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龍谷大学佛教学研究室年報 第19号(2016) 002打本 和音「『観弥勒菩薩上生兜率天経』の成立をめぐって 『中阿含経』「説本経」をてがかりに」

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『観弥勒菩薩上生兜率天経』の成立をめぐって

―『中阿含経』「説本経」をてがかりに―

打本

和音

0.はじめに

弥勒に関する数ある経典群のなかで,現在世において兜率天に滞在中の弥勒菩薩 へ救済を願うありかた,いわゆる「上生信仰」について詳細に説く経典は『観弥勒 菩薩上生兜率天経』(以下,『上生経』)をおいてほかに知られない.そのため,本経 は「上生信仰」唯一の所依経典として,歴史的にも,そして研究史のなかでも重要 な役割を担ってきた.「上生信仰」を語る上で必ず言及されることから,『上生経』 に付帯されたイメージが従来までの研究史における「上生信仰」像を形づくってき たと言っても過言ではない.ところが,肝心の『上生経』については,その詳細が ほとんど明かされていない.弥勒経典の研究は,未来世に閻浮提で作仏する弥勒如 来への信仰,いわゆる「下生信仰」についての関連経典(以下,下生経類)が数多く 指摘されていることから,比較研究が中心となってきたこともその遠因である.『上 生経』は内容,訳経数ともに独立した立場をとっており,弥勒経典研究における従 来の研究手法は適用できない. そこで本稿では,『上生経』が六観経のひとつとしても見なされてきた点に改めて 注意をむけつつ,本経の成立背景について考察を行う.タイトルに「観」の字をい ただく経典群は,インド撰述に疑問がもたれて以来,主に『観無量寿経』を中心に 研究がすすめられてきた.なかでも先行研究による『観無量寿経』の経文に別々の 経典の要素が混在しているとの指摘は,『上生経』について考究していく上でも示唆 に富む.本経中に散見される不自然な訳語や不可解な文脈は,『上生経』が成立にあ たって既存経典を参照したことの名残といえ,『上生経』の構成要素を探る際の重要 な導となる.なかでも,本稿では優波離による弥勒への不自然な評価に着目して考 察を行う.優れた菩薩として『上生経』中に登場する弥勒を,対告者である優波離 が凡夫と断じる場面は歴代の学僧達によって問題視されつつも,深く検証されるこ

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1 『出三蔵紀集』の記述にしたがえば,沮渠京声が高昌で訳出し,宋の孝武帝時代 (452-464)に都である建康へもたらしたことがわかる.なお,彼が将来したとされる経典 のうち,高昌訳出とされる二経以外は孝建二年(455)の訳出とされており,建康に至っ たのがそれ以前と考えると本経は455 年以前に訳出された可能性が高い. 「 觀彌勒菩薩生兜率天經 一卷 或云觀彌勒菩薩 或云觀彌勒經 觀世音觀經 一卷 禪要祕密治病經 二卷 宋元孝建二年 於竹園寺譯出 佛母般泥洹經 一卷 孝建二年 於鍾山定林上寺 譯出一名大愛道般泥洹經 右四部凡五卷.宋孝武帝時僞河西王從弟沮渠安陽侯京都譯出.前二觀先在高昌郡久已譯出 於彼齎來京都」(T55, No. 2145, p. 13a) とはなかった.本稿では説一切有部所伝とされる『中阿含経』「説本経」のイメージ を援用することでこの場面の再解釈を試み,『上生経』成立の一側面を明らかにする. そのうえで,本経の成立を促した文化基盤についても若干の試論を述べたい. 「上生信仰」が『上生経』に少なからず依拠する形で解釈されてきた歴史を鑑み れば,本経の検証は「上生信仰」の実体を究明する上で必須である.経文中にみら れる他経典の要素を摘出し,『上生経』のルーツを探る作業を,本経を弥勒信仰史の なかへ適切に位置付けていくための布石としたい.

1.弥勒信仰と『上生経』

弥勒は現在兜率天におり,はるか遠い未来,地上に下って人びとを救済するという.釈迦 に次ぐ未来の仏陀である弥勒への信仰は,汎アジアに伝播し,時代や地域に応じて様々に 変容し,受容された.この複雑な様相を呈する弥勒信仰の形成過程や思想の変容を明らか にする試みは,主に文献学が牽引してきた.弥勒経典の編年研究により,「下生信仰」興起 ののち,「上生信仰」が確立したものと考えられている.弥勒信仰に関する経典群を参照す れば, 2 つの救済の時と場所は別々に説かれており,かつ,前者の内容は早くも阿含経類 のなかで登場するためである.そこで,弥勒信仰の研究,とりわけ初期相を考究する上 では,信仰を「上生信仰」と「下生信仰」のふたつに区分する研究手法が長らく採 用されてきた. このうち,「上生信仰」を検証する際に第一の資料として挙げられる『上生経』は,455 年頃に沮渠京声(生没年不詳)によって建康にもたらされたとされる 1 .弥勒六部経の ひとつ,そして六観経のひとつとしても歴史的に一定の価値をおかれ,5 世紀以降 数々の注釈書も作られた. 舎衛国の祇樹給孤独園において優波離の質問に対し釈迦が返答する形式で展開す

