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『宗教研究』新第12巻第4号(*89号)

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(1)

――目次――

1,

信仰の神秘主義(下),佐野勝也,Katsuya SANO,pp.1-12.

2,

隋朝仏教の学系と折衷義学,布施浩岳,Hirotake FUSE,pp.13-32.

3,

弁証法的神学における人間の問題,桑田秀延,Hidenobu KUWATA,pp.33-48.

4,

所謂真諦訳遺教経論作者考,隋代霊裕の著か,宇井伯寿,Hakuzyu UI,pp.49-66.

5,

新聞の指導性と宗教新聞,小山栄三,Eizō KOYAMA,pp.67-85.

5,

延喜式より見たる寺院の研究,竹内理三,Rizō TAKEUCHI,pp.86-106.

6,

清浄道論を中心とする南伝阿毘達麿の教義について(続),舟橋一哉,Kazuya FUNAHASHI,pp.107-125.

7,

宗教儀礼の序論的考察,棚瀬日出麿,Hidemaro TANASE,pp.126-142.

8,

日本における宗教社会学の動向,小口偉一,Iichi OGUCHI,pp.143-144.

9,

新刊紹介,pp.145-155.

Posted in 1935

(昭和10)年

(2)

信仰の神秘主義︵下︶

催 野 膠・也 l、■

すでに轟べたように、﹁キリストの信仰﹂は﹁キリストに封する信仰﹂であるが、此の﹁キリストに封する信

仰﹂とは﹁キりストにおいてあること﹂︵einaienChristO︶である。而して、キリストにおいてあることに依つ・

て、義とされるのである。そのことは、更に換言す・れば、キリストと共に十字架につけられることを意味する。

即ち、かくして、キリスト教徒は、最早や円ら生きす、キリストが、キリスト教徒において︵enemOi︶生きる

のである。だが、さうは云ふものの、依然キリスト教徒は、肉醗を有して生きて居る。而してそれは紳の千キリ

ストを信する信仰において︵enpistei︶生きて居るのである。即ち、﹁キリストにおいて﹂︵enCh甘tO︶が﹁信 仰において﹂︵enpis︷ei︶と同一意味を有する。そのことは次に引用するパウロの言葉に依っても明らかである。 、、、、、、−︳ヽヽヽヽヽ これキリストを獲得し、且つ律法にょる私の養で無くて、キリストの信仰に依る義、即ち信仰砿基づく細か

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

らの義を保ち、キリストにおいてあることを認められよう焉である︵どリピ三・九︶。

であるとされ、それは叉尊貴、彼、即ち、﹁キリストにおいて﹂在ることであるとされてゐる。即ち﹁信仰におい

信仰の神秘重義 占クク

(3)

信仰の紳秘土羞 二 て在る﹂は﹁キリストにおいて在る﹂と同意義である。そこで﹁キリストにおいて在る﹂が如何なる意味を有す るかを探究しなければならない。 ダイスマンに依れば、﹁キリストにおいて﹂︵enChristO︶若しくは﹁主において﹂︵enkyriO︶なる表現港は ︵18︶ 。ハウ。の書翰中に、空ハ十四産出て来る。而して、これは、キリスト教徒と重なるキリストとの紳秘的結合関係 を示すものである。此の意味を一骨良く理解する為には、。ハサロがキリストの中に木なかつた頃の状態を示す馬 に造ったところの、これに封臆する表現法と比較する必要がある。例へば、彼は、此のキリストの申に居ない場 合の状態む云ひ蓑はすのに﹁肉の中に﹂︵ロマ七・五、八・八、九︶﹁罪において﹂︵コリント前一五・丁七︶﹁アダム の中に﹂︵コリント前一五三二︶﹁律法の中に﹂︵ガラチャ手門 口マ二二九、二・一二︶﹁≠の小に﹂︵エ。ヘナ 二・︻二︶﹁息難の中に﹂六コリント後六・四︶なる表現法を用ひてゐる。﹁キリストにおいて﹂は、これに封立す るところの意味を有するものである。

なほ此の外にsyn ChristO︵キリストと共に︶diaChristOu︵キリストに由つて︶erニOhaimati ChristOu

︵キリストの血において︶ En t00nOma︷i ︹hristOu ︵キリストの名において︶たどの表現法があるが、これ等 ︵19︶ は何れも、震なるキリストとの精神的神秘的交はりの意味に解すべきであるとダイスマン妊去ってゐる。 パウロの信仰をダイスマンの如く神秘的に解絆することには、反封者も少なく無い。例へば、ウィンディッシ ︵別︶ ユは、パウロにおいて仁仰は、神秘、王兼とは何等”陶係も有しない。むしろ仁仰は、紳と人間と〃榊に距離が作 すると上ろに成立すると云ひ、 ネrス・Jy 匿お ≠てL海人格と人格沌の唐澤は灘 麒和

(4)

押することには、厳問符を濃く必要がある。パウロには冥想的要素は全然鉄骨てゐた。彼は常に道徳的活動の眞 只中に在った。従って、、‡に春つて安らかに休らうと云ふが如きこと仕、彼の思想の巾には存在しなかつた。﹁キ サストにおいて﹂なる言葉は、頗る頻繁に。ハウロにおいて記されてゐるので、それがいつでも神秘的恍耀の感情 を示してゐるかは疑はしい。むしろ:ハウ。の言葉には、虞の意味での神秘主義・と栴し得るはうなものを蔑見す ︵21︶ ′ ることは粥来ない。近頃の聾者はパウロのキリスト紳轡三重をあまり誇配してゐる。 。ハウ。の喜翰に百六十四度も硯はれる﹁主において﹂﹁キリストにおいて﹂の悉くが、霊殿るキリス斗との刷秘 的交は牒を意味するもので無いことは、ダイスの云ふとほりであらう。ダイスマンも、パウロのキリストとの紳 ︵22︶ 秘的交はりには、その高低の度が種々様々であることを認めてゐる。然しながら、﹁キリストに於いて﹂若しく は﹁主において﹂においての主が、蔓を意味し、キリスト若しくは主において在ることが、重なるキリストと密 接に相結合させ、憲なるキリストの生命力が働きかけ、そこに一種の神秘的な力が規はれるとパウロが信じたこ lとも叉疑ふことができない。そのことは、次の如き。ハウロの言英に依っても明らかである。 ヽヽヽヽヽヽヽ 人もしキリストに在らば、新たに造られたる者なり︵コリン寸柊五二七︶。 ︳ヽヽヽヽヽヽヽ すべての人アダムにおいて死ぬる如く、すべての人キリストにおいて生くべし︵コザント前言・二二︶。 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 功なく紳の思塞によ少、キリスト・イエスにある噴罪によりて養とせらる1たり︵ロマ三・二四︶。 ︳ヽヽヽ.ヽ 紳は靡を知り給はぎりし者を我らの代りに罪となし給へ少、これ我らが彼に在りて紳の義となるを得んため なり︵コリント後五・二こ。 信仰の紳輔+義 封1

(5)

信仰の紳秘主義

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 汝らは信仰にょりキリスト・イエスに在りて、みな紳の子たク⋮:今はユダヤ人もギザシア人もなく、奴隷 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ も自主もなく、男も女もなし。汝らは皆キリス!イエスに在りて一腰なり︵ガラチャ三・二六、二八︶。 即ちキリストにおいて在ることは、人間をして全然新らしき被造物となし、これに依つて義とされ、罪から解 放され、死すべきものが生き、すべての人がキりストに在ることに依つて神の子とな少、民族や、融合的階級や 性の直別やも超越して、すべてが一饅となる。ダイスマンは、次の如き質喩を用ひて此のことを云ひ現はした。 恰も我々の呼吸する茎束のように、我々の中にキリストがあ少、我々を充たし、叉同時に、キリストの中に挽々 ︵盟︶ が在り、これを呼吸してゐるわけである。そこで彼はパウロの信仰を定義して﹁霊的キリストとの生命結合にお いて東成される或物である﹂︵DerG−aubeistetwasゝasiロderLebens扁rbindungmitdempneumatiscb・ ︵24︶ en Christus sichざーーNieht・︶ と云つた。即ち:ハウロは、キリストにおいて生活した。キリストは生きて及 ほ現存する量的なものであ少︰ハウロを取囲み、彼を充たし、彼と語り、彼において、披から語る。パウロにと ってキリストは、過去の人物では無く、茸在せる力である。日々。ハサロに働きかけるところの生命力である。然 もそれは、非人格的な生命力では無くして、人格的な婁である。従って、ダイスマンが璽を客気として昏喩した ことは、人がこれを呼吸し、その中に在ると云ふ限りの誓喩であつて、茎克と同じく非形標的な、非個性的たも のと云ふ意味では無い。即ち。ハウロの神秘主義は、人格的神秘主義である。

