と 名 づ け
︑こ の 日 開塾 の 宴 を ひら い た
︒ そ して そ の 長 屋 を学 舎 と し
︑英 語
・ 国 漢
・数 学 な ど を教 え た
︒ 西が
﹁ 百 学 連環
﹂ に つ い て講 義 を 開 始 し︑ コ ン ト の三 段 階 説 や 実証 哲 学 に つい て 塾 生 に はじ め て 語 った の は
︑ 明 治三 年 冬 十 一月 の こ と で ある
︒ こ れこ そ わ が 国に お け る 社 会学 の 口 演 の 第一 声 で あ り︑ こ の こ と は銘 記 せ ね ばな ら な い
︒ つい で 明 治 十一 年 前 後
︵ 一 七
︶︑ 慶応 義 塾 に お いて
︑ 門 野 幾之 進 が ス ペ ン サ ー の﹃ 社 会 学 研 究﹄ を 生 徒 に 教 え て い た し
︑ 塾 主 の 福 沢 諭 吉 も い ちは や く こ の本 を 読 ん で いる
︒ また ほ ぼ そ の頃 と 推 定 さ れる が
︑ 中 村 正直 の 同 人 社で も
︑ ス ペ ンサ ー の
﹃ 社会 学 原 理
﹄ をテ キ ス ト とし て 使 っ て いた
︑ と い った も と 塾 生 の証 言 が ある
︒ 以 上 の話 を 総 合 し て考 え る と
︑ 大学 よ り も 私塾 の ほ う が
︑社 会 学 を 教え た 時 期 が 多少 早 い こ とが わ か る
︒ 日本 に お け る社 会 学 教 育 のは じ ま り は
︑大 学 に あ らず 私 塾 で あ った と い う こと で
︑ こ れ は忘 れ て は なら ぬ 点 で あ る︒
維 新 後
︑ 社 会 学 を 教 え た 私 立 の 諸 学 校 の 概 況
官学
︵ 大 学
︶よ り も 早 く おこ な わ れ た
︑私 学 に お ける 社 会 学 講 義に つ い て 述べ て み た い
︒社 会 学 の 教育 は な に も 官学 が 一 手 に引 き う け て おこ な っ てい た わ け では な い
︒ 私 立の 教 育 機 関
|| と く に 私塾
︑ 女 学 校
︑専 門 学 校
︑私 立 大 学
|| に お い て もそ れ を 教 授 した の で あ る︒ わ が 国 に お い て 初 め て 社 会 学 が 講 じ ら れ た の は
︑ 明 治 三 年
︵ 一 七
〇
︶ の こ と で あ り
︑ こ の と き 西 周 は 私 塾
〟 育 英 社
〝 に お い て
︑ オ ー ギ ュ ス ト
・コ ン ト の 三 段 階 説 と 実 証 哲 学 に つ い て ふ れ
︑ つ い で 同 十 一 年 前 後 に
︑ 中 村 正 直 の
〟 同 人 社
〝 や 福 沢 諭 吉 の
〟 慶 応 義 塾
〝 に お い て
︑ ハ ー バ ー ト
・ス ペ ン サ ーの 社 会 学 が 教授 さ れ た
︒ 明治 十 一 年
︵一
七
︶ 秋
53
︶
九 月 以 降
︑お 雇 い 外 国 人の フ ェ ノ ロサ は
︑ 東 京 大学 法 理 文 学部 の 学 生 相 手に
︑ ス ペン サ ー の
〟世 態 学
〝 社会 学
︶ の 講 義を 開 始 し た
︒
125 ( )
フェ ノ ロ サ が用 い た テ キ スト 又 は 参 考 書は
︑ ス ペ ンサ ー の
﹃ 社 会学 原 理
﹄
P ri n ci pl es o f S oc io lo gy ,
第 一 巻
︑ 一 七 六 年 刊
︶や ル イ ス
・ H・ モ ー ガン の
