没落期における古代貴族の歴史思想について : 愚管抄解釈の一視角
20
0
0
全文
(2) . 第6 巻 第 2 号. 北 海 道 学 芸 大 学 紀 要 (第一部). 昭和30年1 2月. 没落期 における古代貴族の歴史思想について --愚管抄解釈の一視角 -- 高. 橋. 功. 北海道学芸大学釧路分校史学研究室. Tsutomu TAKAHASHt: on the HistoricaI Thoughts at l ine of Ancient Nobi the De l i ty, c. 一. 序. 説. 雑然とした歴史事実の年代記的羅列が歴史舷述たりえないことはいうまでもない。 歴史叙述たり うるためには、 不可鉄な条件として、 歴史絃述が一定の史観によって貫かれていることが必要であ る。 日本史学史上一定の史観をうち出した最初の歴史舷述と して愚管抄をあげることは異議の少い とこ ろで あ ろ う。. 愚管抄の価値を最も早く注意したのは松本彦次郎氏であり、 1 「日本史学の誇りであり、 そして 彼の歴史哲学を世界的に進出せしめるのは日本の歴史家の任務である」2 と論 じている。 平泉澄博 士も、 神皇正統記と共に中世における史論の蔓壁とみなすことに賛意を示し、 「まとに尋常皮相の 見解と全く共の選を殊にす る点に於いて、 両者は共通の栄誉を荷うに価するが如く見える」3 と述 べて い る。. しかしながら、 このような高い評価は必ずしも一般的に承認されているとは限らない よ う で あ る。 根本資料によって愚管抄の著者を確めた三浦周行博士は 「葱円の一個の幻想に過ぎざるは所謂 摂録家の将軍乃至宮将軍の申合せたるが如き最後の運命、 最も雄弁にこれを説明す。 彼れの幻影を 逐ふが如き史観の採るに足らざるを ま多言を要 せず」 といふ、4 愚管抄に唯一の註釈を施した中島悦 次氏も 「愚管抄の理論は極めて不徹底で、 常識的、 消極的であった」 と批評している。5 歴史観が単に歴史事実についての主観的な所感乃至批評たるに日 二らず して、 世界観への要求に応 ずる学問的認識の所産たるためには次の二つの要求をみたすものでなければならない。 すなわちそ の一は論理的に秩序づけられて、 矛盾するところがなく、 且歴史事実の意味を充分に説明し得るも のたることである。 その二は個々の歴史事実についての知見たるに止らずして、 歴史全体への洞察 に連り、 人間叉は社会のあり方にか わりを持ち、実生活において、なんらかの意味で内的な支えた るべき確信を含むものたるべきものである。 もしもこの二の要求に対 して簡潔な名を与 え る な ら ば、 一は理論的叉は内在的、 他は実践的叉は超越的 といってよかろう。 愚管抄についての批評もこの二点について問題とすべきであり、 従来愚管抄に対する評価のまち まちであったのも、 その観点の相違に基くものもあったようである。 この論文の企図するところはか>る批評観に立って、 愚管抄についての批評を整理 し、 日本史学 上の意義に説き及ぶことである。 - 29 -.