パウロにおいて信仰捺、種々なる意味を有し、必すしも一定しないが、信仰に以上述べたような紳秘的意味を.棚

(6)

有する場合があることは、否定することができない。然もそれが、.ハウロの信仰貌の核心であることも争ふこと はできない。即ち、使徒。ハサロの思想の中心は、その信仰軌に在り、信仰軌の中心は、婁的キリストとわ塞的結 合に在ると云ふことができよう。パウロの思想を諭する人々は、屡々救壊、宥和、赦罪、義と稀するが如き紳畢 上の問題を個々別々な礪立した問題として取扱った。然し乍ら、か1る取扱は、.ハウロに存するところの生命に あふる1ところの思想を幾佃かの断片に切り放ち、そこに存する生命を渦失せしめることである。ダイスマンが 云ふように、私共は、これらの概念をキリストを襟験すると云ふ一個の光波から流れ出でるところの光景である と見なければならない。 人間は、最後の審判において、訴へられた者として紳の審判の前に立つ ︵ロマ八・三三︶。てれは俸統的なユダ ヤ思想であ少、且つ叉それは、使徒たちの思想でもあつた。此の訴へられた者は、キリストにおいて訴へられな い者︵anegk−e[OuSコリン上糾丁八、コロサイ一・二二︶となる。而してこれは信仰に依ってである︵ガラテヤ 二・一六、三・八、二四、五・五、ロマ四・二六、三〇、九・三〇、一〇六︶。但し、信仰に封する報酬︷して輿へ られるのでは無い。﹁その信仰を養と認めらる1なり﹂︵ロマ四・五︶は屡々か1る誤解を生せしめた。こゝの﹁認 めらる1なり﹂︵−Ogizetai︶ は、全然非パウロ的な言葉で、.これはパウロが背約聖書からの引用句をそ一のまゝ使 用した薦である。義と信仰に関するパウロの全教詮を見れば、信仰は。ハウロの行儀では無くして、むしろ紳の人 間に封する働らきに対する反應と見るべきである。信仰が義とされる︻ことの前件なのでは無く、信仰は養とされ ︵25︶ ることの照鹸である。 , 倍仰の紳秘主義 五 ぷ柑

(7)

六 倍仰の紳秘主義 人間は叉敵として紳の前に立つ︵コロサイ一・二一、ロマ五・一〇︶。彼は紳と離れてゐる。キリストに依って 赫と宥和する。和が宥和されるのでは無くして、紳がキリストにおい と化する。 第三に人間は負債者として紳の前に立つ。キサストにおいて負債者は罪の赦しを得る。紳は、その思惑に依っ て、キリストにある我らに、我ら白身のあやまちから生じた負債をすべて掛物として赦してくれる一。苗代の。ハピ

ラス姦ってゐる負債要、即ち慧して後十藁につ芝野︰ハウ還して﹁我ら芸むる規の誓すな

はち我らに逆らふ芳書を塗抹し、.これを中間より取り去りて十字架につけ﹂︵コロサイ二・一四︶なる言責を、蟄 せしめたであちぅ。 第四に人間は奴隷として紳の前に立つ。彼を奴隷とするところのものは、罪、律津、偶像、人間、死である。 然しながら彼は、キ牒ストに在りて白山を得る。キリストにある自由が即ち喝ひである。養とせられることが訴 へうれた人を解放するように、噴ひが奴隷を貫ひもどして解放する。 以上すべてがキリストにおいてあるところの信仰、キリストとの神秘的結合の照験を云ひ表はしたもので、そ れ等は個々別々な慣験では無い。ダイスマンが云ふように、それは一個のオーケストラ中に存する個々の晋であ る。従つて、我々は、パウpの信仰軌を取扱ふことに依って、パウロの全思想を取扱ふこともできるであらう。 七 パウロの信仰軌を、以上述べ来ったような立場とは全然異なつた立場から論じた鴫のは、カール・バルトであ 古βJ

(8)

る。被は、パ再∴∵㍗H仰を紳祓血勺に見ることには反対して川る。然し乍ら、それはウィンディシュやダイスなど

の場合と同じく、軸轡王養なる概念をあまりに狭義に解精して居る薦である。とまれバルトの﹁ローマ書﹂は、

特色ある著述であるから、そこに示されてゐるパウロの信仰貌を一瞥して置くことは、必要であらう。

先づ、バルトにとつて、紳は認識し難いものである。人間が人間としてある限り、紳を所有することも、叉知

ることもできない。知られるところのもの、若しくは、′饉験されるところのものは、紳では無くして偶像である

紳の世界と人間の世界とは、全然切り放たれた二つの相異なつた平面である。人間は、自己の力を以てしては、

断然紳と接することはできない。只然し乍ら此の互に相異なつた二つの平面を相接偶せしめるものが存在する。

それはイエス・キサストである。即ちキリストを切線として、二つの相異なつた平面が相接解する。歴史的、時

間的、事物的、直観的なる硯寛世界は、イエス∵キヱトにおいて、それと封立するところの他の世界、即ち非

直観的な世界と接解する。硯茸世界は、非直観的な世界との接偶に依って硯茸世界としての特質を失ふひ従って

メシア即ち救主としてのイエスの出現は、時間の終局であり、パラドックスであ少、勝利者である。メシアとし

てのイエスは、我々に知られ七ゐる平面を﹁上から垂直に﹂︵sen打echtさロOben︶貫通するところの我々に知

られない平面である。イエスが死から復活し給ふたこ七を信することは、イエスをメシアとして襲見することで

ある。而してそれが啓示︵Offenbarung︶であ▼る。潮ち啓示に依ってイエスの中に存する紳を認識する。

信仰とは、かくの如き非現茸的なことの存在を確信することであるぺ従って信仰の封象は、不可視の世界であ

る。即ちそれは、未だ知られす、従って、隠されて居るものでなければたらたい。目撃する七と、感得すること

信仰の神秘主義 七 占3j

(9)

経験することができないように隈されて居るものでなければならない。然らば、信仰は、如何にしてかくの如く 隠されたものを蔑見し得るであらうか。バルトは云ふに、それは、すべての人間的経験、知識、所有、作為を根 本的に無力にすることに依ってである。すべて人間的なものは、垂虚であり、妖乏であり、紳の前では塵と衣に 過ぎないとするところに成立する。かくの如くであるから、信仰なる過程の特徴は、積極的なものを否定する鮎 にある。それは先づ彼岸︵len乱ts︶を導き入れんが薦に、此岸︵Di虎持its︶ を基虚にしなければならない。紳 の前に素裸に立ち、最も高慣な虞珠を得んが薦に貧しくなり、イエスの薦にその生命を失ふところに信仰は成立 する。それは方向轄換である。 然も信仰は人間の信心 ︵Frひmmig官吉 では無く、紳から来るところの信茸である。バルトはギリシア語の

pistis即ち信仰を或場合には G−aube 即ち信仰と課し、他の場合には Treue 即ち信賓と諾してゐる。即ち

pistisは、一方紳から人間へ来るもので、その場合が紳の信茸であり、これに應答するものが人間の信仰である としたのである。此の鮎、ダイスマンの反動的紳轡王義を思はしめるものがある。兎に角、紳の信葺に反應する 焉には、自己の慣値を否定しなければならない。 かくの如く考察すれば、信仰は、たしかに消極的であり、否定的である。従ってバルトは信仰はいつ進もいつ 迄も繰返し繰返し暗黒と不確葦と峯虚とに跳び込むことであり、或は叉信仰は、停止し、沈黙し、斬り、無知と なるてとであると云って居る。.然し乍ら、信仰はそれだけに留まらない。信仰には、更に積極的な或物が存在す ることもバルトは認臥てゐる。バルトに依れば信仰は、紳の知り給ふところを知らんとする一個の冒険である。 信仰の両前主義 八 占ββ

(10)