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る本経では,釈迦の会衆にいた弥勒という比丘が命終わった後兜率天に生じ,将来 閻浮提に下生することが説かれる.基本的には兜率天世界の絢爛たる様子や兜率天 へ生じる方法とその功徳などが説かれており,他の弥勒経典で弥勒が将来下生作仏 した閻浮提の様子を詳細に説くありかたとは大きく異なる.そこで,『上生経』に説 かれる内容は他の弥勒経類とは一線を画しており,数ある弥勒経典のなかでも独立 した経典とのイメージを持たれてきた.一方で,兜率天での弥勒について子細に説 くまとまった経典は本経のみであることから,従来「上生信仰」像は本経に少なか らず基づく形で形成されてきた.ところが,『上生経』に依拠して想定されてきた「上 生信仰」は,その教義解釈については一定の検証がなされたが,動作主たる実際に 信仰に携わった人びとの動向は等閑視されてきた傾向にある.いかなる人びとが信 仰活動に携わり,いかなる土地で思想が形成され,発展してきたのか.各地域,各 時代における人びとの営みを示す資料で従来の研究成果を補えば,実際に展開して いた信仰のありようを時系列に沿ってより鮮明に浮かび上がらせることも可能とな ろう. 「上生信仰」の形成と展開の過程を歴史的文脈に配置するために,まずは『上生 経』について知らねばなるまい.本経の評価が少なからず「上生信仰」に対する評 価として読み替えられてきた現在までの研究状況を鑑み,従来の「上生信仰」像を 把握するためにも『上生経』についての大まかな研究動向を整理したい.

2.『上生経』の評価

以下では,本経に対する従来の評価を大きく二点に着目して整理する.すなわち, (1)大乗経典である,(2)弥勒経典群のなかでは後期の成立である,という点であ り,まずはこのようなイメージが形成された理由を概観したい. 2-1.大乗経典としての『上生経』 『上生経』が大乗仏教の経典として強く意識されてきた理由は何点かある.「如是 我聞」から始まり,説法の場所や会衆を列挙するといった大乗経典の形式をとるこ ともそうだが,とりわけ決め手となってきたのは阿含経類からのプロットの借用が 見られない点だろう.一方,先述の通り下生経類には多くの異訳経類が指摘され,

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2 ただし,ここでは螺王についての行状を説くことに主眼がおかれ,弥勒の出現が突如と して説かれていることから,本来は弥勒の成道は必要なく転輪聖王説話に組み込まれる形

で成立したものとみられる;『長阿含経』巻6・第 6 経「転輪聖王修行経」(T1, No. 1 , pp.

39a-42b);dIgha-nikAya, 26 cakkavatti- sIhanAda-suttanta(DN. III, pp. 58-79)

3 西晋・竺法護訳『弥勒下生経』(T14, No.453, pp.421a-423b)本来は 303 年ごろ訳出か.た だし,現在法護訳として大蔵経などに収載される本経は,僧伽提婆訳『増一阿含経』巻44 ・第48(384-5 年?)との内容の一致が指摘されることから,本来の法護訳は失われ,『増 一阿含経』の内容が借用されたものと考えられる;後秦・鳩摩羅什訳『弥勒菩薩下生成仏 経』(T14, No. 454, pp. 423c-425c)401-2 年ごろの訳出か;唐・義浄訳『弥勒下生成仏経』 (T14, No. 455, pp. 426a-428b)701-3 年ごろの訳出とみられる.また,本経には,梵本 maitreyavyAkaraNa の存在が指摘されているほか,Lévi によってネパール本,Majumder によ ってキルギット本がそれぞれ発表されている;Lévi, S. [1932] Maitreya le consolateur, Études

D’orientalisme, La Memoire de Raymonde Linossier, Tome II, Paris, pp. 355-402;Majumder, P. C.

[1959] Árya-maitreya-vyAkaraNam, Gilgit Manuscripts, vol. IV, Calcutta;石上善応[1967]「弥勒 受記(maitreya-vyAkaraNa)和訳」『鈴木学術財団 研究年報』4;後秦・鳩摩羅什訳『弥勒 大成仏経』(T14, No. 456, pp. 428b-434b)401 年の訳出とされる;東晋代・失訳『弥勒来時 経』(T14, No. 457, pp. 434b-435a) 4 小野[1932]. その一部は阿含経類と関わりを持つ. 下生経類には,人間の寿命が八万(四千)歳に達した,豊かで理想的な閻浮提に おいて,世界を法治する転輪聖王・螺 CaGkha の都城,翅頭末 KetumatI に弥勒が誕 生し,やがて城外の龍華樹の下で成道して弥勒如来となり,人々を救済することが 説かれる.「人寿八万(四千)」,「螺」,「龍華」といったキーワードは下生経類のな かで共有されており,経典ごとに増広は見られるがストーリーの根幹部分は踏襲さ れ て い る . こ う し た プ ロ ッ ト の 古 層 と し て は ,『 長 阿 含 経 』 お よ び 対 応 す る dIgha-nikAya に収載の説話が知られており2,こうした説話を発展させる形で数々の 下生経典が生み出されたと考えられている.さらに,弥勒経典のなかで最も整備さ れた経典群として指摘される弥勒六部経のうち,『上生経』を除く五経3は下生経類に 分類されるが,竺法護訳とされている『弥勒下生経』は,本来『増一阿含経』収載 の経典であり,後世に法護訳として認識されるに至ったことが明かされている 4 .他 にも弥勒の下生に関わる説話は阿含経類に散見され,このような阿含経類との明確 な関わりは,下生経類の形成過程を検証するにあたり注目をあつめてきた.しかし 同時に,阿含経類との定型句の一致が確認されない『上生経』を大乗経典として際 立たせる要因となったともいえる. さらに,『上生経』中において弥勒を阿逸多 Ajita と呼んでいることも本経が大乗 経典として認識されてきた一因であろう.阿逸多を弥勒の別名とするのは大乗経典