(3) . 同 .. 主. 功. 橋. 要. 概. 念. 愚管抄は単に歴史事実を時間的系列に従って叙述 しているに止らず、 歴史事実についての批評を 随処に加え、 しかもこ の批評に一貫した立場を版っている。 このことが本書をして他の歴史書に比 較して、 きわだって異色あらしめる理由となっている。 この立場が何であるかということについて は従来の大部分の研究者は 「宗教的道理観」 乃至仏教的世界観となしている。6 慈円は四回にわたり天台座主に補され、 また護持僧として後鳥羽院の信任を受けた天台宗の学個 であった。 もとよりその思想に含まれている仏教的要素を無視することは当を得ていない。 しかし 愚管抄の底流として一貫している批評精神を 「事理円融」 を説く天台教学の実相観を以て説明し尽 さ れる で あ ろう か。. 慈円の歴史批評において好んで用いられる幾つかの概念がある。 その意味内容については彼の時 代において一般的なものもあれば、 また他に類のない特殊なものもある。 従ってか る概念を分析 し、 一般的なものと特殊的なものを弁別することにより、 慈円の思考過程をたどることが出来、 そ の性格の何たるかを明にすることが出来よう。 一、 真諦。 俗諦。 i Satya は 「穀壊なる有に偽 諦 Satya, Sacca と は 元 来 真 理 な る 意 味 が あ り、 俗 諦 lokasamvrt t ;るべき真如実際を指し、 装する真実」 であり、 真諦 Param日rtha sa yaは最勝義即ち絶対第一義ぇ 二諸の差別は縁すなわち衆生の機根叉は出家、 在家の弟子、 信者達の修養の進度等の差別により、 俗諦を以て教え、 叉真諦を赤裸々に説くこともあるとされている。7 真諦、 俗諦は慈円にあっては どのように考えられていたのであろうか。 賀茂大明神者本地難 測。 観二真俗之道理於心「 垂迩惟新、 訪二利生-之神 感二於冥‐。和歌者我朝之 風俗也。 吟詠者雅意所作也。 今梁-二諦之色於意識→ 忽著二三業之悟於法楽-。(拾玉集) において明に日本在来の神 々は俗諦、 その本地たろ べき諸仏は真諦と考えられてる。 神道と 仏教とは互に他を排除すべき唯一絶対の信仰 ではなくして、 真俗二譜の関係によって調和せられて こ. 帝の道理より外に恩ひっ くる事もなし」 (拾玉集) いた。 慈円は 「かた山寺に寵りゐてはたゞ二言 とは、 古代末期から中世のはじめにかけての動乱を身を以て体験した貴族出身の学僧の心境を端的 也垂遊説は藤原時代に起り、 鎌倉時代に入り、 その教選的組織を大 に吐露したものといえよう。 本土 8 成したといわれる。 しかし、 慈円の真俗二論説による神仏習合観が果して彼の時代の思想として 一般的なものであろうか。 第一に藤原氏の特権に対する神々の誓約による保証についての信仰を問題としなけれ ば な ら な い。 日本書紀の一書に次の如くしるされている。 後勅二天 児屋根命大玉命- 惟爾同侍二殿内‐善防禦。 (日本書紀巻二) これは恐らく中臣氏忌部氏の伝承 した司祭的職能の成立根拠を説明したものと考えられるが、 慈 円にあっては摂関政治の成立、 存続の根拠と考えられている。 「進コ日吉社‐御告女」 において、 次 の如く 語 って い る。. 重案二我朝故事→ 昔天照大神手特二宝鏡-天、 授二天忍穣耳尊‐隆二葦原中国-之時、 勅二夫児屋命、 夫大玉命-而日、 椎爾二神亦内二侍殿内→ 善為二防護-云々。 是以天児屋命廿余代之後胤鎌足脚、 天 智天皇在藩之時、 私・仁鎖;入鹿之乱→ 永定=天子之位→ 目爾以降、藤原氏苗蕎経二数十代之朝-摂=万 機之政道→ 迎二数百廻之歳→ 為二一人之輔-利、 是依=天照大神之盟約一天、 更呈コ天児屋命之防護- 也。 (門葉記) 1222 ) の筆に成る啓白女に、 貞応元年 ( - 30 一.
