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『宗教研究』216号(47巻1輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

デカルトにおける神の観念:本有観念即外来観念の構造, 西村浩太郎, Idée de Dieu chez Descartes:

idée innée venant du dehors, Kotar

ō NISHIMURA, pp.1-27.

2,

「ミロクの世」の構造, 宮田登, On the Structure of the “Miroku World” in Japan, Noboru MIYATA,

pp.29-50.

3,

古代イスラエル人における生死観, 宇野光雄, Die Konzeption von dem Leben und dem Tode im alten

Israel, Mitsuo UNO, pp.51-69.

4,

古代エジプトのミン神崇拝について, 山崎亨, About the Worship of God Min in Ancient Egypt, Tōru

YAMAZAKI, pp.71-88.

書評

5,

石田慶和著『信楽の論理』, 長谷正當, Shōtō HASEGAWA, pp.89-98.

(2)

かり、そのような分類の始祖はデカルトに帰せ られている。しかし、これらの意味をデカルト 自身の思想と結び付けてひ 考えるならば、彼の形而上学の根本構造に係わ る 重大な誤りを犯すことになろう。 鮒 ある。わが国に於ても、このような理解を一 冊提 として、上記の三諸はそれぞれ﹁本有観念﹂ ﹁外来観念﹂﹁人為観念﹂ になどと訳されている。﹁外来観念﹂が﹁本有 観念﹂の反対概念であることは殆ど哲学史に 於け る 常識とさえなって な る 神の観念 か 念 の を

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観念」いる 事物の Ⅱ 笘

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一、

カルトに於ける神の観

,、

1本有観念

外来観念の構造

西村浩太郎

(3)

先ず。 デヵ ルトが観念という語を三つに分類し たということについて。よく引合いに出されるの は 同省察Ⅱ﹂の策 十節︵フランス語本文︶である。彼はここで、﹁ 観念のうちの或るものは私と共に生まれたよ う に思われ、或るもの は 私とは別の外部から来たよ う に思われ、また 或るものは私自身によって作られ発明されたよう に 思われる﹂と述べ ている︵曳ム 遷 ︶。この個所のラテン語原文は 已メオ ︶のの仁丹 0 ヨ︶年のあ曲目がの︶ コ 目付 こが の ,が由 ㏄のめⅠ づ 0 コ ドト こ目㏄ e@ の 夕山 リのゆ ヨ のちの 0 ︵ ぉ 審の日 ぎゃづト 年占 苫 ︵︵

昌お

︶ とな っており、これから 古匹 ちに田のりの㏄Ⅰ v 毬 ︵ ぃ ︵ ぎの を ﹁外来観念﹂とす る 理解が生まれたものと思われる。しかし、 文 中に日田ませピリの目汁 け ︵︵フランス五 % では二日ののの 日 三の︶という言葉が 有るのを見ても判るように、三つの区別はただ 蓋然的な意味でのみ舌口われていることに注意しな ければならない。 この文章のすぐ後で、デカルトは次のようにも 舌 回 っている。﹁或いは、もしかすると、これらの 観念のすべてが 外 部から来たものと言えるのかも知れない。 或い はすべてが生まれうきのものかも知れないし、 或 いは作られたものか も 知れないのだ。それらの真の起源を私はまだ 見付けてはいないのだから﹂︵韻の 9 。即ち 、彼 は 、観念を起源別に 分類することの無効を出 昌巨し 、いったん立てた 一 二つの区別を直ちに取消しているのである。これ は 、彼一流の分析的 方法を用いた、言わば方法的懐疑の再現である。 ﹁省察 L に於けるデカルトの論証の過程を大別 すると、方法的懐疑 手 私の存在の証明ょ神の存在の証明上物体的 事 物の存在の証明という順序になっている。いま 問題になっているの は 、その第二番目の段階、即ち私の存在の証明 から神の存在の証明に至る過程である。ここでは Ⅹのハ レ 的立 0 ネい Ⅰのハ レ の耳目 という命題によって示される既に確立された 原 理から出発して、真なる認識が体系的に演 縄 され てゆく過程が述べ ろ れている。デカルトはこのような 演経る 行なう にあたって、過去の臆見あるいは私見を再び特出 し 、それらを分析し 吟味することによって疑い得ない真なる認識の みを残していくという方法を用いている。従って 、この過程では、 彼 が 何を真なる定義とし何を臆見としているかを はっきり区別する必要がある。彼が観念という語 を 三種類に分けたの (2) 2

(4)

つに 他ならないのであるが、この場合の本有 観念は﹁外来観念﹂の反対概念ではなく、言わ ば ﹁本有性﹂と﹁ 外 3

ものを言うのであるから︵

きじ、前提と

なるそれらの観念の定義が成立しない限り問題

とすることはできない。

﹁人為観念を作るための前提となっているも

のを結論することは明らかに論点の先取である

﹂とデカルトは上記の手

紙の中で言っている︵

㏄㏄︶。

にそれでは論点先取の虚偽を犯さない真の方 於

法は何かというと、それは私自身の精神の観念

即ち

no

め田

︵ 0

のⅡ

幅 。留ヨ

かの命題に含まれる認識を出発点とし、またこ

認識にのみ依拠する方法である。私の精神の

観念というのは本有観念

(3) 「 育 と や 存 と の に は 察 は

まさ

外来るの して はり 在は して 区別 デカ 分類 その

J

Ⅱ 観 が 前 同 ま 認 を ル す よ の に

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三つ

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念しも ば界事

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別ト省

(5)

在 念 う の あ の 取

か直

もちには

にお言意

へ え

味そ

にはこ観るよに

はならないと彼は考える︵ 目ひ ㏄︶。このように 私の精神の内にぎ

ふ方に含まれている神の 観念を 、 彼はど うにして超越的な神の存在と結びつけるのであ ろうか。これは本論の主題でもあり、後に詳しく 論ずる り もりで が、 彼は神の存在を証明する論拠を、本有観念 こそまさに外来観念であるという事実に求めてい るのである。 神 念は私自身に生まれつき備わっているという 意 味 では本有観念である。しかし、私自身がそれを 作り出したと 言 とはできず、それは私の外部から来たと考えぬ ばならない。その意味では外来観念である。この ように、神の観 本有観念であると同時に外来観念であるという 一見矛盾した構造の内に、内在的な神の観念から 超越的な神の存 至る証明の論理が求められるのである。 れでは、 日臥 兆曲 巨づ 0 コ︵ ゃ おのを﹁私の外部に有る ﹂事物の観念とする解釈のほうはどうであろう か 。先ず言葉の から見てゆくと、第一に、それは感覚器官ある いはそれ以外の何らかの手段を通して得られた 観 念 あるいは 像と る ︵ 丈 l Ⅰ ど ︶。例えば﹁昔を聴く、太陽を見る 、 熱を感じる﹂などという時の感覚的な事物の観 念 である︵女山 第二に、それは私の外部に有る事物から来るよ, っ に思われる観念である︵ 目 Ⅰ 00 ︶。ラテン語 の ㏄ 宙つめ臣由ヱ 絹の ﹁偶然的に生じる﹂という意味と﹁外部から来る ﹂という意味の両義があるが、それぞれ第一の 王 忌味 と第二の意 該当すると舌口えよう。しかし、既に述べたよう に 、観念の起源はまだ知られていないという理由 で 第二の意味は に 斥けられたのであった。この場合、私の外部か ら 来たと思われる観念が実際は私の外部から 来 たのではないの 知れない、という疑いが提起されたのであるが、 このように幾らかでも疑 う 理由のあるものはす べて 偽と見徴 す 来性 ﹂の 雨 契機を共に含むような絶対的観念で ある。この本有観念には神の観念や物体︵三角形 ︶の観念が田主 でヱ住富 に 含まれているが、私はまだそれに気付いては い ないのだとデカルトは言う︵目結 ど 。従って 、 真なる定義を媒介の とする証明体系によって神や物体の観念を導き 出し、それらの観念から神や物体の存在を結論し たとしても論点の先

