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中国の古典教育における関連教材の意義について-その『語文』教科書での利用をめぐって-

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*  岡山大学(Okayama University) 兵庫教育大学 教育実践学論集 第22号 2021年 3 月 pp.97−108

中国の古典教育における関連教材の意義について

−その『語文』教科書での利用をめぐって−

土 屋   聡*

(令和2年7月2日受付,令和2年12月23日受理)

A study of the significance of related teaching materials in classical education in China

An analysis of the "Yuwen

語文" textbook

TSUCHIYA Satoshi*

In recent years, classical education in the People's Republic of China has emphasized learners' self-reliant learning. However, it is difficult to grasp the actual circumstances of how learners learn text on their own. In this paper, we focus on tasks using related teaching materials and examine how it helps learners own reading. The "Yuwen語文" textbook of the compulsory course is considered as the object of study. We analyzed the effect of using related teaching materials by investigating the relationship between some texts and tasks. The results indicated that the text that highlights the point to be read by the learner, which was selected as the related teaching material, provides the perspective necessary for learners to understand the textbook by themselves. It was concluded that such a method would be effective in moving away from teacher-led classes and realizing learners' self-reliant learning.

Key Words:related teaching materials, learners' self-reliant learning, the "Yuwen語文" textbook 1.はじめに  近年の中華人民共和国における古典教育については, 教育政策や教育史,教科書・教材など,日本においても 様々な観点から研究が進められており,刮目すべき実態 が明らかになりつつある。特に林氏論文(2018)(1)に指摘 されているように,2000年代以降における知識詰め込み 型教育からの方針転換や日本の教育改革との共通性など, 日本の漢文教育を考える上でも無視できない点は多い。  中国の普通高級中学は,日本の高等学校に相当する中 等教育機関である。そして,「語文」という教科が日本の 「国語」に相当し,古典教育もそこで行われる。  その実施体制について,2003年に公布された『普通高 中語文課程標準(実験)』(日本の『学習指導要領』に相当 する綱領。以下,『語文課程標準(実験)』と称す)に基 づきながら見てゆくと,まず「語文」教科は必修科目と 選択科目とから成る。このうち,必修科目は「閲読与鑑 賞(読書と鑑賞)」と「表達与交流(表現と交流)」とか ら成り,古典の学習は前者「閲読与鑑賞(読書と鑑賞)」 に含まれる(注1)  「課程目標(教科の目標)」には,古典に関するものと して次のような記述がある。  学習中国古代優秀作品,体会其中蘊涵的中華民族 精神,為形成一定的伝統文化底蘊奠定基礎。学習従 歴史発展的角度理解古代文学的内容価値,従中 取 民族智慧。用現代観念審視作品,評価其積極意義与 歴史局限(2)  中国古代の優れた作品を学び,そこに包含され る中華民族精神を感じ取り,伝統文化に対する一 定の見識を形成するための基礎を固める。歴史の 発展という角度から古典文学の内容や価値を理解 し,そこから民族の知恵を み取ることを学ぶ。 現代的な観念で作品を見つめ,その積極的意義と 歴史的限界とを評価する。  ここには,歴史的な角度からの理解や現代的な観念を 通した理解といった多角的な作品の捉え方,また作品を 通じて民族の精神や知恵を読み取ること,伝統文化に対 する見識の具備など,古典学習の目的が記述されている。  また読解のあり方についても,以下のように,注釈や 工具書(辞書・年表などのレファレンスブック)の使用, 文語の理解と応用,朗読や暗誦など,基礎的な学習が指 示されており,学習者には古典学習に真 に取り組むこ とが求められていると言えよう。  閲読浅易文言文,能借助注釈和工具書,理解詞句 含義,読懂文章内容。了解并梳理常見的文言実詞・ 文言虚詞・文言句式的意義或用法,注重在閲読実践 中挙一反三。誦読古代詩詞和文言文,背誦一定数量

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的名 (2)  簡単な文語文を読み,注釈と工具書を使って語 句の意味を理解し,文章の内容を理解できる。常 用される文語実詞・文語虚詞・文語構文の意味や 用法を理解および整理し,読書の実践の中で応用 することを重視する。古典の詩・詞と文語文を朗 読し,一定数の名作を暗誦する。  筆者もまた日本の漢文教育への応用という観点から中国 の古典教育に注目するものであるが,とりわけ学習者主体 の学びを推進している点が興味深い。泊氏論文(2010)(3) では,「課程標準」に見られる学習者の人間性重視の姿勢 に言及するなかで,従来のような教師や指導書の押しつ けから学習者自身に解釈を委ねるようになったことが指 摘されている。『語文課程標準(実験)』を確認してみる と,確かに「教学建議(教育上の提案)」に,「(三)積極 倡導自主・合作・探究的学習方式(積極的に自主・協力・ 探究という学習方式を提唱する)」という項目があり,「語 文教学応為学生創設良好的自主学習情境,幇助他們樹立 主体意識……(国語教育は生徒のために良好な自主学習 の情況を作り出し,彼らが主体的意識を確立することを 助け……)」(4)と述べられており,また「為改変過於強調 接受学習・死記硬背・機械訓練的状況,特別要重視探究 的学習方式……(受身学習・丸暗記・機械的訓練に重点 を置きすぎる状況を改善するために,特に探究という学 習方式を重視し……)」(4)と述べられている。  なお,最新の『普通高中語文課程標準(2017年版)』に おいては,必修・選択必修・選択の各課程ごとにそれぞ れ幾つかの「学習任務群」が設定され,学習の目標や内 容,指導事項等がまとめられているが,その「設計依拠(設 計の根拠)」に「学習任務群以自主・合作・探究性学習為 主要学習方式,凸顕学生学習語文的根本途径(学習任務 群は自主・協力・探究的な学習を主な学習方式とし,生 徒が国語を学ぶ基本的な方途を顕示する)」(5)とあり,『語 文課程標準(実験)』の「自主・協力・探究」という方針 を継承している。  このように綱領の上では確かに学習者の主体的な学び がうたわれているのであるが,実際の授業において学習 者がどのように教材と向き合っているのかという点につ いては,その実態を把握することは困難である。  ここで,『語文課程標準(実験)』の「教科書編写建議(教 科書編纂の提案)」における次のような記述に注目したい。  教科書応突出語文課程的特点,要便於指導学生自 学。内容的確定和教学方法的選択,都要有利於学生 自主・合作与探究的学習,掌握自学的方法,養成自 学的習慣,不断提高独立学習和探究的能力(6)  教科書は国語課程の特長を際立たせ,生徒の自 己学習を指導するのに便利でなければならない。 内容の確定と教育方法の選択とは,すべて学生の 自主・協力・探究の学習を助長し,自己学習の方 法を習得し,自己学習の習慣を養い,独自に学習 や探究をする能力を継続的に高めるものでなけれ ばならない。  編纂方針自体が以上のように学習者の自立を助けよう とするものであるとすれば,教科書を検討することによっ て,学習者自身をどのような形で教科書本文に向き合わ せているのかを窺い知ることができると考えられる。  そこで,本稿では,全国中小学教材審定委員会2004年 初審通過,人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普 通高中課程標準実験教科書 語文 必修』第1冊∼第5冊 (人民教育出版社,2006∼2007年。以下,『語文』教科書 と称す)を考察対象として取り上げたい(注2)。これは普通 高級中学において「語文」必修科目の教科書として使用 されるものであり,1年次から2年次半ばまでの間に学習 することが想定されているものである。  この『語文』教科書全5冊に収録される教材は63 で あるが,そのうち古典教材は29 (詩歌などを複数取り 扱うもの,例えば「杜甫詩三首」の場合は3首合わせて1 と数えた)であり,約半数を占める。そして,それら の古典教材は,以下の単元にまとめられている(注3) 第1冊 第2単元=古代の叙事的散文(3 ) 第2冊 第2単元=先秦から南北朝までの詩歌(4 )     第3単元=古代の山水遊行記に類する散文(3 ) 第3冊 第2単元=唐代の詩歌(4 )     第3単元=古代の議論的性格の散文(4 ) 第4冊 第2単元=宋代の詞(4 )     第4単元=古代の人物伝記(3 ) 第5冊 第2単元=古代の抒情的散文(4 )  この中から興味深い事例をひとつ挙げたい。それは, 抒情的散文(第5冊 第2単元)の中に『荘子』逍遙游 の 文章が収められていることである。『荘子』は諸子百家の ひとつであって,日本では思想的教材として分類されそ うなところであるが,それとは異なる基準によって配置 されていることが窺われるのである。  このように,収録される教材の数から言えば,古典学 習が「語文」必修科目の中で重要な位置を占めるもので あることは明らかであり,またその教科書も,文章の性 質に基づいて適宜整理された周到な編集がなされている と言えよう。  なお,人民教育出版社は80年代以前には独占的に教科 書を出版していたが,現在では同社以外にも複数の出版 社が教科書を刊行している。しかし,人民教育出版社版 以外の教科書は中国国外での入手が困難であり,その詳 細は未詳とせざるを得ない。そのため,今回は考察の対 象としなかった。  さて,『語文』教科書の中でも,本稿が注目するのは, 教科書本文の末尾に附される「研究討論と練習(原文は

