上不白は、1719(享保 4)年、水野家家臣である川上 五郎作の次男として生まれた。15 歳には江戸に出て、紀州 藩江戸詰家老職にある水野家に仕官した。16 歳の時、主君 の命を受け、水野家の茶頭1)(さどう)職になるため京都に 出向き、表千家 7 代如心斎宗左(じょしんさいそうさ)(図 2) に入門した。こうして、京都の師の元で修行を行い、茶の湯 を学んだ。早々に如心斎の信任をえた不白は側近として新し い茶の湯の稽古法「七事式(しちじしき)」2)の制定に関わった。 1745(延享 2)年、如心斎宗左より千家の正統な継承者で ある証、茶湯正脈(ちゃのゆせいみゃく)が授与され、1750(寛 延 3)年、真台子(しんのだいす)3)が伝授された。 このように不白が水野家茶頭となるために修行し、奥義を授 与されるに至った背景には、紀州徳川家と表千家とのつながり がある。早くから茶の湯の嗜みがあった徳川頼宣は、1642(寛 永 19)年に、江岑宗佐(こうしんそうさ)(図 2)を紀州徳 川家の茶頭とし、三木町(現在の和歌山市三木町)に屋敷 を用意して二百石の扶持を与えた。江岑宗佐は、利休の曾 孫にあたり、表千家を立て利休の血脈と茶の湯を伝えていっ た家元(表千家 4 代)である。彼は京都の不審庵(ふしん あん、千利休が営んだ茶室)にあって、茶道を指導する一方、 紀州徳川家にも出仕して茶頭の務めを果たした。紀州藩では 歴代藩主も茶の湯に親しみ、紀州徳川家と表千家歴代家元 との関係が明治維新まで続いた。このように茶の湯が盛んな 紀州藩に、不白は 1744(延享元)年に師の表千家如心斎 宗左に随行して訪れている。そして、その際に茶の湯の神髄 を会得したと言われている4) 1750(寛延 3)年、不白は、再び江戸にもどり、水野家茶 頭職として活動を始めた。江戸においては、駿河台には黙雷 庵(もくらいあん)と呼ばれる茶室を置き、後に、神田に蓮華 庵(れんげあん)の茶室を設け、江戸に千家流茶道を伝え ていった。当時の江戸では、武家社会において千家の茶道と は異なる石州流の茶道が広まっていた。その中で、川上不白 は千家流の茶道を普及するため尽力した。後に、千家流の 中に彼自身の流派を立てることを許され、「江戸千家」を称し た。門弟には、盛岡の南部家や萩毛利家などの大名家や豊 後武田の岡藩、筑後久留米藩等の藩士・茶道役も多くみられ、 不白の茶が全国各地に広まっていったことを示している。茶道 の研究者である村井康彦は不白の居住地に注目し、「不白が 図2 三千家の系譜(初代・千利休から

7

代まで) (谷端昭夫『よくわかる茶道の歴史』を基に筆者作成)