(6)

デカルトに於ける 神の観念 というのがデカルトの方法的懐疑に於ける指導 原理であった。その原理がここで再び適用された わけであるひ しかし、観念の外来性がただ疑われたというだ けではまだ充分ではない。我々は日常生活に於て 極めて強固に感覚 的 事物とそれを対象とする観念の一致を確信し ているのである。そこでデカルトは日経の注 き 三こ幼の分析を更に 進め、そのような確信の根拠が正しいかを否か を 検討する。ここで彼が例に挙げるのは二つの 異 なる太陽の観念であ る 。一つは、人々が通常太陽について有する観念 であり、感覚器官を通して外部から来たと 思 われる観念、即ち 乙爪のミ亡 の口ヰりのである。この場合の太陽は肉眼 で 見た通りの小さい太陽であるに過ぎない。 所 がもう一つ、太陽 は地球よりも遥かに巨大なものであるという 観 ゑ がある。このような太陽の観念は天文学者が推 論 ︵即ち本有観念︶ をまじえて 伯り 出した観念、即ち人為観念であ る 。この二つの観念のいずれが真の対象を示して いるのか分からない という点にデカルトは疑いの理由を見出している

一致するかどうかは 極めて疑わしいという結論になる︵女ム ひ Ⅰ︶。 このように 乙篠 ののの申せの三打おという舌ロ葉から 八 外来性Ⅴという意味が失われ、感覚器官を通し て 偶然的に得られ るという意味だけが残されたわけであるが、それ ならば神の存在の証明が終了し、方法的懐疑が 解かれた暁には再び 元の意味が復権するのかというと、デカルトの 説く所に依れば、片色かのの 祭才目 こざ es はもはや 厳 密な意味では外来観 念 と呼ぶわけにはいかないのである。 光 、色、 立 、匂い、味、熱さ 、 冷たさ等の観念は真偽不弁 明 であり、果して 実 在 的な事物の観念であるのか或いは実在しない ものの観念であるのか判らないと彼は言う︵ 丈 @ ト ㌍・ 8 ︶。冷たさは 熱 さの欠如であるのか、熱さは冷たさの欠如であ るのか 明斬 判明に区別することができない。たと えば、冷たさが単な る 欠如に過ぎないとすると、我々が普通冷たさと 考えるものは実在しないものの観念、即ち偽の 観念だということに ぴ なる。これは観念に於ける質料的虚偽︵ざ口ののの︵ か ヨ % 今市 目 ︶と呼ばれているものであるが︵ 目 し ㏄ 廿 ︶、この場合、 5

(7)

ハ Ⅰ︶ り Ⅱ @ や ・ヒリ 守コ Ⅰ e" つ っ。 ぃ ヴ目下 すり ︵ ec ゴ コ田Ⅰの etc ヱ ︵ @ 自絹 0 口 0- いつゴ曲 0 の 0 ㌧ アざ, Ⅰのつい・ ぃ ∼・Ⅱ二コ臥の ,や Ⅰ く 0 目 ヱ 00 ・ づヰ呂ざ P ㌧・ w ヨア ・ づゐ の 0 ﹁Ⅰの了了 温 En 申ぃコ零ぢ 夕卜の コ ・ ミ ・ レ 牙の コ まりの Ⅱ・の 二 ㏄ っダ のっヨ ヨ の 巨ぎ お山のり - のり。 仁 お由の宙 ヨ降 ゴ 0 年の 、 Ⅰの ミ Ⅱ・Ⅰ い ︶の・ コ ・の 0 ニゴ @ のコ Ⅰ いつ e コ の駆の︵︵︶ ひ巨で すⅡ 乱由仁 の 曲 e しのの Ca ︵︵のの・︶ 窩ダ p.12 の・ 29 の・ etC. 一般辞書では、例え ぱ Ⅰ曲目 0 仁のの 0 年目 ⅩⅩののお c すを見ると、 日簿 のい 年セ 0 コ︵ in 沼は八支ひのの 由由 - く 5 目 臣っコ円宙 のののの コ の - 宙 e の。 ヴ 五キ のい Ⅹ 任 曲目 0 年Ⅰの " づ P Ⅱ o つ つ 0 の - ︵ -0 コ ル @ 年休 0 の ぎコひ ののⅤとなっている。その他Ⅰ ヰ ho 屈ののの, ニ ︵︵︵ か ・ D 目 ヨ痒 ・ 抽 obe ︵︵の各種辞典を初めまい 鯨榊 圧 しミョ e の︵の︵の ﹁ やレ np 年ひ 日 ㍗ ︵︵害心 臼お谷の の い ︶の辞書等すべて同じ語義を採用して いる。なお、日本語訳としては本文に挙げた他に 、崔ひ 00@ 目コ かおには ﹁生得観念﹂﹁生兵観念﹂﹁天賦観念﹂等、 ぎか のの 崔採ミ ︵ ざ es には﹁習得観念﹂等、 ぎか のの︵ ac ︵ げ 拮には﹁人工 ぬ念 ﹂﹁創作 観 念 ﹂﹁仮作観念﹂等の訳語がある。 ︵ 2 ︶デカルトからの引用はすべて AT 版 ︵ 0 の 亡く ﹁のⅠ のしのの c ぃユ のの でぃ ︵の・中ロ り 3% 巾 ・円がコロの﹁ セ ・ トのゅと の 巻数と負数を示す。 ︵ 3 ︶後述するように、本論では神の存在証明の前に ﹁外界の存在証明﹂が入ることになるが、これは広義 の神の存在証明の内 に 含まれるものとする。なお、物体的事物︵ 目 こめのの c 0 屯 or の ヱ のの︶とはより厳密に言えば質料 酌 事物︵ き 。お のヨか 円かⅡ∼ 0 ミ プゆ の︶ のことである。 客 二目上り P りご べきである。ラテン語の㏄申せの コヰ ︵ ぎ のの意味が このように変化せざるを得なかった事実の内に デカルトが行なっ た 神の存在の証明の勝れて思弁的な意義を認め ることができるのである。

一口 - よ え @ ,り

| 田 がのませの 口 * 山 おのを﹁外来観念﹂と呼ぶことは もはや適当とは言えない。むしろ﹁偶発観念し と 呼ぶ 自身である、即ち私自身の不完全性に原因があ る 、というのがデカルトの結論である︵ 目占 ㏄の︶ 。この結論に則して であると言わねばならない。表象されたものと 非 存在との区別も付かないのであるから、 このような観念の作者は私 である。即ち 、 極めて実在性の乏しい観念であっ て 、﹁私の外部に有る﹂事物の﹁実在性﹂を 表 わすには程遠い観念 冷たさの観念の対象となっているものは冷たさ そのものではなく、間違って冷たさと考えられた 他 のもの、例えば白 6 在 的な或る感じ︵ お 吊目白日の 目コ 田村 ョぎヴ 0 ヰののののののⅩ︵﹁ 斡ぃコ ︵の︶︶のの︵年日︶であると彼は甘口 っている︵ 白濃い ︶。の このように、日本のの 注づ 0 コ︵∼ c ののというのは私の 外部から来たのか内部から来たのか定かでない よ, よは鮪 ︵ 砂金 を 舌口・︵ ,の