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研討与練習)」,就中,教科書本文以外の文章を利用する 課題である。というのも,これらの課題群は,次節に述 べるように他の課題と比較して数量の面で必ずしも寡少 ではなく,またバラエティ豊かなものではあるが,その 反面,本文以外の文章を利用することの意義,特に本文 読解の面においてその果たす役割や他の課題との関係, ひいては学習者の主体的な学びにどのように貢献するの かという点が未詳のためである。確かに,本文の周辺に 位置づけられる作品や評論などは,適切に利用すれば本 文の読解に有効な場合があるのであるが,個々の課題に 則した具体的な検証が必要であろう(注4)。なお,ここでは そうした周辺の文章を,教科書本文に対する関連教材と 称することとする。 2.『語文』教科書における関連教材の概要  『語文』教科書の「研究討論と練習」を見てみると,教 科書本文と同一作者の他の作品,異なる作者の類似作品, 本文に対する後世の評論など様々な文章を利用した課題 が散見される。次頁以降に附した表1・2は,そうした課 題を一覧にしたものである。  これを見ると,課題の設定は『語文』教科書第1∼第5 冊の全体に渉っており,関連教材を利用することが必ず しも特殊なことではない,ということが確認できる。  次に課題の数量であるが,『語文』教科書における古典 教材29 のうち,関連教材を用いた課題が設定されてい るものは,表に挙げた通り,12 である。なお,暗誦や 朗読を課す課題が最も多く,19 に設定されており,次 いで文語文特有の単語や構文の意味用法を確認させる課 題が13 に設定されている。これらの課題と比べて,関 連教材の12 という数量は,決して少ないとは言えない であろう。  ところで,前節に挙げているように,暗誦・朗読や文 語の単語・構文については『語文課程標準(実験)』に指 示があり,『語文』教科書はこれを直接的に課題として設 定したものと考えられる。しかしながら,関連教材に関 する記述は特に見られず,その意図や目的について『語 文課程標準(実験)』から裏づけることはできない。  ここで「燭之武退秦師」(『語文』教科書第1冊)を例に「研 究討論と練習」全体の構成を見てみよう。  課題「一」では,「細読課文,回答下列問題(本文をよ く読んで,次の質問に答えなさい)」(7)と,本文の内容を 確認する小問4題が設定されている。小問の内容は以下の 通りである。 1 .秦・晋両国為甚 囲攻 国(秦・晋両国はなぜ 国を包囲攻撃したか)? 2 . 伯是怎様説服燭之武的( 伯はどのように燭之 武を説得したか)? 3 .燭之武用 些事実和事理説服秦伯退兵(燭之武は どのような事実と道理とによって秦伯に撤兵を説得 したか)? 其中 一点最関 (その説得の中でどの 点が最も大事であったか)? 4 .晋文公為甚 不願向秦軍進攻(晋文公はなぜ秦軍 が進攻することを望まなかったか)?  本文の概要は第4節に後述するが,これらの小問はいず れも本文読解の となる事項を問うものである。  次いで,課題「二」では,「古代漢語以単音詞為主,現 代漢語則以双音詞為主。解釈課文中下列単音詞,体会 一特点(古代漢語は一音節語を主とし,現代漢語は二音 節語を主とする。本文中の以下の一音節語を解釈して, その特徴を体得しなさい)」(7)とある。これは文語の単語 の特徴を理解させる問題と言えよう。  そして,課題「三」では,南宋の呂祖謙『東萊先生左 伝博議』の一部を挙げ,「閲読下面評論秦穆公退兵的一段 文字,結合課文,談談儞的感想(秦の穆公が兵を引き上 げたことを評論した次の文章を読み,本文と組みあわせて, あなたの感想を話しなさい)」(7)という問題が設定されて いる。  以上を見ると,関連教材を利用した課題「三」は,本 文の内容をひととおり学習した上で取り組む,発展的な 学習に属するものであると考えられる。なお,関連教材 を用いた課題が他の課題よりも後に置かれるという配列 は,他の古典教材の場合にも概ね共通する。  表1・2に示した課題の内容を見ると,確かに,学習の 幅を広げてゆくという発展的な方向において関連教材は 様々に利用されており,またそれらは『語文課程標準(実 験)』に言う「自主・協力・探究」の学習方式を反映して いるように見受けられる。そこには,感想を求めるもの から比較や翻訳をさせるものまで,バラエティに富む課 題が設定されており,学習活動としても,口頭で話をさ せることや短文を書かせることなど,学習者同士の交流 を視野に入れたものが見られる。  また,これらの課題によって学習者に身につけさせよ うとする能力・学力にも,様々なものが想定されている。 ○本題希望学生能通過独立分析多種歴史資料,進一歩 了解全面的人物形象,立体的人物性格,培養自己分 析・解決問題的能力(この課題は生徒が様々な歴史 的資料を独自に分析することを通じて,人物の全体 像や立体的な性格を一層理解し,自ら分析する能力 や問題を解決する能力を養うことを目的としている)。 (第4冊,「蘇武伝」)(8) ○ 是一道拓展開放題,旨在培養学生総合閲読和整体 把握的能力,通過閲読対作家進行深入的理解……(こ れは発展的開放的な課題であり,学生の総合的な読 書と全体把握の能力を養成し,読書を通して作家に 対する深い理解を進める……という趣旨である)。(第 5冊,「帰去来兮辞」)(9)

