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現象学における否定性の諸相

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Academic year: 2021

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(1)Title. 現象学における否定性の諸相. Author(s). 千葉, 胤久. Citation. 東北哲学会年報, 22: 29-43. Issue Date. 2006-05. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1774. Rights. 東北哲学会. Hokkaido University of Education.

(2) ●第55回大会研究発表論文. 現象学における否定性の諸相. はじめに. 千葉 胤久. はじめに、本論の概要を示しておこう。第一に検討されるのは、フッサールによる共現前的なものに関する見解であり、. 共現前的なもののうちに含まれる非現前性に関する性格付けである。具体的に言えば、物知覚の分析における付帯現前化、. ならびに時間意識の分析のうちに見られる共現前的なものについてのフッサールの指摘が検討の対象となる。その検討を. 通じて確認されるのは、非現前性が何ものかが現出することの、いわば﹁可能性の条件﹂になっているということである。. 次に、ハイデガーの非現前に関する議論を参照し、まず、そこに見られる二重の非現前の動的な均衡のうちに、存在者. が存在するという事態が見て取られていることを確認する。その上で、そこで確認される事態がハイデガーにおいては. ﹁生と死﹂という言葉でも語られており、そのとき、その事能蒜﹁生は同時に死であり、死は同時に生である﹂と表現さ れるこ と に な る こ と を 見 て い く 。. 最後に、そこで見て取られる死という無と生との関係をめぐる問題を、フィンクの﹁現出世界からの退去﹂としての死. という見解を参照しながら考察する。そこで問われるのは、やはり死は生からの退去ではないのか、ということであり、. 29.

(3) この退去としての死は、生との同時性における死とは異なる死なのではないか、ということである。こうした考察を通じ30. フッサール現象学における非現前的なもの. ︵⊥︶. て、現象学における否定性の諸相を浮かび上がらせていくことにしたい。 一. 一般に何かあるものを知覚しているとき、いまここから見えている表面を通じて、いまここからは見えていない裏面を. ある程度は予測することが可能である。このようにある物を知覚しているとき、意識されているのは見えている表面だけ. ではなく、見えていない裏面もまたある程度予測可能なかたちでともに意識されていること、これが物知覚における付帯. 現前化である。外的な物の知覚は、あくまである一つの物を志向しているのであって、その物のそのつどの現出ないしは. 射映を志向しているわけではない。したがって知覚の際には、そのつどの現出・射映のみならず、それを越えて、非現前. 的︵abwesend︶なアスペクトをも共に志向しているのでなければならない。知覚される物は、厳密な意味で知覚され現 ︵且. 出する前面より以上のものなのである。知覚は、現前化と付帯現前化という両者の分裂とその相互補完的共働において、 ひとつの物の知覚として成立するということができる。. さて、この付帯現前化という共現前的なものをもちろん、潜在性として捉えることは可能であるし、それはある場合に. は正当な捉え方でもある。ただ、そのように言うことで、潜在性のうちに非現前の﹁非性﹂とでもいえることが働いてい. るということが忘れられてはならないであろう。﹁付帯現前化﹂ないしは﹁共現前﹂という言葉を使用するときには、そ. うした潜在性のなかに本質的に含まれる非現前の非性の積極的性格が忘却されてしまうおそれがある。例えば、以下のよ. うなフッサールの記述を単純に受け入れるとき、その傾向はより強まるであろう。.