(8)

以上で、デカルト解釈に於ける二つの通説が誤 りであることは充分に示し得たように思われる。 外来観念と思われ たものが実は外来観念ではなく、外来観念と対立 するかに見えた本有観念こそが実は外来観念に 他ならないというの が 前節に於ける帰結であった。この帰結が デヵ ルト の八神の存在証明Ⅴの論理体系とどのように 関係するかというこ とが次の問題である。観念という語の三つの 区 別は方法上の単なる仮設に過ぎなかったのである が 、そもそも神の存 在 証明の過程で、このような区別を想定すべき 必然的な理由があったのであろうか。 デヵルト は この三つの区別を設 走 することにより具体的には何を求めていたの であろうか。予めその答えを言うならば、彼の真 の 狙いは、神の存在 証明よりもむしろ 八 外界の存在証明Ⅴにあった と 舌口うことができるのである。従って、この証明 0 週程に於ては、 先

爵ず

通俗的な意味での﹁外来観含を批判する 必要があった。真なる世界認識を与えるものは 何かということが問題の 抑 焦点とされたのである。日省察Ⅲ b に於ける デカルト自身の叙述を仔細に検討して見ると、 彼は先ず外界の存在を結

柁諭

し︵ 目 l Ⅰ 毬 ︶ 、 次に神の存在を結論する ︵女 @ 毬 ︶という二段構えの証明を行なっている ことが判る。従来、外

とするのが一般的な解釈であるが、これは﹁ 外 界 ﹂の存在証明と﹁質料 か 曲事物二︵ 宰 。 姦ヨ燵 ヰかⅠ田の二のの︶の存在証明 とを混同した誤りであると言わねばならない︵ 目 ム臼 0. 巽 ︶。前者に於て デ は 物体一般の形式的な実在性が証明されており、 後考に於ては想像力や感覚の対象となる特殊的 および個別的な物体 7 (7)

II

︵ 4 ︶フランス語の穿 のコ ︵ ざ のの方はデカルトの時代 にはまだ使われていなかった 0 日省察 L の ブ ラ ソス語 本文にはの 臣ヒ 0 コ 侍ざの という語は登場しない。 ま簿ぃ宙つめコ ︵ @no が﹁外来観念 ﹂という意味で使われるようになったのは十八世紀後 半からである 0 0 片一 ㎡ ツ -00 すのヰ毛ぃ Ⅰ任 すけ Ⅱの - 円レざ目 0 臣 二のⅠ 卜 0 ひ円 せヨ 0-0 幅 5 仁 0 宙 0%-p コ % 二の オぃコ ㎏ ぃオ タトのの つ ・ p ﹁・ キ らでの ロヱり の

(9)

③ 往 者

と る 。しかも、彼が神の存在証明の必要を説く第五 節 に先立ってそれが行なわれている点に注目した @.O @ Ⅴ この個所に先立つ㍉省察Ⅱ J で、デカルトは no 哩 ︵ 0 の ゐ osE ョの 直観から ヘ 真理Ⅴの意味を演 紳 している。真理 は 観念と対象の一致である。﹁私は真なるもので あり、真に存在するものである。しかし何なの か 。私は言った 、 えるものであると﹂︵ 丈 lPo ︶︶と舌口うように、。 0% ︵ 0 のⅡ的 osE 日の直観から最初に導出される 観念は﹁真理﹂﹁ 存 ﹂﹁思惟﹂の三つである。これら三考の同一を ヘ 私 Ⅴに於て直観することが彼のいわゆる﹁ 明蜥 にして判明な知覚﹂ 村 ﹁㏄里田 降 ぎの甘での﹁のの 宮 ∼ 0 ︶である。この直観 と 共に、観念の対象となる事物の存在が先ず一 っ 証明されたこと なる。即ち 、コギト そのものは観念の内外とい, っ 区別を超越したものとして実在するのである。 しかし、 コギト の の 存在が証明されている。従来よく言われる公物 体の存在証明ゆという言葉が極めて 瞬味 な意味 しか持ち得ないこと は 、この一事を見れば明らかであろう。外界の存 在 証明と質料的事物の存在証明とはそれぞれ 里 一 った意味で物体の 存 在 証明である。しかも、デカルトの神の存在証 明は論理的には外界の存在証明として遂行されて いる点に注意しなけ ればならない。今、このような証明の論理を明 , らかにするために、彼自身が行なった八省察Ⅴの 順序に従って 、 神の 存在証明と外界の存在証明との論理的な連関を 見てゆくことにする。 外界の存在が最初に問題として提起されたのは ﹁省察Ⅲ L の冒頭に近い第三節に於てである。 デ カルトはそこで、 Ⅲそもそも観念の対象となる事物が私の外部に ︵ ゴ 。枕き日日︶有るのかどうか、㈲また有ると すれば、その対象は 観念と似ているのかどうか、という二つの問題 を 挙げ、これらのことを真に知りもしないのに、 ただ習慣の 力 だけで 外界の存在を信じてしまったことに誤謬の原図 が 有るのだと言っている︵ 曳 l Ⅰ お ︶。この個所に 続く彼の論証を見る と 、ここでは明らかに外界の存在証明を志向 す る 問題設定が成されていると三口えるのである。Ⅲ 0 間いに於て注意す べきことは、外界に於ける観念の対象の存在を問 うことによって、まさに外界の存在が問われて いるということであ (8) 8

(10)

デカルト や ﹁第四反論しはこれを循環論法だと言って 批 刊 しているが︵ 昌ト燵 -N ︶ 下 ︶ 、 デカルトはこれに 対して、神の存在が㈹ 月旦平明 ね知 ㌔を保証すると言 う 場合は、 明漸 判明な知覚の記憶について言われており、明断 判 明 な知覚が神の存在 9 に 於ける神の観念 有する観念の内に コギロ 以外のものを対象とす る 観念が有りはしないかということが次の問題で ある。 R 省察正日の 第三節に於ける問い、観念の対象となるものが 私の外部に有るのかどうかという問いはまさにこ 0 間題を提起してい ると舌口えるので かしる。 ナ しかし、このためには、観念と対象の一致をど のようにして見付け出すかということが問題であ る 。デカルトは そ の手懸りをやはり 00 雙 ︵ 0 の︵ 幅 osu ヨ の経験の内 に 求めている。私が観念と対象の一致を真理と して確信することの 内には、それが 明斬 判明な知覚であるという 意 識も必然的に含まれている。従って、明断判明な 知覚の有無が観念と 対象の一致を判定する基準となる。﹁省察Ⅲ﹂の 第二節に於て、﹁我々が極めて 明蜥 かつ判明に知 覚するものはすべて 真であるということを一般的な規則として、今 から定めておくことができるように思われる﹂︵ 目ム のご