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 以上はその一部であるが,関連教材というものが本文 の理解を踏まえた上でさらなる能力・学力の向上を企図 するものであると見ることができる。これは,言わば, 教科書本文から出発して学習者をその外側へと導く役割 と考えられる  しかし,実際に関連教材の利用のあり方を見てゆくと, 必ずしもこの役割のみに限定されないものがある。とい うのも,他ならぬ「燭之武退秦師」の課題「三」の設問 意図について,『教師教学用書』第1冊では「本題意在譲 学生進一歩探討課文内容(この課題の意図は生徒に教科 書本文の内容をさらに探究させるところにある)」(10)とし ており,本文のより深い読解を志向したものと考えられ るためである。こちらの場合は,学習者を本文に回帰さ せる役割と言えよう。  筆者は,この側面における関連教材の利用のあり方を 明らかにすることによって,はじめて関連教材の意義に ついて全体的に把握できると考えるものである。  もちろん,全ての課題の設問意図に本文読解との関係 が明言されているわけではないが,考えてみれば関連教 材は教科書本文から遊離したものではなく,学習者は課 題に取り組む際に再び本文を振り返ることになるはずで ある。だとすれば,程度の差はあるとしても,これらの 『語文』 題目 出典 課題 日本語訳 関連教材 第1冊 燭之武退 秦師 『春秋左氏伝』僖公 三十年 (『十三経注疏』中 華書局 1980 年版) 閲読下面評論秦 穆公退兵的一段文 字,結合課文,談 談儞的感想。 秦 の 穆 公 が 兵 を 引 き 上 げ た こ と を 評 論 した次の文章を読み, 本文と組みあわせて, あ な た の 感 想 を 話 し なさい。 呂祖謙『東萊先生左 伝博議』 第2冊 蘭亭集序 『晋書』王羲之伝 (中華書局 1974 年 版) 閲読下面幾則有 関王羲之的故事, 并把牠們翻訳成現 代漢語。 次 の い く つ か の 王 羲 之 に 関 す る エ ピ ソ ードを読み,またそれ を 現 代 中 国 語 に 翻 訳 しなさい。 『晋書』王羲之伝 赤壁賦 『 経 進 東 坡 文 集 事 略』巻一 (『四部叢刊』本) 下面是「後赤壁 賦」中的一段文字, 仔細閲読,体会牠 与本文所描絵的景 色有甚麽不同。 以下は「後赤壁賦」 中の文章である。よく 読んで,これと本文で 描 か れ て い る 景 色 と で は 何 が 違 う か 感 じ 取りなさい。 蘇 軾 「 後 赤 壁 賦 」 (『経進東坡文集事 略』) 第3冊 蜀道難 『李太白全集』 (中華書局 1977 年 版) 唐代孟棨「本事 詩」載(本文省略)。 試 発 揮 連 想 和 想 象,改写成一則小 故事。 唐の孟棨『本事詩』 に(本文省略)とある。 想 像 を 膨 ら ま せ て ひ と つ の 短 い 物 語 に 改 作してみなさい。 孟棨『本事詩』高逸 杜甫詩三 首 『杜詩詳注』 (中華書局 1979 年 版) 宋代的羅大経指 出「登高」「万里悲 秋常作客,百年多 病独登台」這聯詩 含有八層意思,儞 能 読 出 幾 層 意 思 来。試做具体分析。 宋 の 羅 大 経 は 「 登 高」詩の「万里悲秋常 作 客 , 百 年 多 病 独 登 台」という聯には 8 段 階 の 意 味 が あ る と 指 摘している。あなたは 何 段 階 の 意 味 を 読 み 取 る こ と が で き ま す か。具体的な分析をし てみなさい。 羅大経『鶴林玉露』 乙篇 李商隠詩 二首 『李商隠詩歌集解』 (中華書局 1998 年 版) 従小学到初中, 従課内到課外,儞 読過李商隠的哪些 詩。請以「我所知 道的李商隠」為題, 写一篇短文。 小学校から中学校ま で,授業中から課外ま で,あなたは李商隠の ど の よ う な 詩 を 読 ん だことがありますか。 「 私 の 知 っ て い る 李 商隠」という題でひと つ の 短 文 を 作 り な さ い。 『李商隠詩歌集解』 表1 『語文』教科書第1~第3冊における関連教材を利用した課題

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課題が本文の理解を深めることに繋がる可能性は考えら れてもよいであろう。  しかし,例えば「燭之武退秦師」の場合,課題「一」 において内容の理解を問うものが既に出題されており, 関連教材を扱う課題「三」がどのように本文読解に資す るかは未詳である。  思うに,本文読解に向かう関連教材の意義を解明する ためには,教科書本文と仔細につきあわせながら検討す る必要がある。論述の都合上,まず関連教材と教科書本 文とを比較させる課題から検討を始めたい。なお,「燭之 『語文』 題目 出典 課題 日本語訳 関連教材 第4冊 蘇軾詞二首 『東坡楽府箋』 ( 商 務 印 書 館 1958 年版) 這両首詞和以前 学過的「赤壁賦」 都作於蘇軾被貶黄 州期間,試将這三 篇作品相互比較, 看看牠們在表達思 想感情方面有甚麽 異同。 この二首の詞と以前 に学んだ「赤壁賦」と は蘇軾が黄州に左遷さ れていた時期に作られ たものである。この三 首の作品を比較して, 思想・感情の面でどの ような異同があるか調 べなさい。 蘇軾「赤壁賦」(『経 進東坡文集事略』) 李 清 照 詞 二 首 『 李 清 照 集 校 注』 (人民文学出版 社 1979 年版) 関於「酔花陰」 有 這 様 一 箇 故 事 , (本文省略)。請結 合全詞,為這三句 写一段賞析文字。 「酔花陰」について は次のような物語があ る,(本文省略)。詞全 体とあわせて,この三 句について鑑賞文を書 きなさい 伊 世 珍 『 琅 嬛 記 』 巻中 廉頗・藺相如 列伝 『史記』廉頗・ 藺相如列伝 ( 中 華 書 局 1963 年版) 給下面一段文字 加上標点符号,翻 訳成現代漢語,并 談談儞対這段話的 理解。 次の文章に標点符号 を加え,現代中国語に 翻訳し,あなたがこの 文章をどのように理解 したか話しなさい。 『 史 記 』 廉 頗 ・ 藺 相 如 列 伝 「 太 史 公 曰…」 蘇武伝 『漢書』李広・ 蘇建伝 ( 中 華 書 局 1962 年版) 相 伝 蘇 武 帰 漢 後,曾致書李陵, 望其帰漢,李陵作 「答蘇武書」回復。 下面即其中的一段 文字。試結合課文 和這一段文字,談 談儞対蘇武這一歴 史人物的認識。 蘇 武 は 漢 に 帰 っ た 後,李陵に手紙を送っ て,漢へ帰るように望 み,李陵は「蘇武に答 える手紙」を作って返 事をしたと伝えられて いる。次に挙げるのは その中の一節である。 教科書本文とこの一節 とを組みあわせて,蘇 武という歴史上の人物 に対するあなたの認識 を話しなさい。 李 陵 「 答 蘇 武 書 」 (『文選』巻四十一) 第5冊 帰去来兮辞 『陶淵明集』 (逯欽立,中華 書局 1979 年版) 結 合 已 学 過 的 「帰園田居」「五柳 先生伝」等,説説 儞心目中的陶淵明 是怎様一箇人,并 談談儞対古代帰隠 現象的看法。 既に学んだ「園田の 居に帰る」詩・「五柳先 生伝」等とあわせて, あなたの想像する陶淵 明がどのような人かを 話し,また古代の隠遁 に対するあなたの見方 を話しなさい。 「 帰 園 田 居 」 詩 ・ 「 五 柳 先 生 伝 」 (『陶淵明集』) 滕王閣序 『王子安集注』 (上海古籍出版 社 1995 年版) 「滕王閣序」与 「蘭亭集序」都是 序文,試比較牠們 思想内容的異同, 談談儞的体会。 「滕王閣序」と「蘭 亭集序」とはどちらも 序文であるが,それら の思想内容の異同を比 較して,あなたの感じ 取ったことを話してみ なさい。 『晋書』王羲之伝 表2 『語文』教科書第4~第5冊における関連教材を利用した課題