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5 以下,《》でくくる経典名は固有名ではなく梵本・蔵訳・漢訳のそれぞれの異訳を含めた 経典群の総称として用いる. 6 「上生經者以大乘爲宗體,下生經者以小乘爲宗體」(T38, No. 1771, p. 263c).なお,『弥 勒経遊意』は吉蔵(549-623)の撰述とされてきたが,散逸本とされていた吉蔵と同門であ る慧均の『弥勒上下経遊意』であったことが指摘されている;伊藤隆寿[1977]「慧均撰 『弥勒上下経遊意』の出現をめぐって」『駒澤大學佛教學部研究紀要』35, pp. 227-275. 7 『上生経』(T14, No. 452, p. 420a) に見られる特徴とされ,《法華経》 5 や観経類のなかに用例が指摘される. ところで,『上生経』を大乗経典として意識する解釈は,既に『弥勒経遊意』の段 階で見られる 6 .そして,我々が参照する近代以降の研究は,こうした歴代の学僧達 の見解にも少なからず影響を受ける形で『上生経』を評価してきたように思われる. 我々の『上生経』に対する理解がしばしば『上生経』そのものから得られたもので はなく,そうした解釈の集積の上に成り立っていることを意識しながら考察を進め ねばならない. いずれにしても,こうした『上生経』の特徴は,本経,そして「上生信仰」に純 大乗的なイメージを付帯させる要因となった.そして,阿含経類との文言上の親近 性の薄さは,「上生信仰」に成立の遅い信仰であるとのイメージをも付帯させてきた. 2-2.後期成立経典としての『上生経』 弥勒経典の網羅的な編年研究の嚆矢は,松本文三郎[1911]であろう.37 種の経 典を指摘し,系統立てて整理した松本の編年は,やがて赤沼智善[1939]によって 修正されることとなるが,両者とも『上生経』の成立を弥勒経類の形成過程におい てほとんど最終段階として位置付ける点では同様の立場をとり,現在までもそれが 受け入れられている. その根拠として,『上生経』訳出は5 世紀と,他の弥勒経典とくらべやや遅れるこ とや,『上生経』の本文中に「如彌勒下生經説」 7 との文言が見られる点が挙げられる だろう.何らかの下生経類が既に成立していることを経典自らが語っている.さら に,思想の発展段階として,未来世の弥勒如来への信仰が興ったのちに下生以前の 弥勒菩薩に対する関心から現在世の弥勒菩薩についての信仰が芽生え,それと呼応 するかたちで経典が制作されたと考えられてきたこともある. こうした事例により,『上生経』は下生経類の普及以後に成立したとされ,したが って「上生信仰」も「下生信仰」のあとを追う形で発生したものとみなされてきた. しかし,そのような思想的転換が「いつ」,「どこで」起きたか明かすことを目指し

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8 東晋・仏陀跋陀羅訳『観仏三昧海経』十巻十二品(T15, No. 643);劉宋・畺良耶舎訳 『観無量寿経』一巻(T12, No. 365).なお,本経は『出三蔵記集』巻 4(T55, No. 2145, p. 22a)では失訳とされるが,『高僧伝』巻 3(T50, No. 2059, p. 343c),『衆経目録』巻 1(T55, No. 2146, p. 116c)以降は畺良耶舎(383?-442?)の訳出とされる.畺良耶舎は西域の人で, 禅門を専業とし三昧正受を以て諸国を伝道教化したが,後に沙河をわたって建康に入り, 僧含と共に「薬王薬上観,及び無量寿観経」を訳出したとされる人物;劉宋・曇摩蜜多訳 『観普賢菩薩行法経』一巻(T9, No. 277).『法華経』「普賢菩薩勧発品 第二十八」を中心 とし,「従地湧出品 第十五」と関連して成立していることが指摘される.異訳として東 晋・祇陀蜜多訳『普賢観経』,後秦・鳩摩羅什訳『観普賢菩薩経』が存在したとされる. 訳者に比定される曇摩蜜多(356-442)は罽賓出身で亀茲,敦煌,涼州などを経由して建康 に入った禅僧であることが『出三蔵記集』巻14(T55, No. 2145, p. 105 a-b),『高僧伝』巻 3 (T50, No. 2059, pp. 342c-343a)などから伺える;劉宋・曇摩蜜多訳『観虚空蔵菩薩経』一 巻(T13, No. 409);劉宋・畺良耶舎訳『観薬王薬上二菩薩経』一巻(T20, No.1161).『法華 経』の「薬王菩薩本事品 第二十三」と「妙厳王本事分 第二十七」との関連が指摘され る. 9 観経類の成立に関しては,『観無量寿経』の検討を中心として,インド撰述説,中央アジ ア撰述説,中国撰述説,段階成立説など多くの論考が提出されるが,未だ定説を見ない. ただし,中央アジアで行われた禅観と関わり深いとする見解が現在では主流であろう;山 田[1976];藤田[1970][1985];末木[1986][1992];大南[1995];Yamabe [1999],山 部[2010]. た考察は知られない.こうした設問に『上生経』を用いて答えるのであれば,『上生 経』自体の成立事情を詳らかにする必要があるだろう.

3.経典中に見られる訳語や文脈の問題点

そこで,『上生経』を弥勒経典の文脈としてでなく六観経 8 のひとつとして捉え直し, その来歴について検証してみたい.月輪賢隆[1953]により六観経の中国撰述説が 提唱されて以来,その成立地をめぐっては特に『観無量寿経』を対象として現在ま で多くの論考が提出されている 9 .月輪は六観経の網羅的な研究のなかで,『上生経』 についても詳細な検証を行い,本文中に見られる問題点を的確に指摘している.月 輪の提示した問題点はおおよそ 4 点に集約される.すなわち,(1)ひとつの文脈の なかで意訳と音訳の混用がみられること,(2)物語の文脈に異常がみられること,(3) 観経類に共通の特殊な表現がみられること,(4)現世利益的な表現が散見されるこ と,である.なかでも(1)のような訳語の不統一は,原音を理解したうえでの訳出 と思われない部分もみられ,確かに,本経の原典をインド内部に求めるのは難しい ように思われる. 月輪の主張は,こうした特徴が六観経全体に共通して見られることを論拠に撰述 地を漢土に求める点にあるため,指摘されつつ未解決の問題も多く遺されている.

