平 成 元 年
3
月
第
6
号
布教研究所報
平 成 元 年
3
月
第
6
号
まえがき
布教研究所報の編集を行うたびに、いつも思うことがあります
。
自分の考えていることの一端を限
られた時間内に、限られたスペースにまとめて発表することの難しきであります
。
殊に、教学布教大
会の大舞台でしかもその道の大家の大勢いる中で、研究発表することは大変なことです
。
しかし、私
はいつもその研究発表を聞いて、宗門の中堅として活躍している力強きを感じているものです
。
どのように理解し表現するかは大変に難しいことです
。
釈尊の哲学であ
そして宗祖法然上人の浄土観を現代人にどのように説いていくかは、自
仏教をどのようにとらえ、
り、倫理道徳である宗教を、
己の研鎮のためにも誠によい事であると思います
。
このためには種々の文献や資料を丹念に読み、自
らの解釈を施しながら、宗祖の
心を心としてと
らえていくことが大切であると思います
。
更に、真理
は永久不変であるが、時代の推移とともに社会情勢の変化に対応した布教法、表現方法などその時々、
多少の変化はあるべきと思います
。
今は仏教にもオリジナルが要求される時代でもあると思います
。
ここに昭和六十
三
年度の布教研究所、研究員
・
研究所員の研究成果と、教学布教大会の
一
般
発
表
、
その他研究所活動の
一
端をまとめました
。
御参考になれば幸甚の至りに存じます
。
浄土 宗 布教研究所所長キ
反
隆
垣
1-寛
目
次
ま え が き 板 集中研究会指導講義 青 年 と 教 化 牧 研究所員・研究員研究成果報告 命の受け渡しの中にお念仏を ( 定 型 布教の 一 考 察 ) -j i -j i -・ : : j i -j i -j i -: : : : 大 帰敬式の試みl
葬 式 仏 教 か ら の 出 発 │ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 石 法 鉄 上 人 グ〉 求 道 現 代 教 化 そ グ〉 留 意 占 五 十 嵐 手E を み イコ め る 有 法 妖 上 人 御 法 語 と 布 教 井 幼 少 期 お け る 万之 教 情 操 教 化 江 バイオエシックスへの対応と仏教 ・ 浄 土宗 : : : : : : -j i -: : ・ : : : : : : : : : : : : : -j i -: : 佐 親 グ〉 ' し、 を 子 伝 え る 垣 草色r 同1 )11 輪 本 藤 鳥 野 回 隆 寛 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 達 雄 -8f
車 3 -照 ・ : ・-U
手E
雄 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 刊 手 口 信 -M 祐 晃 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 日 口 7t; 啓 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 臼 年骨 ; 'I!;五 彰 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 日 俊 雄 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 口 純 雄7
6
芳 隆 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 別法話に引用できると思われる近代短歌五十首 ・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ ・ ・ ・ ・ 阿 :Jr:; 祖 御 法 呈五 日口 の 刀て 教 教 誇 "-グ〉 刀言 唆 西 イ ム 式 結 婚
っ
て 西 環境保全運動における宗教意識│とくに仏教を中心として l-. l-. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ ・ ・ ・ 松 教学布教大会一一般発表 第 十 五 願っ
し、 て =lo: 口 自 坊 に お け る 布 教 の す す め 方 に つ い て ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 鈴 既成教団は現代の生命問題に対応できるか・ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 藤 宗 教 と 科 学 疑 似 宗 教 と し て の 超 科 学 │ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 大 更 生 保 護 携 わ っ て 牧 沖縄の仏回し ( フ トゥキ・マl
シ
l
)
ー コ て 家 死 σ3 意 義 一 コ し、 て 加 釈 尊 の お き と り と A、 己 仏 大 万之 教 教 謁 ベ コ て 松 文 書 よ る 布 教 実 践 グ〉 考 察 村 現 代 と 念 仏 鶴 施 餓 鬼 会 考 佐 部 岡 城 氷 国 木 木 室 田 藤 成 田 上 山 藤 = = 口 , 4 1, 之-- U M
一 言 口 , 凋 1, 孝 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 部 告 示 隆 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 幻 聖 ー ム ・ ・ ・ ・ ・ ・ 円 J 可 戸 吋 a, 内 岨 司 JM 光 覚-m
昆 永 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 山 雅 清 116 -4 -間 道 -m 忍 教 -m 隆 現::四 { 愛 官 一: : ・- m
善 雄 -m 令官 可才 照 143 達 亮 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 凶 瑞 教 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 附 日青 輝 -m教学布教大会意見発表 現 代 人 極 楽 を ど
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説 か1
5
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特 別 寄 稿 現 代 日 本 グ〉 新 刀て 教 と 先 祖 祭 最日 孝 本 貢--
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輪読会報告 口 三五 訳 授 菩 薩 戒 儀2
2
3
-5ー 葉 編 研 集 究 後 所 記 名 報 簿 ;2
5
0
2
4
9
2
4
6
集
中
研
究
会
指
導
講
義
青年と教化
教学局長牧
達
t
佳