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武退秦師」については第4節に取り上げることとする。 3.関連教材を利用した比較学習  『語文』教科書第2冊の「赤壁賦(以下「前賦」と称す)」 の「研究討論と練習」では,課題「三」として,続編に あたる「後赤壁賦(以下「後賦」と称す)」冒頭の一部が 挙げられ,「仔細閲読,体会 与本文所描絵的景色有甚 不同(よく読んで,これと本文で描かれている景色とで は何が違うか感じ取りなさい)」(11)と風景描写を比較する 問題が設定されている。  まず「前賦」を振り返ると,第1・2段落において風景 描写を含む状況説明がなされており,第3・4段落はすべ て「蘇子」と「客」との対話で構成されている。そこで 冒頭から風景描写を抜き出してみると, ○壬戌之秋,七月既望,蘇子与客泛舟,遊於赤壁之下。 清風徐来,水波不興(12)  元豊五年(1082)の初秋七月十六日,蘇先生は 客と長江に舟を浮かべ,赤壁(現在の湖北省黄岡 市黄州区西北)の下に遊んだ。涼しい風がゆるや かに吹くが,波も立たないほど静かである。 ○少焉,月出於東山之上, 徊於斗牛之間。白露横江, 水光接天。縦一葦之所如,凌万頃之茫然(12)  しばらくすると,月が東の山にのぼり,斗宿牛 宿の星々の間に浮かぶ。白くぼんやりとした水蒸 気が水面をおおい,反射する月光が水平線の彼方 で天と連なっているかのようである。一枚の葦の 葉のように小さな舟に揺られ,広々とした長江を 越えてゆく。 という箇所が挙げられる。  一方,「後賦」においては, ○是歳十月之望,歩自雪堂,将帰於臨皐。二客従予, 過黄泥之坂。霜露既降,木葉尽脱,人影在地,仰見 明月(11)  この年(「前賦」と同じ元豊五年)の十月十五日, 雪堂から歩いて臨皐亭に帰ろうとしていた。二人 の客と連れ立って,黄泥坂というところを通った。 霜露が降り,木の葉はすっかり落ちてしまい,自 分たちの影法師が地面に映っているので,振り仰 いで満月を眺めた。 ○江流有声,断岸千尺。山高月小,水落石出。曾日月 之幾何,而江山不可復識矣(11)  長江の水は音をたてて流れ,切り立った岸は千 尺もの高さ。山は高く月は小さく,水面が下がっ て水底の石があらわになる。前に来たときから月 日はいくらも経ってないが,長江や山は知らない 景色のようである。 が挙げられよう。  両者を比較してみると,まず季節については「前賦」 が初秋七月であるのに対し,「後賦」は初冬十月という違 いがある。したがって景物も,「前賦」は「清風徐来」,「白 露横江」と気温が下がることによって生じる秋めいた風 や水蒸気が漂う様子が描かれており,一方,「後賦」では さらに気温が下がり,「霜露既降,木葉尽脱」とあるよう に霜が降りて木々の葉も落ちている。  また,「前賦」では「蘇子与客泛舟,遊於赤壁之下」と あるように舟から見た水上の景色が描かれているのに対 して,「後賦」では「歩自雪堂,将帰於臨皐」,「人影在地, 仰見明月」という記述から明らかなように地上を歩きな がらの景色が描かれている。  さらにこのことに関連して言えば,月光についても「前 賦」では「水光接天」とあるように長江の水面に反射し ているのに対して,「後賦」では葉の落ちた枝越しに人物 の影を地面に映している,という違いがある。  この課題は,概ね以上のような解答を求めるものと思 われるが,このような形で学習者に風景を注目させる狙 いは,もちろん叙景の巧みさを味わわせる点にあるであ ろうが,単にそれのみには留まらないように思われる。 なぜならば,「赤壁賦」の中核をなす「蘇子」と「客」と の議論は,風景に触発されて生じるものであり,また様々 な景物を例としながら展開されるためである。  具体的に言えば,客の「哀吾生之須臾,羨長江之無窮。 挾飛仙以遨遊,抱明月而長終(わが命の短さを悲しみ, 長江の終わりなき流れをうらやむ。仙人と連れだって気 ままに遊び,明月を抱いて永遠に生きたいものだ)」(13) いう述懐は,人生の短さを長江の悠久の流れと対比する ものであり,また明月とともに永久の存在であることを 願うものである。また,それを受けた「蘇子」の主張も「惟 江上之清風与山間之明月,耳得之而為声,目遇之而成色。 取之無禁,用之不竭(長江の涼しい風と山間の明月とだ けは,耳に心地よい音として聞き,目に美しい色と眺める。 これを取っても禁じられることはなく,いくら用いても なくなるものではない)」(13)と,長江を渡る風や山々の間 に浮かぶ満月を享受することを説くなど,登場人物を取 り巻く風景は,いかに人生を充足させるかという賦全体 の中心的テーマに深く関わっているのである。  ところで,課題「一」においても「……結合第3・4段, 説説作者借江上清風・山間明月抒発了甚 感情,闡発了 怎様的哲理(第3・4段に結びつけて,作者は江上の風・ 山間の明月を借りてどのような感情を述べ,どのような 哲理を明らかにしたか話しなさい)」(11)と,風景と関連づ けて述べられた感情や哲理を問う問題が設定されている。  課題「一」と「三」とを見比べてみると,前者は第3・ 4段すなわち「客」と「蘇子」との対話に着目させている ことから明らかなように,彼等の主張の内容に焦点が当 てられている。一方,後者はあくまでも風景に注目させ ようとするものである。