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武家屋敷の多い駿河台と町人が多く居住する神田明神に居 を構えたことは、不白の狙いが武家と町人に向けられたことを 示している」と述べている。そして、江戸は全国から集まった 大名たちの交流の場であったということをふまえ、「不白の茶 道は藩に持ち帰られ、文化的な拡散の役割を果たしていた」 ことを指摘している5)。こうして江戸千家を称した不白は、各 大名から有力商人、職人に至るまで幅広い層に千家の茶の 湯を広め、江戸にて 89 歳の生涯を閉じた。  1750(寛延 3)年以降は紀州に戻ることはなかったが、紀 州の付け家老水野家の茶の師が不白だったことから、新宮に おいても茶の湯が盛んになり、和菓子など茶の湯文化が代々 受け継がれた。その影響もあって、新宮では、茶席用上生 菓子や干菓子、その他に餅菓子、ふ焼き、煎餅、焼菓子な ど県下有数の和菓子作りがおこなわれている。現在では、こ うした和菓子屋が不白と関連付けた商品を開発し、自治体も 不白と絡めた茶のイベントを支援している6)。(図 3) Ⅳ.新宮での茶会体験 川上不白の生誕 300 年を祝う記念茶会は 2019 年 11 月 24 日に開催された。これを主催したのは、表千家流音無会(お となしかい)である。音無会とは、新宮市を中心に東牟婁地 方、三重県などの茶人でつくる茶道団体である。この記念茶 会では、先ず、水野家の菩提寺である本廣寺(ほんこうじ)(図 4)本堂にて、川上不白の遺徳をしのぶための御供茶式(お くちゃしき)が行われた。その後、本廣寺では音無会の茶席が、 宗応寺(そうおうじ)(図 5)では江戸千家蓮華庵の茶席が 設けられた。 本廣寺における御供茶式では、江戸千家蓮華庵のお点前 が間近で拝見できる。これを目当てに、着物に身を包んだ多く の参会者が早朝よりこの寺を訪れていた。広い本堂で御供茶 式が始まり、本廣寺の住職の読経が流れる中、江戸千家蓮 華庵の若宗匠(わかそうしょう)・川上紹雪(かわかみじょうせつ) によるお点前が始まった。若宗匠は、次期宗匠の地位にある が、その点前が公に披露される機会はめったにない。参会し た修練者一同は互いに肩を寄せ合うほどの近さで正座し、一 斉に若宗匠のお点前に注目していた。ピンと張りつめた空気の 中、若宗匠はお茶を点て不白像に供えた。 御供茶式終了後、2 つの寺に設けられた茶席のうち、私は、 宗応寺での江戸千家蓮華庵の茶席に参加した。先の御供茶 式に引き続き、この記念茶会で私が最も興味をひかれたのは、 男性は若宗匠一人、これに対して 50 ~ 60 人に及ぶかと思わ れる修練者たちが全員女性という構図である。正装の着物を 図3 川上不白の顕彰碑 不白顕彰会によって新宮城址に建てられた。 不白が好んで使ったという「清風生蓬莱」の文字 が刻まれている。(2019 年 11 月 24 日 筆者撮影) 図4 本廣寺 川上不白生誕 300 年・水野氏入部 400 年記念茶会、 御供茶式・音無会茶席(2019 年 11 月 24日 筆者撮影) 図5 宗応寺 江戸千家蓮華庵茶席(2019 年 11 月 24 日 筆者撮影)