集中研究会に﹁青年と教化﹂ということでお話をするようにということでございましたので、未熟 - 8 -で、経験不足な者でございますけれども、 その面を少し考えさせていただきたいと思 っ て参上いたし ました 。 最初に、青年というものの理解ということから入 っ てみたいと思 っ ております 。 青年心理に 関するものなど心理学の本がたくきん出ておりますので、青年の心理的な状況を研究していただきま すうえに資料に事欠かないことでございます 。 私は東山学園にしばらく 奉 職をさせていただいており ましたので、 そこで中学生から高等学校の生徒を教えましたし、 そしてまた昭和 二 十四年からボ ー イ スカウト運動をや っ てまいりまして、 そこで小学校の段階から中学、高等学校、 そして大学まで指導 してきました経験をもとにいたしまして、青年というものをどのように理解したらいいのか、最初に少しお話させていただきたい 。 それから、教化という問題を少し考えまして、最後に 青 年と教化とい つことで結んでみたいと思 っ ております 。
青年の理解
青年の理解ということですが いつも思いますのに、 小学校の聞は非常に純 真 といいますか天
真
燭漫で 素 直な心情をも っ ております 。 深刻な悩みをもございませんし、 小 学 校の子供たちと遊んでお りますと、非常に明るくなるんですが、 一 転して、中学から高校へと進むと ともすれば大人の目か らみますと、 どうもつかまえにくい 。 理解しにくいとい っ たような行動、あるいは考え方が目立 っ て くるのではないかと思います 。 それは 青 年への脱皮、成人への脱皮、 そうい っ たものを遂げつつある -9 -時代だと思います 。 体をみますと、 とくに性的な成熟も目立 っ てまいります 。 しかしながら、 それに 伴いまして、精神的な成熟もあるかといいますと、 この面ではまだ不完 全 でございます 。 知的にも 情 意 的にもあるいは社会的にも非常にまだ不 完全 ではないかと思うのです 。 そうい っ た面をもう少し 詳 しくみてみますと、 青 年 期 、 青 年といいましてもいろいろな心理学のうえで分け方があります 。 青 年前期と 青 年後期とに分ける考え方もありますし、あるいは 青 年前期、中期、後期と 三 段階に分ける のもありますが、 私はだいたい 三 つに分けるのが適当ではないかと思 っ ております 。 と申しますのは 学 校でいいますと中学校の段階、高等学校の段階、 そして大学へ入 っ て か ら と 、 これは本当に違うわけです
。
そういうところから考えますと、中学校の段階を青年前期と考え、高等学校を青年中期、
そして大学年齢をだいたい青年後期と考えて、
その特徴を少しみてみたいと思います
。
一番扱いにくいと考えられておりますのが
この中学、高等学校の段階ではないかと思います
。
とくに中学校ではご承知のようにいろんな問題を起こしまして、校内暴力であるとか家庭内暴力という
ものが中学校の
二
年生を中心として連続的に起こ
っ
ておりまして、
とくにこの中学校の子供たちの扱
いが難しいのではないかと思います
。
たしかに中学校というのは、体のうえからみますと、﹁ヒョロ長﹂
時代と表現してもいいかと思いますが、
どんどん成長する時期でして、中学校に入りましたときの制
服が、もう二年生になりますと手がニュと出まして、
カ
ッ
ターシャツがうんと出てくる
。
下はズボン
が短くなりまして、靴下が出ている、
そういう姿をみていますと、
どこか抜けたような、何か反抗的
-10-であるような、
そぐわない姿があるんです
。
ちょうどまさにそれと同じように考え方のうえにおきま
しても、あるいは社会的な構造のうえにおきましても、気持ちのうえにおきましでも、
やはりそうい
つことが出ていると思います
。
例えば、知的な状況で申しますと、本当にへ理屈を
言
うようにな
っ
てまいります
。
と
く
に
、
そのへ
理屈を
言
う段階というのは、中学校の
二
年生の夏休み以後にあたります
。
一
年生の聞は純真でまだ子
供
っ
ぽいんです
。
ところが
二
年生になりまして
とくに夏休みを過ぎて
二
学期に入りますと
一
転して
何か憎たらしくな
っ
てまいりまして、非常にへ理屈を
言
うようになります
。
これは
いまも変わ
っ
て
いないと思います 。 し か し 、 よく考えてみますと へ理屈といいますけれども、 それは抽象的な考え方とか、あるいは 理論的な考え方が出来るようにな っ てきているわけでして、何でも理論づけて理論的に考えていこう 。 あるいは抽象的に、体系的に考えていこうというような兆しが見えてくる時期なのです 。 それをひっ 繰り返しますと、 へ理屈を 言 う、憎たらしい、 という段階だと思います 。 と く に 、 私は 宗 教を教えて おりましたので、 ことごとに食 っ てかかるわけです 。 中学校の 二 年 二 学期になりますとことごとに 宗教を否定してきまして、 それを説得するのに、ずいぶんと苦しんだのです 。 そういうところから、 私 は 二 学期というのは非常に大きな転換期であるなということを思 っ ておりました 。 いままで真面目 -11ー な 子 が 、 私たちにパ
l
ッ と食 っ てかか っ てくるわけです 。 いくら説得しましても、 説得すればするほ ど、話をすればするほど食 っ てかか っ てくるとい っ たような状況がありました 。 それから社会的な点から申しますと、非常に欲求不満が内に満ちてきまして、対人関係もいま申し ましたように目上に対しましても、親に対しましても非常に不調和であります 。 調和がとれない 。 と くに、異性に対してはどうかといいますと、中学校の年代ではまだ異性に対しては非常な関心をも っ ているんですけれども また反擦をしております 。 これは 小 学 校の後期でもそうですけれども、関 心をもちつつ反擦をしている 。 そうい っ たところが中学生のひとつの大きな特色ではないかと思いま す 。 ですから、第 二 反抗期とか 言 われることになるんです 。それから心の情緒的な面では、
そういうようなこですから、常に感情がイライラしておりまして不
安であります
。
そうかと思いますと、
ときどきボ
l
ッ
としている子もあるわけですね
。
みております
と、何か物にとり恐かれたような顔をしているときもあります
。
これも
ひとっこの時期の特色では
ないかと思うんです
。
それから青年の中期に入りますと、
十五歳から十八歳ですが、高校時代でありますけれども、
こ
の
時代もやはり高校の二年生というのがひとつの転換期であろうと思っております
。
ですから、中学校
も高等学校も二年というのは非常に転換期だなということを思うんです
。
と申しますのは、
この青年
中期の特色して、
私は内面的な思考、考え方、あるいは観念的な考え方、
そういうものが非常に進ん
でくる段階だと思います
。
内省的と申しますか
自己をみつめていくといいますか
そういうような
-12-ものが非常に進んでいるときです
。
それがとくに二年生を境として深ま
っ
ていくように思います
。
合理的なものについては、高校一年生は非常によく関心をもってくるわけです
。
といいますのは、
仏教の教理なんかを合理的に説いていきますと関心をもってくる。しかし、法然上人のお念仏のこと