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10 『上生経』(T14, No. 452, p. 418c) しかし,『上生経』を含めた六観経の内容や撰述地に問題があることは今や周知の事 実と言え,「上生信仰」についても成立地や成立時期などを含め捉えがたい印象が付 されている. ところで,『観無量寿経』における「阿弥陀仏」と「無量寿仏」の用例の傾向分析 により,別々の経典を繋ぎ合わせて現在の姿に整えたとする山田明爾[1976]の指 摘は,『上生経』にも適用される必要がある.『上生経』は定型句やプロットの明確 な借用がないだけで,個々の要素を丹念にときほぐしていけば,複数の経典の内容 を寄せ集めて編まれていることが理解できる.いかなる経典のピースがどのように 嵌め込まれて『上生経』を構成しているのかを探ることは,本経の形成過程を明ら かにする手がかりとなるだろう. 月輪の指摘した内容上の問題点をてがかりに,以下では『上生経』の成立背景に アプローチを試みる.

4.優波離の問い

かつて月輪が指摘した六観経にみられる問題点のひとつは,文脈の異常である. まずはそのうちの代表例である,『上生経』の冒頭部分を見てみよう.ここでは弥勒 菩薩が優波離によって不自然に非難されていることが問題となってきた. 爾時世尊以一音聲,説百億陀羅尼門.説此陀羅尼已,爾時會中有一菩薩.名曰 彌勒.聞佛所説,應時即得百萬億陀羅尼門.即從座起整衣服,叉手合掌住立佛 前.爾時優波離亦從座起.頭面作禮而白佛言,「世尊,世尊往昔於毘尼中及諸 經藏説阿逸多次當作佛.此阿逸多具凡夫身未斷諸漏.此人命終當生何處.其人 今者雖復出家,不修禪定不斷煩惱.佛記此人成佛無疑.此人命終生何國土」 10 以上のように,弥勒が一瞬にして膨大な数の陀羅尼を体得し,優れた菩薩である ことを示したすぐ後にもかかわらず優波離によって凡夫の身とさけずまれる点は文

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11 学僧たちはウパーリの理解力に疑問を付すことで解釈を試みようとしている;『弥勒経 遊意』「但優婆離執小乗意問耳」(T38, No. 1771, p. 263a),『観弥勒上生兜率天経賛』巻下 「波離下器情局小乗以己所知輒揣尊極」(T38, No. 1772, p. 286c),『三弥勒経疏』「優波離身 處下位所解局路.以己所知作此問具凡夫身等」(T38, No. 1774, pp. 304c-305a) 12 「弥勒菩薩 什曰姓也,阿逸多字也.南天竺波羅門之子」(T38, No. 1775, p. 331b)この 段階で,阿逸多が弥勒の字と解されつつも,「バラモンの子」とされている点には注意が 必要である. 13 呼びかけの時に固有名を用いることがインド文化圏で古くから行われていたであろう ことは,古ウパニシャッドの記述などからもうかがい知ることができる.なお,こうした 「弥勒」と「阿逸多」を文脈によって使い分ける用例は,例えば『観仏三昧海経』ではな お踏襲されているが,やがて「弥勒」の表記を使用せずに「阿逸多菩薩」として表記する 経典も登場してくる. 14 Lamotte[1958];香川[1963];桜部[1965]. 脈上不可解であり,歴代の学僧たちも会通に悩んだ様子が注釈書などに散見される 11 . なるほど,ここでは確かに弥勒が唐突に貶められているとしか読めない. そこで改めて本文を確認し,この文脈を整理してみよう.まず,ここでは律や経 で弥勒の未来作仏が既に語られていることが前提となっており,具体的な経名は示 されないが,弥勒の未来作仏について,またそれが経律に説かれているということ について周知の事実であった事がわかる.次いで,(1)ここでは優波離が弥勒をさ けずむ際に阿逸多と呼び変えていること,すなわち弥勒と阿逸多が同一人物として 理解されていること,そして,(2)阿逸多は優波離によって凡夫であると理解され ていることが読み取れる.このふたつの要素に注意して『上生経』を再検証したい. 4-1.弥勒=阿逸多 東アジア文化圏での事情を考えるにあたり,阿逸多を弥勒の字と解することは, 少なからず鳩摩羅什の弟子である僧肇(374-414)が『注維摩詰経』に記した「弥勒 菩薩 什曰姓也,阿逸多字也」 12 という文言に依るところが大きい.鳩摩羅什という 影響力ある人物の言葉が,東アジアで優勢を占めたことがうかがえる.弥勒に対し 阿逸多と呼びかける形式で最も有名な例は《法華経》において確認できる.ここで は,「世尊はMaitreya に対して呼びかけた.「Ajita よ」」といった用例が散見される. 《法華経》の現存最古訳である竺法護の『正法華経』でもそうした呼び替えの用例 が見られる点から,両者を同一人物として理解する傾向は大乗経典のなかでも早期 段階から現れるものと考えられる.なお,《法華経》の用例を確認する限り,Ajita の使用は本来呼びかけの時のみ適用されたものとみられる 13 . しかし,一方で弥勒と阿逸多は本来別人であり後に習合したと先行研究では考え られている 14 .弥勒に関わる経典のなかで弥勒と阿逸多に対する二種の考え方がある

