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イングランドにおける労働立法とコモン・ロー(3) : 18世紀後半以降のコモン・ロー契約法の展開

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ースとして運営されていた。この財産法から契約法への動きは,18世紀中 葉以降といっても過言ではない3。この動きは,労働法にいう身分から契 約への流れに繋がっていくのである。そこで,本稿では,イングランドに おける財産法から契約法への流れと19世紀における雇用契約法の確立状況 について検討することとする。

中世以降の財産の移転と契約

(1)土地不動産 1)土地保有権 中世イングランドにおいては,基本的に,国王と土地保有者との関係は, 身分による統治的関係であった。1660年の騎士土地保有形態等廃止法 (Ten-ures Abolition Act)による封建的土地保有(feudal ten(Ten-ures)の廃止が土

地の私的な所有という考え方に大きな影響をもたらした4。イングランド

では,1086年のソールズベリの宣誓(The Oath of Salisbury)によって, 征服王と一般人民の直接的関係が創られた。すなわち,国王は,イングラ ンドのすべての土地の唯一の所有者であり,土地不動産は,各領主に譲与 えられ(封授),各領主はそれを自分の領民達に割り当て譲与した(下封)。 こうして,国王から現実に土地を占有する者までの連鎖が形成された。封 建土地保有権は,その性質において,自由保有権である騎士奉仕保有権 (knight−service),教会奉仕保有権及び鋤奉仕保有権(socage)と不自由

1 (1778)IV Brown, case 6 ; 2 Eng. Rep. 18.

2 小宮文人「イングランドにおける労働立法とコモン・ロー −産業革命末期ま で−」専修法学論集135号(2019年)191頁,192∼201頁。

3 Orth 教授は,この頃から,契約意思論がコモン・ローに入ってきたとする。J.V. Orth, “Contract and the Common Law”, H.N.Scheiber(ed.), The State and Free-dom of Contract(Stanford Univ. Press, California, 1998).

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保有権である農奴(隷農)保有権(villein tenure)に分類することができ る。騎士奉仕保有は,封臣が対価として軍事奉仕義務を負い,教会奉仕保 有は,教会が対価として礼拝奉仕や祈祷義務を負い,鋤奉仕保有は農民が 種まき,刈取などで領主を助ける義務を負う,ものであった5。こうした 土地保有権の移転については,封臣は封主の承諾なしに売却したり,遺言 によって譲渡することもできなかった。土地の譲渡権能は,領主の委任に よって授けられたとみなされ,不動産相続も自由ではなく,不動産を相続 するためには領主に相続上納金(relief)を支払う必要があった6 しかし,12世紀後半頃には,不動産相続と不動産移転が一般化して,奉 仕で土地を得るという考え方はなくなった。軍事奉仕も少なくなり,13世 紀には金銭徴収(免役地代)に換わり,さらに14世紀までには,戦費は課 税手段で徴収されることになった。奉仕の金納化は鋤奉仕や農奴奉仕でも 同様となった7。当時の土地保有に付随して,封臣は,上納金支払い,他 の臣民に保有地を移転する(代置)には,封主の移転許可と許可料の支払 い,相続には相続上納金,その担保としての先占料(primer seisin),相 続上納物を封主に上納する慣行があり,封臣が相続人なしで死亡すると, その保有地は封主のものとなり,封臣が未成年の相続人を残して死亡する と,封主は後見権を得て,その者の未成年の期間,全収益を得ることがで きた8 13世紀には,土地保有についての体系が確立したといわれる9。当時の 土地譲与により与えられる権益は,コモン・ロー上,単純封土権(estate in fee simple),生涯権(estate for life)及び限嗣封土権(estate tail)に区

5 J. H. Baker, an Introduction to English Legal History(4th ed.)(Betterworths, 2002),pp.226―7.

6 F. Pollock, the Land Laws(3rded.)(McMilan, 1896), p.56. 7 Baker, op. cit., pp.227―228 ; Pollock, op. cit., p.62. 8 Baker, op. cit., pp.238―242.

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別された。単純封土権は,相続可能なものであったが,保有者の生涯の譲 渡権能は,最初の譲与条件次第であった。譲与で相続人が指名されなかっ た場合は,取得者は,生涯を超えて如何なる権益もなく,譲渡もできな かったし,限定された相続人が指名された場合,その指名された者が現れ るまで譲渡できなかった10。生涯権は,当初の譲受人の生涯間に拘束され, 不動産移転もできなかった。限嗣封土権は,娘や長男以外の息子とその子 孫の生活維持の目的で行われた条件付土地譲与の慣行と1280年条件付譲与 法(De Donis Conditionalibus)の解釈を通して生まれ,ある者とその相

続人への,または,夫婦とその相続人への土地贈与によって設定された11 封臣の封主に対する封土保有に関する権益は,法的権利でも事実としての 占有でもなく,封主による封臣の受容を確定する臣従礼に結びついた封建 的占有(seisin)であった。 金銭調達のための財産譲渡は,譲渡人が自分の代わりに譲受人を封臣と する代置(substitution)又は自分の封臣とする再下封(subinfeudation) によったが,実際には,ほとんどは再下封によっていた。代置では,譲渡 人は自分の封主との封建的保有関係を離脱し,譲受人が譲渡人の封主から 直接封土を保有し,奉仕義務を負うことになる。再下封によると,譲受人 が譲渡人に代わって保有者となり,譲渡人はその封主となり,譲与には君 主の承諾が必要であったが,譲渡人は封主として譲受人(封臣)からの奉 仕を受ける権利を有し,奉仕義務不履行に対しては,直営地差押えによる 国王裁判所へ出廷強制ができた12。10年の不動産移転法(Quia Emptores, 1290)は,封建的付随負担を守るために代置によると定めた。代置は,移 転許可料なしに認められることとなった。代置の場合,譲渡人は自分の封 10 Ibid., p.67. 11 ニール・G・ジョーンズ「単純封土権の成立」物権と信託(連続講演・シンポジ ウム)第1部,立教法学88号(2013年)293頁以下。

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主の承諾は必要なく,譲渡人の封主が譲受人を家臣として受け入れなけれ ばならならないから,家臣である譲渡人が封主の保有する土地を自由に移 転する権限を封建制度から説明できない。しかし,上記のように封臣は, 封主の承諾を得ればその権益譲渡は可能で,封主は許可料を得ることがで きた。要するに,1290年以前は再下封,それ以降は代置で,保有地を移動 させることができた。1290年以降,再下封ができるようなると,単純封土 権としての中間封主保有権は消滅することになった13。さらに,16世紀か ら17世のチューダー王朝において,国王が教会の財産を精算分配し,独占 勅許により,王国の商人と貿易商の成長を促進して,海外貿易と国内の平 穏が進むと,軍事的土地保(有騎士奉仕保有)が崩壊し(最終的には,後 述の1660年騎士奉仕保有態様廃止法(Tenures Abolition Act 1660)で廃止

された),裁判所も取引と譲渡を促進するために,不動産回復訴訟を認め る よ う に な っ た14。こ の,占 有 侵 害 令 状 に よ る 不 動 産 回 復 訴 訟(eject-ment)は,後述する定期賃借権に認められていた訴訟方式(借地回復令 状に基づく借地占有侵害訴訟)が17世紀おいて自由保有権に拡張されたも のである15 上記の自由保有地とは別に,中世の多くの土地は,不自由保有権として の農奴(隷農)保有権によって保有されていたが,やがてその保有権は不 自由身分から切り離され,自由人が保有するようになるが,自身の名前で はなく領主の名前で保有していたため,国王裁判所では第三者の侵害から 保護されなかったが,13世紀以降は領主の荘園裁判所で救済されていたよ うである。その後,黒死病による労働力不足や地代の金納化,資本家によ る農奴(隷農)保有権の大量取得を経て,15世紀には同保有権は,謄本保 有権(copyhold)と呼ばれるようになった16。謄本保有権とは,領主の意 13 Ibid., p.242.