についてとか、
人間をみつめてとか、
そういうような内面的な浄土教的なものに対しては、非常に否
定的です
。
ところが
これが高校の
三
年生になりますと、浄土教の書でも十分理解し、関心をもち深
い考え方ができるようにな
っ
てきます
。
一
面において、抽象的な、
理論的な思考というものがどんどん発展していきますが、他面において
は自分を批判する みつめる、あるいは文化的なものに対しての批判ももちますし、あるいは社会的 なものに対しましても非常に批判的なものをも っ てまいります 。 社会的な面で申しますと、非常に攻 撃的になります 。 し か し 、 そういう内面化していく姿が、例えば友達関係においてみると、 その数が 減 っ てまいりまして、親友を求めることが強くな っ てまいります 。 とくに友達に対しましては、中学 校のころから 青 年期におきましては友達というのは非常に大 事 にいたします 。 ときには先生以上に、 あるいは親以上に大切にいたします 。 とくに高等学校にな っ てまいりますと、心を許す親友が出てく るようであります 。 それから、もう 一 つの特長として特定の人物を理想化してそれを尊敬していくというような傾向も 高等学校のときのひとつの特徴であったように思います 。 例 え ば 、 いま阿含宗は大きくなっておりま -13 -すけれども、私が教えておりましたとき、桐山某とかいう人の著 書 をポ ン とも っ てきまして、﹁偉い人 だ ﹂ ﹁ 偉い人だ ﹂と 言 っ て非常に理想化してや っ てくるんです 。 そして、読んでみますと念力などにつ い て 書 いてありますが それを実際にみてきたと 言 いまして、あの人は偉いと、 ぞ っ こん惚れ込んで や っ てくるわけです 。 そういうようなことがありまして、 何か自分がこうと思う人物を徹底的に追求、 追従していくとい っ たような傾向も、 この高等学校の生徒にはあ っ たように思います 。 そういうことから、社会性の幅が広くなくて、 むしろ狭ま っ ていく時代ではないかという感じがす るのです 。 社会性はわりかた狭ま っ ていく 。 それが極ま っ てきますと孤独感に陥 っ ていく子供もある
わけです 。 そういうことを思いました 。 それから、情意的な特徴として考えられることは、非常に趣味の範囲が広くな っ てくることです 。 多趣味にな っ てくる 。 それに伴い、 また気持ちのうえでは非常に多感にな っ てきます 。 多感である 。 ときにはセンチメンタルに陥りますし、 ときには詩や小説を読み、非常に文学的なものに憧れをも っ たり、あるいは哲学的なものにも憧れをもち、 さらに自然に対する目が深ま っ ていくように思います 。 I h 十 品 、
1
l
とくに山岳部をうけも っ ておりましたので、 一緒に行動しておりますと、高校一年生よりも 年 生 、 三 年生になりますと自然観察といいますか、 自然美を追求していく傾向が強くな っ てまいりま す 。 それが大きな 影響 を子供に与えたと、私は思 っ ております 。 自分に対しては、 ときには過大評価をして倣慢にな っ た り 、 そうかと思いますと ときには非常に 14 過少評価をする 。 そうい っ たものもこの時代の特色であ っ たと思 っ ております 。 それから 青 年後期 。 十八歳から二十 二 、 三 の頃 いわゆる大学時代であります 。 私は大学でもちょ っ と教えておりますけれども、社会教育を通じて、あるいはボーイスカウトを通じて青年期をみてお りますが、非常に独 立 的な気持ちをも っ てくるということがあります 。 それと同時に大学に行 っ て感 ずるん で すが、高等 学 校と大学の差というものは非常には っ きりします 。 それは、例えば判断が非常 に的確にな っ てくる 。 判断といいますか これは総合的な判断、総合的な立場から自分の思想、考え をまとめていくようなこともあります 。 そ れ か ら 、 人生観、世界観というものがこの当時に確立すると思います 。 それから社会性をみましても、妥協性も出てまいります 。 高等学校の聞は一目散に、 土 4 F っしぐらに進んでいきますけれども、大学になりますと妥協性があります。こちらとの話し合いに対 しても冷静に対処してまいります 。 社会との調和もとれるようになります 。 そして、青年後期のひと つの大きな特色として外交的な傾向、外へ向いて行く、社会に向いて行く働きがでてきます。 これが ボランティアにな っ た り 、 あるいは反社会的な場合もありますけれども、社会に対して積極的に働き かけていこうというような姿があると思います 。 感情はわりかた安定してきますし、 とくに理性とい つものが感情を支配していくように思います 。 青年後期にはこのような特色があります。 こういったものを、実はよく理解して、 それに適応した -15-接し方をしていきますと、青年の教化、指導というものが非常にやりやすくなってくると思います 。 その大まかな特色をちゃんと掴みまして、例えば青年後期には外交的な姿が出て、社会に対して働き かけていこうとしているのですから、 ﹁奉仕﹂というようなことを中心に考えていきますと、 やりやす くな っ ていくのではないかと思います 。 このことはあとでまた申し上げたいと思います 。 青年の特色というものを全体的にまとめますと これはいつも 言 われるんですが、青年期というの は マージナルマンといいますか周辺人といいまして、大人でもない、 子供でもない。あるいはモラ トリアムとかいろいろな 言 葉で言われます 。 これは、基本的な特色だと思います 。 とくに現在の社会 にいては この周辺人の範囲がだんだん広くな っ て き て 、 いまでは 三 十歳にならないと一人前ではな
いとい
っ
たようなことまで
言
われております
。
これは、社会に出て就職しても
三
十オにならないと本
当の
一
人前として扱われないとまで
言
われております
。
それほど社会というものが進展いたしますと、
周辺人と
言
われる大人でもない子供でもないという一人前扱いきれない時期がだんだん伸びていくわ
けです
。
したが
っ
て 、
そこには矛盾が生じてくるわけです
。
気持ちのうえやいろいろな面で矛盾を抱
いているのが
青
年期の、まず第一の特色であろうと思います
。
それが、例えば青年期のひとつの精神的な特色として、友達を大事にするわけです
。
ところがとき
として友達を拒絶し、孤独に陥ります
。
いわゆる、友達と遊ぶということと孤独という、
ひとつの相
反するものがいつもあるように思うんです
。
非常に愉快にはしゃいでいるかと思うと、急に塞ぎ込ん
でしまい憂欝にな
っ
たりいたします
。
欝と燥の両方が出てくるような状態であります
。
それで青年は
-16-非常に大胆にみえます
。
大胆であるかと思うと、急に神経質になり弱
気
にな
っ
たりします
。
そういう
矛盾した傾向があります
。
また、青年は権威に対して反抗するようにな
っ
てきます
。
反抗、反骨精神
というものがあるわけです
。
しかし、反面、服従にしてくる点もあります
。
この矛盾点などは案外知
られてないのではないかと思うのです
。
