古 のであり︑従って︑かなりイスラエル人の間 に 流布されていた観念であったと思われる︒︵ 4 ︶
レ そうとされるのか︒同じく︑三三・六の ︑ わたしもまた土から取︵ 3 ︶って造られた者だ︒ 等々それ
で の
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の 見 ヤ 田
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51 (51 ︵ 2 ︶
げせて
⁝⁝︒また︑ ヨ ブ記 一 0. 九の︑あなた は土 くれをもってわたしを作られた事を︒とこ ろが︑わたしをちりに 返 ︶
ル 人における生死 観
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米吉 り の 々上 土 で 創
ト 伝承が物語る人間誕生の個所は︑一体何を意味 しているものであろうか︒
創成記六・三において︑ ヤ ハウィストは︑人間 を肉 と規定し︑しかも神の霊︵〜 め ︒ 甘 ︶は︑人間の 死 と共に人間を去
って ︑ 神のもとに帰ることを示唆している︒創世 記二 ・ セ ︑および︑この六・三の記事は︑一見 ︑われわれをして︑
以下のような推測に導くのである︒即ち ︑ヤハ ウィストは︑これらの叙述を通して︑人間の肉体 と ︑人間の生命が本
来 異なるものであるということ︑即ち︑人間は ︑ 神の霊Ⅱ精神である真の自己と︑それを包んで いる肉体 @ 土のちり
の 二元的要素からなること︑更に ︑肉 および︑ 肉 に 根ざす︑感情・感覚︑欲望等は ︑ 恰も肉の素 材 である土のちりの
よ う に無価値であるという彼等の人間観を表明 しようとしたものではないであろうかと︒従って ︑ニ ・ セの 叙述にお
いては︑前半の土︵目下目 ョぢ のちりから造られ た ﹁ 人 ︵ ‑w 年す囲ョ ︶﹂と︑後半の神の霊によって 存在するものとなっ
た ﹁生きた者︵ ヰ ので ゴ螺 下 り Ⅱ ヒ囲 ︶﹂とは︑まさに こうした意味で︑意図的に区別して表現された ものではないであろ
うかと︒こうした推測は︑また 々 ザヤ書 一 0. 八の ︑ ・・・⁝ 魂 ︵ オ フ エシュ ︶もからだ︵ 肉 ︶ も 二つながら滅し
という表現を見るとき︑更に確実性を増す よう に 思われる︒
しかしながら︑他方︑ ヤ " ウィストは︑創世記 一 一 ︐一九において︑ ニ ・ セ におけると全く同じ︑ 不フエ シュ ハイヤ
| ︵生き者︶を人間以外の動物を指す言葉として 使用している︒また更に ︑ 同じ サ ハウィスト 伝 永に属す創世記 セ ・
一五の ︑ ・・・・・・命の息︵ ら ま︶のあるすべての肉な るもの⁝⁝は ︑ ノアの箱舟に入る動物を指して いるのである︒ 即
ち︑ヤ " ウィストは ︑ ﹁ オ フ エ シュ﹂を人間に対 してと同様に ︑ 他の一切の動物に対しても用い ているのである︒ こ
うした︑人間とその他の動物を区別することは く 同じ﹁ オ フエシュ﹂という言葉を用いる サ ハウ ィ ストの叙述のあり
方を見るとき︑上述の推論は ︑ 甚だ疑わしくな るのである︒従って︑一見われわれを二元論的解 釈 に導き易い上述の
創世記 二 ・ セの 文意を正しく理解するために︑ 尚 ﹁ オ フエシュ﹂が︑旧約文献において如何なる 意味で用いられてい
( 駿 ) 52
古代イスラ ヱ ル 人における生死 観
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記 。元、谷倉 U 、
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︵Ⅰ 1 ︶ フ エシュ ︶の焼却は︑死者の完全なる抹殺を意味 し︑ 従って︑ 陰府 での存続を不可能にしたから である︒ ェドム の 三 に ︑論理的には︑死体に神の霊が入るとき︑ 死 体は︑ 生き返ることになる︵エゼキエル書工 セ ・一以下︶︒ 陰府 にお ける レファイー ム は ︑ 亡うした意味の﹁ オ フエ シュ﹂︵死者︶の影法師なのである︒従って ︑レ ファイー ム が︑ 陰府
での柄物的存続を維持するためには︑その基体 と なる地上における死体︵ オ フ エシュ ︶の存在が 前提となる︒イスラ
エ ルにおいて︑火葬が行われず︑火刑が︑宗教的 刑罰として行われたことの理由をこうした点か ら理解することがで
きる︵創世記三八・二四︑レビ坦三 0. 一四︑ ョ シュア 記セ ・二五︑列正紀 下 二三・一六 | 一八 ︶︒何故なら死体︵ ネ るものとされている︒イザヤ書一四・九以下の記 事は︑この 絵府の レファイー ム の状態を恰も現 世において生存して