14 Blackstone, Commentaries, book III, pp.267―68.

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志に従い,裁判所の記録の謄本によって,土地を保有する権利であり,領 主の意思,荘園の慣習,裁判所の記録の謄本,対象の土地によってその性 質と内容が規定される保有権であったが,領主の意思は名目的なもので実 質的に荘園の慣習によって解釈された。謄本保有権には,忠誠義務,奉仕 義務,相続料,復帰権,後見権,権利承認料等,前述の自由保有権と類似 の保有条件が付随していた。謄本保有権には,世襲的なものと生涯的なも のとがあり,その権利移転の方法には,還付・承認(旧保有者が権利放棄 して領主に戻す還付と領主が新保有者に対しその権利の承認を行うこと), 領主の自発的譲与及び相続とがあった。これらの権利義務に関する法的争 いは,当初はそれぞれの荘園裁判所(manor court)が管轄した。1389年 の Philipot v. Wade(Y.B. Hill. 13 Ric.II, p.122)事件で,土地保有者が自 己の相続権を侵害されたとする訴えを荘園裁判所に起こしたが,敗訴した ため,人民間訴訟裁判所(コモン・ロー裁判所の一つ)に誤審を主張して 訴えたところ,同裁判所は,謄本保有権は領主の意思における保有権であ り,判決を行った者は領主であるから,領主に対する請願によって救済を 求めるべきであるとした。しかし,15世紀後半になると,コモン・ロー裁 判所も,謄本保有権をコモン・ロー上の権利として承認し,不法侵害訴訟 を認めるようになった17 上記の土地保有権と異なり,他者に対し一定期間,土地保有の権利を設 定する定期賃借権があった。これは,もともと主として金銭投資の回収を 目的とするものであり,領主直営地が村落内の農奴(隷農)保有権に短期 の定期賃借権を貸し出して,地代を得ることから始まった18。ポロックに よれば,10世紀頃には,土地経営能力の低い宗教団体が早くから借地人に

16 Baker, op. cit., p.307.

17 望月礼次郎「謄本保有権の近代化−イギリス土地保有法近代化の一断面−(1)」 社会科学研究11巻1号(1959年)1頁以下,8―15頁,32―40頁。

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一時的な土地譲与を行っていた19。一定複数年の借地は,13世紀にはよく 知られ,15世紀には一般的となったが,その理由は輪作を全うできるよう にするためであった。定期賃借権は,契約の履行に対する単純な権利では なく財産権であり,不動産譲渡の封建的な方法や不動産法定相続の封建的 規則にも服さなかった20。12,13世紀には,賦役金納化と貨幣地代がこれ を促進し,14世紀末には,農奴(隷農)による直営地経営が維持できなく なったようである。 定期賃借権者は,土地保有者の恣意に従属する者で,土地保有者以外の 者は,土地保有者の回復に対抗できなかった21。13世紀には,地主の合意 違反によって占有を侵害された場合,借地人は,追い立てに対する補償の みならず土地の占有それ自体も回復でき,しかも,地主の譲受人に対して も占有回復できた。そして,14世紀末には,賃借権に基づいて,第三者の 賃借権侵害を排除し,回復するための賃借不動産占有侵害訴訟令状(writ of ejection firmae)が確立された。借地農民の占有は,自由保有権者の占 有と同様,その不動産が存在する限り安全なものであった22。そして,こ の定期賃借権は,謄本保有権者の保有地にも拡大した23 2)保有地の移転 保有地の保有と移転に関しては,7,8世紀頃には存在し,14世紀には 広く一般に広く用いられたといわれるユース(use)に言及しておかなけ ればならない。これは,コモン・ロー上の土地保有者が他者にその土地を 譲渡し,それを自分の指名する者の利益のために保有することを命じる慣

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行である。これは,当時不動産の遺贈を厳禁していたコモン・ローを脱法 して,実質的に遺贈を行い,各種の封建的負担を免れるものであった24 しかし,15世紀には,大法官裁判所は,衡平法(equity)上,ユースにお ける譲受人にその設定条件を履行すべきことを強制した。しかし,これが 封建的負担回避によって最上級の領主である国王の収入の大きな低下を招 いたため,ユースにおける受益者をコモン・ロー上の権利者とみなす1535 年ユース法を制定した。これにより,土地保有者がその受益者のために自 由保有権を譲受人に譲渡したとき,受益者がコモン・ロー上の保有権を得 ることになり,衡平法上の権利は否定され,ユースの効果はなくなった。 そして,ユースによって行われてきた土地の遺贈権も否定されたため, 1540年 に は,初 め て 保 有 地 の 遺 贈 権 を 認 め る 遺 贈 法(Statute of Wills, 1540)が制定されることになった25 1640年からの清教革命を経て国王大権が否定されて,1660年に騎士奉仕 保有態様廃止法(Tenures Abolition Act 1660)は,騎士奉仕保有態様を廃 止して,すべての自由保有態様を鋤奉仕保有とした。すでに貨幣地代が固 定されて貨幣価値の変動によって,保有者による貨幣地代の支払いは名ば かりになっており,1540年遺言法により鋤奉仕保有地は単なる自由保有態 様になっていたから,1660年法により,封建的な国王の上級所有権を廃し て,完全な所有権に変えられた26。しかし,新たに所有権を取得したのは 旧領主(貴族)であり,農民的保有の大部分を占めていた前記の謄本保有 権はなお封建的保有に留まった。その後,人口増加による穀物需要の増大 を契機に,18世紀後半の議会エンクロージャー法(Inclosure Act, 1845) によって,定期賃貸による地代収益拡大を目的とする貴族的大土地所有者 の共同利用地囲い込みが行われ,謄本保有権は定期賃借権に強制的に転換 24 砂田卓士=新井正男編『英米法講義』(青林書院新社,1971年),279頁。 25 戒能・前掲書88―92頁。

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されていった。この時点においても,イングランドの土地所有権は,未だ 封建制の影響下で,土地に重畳的権利が設定されており,土地売買に関す る諸権利の調査や複雑な手続があるため,不動産譲渡専門弁護士が必要と され,土地移転は不自由であった27 ここで特筆しなければならないのは,不動産の移転と売買契約の関係で あろう。イングランドでは,比較的最近まで,土地の売買契約は,契約と いうよりは財産移転(conveyance)として扱われた。衡平法裁判所が土地 売買契約は,特定履行されるという原則を早くから確立し,その違反は金 銭賠償では不十分とした。そこで土地売買契約は,買主の衡平法上の権原 に変換されるという法理(財産形態変換(equitable conversion)法理)を 創造した。このため,土地売買契約がそれ自体財産移転と考えられ,売主 が履行時に優良な権原を過失なく引き渡せない場合,損害賠償の救済は, 履行利益(expectation interest)の損害賠償ではなく,頭金の返還と必要 経費の弁済,すなわち信頼利益の返還に限定されていたのである28。土地 ・不動産契約が純粋に契約とされたのは1925年に至ってからであるといわ れる。 こうした中で,19世紀後半になると,地主達が有利な工業投資のため土 地を自由に処分できる法改正を求め,「イギリスの土地改革は,!土地取 引の対象となる権利の整序として実体法的改革=長子相続制,承継的不当 産処分の改革(生涯保有権者の権能の拡大)と"土地移転形式の合理化と して形式的改革=土地登記制度の導入(不要な指摘譲渡方法の廃止による 移転方法の合理化)という2要素からなり,両者は密接に関連しつつ改革 されていった」とされる29。土地移転の不自由が完全に解消されたのは, 27 大澤正男「イギリス不動産法の単純化と土地移転の簡易化」早法72巻4号96―68 頁。