か1る日陰が可能なのは、それが人剛的可能性を何等考察しないで、むしろ人間的叶能性を難関に附すると云ふ

ことを前線とし、人間が、自己のあらゆる可能性を和白身のうちに、香紳のみのうちに消費し壷して後に得ると

ころの可能性だからで為る。元来自己を茎虚にするのは、自己以外のものを以て自己む占有させんが馬である。

此岸を排除するのは、彼岸を導き入れんが馬である。然らば、如何にして彼岸は入り乗るであらうか。それは危

機︵krisis︶を経過することに依ってである。

危横とは何であらうか。危機とは、あらゆる人間的存在が顛覆されるその瞬間である。此瞬間において人間は

アダムにおいて紳から墜落し、キリストにおいて紳を再蔑見する。前者において直観的な古い世界が始まり、後

者において非直観的な新らしい世界が始まる。前者において死の宣告があり、後者において生の宣告がある。如

何なる紳の再蔑見も、生命への突入も、人間がアダムにおいて紳から墜落し、死の宣告を受けその鮎に始まちな

いものとては無い。ヘラクレイトスの言ふが如く、不死−死−不死なる循環として考へて差支へ無いが、し

かも此相反した二つの状態は、決して、等しい力を持つものでは無く、或は叉永遠の循環でも無い。さうでは無

くして、前者、即ち死から、後者即ち生への韓同︵Wendung︶であり、後者が前者に打克つことである。即ち、、 眞の遊動は、死から生への最後的進展である。これが危機的瞬間である。それは只畢に分離︵Scbeidung︶を瀞 らすばかりで無く、分離と同時に、封立する者同志の問に非分離︵Ent・Scheidung︶即ち決着を斎らす。かくの

如き死から生への棄揚が、バルトの所謂る研記法である。

バルトをして云はしむれば、死は此の世の最高津則で挙る。何となれば、此の世の中にあつて、此の世界を克

信仰の神秘主義 九 β3ア

(11)

信仰の相継尭義

一〇

服し、若しくは革新することを指示するところのものは、すべて只死としてのみ出魂するからである。即ち道徳

は、精神に依って肉照を否定すること1してのみ硯はれ、哲畢は、死せんとするソクラテスのすがたにおいての

みその概念を認識することができ、進歩は、眈に存在する為のを不休に否定することにおいてのみ完成され、火

烙は何物かを焼き蒸すことに依ってのみ燃えることができる。キりスト教においても叉死は最高法則である。我

々の古い人は、キリストと共に十字架につけられることに依ってキリストと共に復活し、キリストと共に生きる

ことができる。我々自身が、此の古き人と全然同一であると云ふことを告白すると、そこに我々自身とは異なつ

た別個の立場を暗示する。此の別個の立場と我々との問には距離がある。

キリストと共に死ぬることに依って、そこに此の非直敬的な立場が出現し、その立場から認識するところのⅩ

の力が有数となる。此のⅩを枢軸として古き人から新らしき人への嘩凪が完成される。即ち、先づ第一に、此の

Ⅹから古き人は罪人であると定められる。その定立は何等顧慮するところ無く、厳然としで行はれる。第二に、

此のⅩから私自身が、此の罪人なる古き人と同一であるとされる。第三に、此のⅩから私自身が此の古い人に封

する礎刑の宣告に署名するようにと強制される。第四に此のⅩから、古い人と私との間のかの距離が造られ、私

と私自身とが恰も同じものでは無いかのように私を封象化すると云ふ不思議な可能性ができる。第五に、此のⅩ

から、私とかの非直観的な新人との同一性が設定される。即ち以上の如くⅩを枢軸としてキリス.トの死なる危機

において、私の肉饅性、私の現存塞が問題となり、且つ棄揚をれ、非直観的な新らしき人との閲係に置かれ、キ

り′ストと共に十字架につけられ、此の新らしき人と同一となる。

jβざ

(12)

Ⅹは我々に知られた人剛性を棄揚した彼方に春癒すろところのもので、我々人間は、罪人として十字架につけ 朋 ほ られ、死して葬られ、キリストにおいて此のⅩと同一とたる。それはやhゆる﹁然り﹂と﹁否﹂との押香であり 此岸と彼岸、あれでもありこれでもあるを拒否したものである。即ちあらゆる二元性、緊張、雨極性、背反を挺 香したものである。バルトは、これを積極的不可能性 ︵einepOS賢くeUnm厨−icbkeit︶ とも云ひ、これは綻東 軍なる否定として隠され、罪の可能に封立したものであると云ふ。 信仰とは、人間が紳において在ると云ふ一個の興へられないことを、輿へられたものとして確認する焉に信祝 することである。古き人から斬らしき人へ、古き世界から新らしき世界へ不過時に進展することを信することで ある。キリストと共に死ぬるとは、十字架を一掃期として、我々の存在を我々白身を超越するところの紳的必然 性において把捉することである。即ち人間の終局において紳の開始を見、紳の怒りの嵐の中に、紳の愛の光を認 識することである。その限り我々は信じてゐる着である。かくして人間は紳において在り得、比較し難い進展が 起り、退挿せす、後見しない韓向が完成される。何となれば、信仰は、範封的瞬間の光、即ちキリストの十字架 の光においては、単に見えるので無くして存在するのであり、蛋虚で無くして内容であり、単に人間的信仰で無 くして紳の信寛であるからである。我々は、キリストが我々に代って死に給ふたこと、従って、我々は彼と共に 死ぬることを信する。我々は、十字架の死の彼岸に刑現せる非直観的な新らしき人と我々とが同一であることを 信する。我々白身が死の認識、復活、及び紳に基礎を置くところの永遠の存在︵E詠︰⋮邑なることを信する。 か1る永遠の存在なる我は、最早や硯茸の我では無い。現茸の我を粟揚した彼岸的存在である。キ句ストにお 信仰の神秘主義

(13)

信仰の神秘主義

一こ

いて盲を人を殺し、キリストと共に復活し、彼と共に生きるところの存在である。従つて、彼が語り、彼が聞く

ところの言葉は﹁紳の言菓﹂︵GOtteSWOrt︶である。彼は最早やギリシア人でもユダヤ人でも奴隷でも自由人で

も男でも女でも無い。キリスト教曾は、かゝる危機を経た人々の囲饅でなければならない。それは、ギザシア的

神秘主義の如く自己を昂揚させることに依って得たところのもの、即ち↓itanismu∽では無い。むしろ反封に自

己を棄揚することに依って得られたものである。

以上がバルトの主張の要鮎であるが、これと今まで私が述べたところと必しも矛盾しないと思ふ。特に神秘主

義むダイスマンが試みたように、能動的と受動的とに分類し、。ハウロのそれを受動的だとすれば︰ハル†の主張

するところと甚しく相違するとは信じられない。只ダイスマンなど.の見方よりかバルトのそれは、遠かに析︰畢的

であり、若しくは存在論的であり、・その意味で何れかと云へば心理的なダイスマンよりか遠かにすぐれた或物を

有してゐると云はなければならない。︵以上は近く畿表せんとする著書﹁使徒。ハウロの紳轡王養﹂の一部である︶。

鋸拍牒§

三ニー三〇、。サント前一六・三、。リント後一・ニ四、l三・五、L“︹t賀ann曽m邑rief.s.登 Deissmann︰Pau︼us.s﹂−︼・− 佐野課﹁イエスとパケニー八〇貫、 佐野諸﹁イエスとパウニ一入〇京以下−Deissm呂n︰Paulus㌦.〓−.

Windischるーaube︵R・.G・GN︶ ︵Nこ l・Weiss︰Urchr訂tentum︸S.u∽¢ff.︵NN︶ Deissmann︰Pau︼us一S.uN

佐野辞﹁イエスとパウロ﹁一七九頁

Deissmann⋮Pa已us一∽﹂Nの.

Deissmann︰Paulus−00●−NPff● 佐野課﹁イエスと.ハウロ﹂二二三−・二三〇貰

Deissmann∵EcどくOm Osten−㌶u∽.”巴ff.