(4) . 没落期における古代貴族の歴史思想について. 武将著し ;朝家「 徳政隅二視聴→ 宗廟社榎之諸神、 鎮護国家之三宝、 冥助無 力、 利生失 度。 (門 葉記) と心境に動揺を来しなが らも、 翌貞応二年 ( 12 23) の春日表白で、. 抑天下之摂録者、 尊神之約諾也 (曇殊院文書) として、 依然藤原氏の政治的特権についての神話的解釈を棄てようとしていない 。 政権の所在は正にこのような神 々のはからいによって決定されることであった 保暦間記に 。 、 其比源中納雅頼卿ノ内侍ト覚シキ所二、 衣冠正シキ人マ多ク着座セラル 末座ニラワシケル人座 。 ヲ追立ラ レ給フコトアリ。 何 ト申セバ太政入道ノ方人厳島明神 ト申ス 。 其後上座シ給ヘル人仰ラ レケルハ、 此程太政入道 二預ヶ置ク太刀ラノ ミ 、 源頼朝ニタブベシト仰セ ラル。 中ニ御座ス人其後ノ ・我子孫二此太刀 ラバ給ルベシト仰セラル。 傍人ニ問ケレバ、 上座シ給ヘ ルハ八幡大神、 中程ニ座スハ春日大明神 ト申ス。 此事高野宰相入道成頗問 ヲ被 申 ケ ル ・我孫ト春 日 明神 ノ 仰 ラ レケ ル ハ 藤 氏ノ 末 ニ将 軍 御 座 ス ベ キ ヤ ラ ソ 。. 愚管抄に一貫して流れている精神はかくの如 き神々のはからいを歴史事実の上に見てゆこうとす るこ と であ る。 大 神 宮 八幡 宮八 幡 大 菩 薩ノ 御 教 ヘ ノ ヤ ウハ 御 ウ シ ロ ミノ 臣 下 トス コ シ も むラ オカ ズ ラ ・シマ セ 。 トテ。 魚水 合 体ノ 礼 ト云 コ ト ラ 定 メラ レタ ル也 コ レ肝 ニ テ 天 下 ノ ラ サ マリ ミ タ ル・ 事 ・侍ル也 。 。. (愚管抄附録) ま た、. 臣 下 ノ 家 魚水 合 然 ノ 札タ ガウ事 ナク テ カク メ デ タ キ 国 ニ テ 侍 し ド 次 第 ニ ラ トロ ヘ テ 今 ハ 王 。 。 。 法 仏 法 ナ キ ガ ゴ トク ナ リ ュ ク ヤ ウ ヲ。 サラ ニ 叉 コ マ カ ニ 申 ベ キ也 ( 愚管 第 三 ) 抄 。. といっていることにより、 魚水合体の礼すなわち藤原氏と皇室との特殊なつながりは神々のはから いによって保証されているも のである。 国家の治乱興廃も一にか っ てこ のよ う な神 々の は か らい に添うか否かにか. っ てい る と 考 え られ て い る。. 古代における貴族の権力が弱くなった原因も院政の開始にあり 「コノ事ノ起り ・後三条院ノ宇 、 治殿ヲ心得 ズ恩召ケルョリ根ハサシソメタ ル也」 (愚管抄第四) と説いている また政治の実権が 。 「別ニ院ノ近臣ト云者ノ男女」 (愚管抄附録) に移ったことを以て世ノ衰える原因とも考えた 。 しかるに源実朝の死後藤原順経が鎌倉の将軍と して迎えられたが 、 これは 「人ノスル事ニアラ ズ。 一 定ネ申々 ノ シイ ダ サ セ 給 ヒ ヌ ル ョ トミ ュ ル 不 可 思 議ノ 事イ デ キ 侍 り ヌ ル也 」 (愚管 抄 附 録) 。. としていよいよ神意実現の歴史観が歴史事実の上において誤 りでないことを確信 したのである 。 このように、 歴史展開の奥底に神意がひそんでおり、 神々のはからいに対 しては自己を空しくし て立ちむかおうとする態度は古代貴族の心意にあってはむしろ一般的であった。9 九条兼実はその 日記において、 高倉富の挙兵、 叉は頼朝の女の入内のうわさを次の如く評している 。 只大神宮春日御計也。 非二人意之成敗‐者轍。 (玉葉建久二・四・三条) 伊勢大神宮正八幡宮春日大明神定有コ神慮之御計ー敷。 (治承四・五・「六) また古代末期の動乱に際 して、 政治的自信を失った兼実は次のような感慨をもらしている 。 愚意案し之、 我国之安否在二此時‐敷。 伊勢正八幡春日大明神定有二神慮之御計一致 (玉葉治承四・ 。、 九・一 六条) 余猶敢不二動揺- 也計- f 。 只奉 念=大神宮春日大明神‐之外更以無二 。 (玉葉文治元・一一・三条) 第二に愚管抄の中で随処に出ている百王鎮護の思想について考えて見たい 承徳三年 ( 10 9 9 )三 。 月十六日の 「永置僧六口佐 御計山勘修法華三昧記」 に 右八幡大菩薩者昔為コ十善之君-遍撫コ黙首於海内- 。 今輔二百王之運- 。 芽垂コ玄応於人間- 。 (本朝 一 31 一.