私は思うのですが、中学生も非常にへ理屈を
言
っ
て反抗してきますけれども、
それに負けたらいけ
ないんですね
。
ピ
シ
ッ
としたものをパッと出しますと、
子供は服従してくるんです
。
ですから、中学
校の時代でも反骨と服従というものをも
っ
ているわけです
。
高等学校もそうです
。
本当に信頼してき
ましたら、徹底して信頼してきますね
。
そういうものがあります
。
それから、非常に親切にするかと
思
う
と
、
ときどき意地悪をやります
。
いじめの問題などは陰湿でありますけれども、
このひとつのは
っ
きりとした現れではないかと思うのです
。
それから優越感をもつかと思いますと劣等感をも
っ
て
み
た
り
、
そういう非常に矛盾した傾向という
ものがこの時代の精神的な特色ではないかと思います
。
そういう外向のほうに惑わされてしまうと、
本質が掴めなくな
っ
てしまうのです
。
いろんな傾向がありますが
、
また
これはあとでお話をしよう
と思
っ
ています
。
私が学校を辞めます最終段階で、非常に荒れた生徒がおりました
。
いまでも思い出しますが、中国
へ浄土宗から行かないかということで、
昭和五十
三
年に行
っ
たわけです
。
そのときは、
ちょうど学園
17-祭の前でした。
一
人の生徒が非常に荒れているわけなんです
。
腕力は強い、体力では絶対にわれわれ
が負けるわけです
。
それが学園祭の準備をしている生徒会の委員会の席で暴れているのです
。
机を振
り回し、椅子を振り回して暴れているのです
。
委員会がなかなか進まないんです
。
そこで
﹁
ち
ょ
っ
と
来てください
Lと私呼び出されて、行
っ
てみましたら
そこには生徒会関係の先生がず
っ
と並んでい
ました
。主
任の先生が生徒会の計画を発表しているのです
。
彼はそこで上半身裸にな
っ
て暴れている
のです
。
先
生
方
は
、
下を向いてじ
っ
としているのです
。
恐いからようやらないのですね
。
名前は伏せ
ま
す
が
、
ご﹂ら/﹂と言った。
そうしたら僕のほうへ向いて、
﹁
こらとは何だ
﹂
とこうや
っ
てくるので
す
。
それで教員室へ連れて行
っ
た
の
で
す
が
、
私は本当にこの子の奥底には何かあるということを思っ
てお
っ
たのです
。
す
る
と
、
ゃにわにワ
l
ワ
l
泣き出したのです
。
あんなに暴れていた子が涙を出して
くるわけです
。
そ
し
て
、
﹁お前の気持ちを聞いてやろう﹂と聞いておりますと泣き出します
。
そこへ同
級生が心配してみにきているわけです
。
﹁お前の友達があそこで心配しているじゃないか
。
L﹁あんな者
は本気で心配して来ているんじゃないんです
。
僕を陥れるために来ているんです
。
﹂というようなこと
を言うんです
。
いろいろ話をしていきますと、非常に純真な考え方をもっているのです
。
も , -J-、 み J 今 /その表現の仕方が
うまく出来ないのですね
。
そういうようなことがあってその子のことを気にしながら、しかし、
そ
σ3 -18-ことがき
っ
かけになりまして話し合いを十分いたしまして、
そして中国へ行くことになったのです
。
中国へ行
っ
ている間に学園祭があるわけです
。
それが潰されるのではないかというので、先生方が
非常に不安をもちまして僕に、
﹁
中国に行
っ
てはいけない
。
﹂と言うのですね
。
僕は、﹁国際的な問題だ
から行きます
Lと言
っ
て飛び出してしま
っ
たわけです
。
﹁
もし、問題が起きたらどうしますか
。
学園紛
争でも起きたらどうしますか﹂と言う
。
﹁
そのときは、北京へ連絡してくだきい
。
電話をしてくれたら
すぐ帰りますから
Lと
。
まあ、実際は帰れないですけれどもそう言って出かけたのです
。
この例にあるように
この時期は相反するものをも
っ
ているということを冷静にみていないといけ
ません
。暴
れるからとい
っ
て 、
それだけにとらわれてしまいますと、
絶対に指導はできないというこ
とを痛切に感じたわけです
。
それから
この時期がいわゆる自我の確立期でございますので、全体的
に自我を確立していっているときであります
。
自我の確立ということは、心理的な離乳期でございま
す
。
この時期は、自我の確立の機能しているひとつの特色として自意識が過剰になりますし、自分とい
うものをみていきます。あるいは自己中
心的にな
っ
た
り
、
理想心に走りましたり、批判をしましたり、
反抗したり、先ほど申しましたようなものが出てきております
。
自我の確立というのはよく一
一 一
日われるのですが、
こういう考え方が出てきたときに、自我が目覚め
たのだと言われます
。 ﹁
私は私を何々だと思う
。
Lいわゆる内面的にな
っ
てくるわけです
。
﹁私は私を非
常に気の弱い者だと思う
。
﹂
いや、﹁私は私を非常に立派な人間だと思う﹂とか、
いろいろ思い方があ
-19るわけです
。
これは、自分自身の中で眺められている自分、
眺めている自分
。
これはひとつのいうな
れば理想的な人間でありまして、
現
実
と
理
想
、
眺めている自分と眺められている自分
。
いわゆる自我
が分裂しているわけです
。
そこではじめて自己というものがみつめられてくる
。
そういう時代であり
ます
。
これが自我の確立期で、自我が自我に目覚めるというのはこういうことであるわけですね
。
私どももいろいろ自分の経験を考えてみますと、中学校のとき私は非常に気の弱い人間でありまし
て、列車に乗りこむとすぐに顔が赤くなるわけです
。
誰もみていないのに、
私をみんながみている、
注目していると思
っ
て
パ
│
ツ
と赤くなりまして、成すところを知らずとい
っ
たようなそういう自分に、
はじめて中学校の二年生のときに気づきました 。 自分で、何で私はこんなに気が弱いのだろうと思っ て悩んだことがあります 。 その頃が自我の目覚めなんですね 。 こういう周辺人は矛盾する諸傾向を もっております 。 そして自我が確立していく過程にあるのが、 これが青年期と考えたいと思います 。
青年と教化
次に﹁青年と教化﹂ということでありますので、教化ということについて少しみてみたいと思いま す 教化、教化とよく言われるのですが、 これは仏教のなかで非常に大きく言われることでありまして、 一 つ 白 普通は教育ということだけで終わっておりますね 。 教化というのはだいたいそういう仏教とか宗教を 中心としておこったのですが、これを私どもは教育化導といいます 。 教化といいますと、 これは教育 と、それからたんなる教育ではなしに感化して導いていくという、 この 二つの ことがらの合作ではな いかと思うんです 。 ﹃ 浄土宗辞典﹄を試みに引いてみました 。 そうしましたら、﹁教導感化﹂とか、 教 育化導﹂と説明してありました。すなわち教育の面と化導と二つの意味があると思います 。 何を導いてい く の か 。 どこへ導いていくのか 。 やはり仏道ではないかと思います 。 仏道に導いてい く 。 あるいは正しい信仰に導いていく 。 こういうのが導くということではないかと思います 。 受 戒の 一 番 最 初 が 、 第 一開導であります。開導というのは聞き導くと書きます。これ、 ﹃十二門戒儀﹄を読みキ
?