﹃ 古 代社 会
﹄
A n ci en t S os ci et y , 18 50
︶ な どで あ っ た
︒ わが 国 の 大 学で 社 会 学 を 口演 し た 第 一号 は
︑ フ ェ ノロ サ で あ った が
︑ 大 学 より も 早 く︑ 私 塾 に おい て 日 本 人 教師 が 社 会 学 を講 義 し た 事実 は
︑ 銘 記 せね ば な ら ない
︒ わが 国 に お ける 学 校 の 起 源は
︑ 聖 徳 太 子︵ 五 七 四
〜六 二 二
︑ 推 古朝 の 摂 政
︶が 創 建 し た
〟法 隆 学
54︶
問 寺〝 と さ れ
︑ 僧侶 に 学 費 を給 し て 仏 道 を学 ば せ たこ と に は じま る
︒
〟大 学
〝 官 吏の 養 成 機 関
︶は 天 智 天 皇
︵在 位 六 六
〜 七 一
︶ の とき 創 設 さ れ︑ 延 暦 三 年
︵七
四
︶ の遷 都 の と き は︑ 京
・ 二 条大 路 の 南 神 泉苑 の
55︶
西 にあ っ た
︒ 当時
︑ 官 吏 を 育成 す る の が 目的 で あ っ たか ら
︑ 入 学 でき る 者 は 上流 社 会 の 子 弟に か ぎ ら れて い た
︒ 鎌倉
︑ 室 町 時代
︵ 一 一
〇〜 一 三 三 三
︑一 三 三 六
〜一 五 七 三
︶ の学 校 教 育 の目 的 も 官 吏 の育 成 に あ り︑ 文 教 の 中 心は 仏 僧 に あっ た
︒ 庶 民 のた め の 寺小 屋 教 育 は︑ 鎌 倉 時 代 に萌 芽 を
56︶
発 し
︑室 町 時 代 に発 達 し て 行 った
︒ 江 戸 時代
︵ 一 六
〇 三〜 一 六 七︶ の 学 校 に は︑ 幕 府 の 直轄 学 校
︵ 昌 平黌
︶︑ 藩 校︑ 郷 校
︑ 和塾
︑ 寺 小 屋 など が あ り
︑ 主に 儒 学
・ 国学 な ど を 教 えた が
︑ 幕 末に な る と
︑ 幕府 の 開 成 所や 藩 校 な ど で洋 学 や 兵 学な ど を 教 え によ う に なっ た
︒ ヨ ー ロ ッ パ の 中 世 に お い て︑ い ち ば ん 発 達 し た も の は
〟 ウ ニ ベ ル シ タ ス
〝
u n iv er si ta s
︵〟 大 学
〝 を 意 味 す る 中 世 ラ テ ン 語
︒ 原 義 は﹁ 団 体﹂ 結 社
﹂︶ で あ る
︒ そこ で は 自 由学 科
︵ 文 科
︶の う え に
︑ 神学
・ 法 学
・医 学 な ど の 三科 を 併
57︶
置 し︑ そ れ ら を 教え
︑ 研 究 させ た
︒ 教授 法 と し ては
︑ 講 義
le ct io
の ほ か に 討 論
d is p u ta tio n
を 重 視し た
︒ ヨ ー ロッ パ の 中 世の 大 学 が
︑ 一面 か ら い え ば 聖 職 者 を 養 成 し た よ う に
︑ わ が国 の 仏 教 の学 林 で は
︑ 学僧 の 教 育 と 仏教 の 研 究 をお も な 目 的 とし た
︒ わが 国 に お いて
︑ い ま に つづ く 最 古 の 学校 と い え ば︑ い ず れ も 仏教 系 の 学 林で あ る
︒ こ れよ り 創 設 の時 期 が 古 い 順に
︑ 関 東 と関 西 に わ け て︑ 各 私 学に お け る 社会 学 の 講 座 につ い て ふ れ てみ よ う
︒
﹇立 正 大 学
﹈ 東京 の 品 川 区に あ る 立 正 大学 は
︑ 天 正 年
︵ 一 五
〇
︶ 創 立 の