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15 『大智度論』では PArAyana-vagga を弥勒関連経典として位置付けており,この段階では 弥勒経典として理解されていたと見て良いが,それ以前に遡って本説話を弥勒と関係づけ るのはためらわれる.『大智度論』の成立にはなお問題が残るため,本稿では少なくとも 鳩摩羅什が訳出した405 年前後には PArAyana-vagga が弥勒経典として理解されていたと考 えるにとどめたい;加藤純章編[2003]『平成 11-13 年科学研究費補助金(B)研究成果報 告書『大智度論』の総合的研究― その成立から中国仏教への影響まで ―』. 16 栗田 I[2003],pp. 212-216 部分に「16 人のバラモンの帰依」と同定され得る図像がま とめられている.各図像についてはなお検討を要する. という点が『上生経』の解釈に際して重要な鍵となる. 4-2.弥勒と阿逸多の関係 両者を別人として扱う最初期の例としては,suttanipAta の PArAyana-vagga が指摘 されており,そこでは,BAbari なる大バラモンの16 人の弟子のなかに Ajita と Metteya という名が確認できる. PArAyana-vagga は,悪バラモンに呪いをかけられた師を救うべく,その方法を探 して釈迦のもとを訪れた 16 人の青年バラモンたちが一人ずつ釈迦に質問を投げか け,その後師弟ともども釈迦の弟子になるというストーリーである.ここでは Ajita と Metteya は別の人物として登場しており,先行研究では彼らが阿逸多と弥勒の源 流として指摘されている.しかし,suttanipAta 所収の説話が成立した時点で弥勒菩 薩を想定して Metteya を登場させていたかは疑わしい.PArAyana-vagga では,16 人 のなかで最初に質問するのが Ajita,次いで Metteya となってはいるが,そのほかは 別段彼らが他のバラモンたちと区別されている様子もなければ,Metteya の将来作仏 の予兆もない.PArAyana-vagga の説話は,弥勒信仰の展開をうけて,いずれかの段 階で関係を結んだと考えるべきではなかろうか 15 . なお,PArAyana-vagga がいつ頃から影響力を持っていたか定かではないが,少な くともガンダーラ美術の段階で「16 人のバラモンの帰依」として同定され得る浮彫 が知られている 16 .ガンダーラにおいて仏教が展開していた時期には,この説話自体 が寺院に参詣する一般の人びとにまで,ある程度親しまれていた可能性は想定して 良いだろう.ガンダーラにおいて弥勒との関わりのもとにこうした説話が理解され ていたかは定かでないが,説話同士が接近し,混淆する際には,両者が同一の文化 圏のなかで一定の認知度を持つことが必要になる.ガンダーラ地域がそうした説話 同士の接近,もしくは混淆後の展開に関わった可能性は考慮すべきである. さて,阿逸多と弥勒に意識的にスポットをあて,未来に作仏する弥勒と結びつけ

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17 僧伽提婆『中阿含経』巻 13・第 66 経「説本経」(T1, No. 26, pp. 508c-511c).『中阿含 経』の訳出は397-8 年ごろで,有部系所伝とされる;榎本文雄[1984]「阿含経典の成立」 『東洋学術研究』23-1, pp. 93-108;水野弘元[1989]「漢訳の『中阿含経』と『増一阿含 経』」『佛教研究』18, pp.1-42. 18 東晋代失訳『古来世時経』(T1, No. 44, pp. 829b-831a).なお,「説本経」と『古来世時 経』の内容はほぼ合致するため,本稿では「説本経」を中心に用いることとする. 19 二つの主題をもつことから『大智度論』では「中阿含本末経」(T25, No. 1509, p. 57c), 蔵訳に伝わる『倶舎論』の注釈書abhidharmakoCa-upAyikA-nAma-TIkA でも「前際後際経」と いう名称で引用があり,内容的に「説本経」に対応することが指摘される;本庄良文 [1983]「シャマタデーヴァの伝へる阿含資料 ― 破我品註」『仏教研究』13, pp. 66-97. 20 『中阿含経』「説本経」では「阿夷哆」と音写される. 21 「於是世尊訶尊者阿夷哆曰.汝愚癡人應更一死而求再終.所以者何.謂汝作是念」(T1, No. 26, p. 510a) た経典として注目すべきは,むしろ『中阿含経』「説本経」 17 とその異訳『古来世事経』 18 であろう.両者の成立背景には suttanipAta の影響が見えるが,興味深いことにこれ ら経典では,弥勒と阿逸多に注目するだけでなく,弥勒は優れた人物,阿逸多は愚 かな人物として描き分けられているのである. 4-3.凡夫と解される阿逸多 『中阿含経』「説本経」と『古来世事経』は,波羅㮏国祇樹給孤独園で阿那律陀の 過去世の物語を説く前半部と,釈迦が未来世について説く後半部に二分されること から,《前後経》と呼称され得る 19 .このうち,未来世について説く部分では弥勒作仏 と未来の閻浮提の様子を説いており,内容的に下生経類として位置付けられ,成立 史研究の中でもしばしば言及されてきた.ただし,《前後経》には,未来の弥勒如来 を現世の仏弟子である弥勒と結びつけるという,他の下生経類では見られなかった 構造が採用される. 《前後経》の内容を確認してみよう.釈迦は,未来に閻浮提が人寿八万歳の理想 的な世界となるとき,螺という転輪聖王が現れることを弟子たちに語る.そしてそ の時の閻浮提の理想的な光景を説いており,ここまでは下生経類に共通するキーワ ードを押さえて語られている.しかし,本経の特色は,釈迦の会中にいた阿夷哆 20 と 弥勒という比丘が,それぞれ未来世の転輪聖王と弥勒如来になりたいと誓願する点 であり,興味深いのは二人の誓願に対する釈迦の態度である. 説話中では,釈迦が未来の様子を語ると会中にいた尊者・阿夷哆が立ち上がり, 将来自分は螺になりたいと願う.しかし釈迦によって「汝愚癡人」と,一旦拒絶さ れてしまう 21 .阿夷哆が再び同じ願いの言葉を述べると,釈迦は授記をするが,次に 螺の世において弥勒という仏陀が現れることを説いたのち,会衆の尊者・弥勒が立

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22 「於是世尊歎彌勒曰.善哉善哉.彌勒,汝發心極妙謂領大衆.所以者何.如汝作是念」 (T1, No. 26, p. 510c)