し
で
も
、
いろいろな説明の仕方がございますけれども、 私はこう思 っ ておりました 。 関 心 眼 、 これ は信ずるの信でも結構ですが、 いつも私は子供たちに申しますのは、関心眼導正道 。 心の目を聞いて 正しい道に導くと 。 即ち正道に導く 。 導くというのは、 こういう仏道に導く、 あるいは正しい信仰に 導いていく そういうことだと思います 。 これは仏道とか正信というのはこう成り立ちますと、仏道 を歩むことによりまして、 理想的な人間へと成長していくことだと思います 。 これが仏教のうえでし たら仏陀でありましょう 。 ですから、成仏の道ですね 。 仏になる道がこの仏道であり、 正しい信仰で あるわけです 。 そこへ導いていくことです 。 ただ単に知識によって導いていくのではなしに、全人格的に化 導 していくとか、感化していくこと -21 -です 。 化導ということには情操的な指導というものがあると思いますので、全人的な、あるいは情操 的、そういう指導というものが基本になりまして化導というものがあるのではないかと思います 。 教化というものには、必ず教育の面と教え導いていく、 いわゆる教えるという、 これは教え育てる ということでありますけれども、 そういうことと同時に全人的な情操的な感化によりまして、仏道正 信に導いていく 。 こういうことが教化だと思います 。 教育とは何か 。 いろいろな論議がありますが、 これもまた同じことだと思います 。 しかし これは 普通の教育ということになってきますと、 こうい っ たものがないわけです 。 ないということは断 言 で きませんけれども、 人間が人間を人間にまで形成していく働きが教育である 。 これは 一 番簡単な定義だと思いますが、あるいはもっているものを引き出してくることだという考え方もございますし、 し、 ろいろな定義があります 。 そうすると、教化というこの奥底には、 やはり仏道に入れるということが 第一でございまして 正しい信仰に入れていく 。 これはもちろんであります 。 そういうことが大事に な っ てくると思います 。 そのことをは っ きりと掴んでおりますと、 私は教化と布教というものも自ら 深い関係があるといいますか、出てくるのではないかと思います 。 実は私、布教委員会で叱られたことがあります 。 教化と布教とどう関係があるかということを、あ えて問題にいたしまして、 教化の面でやっておられる方と布教一途にや っ ておられる方との聞に論戦 を巻き起こしてしまいまして、﹁お前、何てことを 言 い出すのか L と言 っ て叱られたことがあります 。 教化というものはやはり最終的には宗義、安心というものにの っ とりまして、 正しい信仰に青少年や - 22-婦人の方など教化の対象者を導いていくことでありますから、布教と一緒だと私は思います 。 ‘ , -示 、 , -、 宇 J ナ J いろいろな点で方法論とかそうい っ たものは違うかもわかりません 。 向こうを向いている人をこちら に 向 け て 、 そして説法していくのが教化かもわかりませんし、 いろいろな点で違いがあるかもわかり ませんが、同じだと思っております 。 で す か ら 、 私は教化の目的というものをいつもは っ きりと摘んでおかないといけないと思います 。 青年と教化を考えた場合、 青年とただ単に関係を結んでいくだけでなく、青年をして必ず仏道に導き 入れるんだというその目的だけはし っ かりとも っ ていないと、あとでいろいろな事例を申し上げてみ
たいと思いますけれども、
これが単なる事業に終わ
っ
てしまうことになると思うのです
。
この教化と布教の問題をいつも聞いていくわけですが、
そうしたら教化は事業を伴うというような
ことをお
っ
し
ゃ
っ
た方があります。私はそうは思わないのです
。
事業ではないと思っております
。
事
業を通して行うこともあるかもわかりませんけれども、最終的には布教だということを考えているわ
けです
。
そこで、教化化導というひとつの概念を考えまして、今度は教育ですけれども、教育ということも
教化のうえにおきましてやはりよく考えておかなければならないことではないかと思いますので、
今
の教育の目指している方向が何かということを少しみてみたいと思います
。
教育の目指している方向
-23-臨教審などで出きれております方向は、生涯学習体制に日本の教育をも
っ
ていくことだということ
だけは間違いございません
。
生涯教育とい
う
ことが
言
われましたのは
一
九六五年からですので、
二
十
二年ほど前に
言
われてきたことであります
。
ユネスコでポール・ダグラ
ン
という人がこの考え方をも
っ
てきたわけです
。
と
こ
ろ
が
、
それが急速に全世界の教育界のひと
つ
の考え方にな
っ
てまいりまして、
生涯教育あるいは生涯学習といわれています
。
このごろ教育というとどうも教えるということが中心
になるようにみえますので、学習とい
う
ように変わ
っ
てきております
。
生涯学習体制、
これをや
っ
て
いかなかったら、 いまの教育はみんな間違 っ ているという考え方であります 。 その出発点は、技術革新によるところの社会の急激な変化なのです 。 それに対して、現代の教育が ついていけるか、 ついていけないかということの反省から出発しているわけです 。 いままで、大学を 卒業した人というのはあらゆる意味ですぐに社会のリーダーにな っ て い っ たわけですけれども、技術 の面でも大学の研究室でそれが生み出されて、会社でそれが必要としているということだ っ たのです カf いまは違うわけです 。 企業のほうがどんどん先行してしまうわけです 。 ですから、大学を出まし ても指導的な役割をもてない 。 そういう状態にな っ てくるのです 。 では、大 学 を出てくるメリ ッ トは どこにあるのか 。 いままでの考え方でいいのか 。 そういうようないろいろなことが教育の反省とな っ てまいりまして いままでの教育のあり方ではいけない、 詰め込みでもいけないのだというようなこ -24 -と か ら 、 一 二 つの面から反省が加えられるようになりました 。 一 つは継続ということであります 。 学習というものはそのときだけ、 学 校にいるときだけではない の だ 。 学校を卒業してからでもどんどん学 習 をしていかなか っ た ら 、 いまの現代社会にはついていけ f