昌ざ

︶ と 彼は述べている。明断判明に知覚されたものは 真である︵即ち存在する︶というこの規則は 、以 後の証明を導くため の 原理もしくは基準として立てられたものである 上記の文中には式ヨ 4 日の on で。拐のの dD ︵けのお︵ フランス語では ヱヨ の おヨ 三の橿 e 忠 あ ちづ 三のか︵の三 % ︶ とい う 舌口薬がある。これを見ると、上記の規則の確 実性には若干留保の付けられていることが判る。 この規則が一般的か っ 必然的であるためには、規則の効力を保証する ものがなければならない。後述するように、 デ カルトはそれを神の 保証に求めるのであるが、今の段階では神の存 在 はまだ証明されていない。それでは、神の存在 が 証明されるまでの 存在論的な必然性をいったい何が保証するのか と 舌口 ぅと 、それはまさに 明蜥 判明な知覚に他な らないとするのであ る 。即ち、 明蜥 判明に知覚されたものが真であ ることを 明蜥 判明な知覚が保証するということ になる。 円 第二反論 L

(11)

るような瞬間的現在の直観ではなく、持続的

現 在の直観であると三口わればならなけ。即ち、論理

的 必然をも直観する

能力と考えられている。従来、神の保証を必要

とするのは﹁比量的認識﹂の場合とする解釈を多

く 見受けるが、比量

認識と言えども精神のが︵︵の

コロ

。によって

明蜥

判明に知覚できるというのがデカルトの考えで

ある。このことは

﹁精神指導の規則Ⅶ﹂に於ける﹁必然的命題﹂・︵

。 づ 。

ム曲

。鰍ののお

臣田

︶の扱いを見ても首肯で

きよう︵おも

︶。

そこではの年ヨ

の Ⅱ 的

。しの目のの

という命題が

そのような必然的結合の一つとして挙げられてい

るが、デカルトは

れを直観的に認識できるものと考えているので

ある︵

パお

0- かめ

ト ︶。

それでは、神の保証はいったいどのような意味

で 必要とされるのであろうか。それは、上記の引

周文からも明らか

なように、既に経験した明断判明な知覚を再び

思い出す時の時間的な保証として必要なのだと

える。彼の説明に依

れば、﹁神は存在する、神は欺かず﹂という認識

がありさえすれば、

て或る事実を明断判明に

知覚したという記憶

があるだけで充分にその事実を確信することがで

きる。しかし、神の保証が得られない時は

、そ

の事実を証明するす

べての論理を

ぃ ちいち反復しなければ確信するこ

とができないと言うのである︵

㌧ も の︶。結局、

明蜥

判明に知覚され

(1o) 10

(12)

にどうかはまだ分かっていない。舌ロ 於 い 変えれば 、感覚器官を通して得られたいわゆる﹁偶発 観 念 ﹂を直ちに﹁外来観念﹂︶ Ⅰ

である。 デ しかし、少くとも算数や幾何に於ては観念と対 象の一致が 明蜥 判明に知覚されているのではない だろうか。と、 デ たものはすべて真であるという規則は 、コギト の 内的必然性に関する限り確実な規則として立て られていると舌口えよ う 。しかし、それが コギト の外界にも適用でき るものかどうか、また過去から未来に 亙 って持続 するものかどうかと いう点になお不確定要素が残るのである。従って 、この規則そのものの内に、世界あるいは神の 存在証明に進行する を 得ることになる。 論理的発展の契機が含まれていると舌口える。 そ れるの必然性を証明することによって、この規則 の 必然性も真の保証 さて、観念と対象の一致を見付け出す方法が確 上 され、 明噺 判明な知覚がその条件とされたので あるから、次に問 題 となるのは、いったい何が明 蜥 判明に知覚 さ れ 何が明断判明に知覚されていないのかというこ とである。﹁省察Ⅱ ヒ の 第三節および第四節に於て 、 デカルトは観念と 対象の一致を三つの類型に分けて考察している 。即ち 、 Ⅲ観念と観 念 そのものの存在の一致、㈲観念と外界の事物 の 一致、㈲観念と数学的対象との一致、の三つ である。田に関して は、 既に no 笹 ︵ 0 の﹁ め 0 当ヨ の 直観により思惟 と 存在の同一性が確認されており、思惟の様態と して有る限り、観念 の 実在性は疑い得ないものとされている︵ 目 l ト め Ⅱ︶。それでは、㈲の観念と外界の対象の一致 は どうかと言うと、 ま さにこの点が明 蜥 判明に知覚されていないのだと 舌口える。しかし、それにも拘らず、これまで 外 界の存在を自明なも 轍 のとし、地や 天や 星やその他感覚器官を通し て知られた事物を確実なものと考えてきた。 そ れが方法的懐疑によって 袖 疑わしいものとされたのであるが、まだそ の 疑いは解かれていない。 no 的 岸 0 の︵ 抽 。 貿ヨ の 直観によって 、 例えば れ ﹁感覚する﹂という観念そのものの実在は認 められた。しかし、その観念が果して外界の事 物 ・を対象としているのか

(13)

として先ず数学的認識を選んだと言える。しか

考えた理由は no め ∼︵。 の ︵ 拍 osu 日の認識を以てしても直ちに解消する ことはできない︵ 丈 @ 鮭 ︶。既に述べたように この命題の真理に は 未だ限界がある。つまり、その真理性は時間 的にも空間的にも限られている。 no 狂さの む 。 紐 日の真理は、意識 がそれを捉えている間だけ真理である︵ 目 l ト燵 ︶。真理はそれを直観している現在にのみ限られ ている。時間を介し てこれを思い出す時、そこに誤謬の混入する恐れ がある。一方、空間的には、私の観念と私 め存 在 の一致のみが知覚 され、私の外部に於ける対象に関しては全く無 力 である。 方法的懐疑の段階で数学的認識が疑わしいとさ れたのは、我々は最も単純容易な数学的命題に 於 てさえ間違うこと があるのだから、あらゆる点で間違うこともあ り 得るというのが理由であった。これは﹁方法席 説 ﹂に於ける懐疑の 理由であるが、﹁省察 ヒ では、神的な欺きの原理 ︵ ョ auv 酊のの品田③が世界を支配しているのかも 知れないという 芸ロい 方 なしている︵東山︶Ⅱ︶。そして、このような 疑 いの 理由を no 雙 ︵ on お 。望日の認識だけでは まだ解消できないと いうのが第四節に於けるデカルトの結論である。 数 と延長の観念は、観念そのものとしては私の ぬに 存在する。この 場合の観念とは数や延長を知覚する能力である。 デカルトは観念の意味に二面性を認めており、 一つは思惟能力とし ての観念、もう一つは対象の表現としての観念で ある︵ 目占 ㏄ こ 。 数 と延長の観念は先ず思惟 能 力 として私の内に有 ると舌口わればならない㍗。しかし、彼も舌口 ぅ よ う に 、 何ものかを示さないような観念はないのであ るから︵曳山の 轄 ︶ 、 ヨ然これらの観念の対象は私の内部か外部かに 有る筈である。そこで、このような数学的観念と 対象の一致を明 噺判 明に知覚できるかどうかということが問題にな るが、観念と対象の関係をただ内在的にのみ考え るなら ぱ 誤謬の生じ る 余地はない。例えば、 めキ ㏄Ⅱ 収 という観念とめ 十り Ⅱのという観念のいずれもが考えられたもの として私の内に有る

カルトは働の観念と数学的対象の一致という問題 に 考察を進める。ここで彼は、外界の存在を証 明 する方法のモデル

(14)

