社会学伝来考 : 明治の社会学(3)
著者 宮永 孝
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会志林
巻 53
号 1
ページ 154‑54
発行年 2006‑07
URL http://doi.org/10.15002/00021031
この よ う に 外山 は 大 学 に おい て
︑ 社 会 学の 教 授 と 指導 に 従 事 す るか た わ ら
︑実 理 的 な 研 究を お こ な った
︒ か れ の 指導 方 法 は
︑教 科 書
︑ 口 授︑ 演 を有 機 的 に おこ な う や り 方で あ る
︒ す なわ ち
︑ 教 師の 側 の 単 な る一 方 的 な 口演 で お わ る こと な く
︑ この 三 つ を い っし ょ に 使 った と い う こ とで あ
︒ いわ ば 部 分 と部 分 と の 間 に︑ 緊 密 な 連 関を も た せ たと い う こ と であ る
︒ そ の教 授 法 は
︑ きわ め て ユ ニー ク な も の であ っ た
︒ 教場 に お い て 口演 を ない と き は
︑学 生 に 参 考 書︵ 洋 書
︶ を あた え
︑ そ れを 音 読 さ せ たり
︑ と き に問 題 を さ ず け︑ 参 考 書 を指 示 す る と
︑論 文 を 英 文で も っ て 書 か
1
︶
せ た
︒ ( )
社 会 学 伝 来 考
| | 明 治 の 社 会 学
﹇ 3
﹈
宮 永
孝
第 四 章
そ の 他の 官 立 の諸 学 校 にお け る 社会 学 第 五 章
近 代 日本 に お ける 社 会 学の あ ゆ み 社 会 学書 を 愛 読し た 日 本人
|| 鎌田 栄 吉
︑朝 吹 英 二 福 沢 諭吉 と 社 会学 社 会 学を 教 え た私 塾
﹁ 同人 社
﹂ 日 本 にお け る 社会 学 教 育の 濫 は私 塾 維 新 後︑ 社 会 学を 教 え た私 立 の 諸学 校 の 概況 維 新 期に お け る社 会 学 書の 輸 入 第 六 章
編 年 史的 に み た日 本 社 会学
154
学 生 は 用 意し た 論 文 を
︑み な の 前 で朗 読 す る こ とを 命 じ ら れる
︒ そ れ が おわ る と
︑ 批 評や 質 疑応 答 が 待 って い る
︒ こ の教 師 の ノ ート ブ ッ ク は
︑二 十 年 間 ま った く 同 じ であ っ た
︑ と の風 聞 があ り
︑ ま た何 か と い う とス ペ ン サ ーの 社 会 学 を 講釈 し た け れ ど︑ な か な かの 人 物 で あ った
︒ ど こ ど こ の野 蛮 人 は
︑昔 か ら こ う い う も の を 食 べ て い る
︒ だ か ら あ ご の 骨 が 張 っ て し ま う のだ
﹂ と か
︑ ど こ ど こ の 野 蛮 人 は
︑こ う い っ た 着 物 を 着 て い る か ら︑
⁝
⁝ な の だ
﹂ と い う よ うな こ と を いう
︒ 外山 の 講 義 には
︑ 洒 脱 の 風格 が あ っ たよ う だ
︒ その 講 義 を 受け た 遠 藤 隆 吉は
︑ 大 学 の講 義 は こ う ゆう ぐ あ い に愉 快 で あ っ た ほ う が よ く は な い か
︑ 外 山 先 生 の 講 義 は ひ じ ょ う に 面 白 か っ た
﹂ と 述べ て い る
︵ 社 会 学 の 学的 及 び 社 会 的
2
︶
実 現
﹂︶
︒ 外山 は
︑ じ つに き ま じ め な人 で あ っ た︒ 休 講 が 無 いこ と で も 知ら れ て い た
︒こ の こ と はす で に 述 べ てあ る か ら
︑改 め て く り 返さ な い
︒ が
︑明 治 二 十九 年
︵ 一 九 六
︶ ご ろ
︑当 時 か れ は文 科 大 学 長 であ っ た が
︑か ぜ を 引 い て両
3
︶
三 日 欠 勤し た ほ か は 精勤 で あ っ た︒ 外山 は 気 宇
︵心 の 広 さ
︶ 大に し て
︑ 瑣事 に と ん 着 しな か っ た
︒そ の な り 風 体と き た ら
︑噴 飯 も の で ある
︒ この 先 生 は
︑い つ も 古 び た黒 色 の カ バン を か か え て学 校 に や って く る
︒ 服 装に は ま っ たく 気 に し な い︒ ふ だ ん だ ぶだ ぶ の ズ ボン を は い て いる
︒ ふ しぎ な こ と に︑ 晴 天 の 日 は︑ ズ ボ ン は長 靴
︵ 長 首 より も 上 の 部分 ま で は い る靴
︶ の 上 に垂 れ
︑ 雨 の とき は ズ ボ ン の下 部 を 長 靴の 中 に 入 れ てい た
︵﹃ 東京 大 学 文 学部
社 会 学 科沿 革 七 十 五年 概 観
﹄ 二 四頁
︶︒ 外山 に た い して は 毀 誉 半 ばす る が
︑ その 講 義 は ひ じょ う に お もろ し い も の であ
4
︶
っ た
︒ 明治 三 十 年
︵一
九 七
︶ 十一 月
︑ 外 山は 改 称 し た 東京 帝 国 大 学の 総 長 と な り︑ の ち 伊 藤内 閣 の と き 文部 大 臣 と なっ た あ と
︑ 内閣 更 送 と 病 いの た め に職 を 辞 し
︑同 三 十 三 年
︵一 九
〇
〇
︶三 月 七 日 死 去し た
︒ 外山 の あ と を襲 っ た の は
︑大 学 講 師 とし て の つ ぎ の二 名 で あ った
︒ 建
部 吾
︵ 一 七 一
〜 一九 四 五
︑ 明治
・ 昭 和前 期 の 社会 学 者
︶大 正 十 一年 九 月 に退 職 す るま で
︑ 建 部 時代
﹂ と 呼ば れ る 社会 学 講 座を 形 成 した
︒
153 外山正一
()2
高 木 正義
5︶
一 六 三
〜 一九 三 二
︶ 外山 の あ と建 部 と とも に 社 会学 講 座 を分 担 し た︒ 明 治 三十 年 か ら同 三 十 三年 ま で
﹁社 会 学 特 殊講 義
﹂ を担 当
︒ なお
︑ 東 京 大学 の 場 合
︑ 講座 が 設 け られ た の は
︑ 明治 二 十 六 年︵ 一 九 三
︶九 月 の こ とで あ り
︑ そ の担 任 者 は 外山 正 一 で あ った
︒ ま た 社 会学 研 究 室が 創 設 さ れた の は
︑ こ れよ り 約 十 年後 の 明 治 三 十六 年
︵ 一 九〇 三
︶ 三 月 七日 の こ と であ る
︒ その 場 所 は
︑法 文 大 学 本 館樓 上 東
6︶
南 の部 屋 と い う
︒
第 四 章 そ の 他 の 官 立 の 諸 学 校 に お け る 社 会 学
﹇北 海 道 大 学
﹈ 明治 九 年
︵ 一 七 六
︶ に 札幌 市 北 区 に創 立 さ れ た のが 札 幌 農 学校 で あ り
︑ 大正 七 年
︵ 一九 一
︶ 同 校は 北 海 道 帝 国大 学 と し て新 た に 発 足 した
︒ 戦 後︑ 同 大 学 は新 制 大 学 と して 転 換 し
︑昭 和 二 十 二 年︵ 一 九 四 七︶ 九 月
︑ 法 文学 部 が 創 設さ れ た が
︑ 同時 に 社 会 学
7
︶
講 座 が 開 設 され た