23 『阿毘達磨発智論』巻 18(T26, No. 1544, p. 1018a);『大毘婆沙論』巻 178(T27, No. 1545, pp. 893c-894b) ちあがって将来弥勒仏になりたいと告げると,釈迦は「善哉」と褒め称えて即座に 授記を与える 22 .このように,釈迦は最終的に両者へ記別を授けてはいるものの,両 者の扱いは不平等である.阿夷哆が先,弥勒が後に発言する点は suttanipAta を踏ま えたものともみえるが,本来目立った特徴を持たなかったはずの両者がここでは明 確に性格を付与されていることには注目すべきであろう. 以上のストーリーを踏まえ,改めて『上生経』を見てみれば,本経では「弥勒」 と表記している部分では能力の高い様,「阿逸多」と表記する部分では愚者であるこ とが強調されており,《前後経》にみられる両者の性格とリンクする.また,経典中 で「阿逸多」の用法は罵倒に際しての二度だけであり,他の場面では「弥勒」と呼 称され,能力ある菩薩として扱われているのである.さらに,ここでの「阿逸多」 は呼格で用いられていない.つまり,『上生経』の作者は呼格の際に呼び名を変える 伝統を理解しないうえで弥勒と阿逸多を同一視していることになる.《法華経》にみ られたインド由来の伝統的な用法は,もはや『上生経』の段階では理解されておら ず,ここからも『上生経』の成立地をインドに求めることを難しくさせる. 以上から,『上生経』は,弥勒と阿逸多は同一人物であるという,いわゆる大乗経 典に見られるスタンスに依りつつも,「弥勒=人格者,阿逸多=愚者」という《前後 経》に基づく伝承も同時に保持していたことが推察される.ふたつの異なる解釈を 取り込もうとしたために,こうした違和感が生じてしまったのだろう.あるいは, 当時の人びとが抱いていた弥勒と阿逸多の関係に対する素朴な疑問が,優波離の口 を借りて表現されたのかもしれない.

5.《前後経》とその特徴

《前後経》は,漢訳のみ伝わり,『中阿含経』に対応する majjhima-nikAya には確 認できない.しかし,紀元前後ごろの成立と見られる『阿毘達磨発智論』や,その 注釈書『大毘婆沙論』などに弥勒授記を説く経典として引用が見られる23ことから, 古くから知られていたことがわかる.引用の見られる論書は有部系が多いこと,古

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24 「到迦尸國波羅㮏城.城東北十里許得仙人鹿野苑精舍.此苑本有辟支佛住.常有野鹿栖 宿.世尊將成道,諸天於空中唱言白淨王子出家學道却後七日當成佛.辟支佛聞已即取泥洹, 故名此處爲仙人鹿野苑(中略)復北行六十歩,佛於此東向坐始轉法輪度拘驎等五人處.其 北二十歩,佛爲彌勒授記處」(T51, No. 2085, p. 864a) 層に属する論書にも引用されることから,「説本経」に説かれるような弥勒授記の伝 承が有部系を中心に早くから知られていたことがわかる.さらに,『法顕伝』に法顕 が弥勒の授記所を訪問したとの記述があることも注意しておきたい 24 .授記所は鹿野 園の近くとされており,《前後経》の説話がベースにある伝承を踏まえたものと考え られる.こうした記述からも,釈迦の弟子としての弥勒の授記説話が 5 世紀までに は広く知られ,かつ,説話の内容が具体的な場所と結びついた形で認知され,塔が 立てられる程度にランドマーク化していた事がわかる.《前後経》の内容は有部系を 中心としつつ一般レベルにまで認知されていたといえよう. みてきたように,《前後経》の特筆すべき点は〈現在世の仏弟子としての弥勒〉と 〈未来世の弥勒如来〉とを接続した点にある.この構造は,『上生経』のストーリー の下地にしっかりと組みこまれている.阿逸多と弥勒に焦点をあてたのも本経がお そらく最初であろう.そして,その両者に釈迦が授記を与えるという点も注意して おきたい.下生経類では,基本的に未来のことのみが説かれるか,もしくは兜率天 からの降下場面からしか説かれず,授記の場面は必要とされていない.釈迦が弥勒 へと授記を与えること,つまり法の連続性・継続性を付与することを《前後経》は 意図しており,そうした意識は『上生経』にも受け継がれている. このように,《前後経》は『上生経』を考察する上で示唆に富む要素を多く含む. 《前後経》自体が実際に受容されていたかは筆者の思慮の及ぶところではないが,《前 後経》で取り上げられる説話が認知されている文化圏において『上生経』の祖形は 成立したと言えよう.では,『上生経』の成立背景としていかなる文化圏が想定でき るだろうか.

6.『上生経』とガンダーラ文化圏

他の観経類と同様に,『上生経』もその完成をみた地としてインド内部を想定する ことは難しい.一方で『上生経』の成立背景には《前後経》が想定できた.これは, 『上生経』が弥勒に関わる幾つもの情報を繋ぎ合わせて形成されているとする仮説