ということは疑い得ない。しかし、この二つの 数式を外界の対象に関係させると誤謬が生じるの である 0 これは、 デ カルトが判断に於ける形相的虚偽︵やロののの 吋 かざ ︵ ヨ 0 ︶︶の︶と呼ぶものであって︵田山㌍︶、この 場合は、いずれの数 式 が真なる外界の対象を示すか分からないとい, っ 虚偽である。数学にこのような誤謬の可能性が ある以上、数学的 認 識を用いて外界の存在を証明することができな いのは言 う までもない。逆に、形相的な虚偽を除 去し 、いずれの観念 が 真であるかを決定するためには、数学的対象 の 外来性が証明され、その外来の対象と観念の同 一 が明断判明に知覚 されなければならない。数学はむしろ外界の存 在 証明を侯って初めて基礎付けられるのである。 そこで上記の疑いの理由を完全に取除くためには 、 先ず 田 私の外部に世界が有るということ、㈲ しかもその世界に 於ては欺きの原理が支配していないということ を証明しなければならない。言 い 変えれば、 no

0 の︵的 0 の しヨ冴卜於 ける 明蜥 判明な知覚の真理を空間的に押し拡げ 時間的に持続させることが要請されるに至ったの である。このこと は、 既に述べたデカルトの課題、即ち観念の対 家 が私の外部に有るのかどうかという問いが、 世 界 としての神の存在 を 要請するに至ったことを意味する。 デヵルト 自身は、川神が存在するかどうか、㈲もし存在す るならば、神は欺く ものであるかどうかということを機会があり し だい検討しなければならないと第五節で述べてい るが ︵ 目 l ト蕊 ︶ 、こ 艶こで言う八神Ⅴが コギト の外界、或いは コギ トの 他者を示していることは以上に述べたこと から明らかであろう。 梅 デカルトは観念と対象の一致という問題を 三つの型に分けて考察したのであるが、その う ち 明断判明に知覚されて 即いないのは観念と外的対象︵数学的対象も含 めて︶の一致であった。それにも拘らず外界の 存在を自明なものと考え

化る

所に誤謬が存する。真なる外界を知るため には、先ずこのような誤謬の原因を取除かねば ならない。そこで彼は 、 か 誤謬の原因が コギト のどの部分に由来するか を 検討する。﹁省察Ⅱしの第六節から第九節に かけて、彼は先ず思惟の - ア 様態を分析し、㈹厳密な意味での観念、㈲ 昔 ギ心 と感情、㈲判断、という三種を区別する。彼の定 義 に依れば、精神に 13 C13)

(15)

よって直接知覚される思惟の様態はすべて観念 である︵昌お 0 ︶。従って。Ⅲの厳密な意味での 観念、即ち事物の像 としての観念のみならず、㈲の意志や感情の働 き、㈲の判断もすべて観念である︵

自あ

二皮

| ト遷 ︶。﹁これらの 観 念 をただ思惟の様態として見るにとどめ、何か 他の外界の事物に関係させようとしなければ、 誤 謬の生じる恐れはな い ﹂︵ 目 占お︶。所が㈲の判断 は 、﹁私の内に有る 観念と私の外部に有る事物とが似ているとか 一 致していると判断し てしまうため﹂既に述べたような形相的虚偽の可 能 性を含んでおり、従って誤謬の原因となる︵ b ハート い の︶ 0 そこで、このような誤謬判断の原因となるものは 何か 、 我々に外界の存在を信じこませる根拠は 何かということが 次の問題である。こうして、第十節ではいよい よ Ⅲ本有観念、㈲﹁外来観念﹂、㈲人為観念とい ぅ 三つの区別が持田 されることになる。この個所で最初に問われる のは、㈲の﹁外来観念﹂によって外界の存在を証 明 することができる かどうかということである。これはちょうど第一 二節で提起された問題の田、観念の対象とね る も のが私の外部に有る のかどうかという問いに対応するものと言えよ, っ 。その答えは、既に述べたように、﹁これらの 観念の真の起源はま だ 見付けていない﹂︵ 目ひ ㏄︶というデカルトの 一言に尽きるように思われる。即ち 、 彼も言 うよ う に、今はまだどの 観念が本有的なのか、どの観念が外来的なのか さえ実のところ分からない状態なのである。 しかし、この答えだけでは一種の同語反復に終 るであろう。外界を見付けていないのだから外界 の 存在を証明でき ないという論理になるからである。そこで、﹁ 外 来観念﹂の与える判断が実際に誤謬の原因にな ることを論証しなけ ればならない。﹁私がここで主として成さねばな みないことは、私の外部に有る対象から来たよ う に思われる観念に ついて、その観念がその対象に似ていると信じこ ませる理由は何かということを考察することで ある﹂とデカルトも 第十節の後半で言っている︵目し び 0 ︶。これは ちょうど第三節で提起された問題の㈲、外界に対 家 が有るとすれば、 その対象は観念と似ているものかどうかという 問いに対応するものと言えよう。上記の文章に続 く 第十一、十二、十 (l4 Ⅰ Ⅰ 4

(16)

デカルトに於ける

神の観念 こ

が 念 目白 そ

(2)

デカ見さ

と述

事 な は策 こん 通 を がこ が し 得 b

信念

@

従 し

的 こ の 方 。 が 法 こ 有 に の る

な う ど ら 一

-

な っ か い の を 。 方 知

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こ ) は の は の と 、

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葉 一 一 口 う ここ

根,こ

雛で

事物送りカー

の 」と れて 能力 決し また 片コリー 1

1

。1

15 (15)

(17)

であると舌口えよう。既に述べたように、彼は神の 存在を結論するのに先立って 、 先ず外界の存在 を 結論している。 上 記の引用文には﹁私の外部に存在するものが 有 るかどうかを知るために﹂とあるが、これに直接 対応する結論部は第 十八節に示されている。そこでは、﹁以上のこと から必然的に 、 私は世界に於てただ独りでは 無 いということ、この 観念の原因となる何か別のものが存在するとい, っ ことが帰結する﹂とされ、先ず外界の存在が結 諭 されている︵田ム 葵 ︶。文中﹁この観念﹂と言うのは﹁私自身が原 因 ではあり得ないような観念﹂のことであるが デカルトはこの 親 念 がいったい何かということを分析した後に 、 それが神の観念に他ならないことを結論する。﹁ 従って、以上に * 赴赴べ たすべてのことから必然的に 、 神は存在すると 結 諭 しなければならない﹂と、彼は第二十二節で 漸く神の存在を古里 ヨ する︵ 目ム お︶。 このように、デカルトは外界の存在と神の存在を 二段構えで結論しているのであるが、これを 単 なるレトリック と 解することはできない。確かに、結果から見れ ば 、最初の結論で証明された八世界Ⅴの存在を次 の 緒論では八神Ⅴ と 命名しているに過ぎないように見える。しかし、 二つの結論部にはそれぞれ独自の意味の有るこ とを強調しておかな ければならない。先ず 、 神の存在が外界の存在 として証明されている事実は否定できないであろ う 。次に、第一の 結 論 だけでは決して神の存在証明にはならないし、 逆に第一の結論なしに第二の結論を導き出すこ ともできない。二 つ の 結論部を一緒にして、私自身が原因ではあり 得 ないような観念が有る 、 従ってこの観念の原因 は神である、と舌口 え ぱ 論理は一見明快であるが、実際は神の概念に 関する先入見以外の何ものをも言っていないこと になる。観念の原因 と 神の存在とを結び付ける論理的な必然性を二 つの結論部の間に見出さねばならない。そこで、 次に 、 デカルトはな ぜこのような二段構えの証明をしなければならな かったのかということを、本有観念による 演鐸 ぬ 方法の構造の内に (16) を 見れば、彼が最初の問題提起から一貫して 目 指して来たものが外界の存在証明であることはも はや疑 い 得ない事実 6