︒ 社会 学 講 座 の初 代 の 教 官 は︑
﹇官 職
﹈
﹇ 氏名
﹈
﹇ 発 令 年 月 日﹈
﹇ 担 当 科 目﹈
﹇ 前 歴
﹈ 教授
鈴木 栄 太 郎
一 九 四 七
・一
〇
・ 一 五
社 会 学 概論 社 会 学
・社 会 学 演 習
京 城 帝 国大 学 教 授 助教 授
関清 秀
一 九 四 七
・一 二
・ 一
〇
社 会 学 特殊 講 義
経 済 安 定本 部 部 員 ら で あり
︑ こ の 両 人を 中 心 と して
︑ 教 育 と 研究 が 展 開 し たの で あ る が︑ そ の 方 法 的基 礎 は 実 証的 で あ り
︑ その 実 践 に 努力 を か た む けた
︒ 鈴 木の 研 究 の 中 心 は
︑ 都 市 社 会 学 で あ り
︑ そ の 具 体 的 成 果 は
﹃ 都 市 社 会 学 原 理﹄ 一 九 五 七年
︶ と し て 結実 し た
︒ 関 は家 族 社 会 学
︑地 域 社 会 学 を専 門 分 野 とし
︑ 前 者 の 領域 に お い ては
〟 貧 困 家 族〝 の 分 析 をお こ な っ て 学界 の 注 目 を あび た と い う︒ ま た 後 者 の地 域 社 会 学の 分 野 で は
︑北 海
152
高木正義 (
『高木三郎伝』明治43・3)より。
()3
道 とい う フ ィ ール ド で
︑ 都 市と 農 村 と の 相互 連 関 に 着目 し
︑ 数 多 の実 地 調 査 をお こ な っ た
︒ 北大 社 会 学 の伝 統 は
︑ 実 証研 究 に 独 自 性が あ る
︒ 関は 後 年
︑﹃ 基礎 社 会 学
| 家族
・ 人 口
・地 域 生 活 の 諸相
﹄ 一 九 七六 年
︶ を まと め た
︒ 昭 和五 十 二 年︵ 一 九 七 七︶ 四 月
︑ 社 会学 講 座 は そ の名 称 を
〟 社会 行 動 学
〝 と 改 め︑ 心 理 学 の 二 講 座 と と も に
〟 行 動 科 学 科
〝 と し て 再 発 足 し た
︵﹃ 北 大 百 年 史
部 局 史
﹄二 三 九
〜 二 四
8
︶
〇 頁
︶︒
﹇東 北 帝 国 大 学﹈ 宮城 県 仙 台 市に あ る 東 北 大学 は
︑ 明 治 四十 年
︵ 一 九〇 七
︶ 創 立 の東 北 帝 国 大学 農 科 大 学 には じ ま る
︒東 北 帝 国 大 学法 文 学 部 に社 会 学 講 座 が創 設 さ れた の は
︑ 大正 十 四 年
︵ 一九 二 五
︶ 月の こ と で ある
︒ 同年 九 月 よ り︑ 鈴 木 宗 忠 教授
︵ 宗 教 学
︶が 社 会 学 講座 を 分 担 し た︒ ケ ル ン 大学 の マ ッ ク ス・ シ ェ ー ラー 教 授 の 招 へい が 頓 挫 をき た し
︑ そ の代 り に 同講 座 の 最 初の 専 任 教 官 とし て 着 任 し たの が
︑ 関 西学 院 教 授
・ 新明 正 道
︵ 一 九
〜 一 九 四
︶ で あっ た
︒ 大正 十 五 年 四月
︑ 新 明 は 社会 学 講 座 の 助教 授 に 就 任し
︑ ド イ ツ 留学 を 経 て 昭和 六 年
︵ 一 九三 一
︶ 教 授に 昇 進 し た
︒新 明 は 昭 和三 十 六 年
︵ 一九 六 一
︶三 月
︑ 停 年退 官 す る ま で主 任 教 授 の 任に あ り
︑ 社会 学 研 究 室 の基 礎 を き ずい た 功 労 者 であ っ た
︒ かれ は 第 二 次世 界 大 戦 ま えか ら
︑ 綜 合 社会 学 の 理 論的 体 系 化 に 取 り く み
︑そ の 成 果 は
︑﹃ 社 会 学 の 基 礎 問 題
﹄ 一 九 三 九 年
︶︑
﹃ 社 会 本 質 論﹄ 一 九 四二 年
︶ な どの 著 述 に 結 実し た
︒ 昭和 二 十 五 年︵ 一 九 五
〇
︶七 月
︑ 機 関 誌﹃ 社 会 学 研究
﹄ が 創 刊 さ れ
︑ 昭 和 三 十 五 年
︵ 一 九 六
〇
︶ 四 月 に は
︑ 従 来 の 社 会 学 講 座 は
︑〟 社 会 学 第 一 講 座〝 と な っ た︒ そ し て
︑ 同五 十 六 年
︵ 一九
一
︶ 四月
︑ 心 理 学 とと も に
﹁ 社会 学 科
﹂ と して 独 立 し た︒ か っ て 東 北大 社 会 学 は︑ 地 道 な 学 説研 究 と 地域 調 査 が おも な 研 究 内 容で あ っ た が
︑こ ん に ち 研究 の 関 心 と 領域 は
︑ ご たぶ ん に 漏 れ ず 多 様 化 し て い る
︵﹃ 東 北 大 学 百 年 史
四
部 局 史 一
︑ 三 四 一〜 三 四
9︶
六 頁
︶︒
﹇東 京 高 等 師 範学 校
﹈ 筑波 大 学 の 前身
・ 東 京 高 等師 範 学 校 に は︑ 社 会 学 講座 こ そ 創 設 され な か っ たが
︑ 大 正 四 年︵ 一 九 一 五︶ 二 月
︑ 文 科第 一 部 に おい て
〟 社 会 学〝 が
151 ( )
学 科と し て 設 けら れ た
︵﹃ 創立 六 十 年
﹄ 七
10
︶
六 頁
︶︒
﹇東 京 高 等 商 業学 校
﹈ 明治 十 七 年
︵一
四
︶ 東京 市 神 田 区一 橋 通 町
︵ 現・ 東 京 都 千代 田 区 一 ツ 橋︶ に 設 立 され た の が 東 京商 業 学 校 で あり
︑ 同 二
〇年
︵ 一
七︶ 東 京 高等 商 業 学 校︑ 大 正 九 年
︵一 九 二
〇
︶東 京 商 科 大 学︵ 後 年 の 一橋 大 学
︶ と 名称 を 変 え た︒ 大正 四 年
︵ 一九 一 五
︶︑ 東京 高 等 商 業 学校 の 専 門 部に は じ め て 社会 学 の 講 座が 設 け ら れ た︒ そ の と き 非 常 勤 講 師 と し て こ の 科 目 を 担 当 し た の は 東 大教 授 の 建 部 吾 で あ り
︑そ の 講 義 は大 正 十 年 ま でつ づ き
︑ 大正 十 一 年
︵ 一九 二 二
︶ に就 任 し た 形 式社 会 学 の 高 田保 馬 と 交 代し た
︒ が
︑ 同人 は 大 正十 三 年 九 州帝 国 大 学 教 授と し て 転 任し た の で
︑ 建部 が ふ た たび 非 常 勤 講 師と し て
︑ 昭 和五 年
︵ 一 九三
〇
︶ ま で 講義 を 担 当 した
︒ 一橋 の こ の 学校 に は
︑ 固 有の 社 会 学 的研 究 の 伝 統 が息 づ い て いて
︑ 明 治 期 から 大 正 期 に かけ て 数 多 のす ぐ れ た 論 著が 世 に 問 われ た
︒ た と えば
︑ 左 右田 喜 一 郎
﹃貨 幣 と 価 値
﹄ 一 九
〇 九 年︶
︑ 福 田 徳 三﹃ 社 会 政 策 と 階 級 闘 争﹄
一 九 二 二 年︶
︑ 上 田 貞 次 郎
﹃ 英 国 産 業 革 命 史 論﹄
一 九 二 三 年︶ な ど が そ れで あ る
︒ 昭 和 二年
︵ 一 九 二七
︶ か ら
︑ 金子 鷹 之 助 教 授が 社 会 学 講義 を 分 担 し
︑お も に ベ ンサ ム
︑ ス ペ ンサ ー
︑ ミ ル な どの イ ギ リ ス 社会 学 を 講 じ︑ 同 七
︑ 年︵ 一 九 三 二︑ 一 九 三 三
︶か ら は 杉 村広 蔵 教 授 が