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 前述のように,「客」と「蘇子」を取り巻く月や風は彼 らの主張と密接に結びついている。学習者は課題「一」 でそのことに気づくであろうが,その月や風は賦の冒頭 から登場しているのである。とすれば,課題「三」は, 学習者の視点を直接的な会話部分から,冒頭における状 況設定にまで向けさせ,賦全体の緊密な構成に気づかせ る役割を果たしていると考えられる。  この課題は,教科書本文ばかりでなく,同一作者によ る続編とも言うべき作品にも目を向けさせて,学習者に 比較させるものである。これまで見てきたように風景描 写を抜き出して比較することは,さほど難しくはない。 しかし,単に平易な問題というばかりでなく,教科書本 文の核心に迫りながら,賦全体の構成を意識させるとい う点で,周到に考えられた課題と言ってよいであろう。  また,このように間接的に教科書本文のテーマに触れ るものばかりではなく,より直接的に作者の思想や感情 を み取らせようとするものもある。そのような事例と して,『語文』教科書第5冊の「滕王閣序」について見て みたい。  滕王閣はもともと唐の皇族李元嬰が修建したものであ る。洪州都督閻某は,上元二年(675)の九月九日重陽の 日に新州刺史宇文某の餞別を兼ねて,滕王閣で幕僚や賓 客を集めて宴席を催した。ちなみに当時の宴会には,参 加した人々が作った詩歌を詩集にまとめ,特に文才ある 者が序を書くという習慣があった。作者王勃は犯罪によっ て官を失い,交趾(現在のベトナム社会主義共和国ハノ イ市)県令であった父の王福畤のもとに向かう途上でそ の宴席に参加し,この「滕王閣序」を制作した。  さて,「研究討論と練習」では,「『滕王閣序』与『蘭亭 集序』都是序文,試比較 們思想内容的異同,談談儞的 体会(『滕王閣序』と『蘭亭集序』とはどちらも序文であ るが,それらの思想内容の異同を比較して,あなたの感 じ取ったことを話してみなさい)」(14)という課題が設定さ れている。「蘭亭集序」は,『語文』教科書第2冊に収載さ れており,学習者にとっては既習の文章ということになる。  ここで「蘭亭集序」に述べられている王羲之の思想に ついて確認しておくと,次のように死生に関するものが 中心を占める。  向之所欣,俛仰之間,已為陳跡,猶不能不以之興 懐。況修短随化,終期於尽。古人云,「死生亦大矣」, 豈不痛哉(15)  もともと喜ばしかったことが,一瞬にして陳腐 になってしまうと,そのために感慨を生じずには いられない。まして寿命の長短はなるべきように しかならず,結局は終わりがある。それで昔の人 たちは,「死生は人の一大事である」と言ったので あるが,なんと痛ましいことか。 とあるように,喜びが時間の経過と共に色あせてしまう ことさえ悲しいのに,まして人が結局のところ死んでし まうことはなおさら悲しい,という逃れられない死の問 題が取り上げられている。また,  毎覧昔人興感之由,若合一契,未嘗不臨文嗟悼, 不能喩之於懷。固知一死生為虚誕,斉彭殤為妄作。 後之視今,亦猶今之視昔。悲夫(15)  昔の人が感慨無量になった原因を見るたびに, 私は割り符をあわせたように共感し,先人の文章 を読んでは嘆かずにいられなかったが,なぜそう なのか言い表せない。もとより生と死とを同一視 することは荒唐無稽であり,長命と夭折とを等し いとすることはでたらめであるとわかっている。 後世の人が今の人を見ること,今の人が昔の人を 見るのとほぼ同じであろう。悲しいことよ。 と述べ,生と死とを同一視する老荘思想の言葉を否定し, 古今を通じての普遍的な問題として死の悲しみがあり続 けることを述べて結ばれる(注5)  このような死生についての考え方は,指導上の重点項 目とされている。『教師教学用書』第2冊には「『蘭亭集序』 中表達的思想和老荘思想一致 (『蘭亭集序』に書かれた 思想は老荘思想と一致しているか)」と題して,次のよう に言う。 王羲之在「蘭亭集序」中描述了生命的不同状態,抒 発了自己高曠的宇宙情懐。但是,他的生命観不同於 老荘的道家思想。在王羲之看来,対生的執着・対死 的排斥是人所共有的感情,是客観存在,「一死生為虚 诞,斉彭殤為妄作」, 就徹底否定了老荘的斉生死的 観点,而樹立了自己的生命意識──「死生亦大矣」(16)  王羲之は「蘭亭集序」において生命の異なる状 態を描き,自身の広い視野で普遍的感情を述べて いる。しかし,彼の生命観は老荘の道家思想と同 じではない。王羲之から見れば,生に対する執着 や死に対する排斥は人が共有する感情であり,客 観的な存在である。「死と生とを同一視することは 荒唐無稽であり,長命と夭折とを等しいとするこ とはでたらめである」,これは死生を等しいとする 老荘の観点を徹底的に否定するものであり,自身 の生命意識――「死生は人の一大事である」をう ち立てた。  また,「蘭亭集序」の「研究討論と練習」の中では,作 者王羲之の死生観を問うものや,「蘭亭集序」における人 生無常の感や歳月人を待たずの嘆きについて話し合う活 動も設定されている。学習者には,まずこうした既習事 項を振り返ることが求められる。  これらを踏まえて「滕王閣序」を見直すと,まず「蘭 亭集序」の「もともと喜ばしかったことが,一瞬にして 陳腐になってしまうと,そのために感慨を生じずにはい られない」という考え方に類似するものとして,次の発

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言が注目される。  天高地迥,覚宇宙之無窮。興尽悲来,識盈虚之有 数。望長安於日下,目呉会於雲間。地勢極而南溟深, 天柱高而北辰遠。関山難越,誰悲失路之人。萍水相 ,尽是他郷之客。懐帝閽而不見,奉宣室以何年(17)  天は高く地は広く,その無窮の広がりを感じる。 やがておもしろさが尽きると悲しみが生じ,物事 の満ち欠けの宿命を知る。西に長安を太陽のよう に遠くに眺め,東に呉の都を雲の彼方に目指す。 地の尽きるところ,南海は深く広い。天柱は北に そびえて北極星ははるかに遠い。関所のある山は 険しく越えがたく,道を失った私を誰か同情して くれるだろうか。浮き草のように漂う私に出 う のは,ことごとく他郷の旅人である。皇帝陛下を 思っても会うことはできず,宮廷に召されるのは いつのことであろうか。  この箇所は,滕王閣をめぐる美景を詳細に連ね,集っ た人々の遊び楽しむ様子を描いた後で,その楽しい遊び もやがて興が尽きると悲しみが生じることを述べたもの である。この点は「蘭亭集序」に通じるものがあるよう に思われるが,その後に展開されるのは王勃自身の個人 的な流浪の身の上であって,「蘭亭集序」のような普遍的 な死の悲しみではない。  また,「滕王閣序」には蘭亭に言及した箇所がある。  嗚呼,勝地不常,盛 難再。蘭亭已矣,梓沢丘墟。 臨別贈言,幸承恩於偉餞。登高作賦,是所望於群公。 敢竭鄙懐,恭疏短引(14)  ああ,名勝地もいつか変わってしまい,盛大な 宴会も再び開催できるとは限らない。蘭亭の宴も すでに過去のものとなり,金谷の宴を開いた庭園 も廃墟となってしまった。別れに際して宴の主人 にこの序文を贈り,すばらしい餞別のご恩を受け た僥倖に感謝する。高いところに登って詩を作る ことを,この場に並みいる諸公にお願いしたい。 わたくしめは誠意を尽くして,つつしんでこの短 い序文を作ろう。  この盛会が永遠のものではなく,蘭亭や金谷の宴も過 去のものである,という発言から見れば,王勃が「蘭亭 集序」を意識していたことは明らかである。しかし,そ こで催された感慨は,やはり人間の死生の問題には向か わず,「滕王閣序」の制作に心血を注ぐという方向に傾く のである。  このような方向性の違いをもたらした原因は,王勃が この機会に自己の文才をアピールし,有力者である閻某 の推 を求めようとしているためと考えられる。このこ とは王勃が自身の人生について触れた部分を見れば判然 とする。  勃,三尺微命,一介書生。無路請纓,等終軍之弱 冠。有懐投筆,慕宗愨之長風。舎簪笏於百齢,奉晨 昏於万里(16)  わたくし王勃は,三尺の帯をつけるに過ぎない, 一介の書生である。漢の終軍のように活躍する機 会がないまま,彼が使者に出た年齢に同じくなっ た。漢の班超のように筆を捨てて旅立とうとして, 南朝宋の宗愨のように風に乗って万里の波を乗り きる気概を慕う。朝廷での活躍を生涯あきらめ, 万里の彼方で朝な夕なに父に仕えよう。  「三尺」は官服の紳(帯の垂れた部分)の長さであり, 王勃の身分の低いことを指す(注6)。また簪笏も冠をとめる 簪,官吏が常に手にしている笏であり,官僚としての地 位を指す。彼はそれを捨て,父に孝養を尽くそうと述べ る。しかし,その後に続けて閻某の知遇を得たことの僥 倖を次のように言う。  他日趨庭,叨陪鯉対。今茲捧袂,喜托龍門。楊意 不 ,撫凌雲而自惜。鍾期既遇,奏流水以何慚(19)  遠からず父に会ってその教えを受けるだろう。 しかし今ここで閻公に拝礼し,竜門に登ったこと を喜ぶ。私は漢の武帝に司馬相如を推薦した楊得 意にも遭遇せず,雲を凌いで天に昇る心地という 司馬相如「大人賦」を読んでは自分の不遇を惜し んでいた。しかし鍾子期のような知音の人(閻公) と出会ったからには,伯 のように流水の曲を弾 くことをどうして恥じることがあるだろうか。  この宴席を登竜門になぞらえ,司馬相如を漢武帝に推 挙した楊得意の故事,伯 ・鍾子期の知音の故事を引き ながら,主催者閻某が自分の良き理解者となることを述 べる。  なお,このように遠く父のもとに向かう旅人の少年が たまたま今回の宴に参加する幸運にめぐまれた,という 構図は,冒頭の「家君作宰,路出名区。童子何知,躬 勝餞(父は交趾県令となり,そこに訪問する途中でこの 有名な場所を通過した。童子である私は年少で無知であ るが,この盛大な宴会に出席する幸運に恵まれた)」(20) くり返すものである。  以上のように,不遇の中でつかんだ僥倖を手放すまい と懸命な作者王勃の姿は,自身の文学的才能による再起 を狙う不屈の人生哲学の現れとして「滕王閣序」全体を 貫いていると言えよう。  このように見てくると,王羲之「蘭亭集序」が人間に 共通する普遍的な死の悲しみをテーマとするものである のに対して,王勃「滕王閣序」は活躍の舞台を得ようと する若者の個人的な憂憤を骨子としている,という違い が確認される。  ちなみに『教師教学用書』第5冊の参考答案も,「対個 体生命短促的憂慮(個人の生命の短さに対する憂い)」(21) を両者に共通するものとして指摘しており,また王勃に