(18)

I I I デカルトは no 哩 ︵ 0 の へ ぬ 0% ヨの 認識から礼金 の 二つの音味を導き出した。観念は、 田 観念その もの、㈲事物の像 ぬ という二つの性質を有する︵白山

。観念 はそれ自体として見れば思惟の様態であり思惟 の形相である︵

目お

0 ︶。

神言

い 変えれば、思惟が現実的に存在するため の形式である。観念のこのような即自的な存在 性を彼は ヘ

形相的実在

柑畦

Ⅴ︵ ふの ︶ ゃ ︵ か ︵ 0 ︵ 5 匹 汀 ︶と呼んでいる。 一方、 no 哩 do のハ的 osu ヨの 直観に於て、観念 は 観念自身を対象化してい

旺る

。即ち、観念は事物の像という側面を持っ ている。観念のこのような対自的な存在性︵ 或 いは事物の観念に対する か

レ、、

花序 性 ︶を彼は八対象的実在性Ⅴ︵︵の 麓 ︶ 円 ︵の。 庄 のの ヰ ∼ づ ③と呼んでいる。このように、形相的 実在性・対象的実在性 と -" @@ コ いう言葉は、同一な観念に於ける二面的な性質 を 表わすための言葉であって、同一の実在性に 於 ける言わば﹁視点﹂ 17 07) ︵ 5 ︶コ省察 VL ︵ ブ ラ ソス 話本文︶の第六節にある ニ 0 の由ヰⅡ レ のの く - 年 ㏄ コ円 4 年 0%0 け 円い 04%- のの 侍へ Ⅰ 曲 - めの 仔 自ヒ の丘 霊 0 ゴ憲 という 文章の後に、第二版ではデカルト自身が下 よ宙鯨降 り コヰ 屈コ 0 ヨ ゆヨ 0 。 オ 0 の 0 ハ せ き -- ゆ ︵Ⅰ 0 という言葉を加筆 したと言われて ︵ 6 ︶ジャン・ヴァー か は 、 デカルトの直観を瞬間的 な 直観と解している。彼によれば、﹁ コギト は瞬間的 な 思惟しであり、 そ の 確実性は﹁瞬間的な確実性﹂である︵︶・ ミぃ三 - 目 ︵ 色 - の年の -.@ 曲 ひの ヰ の -.@ 二の︵ ドむ ︵ 年いコ の - 曲っダ岸 0 の 0 ㌧ す @ の宙のし ㏄の。 い Ⅱ臣のの " ト のりの - やナ Ⅱ︶ 0 しかしこの理解は彼の瞬間概念の規定と撞着 する。彼は瞬間が時間の否定に他ならぬことを認め、 ﹁瞬間は限界に 過ぎない﹂と言っているが︵ ロ ニデ ワぎド デカルトの 言う コギト は時間の否定ではない。時間に於ける存在 の 肯定である。 デカルト自身は﹁私が考えているのと同じ時間だけ︵ 由 泰註ぎ co 牡 ︵ 0 ︶﹂の 幅 0 の ロヨ ・のⅠ 0 の 乙 ㌢ 0 の命題は確実 だと舌口っている ︵ 目ぃ Ⅱ︶。またこの命題を﹁言い妻わし心に抱く 皮毎 に ︵口口 0 ︵ざと必然的に真である﹂とも甘口づている︵ 圭ぃ 切 ︶ 0 の亡いコミニ・ 旧 さま es が瞬間を示さぬことは明白であろう。 見て行くことにする。それには先ず本有観念と は 何かということが問題である。

(19)

一方、 0 三のの︵ ぃ 日の現代的な用法に倣っ い う 言葉の意味を規定することから始め 実在性の意味をかなり正確に伝えること てこれを﹁客観的﹂とする解釈もある。しかし、 この場合、先ず﹁客観﹂と ねばならない。例えば、主観性を内に含むよう な 客観ということであれば、 はできよう。しかし、事物の対象性を表わす。 三の ct 中 Ⅱと事物の即自性を表 し た を 意 て 根強いものを持っている。例えば、ラランドの 折 国学辞典を見ると、﹁デカルト自身は、このよう な ︵スコラ的な︶ 味で 0 三の ct ぃ片 という語を使っているにも拘らず 、 0 三音という語の方は観念がその写しである Ⅱ臥の由 叶 休田 0 ペ コ Ⅰ の由の 示すために使っている﹂と書かれている。しか し、 デカルトが 0 庄の ct か叶と 0 庄の︵の面語を用い る 上で分裂があっ とするのは先入見である。文中の︵ か ㏄︶∼︵ か boH 日 ユ 了は、観念の 0 正文であることによって︵ 即 ち 観念がそれの 写 である ことによって︶、まさにデカルトの ア き ロラヒ か a コゑ 。庄のの︵ ゃ ve を有するのである。 10) 中世スコラ哲学では、のののの このような 0 庄 おヰ小の中世 ス 0 庄のり︵ ぎ仁ヨ という舌口葉は実在的でない空想的 な 事物を示すのに用いられたという。 コラ的用法をデカルトに見出し、この語を﹁観念 内 ﹂とか﹁主観的﹂とする解釈は極め の 相違を示しているひ これらの実在性は、主観的条件も客観的条件も抽 家 できないような同一の場に成立している。 従 って、主観と客観 0 区別や観念の内外という区別を超越した同一性 の 立場から考えねばならない。所が、従来、 0 ヴ もゑ毘を﹁観念 内 ﹂ Ho ﹁ ョ 臼を﹁観念 外 ﹂とする理解が一般的である 例えば、或る注釈によると、 hon ョ臼 とは﹁ 現実的、即ち精神の 外に実在する

昔ビ、

、 8 ということであるが、これは 奇妙な定義だと言わざるを得ない。なぜなら、 精 神や観念の形相的 実 在住が問題になる時、精神は精神の外部に実在 する、観念は観念の外部に実在するという矛盾し た 結論が生じるから である。また、外界の存在がまだ証明されてい ないこの段階で、デカルトがこのような精神体 の 実在性を持ち出した とするならば、それこそ論点先取の誤りだとい, っ ことになる 0 (18) 18

(20)