︑お も に 十 九 世紀 の ド イ ツ 社会 学
︑ ヘ ーゲ ル 以 後 の 哲学 と 社 会 学に つ い て 講 義を お こ な った
︒ そ し て
︑昭 和 十 六 年
︵一 九 四 一
︶ から 講 座 を 担当 し た の は
︑高 島 善 哉 であ り
︑ こ の 年﹃ 経 済 社 会学 の 根 本 問 題﹄ を 刊 行 し た︒ 一 橋 の社 会 学 は
︑ 社会 科 学 的 であ り
︑ 経 済 とか 経 済 学 と密 接 な 関 係 があ る 点 に 特徴 が あ る と いえ た
︵﹃ 一 橋 大学 創 立 百 年 記念
一 橋大 学 学 問 史
﹄
〇 九
〜 二
11
︶
〇 頁
︶︒ 昭 和 二十 四 年
︵ 一九 四 九
︶ 学 制改 革 に よ って 新 制 一 橋 大学 と な り
︑商 学 部
︑ 経 済学 部
︑ 法 学 社会 学 部 の 三 学部 を も っ て新 発 足 し
︑ 二年 後 に は 法学 部 と 社 会 学部 に 分 か れ 四学 部 と な った
︒
150
東京高等商業学校
()5
﹇学 習 院
﹈ 学習 院 は
︑ 戦前 ま で 宮 内 省が 直 轄 し
︑ おも に 皇 族 や華 族
︑ 軍 人
︑一 部 の 資 本 家 階 級 の 子弟 を 教 育 する た め の 学 校で あ り
︑〟 華族 学 校
〝 と も 呼 ば れ た︒ 明治 初 年 ご ろ︑ 学 習 院 は
〟華 族 勉 学 所
〝と 呼 ば れ たこ と も あ る が
︑ 同 十 年
︵一
七 七
︶〟 学 習 院
〝 と 号 す 旨 の 勅 令 が 出 さ れ た
︒ 同 校 に お け る 社 会学 の 講 義 は︑ 大 正 十 年 代︵ 一 九 二
〇
〜︶ に は じ まり
︑ 高 等 科 文科 の 第 三 学年 に お い て
︑ 社 会 学 の 概要
﹂ を 教 授し た
︵﹃ 学 習院 一 覧
昭和 五 年 十二 月 纂
﹄ 五六 頁
︶︒
﹇京 都 帝 国 大 学﹈ 京都 大 学
︵ 京都 市 左 京 区
︶の 前 身 は
︑ 明治 三 十 年
︵一
九 七
︶ 創立 の 京 都 帝国 大 学 で あ る︒ 昭 和 二 十四 年
︵ 一 九 四九
︶ 第 三 高等 学 校 を 合 併し
︑ い まの 大 学 と なっ た
︒ 社会 学 の 講 座は
︑ 明 治 四 十年
︵ 一 九
〇 七︶ 五 月 に 設置 さ れ た
︒ 同年 九 月
︑ 米田 庄 太 郎
︵ 一 七 三
〜 一九 四 五
︑ 明 治か ら 昭 和 期の 社 会 学 者
︶が 講 師 とし て 着 任 して か ら
︑ 社 会学 講 座 の 基 礎が き ず か れた
︒ 米田 は 十 二 歳の こ ろ か ら 六時 間 以 上 寝 たこ と が な いほ ど の 勉 強 家で あ り
︑ 欧米 に 留 学 し
︑ギ デ ィ ン グズ や タ ル ド とい っ た 一 流の 学 者 に つ いて 直 か に社 会 学 を 学ん だ 人 で あ る︒ 明 治 三 十 五年
︵ 一 九
〇二
︶ 帰 国 後
︑同 志 社 に 講師 と し て 勤 めた の ち
︑ 京都 帝 国 大 学 に招 か れ た
︒博 識 天 下 に なら ぶ も の な き 学 者 と し て
︑ 同 志 社 大 学 で 光 っ て い た の を︑ 谷 本 富
︵ 一 六 七〜 一 九 四 六
︑ 明 治 か ら 大 正 期 の 教 育 学 者
︶が 推 薦 し て
︑京 大 に 迎 え た
︵ 大塚 虎 雄
﹃ 学 界新 風 景
﹄ 天人 社
︑ 昭 和 5・ 4
︶︒ 大 正九 年
︵ 一 九 二〇
︶ 七 月
︑教 授 に な り
︑同 十 四 年 三月 退 官 し た
︒ 米田 は 欧 米 の社 会 思 想 や 最新 の 社 会 学 説の 紹 介 に つと め
︑ 最 初 の専 攻 学 生 であ っ た 高 田 保馬
︵ 一
三
〜 一 九 七 二︑ 社 会 学 者︑ の ち 広 島 高師
︑ 東 京商 大 な ど をへ て
︑ 昭 和 四年
﹇ 一 九 二 九﹈ 京 大 教 授︶ な ど 門 下 生を 育 成 し た︒ 米田 は 精 力 的に 著 述 活 動 をお こ な い
︑ その 成 果 は
︑つ ぎ に 記 す よう な 著 述 とし て 結 実 し た︒
149 ( )
﹃ 輓 近社 会 思 想の 研 究
﹄ 一 九一 九
︑ 一九 二
〇 年︶
﹃ ド イツ 新 理 想主 義 の 歴史 哲 学
﹄ 一 九二
〇
︑ 一九 二 一 年︶
﹃ 現 代社 会 問 題の 社 会 学的 考 察
﹄ 一 九二 一 年
︶
﹃ 続 現代 社 会 問題 の 社 会学 的 考 察﹄
一九 二 一 年︶
﹃ リ ッケ ル ト の歴 史 哲 学﹄
一九 二 二 年︶
﹃ 歴 史哲 学 の 諸問 題
﹄ 一 九 二四 年
︶
﹃ 歴 史哲 学 体 系﹄ 一 九 二 四 年︶ 米田
は
︑ ひ ど い 神 経 衰 弱 で 大 学 を 辞 す と
︑ 毎 日 黒 の 詰 え り を 着 て 魚 釣 を た の し ん だ
︒ い か に も 碩 学 を お も わ せ る 風 貌 の せ い で
︑ 釣 り 仲 間 か ら
〟 退役 陸 軍 中 将
〝と み ら れ
︑尊 敬 さ れ た
︵大 塚 虎 雄
︑ 前掲 書
︶︒ 米 田の あ と を 継い だ の は
︑ 形式 社 会 学 の五 十 嵐 信
︵ 一 九 九
〜 一九 二
︶ 講 師で あ っ たが
︑ か れ はド イ ツ 留 学 を前 に 病 死 し た︒ 昭 和 三 年︵ 一 九 二
︶十 一 月
︑ 臼井 二 尚
︵ 一 九〇
〇
〜 九 一︶ が 講 師 と なり
︑ 欧 米 の留 学 を 経 て 昭和 十 九 年︵ 一 九 四 四︶ 教 授 に 昇 任し た
︒ 臼 井 は在 任 中
︑ 社会 学 方 法 論 の研 究 に 努 力を か た む け
︑現 象 学
︵ フッ サ ー ル が はじ め た 心 理的 な 哲 学 の 方法
︶ を 社会 学 に 導 入し た 先 駆 者 であ っ た
︒ 戦後
︑ 新 制 大学 と し て 発 足し て か ら は
︑臼 井 は 村 落調 査 と い っ た実 証 研 究 に力 を 注 ぐ よ うに な っ た
︒退 官 後
︑ 池 田義 祐
︵ 一 九一 五
〜 九 二
︶が 教 授 とな り
︑ 昭 和五 十 三 年
︵ 一九 七
︶ 三 月ま で 講 座 を担 当 し た
︒ 池田 は 農 村 社会 や 宗 教 社 会学 の 分 野 で活 躍 し た
︒ 池田 の あ と
︑中 久 郎
︵ 一 九二 七
〜
︶ が
︑平 成 三
︵ 一九 九 一
︶ 三 月ま で 講 座 を引 き 継 い だ
︒中 の 専 門 はデ ュ ル ケ ー ムの 社 会 理 論の 学 説 史 で あり
︑
﹃ デュ ル ケ ー ム の社 会 理 論
﹄ 一 九 七 九 年
︶と い っ た 大著 を あ ら わ した
︒ 昭和 六 十 一 年︵ 一 九 六
︶︑ 社 会 人 間 学講 座 が 増 設 され
︑ 社 会 学 講 座 も 二 講 座 に な っ た が
︑同 講 座 は
︑平 成 四 年︵ 一 九 九 二
︶ 四 月
︑ 新 設 の 文 化 行 動学 科 に 移 行し た