〟檀 林
〝 僧 徒 の 学 問 修 業 の 場
︶を 起 源 と し︑ 明 治 三 十 七 年
︵一 九
〇 四︶ 四 月
︑ 日 蓮宗 大 学 林
︵の ち 日 蓮 宗 大学
︶ と し て 創立 さ れ
︑ 大正 十 三 年
︵ 一九 二 四
︶ 五月
︑ 大 学 令 によ る 立 正 大学 の 設 立 が 認可
58︶
さ れ
︑ 財団 法 人 立 正 大学 と
124( )
し て発 足 し た
︵ 立 正 大 学 三十 年 史
﹂︶
︒ 五反 田 の 麦 畑の な か に 忽 然と 姿 を み せ た立 正 大 学 は︑ 三 階 建 の 鉄筋 コ ン ク リー ト の 近 代 的な 建 物 で あっ た
︒ 大 正 時代
︑ だ れ が社 会 学 の 講 義を 担 当 して い た も のか 判 ら な い が︑ 昭 和 三 年
︵一 九 二
︶当 時
︑ 専 門 部に お い て はマ ス タ ー オ ブ・ ア ー ツ
︵修 士 号
︶ を もつ 遠 山 潮 徳が
︑ 社 会 学 と宗 教 教 育学 を お し え︑ 兼 任 講 師 とし て は
︑ 今 井時 郎
︵ 一
九
〜 一 九 七二
︑ 当 時 東京 帝 国 大 学 助教 授・ 社 会 学第 二 講 座 担当
︶ が
︑ 社会 学
﹂ と
﹁ 社会 問 題
﹂を 担 当 し た︵ 立 正 大 学教 員 録
﹂︶
︒ 昭和
年
︵ 一九 三 三
︶︑ 今井 時 郎 は
﹁ 社会 誌 学
﹂ を
︑教 授・ 久 保 田正 文 は
﹁ 社会 学 概 論
﹂ を受 け も っ た︒ 久 保 田 は 大正 十 五 年
︵一 九 二 六
︶ から 昭 和 四年
︵ 一 九 二九
︶ ま で ロ ンド ン 大 学 に 留学 し
︑ 同 年講 師 に 就 任
︑戦 後 は 石 橋湛 山
︵ 一
四
〜 一 九 七三
︑ 大 正
・ 昭和 期 の ジ ャー ナ リ ス ト
︑の ち 学 長︶ の も と で︑ 学 監 を 長 年つ と め た
︒
﹇慶 応 義 塾
﹈ 慶応 義 塾 は
︑安 政 五 年
︵ 一 五
︶ の 冬︑ 江 戸 鉄 砲洲 奥 平 家 藩 内に 創 っ た 私塾 を 起 源 と し︑ つ い で 芝新 銭 座
︑ 三 田二 丁 目 へ と移 転 し
︑ こ んに ち に 至っ て い る
︒ 三田 の 学 舎 にお け る 社 会 学講 義 は 古 く
︑明 治 十 一 年︵ 一 七
︶前 後
︑ す でに ス ペ ン サ ーの
﹃ 社 会 学研 究
﹄ を 教 えて い た
︒ が︑ そ の こ ろ 社会 学 は 学科 課 程 の 中で
︑ ま だ ひ とつ の 独 立 し た教 科 に な って い な か っ た︒ 社会 学 は 単 に︑ 英 書 訳 読 の一 科 目 に す ぎず
︑ そ の 状態 は し ば ら くつ づ く が
︑そ れ が つ い に正 科
︵ 予 科と 本 科 に わ かれ る
︶ の 課程 の 教 科 目 とな っ た のは
︑ 明 治 二十 三 年
︵ 一 九
〇
︶ 一 月 以降 の こ と のよ う だ
︒﹃
明 治十 三年 七 月改
慶 応 義 塾 社 中之 約 束
﹄ には
︑ 社 会 学﹂ は つ ぎ の よう に 出 て いる
︒
123 簿記
学 ア モ ース サ イ アン ス オ フ ワー
ス ペ ンセ ル ス タ デー オ フ ソ シ オロ ジ ー
ミ ル ヲ ン リ ベル チ ー
第一 等
︵ 前掲 書
︑ 頁
︶
( )
ス ペ ン セ ル ス タ デ ー オフ
ソ シ オ ロジ ー