(5) . 局. 橋. 功. 文集第五三) 鎌倉時代に入って頼朝は九条兼実に次の如く語っている。 謁二頼朝脚- 。 一向奉 帰 君事。 可し守二百王-云々。 是指コ帝王- 。 所し示之事等。 依二八幡御託宣- 也。 (玉葉建久元・一一・九) 12 1 7) の石清水八幡宮順女に 大江周房の手に成る別当宗清の建保五年 ( 云 和尚 其故者行教和尚上洛時大菩薩化現告二 。 梁心冷思与し汝上洛擁護釈迦 - 、 汝為 我誠コ念経兜- 教跡、 保 護百王聖胤- 。 (本朝文集第六五) 行教上洛の際にこのようなことがあったかどうか明でないが、 百王鎮護の説は八幡神に関Lて特 に発達したものらしい。 その八幡神の誓約というのは 「伏惟八幡大菩薩者是万乗之君、 今亦百王之 祖也」 (本朝女集巻五三石清水不断念仏縁起) とあるように八 幡神は皇室の祖神として子孫を守る と い う 信 仰 で あ る。. 百王の語義については次の対策に明であるように限定的意 味ではなく無限の意味を含んでいたと 考えなくてはならない。 無為継二百王- 。 (経国集巻二〇 対策主金蘭) 、 六極永絶二有道→ 伝二千千帝- ところが古代末期において、 古代貴族の政治的権力 が動揺するにつれて、 八幡神の百王鎮護の誓 1 1 83) の宣命に 約に新しい解釈が加えられるようになっ た。 寿永二年 ( 扇仰二神徳-介利 申乃鎮護豊空良牟野、 乃列聖乃明王毛{ 俗縦属二溌醐-止毛百王乃歴運 未 尽須者諸ネ (吉記寿発 く二・六三条) また吾妻鏡の著者は承久の乱にあたって、 天照大神者豊秋津洲本主。 皇帝祖宗。 而至=千八十五代之今「 何故改二百王鎮護之誓- 。 三帝両親 王、 令 懐。配流之恥辱-御哉。 (吾妻鏡承久三・潤一○・一〇条) 百王の運命のもはや尽きようとしている古代末期の悲観的宿命観の色濃いものがある。 藤原定家 は次の如く語っている。 i非 \カー敷。 (明月記建保元・四・廿九条) 百王八十余代神代没 海無 廻。 千 拡事理可 然。 即 檀浦戦で神剣の失われたことを以て運命と考えている。 勿論百王を限定的意味に用いることに対し ては反対もあった。 卜部懐賢は 重任 n日、 百王誠数之衆多也。 大神宮長御託宣d ー歩有二奈之詞「 書紀女尤可二信受一也。 (釈日本記 巻八) と論 じて い る。. 百王鎮護の思想は愚管抄ではどのように取扱われているであろうか。 「百王 ヲ教フル二今十六代 ヘノコ レリ」 (愚管抄附録) といっていることが慈円の重要関心事で あった。 しかし百王を以て尽 き るも の で は な い こ と は 「百 帖 ノ カ ミ ラ ラ キ テ。 次 第 ニ ッ カ ウ ホ ドニ。 イ マ ー 二 帖 ニ ナ リ テ 叉 マ ウ ケク ワ ウ ル タ ビニ。 九 十 帖 ラ マ ウ ケ ッ カイ ヌ。 叉 ソ レッ キ テ マ ウク ル タ ビ ハ 八 十 帖 ラ マ ウ ケ。 ア ル イ ハア マ リニ ラ トロ ヘ テ 叉 ラ コ ル ニ。 タ トヘ バ ー 帳 ノ コ リ テ。 ソノ ー 帖イ マ 一 枚 バ カ リ ニ ナ リ テノ チ。 九十 五 帖 ラ モ ウ ケ ナ ソ ト セ ン ラ バ。 ラ トロ ヘ キ ハ マリ テ。 コ トニ ョク ラ コ リイ ヅ ル ニ タ トウ ベ シ。」 (愚管 抄第 三) と い っ て い る と こ ろ で 明 で あ る。 慈 円 は 衰 え て は ま た も てお こ す べ き も の と考. えており、 単なる宿命論とは見なすことの出来ないものがある。 しかしこの考は釈日本 紀 に 引 か r smog aphy) れている師説と ・は異り、 阿毘達麿倶舎論第十一分別世品に出ている宇宙形態論 (Co によっているものふ如くである。 この説は一切の存在は常住でなく、 流転をくりかえし、 成、 住、 壊、 空の四劫を経て、 生滅をくりかえすことを説いている。 この四劫説は水鏡の序女に説かれてい ると ころであるが、 この説が百王鎮護の説の説明に版られていることは、 - 32 一.