︒ こ れ は社 会 学 の 研 究や 教 育 を 経験 科 学 と し て遂 行 す る ため の 条 件 を 整 備 す る た め で あ っ た︵
﹃ 京 都 大 学 百 年 史
部 局 史 編 1﹄ 一 六
〜一 七
12︶
二 頁
︶︒
148( )
﹇大 阪 帝 国 大 学﹈ 大阪 大 学 の 前身 は
︑ 明 治 二年
︵ 一 六 九︶ 創 立 の 大阪 医 学 校 で ある
︒ の ち 大阪 医 科 大 学 を経 て
︑ 昭 和六 年
︵ 一 九 三一
︶ 大 阪 帝国 大 学 と な った
︒ 同 大 学 に 社 会 学 講 座 が 設 け ら れ た 歴 史 は あ さ く
︑ 戦 後 の こ と で あ る︒ 昭 和 二 十 三 年︵ 一 九 四
︶ 十 一 月
︑ 九 州 帝 国 大 学 教 授 で あ っ た 蔵 内 数 太
︵ 一 九 六
〜 一 九
︶ が 新た に 教 授 に 就任 す る や 研 究室 の 活 動 がは じ ま っ た
︒ 大阪 大 学 に おけ る 社 会 学 は︑ 大 阪 と い った 産 業 都 市の 特 殊 な 地 位に か ん が み︑ 理 論 的 方 面と と も に 応用 面 を も 重 視す る と い った 考 え か ら
︑い ま 理 論社 会 学 と 応用 社 会 学 の 二講 座 が 設 置 され て い る
︒ 昭和 二 十 四 年︵ 一 九 四 九
︶︑ 名 古 屋 大 学か ら 森 東 吾 が助 教 授 と して 着 任 す る や
︑宗 教 社 会 学
︑社 会 的 行 為 の 理 論
︑ 特 殊 講 義
︑ 社 会 学 演 習 な ど を 担 当し
︑ 学 生 の指 導 に あ た った
︒ その 後
︑ 高 岡高 等 商 業 学 校教 授
︑ 東 京 高等 師 範 学 校教 授
︑ 文 部 省 文 化 課 長 な ど を 歴 任 し た 小 山 隆 教 授
︵一 九
〇
〇〜
三
︶ を 迎 え た が
︑ か れ は 社 会調 査 法
︑ 社会 集 団 論 な どに つ い て の 講義 と 演 習 を担 当 し た
︒ 昭和 三 十 年 代に 入 っ て か らは
︑ 九 州 大学 教 授 喜 多 野精 一 が 着 任し
︑ 小 山 教 授の あ と をう け て 第 二講 座 を 担 当 した
︒ 喜多 野 が 専 門と す る と こ ろは
︑ 日 本 や 中国 の 農 村 問題 で あ り
︑ 論著 も 多 い
︵﹃ 大 阪 大 学 二十 五 年 誌
﹄
〇
〜
13
︶
三 頁︶
︒
﹇九 州 帝 国 大 学﹈ 福岡 市 に あ る九 州 大 学 の 前身 は
︑ 明 治 四十 三 年
︵ 一九 一
〇
︶ 創 立の 九 州 帝 国大 学 で あ る
︒九 州 帝 国 大学 の 場 合
︑ 法学 部
︑ 経 済学 部
︑ 文 学 部の 分 立 を当 然 の こ とと し
︑ 講 座 その も の の 形 態も
︑ 東 大 や京 大 の 各 学 部を 縮 少 し た
14
︶
形 を 受 け つ いで い た
︒ 大正 十 三 年
︵一 九 二 四
︶ 九月
︑ 勅 令 を もっ て 法 文 学部 が 設 置 さ れた と き
︑ 講座 数 は 社 会 学を ふ く め てわ ず か 講 座で あ っ た が︑ 昭 和 二 年
︵一 九 二 七︶ に な る と︑ 四 十 四 講 座に ま で な っ た︒ 法文 学 部 の 建物
︵ 鉄 筋 コ ンク リ ー ト 三 階建
︶ は
︑ 大正 十 三 年 に 起工 し
︑ 昭 和二 年 三 月 に 完成 し た の だが
︑ 大 正 十 四年
︵ 一 九 二五
︶ 社 会 学 の講 座
︵ 三単 位
︶ を 担 当し た の は
︑経 済 学 の 第 一講 座 を も 分 担し て
15︶
い た 高田 保 馬
︵ 一
三
〜 一 九七 二
︑ の ち 京都 帝 国 大 学教 授 と な る
︶で あ っ た
︒
147 ( )
高田 は 九 大 法文 学 部 創 設 のこ ろ
︑ 社 会 学概 論 を 講 義し た と き
︑ その 冒 頭 に おい て
︑ 社 会学 を 学 ぶ 志 の う ら に は
︑社
﹅
会﹅
改﹅
造﹅
の理﹅
想﹅
と 意﹅
志﹅
と情﹅
熱﹅
と がつ﹅
よ﹅
く﹅
燃﹅
え﹅
て﹅
い﹅
な﹅
け﹅
れ﹅
ば﹅
な﹅
ら﹅
ぬ﹅
﹂ と いっ て
︑ そ の病 身 な か ら だに 似 つ か わし か ら ぬ 熱 情を 吐 露 し て︑ 学 生 た ち を感 激 さ せ た︵ 大 塚
︑ 前 掲書
︑ 一 一三 頁
︶︒ 戦後
︑ 社 会 学の 講 座 を 引 きつ い だ の は
︑ド イ ツ 文 化社 会 学 を 出 発点 と す る 徳永 元 教 授 で あり
︑ 日 本 の近 代 化 の 過 程に お け る キリ ス ト 教 の 受容 の プ ロセ ス に 注 目し
︑ 退 官 後 は小 著
﹃ 横 井 小楠
﹄ 一 九 七 年
︶ を 著し た
︒ 徳永 の 後 任 は︑ 地 域 社 会 学︑ 農 村 社 会 学を 研 究 の テー マ と す る 中村 正 夫 教 授で あ る
︒ 日 本社 会 に つ いて 幅 広 い 実 証的 研 究 を てが け
︑ お も な仕 事 と して は
︑﹃ 日 本社 会 の 基 礎理 論
﹄ 一 九 七 年
︶︑
﹃ 九州 の 祝 事
﹄ 一 九 七 年
︶︑
﹃ 九 州 の 葬送
・ 墓 制
﹄ 一 九 七 九 年
︶な ど が
16︶
あ る︒
﹇京 城 帝 国 大 学﹈
〟京 城
〝と い う の は︑ 天 子 の 宮 城ま た 都 の 意 であ る
︒ い まの 大 韓 民 国 の首 都
︵ ソ ウル
︶ に お か れて い た の は
︑ 京 城 帝 国 大 学 で あ る
︒が
︑ こ の 旧 植 民地 に お け る大 学 も
︑ 昭 和二 十 年
︵ 一 九四 五
︶ 終 戦に よ り
︑ 廃 絶さ れ た
︒ 大正 十 三 年
︵一 九 二 四
︶ 五月
︑ 勅 令 に より 京 城 帝 国大 学 は 公 布 され る と 共 に︑ 予 科 が 開 校さ れ た が
︑二 年 後 の 同 十五 年 三 月
︑官 制 改 正 に より
︑ 同 年五 月 よ り 法文 学 部
︑ 医 学部 の 授 業 が はじ ま っ た
︒ 法文 学 部 に 置か れ た の は
︑法 学 科・ 哲 学 科・ 史 学 科・ 文 学 科 の 四 学科 で あ っ た︒ と く に 哲 学科 の 学 生 は︑ 共 通 科 目 とし て
︑〟 社 会学 普 通 講 義〝 社 会 学概 論
︑ 社 会学 史 概 説
﹇ 一単 位
﹈︶ を 履修 で き た
︵﹃ 京 城 帝 国 大 学一 覧
昭和 十 一 年
﹄ 三︑ 七 二 頁
︶︒
﹇台 北 帝 国 大 学﹈ 台北 帝 国 大 学は
︑ 日 本 が 台湾 を 領 有 し てい た 時 代
︑総 督 府 が 置 か れ た
〟 台 北
〝 タ イ ペ ー
︶に あ っ た 大 学 で あ る
︒ こ の 大 学 は
︑ 戦 前 の 日 本 の 九 帝 国大 学 の な かで 最 南 端 に 位置 し
︑ 校 舎 は台 北 市 富
17
︶
田町 に あ っ た
︒ 台 北 帝 国 大 学 の 創 設 は
︑ 昭 和 三 年
︵ 一 九 二
︶ 三 月 の こ と で あ っ た