、
。
犬 d し ついていけないどころかそれはマイナ ス にな っ てくるという考え方であります 。 学習は必ずし も大学にいるま で ではないのだ 。 それからが本当の 学 習をしていかなければならないという考え方で あります 。 これは継続であります 。 それをも っ と遡っていきますと、就学前の教育、乳幼児教育、 下 」 れも非常にクローズア ッ プされてくるわけです 。 生涯学習というのはそういう継続であるわけです 。一生を通して学習していくのだという考え方であります 。 もう少しよく考えてみますと、すべて人間というのは全部課題づけられている、 課題をもっている のだという考え方です 。 課題学習とでもいいましょうか 。 あるいは問題解決といいましょうか、 問
題
解決学習とも言われております 。 問題解決 。 自分で問題を見出し、 そして自分でその問題を解決して 、a O BV/¥ いままではそうではなくて、覚えていくことが中心、 そればかりではございませんが中心であ ったわけです。大学を出て何を学んできたかということが非常に社会にとって有用であったわけです。 大学で学習したことが社会の指導的役割を果たしたのです 。 ところが、もはやその時代ではない 。 そ れではどういうことかといいましたら、大学でどのように勉強したか、学習したか。 ど の ト で つ に 自 ら2
5
の課題を設定し、 自らその問題に挑戦し、自らその問題を解決したか 。 これが問われてくるわけであ ります 。 どう学習したかということが これからの問題なんだというのです 。 それでなかったら、 いまの技 術革新によって変化している社会に対応することはできないというわけです 。 いま社会が求めている のは、何を学んだかではなくして ど の よ 、 つ に どのような勉強をしてきだか 。 その学習の能力、問 題解決能力がいまの社会にとって大事なんだということなのです 。 そういう点から、教育を考え直そ つということが、 一 つ の 点 で す 。 それともう一つは、総合的な見地に立 っ てということであります 。 総合ということは、学問の 一 つの分野にいたしましても、確かに一つの分野だけを考えていくことも、
これも研究を深めていくうえ
において大事なのですけれども、教育という全体から考えていきますとそうではなくして、全体的な
立場で教育をみていかなければいけないという考え方
。
あるいは学校教育は学校教育、社会教育は社
会教育、家庭教育は家庭教育というように分けて考えていくのではなしに、教育というものを学校、
社会、家庭、
そういったものの立場から総合的にみていく
。
あるいは青少年教育というものをただ単
に青少年の時期において考えるのではなしに、総合的に人生という問題のうえからこれを考えていく
と
い
、
っ
、
そういう広い学習なんですね
。
この三つが実は教育であろうと、
いまの生涯学習の基本的な考え方でございます
。
p o q Lこの宗教教化というものも継続がなかったら、一
私は宗教というものも同じではないかと思うのです
。
実は一時的な縁を結んだだけにしかすぎないのではないか
。
継続のなかで教化というものを仏道に導
いていくということを考えないといけない
こう思います
。
生涯にわたっていつも仏道に、
正しい道
に入っていくことを考えていかなければ駄目だと思います
。
それからもう一つは
ただ単に宗教の面だけを考えておりますと、もはやこれからの社会に対して
魅力も失いますし、
それから社会からもたち遅れてしまう
。
宗教を考えるとき、
それを総合的ないろ
いろな科学の進展であるとか、社会の進展であるとか、
文化の進展というもののなかにおいて考えて
いかなければいけないと思います
。
それから宗教は、 私はやはり問題解決ではないかと思います。 お釈迦きまが人生の生老病死の苦し みを人生の問題として、自らの問題としてお考えになったから仏教があったわけです 。 それをいかに 乗り越えるか、 それをいかに解決するかということが仏道であろうと思います 。 いうならば、仏教というものは生活の力であるわけです 。 生活の問題を解決していく 。 生きていく 人生の問題を解決していく力であるわけです 。 こうした、教育の動向をみきわめて宗教教化を行なう場合もそれを無視していったのでは、 われわ れの教化というものは遅れていくことになります 。 そんなことを、 ひとつ、問題提起として、 この教 化ということで申し上げておきたいと思います 。 きて、今度は青年期の教化ということで申し上げたいと思います 。 まず、青年教化につきまして、 -27-基本的な考え方として、青年に接する場合に、私はまず絶対的な信頼感をもっということ、青年を信 頼するということ これが基本だと思います 。 信頼するということは、先ほどちょっと触れましたが 、外に現れたい ろいろな青年期の現象に惑わ きれないことが大切です 。 惑わされないで 青 年自体を深く信頼していくこと、 これが基本的な態度の まず第一のことだろうと思います 。 その絶対的な信頼感というものを具体的に表しておりますのに、 五種説法というのがあると思いま す 。 私は五種説法の本をみまして、 これこそ教育の原点ではないかというようなことを年来考えてま
いりましたので、すこしそのことを話してみたいと思います
。
ま
ず
第
一
に
、
お釈迦きまの説法が十種説法とかいろいろなことがありますけれども、
五種説法とい
うのは端的でありますので申し上げますと、
順番は勝手に変えますが、
一
、真実心をも
っ
て語る
。
二
、柔軟に語る
。
三、慈悲心をも
っ
て語る
。
四、利益のために語る
。
五、時に応じて語る
。
こういう五種説法というのがあります
。
真実心をもって語るということは、青年教化のうえにおい
28-て絶対必要なことであります
。
これがなか
っ
たら青年教化はできません
。
青年と対するのには絶対真
実、真実でぶつからなか
っ
たら絶対に青年に入
っ
ていけないということであります
。