デかレト

に於ける神の

観念

わ すめ 0q 日 匹の違いを表現することはできない 。いずれにせよ、観念の内外という区別や主観 と 客観の抽象的な対立 に 立脚した認識に留まる限り、実在性の真の意 味は見落されざるを得ないであろう。 コギト は 観 念の内外という区別 を 超越して実在の場を得たのである。そしてこ の 超越を可能ならしめた舌口わばモメントに相当す るものが、同一の コ ギト に於ける形相的実在性と対象的実在性の区 別として反省されたのである。﹁対象的に有ると いう在り方は、観念 自身の木性についての観念の在り方であり、 形 相 的に有るという在り方は、観念自身の本性につ いての観念の原因の 在り方である﹂︵東山㏄︶とデカルトも言うよ, っに 、原因と結果はいずれも同じ観念を示してお り 、同一物に於ける 因果概念である。形相的実在性と対象的実在性 はこの同じ観念に於ける因果関係の動的なモメン ト としてのみ区別さ れている。 さて、このように no 幅ぎ 0e お o 蓮ョの 直観に 於て同一性と因果性の真理を認識することが可能 である以上、この 認識を可能ならしめる能力がアプリオリに精神 に 宿っていると言わなければならない。デカルト はこのような 先 験的 な 認識能力を本有観念と呼ぶのである。﹁ 物 とか 、真理とか、或いは思惟などと一般的に言われ ているものが何かと 1 Ⅰ l いうことを知覚する能力︵ め ac 日よ よ 00 口のの づ 。 片円︶﹂と彼は舌口 っテし Ⅱ リる ︵ 目 @ ト ド の︶。 no め山 do のⅡ mo 当日の直観から 最初に導き出された観念が存在・思惟・真理の 一 二つの観念であることは既に述べた。そして、 こ れらの観念の対自的 な 実在性を捉えているのはまさにこれらの観念 自身である。従って、即自的には、これらの観念 は 知覚する能力であ る 。先に挙げた第一の意味での観念、即ち観念 そのものとしての、或いは思惟の様態としての 観 念は、このように 能 力 という意味で形相的実在性を得ていると言え る 。しかし、この能力が能力自身を対象化してい る 限り、これは第二︶ の 意味での観念、即ち能力自身の像である。 例 ・ ぇば、 私の観念というのは、私自身を知覚する 能 カ であると同時に私︵ 自身の像である。

(21)

これらの観念を同一の相の下に捉えるのは ヘ 同一 性 Ⅴの本有観念である。これは、デカルト自身 の 三口薬に即して @ えば、完全性あるいは実在性の観念である。 即 ち 、思惟と存在の同一を知覚する能力であり、 こ れによって初めて 真 理 とは何かということが知られるのであるから、 この能力こそ理性と呼ばれるものに他ならない 。﹁哲学原理﹂の 策 一部四九に 、 我々の思惟に根拠を有する永遠の真 理 として、﹁同じものが同時に存在し且つ存在 しないでいることは できない﹂という公理が挙げられているが︵艮一 い き・ プゆ き︶、この同一律の真理を知覚する 能 力 が同一性の観念で ある。従って、それは、肯定的なもの、他者を 要せず自分だけで存在し得る実体を同一の相の下 に 把握する能力であ る 。 しかし、また、同一性の観念だけでは或る肯定 的なものの直観が有るのみで、論証は一歩も進ま ないであろう。 直 観から認識への推移を可能にするもう一つの 能 力 が考えられねばならない。即ち、反省により、 同一性の内に原因と 結果の二つのモメントを発見する 谷 因果性Ⅴの 観念がそれである。﹁哲学原理﹂の第一部四九に は、 我々の思惟に 根 拠を有する永遠の真理として、﹁思惟するものは それが思惟する限り存在しない筈がない﹂と いう 公理が挙げられ ているが︵ 丈ぬム の , Ⅱ。のかの︶、この因果律の真理 を 知覚する能力は囚 異 性の観念である。ここで は、 Ⅲ思惟から存在 への ︵対象的実在牲から形相的実在性への︶存在 論 的な因果関係が考えられている。一万、 デヵ ルト は、﹁観念はそ れが知覚されるための原因を必要とする﹂とも 壬 一口っており︵ 自 ︶ 08 、ここでは、㈲存在から 思 惟への︵形相的実在 性から対象的実在性への︶存在的な因果関係が 考えられている。更に 、 彼は、観念はその形相的 実在性を思惟の形相 絢実在性から受取っているとも言っており︵ 丈| ト簿 ︶、ここでは、㈲存在から存在への︵形相的 実在性から形相的 実 在 性への︶存在的な因果関係が考えられている。 このように、因果概念は専ら コギト の内容分析 によって導き出され ており、外界の存在は無関係である。その結果、 デカルトの因果概念は同一物に於ける同時的な 作用ということにな (20) 20

(22)

これに対して、観念が事物の像として、対象と の 関係に於て理解された場合、観念の原因は知 覚 される事物にあ 2 カルトに於ける 徒 言 こ つ え の

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る ︵ 目 ︶ 0 の︶。 デカルトは神の存在証明を三つに分けて行なっ ているが、それは上記の三つの因果関係に対応し ている。第一の証 明と 舌口われるものは、上記㈲の因果関係を存在 め 珊 的に 湖付 して、入観念の原因Ⅴである神の存在 を証明する方法であ る 。第二の証明と舌口われるものは、上記㈲の 因 果 関係を存在論的に遡行して、 八 存在の原因Ⅴで ある神の存在を証明 する方法である。第三の証明は、証明と呼ぶよ りもむしろ直観的な神の存在の知であって、上記 Ⅲの因果関係に基づ く 自覚的構造の内に神に於ける本質と存在の不 分離を直観する方法である。これは コ 第二答弁﹂ の ﹁幾何学的に配列 された﹂証明では第一命題の位置を占め、他の 一 一つの証明に先行するものと考えられている。 神 の 存在は証明なしに ただ本質直観によってのみ︵支の 0 団 0 吉の已︵ 戸 ﹁ ドの co 助日目巴ざ島 ︶知られるのであるが、﹁ し かし、これほど大き な粘 神の明蜥を得ることは容易ではないので、 同 じ 結論を他の方法で証明しようと試みるのだ﹂ と デカルトは舌ロ っす Ⅰ いる︵ 胡 Ⅰのの一文 @ トドのり。 そこで、最初に彼が試みるのは 入 観念の原図Ⅴを 追求する第一の証明である。既に述べたように 、観念には、 そのもの及び事物の像という二通りの意味があ るが、最初の意味で考えられた観念の原因は私の 思惟あるいは私の精 簾 神に他ならない。なぜなら、個別的な観念の 形相を生み出すものは思惟であり精神だからで ある。先ほども三口ったよ

何う

に、観念はその形相的実在性を思惟あるい は 精神の形相的実在性から受取っている、 或い は 借りている︵ 目 l ト簿 ︶。

(23)

的な立場を越えることが可能である。たとえば、 或る観念が私より完全な何かを表わすならば、 この観念は私より 完 全 であると言 う ことができる。そして、私より も 完全な観念が有るという事実によって、その 親 念 が表わす対象の実 在を証明することができると言うのである︵ 目 ㏄︶ 0 しかし、この場合、私よりも完全な観念をどのよ うにして見付け出すかということが問題である 。デカルトは﹁ そ の 本質により完全﹂︵ づの ﹁Ⅱのの︵ 円 orra ︵ 山 0 コ 0 目おの おのコ % りの︶と言っているが︵ 目 8 、本質と存在 の 同一が知られてい るのはまだ コギト の範囲内に過ぎない。その同一 性の真理を コギト の外界にも 敷街 することがで きなければ、私より も 完全な観念の存在を知ることはできないので ある。舌ロ い 変えれば、或る観念の完全性を知るた めには、その観念の 実在性あるいは存在との同一性の明 蜥 判明な知 覚 、即ち直観がなければならぬ。ここに一種の論 理 的な循環が予想さ れるであろう。例えば、神の存在を証明するた めには、神の観念の完全性を知る必要が有る。 そ のためには神の実在 性の直観、即ち神に於ける本質と存在の同一の 直観が予め無ければならない。・証明に先立って 先 ず 直観が必要なので ある。先ほど挙げたいわゆる﹁第三の証明﹂が 、 論理的には他の二つの証明に先行すべき必然的 な 理由はそこに有る と 言えよう。デカルトが行なった神の存在の証 明は 、それに先立って獲得された直観的認識の論 理化あるいは体系化 に 他ならないのである。しかし、証明が証明とし て 有効であるためには、そのような直観的認識 を 前提とする推論は 許されない。いったんは無前提の立場に戻り、 定 義の必然的な体系に従って論理を展開する必要 がある。従って 、デ カルトの論証に要求される最大の課題は 、 神の存 在を前提としないでいかに神の存在を証明する かということであろ ね え ば れ な ば