︒ 文 政 学 部 七 講 座︑ 理 農 学 部 六
18
︶
講座 を 置 い て い た︒ 文 政 学 部 は︑ 哲 学・ 史 学
・文 学
・ 政 学の 四
19︶
学 科 に わけ て い た
︒
146( )
大学 の 草 創 期︑ だ れ が 社 会学 の 講 義 を担 当 し て い たも の か 判 然と し な い が
︑昭 和 七 年
︵一 九 三 二
︶ ごろ
︑ 広 島 出身 の 文 学 士
・岡
20
︶
田 謙 が 講 師と し て
〟社 会 学 概 論〝 を 教 え て いる が
︑ 当 人は 非 常 勤 で あっ た も の か︒ そ の 他 の こと は
︑ つ まび ら か に し ない
︒
第 五 章 近 代 日 本 に お け る 社 会 学 の あ ゆ み 社
会 学 書 を 愛 読 し た 日 本 人
| | 鎌 田 栄 吉
︑ 朝 吹 英 二
明治 十 年 前 後に ス ペ ン サ ーの
﹃ 社 会 学研 究
﹄
Th e S tu d y of S oci ol ogy
︶ を 逸 早 く手 に し
︑ 独習 し て い た 日本 人 が い た︒ それ は 三 田 の慶 応 義 塾 に まな び
︑ 卒 業後 も 一 年 ほ ど学 舎 で
︑ 卒業 生 同 志 で 洋書 を 対 読
︵向 か い あ っ てよ む
︶ し てい た 鎌 田 栄 吉︵ 一 五 七〜 一 九 三 四︑ の ち 慶 応義 塾 の 教 授 とな る
︒ 大 正十 一 年
﹇ 一 九二 二
﹈ 加 藤友 三 郎 内 閣 のと き の 文 相︒ 枢 密 顧 問 官︶ で あ る
︒ 慶応 義 塾 で は︑ 明 治 十 年 代の お わ り ころ
︑ 正 科
・ 別科 に お い て︑ 英 米 仏 の社 会 科 学 の洋 書
︵ ス ペ ンサ ー
︑ ミ ル︑ ギ ゾ ー な ど︶ を も 盛 んに 訳 読 の テキ ス ト と して 用 い て い た︒ ま た 自 習や 研 究 会 に おい て も
︑ 各種 の 洋 書 を講 読 に 使 った
︒ ギゾ ー
︵
a 78 t 1 o iz u G m u ill F u e G rr ie P is ço n ra 7
〜
18 74 ,
フ ラ ンス の 歴 史家
・政 治家
︶ の
﹃ ヨー ロ ッ パ 文 明史
28 18 rope, Eu
﹄e la C His ilis atio n en d e ir to iv
︶ の 英 訳 本
︑バ ッ ク ル
︵
He n ry T h o ma s B u ck le 1 82 1
〜
18 62 ,
イギ リ ス の 歴史 家
︶ の
﹃ イギ リ ス 文 明史
﹄
His to ry of C iv iliz a-
tio n in En gl an d ,
一巻 目 は 一 五 七 年 刊
︑ 二巻 目 は 一 六 一 年 刊
︶ をは じ め
︑ ミル の 経 済 論
︑代 議 政 体 論︑ 自 伝 な ど を読 ん だ と いう
︒ スペ ン サ ー の著 作 物 は
︑ 明治 十 年 代 から は や り だ すの で あ る が︑ 洋 学 書
21
︶
生 の鎌 田 も そ れを 愛 読 し た と語 っ て い る︒ そ
れ から 今 度 はス ペ ン サー の 哲 学 の書 物 と いふ も の を読 む こ とが 流 行 して 来 た
︒そ れ で 初に ス タ ーデ
ー・ オ ブ・ ソ シオ ロ ヂ ー︵The Study of Sociology,
145 ギゾーの『ヨーロッパ文明史』の英訳本。
[早稲田大学中央図書館蔵]
( )10
1873
︶ とい ふ 本 が日﹅ 本﹅ に﹅ や﹅ っ﹅ て﹅ 来﹅ た﹅
︒こ の ス ター デ ー
・オ ブ
・ ソシ オ ロ
22
︶
ヂー は ス ペン サ ー のこ と で すか ら
︑ 非常 に 面 白く 論 じ て 居る の で
︑非﹅ 常﹅ に﹅ 興﹅ 味﹅ を﹅ 以﹅ て﹅ 読﹅ み﹅ ま﹅ し﹅ た﹅
︒ 初 に フ ア ス ト
・ プ リ ン シ プ ル
︵First Principles,1862,
引 用 者
︶ と い ふ も の が あ っ て
︑ そ れ か ら バ イ オ ロ ヂ ー 6718 ︵Principles of Biology,2vols.,1864,
︶︑ 次 に サイ コ ロ ヂー
︵Principles of Psychology,1855
︶︑ 次 に ソシ オ ロ ヂー
︑ 次 にエ シ ツ クス
︵Principles of Ethics,2vols.,1892,1893
︶ と い ふも の が あ る
︒ 斯 う いふ 風 に スペ ン サ ーは 順 序 を 立て て
︑ 初め か ら 着々 著 述 して 行 っ たの で す
︒私 の 読 む時 分 に はま だ ソ シオ ロ ヂ ーは 出 来 て 居ら ず
︵ 刊行 さ れ てい な い 意
|| 引 用 者
︶︑ ス ター デ ー・ オ ブ・ ソ シ オ ロヂ ー と いふ 社 会 学の 材 料 を集 め た 書物 が
︑ 定期 刊 行 で以 て 出 て居 た が
︑そ の 事 実 が又 非 常 に面 白 い から し て
︑ そ れを 読 ん だだ け で も非 常 に 面 白か っ た
23
︶
です
︒
注
・
︶ 内 の欧 文 は 引用 者 に よる
︒ 鎌田
は
︑ ス ペン サ ー の 哲 学︑ 政 治
︑ 社会 系 の 著 述 をつ ぎ つ ぎ と読 ん で 行 く のを 仕 事 と し︑ さ い ご は 必読 の 書 と して
︑ コ ン ト に行 き あ た っ たと い っ てい る 更 ︒
に オー グ ス ト・ コ ン トの 書 物 を 読む と い ふ訳 で し た︒ 殊 に スペ ン サ ーで も ミ ルで も 皆 コン ト の 説に 根 拠 を置 い て 居る と い ふ やう な こ とも 聞 い て居 り ま す か ら︑ コ ン トの 本 を どう し て も 読ま な け れば い け ない と い ふの で
︑ コン ト の 本を 読 ん だの で す
︒ コ ン トは 人 間 の進 歩 は
︑三 段 に な って 居 っ て︑ 初 め はビ リ ン ド・ ビ リー ブ
︵blind belief
が 正し い
|| 引 用 者
︶即 ち 盲 信︑ そ の 次に メ タ フイ ヂ カ ル・ エ ー ヂ と いふ も の があ っ て
︑ その 次 に ポシ チ ヴ イズ ム
︵positivism
実 証 主 義
|| 引 用 者
︶ に な る と い ふ や う なこ と を 論じ て 居 り
24
︶
ます
︒ 鎌田
は 明 治 年
︵ 一 七 五︶ 四 月 に 慶応 を 卒 業 し た︑ と い っ てお り
︑ い ま 述べ た よ う な 書物 と 接 した の は
︑ その 後 の 一 年 ぐら い の 間 と考 え ら れ る
︒ 鎌田 が
︑ 慶 応を 出 て 四 年 後 の 明 治 十 二 年
︵ 一 七 九
︶ に 義 塾 に 入 学 し た の は
︑犬 養 毅
︵ 一
144
鎌田栄吉
『福沢諭吉伝 第3巻』(岩波書店、
昭和7・4)より。
( )11
五 五
〜一 九 三 二
︑明 治 か ら 昭 和期 に か け て の政 党 政 治 家︶ で あ っ た︒ か れ は 明 治 年