真実心というこ
とは、本当に真心から当た
っ
ていくということです
。三
心のなかの至誠心になりますね
。
あれをも
っ
て当た
っ
ていくということです
。
これは基本的に大事なことであります
。
とくに
青
年教化においては
これが大事であります
。
偽り、虚仮
これは絶対許されません
。
それを敏感に感じとるのが
青
年なの
です 。いい格好もできないのです
。
で
す
か
ら
、
私は青年教化に当たる場合には本当に信仰心が大事だ
と
い
う
ことを思います
。
私は三十一年間の教員生活の大部分を生活指導にあた
っ
てきました
。
生活指導といいますと、悪い
ことをした子ば
っ
かりを指導するわけなのです。
いろいろなことに出会いましたが、
本当こ言
p f Jオ
当
﹁
b v イ B M ド カ 右いとこれは出来ないと思いました
。
生活指導というのは何も叱るのではありませんし、禁止でもござ
いませんので、本当に感じてほしいという気持が第
一
です
。
これをもっていくのは信仰心以外にない
のです
。
いまは私はお寺を留守にば
っ
かりしておりますので、自分の本尊きんの前でお参りをする機
会がなくてほんまに恒促たるものがありますが生徒を処分しなくてはならないような場合があると、
私はお寺で、学校へ行く前に礼拝をしまして、六方礼をやりました
。
そして、南のほうに向か
っ
て 、
師弟の間でございますので、自分が師匠に対してでもございますけれども、成功を拝んでからでない
と行けなか
っ
たです
。
その気持ちを仏きまにお願いして、
そして生活指導に当たりますと、案外と青
-29-年はわか
っ
てくれるんです
。
次に柔軟に語るということであります
。柔
軟にということは、
とくにこれも青年に対しては必要で
あります
。
柔軟ということは
。
一つのパターンというのはないのです。自由自在にといいますか、自
由な立場でいろいろな方法をよく考えていくことが大切だということを思います
。
またそれが必要だ
と思います
。
それから慈悲心をもっということです
。
慈悲の心というのは友情の心であると思います
。
また慈悲というのは、同じ立場に立つということであります
。
け
っ
して上から下への関係ではなく、
同じ立場に立つ
。
ですから、これは青年とともに喜び、
と
も
に
悩
む
、
と
い
う
、
これが基本的に大事だ
ろうと思います
。
とくに青年にはそれが必要だと思います
。
と
も
に
喜
び
、
ともに悩む
。
本当に手を取
り合
っ
ていく
。
そして精神的にはいつも青年の立場に立
っ
ていたいということが、これが慈悲の心だ
と思いますが、
これは大事であります
。
深い理解をもって、青年をよく理解して、青年に対して同情
の心をも
っ
ていくということですね
。
そうなりますと青年に対して、ものすごい愛情がわきますね
。
どんなにいろいろなことをやりたおしておりましでも、微笑みをも
っ
てこれをみることができます
。
先ほどの現実相反的な、相反するような行動を起こしましても、
深い同情心をもっておりましたら許
すことができるわけです
。
私はそれが
一
番大事だと思います
。
これは、中学、高校、大学を通じまし
て大
事
なことだと思います
。
これは青年自身の利益のためなのです
。
自分の利益ではなく
。
青年のためにであります
。
利益とい
30-うのはこの場合、
青
年の将来をみつめてやるということに置き換えたらいいのではないかと思います
。
将来をよくみつめて、
いまではなくして将来をみつめて、将来の幸福のために、
この子の将来の幸福
を
念
願
し
て
、
と
い
っ
たようなことではないかと思います
。
そういうものが大事なのです
。
教育は子供
の将来を眺め育てていくことであります
。
それから時に応じて
。
発達段階に応じた指導の方法が必要です
。
あるいはまたそのときどきのチャ
ンスをきち
っ
として掴んでいくことです
。
例
え
ば
、
ときには中学生に対して一つの指導方法を行なう
場
合
、
そのときでないと出来ない指導方法があるのです
。
青年には青年期を活かした指導があるわけ
です
。
青年の時期を活かした人は、永遠の青年であると言われていますね
。
これは非常に大事なこと
だと思います
。
永遠に青年であるということ
これは非常に嬉しいことであります
。
中学校の段階の
子供には中学校のときでないとできない指導方法があり、
そしてそれに対して、
ちゃんとやっておけ
ば、その子が生かされて幸福になってくるのだということだと思いますね
。
高校には高校の指導方法
が
あ
り
、
それを踏まえて指導していけば、
その子は幸福にな
っ
てくるのだと、
私は思いますので、時
に応じた指導というのは非常に大事なことだと思います
。
このことを中学生の指導について考えてみ
ますと中学校、青年前期の子供たちは抽象的、
理論的な思考をもちはじめてくる
。
これを教化のうえ
必ず受け止めてくれるということなのです
。
それから、中学校のときにはまだ心情的に小学校のあの
でどうとらえるかといいますと、きち
っ
と筋道を立てて仏教の教えをこの子供に話していきましたら、
一
今 J天真欄漫きというものも残しているわけです。中学生は残しながら、
そこに合理的、抽象的な思考方
法を芽生えさせてきているわけです
。
そして、表面では反抗したり、
へ理屈を
言う
とるわけです
。
で
す
か
ら
、
それに惑わきれずに、中学校の子供にきち
っ
と仏教について合理的な説明をして、仏きまを
教
、
え
ま
す
。
そ
し
て
、
また心情的な素
直さを
まだも
っ
て
いますから、情操に訴えるような話をしていきましたら、
必ず仏道に入
っ
てくれるのです
。
難しいことでも何でもないのです
。
例えば青年中期になりますと、
非常に内面的にな
っ
てくるということを申しましたが、
このときには、本当に浄土教を説く機会であ
ろうと思います。二年生の後半から三年生には浄土教をちゃんと理解することができるのです
。
です
か
ら
、
この時期を的確に把握して、
そして自信をもちまして心に触れるような話をしていく
。
と
く
に
、
この時期の子供はロマンチックであります
。