﹂ は
︑ いう ま で も なく
︑
S p en ce r
著
S tu d y of S oc io lo gy
の こと で あ る
︒ 明治 十 三 年 から 五 年 間 ほ ど︑ ス ペ ン サ ーの 社 会 学 の表 記 は カ タ カナ で あ っ たが
︑ 明 治 十 年
︵ 一
五
︶ に な る と︑ 邦 字 に 訳さ れ た
︒ す なわ ち
|| ス ︑
ペ ン サ ー 氏社
59
︶
会 学 講 義﹂ は 別 科
︵ 晩学 者 の た め に設 け ら れ た科
︑ 満 十 歳 以 下 は 受 講 で き な い︶ の た め の 社 会 学 で あ り
︑ 授 業 は 訳 読 で あ っ た
︒ 慶応 義 塾 に 大学 部 が 設 け られ た の は
︑ 明治 二 十 三 年︵ 一 九
〇
︶一 月 の こ とで あ り
︑ こ のと き 文 学 科・ 理 財 学 科
・法 律 学 科 の
60
︶
三 科 が
︑ 開 設さ れ た
︒そ し て 文 学科 課 程 の 第 三年 に
﹁ 社 会 学﹂ の 講 義 が置 か
61︶
れ た
︒ 慶応 義 塾 の 教育 は
︑ 専 門 の知 識 を さ ず ける こ と が 主目 的 で は な く︑ ど ち ら かと い え ば 英 語を 理 解 す るこ と
︑ 読 解 力を や し な うの が 目 的 で あり
︑ 学 生は コ モ ン
・セ ン ス
︵ 良 識︶ を あ た え てく れ る の が義 塾 で あ る と考 え て
62︶
い た︒ そ の た め 英語 を 話 し たり
︑ 英 文 を 綴る こ と を 意と し な い 教 授法 を と っ
63︶
た
︒ その 後
︑ 英 米よ り 外 国 人 教師 な ど が 招 かれ
︑ 社 会 学も イ ギ リ ス 人宣 教 師 L
・ラ イ ド
︵ 明 治二 十 五 年 一月
〜 同 三 十 年
64
︶
一 月
︶ が 教え た が
︑ そ れは ス ペ ンサ ー の 社 会学 の 梗 概 を 述べ た も の で あっ た
︵ 川 合貞 一
﹁ 大 学 創立 五 十 年 を迎 え て
﹂﹃ 三田 評 論
﹄ 第 五一 四 号 所 収︑ 昭 和 15
・ 6︶
︒ 慶応 義 塾 に おけ る 初 代 の 社会 学 教 授 と なっ た の は
︑田 中 一 貞
︵ 一 七 二
〜 一九 二 一
︑ 明 治二 十 六 年 大学 部 文 学 科 入学
︑ 同 二 十九 年 十 二 月 卒業
︶ で ある
︒ 田 中 は山 形 県 鶴 岡 に生 ま れ
︑ 郷 里の 私 塾 英 学社 に 学 ん だ のち
︑ 十 七 歳で 上 京 し
︑ 東京 英 語 学 校︑ 東 京 物 理 学校 を へ て 慶応 義 塾 に 入 社し た
︒ 義塾 卒 業 後
︑明 治 三 十 年
︵一
九 七
︶ 一月 か ら 同 三十 四 年
︵ 一 九〇 一
︶ 二 月 ま で
︑ 宮 崎 県 東 臼 杵 郡 延 岡 町 の 私 塾 亮 天
65
︶
社 の 教 師 と な り
︑ の ち 義 塾 に勤 め た
︒ 明治 三 十 四 年 五月
︑ ア メ リ カ︑ フ ラ ン スに 留 学 し
︑ イエ ー ル 大 学で W
・ G
・ サム ナ ー
︑ ブラ ッ ク マ ン につ い て 社 会学 を 学 び
︑ つい で
122
右 同 断
マ ツ コウ レ ー 氏 ハ ラ ム憲 法 史 評輪 講 ミ ル 氏科 学 論
本 科 一 二三 等 講 義 ス ペ ン サー 氏 社 会 学 講義 一 級