︵ 一 七五
︶ 七 月 初 旬
︑上 京 の 途 に つ く と
︑湯 島 の 共 慣 義 塾
︵ 福 地 桜 痴 が 創 立 し
︑ の ち 戸 の 南 部 家 が 管 理 し て い た︶ に 入 っ た︒ そ の こ ろ 東 京 に は
︑〟 英 語
︑ 数 学︑ 漢 学
〝 と な ら べ 書き の 看 板 があ る
︑ 小 さ な塾 が 方 々 にあ
25
︶
っ た
︒ 犬 養が 入 塾 し た共 慣 義 塾 は
︑そ の よ う な家 塾 の ひ と つで あ っ た
︒賄 料 が 安 い の は 貧 乏 書 生 に と っ て あ り が た か っ た が
︑ そ の 分 ひ ど い 粗 食 で
︑ じ つ に閉 口 し た
︒ 犬養 は 生 前 よく
﹁ き ら い なも の は
︑ 蜘蛛 と や も り とど じ ょ う 汁﹂ と い っ て いた
︒ か れ は食 物 に あ ま り好 き き ら いは な か っ た が︑ ど じ ょ う汁 だ け は
︑終 生 は し をつ け な か っ た︒ 共 慣 義 塾の 賄 料 の 安 い寄 宿 舎 で は︑ 門 前 の 溝 にい る ど じ ょう を つ か ま えて は
︑ お 椀の 底 に し ら みの よ う な も のが 残 る どじ ょ う 汁 を︑ し ょ っ ち ゅう 食 膳 に のぼ ら せ た か らで
26
︶
あ る
︒ 日が 経 つ に つれ て
︑ 学 費 のほ う が 心 細く な っ て き た︒ 志 を 立 てて 上 京 し た から に は
︑ おめ お め 帰 郷 でき な い
︒ 幸い 漢 学 の ほ うは 自 信 が あ った か ら
︑ボ ロ 塾 で 漢学 の
27︶
先 生 と して 雇 っ て もら い
︑ そ の 代り に 英 語 を教 え て も ら おう と い っ た窮 余 の 一 策 を考 え だ し た︒ そこ で 市 内 を歩 き
︑ 小 塾 の看 板 が 出 てい る と こ ろ を見 つ け し だい
︑ 訪 ね て は交 換 教 授 の交 渉 を し て みた が
︑ ど こ でも 生 意 気 な田 舎 書 生 と おも わ れ
︑取 り あ っ ても ら え な い
︒万 策 尽 き たと き
︑ 知 人 が犬 養 に 漢 学の 素 養 が あ る こ と を 知 っ て
︑﹃ 郵 便 報 知 新 聞
﹄に 紹 介 し て く れ た の で
︑ 論 説 の 代 作 など を し た
︒ かく し て か れは 新 聞 に 寄 稿を つ づ け なが ら
︑ 義 塾 で学 生 生 活 をつ づ け た
︒ かれ の 原 稿 は一 枚 二 十 銭 にな っ た か ら
︑内 福 に 暮 らす こ と が で きた
︒ だ から 学 校 で は︑ 紋 付 の 羽 織を 着 て い た︒ 犬養 は
︑ 英 書が 読 め れ ば よい
︑ と い った 考 え か ら
︑簿 記 と か 数学 を や ら ず
︑英 語 を 学 習す る こ と だ けに 専 心 し た
︒ その と き の 先生 は
︑ 門 野 幾之 進 と い う人 で あ り
︑ この 人 に つ いて
︑ ス ペ ン サー や ミ ル の 著作 物 の ほ か︑ 経 済 学
︑ 政治 学
︑ 社 会学 な ど を 学 んだ
︒
143 犬養が訳したケアリーの『経済学』。
犬養 毅
( )12
同 級生 は 二 十 名
︑ 毎 日 講 堂で 出 会 っ た
︒そ の 時 分 の義 塾 の 制 度 では
︑ 学 力 に応 じ て ク ラ スが 定 め ら れ︑ 犬 養 は 二 等級 で あ っ た︒ ク ラ ス で 首席 を 争 った の は
︑ 後年
﹃ 社 会 学 全
﹄ や
﹃ 哲 学大 意 全
﹄な ど を 著 わ す渋 江 保 であ る
︒ 東京 大 学 で は︑ 明 治 十 一 年︵ 一 七
︶に フ ェ ノ ロサ に よ っ て
︑は じ め て 社会 学 が 講 じ られ
︑ テ キ スト ま た は 参 考書 と し て
︑ス ペ ン サ ー の著 述 が 用い ら れ た が︑ 慶 応 義 塾 では 福 沢 諭 吉
︵一
三 五
〜一 九
〇 一
︑ 明治 期 の 啓 蒙思 想 家
︶ が スペ ン サ ー の﹃ 社 会 学 研 究﹄
T h e S tu d y of S oc io lo gy ,
L o n d o n , 18 74
︶ を
︑ 明 治 年
︵ 一 七 五
︶ 五 月 中旬 か ら 同 九年 三 月 中 旬 にか け て 読 んで い る
︒ 朝吹 英 二 は
︑嘉 永 三 年
︵ 一 五
〇
︶ 二 月︑ 豊 後
︵ 大分 県
︶ 下 毛 郡下 郷 村
28︶
宮 園に 生 ま れ た
︒生 家 は 十 五代 つ づ い た 庄屋 で あ っ た︒ 尊 王 攘 夷 者と な り
︑明 治 三 年
︵一
七
〇
︶ 福沢 諭 吉 の 暗 殺を く わ だ てた が
︑ 同 年 十二 月 芝 新 銭座 の 福 沢 邸 の玄 関 番 と なっ た
︒ のち 実 業 界 に入 り
︑ 三 菱
︑鐘 紡
︑ 三 井 呉服 店
︑ 王 子製 紙 な ど の 重役 を 経 て
︑三 井 銀 行 監 査役
︑ 東 京 商工 会 議 所 特 別議 員 な ど を歴 任 し た
︒ 若き 日 の 朝 吹は
︑ 玄 関 番 をや り な が ら
︑義 塾 で 英 学の 手 ほ ど き を受 け た
︒ もと も と が り 勉タ イ プ で はな か っ た が
︑能 力 も あ って 上 達 も 早 かっ た よ うで あ る
︒ クア ッ ケ ン ボ スの
﹃ ア メ リ カ史
﹄ を 教 えて い た 和 田 義郎
︵ 和 歌 山縣 士 族
︑ 慶 応義 塾 に 学 び︑ 明 治 三 年 四月 よ り 教 授︶ な ど は
︑ 授業 中 よ くや り こ め られ た ら し い
︒ 明治 五 年
︵ 一 七 二
︶︑ 朝吹 は 慶 応 義 塾出 版 社 主 任 とな り
︑ か たわ ら 義 塾 の 会 計 係 を も や っ て い た︒ そ の こ ろ の 塾 監 局 は 畳 敷 き で あ っ た が︑ か れ は前 垂 を か けて す わ っ て いた
︒ 正月 な ど も ちを 焼 き
︑ そ れを 食 べ な が ら事 務 仕 事 をし
︑ ま た と きに は 読 書 もし て い た
︒ この こ ろ の こと か
︑ 朝 吹 はオ ー ギ ュ スト
・ コ ン ト の実 証 哲 学の 英 訳 を よん で い た と いう
︒ 当
時 稍 々
︵ だん だ ん
|| 引 用 者
︶流 行 の コン ト の 実証 哲 学
︵英 訳
︶ を繙 い て 考 込 で 居 た か ら︑ 私 は 是 が 余 り の コ ン ト ラ ス ト だ と 思 ひ
︑ ド ウ ダ イ 朝 吹 サ ン 面白 イ カ ネー と 云 ふ と︑ イ ヤ 俺は コ ン ナ面 倒 な 事は イ カ ン そ れ より 一 つ モン テ ー ンを や っ て見 た く って
︵ 一 か く千 金 を 試み た い
︑と い っ た意
︶ ナ ァ と 云っ た
﹂ 鎌 田 栄吉
﹁ 太 閤を 思 は せる 朝
29︶
吹 氏﹂
︶︒ また
後 年