(4) ﹁ある物の本来的に. ︵HuaI﹂衰こ。. ︵eigent−ich︶見られた表面はつねに必然的に物のある裏面を付帯現前し、その裏面に多少とも規. 定された内容を予め描いてみせているのである﹂︵傍点は引用者による付記︶. こうしたフッサールの表記の仕方に単純に従えば、知覚の全体は、その構成要素として、﹁本来的﹂な現出︵見えいて. いる表面の現出︶と﹁非本来的﹂な現出︵見えない裏面の現出︶とに分けられることになる。そして、見えない裏面もあ. る意味では﹁知覚﹂されているのであり、﹁本来的﹂現出と﹁非本来的﹂現出の両者は分離されたものでほなく、広い意. 味での現出、つまり現出者の現出において続一されている、と記述されることになる。すなわち、知覚は﹁本来的﹂現出. と﹁非本来的﹂現出という分裂を含んだ混成能苛あり、見える面の現前化と見えない面の付帯現前化とはひとつの知覚に おいて融合している、と言われることになるであろう。. 確かに、知覚は両者の融合態であるという指摘は重要である。しかし、ここでわれわれが注意したいのは、先の表記に. おいては、現前が主であり、非現前は﹁本来的な現前﹂の﹁非本来的﹂なあり方であるとする見方が生ずるおそれがある、. ということである。現前と非現前には、一方的な優位関係は存在しない。現前に一方的な優位を認めるとき、非性・否定. 性の積極的意義が見失われてしまう。現出者を現出せしめる際に機能する非現前、そしてその非現前の非性あるいは否定. 性、それほ、つねに現前と結びついているのであり、現前と非現前との相伴う共働関係が、なにものかの、そしてすべて. のものの現出することを可能にし、存在することを可能にしているといえるであろう。ここに非現前の非性の積極性を認 めるこ と が で き る の で あ る 。. この非現前の積極的性格は、フッサールの行った時間意識の分析を参照することによって、より明瞭なものにすること. ができる。時間意識の分析に関しては、原印象という現前に対して予持︵PrOtentiOn︶、把持︵謬tentiOn︶という非. 31.

(5) 前を指摘しうる。確かに、フッサールは予持・把持に関して、その非現前の側面よりも潜在性、非本来的現出といった共. 現前の側面を相対的に重視しているのであるが、しかし、これらを﹁非現前﹂と見なすことほフッサールの見解とももち. ろん両立しうるものなのである。というのは、フッサールにおいても予持されたものや把持されたものは﹁見えていない. もの・聞こえていないもの﹂などであり、そのようなものでなければならないからである。. この点を、予持・把持の考察の際によく採りあげられる﹁メロディー知覚﹂の例をもとに具体的に考えてみよう。例え. ば、ドミソというメロディーがメロディーとして知覚されるためには、最後のソ音が現前しているとき、ド音とミ音は非. 現前でなければならない。メロディーの最終音としてのソ音が現前するためには、ド音とミ音は非現前でなければならな. いのである。もしド音とミ音が共に現前しているとしたならば、それはドミソの和音が現前していることになり、ソ音と. いう単音が現前していることにならないからである。このとき、ド音とミ音の非現前がソ音の現前を可能にしていると言っ. ても、それはそれはど不自然なことではあるまい。また、一連の音の連鎖を﹁ドミソ﹂というメロディーとして知覚する. ためには、そしてそのことによって﹁ドミソというメロディーが聞こえた﹂と言うことができるようになるためには、ド. であって、決して把持された音とは言えない。. 音もミ音もソ音も非現前でなければならない。把持された音は﹁︵もはや︶聞こえていない音﹂であり、もし﹁聞こえて いる音﹂だとすればそれは原印象的に与えられている音︵例えば、残響︶. こうした場面において非現前は、非現前であればこその積極的な働きを示しているのであり、現前の単なる欠如や非本来 的なものにすぎないのではない、ということができよう。. 予持・把持という非現前、物知覚における裏面の非現前、それらはいずれも、現出者が現出することにおいて機能して. ︵現出者が現出することにおける現前と非現前の共働︶. のうちには、﹁たっ. いる非現前であり、原印象あるいは物の表面の現前と共働することによって、現出者が現出することを可能にしているも のとして理解しうるものである。そして、この. 32.