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ついては「如何譲個体的生命発揮出最大光彩是他們関心 的(いかに個人の生命に最大の輝きを発揮させるかが彼 らの関心事であった)」(21)と指摘している。  これまで具体的な比較検討の方法を見てきたが,この 課題を解く手がかりは「蘭亭集序」におけるポイント, すなわち王羲之独自の生命に対する意識を振り返ること によって得られる。そして,作者がどのように自身を描 いているかという観点から「滕王閣序」全体を点検する ことによって,輝かしい人生を取り戻そうとする王勃の 執念を読み取ることができるようになっている。これは, 既習教材である「蘭亭集序」を効果的に利用した学習と 言ってよいであろう。  さて,以上は学習者に比較させることによって教科書 本文の理解を深めるものであったが,関連教材の利用と しては,読解のために必要な視点をより直接的に与える ものがある。次にはそうした事例を見てみよう。 4.関連教材がもたらす視点  『語文』教科書第1冊の「燭之武退秦師」は,『春秋左氏 伝』僖公三十年(前630年)の記事に基づく。  第2節に示したように,「研究討論と練習」では,課題「一」 に本文の内容理解に関する問題が設定されている一方で, 関連教材を利用する課題「三」の設問意図にも「本題意在 譲学生進一歩探討課文内容(この課題の意図は生徒に教科 書本文の内容をさらに探究させるところにある)」(10)とさ れていた。ここでは,関連教材として提示された呂祖謙 の評論が,どのような点で教科書本文の内容を探求させ ることになるのであろうか,という点について,課題「一」 との比較を通じて検討したい。  まず教科書本文の概要について見てみよう。  前630年,晋の文公と秦の穆公とが連合して を包囲攻 撃した。 の文公は臣下の燭之武を派遣して秦の穆公を 説得させた。夜,燭之武は城外に出て,秦伯に面会した。 燭之武は穆公に次のような点を主張して撤兵を勧めた。(1) 晋を飛び越えて遠方の を秦の属国とすることの困難,(2) を滅ぼすことは晋の国力の増大を意味し,秦は相対的 に弱体化すること,(3)秦の外交使節に対して が物資 を供給するという関係を結ぶメリット,(4)かつて晋が 秦を裏切ったこと,(5) が滅びた後は晋が秦への侵略 を狙うであろうこと等である。秦の穆公は と盟約を結 び,大夫の杞子・ 孫・楊孫に を守らせて引き上げた。 このことを知った晋の文公も, から撤退した。  『教師教学用書』第1冊は,この文章の焦点が燭之武の 鮮やかな外交交渉,すなわち秦の立場に立った発想や秦・ 晋両国の対立関係の利用にあることを指摘している。   文章対燭之武的善於辞令,写得極為出色。他 去説服秦伯,雖然目的是求和,但決不露出一点乞憐 相。他利用秦晋之間的矛盾,動之以情,暁之以理, 頭頭是道,使人信服。他在説辞里処処為秦着想,使 秦伯不得不心悦誠服,不 答応退兵,而且助 防晋(21)  この文章は燭之武の弁舌のうまさについて見事 に書かれている。彼は秦伯(穆公)を説得しに行き, 目的が和解を求めることであったとはいえ,哀れ みを請う様子を少しも顕わにしなかった。彼は秦・ 晋の対立を利用して,情によって動かし,理によっ て悟らせ,筋の通った説得で人を心服させた。彼 は発言の随処で秦のために考慮し,秦伯を心から 承服させずにはおかず,撤兵を承諾させるだけで はなく, を助けて晋を防ぐこともさせた。  ここで課題「一」小問3を見ると, 3 . 燭之武用 些事実和事理説服秦伯退兵(燭之武は どのような事実と道理とによって秦伯に撤兵を説得 したか)? 其中 一点最関 (その説得の中でどの 点が最も大事であったか)?(7) とあり,まさに燭之武の説得の内容を問うものとなって いる。『教師教学用書』第1冊の参考答案には「燭之武勧 説秦穆公的一段話是本題的答案(燭之武が秦の穆公を説 得する言葉がこの課題の答案である)」(10)とあり,上記(1) から(5)までについて,事実を説くものと道理を説くも のとに分類することが求められている。  課題「三」は「閲読下面評論秦穆公退兵的一段文字, 結合課文,談談儞的感想(秦の穆公が兵を引き上げたこ とを評論した次の文章を読み,本文と組みあわせて,あ なたの感想を話しなさい)」(7)というものであるが,その「評 論」(呂祖謙『東萊先生左伝博議』)には次のように言う。  天下之事以利而合者,亦必以利而離。秦・晋連兵 而伐 , 将亡矣。燭之武出説秦穆公,立談之間存 於将亡。不惟退秦師,而又得秦置戍而去,何移之 速也。燭之武一言使秦穆背晋親 ,棄強援,附弱国, 棄旧恩,召新怨,棄成功,犯危難。非利害深中秦穆 之心,詎能若是乎。秦穆之於晋,相与之久也,相信 之深也,相結之厚也,一 於燭之武之利,棄晋如涕 唾,亦何有於 乎。他日利有大於燭之武者,吾知秦 穆必翻然従之矣(7)  世の中のあらゆるできごとにおいて,利益によっ て集合する者は,また必ず利益によって離散する。 秦・晋が連合して を攻撃し, は滅亡に して いた。燭之武は使者として秦の穆公を説得し,わ ずかな会談の間に を滅亡寸前のところから救っ た。秦の軍を退けたのみならず,秦に守備兵を置 いて帰らせることまでやってのけるとは,秦を方 針転換させることの何と速やかなことか。燭之武 の一言は秦の穆公に,晋に背いて と親しくさせ, 強い国を捨てて弱い国に味方させ,旧恩を捨てて 新たな怨みを招かせ,成功を捨てて危険を犯させ た。利害が秦の穆公の心に深く刺さったのでなけ