︵﹃
明治 十 年 九月 改正
慶 応義 塾 社 中之 約 束
﹄四 頁
︶
( )
フ ラン ス に 渡 り︑ コ レ ー ジ ュ・ ド
・ フ ラ ンス に お い て︑ G
・ タ ル ドに 師 事 し
︑社 会 心 理 に つい て の 講 義を 聴 い た
︒ 明治 三 十 七 年︵ 一 九
〇 四
︶三 月 帰 国 し
︑同 年 四 月 教授 と な り
︑ 文学 科
︑ 理 財科
︑ 政 治 科 にお い て
︑ 社会 学 や フ ラ ンス 語 を 教 えた
︒ 帰 国 後
︑図 書 館 長そ の 他 の 学内 行 政 に か かわ り 多 忙 を きわ め た
︒ か れ は ま と ま っ た 専 門 書 こ そ 著 わ さ な か っ た が
︑ 社 会 学 や 社 会 心 理 学 に 関 す る 多 く の 論 文 を
︑﹃ 学 報
﹄﹃ 図 書 館 雑 誌
﹄﹃ 三 田 学 会 雑 誌
﹄﹃ 三 田 評 論
﹄な ど に 発 表し た
︒
﹇立 教 学 院
﹈ 東京 都 豊 島 区に あ る 立 教 大学 の 起 源 は
︑明 治 七 年
︵一
七 四
︶ 開創 の 聖 パ ウロ 学 校 で あ る︒ 大 正 十 一年
︵ 一 九 二 二︶ 五 月
︑ 大学 に 昇 格 し た︒ 当 時
︑学 部 は 文 学部
︵ 英 文 学 科︑ 哲 学 科
︑ 宗教 学 科
︶ と商 学 部
︵ の ち経 済 学 部 に改 め る
︶ の 二つ で あ っ た︵
﹃ 立 教 学 院 十 五 年 史
﹄︶
︒ 社会 学 の 担 当者 は
︑ ド ク トル
・ オ ブ
・ サイ エ ン ス の植 原 悦 二 郎 とあ る
︒ 同 人に つ い て は つま び ら か にし な い
︒
﹇曹 洞 宗 大 学
﹈ 東京 都 世 田 谷区 駒 沢 に あ る駒 沢 大 学 の 前身 は
︑ 明 治 年
︵ 一 七五
︶ 創 立 の曹 洞 宗 専 門 学校 で あ る
︒同 十 五 年
︵ 一
二
︶ 曹洞 宗 大 学 林
︑同 三 十 年
︵ 一 九
〇五
︶ 曹 洞 宗 大学 と 称 し た
︒大 正 十 四 年︵ 一 九 二 五
︶三 月
︑ 大 学令 に よ り
︑ 駒沢 大 学 と 改称 し た
︵﹃ 駒沢 大 学 十 年史
﹄︶
︒ 社会 学 が は じめ て 教 え ら れた の は
︑ 曹 洞宗 大 学 林 時代 で あ り
︑ 大学 部 に お いて 教 授 さ れ た︒ 担 当 者 の氏 名 は つ ま びら か に し ない
︒
﹇専 修 学 校
﹈ 専 修 大 学 の 前 身 は
︑ 専 修 学 校 と い い
︑ 明 治 十 三 年
︵ 一
〇
︶ 九 月
︑ 京 橋 区 南 鍋 町 に お い て 開 校 し た 日 本 最 初 の 私 立 法 律 学 校 で あ る
︒同 校 の
﹁ 創立 主 旨
﹂ に よる と
︑ 専 修学 校 は
︑ 英 語や フ ラ ン ス 語の 原 書 に 通じ て い な い た め に
︑ 官 立 学 校 に 入 れ な い 学 生 の た め に
︑も っ ぱ ら 邦 語 を も っ て 法 律や 経 済 の 学を 教 授 す る とい っ て い る
︵﹃ 専 修 学 校 一覧
明 治 十六 年 一 月
﹄︶
︒ 明治 十 五 年
︵一
二
︶ 十一 月
︑ 同 校 は神 田 区 中 猿楽 町 に 移 転 した
︒ こ の 学校 で 社 会 学 の講 義 が は じめ て お こ な われ た の は
︑明 治 十 六 年 のこ と
121 ( )