(14)

布 施 浩

−支那俳敬一般の史的宙分と隋朝

印度日本の俳敦に比較して支那俳教の有する特色の一は経論俸繹の事賓であつて、而かも停詳と蛮仰と必ずし

も同時でなく、俸課さる1も遂に弘賛されざれし幾多の経論もあるから、其扱ひ方には相常困難する。それと云

ふのも、俸課そのものが支那彿教徒自らの欲求によらす、印度西域に蟄達せる併教豪側の欲求によつて脾来され

倖課されてゐる場合も多々あるからであつて、従って倦課されても弘賛されす、又は或る年月を経て漸く研究さ

るゝに至る場合もあり得る。斯かる偶畿的な事賓は、印度日本の俳教が概して畿生的で扱ひ易いに反し、支部俳

教史が扱ひ悪くたる所以であつて、而かもその偶費性なる桝に支那彿教の特色が認められ、のみならす、この特

色たる偶蔑性の停滞は其の初俸より末期に到るまで緯聾するのであるから、支那彿教史が動もすれば薙列的とな

るのも無理ならぬことである。

さりながら、筍しくも俳教史を扱ふ限りに於て、出来るだけ獲達史的に扱ひたきは山々であるから、こ1に於

て、支部に関する限り、俳教史上の節分が必要となるのであつて、従来も幾多の霞分が試みられてゐる。詮明の

都合上先づ、橘氏の詮を畢げやう。

隋朝彿数の睾糸と折衷義挙

隋朝彿教の尊系と折衷義挙

J4J

(15)

情朝彿数の挙系と折衷義雄 俸澤義解時代−初期より南北朝末まで、 猫立組織時代!隋瑚より中庸まで、 規範要求時代 − 中居より唐末まで、 漸衰退歩時代 − 宋巳後 攻に伊藤氏の詮、 経典働謹時代 − 後漠三園両晋、 俳教研究時代 − 束晋南北朝、 叉或人の詮 準備時代 − 漢より束晋まで 研究時代 − 東晋末より南北朝まで 組織時代 − 隋唐 組述時代 − 宋巳後 又或人は 古詩時代−!薙什己前 膏謂時代き一階唐己前 新諸時代−・き隋膚巳後 ∫〟

(16)

等といろくな説がある。 最後の誰は柑謂史の宙分として見れば差支へあるまいが、是を支那俳教史一般に適用することは無意味であ る。 橘、伊藤両氏とも初期を倖澤時代と栴するが、俸諾は初期より少くとも中庸まで盛に行はれてゐるのであるか ら是、を初期のみの名栴とするわけにはゆくまい。第二期を研究時代と呼ぶことにも同様の意味から賛成し得ぬ。 且つ又隋唐を一括し組総時代と稀するは従来諸家の通例の如くであるが、隋唐を一括すること、及び此時代のみ を組織時代と呼ぶことには、隋には隋の特色があり、資料に廣狭の別はあつても、組織の嬰は其れ己前より行は れてゐるのであるから、此鮎にも賛意を表しかぬる。叉、研究時代と呼ばれる第二期の院分に於て、道安巳後む 此の時代と見撤すのが通例の如くであるが、足れ亦、予の讃同しかねる鮎であつて、薙什三赦の倖諜、思想及び 其影響を再検討すれば其の不備は白から知らる1であらう。 線じて、従来の詮は羅什己後隋朝に及ぶ研究に於て、幾多の学派と其の教理史的畿達を見逃してゐる場合があ るやうに思れる。南北朝隋唐三期の系統上教理上の宙別が判然しなければ、種々なる意味に於て俳数史的研究の 慣値を滅するのではあるまいか。是等の鮎を考慮し、数理の襲達に重鮎をおき、撃沈宗派の興亡を顧慮したと思 惟する予の匿分を掲げ、併せて隋朝俳教の特質的意義を明かにして見やう。 梅毒時代−−漠三園繭晋 − ︵−彗1告○︶

畢涯時代1南北朝 −

隋朝彿故の単糸と折衷義孝 ︵告−−当e ふ㍑

(17)

︹此協分は昭和九年五月の宗敦畢大骨に発表せるものなるも紀要が出版されぬ故、こゝに再録した次第である︶

右の表の見方を簡翠に誰明すれば、各王朝は夫々の時代に相雷する主要王朝を掲げたもので、王朝の始末と直

下に記す西暦年代と多少づゝ食ひ蓬ふのは其馬である。叉各時代の名稀は夫々の時代に於ける特色を表現せるlも

ので、例外的尊貴もあり得るが、大同についたものと御承知を願ひたい。

第一期を俸諾時代とし、道安巳前を此期に入れるが一般のやうであるが、前にも言へる如く、俸諾は少くとも

中庸まで盛に機緯されてゐるのであるから、それを此時代のみの名稀とするは面白くない。然るに格轟は薬俸申

の法雅侍等に明記さるゝ如く、時代の要求に應じ流行せる常時のみの出来事であり、特に東晋時代となりては流

行の極、弊害甚しかりし故、遂には格養迂而確本とか、光背格養於理多連などと反封さる1に至った程であり、

且叉、常時の俳教界豊ハの理解に於ても謂はば格養的であつて、資料不備の故もあるが到底南北朝の轟撃に此す

べくもないのが望芸あるから、此時期を特に格養時代と名づける所以である。年代を西暦︵−彗−告eとする

は、安些向の渡奔より羅什死文己前を意味するのであつて、初めか二四七年とせるは資料の鮎より年代を明記せ

るのみで、彿此ハ初倖の時期よりの意味に他ならぬ。此の鮎先づ異存はあるまいと思ふが、道安を此時代に入れる

ことにほ或は反射意見があるかも知れぬ。道安は常時に於ける名怜で、肇繁簡と共に箱竪にょつて長安匡伴はれ

折衷時代 − 隋朝1 宗派時代 − 唐朝 組述時代 − 宋朝 朽朝仲秋〃撃糸と折衷未撃 ︵笥−−思ぃ︶ ︵靂丁虫5 ︵芸可m薄︶ ふ紹

(18)

神堅をして﹁鹸以二十濁之帥最二塵陽”唯柑二人苧﹂ と語らしめ、召磐歯の牛に封し造安は一人であると説明

せし机てゐる梓、有名であり、其事桔も抜群ではあるが、泣安撰の序文などを見るに、反格義豪でありながら格

義の痕跡を留むるのみならす、薙什自身の名聾及び其の後世への影響には此すべくもないから、造安港師は此時

期に入るべきであり、格弟時代の殿とするが至常と考へる。

第二期を嬰派時代とする名稲に就ては恐らく異存はあるまいと思ふが、年代及び人師に基づく区分には種々異

説もあることなれば簡畢に予の見方を説明するであらう。此期の始めを西紀四〇一年とするは薙什三赦の死文に

ょって、常時の支部彿教界が一欒したと見らる1からである。先づ般若研究の方面を観るに、道安時代迄の夫れ

は、六家七宗と言はる⊥共何れを見るも、後の窒観併教特に三論家の夫れには此すべくもなく、幼稚なもの又は

格義的なものであつたことーど否み得ない。三論家の客観とは、嘉群が屡々其述作中に伶菜の詮を引用して自家を

舞護し、又は閲内相承を反覆主張することによつて自明なる如く、夫れは薙什桝倖の基観即ち龍樹の容貌に基づ ●

くものである。如何に道安巳前の容貌を讃歌するとしても、夫れを龍樹の容貌以上に見積り強調する人はあるヰー

い。支那の俳教拳界は全く羅什にょつて大乗併教の根本精神並に俳敬一般の指導原理としての中道及び是等に根

祇する組舷形饉としての中晩俳教を俸授せられ、暗夜に燈を待たるかの如き観を呈し、従って其思想は爾後の俳

教思想界に多大の影響を及ぼしてゐるのが尊貴である。叉、㌍典弘賛の方面に於ても正港葦の壁仰牽く絶え、妙

法輩濁り南北に仲播せるのみならす、現在も佃〓示の本典として流行しっ1ある尊貴など鱒言はすもがな、津牽

折の正しき試み方と親方とを数へ、末法思想の原頭に立ちては末法中興の師と仰がれたるが如き、粘記すべき事

隔朝彿数の撃糸と折衷義撃 ふ紹

(19)