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実に,20世紀後半になってからである。 (2)動産の移転 イングランドでは,産業革命までは,土地が富の源泉で,その争いが国 王裁判所の主な関心事で,動産資材(chattels)は,手渡しによって流通 し,消費されるものと考えられ,特定物としての回復は保証されなかった。 所有者は,訴訟によらず,超私法的に取り戻す権利があった30。動産資材 とは,純粋な動産(goods)と定期借地権や後見権のような不動産的資材 も含むとされる。また,一定の目的のために,動産が不動産の一部となる 場合があった。例えば,権原証書,玄関の鍵,未採取原鉱石,倒木のよう なものは相続目的では不動産となった。動産に所有権が発生するのは先占 であるが,コモン・ローは,一定の種類の自然資源の私人による占有をそ れらが国王大権によって国王に属するとして禁じていた。所有権を発生さ せるもう一つの方法は,新たな物の勤労による創造ないし製造であった。 他人の材料で新たな物を作る場合,その物が材料と大きく異なった物に なったら,動産返還訴訟(action of detinue)の対象物不存在として,新 たな物の財産権は製造者のものとされた31 動産移転の方法は,贈与,売買及び死亡に基づく相続の3つであった。 贈与の場合,14世紀末頃まで,当初は,引渡が唯一の所有権の移転方法で あった。占有していない者が贈与しても,封建的占有の考え方が適用され て,土地の権利移転と同様に法的効果は生じなかった。動産の贈与が捺印 証書によって有効になったのは,14世紀末頃になってからであった32。売 買に関しては,13世紀において,2人の当事者の契約は,何の法的責任も 構成しなかった。買主はその代金の少なくとも一部を支払わなければ商品

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を請求できず,売主は,その商品を引き渡さなければその代金を請求でき なかった。12世紀後半のコモン・ローの立場は,手付が授受された契約の ごく例外的な場合を除き,商品の引渡し,又は代金の全部又は一部の引渡 までは,如何なる拘束的義務も存しないというものであった。しかし,13 世紀の欧州全体に通じた商慣習法(law merchant)の一つに,売買を法的 拘束力あるものとする慣行として,買主が売主にファーシング銅貨(4分 の1ペニー)等の少額通貨を手付金(God’s penny)として支払うという 習わしがあった。イングランドでも,そうした内容の契約は,ごく一般的 で自治都市裁判所や市場裁判所の記録に多く残されている。自治都市裁判 所は,このコモン・ローと商慣習法の対立に対処しなければならなかった が,商人の紛争には,商慣習法を適用していた。そして,14世紀末頃には,

Staughton v. Love 事件(1397年)において,国王裁判所は,手付金(earnest money)の支払がなくとも,完全未履行売買契約において,財産は,代金 支払の期日が決まり次第,財産は買主に移ることを確立する判決を下した。 同事件は,商品売主の遺言執行人が売主の妻にその商品を引き渡すように 説得した買主に対して権利侵害訴訟を提起したものであったが,売買は完 了したのに代金は支払われておらず,支払期日も決まっていなかったとい う特定的評決(special verdict)があった後,人民間訴訟裁判所(Court of Common Pleas)が原告勝訴の判決を下したものである33 しかし,14世紀末に,このようにコモン・ロー上の物品の売買契約法理 が整ってきたとはいえ,16世紀には,未だ,物品(動産)についての絶対 的な所有権は確立しておらず,人の保有の程度についての法的規制さえ知 られていなかった。当時の制定法は,人が保有することのできる羊の数や, 織元が所有する織機の数を制限していた。動産に関する所有権を確立して 売買契約の自由化を図るためには,「本王国のすべての自由な臣民は動産

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に基本的な所有を有する」という1628年の庶民院の決議さえ要したのであ る34

契約の自由と意思理論の台頭

1)契約の観念 イングランドでは,14世紀終盤に契約違反を訴えるための引受訴訟とい う訴訟方式が登場し,16世紀後半には,引受訴訟と訴答手続における約因 の立証の必要性との強固な関係が確立した35。そして,18年の Rann v. Hughes 事件((1778)Bro. P. C. 27)で,財務府裁判所によって,捺印証 書によらない契約には約因がなければならないことが宣明され,貴族院も これに従ったとされる36。また,契約が有効に成立するためには,約因の 他,当事者の契約締結意思が必要とされるが,コモン・ロー上,1518年当 時,「法が判断できない人の心の内面の意思」に関する要件として軽視さ れていた37 中世においては,契約は,今日のよりかなり狭く観念されていた。Orth 教授によれば,封建主義の時代には,すべての権利を具象化し,今日では 契約とされるものも財産とみる傾向があった。例えば,中世の人々は,大 修道院が与える部屋,食事,高齢者ケアなどの支給物の受領権(corody) を購入できたが,そのサービスの不提供は,サービス提供の約束違反では なく,無体物の侵害であると考えられ,不動産侵害の救済手段である新侵

34 Atiyah, op. cit., p.86.

35 A.W.B. Simpson, A History of the Common Law of Contract(Oxford 1975), p.406. 36 小宮文人「イングランドにおける労働立法とコモン・ロー −産業革命期ま

で−」専修法学論集135号191頁以下,201頁。

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奪不動産占有回復訴訟(assize of novel disseisin)で救済されたのである。 また,既に定期賃借権で見たように,土地の賃貸借は,契約ではなく,土 地不動産の財産移転(conveyance)であると考えられていた。Orth は, その理由を次のように説明している。 「不動産賃貸の約束的な要素は,いわゆるカヴァナント(*捺印契約)に よって扱われなければならなかった。カヴァナントは,数世紀にわたり独 立したものとして厳格に考えられていた。その結果,一方当事者による一 つのカヴァナントの違反は,他方当事者のもう一方のカヴァナントの不履 行を免責しなかった。相互に依存するカヴァナントがないから,契約は認 識できず,単なる関係ない約束の寄せ集めに過ぎない。不動産賃貸におけ る独立カヴァナントのルールに対する唯一の例外は,地代(rent)と占有 (possession)の交換であったと思われる。何故なら,一方の違反は他方 の否定を免責したからである。しかし,その明らかな例外は,法律家が, 財産から契約への転換の後に伝統的な不動産賃貸を理解する際に有した困 難を例証するに過ぎない。いわゆる賃貸料支払カヴァナントは,元来,約 束では全くなかった。地代は,地主が不動産賃貸に保留した土地の利益で あり,賃借人の約束によって創造されたものではなかった。」38 また,契約の理解の仕方も異なっていた。Atiyah によれば,イングラ ンドでは,伝統的に,契約は,相互的な権利と義務を伴う関係と考えられ ていたが,その関係が意識的かつ熟考的な意思行為により創造されるとい う含蓄は必ずしもなく,契約によってつくられた権利義務がその意思の創 造物であるという意味合いはさらに薄かった。すなわち,合意とは,今日 で言うような必ずしも契約関係の不可欠な部分ではなかった。宗教改革以 前に支配的だった,共同社会における共通の目的に対する人々の関係から 生ずる相互的義務によって,人が互いに結びつくという観念及び全人類が