︑ 朝吹 は コ ン ト の書 を 大 金 を 投じ て 求 め たら し く
︑ そ のこ と も 同 人の 伝 記 に 出 てい る
︒
142( )
そ れ から 大 分 後に 大 枚 二 十円 も す るコ ン ト のフ ヰ ロ ソフ ヰ を 朝吹 が 買 った と 云 ふの で
︑ 解る か 解 らぬ か
︑ 兎に 角 学 生 仲間 の 問 題と な っ たこ と も
30
︶
ある
︒ また
こ の こ ろの こ と か
︑ もう 一 人
︑ 朝 吹が コ ン ト の実 証 哲 学 の 本を か か え て玄 関 か ら 校 舎に 入 ろ う とす る の を 目 撃し た 塾 生 がい た
︒ そ の 塾員 は 名 を出 す こ と を好 ま な か っ たが
︑ 匿 名 で 貴重 な 談 話 筆記 を の こ し た︒ 或
る 時 私が 塾 の 玄関 で
︑ 朝吹 君 に 出会 ふ た
︒ 氏が 大 部 の 本 を 小 脇 に 抱 へ て 塾 に 入 ろ う と す る か ら
︑其 本 は 何 ぢ や と 私 が 尋 ね た︒ こ れ は オ﹅ ー﹅ ガ﹅ ス﹅ ト﹅
︑ コ﹅ ム﹅ ト﹅ の﹅ ポ﹅ シ﹅ チ﹅ ビ﹅ ズ﹅ ム﹅
︵positivism
実証 主 義
︑実 証 哲 学
|| 引 用者
︶ ぢ やが
︑ 森 下さ ん
︵ 明治 二 年 三月 に 入 塾し た 若 歌 山藩 士 族
・森 下 栄 吉の こ と か︶ の 部 屋 へ 此本 の 講 釈を 聴 き に 行く の で ある と
︑ 氏が 答 へ た︒ 元 来 此ポ﹅ シ﹅ チ﹅ ビ﹅ ズ﹅ ム﹅ は
︑ 社会 学 の 母で あ る と同 時 に
︑人 類 教 を産 み 出 し︑ 仏 蘭 西で 各 地 に此 教 の 教会 が 散 在し て 居 る のみ な ら ず︑ 英 国 では 有 名 な碩 学 フ﹅ レ﹅ デ﹅ リ﹅ ッ﹅ ク﹅
︑﹅ ハ﹅ リ﹅ ソ﹅ ン﹅ が 此教 の 宣 教師 と し て熱 心 に 之を 宣 伝 して 居 る
︒さ れ ば 此ポ﹅ シ﹅ チ﹅ ビ﹅ ズ﹅ ム﹅ は
︑幽 玄 の 哲理 を 含 蓄 して 居 る 六ヶ 敷 い 本だ
︒ 英 学 を余 り 深 く研 究 せ ず
︑専 ら 実 業的 の 事 務に 関 係 して 居 る 朝吹 さ ん が右 の 次 第だ
︒ 況 んや 英 学 に専 心 し て居 る 同 窓 者は
︑ コ ムト は 勿 論︑ 英 独 諸大 家 の 政 治 経済 哲 学 の類 は
︑ 一 通り 研 鑽 した の で ある
︵ 白 水生 述
﹁ 義塾 懐 旧 談﹂
﹃ 三田 評 論
﹄十 月 号 所収
︑ 大 正7
・ 9
︶︒ この
朝 吹 も
︑鎌 田
︑ 門 野
︑森 下
︑ 福 沢 につ づ い て
︑コ ン ト の 著 書を 人 に さ きが け て 読 ん でい た の で ある
︒ 明治 初 期
︑ 義塾 で 用 い て いた 教 科 書 は
︑高 尚 な る 大部 の 書 が 多 かっ た
︑ と いい
︑ 西 洋 哲 学や 社 会 学 の教 授 と 研 究 は東 京 大 学 より も 年 代 も 早く
︑ 奥 が深 か っ た
︒そ し て
︑ 当 時日 本 の 英 学 とい え ば
︑ 福沢 塾 の 専 売 特許 で あ っ たと い っ て も 過言 で は な かっ た
︒ 当時
︑ 東 京 大学 に 対 立
︵ 張り あ う
︶ 学 校と い え ば
︑慶 応 義 塾 で あり
︑ 明 治 十年 代 に 至 るま で は
︑ 東 京大 学 の 如 き は 求 学 の 青 年 に と っ て
︑ 慶 応 義 塾に 匹 敵 す べき も な か っ た﹂ 河 合 栄 治郎
﹃ 明 治 思 想史 の 一 断 面
|| 金 井 延 を中 心 と し て﹄ 二
〇
〜 二 一頁
︶ と い う︒
141 ( )
福 沢 諭 吉 と 社 会 学
慶応 義 塾 は
︑福 沢 諭 吉 に よっ て 安 政 五年
︵ 一 五
︶ の 冬 に
︑江 戸 鉄 砲 洲 奥平 藩 内 に 開い た も の で ある
︒ 塾 主 の福 沢 は
︑ は じめ 蘭 学 を 講授 し た が︑ 文 久 二
︑ 三年 ご ろ よ り 英学 を 教 授 する よ う に な った
︒ 福 沢 の英 学 は 独 力 で学 ん だ も ので あ る
︒ 蘭 英辞 典 に よ って
︑ み ず か ら英 書 を
31︶
よ み
︑ほ と ん ど教 師 に つ かず
︑ ひ と り で勉 強 し た もの で あ る
︒ オラ ン ダ 語 の卓 絶 し た 学 力が あ っ た から
︑ 英 書 を 読む こ と に それ ほ ど 困 難 を覚 え な か った も の か
︒ とも か く 読 解力 に と ど ま らず
︑ 英 文 を 書く 力 も すぐ れ て い た︒ かれ は 漢 学 と蘭 学 で か な り頭 の ほ う はで き て い た から
︑ 読 解 力に も す ぐ れ てい た
︒ 福 沢は そ の 生 涯 にお い て
︑ じつ に た く さ んの 和
32︶
漢 書 や 洋書 を 読 んだ
︒ か れ は前 後 三 回 洋 行︵ ヨ ー ロ ッパ や ア メ リ カへ 行 っ た
︶し た か ら
︑ その つ ど 現 地に お い て 購 入し た 書 物 は数 百 種
︑ 四
︑五 百 冊 に も なり
︑ 義 塾で は そ れ らの 書 物 を 明 治六 年
︵ 一 七 三
︶ ご ろ 譲り 受 け た
︵ 義 塾 図 書 館沿 革
﹂﹃ 慶 応義 塾 学 報
﹄ 所収
︑ 明 治 31・ 3
︶︒ 世の 中 に は
︑外 見 学 者 を 気ど り
︑ い かに も 勉 強 家 を装 う 偽 学 者︑ 偽 勉 強 家 はご ま ん と おり
︑ か れ ら は読 み も し ない
︑ し か も ろく に 分 か り もし な い 洋書 を た く さん 部 屋 の 書 架に 並 べ 立 てて い る
︒ 中江 兆 民
︵ 一 四 七
〜 一 九〇 一
︑ 明 治期 の 自 由 民 権思 想 家
︶ もこ の 種 の 手 合い か と お もっ て
︑ た ま たま 知 友 が
︑ 同人 の 留 守 ちゅ う に 書 斎 に上 が り こん で
︑ フ ラン ス 語 の 本 を開 け て み たと こ ろ
︑ ど の本 に も イ ンキ や エ ン ピ ツで 書 き 入 れが あ っ た
︒ また あ る ペ ー ジは
︑ ま っ 黒に な る ほ ど 細密 に 書 き 込 まれ て い た こ とを 知 り
︑ 本 物の 学 者 は
︑ち が う も の だと 敬 服 し た︑ と い っ た エピ ソ ー ド が
︑岩 崎 勝 三 郎 の﹃ 中 江 兆 民 奇行 談
﹄ 大 学館
︑ 明 治 34・ 12
︶ に あ る︒ 坪 内 逍 遙も 英 書 を よむ と き
︑ 青 色エ ン ピ ツ など を 用 い て 盛ん に 書 き 入れ を お こ な った が
︑ 福 沢 も 読 む書 物 に し きり に 書 き 入 れを お こ な って い る
︒ こ れは
﹁ 本 を よむ だ け で は だめ だ
︒ た だ 本 を 読ん だ っ て 仕方 が な い
︒ 本を 読 む な ら︑ よ く か み くだ か な く ては な ら な い
﹂と い っ た 考 え から