いた姿の影法師のようなものとして描いている︒ また︑サム エ ル兄上二八・ ハ| 一四は︑エンド かめ ﹁口寄せⅠにレよ って 陰 府から呼び出された 預 三口者サムエルが ︑老 人の姿で預言者を示すマントを着てあらわれ︑ サウル王は︑その姿
を見て︑ただちにこの亡霊が誰であるかを認知 したと伝えている︒この二つの事例は︑イスラ エ ル人の観念におい
て ︑個体が ︑ 死によっても 尚 ︑消滅せず︑死後も 存続しつづけると考えていたことを物語って い るように思われる︒︵ 5 ︶
今︑このことを少しく立ち入って検討して見よ ︐ つ と思う︒
レビ 記 一九・二八︑二一・Ⅰ 二 二・二四︑また ︑民数 記五 ・ ニ ︑六・一一︑九・一 0 は︑死人 ︑死体を意味する
言葉として﹁ オ フエシュ﹂を使用している︒ し かし︑﹁ オ フ エ シュ﹂は︑これまで見たところに よると︑現世におけ
る 全幅的人間を指す言葉であった︒この二つの
﹁・不フエシュ﹂三の記事ヤハウェの
震 は ︑ ながく人の中ほ とどまらないと関連させて︑両者の関係を考 察するならば︑﹁ オ フ エシュ ︵現世の人間︶﹂ か︐ り ︑﹁神の霊︵ 神 内生 ︵ 6 ︶ 分力
ピが
去ったあとの﹁ オ フ エシュ ︵柄物的 立 命ピが ︑死人︑死体ということになるであろ ︐ っ ︒このことは︑ 逆八・一 0 ︶﹁死の門︑暗黒の門﹂︵ ヨ ブ記三八・ 七︶等と呼ばれる門によって閉ざされた 陰府で ︑植物的生存を続け 4
0 目を焼いて灰にしたモア ブ に厳しい神罰を告げ る 預言者アモスの言葉︵アモス章二一・一︶は ︑ こうした観点から 理
解されるのである︒
さて︑以上の考察から︑イスラエル人の死後の ‑ ぜ 令に関する観念には︑死によって︑肉体から 霊 魂が 分離し︑この 分離した霊魂が︑ 陰席 に下るというような観念 はなく︑更に ︑ィスラエ ル人は︑一般に︑人間に 関して︑霊肉二元の 観念︑肉体から独立して存在する霊魂といった 観念を持っていなかったと言うことができるであ ろう︒
このように見てくるとき︑それでは︑創世記 二 ・ セの 意味はなんであろうか︒また︑六・三にお いて人間を肉と規 定し︑ 神の霊と対置されていることを︑如何に 理解すべきであろうか︒これらの個所が︑これま での論述から︑人間 が ︑霊肉二元の要素からなることを物語るもの でないとすれば︑ ヤ ハウィストは︑一見︑二元論 的 解釈を許す物語り を 通して何を表明しようとしたのであろうか︒ エ 三の記事は︑ 六 ・ ニ の神の子たちが人の娘を 妻 とし︑その結果︑
人間に不死の要素︵神の霊︶が入ったことに 対 するヤハウェの決断を伝えている︒即ち︑人問 は ︑ヤ @ ウェ の意志に 観よって ︑ 死すべき者と定められたということ である︒そしてヤハウェが︑そう決断した理由 は ︑人間が肉にすぎない 牡 存在であるからということであった︒ M ︒ ち︑ この個所は︑人間が肉からできているというの でなィ : ねだと規定し︑それ故︑死すべきものであると 舌口っているのである︒このように神の永生︑強 大 に対して︑死すべき︑
一 ⑤㌔また︑ ェ レミア喜一 セ ・ 五 ︑﹁おおよそ 人 を 頼みとし︑肉なる者を ヤ 自分の腕とし︑その心が主を離れている人は ︑ のろわれる﹂等である︒これらの個所が表明 する思想は︑創世記入・ 古 三一のそれと︑全く同じものであるということが できるであろう︒さて︑このように見てくるとき ︑創世記 二 ・ ゼの意
ても︑このことは変りない︒ ヨ ブ記一四・二 一 は ︑このことを以下のように表現している︒ 即 ち ︑﹁ 彼 ︵死者︶の子
らは尊くなっても︑彼はそれを知らない︑卑し くなっても︑それを悟らない﹂と︒第三に ︑ 更に 決定的なことは︑ 神 は 預言者を示すマントを着た姿として︑ 陰府に おいて植物的 生
ち 入って︑死者の陰 府 での生活を見て行きたい︒
以上のように︑人間は︑イスラエル人であると 否 とを問わず
中に住むものの下に﹂︵ ヨ ブ記二六・五︶存在す る陰府 に下る︒
ぅ かが日限り︑極めて惨めであり︑また︑苛酷 であると舌口わざ
く 無力であり︑ 無 活動である︒第二に︑現世と の 関係が︑完全 存を続けることにふれたのであるが︑ここで︑ 更 に立
︵ 3 ︶ ︵ イ ザヤ書一四・九以下︶すべて死後﹁ 水 および その
しかし︑この 絵府 での死者の状態は︑旧約文献 力 ︑ら @
るを得ないように思われる︒即ち︑第一に︑死者 は全
に 断ち切られている︒ 例え ︑親子のような関係に おい ︵ 2 I ︶ た霊 としてでなく︑現世に生存していた 姿 ︵ ネ フエ シュ ︶の影法師︵レファイーム
当王は︑王
の 尊い姿で︑預言者基 て さ
て