(6) ︵現前︶. ︵非現前︶. からこそ、﹁いまの見. ということが可能になり、そのことを通じて現出者が現出せし. たいまの見え・音﹂と﹁まさに来たらんとする見え・音﹂とが﹁見えない・聞こえない﹂ え・音﹂がまさに ﹁見えている・聞こえている﹂ められるという関係を指摘することができるのである。. 確かに、非現前︵⋮ない︶ということば事象としてフッサールの思想の中にすでに含まれている。ここでわれわれは、. であるということからフッ. フッサールの思想のうちにすでに含まれていたが、彼によっては主題的に十全には問われなかった問題事象へ向けて考察. の目を向けるべきなのである。把持されたものは﹁聞こえていないもの、見えていないもの﹂. サールは、それもまたある意味では﹁︵共に、非本来的に︶聞こえているもの、見えているもの﹂であるということへ論. であるという同じ出発点から、﹁聞こえていないこと、見えて. を進めたのであるが、われわれにはこれとは逆の方向に考察を進めることが求められるのである。把持されたもの・予持 されたものは ﹁聞こえていないもの、見えていないもの﹂. いないこと﹂ へ、そしてそれらに含まれる﹁ない﹂ということへ向けて考察を進めていくこともまた必要な試みであると. 八イデガ一における非現前的なもの. いうことができるであろう。 二. 前節でのフッサールの議論の捉え直しの方向は、ハイデガーの所論と共通性を持つものである。あるいは、換言すれば、. 非現前の積極的性格というものはハイデガーの主張のうちにより明瞭な仕方で見て取られうるものである、ということが. できる。本節では、﹁アナクシマンドロスの蔵言﹂におけるハイデガーのいくつかの言葉を手がかりに、まずこの点を確認 していきたい。. 33.

(7) ︵暫時の間のもの. ︵dasWei−ige︶︶. は、伏蔵態から方域. 3の問 ﹁不伏蔵態?っちに現在的に現前しているものは、開けた方城︵OffeneGegend︶としての不伏蔵態のうちに暫4 時. 留まる ︵wei−en︶。方城のうちに現在的に暫時の間留まるもの. のうちへ出来するのであり、不伏蔵態のうちへ到来するのである。しかし、現前するものが暫時の間留まりつつ到来的. であるのは、それがやはりすでに不伏蔵態から離れて、伏蔵態へと向かって退き行くかぎりにおいてである。現在的に. ︵dasJe・Wei・. 現前するものほそのつどの問、暫時の間留まるのである。それは、出来し去り行くことのうちに滞留する︵くerWei−eロ︶。. ︵GA∽㍍g︶. 暫時の間留まることは、来ることから行くことへの移行である。現前するものはそのつど暫時の間のもの −ige︶ である。﹂. 先に前節で﹁現出者の現出することにおける現前と非現前の共働﹂ととりあえず呼んだことと重なり合う事態がここで. 指摘されているということができる。﹁現在的に現前し、暫時の間留まるもの﹂は、伏蔵態から不伏蔵態へ出来し到来し、. かつ不伏蔵態から伏蔵態へ退き行くことのうちで、はじめて﹁現前し、暫時の間留まるもの﹂たりうるのである。言い換. えるならば、﹁到来すること・出来すること﹂と﹁退き行くこと・去り行くこと﹂という非現前に関わる二重の動向の動. 的な均衡のうちに、ある存在者が﹁留まるもの﹂として存在するということが成立するのである。また、引用箇所に続く. から現成するのである﹂. ︵GA㌢∽笠︶. と指摘して. 箇所においてハイデガーは、通常は現前と非現前とは分離して考えられるのみであり、現前と非現前との連関ほ見逃され ているが、﹁そのつど暫時の問現前するものは、⋮非現前︵Abweseロ︶. いる。これは、非現前の積極的性格への注目を促している点で前節末の指摘と趣旨として重なり合うものであるというこ. に関わる次元へと議論を進めているのである。ハイデガーは、以下の箇所で. とができるであろう。そして実際、ハイデガーはわれわれが求めた方向へ考察をさらに進めているということもできる。 つまり、ここで彼は﹁⋮ないということ﹂.