(6) . 没落期における古代貴族の歴史思想について 南州ノ 盛 衰ノ コ トハリ ハ。 ラ トロ ヘ テ ハ ラ コリ ラ トロヘ ラ コリ テ ・カ ク 次 第 シテ ・ テ ニ ・ 。 。 。 人 寿 十 歳 ニ減 ジ ハ テ、靭 末 ニ ナ リ テ、叉次 第 ニ ラ コ リイ デ ラ コ リイ デ テ 人 寿 八 万 歳 マ デ ラコ リ ア ガ 、 リ 侍ナ リ。 ソノ 中ノ 百 王ノ アイ ダノ 盛 衰 モ。 ソノ 心 ザ シ道 理 ノ ュ ク トコ ロ ハ コノ 定 ニ テ 侍 ナ リ 。 。. (愚管抄第三). と述べていることで明である。 かくして歴史における盛衰流転の現象は免れないとしても 百王鎮 、 護の誓約が実現されていることについては コノ 日 本 国ノ・初 ヨ リ王 胤 ハ ホ カ ヘ ウ ッ ル コ トナ シ 臣 下ノ 家 叉 定メ ラ カ レヌ ソノ マ・ ニ テイ カ 。 。 ナ ル 事イ デ ク レ ドモ ケ フ マ デ タ ガハ ズ。 百 王ノ 今 十 六 代ノ コ リ タ ル 程 ハ コノ ヤ ウ ハ フ ッ ト タ ガウ マ. ジキ也。 (愚管抄附録) とい き. かの疑問もはさんでいない。. 第三に愚管抄には怨霊思想が顕著である。 怨霊は平安時代を通 じてその活動をたくま しくしてい るが、 古代末期の動乱も、 その原因が怨霊の活動に帰せしめられている 。 証遍己請来こ談世事- 1 。 其中語E 、 天下撹乱全非コ他事- 。 宇治左府怨霊之所為也。 讃岐院、 知足院 入道殿相加給歎。 (青記寿氷元・六・二一条) ついでこれらの霊を慰めるために次のような処置がとられている 。 建二仁ネ 青 } -。 有;遷 宮- 。 以二春日河原一為二其所一 保元合戦之時彼御所跡也。 (古記寿永三・四・一 五条) 「大繊法院条々起請事」 において慈円は次の如く 述べている。 怨霊満二一夫- 。 亡卒在二四海- 。 難し然未 聞コ抜済之徳政- 。 (中略) 済コ度彼怨霊-扶コ肋此朝家- 。 在二仏法之法カー ( 中略 ) 就中崇徳院怨霊浮 済度之舟於 追福之流- 。 二 。 祈二発願之志於三宝之誓- 。 叶コ宗廟社梗之神慮- 。 方為二三宝利物之本懐-者獄。 然則怨霊亡卒之満 国。 依二作善之廻向- 。拾 邪 帰 正抜 苦与 楽。 (門葉記) と。 愚管 抄に お い て も、 「昔 ヨ リ 怨 霊 ト云 物ノ。 世 ヲ ウ シナイ 人 ラ ホ P ボ ス道 理ノ ー ッ 侍 ヲ 先 仏 。. 神ニイノラ レルベキナリ。 」(愚管抄附録) として井上内親王の霊が藤原百川を蹴殺 したことなどの 外多くの例をあげている。 古代貴族の生活感情において、 一切の事象は目に見えない神 秘的な力によって動かされていると 考えられていた。 このような力に対 しては人間の意志力は極めて弱いものでしかなかった その中 。 でも怨をいだく霊の報復は最も 恐るべきものであり、 か る霊魂の働に対しては世俗的権力も全く 無力であった。 こふに僧侶の活 躍する舞台が開け、 鎮護国家のための祈祷も怨霊の働きを封ずる目 12 的を以て行われた。 慈円が貞応元年 ( 22) の発願女に 以コ此作善一重須下祈二怨霊之得脱- 除 。 中天下之災難上 (門葉記) と書いている。 慈円にあっては歴史の流れは 「サダカニ冥顕ニノ道 邪神善神ノ御タ ガヘ 色ニア 、 、 ラ ハ レ内 ニコ モ リテ ミ コ ル モノ」 (愚管 抄 附録) で あ っ た 。. 