隋朝彿数の単糸と折衷義挙 一入 項であり、薙什三赦の偶値を永久に不滅ならしむる所以の一である。へこのことは昭和四年巳降予の主産する伊であ って、詳しくは宗教研究新節六巷四姫神隅参照︶ 倍一つ宙分上考慮さるべきは鷹山の慧遠との紺係である。慧遠は周知の如く、仰の道安に勝るとも劣らぬ常時 の名倍で、薙什の釆支に先立つこと約十年西紀三九〇年既に廃山に於て有名なる白蓮祀を組織し俳道修行に専心 してゐるのであるから、此念併法門の側より見たる君達を如何に扱ふか、而も遷返は薙什より先輩で、薙什の長 安に入れる四〇一年には什は五十八鼓、遠は六十七歳であつた。従って、学派時代を羅什巳後と見倣すは名檜慧 遠を無税する.かの如くにも考へられるが、教理史や思想史は必ずしも年代や年輩を迫ふものではないのみならす 薙什釆支後の鷹山教徒の動静、什遠稲師の問に起った十八田に及ぶ問答往復、遠価慮後忽ちにして衰微せる慮山 の俳数等の事茸を回顧し、特に慧遠が教理上の霞要事項を羅什に問ひ、又は弟子法領をして西城に梵本を求めし めたる事茸を想ふ時、庶山彿教徒の問に教材的不怖と其れに件ふ不安ありしを否み得ないから、たとへ慧遠は先 輩であつても薙什の後に任するが重富と考へる。南北朝及び北ハれ巳後の大勢を考慮する時益々此の感を深うする 次第であつて、是れ、四〇一年什公非文の年時を以て撃沈時代の目敏鮎とする所以である。 次に西紀五七四年を此時代の経と見撤す理.由を述べる。五七四年は北周武帝が北ハの領土内に長安を中心として 破俳を行った年である。隋は五八一年に先づ北地を一統せる時に始まるけれど隋胡桃教の義挙的特質は既に其れ 巳前に始まると見るべく、或時庭諦示寂の五六九年を以て北ハの契機と見倣し椙ぬでもないが、北地の仲教徒が大 寒移動亘閃始し或は山地に或は南都に潜入せるけ今、′∵い破㈱が正接原囚㌢∴kして居るい周武ハ破仰は五七七午北 ■ ふ柑

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啓を亡せる睡再び婿はれ、前にも増して北西仰教徒ハ大堪南腰を丘言に至つてゐるが、北地伸教徒の大拳移動は 五七四年の第一同破俳に始まるのであつて、山に隠れたる者、還俗せる者は別とし、市波lノ〆﹂怜倍に共名キ留む る者に苦海法務等の講師ありしを指摘し得る。慧湛は北地理盤家の璧延の弟子で、周武の破俳に遇ひて所より陳 に逃れ、津軽も同じく難を金陵に避けて智者大師に遇ひ、師に従って陳の大建七年︵西紀五七五年︶天台山に入 った人である。隋朝俳教の特質は、後に説明する積りであるが、南北俳教の義挙的混合又は折衷にあるのであつ て、其の傾向は人師の移動に始まり、人師の移動は北地一般の不安に原因してゐるから、北周の勢力強大となる に反し、北奔の勢力次第に衰へたる五七〇年前後が恰も其の移動時瑚に相常するので、前に、眞諦示寂の年時を 契機と見てもよいと言へるは此の意味に他ならぬ。従.って智者の金陵に赴きたる︵杢ハ七年︶、慧思の商品に入れ る︵五六八年︶も亦斯かる時代相と言へるであらうが、是等は特例であつて、文献の明示する桝、此時代に於け る北地教徒の大拳移動は周武の第一同破彿迄遡り得るのみであるから、此時代の経りを此破仰の年なる五七四年 と見倣した次第である。 第三期は主として隋朝を意味し、此の時代を︵彗料−の缶︶の約七十年問と見る。此の期の特色を系統的に見れ ば、畢派時代の終りであると同時に、次期宗沃時代の始めをなすものと言ひ得るであらうが、この時代は系統的 にも義挙的にも混合又は折衷の一般に流行せる時代であつて、而かも其れは主として陪都長安に現れたる現象で ある。 支那彿教史上異彩を放つ隋都の五衆は文帝の勅令により公認されたる義挙檜の衆画であつて、衆には夫乍衆主 暗部仰紋の燕系と折東光塑 ∫47

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があ少、皆勅令によつて定められてゐる。夫れ等の衆と衆主とを表示すれば、 淫楽衆主となりし人、 法線︵開皇年中︶ − ︹綬高伶倖十︺ 竜眞︵同 十六年︶ − ︹同上 十二︺ 尊曽︵隋慧遠の亡後︶ − ︵同上 十二︺ 十地衆主となりし人、 票蓬︵閑皇十七年︶i︹同上 十二︺ 婁壌︵同 年︶ − ︹同上 十︺ 大諭衆主となりし人、 津彦︵開皇十六年︶ − ︹同上 十︺ 賓襲︵同 年︶−・︹同上 十二︺ 智隈︵同 年︶ − ︹同上二十六︺ 講律衆主となりし人、 年︶ − ︹同上二十一︺ 決選︵同 右の如く四衆に関しては文献明らかであるが、庸一つ擁論衆主があるべくして無く、境野氏は淫楽十地の二衆 主を拳ぐるのみで、他の三衆に裁ては中諭、成貰、棟論草しんかと臆測してゐるに過ぎない。又、橘氏は右関東 頼朝加数の澤系と折衷義挙 、占4g

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の他に紺門儀主として法應︵牌十九︶を出すけれど明文があるわけではないから、衆主の明白なるは浬繋十地大 論律の四衆に限られる。けれどもこの五衆琵琶は隋い開封出土ハ年及び十七隼に渡る出奔新であつて、勅命による ものであるから、是により俳教学次が公認されたとは言ひ得る。斯くの如き公認は俳教が常時畢派的に蟄達して ゐた盛であるとはいへ、階朝俳教の盛儀を想はしむるものであつて、而かも是等の撃派が玄英三赦の膵朝︵芝山年︺ を契機として或は特化し或旦衰亡してゐるのが事寛である。それ故、この鮎から観れば隋朝俳教は拳派時代の経 りであると言ひ得る。 然るに、玄奨踪朝巳後部ち初唐となつて、或は看板を塗り替へることはあつても、とにかく正系的に存按せる は天台華厳律の三宗であり、是等にあつては隋朝より初唐にかけて其の教嬰的組織が試みられてゐるのも亦尊貴 であるから、この意味に於て隋朝併教は唐朝の始めをなすと言ひ得るのである。叉、唐が隋に代り王朝の欒化は あつても、都が依然として長安なりし馬もあらうが、隋朝迄に畿達し来れる諸撃派はともかく唐朝となつても系 統的に存続して行ったけれど、玄奨の踪朝頃より英系統絶え、甚だしきは師弟相携へて驚養を捨て意思に参した 溝州の如き者もある位で、六四五年は畢派時代より存繚せる諸派滅亡の契機となつてゐるのが尊貴であるから、 此年を以て折衷時代の終少と見撤すのである。 徒死一般の翫方によれば隋は唐朝に入れられ、組織時代と見倣されるけれど、斯かる匿分による限り、前述の 如き天台聾厳壁二宗のみの説明をなすには差支へなからうが、略ぼ六四五年を契機として正系的には滅亡したる 提琴二論棟論等諸派の史的説明にはあまり便養でほあるまいと思ふ。然るに前記の如く隋朝を匿介し別立すれば ● 棺胡桃致の〃十系と折文案押 占4亀

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隋朝彿致の畢系と折渡義孝 ニニ 是等諸派の興亡に於ける必然的理由を判然ならしむるに甚だ好都合である。巳下更に項を改め、階朝を別立せし むるが至常なる特質的理由に論及するであらう。 〓 畢派宗派の別と階朝俳教 教理養畢の方面より見たる階朝件数は支那俳教史研究上恐らく最も興味あり且つ暗示に富める時代であらう。 前代に畿達し江の南北に興起せる幾多の撃次が夫々嘱目の立場から教畢的組織を左し、教相判秤の行はれたるこ

とは、天台が南三北七として指摘して己釆、有名な事項であつて、南北朝期に於ける各撃沈の教撃的畿連には相 常著しき嘱目的立場があつたのである。日本の俳教史家は概ぬ是等の畢派を完と呼んでゐるけれど、是等を唐朝 に興起して週末時代迄も礪綬せる天台、渾などと比較する時、そこには白づから別個の色彩あるを観取し得るの であつて、其の最も著しき鮎は組師尊崇の風である。輔家に於ける組師尊重の風は散りに有名で、慧能と言はす 六孤叉堅ハ組大師と言ひ、而かもそれで通る旧しになつてゐるのは他宗に見られぬ芙瓢と言へるであらうが、天 台家に於ても童安己後の述作に於て此の風が見える。天台の使用せる妙法華に普門品重頚がなかつた鴬、天台智 者に此重頒の繹なきは告然であるが、此の頚の流行せる中辟巳後に於て、法華文句記を著せる妙繋が依然として 重頒の繹を試みす、週末に入つて四明は漸く重朗の詫繹をなしてゐるけれど、其の断り書きに於て、﹁荊渓が輔 行記中に重煤の文なる遺著於本人を引用してゐる位だから﹂とか、﹁迩式の誌繹もあるから是に倣って話す﹂等と 言つてゐるのは、やはり組師尊崇の美風と言はるべ洋一である。崩骨法準結成式史∵三上H巳下甥照︶ 然るに、南北朝時代の述作を見るに、現存する文献少しとは云へ、共のヰに組師食崇や風を詔むる株価離で J丘∂