(8) ﹁継ぎ目︵Fuge︶﹂ということに言及しながら、次のように述べている。. において継ぎ合わされている。この間が継ぎ目であり、暫時の間留まるものはそのつど、この. の間で、あらゆる暫時の間留まるものの現前することが現成する。そのつど暫時の間留まるものは、この. ﹁暫時の間︵Wei−2︶は、出来することと去り行くことの問で現成する。この﹂壷璧的な非現前︵dieseszwief巴tige. Ab去eSen︶ 間︵diesesNwischen︶. 継ぎ目に応じて由来から立ち去りへと継ぎ合わされているのである。⋮現前することば双方の方向で非現前の ぎ合わされる。現前することはかかる継ぎ目のうちに現成する。現前するものは出来することから生じ、去り のうちへ過ぎ行くが、双方は同時であり、しかも現前するものが暫時の間留まるかぎり同時である。暫時の間 目のうちで現成するのである。﹂︵GA∽㌫設︶. ここで指摘されている﹁出来することと去り行くこと﹂という﹁二重襲的な非現前﹂、あるいは﹁到来することと退き ︵且. 行くこと﹂という二重の動性、これは﹁⋮ないもの﹂の﹁⋮ないこと﹂をもたらす動性であり、そのことゆえに予持する. ことと把持することが可能となっているところのものなのである。その意味で、ここでのハイデガーの議論は、予持・把. 持を可能にするものの次元への考察の深まりを示しているものとみなすことができる。. このハイデガーからの引用において、いまひとつ注目しておきたいのは、引用末の﹁双方は同時﹂という指摘である。. そのつど、そのつど、暫時の間というその瞬間において、二重の動性が同時に支配しているのであり、そのことのうちに. ﹁存在する﹂ということの、いわば主旨が見て取られるのであるが、ハイデガーにおいては、この二重の動性の同時性は. 別様にも言い表されることになる。例えば、﹃形而上学入門﹄のある箇所においては以下のように言われている。. .?Fj.

(9) ﹁我意の者にとっては、生はただ生である。彼らにとって死はただ死であって、それにとどまる。だが生の存在は同時. ぅとする姿勢そのものに関してほ何の異存もない。しかし、ここできわめて素朴なものではあるが、ある疑問が生じてく. ろでもある。その意味で、非現前的なものとの共働においてはじめてわれわれの生もまた成立するという事能暮指摘しよ. ここで﹁生・死﹂という言葉を通して語りだされている事態を積極的に主張していこうとするのは、本稿の目指すとこ. 死んでいる、ということになる。. いであろう。ここにおいてほ、生きることは死ぬことであり、死ぬことは生きることである。われわれは生きている限り. に理解されるべきだという解釈において見て取られている﹁死﹂も、この生との同時生起的な死のことであると言ってよ. ︵且. できるであろう。また、﹁SeinzumEnde\TOde﹂は﹁終わり/死に至っている存在﹂と訳されるべきであり、そのよう. たがって、この﹁生と死﹂に関する理解は、﹃存在と時間﹄における﹁死﹂の議論にも同様に当てはまる、ということが. きる﹂という言葉の意味の上のこととしてばかりではなく、文字通りのこととして理解することができるようになる。し. ︵GAN㍍∽告などを、ある種合理的なものとして理解することが可能となる。それも﹁生きている者だけが死ぬことがで. において語られる、死をめぐるいくつかの謎めいた言葉、例えば﹁現存在は、実存するかぎり、事実的に死んでいる﹂. として語られているのである。このように﹁生と死﹂という仕方で二重の動性を見て取ることによって、﹃存在と時間﹄. ︹A. いう言葉を通して語ったものであるということができる。つまり、到来の契機が﹁生﹂として、立ち去りの契機が﹁死﹂. この﹁生の存在は同時に死であり、死は同時に生である﹂ということは、先に見た二重の同時的な動性を﹁生・死﹂と. 始めている。そして、死は同時に生である。﹂︵GA革−会︶. に死である。生のうちへ踏み入るものは何であれ、それとともにまたすでに死ぬことも始めており、自らの死へ近寄り. 36.