以 上 に よ り歴 史の 原 動力 と して の神 意 が い か な る も の と して 考 え られて い るか と い う こ と を 見 て. 来た。 このような考えについて津田左右吉博士は 「麦那思想でない」 「これらは仏教思想によって o としている しかしたゞこれだけでは説明に不充分なものがある 養われた宗教的気分の現われ」l 。 ように考えられる。 なるほど山王神道にあっては日本の神 々はすべて諸仏の垂迩であると考えられ ている。 本地垂述説を集成した光宗 は. 十界三世諸仏菩薩者釈尊一仏之分身也。 我日本国中大小神明者山王三聖之玄述也。 (渓嵐拾葉集. 巻七). と して、 神成の本源として山王権現をあげているが、 三聖とは 一 33 -.
(7) . 高. 橋. 功. 夫山王権現者。 秘コ三如来本体-顕二三聖之霊神- 。 (渓嵐拾葉 集巻五) とあるように釈迦の垂遊たろ大比叡明、 薬師の垂速たる小比 叡神、 阿弥陀の垂逸たる聖真子のこ とである。 山王の内証は三諦円融の心地と説明されている。 特 に伊勢の大神宮については大日本国 は大日の本国であり、 天照大神は 「大日如来応用目性法性身自体」 、 内外宮は 「因果両部長茶羅意」 (渓嵐拾葉集巻五) と説いている。 諸仏菩薩はそれぞれ浄仏国土を実現すべくそれぞれの誓願を立 て>いるのであるから、 その垂述たるべき日本の神 々において誓約があり、 その履行を歴史におい て期待しうることは思考形式としては許されるところであろう。 こ に日本の原始的神観が仏教の 影響によって著しく変化していることを知ることが出来る。 しか しひるがえって西方浄土の願主た る弥陀、 台密において法身仏たる大日如来と皇室叉は藤原氏の繁栄との間にどれほどの関係がある であろうか。 この間にか>わりを認めることの困難であることについては津田左右吉博士自身認め 1 日本の神紙は仏教化する傾向が濃いとしても 依然閉鎖的な共同体によっ て い る と こ ろ で あ る。1 、 1 2 て支持さるべき神格であり、 平等の慈悲、 恩恵を期待することの出来ないものがある。 すなわち愚管抄は思考形式において仏教の影 響を認めるとしても、 その神観の本質、 内容におい て は依然として神道的なものとせざるをえない。 二、 正法。 像法。 末法。 正法、 像法、 末法の三時説は仏法の行われる時機についていわれている ことであるが、 古代末期 の動乱にあたって、 古代貴族の体験として、 切実に感ぜられたことである。 慈円は神武天皇即位の 年を以て、 「如来減後二百九十年云々」 (愚管抄第一) としているのであるから、 仏滅年代を周の 穆王五十三年王申説をとっているよ うである。 像法、 末法に入るべき年代については正五像千説 (大集経月経分二十法滅尽品、 摩珂麻耶経、 賢劫経) 、 正五像五説 (大乗三 、 正千像五説 (悲華経) 五像千叉は正千像五説をとるならば 票徴悔経) 、 正千像千未方説 (大悲経) などがあるが、 もし正 052) には末法に 入った筈である。 1 ( ば永承七年 552 ) 欽明天皇十三年( 、 また正千像千 説をとるなら ところが愚管抄ではこのことについて何等ふれていないのは異とすべきことである。 愚管抄ではむ しろこれと全く異つた意味に用いられている用例がある。 タ ク モ シカ 寛 平 マ デハ上 古 正 法ノ ス ヘ テ トラ ポュ。 延 喜 天 暦 ハ ソノ ス ヱ中 世 ノ ハ ジメ ニ テ。 