(24)

畢者は聾者夫々の立場を五ひにカ託し、謂はば自家擁護を続かてゐるに過ぎない。洩典蹟減α軌利払御報遠蠍.ト卿 の慧軌に五時の教判があつたと言はれるけれど、梁代ハ浬蜃豪は何れ私‖ゲ‡踏襲せす、竹、怖々の主張をたして ゐるに見るべきである。 唐朝己後に於ける阻師擁護の撃と南北朝時代に於ける自家擁護の撃とは、白づから別個の風格む備へてゐるか ら、是を主張する夫々の衆圃を同様に呼びなして完と稀するは予の讃成しかねる主なる鮎である。我が日本の俳 教宗派に︵奈良靭中葉巳後︶類似する型を支部に於て求むるとすれば初唐より中庸にかけて勃興せる天台華厳法 相絆の各宗に保つべきであつて、隋以前に遡るは困難である。隋朝の五衆に類似せる諸衆が奈良朝初期の大寺に 於ける畢倍の類別に使用せられ、それが後に完と改められたのであるとは、この方而の聾者の詮を顧慮して到達 し得る結論である。換言すれば、日本俳教史の初期を飾る件数撃の内容は、略染の武帝時代及び其れ巳後に於て 朝鮮に侍れる畢派時代の俳教が朝鮮より日木に侍寒されたものであつて、日本書紀等に俸へらるゝ如く小野妹子 等を隋に遺されたことはあつても、隋の影響は僅少であつたと考ふべきであるから、従ってその大勢より見れば 支那南北朝に於ける畢涯的併教が取りも直さす我が国初期の俳教内容であつたと言ひ得る。然る忙、奈良朝己後 の俳教が次第に宗派化してゐるのも事寛であつて、其の反面には黎徳太子柄去︵西紀六二二年︶の後、朝鮮件数 との関係次第に薄らぎ孝徳天皇の白雉四年己後攻第に支那大陸併致との直接紺係頻繁となるに至ってゐるのも事 葺である。日経四年は唐の高完永徴四年︵西紀六五三年︶であつて、玄英鐸朝後九年目に相督し、恰も唐の宗派 的俳教が将に勃興せんとしてゐた時代で偽るから、我が奈良朝巳後の俳教が益三示派化して今日に及んでゐるの 轄利休数の丹糸と折末弟撃

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も亦止むを得ざることゝ.去へる。 要するに諸種の事情を組合する限り、支部南北朝期の畢派俳教と初唐巳後の俳教とは、たとへ其れが同系統の ものであつてゞも、其間に於て著しき相異が認められる。例せば、地諭畢派と華厳宗の如き其の適例であらう。 華厳宗の畢系を隋巳前迄遡らうとすれば、勢ひ地論次の系統に還元するが常然であるにも係らす、華厳宗の立場 からは極力、社順初組誰を提唱しヽ宗旨の嘱目仕草王張してゐる教樺的事寛は注意を要する。片言隻句を諭嘩と しての系統の論年に興するものでないが、斯くの如く史畢的と教椎的㌢の二極の系統論のなし得る事賓に注意し たいのであスて杜順初組説が教椎的であるとすれば、智正系字王張するは史畢的であつて、華厳宗の嘱目性を王 張する鴬には、たとへ史嬰的なる智正系誰の事案なるを承知してゐても、致樺的杜順初組詮を提唱する必要があ る。予は杜順渾師を抹殺せんとするものではなく、地論学派の末流に相異ない華厳宗が、′其の末流たるを言はす して、別に杜順絆師なる組師を栴揚してゐる事葦に注意したいのである。 華厳宗に於けると類似の問題が天台宗の系統にもある。天台の倖統誼によれば龍樹を初組としてゐるけれど、 支部に於ける尊貴上の組師は北奔慧文で、︵南章票思の師︶師夙寧画筆天眞礪悟と俳組統紀は倖へてゐる。けれ ども、綬高恰倖十七の南喬慧思俸には悪文を記して、時渾師悪文衆レ徒数百、衆津清索道俗高侍と述べ、甫岳は 悪文に師事して法華三昧む詮得したとあるのみで、慧文の侍記は殆んど不明と言つた方がよい。が、さりとて悪 文を抹殺する必要など亮も無しハみならす、滴苗侍︵損高僧侍︺・には﹁法華二昧許得の後、悪文の許を節し、管 澱等の帥を訪ねて自己の所行を述べたる折夫れ革む師より随寄せられ、研練途久、前貌捲拇L壮観濾配線転注恵 一 阿部彿欽の準糸と折更義孝 呼

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する必要がある。この記録にょる限り甫膚の木綿は幕文に相異ないが、共他・葦等の師む沸点て研練久チした

ので空かか、夫れ竿の影郷︰蓋ぺて然るべきである。けれギや彿配耗紀の南元祓には懸敢等の諮帥た訪ねて研

練久うしたと言ふ記録なく、竪長雨師の名は﹁北朝魂稗の代に俳造を行する者﹂として奉げたる九師の申の第二

及び第五師に入れ、而かも夫れを若丈俸の初頭に掲げ、更に、第七文師、第八恩師、第九顔師と配列し、結果に

於て師弟同列たらしめ

替日、北奔以二上背之華燭悟二中貌づ両葛藤諸師無レ輿二競化↓非三明最嵩蟹朗二能知一也。

と述べて、竪最諸師を卑下してゐる風があり、綬高伶倖の南島俸に現れる璧最と其の扱はれ方に於て、矛盾と

は言はぬが少くとも相異する所ありとは言六るであらう。斯くの如きは華厳の場合と同様、教棟的と・異学的との

立場の相異による表現の礎化に他ならぬと言へる。

若し、史学的立場より天台の系統を諭すれば、地諭畢派の影響を受けつゝ、羅什系の畿連せるものに過ぎぬ、

︵宗教研究新璧ハ空ハ耽拙稿参照︶と云ふことになるが、かく説明しては教楯的立場に不都合を来すこと自明の理で

ぁるから、こゝに於て俳組統紀が渡高檜侍の記録を改めて蟹最諸師を卑下し、責苛〓人を讃歌するに至つた理が

首肯けるであらう。こ1にも史畢的立場と教椎的立場との矛盾する阜寛がある。南地三諭家に於ける檜朗初組詮

に就ても是と類似する客質があるが今は略す。

要するに、同系統の一派であつても、畢派時代︵主として南北朝︶より宗派時代︵初唐巳後︶に進む時、其間

前述の如き攣化を認め得るのが事茸であつて、而かも夫れは時代思潮の現れと見るべきであるから、南北朝を畢

晴朗彿次の雄糸と折東義拳 方舟

(27)

頼朝沸教の牽系と折衷義挙 二大 派時代と呼ぶに封し、初唐巳後唐末までを宗族時代と稀し、週末己後を、唐末及び五代の破俳による文献紋乏の 事茸あるによつて特に組述時代と名づけたものである。 隋朝沸教は学派時代と宗派時代との問にあつて、一面は学派的であり、他面は宗派的である。前者は初唐に滅 亡せる捏奥地諭持論各派の亀長を意味し、後者は天台華厳等諸宗の勃興を意味する。是等両様の分子を含む隋靭 は簡単に膚朝俳教と共に扱はるべきではなく、別田するが便養であり、叉別糾すべき理由もあるのであつて、以 上の他更に、隋朝に流行せる折衷養畢も亦その理由の主なるものと言へるであらう。 三 隋朝の折衷薬草 陪朝沸教が軍緩完舐扁時代の問に介在し、分梅色を以てすれば折衷時代と呼ばるべきであると竪糾述の如くで あるが、数理義軍上の特質を指して折衷主諒と栴する所以のものは浬撃二諭天ム〓持論地論の各派に於ける相互の 数理的交渉に於て言ふのであつて、先づ三諭笹沢から共特色を指摘して見やう。 三論派の教義が三諭玄養の態度に止まるべきものと見るが重賞なる限り、嘉鮮の言ふ研によれば三諭家が純粋 に其の立場を守ってゐたのは棟山の伶詮時代迄であつたと思ふ。嘉絆の淫楽紅蓮意に