(10) ︵且. る。それは、﹁生きているかぎり死んではおらず、死んでいるかぎりもはや生きてはいないのではないか﹂という素朴な. 疑問である。確かに、生と同時的な死に﹁刻山刻の生の瞬間を成立﹂させるという性格を指摘することばできる。そこに. 非現前の積極的性格を見て取ることは重要である。しかし、この生と同時的な死は、生が成立していることのうちでそれ. を成立させる契機として見出される死であり、そのようなものとして、それはどこまでも﹁生のうちなる死﹂にとどまる. のではないか。だが、やはり死は、生が取り戻しえない仕方で終わる﹁最後の時﹂なのではないか。死は生からの絶対的. な退去なのではないか。こうした疑問は、単に素朴で通俗的な見方にとらわれていることを意味するにすぎないのであろ. うか。これらの問いを先の素朴な疑問は誘発する。これらの問いに垣間見られる死の理解について、最後に、死に関する. フィンクにおける死としての無. フィンクの議論を参照しっつ、いま少し考えていくことにしたい。 三. フィンクの死に関する議論は、ハイデガーと共通するところが多いとはいえ、その重心のおき方に注目すべき違いを内. 包している。例えば、死を﹁相違の国︵LandderUnterschiede︶﹂ないしは﹁現出世界︵ErscheinuロgS. ﹁退去︵EntNug︶﹂として強調している点に注意すべきであるように思われる。彼によれば、死の問題の重要さば、それ. が、現出世界において妥当する存在理解を乗り越えるとともに、現出世界に属する無の理解をも同様に乗り越える﹁挑戦﹂ を含む点にある ︵VgrGMD﹂詔︶。. ハイデガー同様フィンクもまた、人間の死は物に適用されるカテゴリーによっては捉えられない存在論的問題を提示し. ており、人間の終わりは石や植物や動物の終わりとは異なる性質のものであることを認めた上で以下のように言う。. 37.

(11) ︵Anwesen︶﹄一般の全領野. ﹁決定的に重要なのは、同胞が死ぬときにこの退去が現実にわれわれに与えられるのと同じくらい根本的に退去を思考. ︵GMD﹂会︶。. することであり、退去をたんに他の国へと立ち去ることとしてではなく、﹃現前すること からの退去として思考することである﹂. ここで述、へられている﹁現前すること一般の全領野﹂は、﹁現出世界﹂、﹁相違の領界﹂とも呼ばれるものであり、フィ. ンクにおいて死は、一貫して、こうした現出世界からの退去として理解されている。では、この現出世界とはいかなるも のか。. ﹁このように考えられた現出世界の決定的な本質特徴とは、続一的な時間・空間によって内世界的な物が個体化され、. かつあらゆる個体的存在者が包括されることである、とわれわれは解する。一切は連関し、一切は同時に特殊化される。. ︵GMD﹂澄︶. 物は、空間的限界と時間的限界とによって分割されると同時に結合されている。限界は、隣接する物との輪郭線と接線 である。現出の領域は相違性の領界である。﹂. このように現出世界とは、そのうちであらゆる物が互いに時空的に限界づけられ、区別されることによって個別化され、. 個体的存在者として現出する場のことであり、個別化をもたらす様々な限界・相違が住まう普遍的領域のことである。現. 出世界のうちにおいてあらゆる物は輪郭をもち、限界の内に閉じ込められている。限界は個体的存在者をそれであるもの. として現出せしめることとして肯定的なものであると同時に、﹁⋮ではない﹂と区別し相違づけ、中断することとして否 定的なものである。. 38.

(12) ﹁現出の、世界的拡がりをもつ全領野は物の境界線によって区画され、いわば無数に裂かれ、砕かれ、寸断されている。. 限界の要素として、無はあらゆる有限な物一般の存在に属する。しかし、物の限界は⋮不断に運動している。⋮空間の. 限界だけでなく、時間の限界も運動している。つねに新たに現出する者が浮き上がり、他のものは沈み込むが、しかし. 現出することの領野は持続する。存在者の無となることは現象的世界の様式に属する。﹂︵GMD﹂記︶. ここで指摘されている﹁限界の要素としての無﹂は、相違・区別をもたらすことで物を個別的なものとして現出せしめ. る契機である。それは、時間的にも空間的にも流動変化するものであり、そのことのうちで、あるものがしかじかの現出. 者として現出しうるようになる。この点を考慮に入れるならば、ここで限界に関して指摘されている﹁無﹂は、先にフッ. サールの主張を捉え直す作業を通して見て取られた非現前、またハイデガーの所論の検討を通して確認された二重の非現. 前の動性と次元を同じくするものであるということができるであろう。それらはいずれもある現出者・存在者がそれとし. て現出し、存在することを可能にしている契機としての非現前・無を意味しているからである。そして、それらは現出の. 領野のうちで機能している非現前・撫であるということができる。この点を確認した上で、それとの対比において注目し たいのは、死という無に関する以下のようなフィンクの指摘である。. ﹁空想しっつわれわれが入り込む地平は、われわれの顕在的な現在的現実に地平として属し、それゆえ当然に同様の存. 在機構をもたねばならない。/しかし、人間的な死の理解において開ける無の地平に関しては、事情は別、全く別であ. る。それはわれわれが限界の構造などとして存在者において認める通常の無、親しい熟知の無ではない﹂︵GMD﹂謡︶。. 39.