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神と結びつくという観念は,宗教改革により人々の心に訴えなくなった。 宗教改革の後の契約理論は,その関係をそうした相互的義務ではなく,個 人の自由選択により創造され,かつ,それに依存するという考え方に塗り 替えたという39。中世の契約の考え方の裏にある経済関係は,多分に慣行 的なものであり,人々は共同社会においてそれぞれの場所と役割を有し, 各人の職業を合意ではなく慣行に基づいて選び遂行した。人々の経済活動 は,倫理的考え方によって拘束されていた。何を選択するかは,仲間と神 への義務と調和する形で行われた。取引は平等でなければならず,正しい 価 格(just price)が 存 在 す る と 考 え ら れ た。し た が っ て,あ る 価 格 で 買って,より高い価格で売るというのは悪とされた。15世紀末までは,高 利貸しはもとより,(現代的意味での)利息付のすべての貸付金は,少な くとも論理的には完全に禁止されていた。製造者は,その生産物を主に消 費者に売ることを期待され,共同体の中で取引のために買ったり転売した りしなかった。14世紀から18世紀までの賃金規制もこの考え方から理解で きるであろう40 2)契約の位置づけ 18世紀においても,イギリス法の法曹は,財産法に比して契約法を余り 重視しない,もしくは契約を財産法に従属させる姿勢を示していた41。す なわち,オックスフォード大学ではじめてイギリス法の講義を行った William Blackstone42の大著『イギリス法釈義(Commentaries on the Laws

of England)』(全4巻,2000頁を超えるイギリス法概説書)において,集

39 P.S. Atiyah, op. cit., pp.37―41. 40 Ibid., pp.61―67.

41 M. J. Horwitz, ’The Historical Foundations of Modern Contract Law’, Harverd L. Rev., Vol.87, No.5(1974),p.917, at p.20.

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中的に契約に費やされた部分は,第3巻30章の「贈与,譲与(grant)及 び契約」による人的財産の権限取得方法に関する30頁に過ぎなかった43 Blackstone は,これらは,財産移転である不動産の移転に何らかの形で応 えるものであり,そのうち,贈与又は譲与は不動産的財産(property in pos-session)を与え,契約は債権的財産(property in action)を与えるもので ある。」とした上で,契約については,合意,約因及び作為・不作為又は 異なる契約の種類を論じている。そして,人的財産(自由土地保有権以外 の財産)の権利を獲得する有益な契約として,売買契約,寄託契約,賃貸 借契約,金銭債務契約について,概説しただけである44。そして,双務契 約上,売主が動産引渡を行わなかった場合,買主は,その動産を押収し又 は売主の不法留置を訴えることができるとしている。また,Blackstone は, 第3巻9章「人的財産権の侵害」45においても,「財産権に悪影響を与える ような権利侵害の修復のために法が与える救済」として,契約違反の救済 について論じているが,「その主眼は財産権の侵害」の考察にあり,契約 自体を中心とする記述ではなかった(pp.145―165)。Athiya は,Blackstone の世界では,契約は,法制上,非常に小さな役割しか演じず,主に,財産 法の付属物に過ぎなかったと述べている46。したがって,Blackstone は, 雇用について,第1巻「人の権利」の第14章「主従」47に11頁を割いてい るが,「夫と妻」,「親と子」のような家族関係及び「後見人と被後見人」 という代用家族関係とともに,私的経済関係の権利・義務の一つとして主 従関係を整理している。ここにおいて,Blackstone は,雇用の契約的側面 よりも婚姻の契約的側面の多くを論じ,雇用関係も婚姻関係と同様に,契

43 D. Lieberman, ‘Contract before “Freedom of Contract”’, H.N. Scheiber(ed.), The State and Freedom of Contract, p.90.

44 Commenteries on the Laws of England, Book II, Ch. 30(1765), pp.440―469. 45 Book III, Ch.9(1769).

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約は雇用関係の入り口の問題として論じるに留まっている48。この点につ

き,Orth 教授は,次のように論じている。

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3)近代契約法 しかし,契約を重視する見解は,17世紀頃から徐々に社会に広がって いった。17世紀には,すでに,ホッブスやロックの社会契約的な議論が巻 き起こっていたが,ホッブスは,契約関係を取引の文脈で捉えており,! 契約は相手の履行が先であれば,それを喜んで受け入れ,その後,自身の 履行はしないというフリーライダーを止めさせなければならないこと,及 び,"価格は,買い手が支払う意欲のある価格で決まる,すなわち,正し い価格と契約対価の価値の平等を一掃すべきことを主張した50。これは, 正に契約を重視し,当事者の意思に基づく,取引の自由,すなわち契約の 自由の主張とみることもできる。 18世紀後半には,契約における当事者意思の重要性を重視した明確に重 視する裁判官が登場した。庶民院議員,法務総裁(Attorney−General)及 び王座裁判所首席裁判官を歴任した Mansfield である。彼は,スコットラ ンド旧家出身で大陸法的考え方に馴染みが強く,商事事件を多く取り扱っ たが,商事契約を支配するものは当事者の意思であることを繰り返し主張 した。彼は,広い領域の商事慣習を法に組込み,陪審を排して,法の予見 可能性を促進した51。Atiyah は,Mansfield の判決の幾つかに,19世紀初 めに台頭する意思理論の兆候を見出して,次のように論じた。 「Mansfield は,道徳と公平の慣習的考え方から生じる義務を,この新 たな意思理論に照らして再解釈する取り組みを開始しなければならなかっ た。そこにおいて,例えば,強制により作られた不公正な契約は,実際に は当事者意思に反して締結されたものであると主張した。そして,我々は, また,その判決を下した裁判官達と同じだけ Mansfield に負うところが明 らかに多い Chesterfield v. Janssen 判決を忘れてはならない。この影響力

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し,1870年までには,すべての契約に適用されるコモン・ローの契約法体 系がほぼ確立された。この証左として,Atiyah は,土地売買契約と婚姻 契約とを上げている。前者については,従来は,土地の買主が占有を取得 する前に転売することは,公序に反するとされていたが,19世紀後半には, 他の商品と同様に転売できるということになった。Noble v. Edwards 事件 ((1877)5 Ch.D. 378)で,Bacon 副大法官は,「土地の投機をする者は, 常に,そこから得られるだけの利益を得ようとする。彼の優れた能力に よって,自身が農場(farm)で働き,耕作し,改良することによって有利 な利益が上がると予測し得る場合,特に彼にとってそうする価値があれば, そうすることができるし,それぞれの判断で如何なる物でも彼から買って 彼に支払う如何なる物にとっても,それは大変価値のあるものであろう。 よりよく知られていることは何か?それは,この裁判所における日常的な 慣行だということである。」