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就二樺山大帥雇講二三論及摩討般若禾レ開二捏架法華ペ諸学士請レ講二浬奥経可大師云諸人今解二般若兎復命こ農 00000000eO 講ぺ復重請、乃薦遺二本宥今無侶一両造本レ講レ文。至二興皇一以奔始大弘二斯此ハペ とあつて、.是と略同文が大晶控義疏に出で、−ヒ親師六年在二山中一不レ溝二傲控↓ 唯講二大品ぺ 臨二無常隼一路畢土 請レ溝二捏整ぺ帥云諸人併二般新︼郵綾欲レ溝二捏粟二空で 郎J

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と述べてゐることによつて、前きの樺山大師が檜詮なるを知ると共に、略周女で繭経疏に記されで.おることか ら、北ハの文献的憤伯も刑常夫なるた知ろりであつて、楯山に什せる櫓詐が捏聖法華ふ㌶拍ぜ守、畔大高般若のみを 講じたこと、晩年に至り弟子法朗等が散りに懇請せる蕎、途に浬嚢経にある本有今無の偶を唱へたのみで、途に 講義をしなかつたと言ふことが知られ、同時に至興皇以来始大弘斯典と記さる1にょつて∵軍楽経の講義は法朗 巳後始て盛になつたもので偽ると解してよいやうである。従って恰詮の態疲に於ては純三諭の姿を認め得るも、 法朗巳†は時代思潮に乗じて欒態せる三論と言ふこと喧なる。倍詮が略五五五年頃示威すると間もなく、弟子法 朗等は相携へて†山したらしいの.であつて、法朗は五十二抜︵五五八年︶にして輿皇寺に入り、約二十年間活躍 して五八一年に示寂してゐる。大晶般若は無相室軌に立脚し、捏薬法華等は淫楽豪の所謂妙有税に立つものであ るから、三諭が客観た建前とする限り、淫楽法華を採用するは思想的に矛盾せすとも、否定の首相に於て茸相を 表現せんとする三諭の建前に矛盾するは確かである。臍詮が懇請さる1も遽に淫楽法華を講ぜぎりし深意はこ1 にあると思ふが、南北朝末期に活躍せる法朗は自然、時代思潮に粟つて二重の建前を持してゐたので、それが其 の倍音赦に侍へられ更に組織大成されたわけである。吉成は一方に於て三諭撃の組織を大成しながら、他面法聾 捏盤推摩華厳等の講義詫繹を試み、そこには常に三論の立場から所謂食通を試みてゐる事貴を見逃し待ない。例 せば淫楽紅蓮意に 00 000 我今依二経文一白云、無碍著名二大浬輿可故無所得此控宗也。 と云へる如き、無碍とか無所得の語些二論家の常用する所であると同時に自家の建前を明示する所以のもので 隋朝怖欽の単糸と折真義準 ∂∂β

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頼朝彿批の隼糸と折衷羞撃 二八 あるが、大増山整は押棄家の小■右とし、力説する所であつて、常に三徳又は四徳等を以て説明せられるものである。 然るに苦痛は、他家のハ一一ルとする大淫楽と自家の建前なる無待とを結び、無得即ち大淀架と言ひ切れば、大浬斐共 著が自豪の典麗中に縛げこむと思つたか知れぬが、淡身常任と同義にして而かも一骨根本的意味に扱はれてゐる 大理薬は、大と言ふ所に眈に妙有思想が現れてゐるのであるから、是を無碍なりと言へば反つて無碍の意味が曖 昧になり、三論家の立場が破的になる恐れがある。 嘉群は自家の教養を組織大成すると同時に、常時流行せる、従って其の背景としての一派の存在する諸種の大 乗経典に前記の如き詫群を試みたから、嘉鮮自身の束持はともかく、結果に於ては無力な折寧王養に隋つてしま ったものと言へる。その態度は他派の教養を自家へ取り入れることであるから、厳密な意味で折衷とは言へぬか も知れぬが、相反する諸家の畢誰を結合して得たる新説は眈に他家の詮でなく、又自家本木の詮でもないから、 従って自家の建前を無力に導くものであつて、嘉砕の場合も同様、是れを折寧王義的態度と言ひ得ると思ふ。無 力な折寧主義はやがて張力なる思想の聾現によつて影をひそめるものであるが、嘉群によつて大成されたる三諭 畢派は、初唐に及び、師示威︵六二三年︶の後、幾何くもなく正系上滅亡してゐる。蓋し、三諭畢派は嘉群によ って大成され、嘉鮮によつて亡びたりと言ひ得るであらう。 天台家は三諭家と異り、天台山を中心として智者自ら葦践修行に専心した位で、唐巳後に於ても共催布接する のであろから、隋湖に組織★れながらも例外と見られろ可能性が多分に在米する如くにも思はれるが、小止軌に 経信給を引用してゐる天ム‖に於て、その摩討止軌に起信諭の影響ありや否やはともかくとして∵其教利は南北各 ぷぶβ

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派教判の折衷と言へぬであらうか。化偶の四教、五時の刊敢は要するに南北諸派の教朝を手踪よく纏めたもので

あつて/て﹂には折衷的色彩が諸肌、hル禦じユ、はいが、周武被仰わ影轡により漸く騒がしくなった金陵む札柵て ゝ、北地より難を避けて南渡せる法彦を伴ひ、五七五年に天ム‖山に入り、茸践修行に専心したる天ムUには、教義

畢上折衷分子が多少混入してゐるとしてぺそれが自家の衰囚とはならぬ程度のものであるから、隔胡に於ける

例外の一家と見倣してもよい。

次に北地に於ける諸学派を見ろに、隋湖に於けるその動静は浮影慧速等の撰述によるが便衣である。慧遠は常

時長安に於ける名恰の一人で博学なりしことは現存する述作によつて知られるが、堂遷が長安に還つて始めて持

論を開講せる時のことを曇逮俸に記して、

000000000〇

千今一多夫。

と述べ、慧追白ら末座に庭して諏講したと云ふのであるから、常時長安の沸教界に於ける概論畢の評判が素晴

らしいものであつたとは想像に難くない。慧遠は常時北地に於ける淫楽家の名倍量建と共に、十地及び捏薬の畢

に於て名聾高く一方の領袖であつたにも係らす、持論を縛講したのであるから、其の影響は自然、師の弟子に及

び、他方曇延及び其弟子達も亦同様であつた。

曇遷は周武の破彿に遭って南渡する以前、主に鄭都にあつて華厳や地諭の畢を修めてゐたから、金陵へ難を避

け、桂州刺史の宅で棟大乗諭を得た時、全如意珠なりと言つて喜んだと倖へられ、隋興るや建業を節して、先づ

隋朝彿数の拳系と折衷義孝 よ汀

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彰域に赴き、基盤寺に任して棟諭畢を開講したのである。造宣が糠諭北土川閑と言へるは此の時のことで、恐ら く、開皇元年︵五八一年︶か二年のことであらう。其の名馨は四方に高く、隋の文帝の聞く所となつて遽に開皇 七年秋詔が下ったので、畳遽は弟子と共に長安に入つたのである。慧遠が糠諭を群議したのは此時のことである が、棒大乗論や起信論が此時始めて長安に侍ったと解すべきではなからう。曇遷が商社己前眈に鄭都に於て起信 論を研究した如く遺宣が俸へてゐるのを共催信じないでも、眞諦示威︵五六九年︶と共に、南都に容れられなか った蹄諭畢は北博せざるを得なかつた蔑もあらうが、弟子達は倖詳群論を携へて應山方面に去ってゐるのである から、五七〇年巳後となれば起信諭も北侍する可能性が充分あると言へる。従って曇遽が商社︵五七七年︶巳前 に起信論を研究することも不可能ではないが、遅くも五八一年巳後となれば確かに北侍してゐろのであるから、 曇遷の長安開講巳前に北土に侍播してゐたと考へ得る。 且叉、扱高恰俸中諸所に、撃於称諭とか、諮紐諭、又は講揚放論などと記すは、挿大乗論と明記する場合は別 として、必すしも常に棒大粟論を意味するのでなく、廣く持論畢の意味に解するが至常なのではないかと思ふ。 若し、夫れ等の凡てが特大衆論の意味ならば、特大衆論疏が少くとも一部や二部は現存すべきである。然らすし て、起信論疏のみ幾多現存するは、通宝の言ふ﹁砕論﹂が持論撃の意味であり、手頃な起信諭が挿論畢概説の意 味に於て胱く弘賛された禿ではないかと思はれる。現存する隋朝の文秩を見るに過信諭疏の数多なること以外に 起信諭の引用さるゝことは︵別に統計を取って見たわけではないが︶恐らく撒天魔盃最上であらう。慧遠の大束 養老八舐苑た見ても起仁論わ引用甚だ多く、起信論を骨子として解説してゐる凪が見受けられる。それ故、隋胡 描朝彿故の揮系と祈伸小義塑 古5β