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25 宮治昭により,ガンダーラに見られる弥勒菩薩が人びとに讃嘆される構図の浮彫パネ ルの一部が『上生経』に説かれる,兜率天で待機中の弥勒菩薩が天の神々に説法をしてい る場面に同定された.宮治は中央アジアのキジル石窟に多くみられる「兜率天上の弥勒菩 薩」図との構図の類似を指摘し,ガンダーラにみられる作例をその源流として位置付けて いる;宮治[1992],pp.308-320. 26 菩薩像の特徴について整理・考察した宮治の研究によると,ガンダーラ美術に認めら れる菩薩の種類は頭髪処理と持物に着目すればおよそ(1)ターバン冠飾を付け,右手を 施無畏印,左手を腰にあてる菩薩,(2)ターバン冠飾を付け蓮華や華曼を持つ菩薩,(3) 髪を結いあげ,左手に水瓶を執る菩薩,という三種に分類可能であり,それぞれ釈迦菩薩, 観音菩薩,弥勒菩薩に同定し得るという(宮治[1992],pp.245-280).(3)の特徴を示す 菩薩像には弥勒を示す銘文が付される例も知られ,例えばカニシカ王の銅貨(田辺勝美編 [2007]『平山郁夫コレクション ガンダーラ佛教美術』講談社,VI-40)や,左手に水甁 を執るアヒチャトラー出土の菩薩像(肥塚隆・宮治昭編[2000]『世界美術大全集 東洋 編13 インド(1)』Fig. 72)などがあげられよう.こうした特徴がクシャーン朝期の弥勒 の図像学的特徴として定着し,クシャーン朝の版図とされるマトゥラー周辺域でもおなじ 特徴を意識して制作がなされていたことがうかがえる. のひとつの証左となろう.誤解を恐れずにいえば,『上生経』には成立を促す基盤と なる思想があり,それを補うために様々な関連経典のパーツが,経典としての体裁 を整えるために適宜使われているといえる.したがって,他経典からの借用部分を 明らかにし,その経典を精査すれば,『上生経』の成立に関わった土地や時代を特定 する手がかりを得られるだろう.また,そうした部分をそぎ落とすことによって『上 生経』のオリジナルの部分が姿を現すだろう. 『上生経』のオリジナリティは「兜率天には弥勒菩薩が待機している」ことを伝 える点にある.その根拠となることが『上生経』の目的のひとつと言える.みてき たように『上生経』は「上生信仰」を説く唯一の経典である.これだけ類似の経典 を生み出してきた弥勒経類のなかにあっては,『上生経』の成立の仕方は独特である. 言いかえれば,従来の発展の仕方とは別のあり方であったとしても,『上生経』は成 立し得ねばならなかったということである.では,『上生経』の成立を促したであろ う,「兜率天の弥勒菩薩に何かを願う」ことの発生源はどこか. すくなくとも,それはすでにガンダーラ仏教の中で展開していた可能性が高い. ガンダーラは弥勒菩薩の造像例が多く見いだせる地域であるが,そのなかには「兜 率天上の弥勒菩薩」の姿を表したと考えられる浮彫が確認できる 25 . ガンダーラにおける弥勒菩薩は,髪を結いあげ,しばしば右掌を内に向ける印を とり,左手に水瓶を執って表される(Fig. 1) 26 .そうした特徴を有する菩薩像が天人 や世俗の人びとに供養される場面を表した例(Fig. 2)が多数確認できることは,弥 勒菩薩に対する信仰が実際に人びとのなかで根付いていたことを想像させる.しか も,人びとが弥勒菩薩を讃嘆する姿を表現した浮彫群はいくつかの構図に分類でき

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27 弥勒菩薩が人びとに囲まれて讃嘆される構図の浮彫彫刻は管見の限りガンダーラ美術 のなかに100 例ほど見出せる.これらの構図を坐勢や持物といった副次的モティーフをて がかりに分類すれば,明確な描きわけが確認でき,そのうち2 構図は「兜率天上の弥勒菩 薩」と同定し得る;拙稿[2014]「ガンダーラにおける弥勒信仰の諸相 ― いわゆる「兜率 天上の弥勒菩薩」図を中心に―」『2013 年度 研究報告書』アジア仏教文化研究センター, pp. 243-255. 28 拙稿[2012]「ガンダーラにおける「兜率天上の弥勒」への信仰について ―『出三蔵記 集』『梁高僧伝』を中心に―」『密教図像』31 号,pp. 1-18. 29 「罽賓」に関して,時代によって指す地域が異なることは明かされていたが,桑山は 『出三蔵記集』『梁高僧伝』に収載の4-5 世紀頃の僧侶たちの伝記中にみえる罽賓について, 彼らの仏鉢見聞の記録を根拠に,ガンダーラを指すことを明かした.榎本は4-5 世紀頃の 文献を参照した場合,罽賓はガンダーラ,カシュミールも含む広範な地域と捉える事も可 能であることから,伝来される仏典に応じて個別に検討する必要があるとする;桑山正進 [1983]「罽賓と佛鉢」『展望 アジアの考古学 ― 樋口隆康教授退官記念論集』新潮社 (桑山[1990]所収);榎本文雄[1993]「罽賓 ― インド仏教の一中心地の所在 ―」『塚本 啓祥教授還暦記念論文集 知の邂逅― 仏教と科学』佼成出版社;Salomon, R. [1999]. 30 僧伽羅刹は第 29,婆須蜜は第 8,弥妬路尸利を彌帝麗尸利とすると第 23 にそれぞれ名 をおく;『出三蔵記集』巻十二「薩婆多部師資記目録序第六」(T55, No. 2145, pp. 88c-89c) 31 「婆須蜜経序」を参照すれば,婆須蜜は釈迦文に従って鞞提国に生まれ,当来仏であ る賢劫第五仏の弥勒に次いで作仏し,賢劫第六仏の師子如来となる菩薩であることが述べ られる.婆須蜜菩薩はやがて兜率天の弥妬路のところへ上るが,そこで将来弥勒仏となる 弥妬路,賢劫第七仏の光炎如来となる弥妬路尸利,賢劫第八仏の柔仁仏となる僧伽羅刹と ともに,四大士が一堂に会し高談するという;「婆須蜜菩薩大士,次繼彌勒作佛,名師子 如來也.(中略)神升兜術彌妬路.彌妬路刀利及僧伽羅刹適彼天宮.斯二三君子皆次補處 人也.彌妬路刀利者.光炎如來也.僧伽羅刹者.柔仁佛也.茲四大士集乎一堂」(T55, No. 2145, p. 71c) ることから,一定の規範のもとに意識的に製作が行われたことがわかる 27 .こうした 浮彫彫刻が出土することは,ガンダーラで展開していた弥勒信仰のなかにおいて弥 勒菩薩が兜率天主として認知されていたことを示している. 兜率天に待機中の弥勒菩薩がガンダーラにおいて信仰を集めていた可能性は,『出 三蔵記集』,『梁高僧伝』といった僧侶の伝記を収載する漢文資料からも導き出せる 28 . 両文献は編纂時期,地域ともにガンダーラと隔たるが,往来僧たちの伝聞からは文 字資料に乏しい 5 世紀以前のガンダーラの事情が垣間見られ,考察にあたっての手 掛かりとなる.そこに登場する僧侶たちのうち,弥勒について記述を残す人物は弥 勒を兜率天主として理解している場合が多く,彼らの共通項として罽賓 29 すなわち両 文献が指すところのガンダーラと関わりを結ぶことが挙げられる.なかでも興味深 いのは,「薩婆多部師資記目録」にその名が記される婆須蜜,弥妬路尸利,僧伽羅刹 といった高僧たち 30 が弥勒に次いで順次作仏するとの伝承がのこされている点である 31 . ここでも,有部と弥勒との関係が示唆される.さらに,こうした伝承は釈迦以後の 閻浮提における法の連続性について考察するうえでも注目すべきであろう.先述の 通り,『上生経』は釈迦から弥勒へと続く法の流れを経典中に示している.『上生経』