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一般契約法理の展開

コモン・ロー上の一般契約法理はどのように発展してきたのであろうか。 ここでは,著者の能力からして,労働契約法の展開を理解するために必要 な限りにおいてその概要を論じるに留めざるを得ない。ところで,契約法 の発展をみるためには,コモン・ロー裁判所により形成されてきたコモン ・ロー(狭義のコモン・ローないし場合によっては「普通法」と呼ばれ る)のみならず,大法官裁判所で形成されて来た衡平法を考慮する必要が ある。なぜなら,契約法は,契約の自由と神聖さという厳格な個人主義的 見解を取るコモン・ロー裁判所と厳しい取引に適業できず又は取引上欺か れた者達の避難場所として良心の保護管轄をうち立てようとをする衡平法 裁判所の独特な均衡の下で発展してきたからである55 そこで,以下,近代的契約法理が確立されて行ったと思われる18世紀か

ら,(狭義の)コモン・ローと衡平法が最高法院法(Supreme Court of Judi-cature Acts, 1873 and 1875)によって統合された1875年までの時期におけ るコモン・ローと衡平法について,概観する。因みに,この時期は,衡平 法がコモン・ローと同様に判例によって,「技術的法體系として固定化し ていった時代」である56 1)コモン・ローと衡平法 衡平法とは,ノルマン王朝下で,古来イングランドの慣習を尊重する建 前で,王国全体に関する事項について一般的慣習を適用するものとしてコ モン・ロー裁判所(国王裁判所)によって漸次形成されてきたコモン・ロ

55 W. R. Cornish & G. de N. Clark, Law and Society in England, 1750―1950(London, 1989),p.202.

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ーと区別される法体系である57。国王は裁判権の一部を裁判所に委任,残 余は主として王会(Curia Regis=国王を補佐する「バロン」と呼ばれる 直臣貴族からなる)が行使してきたが,コモン・ロー裁判所の判決に満足 しない人たちは,国王又は王会に請願をするようになった。その後,王会 は,諸事情から,その権限を聖職者であり国王の秘書たる大法官 (Chancel-lor)に委任した。大法官の書記達の一団が12世紀の末に王会の一部局と しての大法官府(Chancery)となり,1474年に,大法官は,王会から独 立して,裁判権を行使した58。14,15世紀にローマ法やカノン法に精通し た聖職者が大法官府の衡平法裁判権を行使し,カノン法における福音書的 勧告をモデルにしてコモン・ロー裁判所が与えることのできなかった新た な救済を良心と裁量によって与えるようになった59。その救済を求めた原 因は,コモン・ロー裁判所は厳格な定式(令状)による訴訟のため新しい 事態に対処できないことや社会的地位や陪審の買収・威嚇等による不当な 手続のため正当な裁判が望めないことなどにあった。衡平法は,良心と公 正を重視し,裁判官の裁量によるところが多く,法的安定性より具体的妥 当性を重んじた柔軟な救済が可能という特質を有し,信託法,譲渡担保の 法理,禁反言の法理,不実表示,詐欺,強迫,不当威圧,差止め命令,宣 言的判決,特定履行などの形成に貢献した60。15世紀後半から衡平法裁判 所とコモン・ロー裁判所の対立が表面化し,コモン・ロー裁判所で得た判 決の執行につき,衡平法に反するとの理由で衡平法裁判所にその執行の禁 止命令を求め得るかという一大論争に発展した。その後,最高法院法(Su-preme Court of Judicature Acts, 1873 and 1875)によって,それぞれの独

57 田中英夫等編『英米法辞典』(東京大学出版会,1991年)165頁。

58 末延三次『英米法の研究(下)』(東京大学出版会,1960年)393頁,415頁。 59 高友希子「15世紀後半から16世紀前半イングランドにおける大法官裁判所の役

割」九大法学89号(2004年)12頁。

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立した裁判所が廃止されて,統一された最高裁判所が設立され(後に,高 等法院と控訴院に分かれる),衡平法もコモン・ローも同一の裁判所に よって適用されるようになった61 2)コモン・ロー裁判所 (a)契約の締結 16世紀に発展した引受訴訟には,訴えの基礎である約束の表明と訴訟を 可能にする約因が必要であった。2当事者の将来の履行の約束からなる完 全な未履行契約においては,2つの独立の約束の代わりに,申込みと承諾 にという概念が使用されるようになった。その最初のものは,「すべての 競売は,同意されるまではいずれの当事者も拘束しない一方当事者の申込 み 以 外 の 何 も の で も な い」と し た1789年 の 競 売 事 件(Payne v. Cave (1789)3 T. R. 147)であり,その法理がより明確にされたのは隔地契約 すなわち郵便による契約が一般的となった19世紀の初めであった。例えば,

Adams v. Lindsell((1818)1 B & Ald 681))事件において,原告が承諾を 郵送したとき意思の一致があったと判示された。約因は,捺印証書によら ない裸契約に対する取引当事者の責任を制限するため,より一層厳格に定 義されるようになった。また,当事者の「合意」は,商業的な便宜から客 観的な概観によって判断された(契約意思の客観主義)。 18世紀には,コモン・ロー裁判所は,運送人に商品を引受どおりに運送 する厳格な責任を課していた。例えば,海外の港に輸送する荷物をテーム ズ川で積み込んだ一般船の船長が強盗に襲われて積荷を強奪され,船長の 賠償責任が問われた Barclay v. Cuculla y Gana 事件((1784) 3 Doug. 389)では,船長側は,従来から一般運輸業者は強盗による損失にも責任 を負わされてきたが,自分は一般運輸業者ではなく契約運輸業者であり,

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本件では,王国の慣習においても,また強盗の場合に責任を負う明示の引 受もなかったと主張した。しかし,Mansfield は,「この事件を一般運送 業者の場合と区別することはできない。その原則は一見,厳しいように見 えるが,政策原理として確立されており,一旦確立されたとき,誰もがそ れに従って契約するから,全く厳しくはない。」と述べた。しかし,同世 紀末には,一般輸送業者がその店舗,代金請求書,新聞広告等にその責任 を完全に排除する文言を明示することが一般的な慣行となった。これに対 し,裁判所は,輸送業者に特別の責任排除の約定を認め,Elleborough は,「運輸業者があらゆる蓋然性の下において商品を持ち込む者の注意を 喚起する広告によって,その条項を知らしめたのであれば,その商品はそ の条項に基づいて引き渡されることになる」と判示した62。免責通告を事 務所に掲示するだけで,相手がそれを読めない場合もあるから,その場合 には,運送業者はその意思を他の方法で伝えなければならないとされた63 しかし,19世紀の後半には,商品が引き渡されるときに渡される領収書に, 免責条項が含まれていれば,それが読まれ,理解されたという証拠がなく ても十分とされるようになった。例えば,鉄道旅行の切符を購入したこと だけで,鉄道会社が旅客の期待に導いた時間に列車を出発させる義務を負 うか否かが争われた Hurst v. the Great Western Railway Company 事件 ((1865)19 C. B.(N.S.)311)では,旅客は,鉄道時刻表に書かれた条件 を読むよう期待されていたとされた。また,Wtkins v. Rymill 事件では, 原告が売り物の軽四輪遊覧馬車を被告の保管所に届けたが,領収書には「構 内に表示された諸条件に服する」と書かれていた。その条件の一つは,支 払ったすべての経費を1か月以上据え置いた場合,被告は届けられたすべ ての財産を売却する権限を有するというものであった。原告は,その領収 書を読まなかったが,被告は,売却権限を行使して,軽四輪遊覧馬車を売