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れば,どうしてこのようにできるであろうか。秦 の穆公は,晋に対して協力しあうことも長く,信 頼関係も深く,同盟を結ぶことも厚かったが,ひ とたび燭之武が示した利益に誘われると,鼻水や 唾のように晋を捨てた。とはいえ, に何らかの 力があったというわけではない。いずれ燭之武の ものよりも大きな利益があれば,秦の穆公は必ず や翻ってそちらについていくに違いない。  呂祖謙によれば,確かに穆公は晋との連合をあっさり と放棄したのであるが,そうであるからといって に何 らかの実力を認めていたというわけではなく,もしも燭 之武が提示した利益よりも大きなものがあれば,穆公は あっさりと手のひらを翻すであろう,という。この評論は, 燭之武の説得がもっぱら秦の利害得失を説くものであり, 穆公もまた自国の利害によってのみ行動する人物であっ たことを強調するものと言えよう。  説得の内容については,既に課題「一」で問われてい るのであるが,そちらは事実関係や論理を確認すること に主眼が置かれている。一方,課題「三」の評論を読む ことによって,学習者は,燭之武が利害を説いたことと 同時に,これを受ける穆公の行動原則もまた利害による ものであったために彼の説得が肯綮に当たった,という 事情に気づくことになるであろう。呂祖謙の評論を提示 することによって,より宏視的に本文の構造を捉える視 点が学習者に与えられることになるのである。  なお,このように学習者に読解のための視点を与える という点では,次のような事例も挙げられる。  『語文』教科書第2冊の「蘭亭集序」では,「閲読下面幾 則有関王羲之的故事,并把 們翻訳成現代漢語(次のい くつかの王羲之に関するエピソードを読み,またそれを 現代中国語に翻訳しなさい)」(23)という問題が設定されて いる。これは一見すると作者に関する知識を補う課題の ように思われるのであるが,その設問意図には次のよう にあって,やはり教科書本文の内容理解を助けるものと されている。  王羲之・蘭亭・流觴曲水・蘭亭集序及其帖,代表 了一種自由放曠的生存状態。翻訳『晋書』中的 幾 段文字,不但可以鍛錬学生閲読浅易文言文的能力, 而且可以幇助他們進一歩了解王羲之其人,更好地理 解課文内容(24)  王羲之・蘭亭・流觴曲水・蘭亭集序及び法帖は, 一種の自由奔放な生のあり方を代表している。『晋 書』の中のこれらの文章を翻訳することは,生徒 の簡単な文語文を読む能力を鍛えるのみではなく, 彼らがさらに王羲之の人柄を知り,教科書本文の 内容をよりよく理解することを助けることができる。  そこで所掲の挿話を見ると,一流貴族や書家としての イメージに限定されない,王羲之の複雑な人間像が浮か び上がる。例えば,  時太尉郗鑒使門生求女婿於導,導令就東廂徧観子 弟。門生帰,謂鑒曰,「王氏諸少並佳,然聞信至,咸 自矜持。惟一人在東牀坦腹食,独若不聞」。鑒曰,「正 此佳婿邪」。訪之,乃羲之也,遂以女妻之(23)  時に太尉郗鑒が書生を遣わして王導に娘婿が欲 しいと申し入れると,王導は東の離れで王家の子 弟たちを品定めさせた。書生は戻って郗鑒に告げ た,「王氏の若者たちはみな立派ですが,使者が来 たと聞くと,どなたも澄ました態度でした。ただ 一人だけ東側の寝台で寝そべったまま食事をして いた方は,どこ吹く風といったご様子でした」。郗 鑒は「その人こそよい婿殿だ」と言った。調べた ところその人は王羲之であり,そこで娘をめあわ せた。 においては,貴族の間で将来を嘱望された若者として婚 姻相手に選ばれた王羲之が描かれているが,そのような 評価は,寝ながら食事をするという,一見すると野放図 とも言えそうな態度から生まれている。  また,王羲之は書家としての実力を持ち名声を博して いるが,決して浮き世離れした存在ではなく,気軽に書 を与えたりもする。  又嘗在 山見一老姥,持六角竹扇売之。羲之書其 扇,各為五字。姥初有慍色。因謂姥曰,「但言是王右 軍書,以求百銭邪」。姥如其言。人競買之。他日,姥 又持扇来,羲之笑而不答。其書為世所重,皆此類也(23)  かつて 山でひとりの老婆が六角の竹扇を持っ て売っているのを見た。王羲之はその扇にそれぞ れ五文字を書いた。老婆は不満げであった。そこ で老婆に「王右軍の書だと言えば,百銭で売れよ うぞ」と言った。老婆はその通りにした。人々は 争って買った。後日,老婆はまた扇を持ってきた。 王羲之は笑って取り合わなかった。彼の書が重ん じられることは,みなこのようであった。  しかし,この課題が王羲之の書家という一面のみを強 調しようとするものでないことは,次の挿話を選んでい ることから判る。  性愛鵝,会稽有孤居姥養一鵝,善鳴,求市未能得, 遂携親友命駕就観。姥聞羲之将至,烹以待之,羲之 惜弥日(23)  王羲之は鵞鳥が好きであった。会稽に鵞鳥を飼っ ている独り者の老婆がおり,その鵞鳥の鳴き声が よいので売ってくれるよう頼んだが手に入れられ ずにいた。そこで友人と連れだって車で見に行っ た。老婆は王羲之が来ると聞き,鵞鳥を煮てもて なした。王羲之は幾日も残念がった。  王羲之の鵞鳥好きは有名であるが,実は『晋書』本伝 には次のような挿話もあるのである。