詩などを読んでいきますと、非常に関心をも
っ
てくれま
す
。
それから青年後期になりますと、
人
生
観
、
世界観を確立する時期ですから、
このときに仏教を説い
ていくということは、非常にやりやすいと思います
。
しっかりと人生観の基礎になるような仏教の教
理
、
考
え
方
、
そういったものをきちっと話していけば、非常に大きな力にな
っ
てくれると思います
。
浄土教のお話ももちろんきちっとできます
。
お
念
仏
の
話
、
そうい
っ
たことがちゃんと受け止められる
-32-ときであります
。
同
時
に
、
この青年後期というものは外交的な傾向がございますから、
やはり青年に対して、
現実の
社会問題とか、
現実の事象に対する対処の仕方というものは非常に大事な話の内容ではないかと思い
ます
。
この時期の青年に漫談的な説教をいたしましても、絶対に受け付けません
。
内容がなか
っ
たら
いけないわけです
。
ですから、青年教化といいますけれども、
この時期にきち
っ
と
し
た
、
ひとつの筋
の通った話をしていかなければいけないと思います
。
同
時
に
、
この年代は非常に奉仕的な気持ちをも
つ年代ですので、自信をも
っ
て奉仕活動、すなわち、
地域社会に対して、
お寺に対して、あるいはま
た自分たちの後輩に対しての奉仕ということを打ち出してい
っ
ていいのではないかと思います
。
そう
いうことが実践活動のうえでなされてまいりますと、青年は大きな生き甲斐を感じてやってくれます。 これが、時に応じてということでごぎいます 。 さらにもう少しそういったことをみていきますと、 そのためにはいつも青年とともにいることが必 要ではないかと思うのです。青年といつも一緒にいることによって、 その心理がわかるわけですし、 そしてそのチャンスも掴めるわけです 。 ‘ , -J-、 JjJJ 日頃青年と行動をともにしないでいて、突如出てきて 青年をうまく指導しようとしたって、 これはちょっと無理です 。 ですから いつも青年とともに歩ん でいるのだという心をもっておれば いつでも青年とともに行動ができますから、 そうしたときに教 化とい うもののチャンスがでてくるのではないかと思います 。 したがいまして、もっとそれを現実にしていきますと、何かの組織をも っ ておれば非常に教化が進 -33 -めやすいということです 。 例えば仏教青年会とかボーイスカウトとか、 そうい っ たような青年層の組 織をも っ ておれば いつも青年とともにおれますから こういうことがやりやすいのではないかと思 います 。 それからもう一つは、友達を非常に大事にしますので、 やはり組織というものは大事だと思うので す 。 グル ープを つ く っ ていくということが大事だと思います 。 一 対一の 青 年教化というのも これも それは不可能ではありませんし できるわけです 。 最終的にはそうなるのでしょうけれども、 この時 期の青年層はグループを形成していくわけです 。 中学校の時代は一番多いんですね 。 やはり五
1
六名から八名ぐらいのグループです 。 高等学校になりますとグッと少なくなりまして五名前後になってま いります 。 大学になりますと二
i
三名にな っ てしまいます 。 し か し 、 そういうグループをちゃんと掴 んでいくことです この組織化ということが大事ではないかと思います 。 それから、非常に多趣味 な時代ですので、 それを活用していく 。 いうならばプログラムを多彩、魅力のあるものに工夫してい くと掴みやすいと思います 。具体的方法論
具体的な問題として、 私は青年教化というものは、 組織を通してや っ ていくのが一番いいと思って -34-います 。 それで、例えば仏教青年会というものを結成する 。 あるいはボーイスカウトの組織をつく っ ていく 。 そういう組織をつくっていればいつでも青年と 一 緒に行動できるわけです 。 そういう点で仏 青運動についてちょ っ と私の考えを述べさせていただきます 。 仏教青年会、実は私も終戦直後、 これを生き甲斐にしようと思 っ て軍隊から帰 っ てまいりましたが 見事に失敗をいたしました 。 四年間ほど仏教青年会運動をやって分裂してい っ たわけです 。 いまにな っ てからいろいろな観点からこれをみてみますと、 青年期に入ってからの把握というものは、実は難 しいのですね 。 われわれが青年であるときには友達として呼べたわけです 。 私が仏教青年会運動をやっているときにはまだ二十二、三ですから、友達を呼んでくればそれがもう青年会だったのです。 と ころが自分が年をとりますといつの間にか年齢が上がってくるわけです 。 振り返ってみますと後継者 がいない 。 壮年会なんて言われ、 やがて老年会なってしまうわけです 。 そ し て 、 たいてい仏青運動と いうのはそのように消えていくのです 。 活発にやった仏青運動がだいたいそうして消えていく 。 どうして後継者をつくれないのか 。 これが 一つの問題点であります 。 ですから、歳が上になっていきますと、今度は青年期を掴もうと思っても なかなか掴めなくな っ てしまっているわけです 。 そういう 一 つの問題点があるわけです 。 それから 私が失敗しましたのは、青年のニーズというものは多様なんですね 。 自分が仏教青年会をつく っ たの は、仏教を理解してほしいというのでつく っ たわけです 。 と こ ろ が 、 それについてきてくれたのはご -35-くわずかでありまして、集ま っ て きた青年のある 一 つの派は文芸活動に入 っ て しまいまして、短歌を つくるのに一生懸命になり、 また劇団をつくろうと思 っ て演劇に走 っ た者もおりました 。 それからあ る者は、当時は終戦後でございましたから左翼運動に入っていきました。 とくに京都の近くでござい ますから、前の知事の時川さんの影響がございまして、相当革新的なものに入 っ て行 っ た者もおりま し て 、 そうしたものが 一 緒 に な っ てやろうと思ってもなかなかできないわけです 。 軌道修正をいくら しようとしてもできません 。 、そこでとうとう空中分解してしまいました 。 残 っ たのはわずか 二 、 三 名 の仏教を求める青年だけでした。