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却した。女王座裁判所の Stephen 裁判官は,「(受領書の交付)は,それが 差し出す当事者の申込を構成する。それが差し出される者によって異義な く受け入れられるなら,その者は,一般原則として,その内容によって拘 束され,その者が当該文面を読みあるいはその内容について熟知している か否かにかかわらず,その者の行為は,なされた申込の承諾となる。」と 判示した。同様に,裁判所は,企業が責任を限定又は排除する「小さな文 字」を含める仕組みを設けることさえ,「意思の一致」と認めるように なった64。こうして,裁判所は,免責条項を文面どおりに解釈し,公序が 問題とされる余地はなかった65。例えば,馬の輸送中の重過失で馬を酷い 損傷を与えた鉄道会社に対する損害賠償につき,免責条項の効力が争われ た Carr v. the Lancashire and Yorkshire Railway Company 事件((1852)7 Ex. 706)において,財務府裁判所の Parke 裁判官は,「運輸御者は,現代 において曝されている輸送の新たなリスクと危険から自身を守る目的で取 り決めを作ること非常に合理的である。馬は大きなリスクと危険なしに鉄 道で輸送されない。・・・如何なる原因によろうとも,会社が鉄道輸送中 の如何なる種類の家畜に生じた負傷や損害にも責任を負わないという。し たがって,これは,原告を輸送のすべての事故と損害を負う者とする契約 なのである。そして,輸送される物の性質をみるなら,この取り決めには 何の不合理もないことは確かである」と述べた。 契約の客観説は,申込と承諾の条項に注意を集中させることに資した。 最高法院法(1873年,1875年)以降になると,交渉過程での不実表示は, 実際の条項によって保証されなければ法的効果はないという考えに結びつ く。売買契約において,売主がその財産について有効権原(good title) を有するという黙示の保証があるとする考え方を確立した。商品は,買主 が自分で検査する機会がない情況のもとで少なくとも売買に適する品質を

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有しなければならないとされるようになった66。商品の見本や記述書で売 られた商品はそれに見合った品質が備わったものであり67,買主の用途を 知って売られる商品はそれに見合ったものである必要があるとされた68 引受訴訟の出現以降,契約の強制を主張する当事者は,その約因として, 相手方が得る利益又は自身の損失を証明しなければならなくなった。しか し,18世紀の後半,王座裁判所の Mansfield 裁判官は,不可欠とされる 約因に対して,開放的な姿勢を示した。まず,Pillans v. Van Mierop 事件 ((1765)3 Burr. 1663)において,!約因は証拠原則に過ぎず,商業的契 約は書面による限り強制可能であるとし,また,Hawkes v. Saunders 事 件((1782)1 Cowp.289))事件では,"家族への贈与の約束も自然の愛と 有効という有効約因(good consideration)によって支えられるとした。 しかし,!の見解は,Rann v. Hughes 事件((1778)7 T. R. 350., at the note (a)of Michinson v. Hewson.)によって否定された。同事件判決は,次の

ように論じた。すなわち,「イングランドの法により,すべての契約は,捺

印証書契約(agreement by specialty)と口頭契約(agreements by parol) に区別される。いくらかの法廷弁護士が維持しようとしてきた,書面契約 という第三の種類など存在しない。単に文書化されたもので捺印証書契約 でなければ,それは,口頭契約であり,約因が証明されなければならな い。」これに対し,"の見解は,半世紀以上にわたり批判を受けつつ完全 には否定されなかった。しかし,最終的に,Mansfield の!と"の見解 は,すなわち,約因は証拠原則に過ぎず,また道徳義務の同義語に過ぎな いという見解は,いずれも,1840年の Eastwood v. Kenyon 事件((1840) 11 Ad. & E. 38)の王座裁判所の判決によって,否定されることになった。 同事件は,未成年の娘 A の後見人である原告は,彼女の教育とその不動 66 Ibid., pp.205 ―206.

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産のためにお金を費やした。A は,成人したとき原告にその経費を払戻す と約束した。その後,A は被告と婚姻し,被告も支払を約束した。原告は この約束に基づいて,被告を訴えた。同裁判所の Denman 裁判官は, 訴えを退け,その訴えの根拠とされた道徳義務の原則を非難した。同原則 を否定することがコモン・ローの純粋かつ原初的な法理を回復することに なるとした。すなわち,同原則は,「約束したという事実だけがそれを履 行する道徳義務をつくり出す限り,約因の必要性をなくすことになる。し かし,そのような約束を法的に強制することは,すべての誠実な契約を有 効とする思いとどんなに調和しようとも,社会に対する有害な結果,すな わち,正当な債務に対する請求よりも任意の引受を多くの場合重んずるこ とになる。それは,訴訟を増加させ,任意の引受を増加させ,真の債権者 達を侵害する」と論じた。こうした考え方をすれば,第三者は,当事者の 約束当事者に対する有効な約因も有しないから,契約上の責任も負わない というコモン・ロー上の契約原則の一つである直接契約関係の原則(priv-ity of contract)も説明可能となる69 (b)意思表示の瑕疵 上記のように契約責任は極めて厳格に解されていたが,一定の種類の 人々はその例外としての保護を受けていた。2 1歳以下の未成年者(in-fant)及び妻がその典型であった。これに加えて精神病者や酩酊者も同様 であったが,19世紀の契約意思の客観主義は,この例外を限定し,相手方 が契約の無効を主張できるのは,契約時にその者達が契約意思を形成でき ないことを知っていた場合のみとした70。錯誤又は強迫による契約の無効 も契約を神聖視するコモン・ロー規範の下では容易に認められなかった71

69 Cornish, op. cit., p.208.

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その例外は,契約の基礎を全く変えてしまう基本事実の錯誤の場合であっ た。例えば,既に死亡していた人に契約当事者がそれと知らず生命保険を 掛ける契約をした場合72や海上輸送中の穀物の売買につき,当事者に知ら れていなかったが,契約締結時には既に穀物が発酵して途中陸揚げされて 売却されてしまっていた場合73であった。 そして,例えば,その商品や労務の性質に関する錯誤を考慮することは, その結果が過剰評価や過小評価となっても,許されなかった74。威圧につ いても,強迫は,厳格に定義され,契約の相手方による契約者の人の生命 又は身体に対する物理的圧力を加えるものに限定された75。例えば,地代 滞納を理由に地主が動産を差押えて売却しようとしたのに対し差押えの解 除のため地主の要求どおりの支払合意をした場合は差押えが不法であって も強迫とならないとされた76。他方で,相手方の契約締結意思決定に影響 する誤解を生じさせる虚偽の表示(不実表示)については,悪意不実行為, すなわち詐欺(表示者が虚偽であることを知っている場合,真実と信じて ない場合又は真実か否かを顧慮しない場合),善意不実行為(真実と思っ ていた場合)を問わず,相手方は契約を取り消すことができるとされた77 また,真実でない事実の表明を行い,相手方がそれを信頼して行動した後 にその表明が真実でないとして,客観的真実を主張できないという証拠法 則(表示による禁反言)も19世紀後半には確立されていた78

71 Cornish, op. cit., p.211.

72 Strickland v. Turner(1852)7 Ex. 208. 73 Couturier v. Hastie(1856)5 H. L. C. 673. 74 Cornish, op. cit., p.211.

75 Atlee c. Backhouse(1838)3 M. & W. 633. 76 Skeate v. Beale(1840)11 Ad. & E. 983. 77 Derry v. Peek(1889)14 App. Cas. 337.