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と る い こ う と こ に と よ に っ は て 何

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く 22) る 。デカルト自身の説明に従えば、或る観念が 或 る 特定の事物を表わし、他の事物を表わさな い ということ、言い 変 2

(24)

デカルトに 於

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ける神の観念 う 。外界の存在証明および神の存在証明という 一 一段構えの論法は、まさにこの点に応えるための 手続きであったと 言 える。 外界の存在証明は 、コギト の外部にも観念の対 家 が存在するという証明である。舌ロ い 変えれば、 あらゆる観念の対 家 が実在するということ、即ち完全性を得てい るということの証明である。勿論、観念そのもの は 私の観念としての 完全性を有する。しかし、その場合、対象とな っているのは私の存在だけである。この世に私の 実在性あるいは私の 完全性しか無かったとしたら、或いは観念の対 家 がすべて内在的なものだとしたら、完全性の大 小を比べようにも 比 べる相手が得られない。即ち 、 私より完全な観念 は軸 いということになる。従って 、 私が有する い ・ ろ いろは観念、例 えば神の観念や延長の観念、数の観念や三角形 の 観念がそれぞれ外部に対象を有し、実在性ある いは完全桂を得てい るということが先ず証明されなければなら低い。 このように観念の外来性が証明されて初めて、 対象の本質を比較し 検討することが可能になる。舌ロ ぃ 変えれば、 外 界の存在が証明されない限り、神の観念をその 水 質 に基づいて他の観 念 と比較する根拠が得られないのである。この ようなわけで、事物の像としての観念の原因を求 めるということは、 観念の原因が外界にも見出せるかどうかという 問いに他ならない。 所で、既に述べた同一性と因果性の意味に基づ き、デカルトは三つの命題を定式化している。 即 ち 、﹁原因の内に は 結果の内に有るのと少くとも同等の実在性が 有る﹂﹁無は何ものをも生じない﹂﹁大なる実在性 は 小なる実在性に依 存しない﹂という 三 命題である︵白山㏄ じ 。 こ れるの直接的な論拠は、原因なくして結果の実在 性を考えることはで

(25)

さて、このようにして発見された超越の場に 於 て 、観念の対象が有する実在性の大小を、その 水 質 に基づいて比較 有る限り、﹁私は世界に於てただ独りではない﹂ と デカルトは外界の存在を結論する。 同時に、その形 栢 絢実在性は対象的実在性をも 有する。しかし、この本有観念も無から生じたわ けではなく。同等の 実在性を有する何らかの原因が有ると言わねば ならない。即ち、そのような本有観念を生み出す 根源的な能力が私の 精神の内に見出されるのである。デカルトも 言 ・ っ ように、﹁或る観念が他の或る観念を生むとは 一 言え、それが無限に 続くというものではない。その原因がちょうど 主人か原型のようなもので、そこに、︵本有︶ 観 念の内には対象的に しか含まれていないようなすべての実在性ある いは完全性が形相的に実際に含まれているような 第一観念に最後に到 達しなければならない﹂のである︵田ム ひ ひ︶。 こ こで舌口 うヘ 第一観念Ⅴ︵ づ おョ じ ㈱ ぎ鮫 ︶ とは 言わば本有観念の本 有 観念であり、も せ q あ き姪の︵ , 1 のである。このよ, っに 、本有観念が本有観念を知覚する時、知覚 さ れた本有観念は対象 的 実在性を有すると同時に形相的実在性を有す ると舌口えよ う 。これに対して、知覚する本有観念 には対象化されるよ う な形相的実在性は含まれていない。しかし、 原 因の内には結果に於けるのと少くとも同等の実 在住が含まれていな ければならないのである。従って、本有観念を 生み出すこの能力の内には、﹁我々が知覚す・ る通 り ︵つまり形相的︶に は 無いが、その卓越によってこの不完全を補う ことができるほど大なる﹂実在性が有る、とデカ ルト は考える︵ 目 @ お 3 目おこ。彼はこの実在性を谷優越的実在 性 Ⅴ︵乱臣木本ョ ぎ目額 ︶と呼んでいる。即ち 、 第一観念の内には 優 越的 実在性そのものが対象的に含まれているの であるから、第一観念の原因の内にはこの優越的 実在性そのものが 形 相 として有らねばならない。従って、この最高 原因に於ては、優越的実在性と形相的実在性は同 一であり、その本質 ず 、これが私自身だと言、 0 ことはできない。 そ には必然的に存在が含まれている。この最高原 れは私自身の存在を超越した何かである。そして 困に於ては、上の定義に見られるような﹁補うべ 、このような観念が き 不完全﹂は存在せ (24) 24

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検討するのが次の過程である。デカルトは 、偶 発 観念、持続・ 数 ・延長等の観念、神の観念を順 次 取上げて︶それら の 観念が私自身の観念よりも大なる完全性を有す るかどうかを検討する。結局、或る最高に完全 な 存在者の観念 無限、永遠、不変、独立、全知、全能な実体の 観念だけは私自身がそれの原因であるとは吾一 ロ えない。それは﹁私 独りに起源を求めることのできない観念﹂︵東 @ 8 ︶即ち外来観念である。従って 、 先ほど外界 の 存在を証明するた めの論拠となった第一観念、即ち本有観念の本 有 観念こそ神の観念に他ならない、と、デカルト はここで初めて神の 存在を結論する。 偶発観念が私より不完全であるということはこ れまでの論述からも明らかであろう。しかし、 ヘ 持続Ⅴや久延長Ⅴ の 観念がなぜ 私 より不完全と舌口えるのか。最後に この点について触れておかなければならない。 デカルトによれば、 持続や延長の俺念は コギト の 先 験的な能力とし て 、外界の存在とは関係なしに知ることができる 。﹁私は私が現に存在 することを知覚し、それ以前にもずっと存在し ていたことを思い出している時・・・・・・私は持続の観 念を得る﹂︵韻母︶。 持続の観念は私自身の観念から導き出すことが できる。なぜなら、持続は実体の属性に過ぎず、 私自身は実体だから である︵ 目 @ 鱒 一目・ ト毬,ゲめ簿 ・ ぷ ︶。従って 、持続は私自身の内に形相的に含まれていると 言える。一方、延長 鰍 もまた実体の属性に過ぎない。私自身は思惟 するものであり非延長的なものであるが、また 実体である以上、実体の 栖 属性を知ることができる。舌ロ い 変えれば 非延 長 的であるが故に延長的なものを知る能・刀を持 っている。従って、延長 る 即は私自身の内に形相的に含まれてはいないが 、優越的に含まれているとは舌口える︵ 目 @ Ⅰ ひ 0 ︶ 。このことは精神の物体

の 不完全性をも示している。延長の形相的実在 性は精神の内には見出さ かれず、これを成立せしめるものは世界として の神の存在である。神に於ては、優越的実在性 はそのまま形相的実在性 であり、従って神は精神や物体よりも完全なもの だと舌ロえる。神の存在証明を倹って初めて、 持 続の過去から未来に 25 (25)

参照

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