(13) フィンクによれば、われわれは死との関わりにおいて﹁非現前︵Abwesen︶の没場所的にして没時間的な不可解な次. 死における無とは、そこにおいて現出する者が現出する領野・地平がそもそも崩壊してしまうこと皇息昧する。 界からの退去としての死は、現出世界を後に残す退去ではなく、退去することにおいて、いわば現出世界そのもの 去ることである、ということもできる。それゆえ、死における無は現出の領野の内に位置づけられる﹁無﹂からは. せねばならない。﹂ ︵GMD﹂のN︶. の現前する者を囲むこの地平の崩壊として、現前する物の現前することにとってのわれわれの開放性の崩壊とし. ︵Weぎ茅ロheit︶に基づいてはじめてわれわれにある地平が形成される⋮。しかし、われわれは人間の死を、いっさい. ﹁そこへと死ぬものが﹃退く﹄無は、そこにおいていわば現存在の﹃世界内存在﹄全体が消去される無である それ自体は現象的領域に属さず、現前し現出するものの構成部分ではない。いうならば理解する人間の世界開放. 箇所を参照することによって、確認しておくことにしよう。. いうことである。では、フィンクにとって、死における無とはいかなるものと見なされているのか。このことを、. ︵くg−.ムMD.−挙−三。ここで問われるべきは、死の理解に含まれる否定的なものはどのように理解されるべきか、と. 位置、づけられる﹁無﹂では決してなく、そこからは導出されえないものなのである。なぜなら、現出領野の内に られる﹁無﹂は現出領域の此方に位置するものであるがゆえに、現出領域の彼方をさす力を有していないからであ. はこの不可解な次元に出会うことはできない︵く巴こGMDJNO︶。死における無という否定的性格は、現出の領野の内に. 元﹂と関わるのであるが、現前するものの領域においても、﹁外部﹂の自然においても、﹁内部﹂の心においても. 40.

(14) 導出されることのできないものなのであり、あらゆる物を限界づけ、相互に相違をもたらすことで個別化を促す﹁無﹂と. は異なる次元に位置するものなのである。フィンクによれば、死はそもそも現前することと現出することの領野ではまっ たくない、ある﹁空虚な次元﹂を意味するものである︵くg︼.︼GMD﹂謡︶。. このように見てくるとき、フィンクの﹁現前することにとってのわれわれの開放性の崩壊﹂という﹁現出世界からの退. 去﹂としての死の特徴づけのうちに、前節末で示した素朴な疑問に含まれていた﹁最後の時﹂としての死の意味内容を見. て取ることができるように思われる。ハイデガーの所論を参照することで見て取られた、生と同時的な死が、いわば﹁生. を成立せしめる︵生と死︶﹂における死ともいうべきものであったのに対して、フィンクが﹁退去﹂として指摘する死は、. 現出世界という生のひろがりの崩壊であり、消え去りであり、﹁生を成立せしめる︵生と死︶﹂からの退去と呼びうるよう. なものなのである。そして、ここで対比された二つの死は、前者が、現出する者がそのようなものとして現出することを. 可能にする契機としての非現前■無であるのに対して、後者はそうした現出すること一般を不可能にする契機としての非. 現前・無であり、ここに非現前・無という否定性の二つの異なる相を見て取ることができるのである。 終わりに. 最後に今後の考察の展望を簡単に示しておきたい。そのために再度注目したいのは、前節においてすでに引用したフィ. ンクの﹁現存在の﹃世界内存在﹄全体が消去される無﹂︵GMD﹂琵︶という言葉である。ここに、本稿において辿られ. てきた否定性の諸相の展開をより深く捉えなおすための手がかりを得ることができるからである。すなわち、この展開は、. 超越論的自我︵主観性︶から世界内存在へ、そして世界内存在から世界内存在の消去︵世界開放性の山朋壊︶の次元へ、と. ︵ユ. いう思索の動向として辿りなおしうるものなのであり、そのことを先のフィンクの言葉は示唆しているように思われる。. 41.