︑ 書 物 の内 容 を 読 み とり
︑ 味 わ うた め で あ っ たの で あ ろ う︵ 酒 井 良 明
﹁義 塾 懐 旧 談
﹂﹃ 三 田 評 論
﹄ 月 号 所 収
︑大 正 6
・ 8
︶︒
140
明治9年ごろの福沢諭吉 (
『福沢諭吉伝 第2巻』(岩波書店、
昭和7・3)より。
( )15
福沢 が 読 ん だ英 書 の う ち
︑は っ き り その 痕 跡 を と どめ て い る もの と し て は
︑書 き 込 み がい ち ば ん の 証拠 で あ る が︑ か れ が エ ンピ ツ や 毛 筆 を用 い て 書き 入 れ た 文字 が み ら れ る書 物 を 掲 げる と
︑ つ ぎ のよ う に な る︒
François Pierre Guillaume Guizot:General History of Civilization in Europe,9th American ed,D,Appleton&Co.,New York,1870
フ ラ ンソ ワ
・ ピェ ー ル
・ギ ロ ム
・ ギゾ ー 著
﹃ヨ ー ロ ッパ に お ける 文 明 通史
﹄ 第 九版
︑ D
・ア ッ プ ルト ン 社
︑ニ ュ ー ヨー ク
︑ 一 七
〇 年 刊︒
Alexis C.H.Clerel de Tocqueville:The Republic of the United States of America.Tr.by Henry Reeves,New York,1873.471 p.404 p.2vols,
in one
︶ ア レ クシ ィ
・ シャ ル ル
・ア ン リ
・ クレ レ ル
・ド ゥ
・ トッ ク ヴ ィル 著
﹃ アメ リ カ 合衆 共 和 国﹄ ヘ ン リー
・ リ ーヴ ス 訳
︑二 冊 合 本
︑ニ ュ ー ヨー ク
︑ 一 七 三 年 刊
︒
John Stuart Mill:Utilitarianism.5th ed.,Longman,Green,Longman,Roberts,and Green,London.1874.96p.
ジ ョ ン・ ス チ ュア ー ト
・ミ ル 著
﹃ 功利 主 義
﹄第 五 版
︑ロ ン グ マン 社
︑ ロン ド ン
︑一
七 四年 刊
︒
139 フランシス・ボウェン著
『アメリカの政治経済』。
ジョン・スチュアート・ミル著
『功利主義』。
[早稲田大学中央図書館蔵]
( )16
Francis Bowen:American Political Economy,Charles Scribnerʼs Sons,New York,1874.495p.
フ ラ ンシ ス
・ ボウ ェ ン 著﹃ ア メ リ カの 政 治 経済
﹄ チ ャー ル ズ
・ス ク ラ イブ ナ ー ズ・ ア ン ド・ サ ン 社︑ ニ ュ ーヨ ー ク
︑一
七 四 年刊
︒
Alexander Bain:Mind and Body.D.Appleton&Co.,New York,1875.196p.
ア レ クサ ン ダ ー・ ベ イ ン著
﹃ 精 神 と肉 体
﹄ D・ ア ッ プル ト ン 社︑ ニ ュ ーヨ ー ク
︑一
七 五年 刊
︒
Herbert Spencer:First Principles of a New System of Philosophy.D.Appleton&Co.,New York,1875.566p.
ハ ー バー ト
・ スペ ン サ ー著
﹃ 第 一 原理
﹄ D
・ア ッ プ ルト ン 社
︑ニ ュ ー ヨー ク
︑ 一 七 五 年刊
︒
138
(上)は福沢諭吉の手沢本 ハーバート・スペンサー著『社会学研究』。
(下)は福沢による書き入れ。
[原本は慶應義塾大学福沢センターにある]
( )17
と く に 社 会学 と の 関 連で 注 意 を 要 する 書 物 は
︑ス ペ ン サ ー の﹃ 社 会 学 研 究﹄ で あ る
︒ す な わち
︑
He rb er t S p en ce r: Th e S tu d y of S oci ol ogy . D. Ap p le to n& C o ., Ne w Y o rk . 18 74 . 42 3p .
で あ る
︒同 書 の 見 返 し に︑ 毛 筆 で
﹁
eC .1 ec e,D g d ri mb a y Yo u o n uE ts a ik sh 4.
不 明
︶
18 7
⁝
⁝ 福 沢氏 蔵 書 ナ リ 此 本 ハ 井 上 良 一 君 ヨ リ 借 用 同 人
江
ハ 新 本 ヲ 返 却 シ タ ル ニ 付 福 沢ノ 所 有 ト 為ル
﹂ 福 沢 自筆
︶ と 認 め てあ る
︒ 元 の 所 有 者の 氏 名 お よび 日 付 な ど は︑
“ , .
.
⁝⁝
”
と い っ た風 に 毛 筆 で 横 線 を ひ い て 消 し て あ る︒ 福 沢 が こ の 本 を 読 ん だ の は
︑ 明 治 年
︵ 一 七 五
︶ 五 月 十 三 日 か ら 翌 九 年
︵ 一 七 六
︶三 月 十
33︶
四 日に か け て の こと で あ り
︑読 了 す る の に約 十 一 ヵ 月か か っ て い る︒ 福沢 は 他 に もス ペ ン サ ー のも の を 読 んで い る が
︑ なぜ か れ は スペ ン サ ー の
﹃社 会 学 研 究﹄ を 読 も う とし た の か
︑そ の 動 機 は 明ら か で な い
︒慶 応 義 塾で は じ め てス ペ ン サ ー の﹃ 社 会 学 研究
﹄ が
︑ 英 語の 購 読 と して 教 え ら れ たの は 明 治 十一 年
︵ 一 七
︶ 前 後 で あり
︑ つ い で英 書 訳 読 の 一科 目 と して 正 式 に 教え ら れ た の は︑
﹃
明治 十三 年 七月 改
慶 応 義塾 社 中 之 約 束
﹄ こ れ は 義 塾 の 組 織
︑ 運 営
︑
34
︶
学則 な ど に つ い て 記 し た も の
︶ に よ る と
︑ 明 治 十 三 年
︵ 一
〇
︶ の こと で あ る
︒ スペ ン サ ー の﹃ 社 会 学 研 究﹄ の 購 読 を担 当 し た の は︑ 門 野 幾 之進
︵ 鳥 羽 藩
﹇三 重 県
﹈ 士族
︑ 明 治 二 年六 月 に 慶 応に 入 学 し
︑ 明治 四 年 三 月に 卒 業
︑ の ち英 文 の 講 読を 担 当 し た
︶で あ っ た
︒そ の 門 野 は 明治 十 一 年
︵一
七
︶ 三月
︑ 英 学 教師 と し て 土 佐の 高 知 に 出張 し た と き
︑福 沢 は 代 講 とし て 社 会学 を 教 え たの で あ る
︒ その と き た また ま 福 沢 の 社会 学 を 聴 いた 酒 井 良 明
︵東 京 の 出 身︑ 明 治 九 年 七月 本 科 を
35
︶
卒業
︶ と い う 学生 は
︑ 大 正六 年
︵ 一 九 一七
︶ の 夏
︑ 当時 を ふ りか え り
︑ つぎ の よ う に 語っ て い る
︒ 福
沢 先生 の 講 義は
︑ 私 は在 学 中 に 聞い た 事 があ り ま せん が
︑ 卒業 し て 後は
︑ 偶 然聞 き ま した
︒
||
137 福沢の手沢本とおなじスペンサーの
『社会学研究』(1874年刊)。
[筆者蔵]
( )18