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 又山陰有一道士,養好鵝,羲之往観焉,意甚悦, 固求市之。道士云,「為写道徳経,当挙群相贈耳」。 羲之欣然写畢,籠鵝而帰,甚以為楽(25)  山陰にりっぱな鵞鳥を飼っている道士がいた。 王羲之は見に行くと大変に喜び,どうしても売る ように求めた。道士は「『老子』上下両 を書写し てくださるなら,群れごと差し上げましょう」と行っ た。王羲之は喜んで写し終えると,鵞鳥を籠に入 れて帰り,大変にかわいがった。  以上のふたつの挿話は,鵞鳥に対する王羲之の愛好ぶ りを示す類似の内容であるが,老婆の早とちりによる失 敗談の方を採用したということは,必ずしも書家として の挿話を優先しているわけではない,と言えよう。  かくして時に豪放磊落であり時にコミカルな王羲之の 姿を提示することは,学習者の側からみれば,書家とい うイメージばかりではなく,その人柄の様々な側面や当 時の貴族文化の雰囲気を知る新たな視点が与えられるこ とになる。このような視点から「蘭亭集序」の「向之所欣, 俛仰之間,已為陳跡,猶不能不以之興懐(もともと喜ば しかったことが,一瞬にして陳腐になってしまうと,そ のために感慨を生じずにはいられない)」(15)や,「後之視今, 亦猶今之視昔。悲夫(後世の人が今の人を見ること,今 の人が昔の人を見るのとほぼ同じであろう。悲しいことよ)」 (15)といった嘆きを振り返るとき,かかる闊達な人物にし てなお死の悲しみは超克できないわけであり,彼の悲し みや絶望がどれほどであったか,読む者の胸に迫ること は想像に難くない。してみれば,この課題は「蘭亭集序」 において死の問題にまで踏み込んだ王羲之の心情を理解 する上で,やはり有効であるように思われる。なお,作 者の身上や時代背景と結びつけて教科書本文の趣意を味 わうことは,単元のめあてとしても指示されていること である(注7) 5.むすび  本稿第2節に述べたように,関連教材を扱う課題は,学 習者を発展的に教科書本文の周辺へと導く役割とともに, さらなる本文の読解へと向かわせる役割をも有している と考えられる。本稿では,特に後者について,教科書本 文と課題とを見比べながら,関連教材を利用する意義を 検討してきた。その結果として,関連教材は,より深い 読解のための比較対象として,あるいは読解に必要な視 点を提供するものとして,教科書本文の構造や重要ポイ ントを学習者に気づかせようとするものであることが明 らかとなった。  このような利用のあり方が,教師主導型の授業から脱 却して学習者主体の学びを目指すものであることは想像 に難くない。  むろん,教師の適切な指導は欠かせないであろうが, 従来のように教師や指導書の解釈を押しつけるような指 導はもはや許されない状況となってきている。このこと は『語文課程標準(実験)』の「教学建議(教育上の提案)」 に「教師的点撥是必要的,但不能以自己的分析講解代替 学生的独立閲読(教師の要点をおさえた指導は必要であ るが,しかし教師自身の分析の説明をもって生徒の独自 の読みに代替させることはできない)」(26)と述べられてい ることからも窺い知れる。だとすれば,適切かつ多様な 資料の活用によって主体的な学びを支えてゆくことは, 今後ますます求められよう。その際,関連教材の利用は, 学習者が自分の力で教科書本文を読みこなすための仕掛 けとして,重要な位置を占めるように思われる。 ― 注 ― 1  必修科目を終えた後の選択科目にも,古典学習を行 う科目はある。しかし,選択科目は学校ごとの実情に 合わせた開設が認められているなど,必ずしも全ての 生徒が学習するものではないため,本稿では考察の対 象としない。 2  本稿では,この教科書に準拠した教師用指導書であ る人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普通高中 課程標準実験教科書 語文 必修 教師教学用書』第1 冊~第5冊(人民教育出版社,2007年)も併せて参照し た。以下,『教師教学用書』と称す。なお,簡体字は全 て旧漢字体に改め,可能なものは常用漢字体に改めた。 引用文に附した日本語訳は拙訳による。 3  一分冊は,現代文等も含めた4つの単元から成る。 4  土屋聡「『史記』の『笑』う英雄たち―項羽の『笑』 の解釈のために―」 (『岡山大学国語研究』34号,pp.16-30,2020年)では,そのような例として,『史記』項羽 本紀の読解と故事成語の学習との関係が論じられてい る。 5  「蘭亭集序」が死の不安を超克することなく,その悲 しみや恐怖を直截に述べたものであることについては, 下定雅弘「蘭亭序をどう読むか―その死生観をめぐっ て―」(『六朝学術学会報』5集,pp.49-73,2004年)を参照。 6  この解釈は『語文』教科書に附された注釈に拠る。 なお,この部分の解釈には諸説あるが,道坂昭広「王 勃『滕王閣序』中の『勃三尺微命,一介書生』句の解釈」 (同氏『『王勃集』と王勃文学研究』研文出版,pp.196-200,2016年。初出は京都大学『歴史文化社会論講座紀要』 10号,pp.1-9,2013年)に整理されている。 7  「蘭亭集序」を含む第3単元冒頭の説明文に「閲読 類文章,不但要欣賞其中描絵的自然風光,還要連繋作 者的身世和作品的時代背景,品味作者抒発的感情和文 章寄寓的旨趣(これらの文章を読むには,そこに描か れた自然の風景を観賞するだけではなく,作者の身上 や作品の時代背景と結びつけて,作者が述べた感情や

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文章に寄せた趣旨を味わう必要がある)」(『語文』第2冊, p.28)とある。 ― 文 献 ― ( 1 )林教子「『国語』と『語文』における教育課程の比較・ 研究―漢詩教材を中心に―」『早稲田教育評論』32巻1 号,pp.77-94,2018年 ( 2 )中華人民共和国教育部制定『普通高中語文課程標準 (実験)』人民教育出版社,p.8,2003年 ( 3 )泊功「『教学大綱』と『課程標準』及び『詩経』教 材の『選材』に見る現代中国における古典教育につい て―中国の国語教育における『人文性』の問題―」『新 しい漢字漢文教育』51号,pp.25-35,2010年 ( 4 )前掲書(2),pp.14-15 ( 5 )中華人民共和国教育部制定『普通高中語文課程標準 (2017年版)』人民教育出版社,pp.8-9,2018年 ( 6 )前掲書(2),p.26 ( 7 )人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普通高中 課程標準実験教科書 語文1 必修』人民教育出版社, p.17,2007年 ( 8 )人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普通高中 課程標準実験教科書 語文4(必修) 教師教学用書』 人民教育出版社,p.123,2007年 ( 9 )人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普通高中 課程標準実験教科書 語文5(必修) 教師教学用書』 人民教育出版社,p.41,2007年 (10)人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普通高中 課程標準実験教科書 語文1(必修) 教師教学用書』 人民教育出版社,p.33,2007年 (11)人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普通高中 課程標準実験教科書 語文2 必修』人民教育出版社, p.34,2006年 (12)前掲書(11),p.32 (13)前掲書(11),p.33 (14)人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普通高中 課程標準実験教科書 語文5(必修)』人民教育出版社, p.32,2006年 (15)前掲書(11),p.30 (16)人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普通高中 課程標準実験教科書 語文2(必修) 教師教学用書』 人民教育出版社,pp.80-81,2007年 (17)前掲書(14),pp.30-31 (18)前掲書(14),p.31 (19)前掲書(14),pp.31-32 (20)前掲書(14),p.29 (21)前掲書(9),p.50 (22)前掲書(10),p.31 (23)前掲書(11),p.31 (24)前掲書(16),p.82 (25)房玄齢等『晋書』中華書局,p.2100(第7冊),1974 年 (26)前掲書(2),p.16 ― 表 ― 表1 人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普通高中 課程標準実験教科書 語文 必修』第1冊∼第3冊(人 民教育出版社,2006 ∼ 2007年)に基づいて作成した。 課題の本文には省略したところがある。日本語訳は拙 訳による。以下,同じ。 表2 人民教育出版社課程教材研究所ほか編著『普通高中 課程標準実験教科書 語文 必修』第4冊∼第5冊(人 民教育出版社,2006年)に基づいて作成した。 ― 謝 辞 ―  本稿は日本学術振興会の科学研究費補助金(20K02886) による研究成果の一部である。

参照

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