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(c)契約の履行 17世紀の契約責任は,契約義務の厳格な固執を求めていた。不可避の事 故でさえ,明示条項で責任回避できる旨を定めない限り,契約責任は生じ るとされる,いわゆる絶対契約(absolute contract)の法理が支配してい た。その理由は,「その場合に対しては,自己の契約によって対処してお くことが可能だからである」とされた79。すなわち,明示条項がなければ, 不可避の原因によっても責任を免れない。このルールの厳格さを緩和する ために19世紀後半に導入されたのが,いずれの当事者の責任でもない不可 避的な原因による契約の突然の停止は,契約を終了させ,両当事者を解放 するとするフラストレーションの法理である。この理由付けとして用いら れたのは,「黙示的条件(implied condition)」という考え方であった。音 楽会のために音楽会館を借りる契約をしたが,約束日の数日前にその会館 が 当 事 者 の 責 め に 帰 さ な い 火 災 で 焼 失 し た Taylor v. Caldwell 事 件 ((1863)3 B. & S. 826)において,女王座裁判所の Blakburn 裁判官は,「当 該契約は絶対的な契約ではなく,契約違反前に当事者の責めに帰すことの できない事由によってその物が消失したために履行が不可能になったとき は,当事者には債務を免れるという黙示的条件に服するものと解釈されな ければならない」と判示した。そして,間もなく実際に文字通り「履行が 不可能」になったとはいえない場合にもフラストレーションが認められる ようになった80 ところで,上記の「黙示条件」は,「黙示条 項(implied terms)」で あ るが,これには,裁判所が個別の契約においてその諸般の事情から当事者 の 意 思 表 示 を 導 き 出 す「事 実 に お い け る 黙 示 条 項(implied term in 79 Paradine v. Jane(1647)Aleyn 26.

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fact)」と法律類型等によって一般的に意思表示を法的に擬制する「法律 における黙示条項(implied term in law)」(上記の「黙示条件」はこれに 該当する)がある。後に言及する準契約(quasi−contract)も同様に法的 擬制であるが,裁判所が明示の契約条項を発見できない場合に,紛争解決 上用いるものである。とりわけ,法律における黙示条項や準契約は,契約 条項に客観的に表れた厳格な当事者意思を要求するコモン・ローの意思理 論と矛盾するようにみえるが,妥当な紛争解決に欠かせない手段して,頻 繁に用いられている。 さて,コモン・ロー上,契約当事者の履行は相手方の完全な履行を条件 とするので,他方当事者は不完全な履行をしても何も得られない81。した がって,仕事に対して報酬を支払う契約は,明示の定めがない限り,仕事 の完成後に報酬が支払われるものとされる。したがって,例えば,Appleby v. Myers 事件((1867)L. R. 2 C. P. 650(Court of Exchequer Chamber) において,原告は,建物に建物を取り付ける契約を締結し,取り付け工事 を始めたが,その工事の完成前に偶発的火災によってその建物と機械が消 失した場合,原告は,分割払いの合意がない限り,後述のクオンタム・メ リット(quantum meruit)も含め,その仕事に関する何らの請求もできな いとされた。この完全履行前提のルールが明確に制限されたのは,実質的 履行があれば,相手方は損害賠償請求しかできないという実質履行(sub-stantial performance)の法理によってである。すなわち,売主の義務は, 単に,買主に損害賠償の権利を与えるだけで,買主自身に履行拒絶の権利 を与えない付随的条項(warranty)に分類されることになった82。もっと も,このことが判例上明言されたのは20世紀に入ってからであった83

81 Cutter v. Powell(1795)6 Term Rep 320. 82 Cornish, op.cit. , p.213.

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一方当事者の契約義務違反があった場合,相手方当事者は,違反がなけ れば生じたであろう損害額を緩和する合理的な措置を講じなければならな いというルール,すなわち損害軽減原則(mitigation)が生まれたが,こ れは,損害額決定のための陪審の判断を待たなければならない要素を事前 に定めるために必要だった84。損害賠償の問題は18世紀の後半までは陪審 の問題であったから,損害軽減の原則の起源はほとんど知られていなかっ た。もともと,原告は,被告の約束の全価値を訴求する権利があると理解 されていた。Atiyah は,その起源を次のように推測する。同原則は,原 告が他に履行を求めて,その不足額を訴求することを認めたことから始 まった。続いて,原告が損害を軽減しなかったが,陪審が,原告は他に履 行を求めて,その不足額を訴求するべきであったと判断して損害額を評 決する権限を認めたことから始まったと推測する。1824年の Gaisford v. Carroll 事件((1824)2 B. & C. 624)において,売主がベーコンの引渡を しなかった場合,買主は直ちに市場で必要量を購入しなければならなかっ たのに,そうしなかったのであるから,買主はその後の市場価格の値上が りについて損害を回復することはできないと判示された。そして,19世紀 中葉までには,損害軽減の原則は,契約法のほとんどにおいて一般原則と して確立されたのである85 契約義務に違反すれば,相手方は損害賠償を請求できるが,19世紀後半 には,一方の当事者が契約の重大な違反(基本的条項(condition)の違 反)を行った場合には,相手方には自己の責任から解放されたもの取り扱 う権利(解除権)が生じるとされるようになった86。逆に言えば,重大と はいえない違反(付随的条項(warranty)の違反)を行った場合には解除

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できないとする法理が形成された87。もっとも,現在では,基本的条項と 付随的条項の区別よりもその違反が契約の根底に達するものか(違反の影 響)の方が重視されている88。19世紀後半には,ある条件の違反に関し, 相手方は,履行期日の前であっても契約を解除して自己の出費又は履行 利益の損害賠償額を訴求する権利を有するとする履行拒絶の法理が確立さ れた。履行期前の契約の履行拒絶については,Hochster v. De la Tour ((1853)El & Bl 678)事件が最初の判例と考えられている89。この事件は, 同事件では,被告は,3か月海外旅行の従者として原告を雇用するという 契約を被告と締結したにもかかわらず,被告は,その旅行開始前にもはや 原告を要しないとして,賃金を支払わなかったというものであった。これ に対し,女王座裁判所主席裁判官 Champbell は,次のように判示した。 「ある将来の日にある行為をするという契約がある場合,その契約に よって当事者間の暫定的な関係が作られ,その期間いずれの当事者もその 関係に矛盾して相手方に損害を与えないことを黙示的に約束している。 ・・・被告の契約否定の通告後,原告がその違反によって被った損害を訴 求する権利を維持しつつ,その契約の将来の履行をから解放されると考え るのは自由であるとするのは,確かにずっと理に適ったもので,両当事者 の利益にもなる。・・・契約を否定して,その契約を履行することを絶対 的に否定した後,その被告が,他方で,自分の主張が信じられず,変心の 機会を与えれられないことに異を唱えることが許されるべきであるという のは奇異と考える。」 87 石田眞『近代雇用契約法の形成』(日本評論社,1994年)180頁;M. R. Freedland, the Contract of Employment(Oxford, 1976),pp.206―208;田中和夫『英米契約法(新 版)』(有斐閣,1965年)178―183頁,189―191頁。

88 M. Furmston, Cheshire, Fitoot & Burmston’s Law of Contract(16thed.)(Oxford, 2012),pp.195―205.

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(33)