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召された方々と尼僧 2 人、案内するホストの方もみな女性であっ た。しかし、考えてみると、茶の湯は戦国時代には武士の嗜 みだったはずである。現在の茶道の基礎を確立した千利休と 彼を支えた豊臣秀吉、大名たちなど、いずれも男性ばかりが 思い浮かぶ。それなのになぜ今のお茶席に女性ばかりが並ぶ のか。今までは何とも思わなかった女性の茶の湯に関して疑 問がわいてきた。新宮から帰った私は、茶道と女性の関係に ついて多くの文献をひもとくことになった。 Ⅴ.茶道と女性 こうした文献からは、以下のことが明らかとなった。千利休 が茶道を発展させた室町時代以降、女性と茶道の関わりはほ とんどなかった。しかし、江戸時代には、不白のように町人に も茶道を広めようとした茶人もいたため、父親にならって茶道 に関心を持つ女性も現れていた7)。しかし、不白自身は茶道 に女性が関わることをよしとはしていなかった。加藤恵津子は、 「川上不白が“茶会の嫌事”という15 箇条の一つとして女 性が茶道に参加することを明瞭に拒否している。」8)と記して いる。江戸中期に入ると、大口樵翁(おおぐちしょうおう)が『刀 自袂』(とじのたもと)という女性のための茶道の書を記した。 こうした書が著されたということは、茶の湯を嗜む女性が現れ ていたということだろう。このように、茶の湯は公家や諸大名、 豪商などの家族には広がったが、大半の女性はこれとはほぼ 接点を持たない世界に暮らしていたようである。 つまり、明治維新の頃まで茶の湯は圧倒的に男性の世界で あった。ところが、現在、茶道人口(図 6)の大多数を女性 が占める。このような変化には、武家の没落と文明開化の中 での男性による茶道離れ、そしてその一方で起きた学校にお ける良妻賢母教育への茶道の導入や第二次世界大戦後の 専業主婦の増加が関係しているように思われる。以下ではこ の観点から茶道と女性の関わりの変化についてみていこう。 1867 年に大政奉還され新政府による近代化政策の中で、 四民平等の方針が打ち出され、武士としての地位は失われた。 伝統的な日本文化の価値も大きく下落し、茶の湯の世界もまた その影響を受けた。茶道の流派は、武家を中心とする茶人・ 弟子の支えを失い、存在感を喪失しつつあった。 ところが、新政府による近代的学校制度の導入により、再 び茶道が注目されるようになる。1872(明治 5)年、学制が 発布され、小学校、中学校、大学校の設置(私学の設立も 含む)、身分・性別の区別ない国民皆学がめざされた。しか し、実情に合わず、1878(明治 11)年以降の教育令では、 男女の制度的な性別区分が採用され、尋常小学校では、男 女別学を原則とし、女子には裁縫などの教科を設置することな どが定められた。新設された私立の女学校では、女子の望ま しい身のこなしを教えるため、作法の授業では茶道の点前が 注目され、茶道を「作法」の授業として取り入れる学校も出て きた。 例えば、京都の「女紅場」(にょこうば)と呼ばれる私学の 新設女学校(校長は新島八重子、1872 年設立・1901 年京 都府立高等女学校となる)では、読み・書き・そろばん・裁縫、 その他、茶道が取り上げられ、茶道の授業は、裏千家 11 代 玄々斎の娘、真精院が担当した9)。1875(明治 8)年に創 設された跡見学園(校長は跡見花渓)では、作法授業の代 わりとして茶道・点前の稽古を評価した10)。このような新しい 教育制度が始まった当初は、女子の就学率は非常に低かっ たが、女子教育を施す学校も著しく増設された。そこで、1899 (明治 32)年に公布された高等女学校令や 1908(明治 41)年の高等女学校令施行規則改正では、家政に関する科 目を修める実科の設置、実科だけを置く実家高等女学校の設 立が認められた。当時の高等女学校は、文部省大臣樺山氏 による「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ・・・」11) いう発言にみられるように、「良妻賢母」教育を目指しており、 修身、家事、裁縫などの教科が重視されていた。「良妻賢母」 にふさわしい作法・言動12)を身に着けさせるために、茶道を 随意科に置く女学校も増加した。このように、明治維新以後、 学校教育の一環として女性に「茶道は作法」として広がって いった。 第二次世界大戦後、新しく制定された日本国憲法の下で、 学校教育は大きく変化し、作法の習得を含む修身の科目は廃 止された。学校教育から離れた茶道界は、学校卒業後にい わゆる「花嫁修業」を積む独身女性を取り込んでいった。こ れについて加藤恵津子は、「一般に考えられているのとは異な り、茶道が必要不可欠な花嫁修業として流行したのは、明治 期ではなく、第二次世界大戦後に始まった現象であると思わ れる」13)と述べている。 そして 1970 年代以降、茶道人口の中心は「専業主婦」 となっていく。加藤恵津子によると、専業主婦を茶道に向か わせたのは、1970 年代初頭にベストセラーとなった塩月弥栄 子の『冠婚葬祭入門』シリーズと1970 年代後半に新聞社や テレビ局などが経営して活況を呈したカルチャーセンターであっ 図

6

 茶道における性別総会員数(

2015

年) 〔縦軸・団体数、横軸・人数〕 *平成 27 年度伝統的生活文化実態調査事業報告書を基に筆者作成

(5)