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に流行せる糠論と∴⋮∵T∴北ハ内容を探れば題目論り流行に他ならぬと見て大した先立へはなささうであるから、 起〓論行中心にしてm都伸教畢界の動向を罫ぬて見やう。 既に指摘したる如く、.閃皇の初め長安を中心として夫々特色ある三大法師が活躍してゐたわけで、即ち、一は

曇延、二は慧遠、三は曇遷である。此巾、曇延は北地理楽派の統領であつて、曇遷が長安に概論を創開せる翌年

︵五八八年︶七十三歳で示滅してゐるが、師の著書として起信諭疏︵上巻のみ︶の現存するは有難いことであり

本疏の内容は、要するに自家の捏盤撃と持論遜との所謂倉通を試みたもので、眞如と四徳、淫楽と阿梨耶、本党

と彿性等の脅迫的解群が随蔭に現れ、何れかと言へば流行見なる擁諭撃に自家の学説を順應せしめたる風が見受

けられる。

次に慧速は飴りに有名で周知の事でもあり僚白もないから、簡軍に記しておくが、地論及び浬奥の畢に通じた

人で、夫々の養疏が現存してゐる。共中浬契経轟記に現れる師の畢的熊庶が曇延と略同様であることは此際特に

注意を要すると思ふ用其の義記中に起信論を引用するのみならす、起信諭の照相用三大を共俸借用して大捏奥の

大を説明し店るが如き留意すべき態度であつて、畳延、慧遠共に埋葬の畢を梼諭撃に接近せしめてゐる。

元木、起信諭は大腰から見れば確かに無鼎唯識む説き、無相峯脱的諦明が随所に顕れてゐて、所謂眞如縁起を

主張するものではないと思ふが、長い論述の過程に於ては唯心論的宇苗諭を説くと見られる句がないでもない。 、

例せば、此淡身北色鰭故能硯於色とか、一切色法本来是心等と言ふが如き夫れであつて、血の瓢を重税し布街す

れば所謂虞如縁起誰も導き出される理である。斯かる要素を有し、且つ棟諭畢概説の軌ある起信論に、純観念論

掩即仰㍍の隼系と折衷義挙 占占ク

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三二 暗部彿敦の畢系と折真義単 わ建蘭にある捜索堕を結びつけ新解梓を施したのであるから、前にも言へる如く、斯かる新解繹は眈に両派猫自 の畢詮ではなく、足れ亦折衷養撃と言はる1が至常である。畳蓬の著書は現存せぬ政明言は避けねばならぬが、 陪初長安の彿教畢界を代表してゐたと思はる1曇延君達の二大法師が共に起信論の影響を受けてゐるのであるか ら、雨着の弟子に至っては師の風を受けて交互に顆試せる鴬、系統的に観れば曇琴慧遠曇蓮三師によつて唱導さ れたる浬染地論概論の三学派は全く混合してしまつたのが事茸である。畢系の混絡と、夫々猫存せる義挙の折衷 こそ障都長安沸教界の大勢であつたと言へる。 要するに隋朝俳数は江の南北を間はす、畢系の混清せるのみならす、歴史的背景を有する諸畢涯の教理は折衷 せられ、大勢上、一も嘱白的本木の立場を持してゐなかつたと見るが不党であ少、全く、諸派封立の気力無き苦 情にありなぶら、隋窒の保護厚かりし番外貌よりすれば五衆、二十五衆の制定となり、支那俳教史上の資金時代 であるかの如き翫を呈してゐたのである。従つて、和暦に及び玄突入竺踪朝するや、是に封抗する力既になく、 長安の蕾撃沈は一様に衰亡の路を辿るの止むなきに立ち到り、俄然、族暇鮮明なる新宗派の勃興を見るに至った のである。斯くの如き次第であるから、畢派時代より宗派時代に移る過渡期として折衷主養の流行せる陪朝件数 を別立することによ少、支那俳教襲達の経過を一骨明瞭ならしむるものと信する。 古β0

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所詮法的耕単に於ける人間の問題

■ヽ

桑 田

秀 延.

∵ 人間の問題は、周知の如く、最近円霜仙界流行の問題である。殊に、存在論的に親られたる人間の位置は、現下 脊撃界に於ける一主要問題の如くに見える。キェルケゴール、ハイデッガー、ヤスペルス等の思想傾向が、それ を示してゐるのみならす、我が国に於ても、之等思想家の影押︰等もあつて、人間存在が一つの新らしいそLて清 澄な問題とせられてをり、著作や難詰の舶糾等にそれが著しく規はれてゐる。. 辣記法的榊堅は、その日1硯の賞初以来、キェルケゴールの紳撃的、哲撃的思想上、直接間接深き交渉を有って 釆たので、一般思想界に於けるかうした傾向と相雷踊係して来た諾である。現在に於ても、この神学の指導者の ぅちには、例へばゴーガルテンやブルトマンの如く、或はグリゼバッハに或はハイデッガーに、思想的に交渉を 有してゐる神学者もある。しかし耕琵法的紳草は、哲mナにあらすして紳撃であるので、人間存在の理解に於ても 諸種の腎畢的人間撃とは、基礎的に相違してゐるのである。紳単に於ては、紳が中心的な問題で参りまた関心で あり、従って人間の存在もこの紳畢的な立場から考へられる。かうした意味で、神学的人間観には、哲畢的な人 m観とは相違した猫自なる興味がそこにあサ、徹底妹がある。・殊に.、所詮法的紳拳の人間観には、従来の基督勢 桝誰法的輌単に於ける人間の問題 占CJ

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ヽ lニ四 耕葦法的柵埜に於ける人間の問題 人問観に於けるギリシャ的姿素の混入に封する強烈なる抗議と、聖書の琴不に伐嬢せる明確なる訂正とが含まれ てをり、紳嬰史的に観ても、注意すべきものがある。 この紳畢に於ける人間の問題をとりあげることには、右の如き一般的関心がそこに存してゐるばかりでなく、 稗澄法的紳畢自櫻の最近に於ける事情から云つても、この間題は我等に封して一膝の注意を促してゐる。この紳 畢の中心的問題は、上述の如く、紳の問題である。この鮎は、現在と錐も何等攣りがないが、しかしこの紳畢も バルトの﹁ロマ書﹂が最初聾刊せられて以来、既に十数年を経過して釆てをり、この間に紳の問題或は紳の言の ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 問題それ自慣は、大硯論議し毒され、現在では、この根本の問題の延長乃至一部分として、紳と人間との関係の ヽヽヽ 問題が、紳畢的論議の清澄なる主題とせられて禾てゐるやうに思はれる。例へば、紳畢の畢的基礎づけのために 哲畢的な人間撃を探り入れることの可否の問題、紳の啓示の理解に封する人間の側に於ける準備的要素を認める や否やの鮎︵之は所謂﹁自然画撃﹂の問題である︶、倫理生活に於ける自然的秩序の問題等が、それを示してゐ る。 かうした意味よりして、桝許法的紳単に於ける人間の問題を、概説的に、そして叉最近の事情に基いて、簡裁 してみたい。 〓 ヽ 我等の周知せる如く舞謬法的紳畢は、最初、近代の自由な主観的な紳撃に封する一つの強烈にして明確なる抗 議としてこの1Iヒ界に出現した。日日lな紳塑とは、云ふまでもなく、シュライエルマッハー及び彼の流れを汲む紳 βββ

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