実にあったといえよう。しかし,契約違反者の責任の範囲の決定において, 主な要素として予測可能性概念を導入したことは特に奇妙ではなかった。 一つには,同様な考え方は,既に Pothier の『義務の法』において提示さ れていたし,また彼の言葉と Hardley v. Baxendale 判決で裁判所が用いた 言葉を比較すると借用の可能性が示唆されるからである。しかし,より一 般的に,人がその予測可能な結果に責任を負うという観念は重要であり, たぶん,功利主義哲学の不可欠な部分でもある。」92 (d)準契約 17世紀の初めに Slad’s Case93において,金銭債務返還訴訟の代わりに引 受訴訟を提起することが認められると,この債務負担引受訴訟(indebitatus assumpsit)は,単 純 契 約(裸 契 約)の み な ら ず,準 契 約(quasi−con-tract)にも拡張された94。すなわち,当事者間に合意がない場合にも,引 受を推定するようになった95。こうして認められるようになった準契約上 の救済として,次のようなものがある。!錯誤に基づく金銭支払の場合, "無効な契約又は不法な契約に基づいて金銭が支払われた場合,#約因が 完全に不成就の場合,$強迫,不当威圧,表見上の職権行使の下で金銭が 支払われた場合,%他者の要請を受けて第三者に金銭を支払った場合,第 三者の要請があれば金銭を支払う旨を約束している場合,&不法行為によ り不法行為者が金銭上の利益を得ている場合,これらの場合は,その支 払った金銭の返還を請求できる。また,'契約に基づき労務を提供した後, 契約が取り消され,又は,無効であった場合,既になされた労務に相当す

92 Atiyah, op. cit., p.432.

93 同判例については,小宮・前掲論文・専修法学論集135号199―200頁参照。 94 わが国における準契約法理の体系的研究書として,小林徳武『英國準契約法』(千

倉書店,1960年)がある。

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る金額(クオンタムメリット)を請求できる96。同様に,!価格について

明示の合意をせず,商品を買った場合,契約に基づかず,価格相当額 (quan-tum valebat)を請求できる97。Mansfield は,準契約の根拠を衡平と善(ex

aequo et bono)に求めたが,当事者の黙示の契約にその根拠を求める者 が多い。因みに,Blackstone は,後者の見解を取っていたようである。彼 は,黙示契約には三種類あるとし,「黙示契約の第二の種類は,裁判所の 明示の決定または制定法の積極的指示からではなく,必然的理由及び法の 正しい解釈から生じるようなものである。その種類は,すべての推定的引 受に拡張される。その推定的引受は,実際には行わないが,人は自身の義 務ないし正義が要請するものを引き受けた」98とする。 (e)コモン・ロー裁判所の契約法理形成の役割 以上のように,コモン・ローは,契約の締結要件を厳格に解するととも に,契約の内容解釈については,当事者の意思を契約条項の文言どおりに 厳格に解釈してきた。当事者の主観的意思や契約に係る諸事情を重視せず, 当事者の交渉力や社会政策的な配慮を排除してきた。当事者の主観的意思 を重視しない傾向は,錯誤や強迫を容易に認めないことによっても裏付け られる。契約の履行についても,厳格な履行を要求するが,他方で,その 不履行の救済は損害賠償に限定し,損害額算定に関しては,特別なリスク については契約上の明示されない限り認めず,相手側には損害緩和義務を 課することによって損害額の拡大を制限した。これらは,契約違反につい ての裁判所の役割を限定する結果となっているとみることもできる。やや 特殊なのは,当事者の客観的な意思が不明な場合に,当事者間の利益を調 96 砂田卓士・新井正男編『英米法講義』(青林書院新社,1971年)187―194頁(佐藤 正滋執筆部分。

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整する役割を担う準契約である。しかし,これも一種の黙示的な合意とし て構成された。この制度の特殊性から,準契約の法的根拠を衡平法と同様 に衡平と善に求める有力な見解も存した。しかし,一般には,「人は,自 身の義務ないし正義が要求するものを引き受けた」とされていた。 Cornish 教授は,1875年以前のコモン・ロー裁判所の契約法理の形成に おける役割を次のように論じている。曰く,「コモン・ローは,交渉を逞 しい商業活動とみる一般的な契約の捉え方を発展させた。個人は,自身で 注意し,無防備のリスクは自らが負担すべきである。・・・その本質は, 常に,裁判所の役割を,まずは取引の不可欠な特質を確定し,次に合意が 達成されるべきことを強調することに限定することであった。商品,労務 及び労働の自由市場へ介入することが立法府と官僚の役割でない以上に, 契約の自由を制限することは,明確に定められた状況にある場合を除き, (裁判所を通じた)政府の役割ではなかった。とくに,裁判所は,不道徳 又は公序を理由として取引を違法無効として取り扱うことを嫌った。」99 3)衡平法 (a)義務の創造 衡平法の道徳的前提は,信託(trust)を尊重する必要性であり,信託の 受益者に衡平法上の財産的利益を与えることによって特別な意義を獲得し てきた寛大な考え方であったが,同時に,他人の言葉への信頼,誠実(good faith)の期待が存する諸事情の下での衡平法上の義務もある。ただ,good faith は,大陸法とは著しく異なって,衡平法上も,信認関係(fiduciary re-lationship)を有する場合に限られ(Mansfield 卿裁判官は,海上保険に関 する Carter v. Boehm 事件((1766)3 Burr 1905)において,すべての保 険契約は契約当事者の相互的な最高信義(uberrima fides)を伴い,被保

(36)

険者は契約締結リスク計算に影響する自身が知っているすべての事情を契

約締結前に保険業者に知らせる義務を負うと判示した),契約一般に黙示

的には認められてこなかった100。しかも,相手の信頼又は利益を配慮する

ような義務を課するようなものではなかった。因みに,クリーン・ハンズ の原則は,Dering v. Earl of Winchelsea 事件((1787)1 Cox 318)におい て,財務府裁判所の Eyle 首席裁判官が「人は,衡平法裁判所に来るには 手が汚れていてはならない。」と表現したように,衡平法上の救済を求め る場合にのみ適用されるものである。この原則の適用は,イギリスよりも むしろアメリカ合衆国やカナダにおいて盛んに議論されている。 衡平法と契約の関係は,伝統的に取引における商品と労務よりも多く土 地と家族財産の取引に関係していた。特に,縁組みの高度な家族政治にお いて,贈与の約束はいろいろな情況で法的効力を有すると考えら得ていた。 例えば,事後取得不動産を処分する婚姻承継的不動産処分証書(marriage settlement)の条項は,その実際の当事者だけではなく,受益者として記 載された他の「考慮の範囲内にある」者達(婚姻者の子供,更には孫)に よっても強制できたし,その証書に一部ではないその他の約束も,婚姻後 に特定された表明であれば,同様に有効とされた。土地購入者は,契約が 認めるより多くの時間をその有効権限を証明するために売主に与えた場合 は,元の期日まで遡る権利を有しなかった。地主が,借地人に修繕時間の 制限に固執しないと思わせた場合も,同様であった。衡平法は,コモン・ ローの約因を有し,詐欺防止法(Statute of Frauds 1677)に適合する種類 の契約であることを証明する必要はなく,その約束を有効とするためには 何が必要かは,専ら情況によっていた。実質的正義の達成のため,救済は 衡平法裁判所の裁量で創造されると考えられていたからである101

参照

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