た14)。『冠婚葬祭入門』シリーズを通じ、裏千家家元宗室の 姉である著者は、茶道は女性が習得すべき伝統的作法の最 後の砦であり、教授者であるというイメージを打ち出した。カル チャーセンターについては、主な参加者は専業主婦で、そこ で茶道は人気講座となった。このように、女性の人生におい て子育てが終わった後の期間が長くなる中で、茶道に関する 関心が高まり、それを気軽に習える環境が整い、多くの既婚 女性が茶道を「自己実現の手段」とみなすようになった15) 不白の流派の修練者の大半が女性であるという現況は、こ のような流れの末に生まれたのである。「不白をしのぶ茶会」 が女性修練者たちに見守られて執り行われたのは、女性が茶 道に関わることを拒否した不白にとっては不本意であるかもし れない。しかし、女性を取り込んだおかげで、今日まで茶の 湯の文化が存続してきたと言えるのではないだろうか。 Ⅵ.おわりに 今回、「紀州の和菓子と文化を考える会」が企画した旅行 への参加をきっかけに、初めて新宮というまちの歴史と文化に 深く触れた。この場所と江戸・東京とのつながりを学び、そして、 川上不白という今まで見聞きしたこともなかった新宮の偉人に 出会えた。また、これまで特に気に留めていなかったお茶の 世界で女性が多数を占めていることに疑問がわき、そのような 状況を生み出すような茶道界の変化についても知ることになっ た。 日常を出ることで新しい発見があり、旅先で疑問に思ったこ とを調べて、さらなる発見につながる。今回の新宮訪問はまさ にそのような旅行であった。そして、私にとっての新宮がそう であったように、このような経験をするためには、必ずしも遠く に行く必要はない。感染症の先行きが見えず海外渡航の制限 も続くが、近いと思っていた場所においても、非日常の空間は あり、様々な発見が得られるのである。 注 1)茶頭とは、茶事をつかさどった茶の師匠のことをいう。 2)「七事式」は、茶の湯の精神や技術を磨くために制定された稽古法。 以前から原型となるものが伝えられていた「茶かふき」「廻り炭」「廻 り花」に新たに創案された「且座」「花月」「一二三」「員茶」をく わえたもので、茶の湯の稽古におけるマンツーマン方式が実情に合わ なくなっていたことから、八畳広間で一度に 5 人以上の人数を対象とし て行われることを原則とした。 3)真台子は、茶道の点前に用いる茶道具の一つで、その他の茶道具 を飾る棚の一種である。特に、これは、奥義、奥伝などと呼ばれて最 後に伝授される習わしである。 4)鈴木裕範(2012)『紀州の和菓子 その文化とまちづくり』和歌山 リビング新聞社  5)谷端昭夫(2007)『よくわかる 茶道の歴史』淡交社 6)和歌山県新宮市 「新宮市まちづくり市民活動補助金」交付事業   https://www.city.shingu.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=30826   (2020 年 4 月更新) 〔最終閲覧日 2020 年 9 月 26日〕 7)前掲 5) 8)加藤恵津子(2004)『〈お茶〉はなぜ女のものになったか 茶道か ら見る戦後の家族』紀伊國屋書店 9)加藤晴美(2007)「女子教育と茶道」『プール学院大学研究紀要』 第 47 号 p266 ~ 272 10) 前掲 8) 11)文部科学省(1972)『学制百年史』   https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317552. htm    (最終閲覧日2020 年 9 月 27日) 12)前掲 11) 13)前掲 8) 14)前掲 8) 15)前掲 8) 参照文献 加藤恵津子(2004)『〈お茶〉はなぜ女のものになったか-茶道から見る 戦後の家族』 紀伊國屋書店 谷端昭夫(2007)『よくわかる茶道の歴史』淡交社 鈴木裕範(2012)『紀州の和菓子 その文化とまちづくり』和歌山リビン グ新聞社 加藤晴美(2007)「女子教育と茶道」『プール学院大学研究紀要』第 47 号 p266 ~ 272 新宮市観光協会 「世界遺産のまち 熊野の都 新宮」 http://www.shinguu.jp (最終閲覧日2020 年 9 月 23日)  江戸千家(2006)「特集 流祖川上不白 二百遠忌を迎えて」江戸 千家会報 98 号 http://www.edosenke.jp/binran/200nen/98fuhakuden.html (最終閲覧日2020 年 9 月 23日) 熊野新聞オンライン「川上不白の遺徳をしのぶ 生誕 300 年祝い記念 茶会 新宮市」2019 年 11 月 27日 https://kumanoshimbun.com/press/cgi-bin/userinterface/searchpage. cgi?target=201911270101 (最終閲覧日2020 年 9 月 23日)  文部科学省『学制百年史』1972 年 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317552. htm (最終閲覧日2020 年 9 月 27日) 受理日  2020 年 11 月 25日

参照

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