(15) そして、この方向へと考察を深化させていくことは、現象学そのものの展開と可能性を問題として問い直すことにもつな がって い く こ と で あ ろ う 。. を、アラビア数字は頁数を表す。︶ の後のアラビア数字は頁数を表す。︶. Heidegger一M.二紆宍当き岩廠官許Frankfur−amMain−く1−tOriOK−OSt2rmann﹂略記号直後のアラ. ただければ幸いである。. ︵3︶予持と把持を可能にするものをめぐっては、主に予持を可能にするものとしての﹁到来すること﹂に関してであるが、以前に拙稿 ﹁予期の現象学﹂︵﹃文化﹄第五七巻・第三・四号、東北大学文学会編、一九九四年︶において論じたことがある。あわせて参購い. 一四頁︶を参照。特に、二〇五頁以下参照。. ︵2︶このあたりの議論に関しては、浜渦辰二﹁他者と時間・空間﹂︵浜渦辰二﹃間主観性の現象学﹄創文社、一九九五年、一八三・二. 使用されている。﹁否定性﹂という語に関しては、それは否定判断などの次元に限定して使用すべきだという考えもあるであろう が、とりあえず本稿においては、いま述べたような緩やか窒息味で使用されていることをご理解いただきたい。. ︵l︶本稿における﹁否定性﹂は、この本論の概要の記述からも窺い知れるように、非現前、無といったことを緩やかに含む言葉として. 註. 字は頁数を表す。︶. GMD Fink長一G﹁§合ぎ雲ヨ3内済ヨ3邑∼訂訂ヨb⋮訂,Fr2iburg\M旨ch2n﹀只aユA−b2r∵忘声岩芦︵略記号後のアラ. GA. Hua Husseユ.E.▼き驚こぎき望m§軋ぎ∽駕r岩昌ヨヨ註∼寿1ぎD2nHaag−MartinusNijhOff∴略記号後のローマ. 主要引用・参照文献 フッサール、ハイデガトフィンクからの引用・参照箇所の指示に関しては、以下の略記号を用い、引用・参照文末に記した。なお、 邦訳も参照したが、訳語統一等引用上の都合もあり、必ずしも邦訳に従っているわけではない。訳者の方々のご寛恕を請いたい。. 42.

(16) 書、二〇〇二年、一二四頁。︶ 古東前掲書、同頁参頗。前註︵4︶. の同書からの引用文参照。. 細川亮一﹃ハイデガー哲学の射程﹄、創文社、二〇〇〇年、一五五・一七三頁参照。. こうした方向へと考察を深化させていく可能性と意義に関して、篠憲二先生から数々のご教示をいただいたが、筆者の力不足ゆえ、 残念ながら本論の中で活かして論ずることができなかった。今後の課題としたい。また、他の方々からも発表後の質疑応答の場な. 7 6 5. ︵4︶ ここで語られている事態を古東哲明は次のように印象的に描き出している。﹁⋮眼前のあなたの生の光景に冒をそそいでほしい。 萌えたつ緑。聞こえる物音。のみならずあなたの今この瞬間の生。毎瞬毎瞬が終わっていく動性①と、毎瞬毎瞬が始まっていく動 性②。そのふつうなら互いに矛盾しあう二項の同時進行現象として生起していることを、うっすらと感じとることができるのでは ないか。一方で終えていく動性。他方で始まってくる動性︵Sein2m An訂ng[Geburt]︶。この二つの動性があいより、しの あう、張りつめた一点に、刻一刻の生の瞬間が成立しているはずだ。﹂︵古東哲明﹃ハイデガー=存在神秘の哲学﹄、講談社現代新. 付記. ︵ちば. たねひさ・北海道教育大学旭川校助教授︶. どにおいて、有益な示唆や厳しい批判を頂戴した。この場を借りて感謝申し上げるとともに、本論では十分にお応えすることがで きなかったことをお詫びしたい。同様に今後の課題としたい。. 本稿は、平成17年度科学研究費補助金﹁基盤研究︵C︶﹂︵課題番号−謡N000N︶による研究成果の一部である。. 43. ) ) \_ノ. ( ′ (、 (.

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