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32 なお,《前後経》は下生経類のなかにも引用が確認される.羅什訳『下生経』には「世 尊如前後経中説,弥勒当下作仏」(T14, No. 454, p. 423c)とある.他に義浄訳『下生経』(T14, No. 455, p. 426c)羅什訳『成仏経』(T14, No. 456, p. 428c)にも同様の記述がみえる.これ らは「前後に説かれた(何らかの)経」という読みが一般的に為されてきたが,「前(過 去)と後(未来)についての経」であることが下生経の梵本との対応などにより指摘され ている;寺岡正博[1986]「弥勒下生思想の一断面 ―『説本経』を中心として ―」『印度哲 学佛教学』第1 号. の底辺に流れる思想との連関性がうかがえる. みてきたような美術資料や伝記,伝承は,「兜率天上の弥勒菩薩」にまつわる信仰 の伝播と発展の道筋を究明する際に,時代や地域あるいは関係する人物を特定する ためのポイントとして配置することが出来る.人びとの視覚にうったえたであろう 美術は,兜率天に弥勒菩薩が待機するという知識を,僧侶のみならず一定の階層に まで認知させる役割を担ったことだろう.伝記や説話にちりばめられた人々の信仰 活動の痕跡は,文字としてのこされるほどにインパクトをもって当時の人々に受け 入れられていた可能性を示す. ガンダーラ文化圏に展開した仏教文化は,「兜率天上の弥勒菩薩」に関わる図像や 経典の制作を促し,これらの思想を伝播させ,思想的・文化的発展を後押ししたそ のひとつの起点として想定できるのではなかろうか.

7.おわりに

弥勒信仰史のなかで『上生経』をどのように評価するかという問題意識のもと,本稿では弥 勒と阿逸多にまつわる記述に着目して考察を行った.その結果,阿含経典と文脈上の関わ りが指摘されてこなかった『上生経』のベースに『中阿含経』所収の説話の影響が認められ ることが明らかとなった.『上生経』は内容の特異性や比較資料の不足から独立したイ メージを持たれる傾向にあったが,実は弥勒信仰に関わる様々な資料のタームが文 脈から取りだされ,再配置されたものとみることが出来る.したがって本経と向き 合うためには,むしろ多くの経典の知識をもって臨む必要があるといえる.一方, タームの再配置にあたっては意図的な選択の傾向がみられることから,『上生経』の 編纂に関わった地域の人びとの思考を反映させている可能性もあり,興味は尽きな い. また,今回の検証により,下生経類として位置付けられてきた『中阿含経』「説本経」 32

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との関係が『上生経』にも確認されたことは,「上生信仰」と「下生信仰」を切り分 けて考究してきた従来の研究傾向についての見直しも促しているだろう.もちろん, 経典の枠組みにしたがって考察する方法は今後も有効な手段ではあろうが,実際に 展開していた信仰を考える上では,こうした枠組みから解放される必要も一方では あるのではないだろうか.人びとが介在することによってさまざまに展開し変容す る信仰の実態を究明するうえでは,経典,考古・美術資料,歴史資料など幅広い分 野から得られる情報を相互補完的に扱いつつ,多角的な視野をもって検証にあたる 必要があろう.本試論はその一事例を示したに過ぎない.今回の結果を受け,より 多くの事例の検討のもと改めて弥勒信仰史上に『上生経』を位置付けていく必要が あるが,具体的考察は今後の課題としたい. 【Fig. 1 弥勒菩薩坐像】 Karki 出土 h.70.5 × d.44 × w.14.5cm ラホール博物館所蔵

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Fig. 2 弥勒菩薩と讃嘆者】 h.22.0 × d.49.5cm 東京国立博物館所蔵 静岡県立美術館他[2007-8 ]『ガンダーラ美術とバーミヤン遺跡展』 Fig.19 [付記] 本稿は 2015 年 1 月 28 日開催の龍谷大學佛教學會 学術研究発表会において口 頭発表した内容の一部を原稿化したものである。本稿執筆にあたっては、指導 教授である入澤崇先生をはじめ、桂紹隆先生(龍谷大学)、辛嶋静志先生(創 価大学国際仏教学高等研究所)ほか多くの先生方にご指導、ご助言をいただい た。衷心より感謝申し上げます。

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<キーワード> 『観弥勒菩薩上生兜率天経』,弥勒信仰,六観経,『中阿含経』「説本経」,《法

華経》,ガンダーラ

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