メ デ. モ 叉 ケ ダカク モ ア リ ケ リ。 (愚管 抄第 三). 寛平までを正法とすることは仏教の三時説によっては説明しえない ところである。 また 「日本国 あって、 正法とは王法、 すな の正法」 (愚管抄第三) 、 「正法の王位」(愚管抄第三) などの用例も わち世俗的 な政治の盛衰について特に皇位の継承に ついているもの 如くである。 人 代ノ 、ジメ成務マデハ、 サハサハト皇子 皇子ツガセ給ヒテ正法トミヘタリ。 (愚管抄第三) と述 べていることな どその最も顕著な例である。 「日本国の正法」 と呼んでいるものと仏教とはどんな関係において考えられていたか。 今 ハ 吾 国 ハ神 代ノ 気 分 モ ア ル マ ジ。ヒ トヘ ニ 人 心 夕 ぐ ア シニ テ ラ トロ ヱ ソ ズ ラ ソ トラ ボ シメ シ テo 仏 法 ノ ワタラ ン マ デ ト マ モ ラ セ 給 ケ メ ドモ。 代 々 ノ 聖運 ホ ドナク テ。 允 恭 雄 路 ナ ド王 孫 モッ ぐカ. ズ。 (愚管抄第 三) 欽 明天 皇ノ 御 時 ハ ジ メ テ 仏 法 コノ 国 ニ ワ タ リ テ 聖 徳太 子 ス ヱ ニ 御 ム マ ゴ ニ テ ムマ レ給 ヒ ショリ。 コノ 国 ハ仏 法 ニ マ モ ラ レテ。 今 マ デ タ モ テ リ ト ゾミ ェ 侍 ル。 (愚 管 抄 第 三). 「日本国ノ正法」 「神代ノ気分」 が失われつ あった時に仏教が渡来し、 「仏法王法マモラル・ ベキ道理」 によって 仏教が伝播したと考えられている。 こ )において古代末期、 中世初頭における末法、 末世の一般的用例を玉葉からひろい出して見 る。 - 34 -.
(8) . 没落期における古代貴族の歴史思想につい て. 仏法王法滅尽期至懲。 五濁之世天魔得=其カー 。 是理運也。 (玉葉安元三・四・一四条) これは比叡山の衆徒の動揺により、 高倉天皇が法住寺殿に移ったときの記事である。 目. 昔以降南北大衆蜂起之中、 莫 勝 目;今度-。 只仏法滅尽也。 五濁之世可. 悲々 々 云 マ。 (玉 葉. 承安二・六・二三条) これは興福寺 の衆徒が多武峯を攻めた時のことである。 また源義経、 源行家が九州において討阪 られたという風説に対 して 五濁悪世間 1争堅固之世、 女恥此乱逆継 腫而不 絶敷。 可 悲可 悲。(玉葉女治元・十一・七条) 東大寺の焼討につき 七大寺己下悉変=灰照-之条、 為 世-為 民仏法王法滅尽了敷。 凡非二言語之所き及。 (玉葉治承四・ 十二・廿九条) 以上の事例により末法はつねに王法の衰滅と相伴って考えられているが、 その具体的事実は政策 の不当、 寺院の壊滅、 僧兵の横暴に対する慨嘆に過ぎない。 鎌倉新仏教にあっては末法の到来が宗 教革命の転機となり、 法然においては 叉いはんやこのころは第五の五百年闘争堅固の時也。 他の行法さらに成就せんことかたし、 しか のみならず念仏をきては末法ののちなを利益あるべし。 いはんや今の世は末法万年のは じめ也。. (念仏大意) といって い る こ と な どよ い 例 で あ る。 兼 実 は 法 然 に対 して 好▲意 を 持 ち、 屡 受 戒 を う け て は い る も の 3 の、 その信仰は決 して純粋の浄土信仰とはい き れ な い も の が あ っ た。 1. 慈円は 「夫台勧学講縁起」 において 仏陀皆受二供養-以利二衆生- 衆生亦因二壇度-以入=仏道一是仏教之常途也、 未法之正道也。 (門葉. 記) という理由をあげて、 源頼朝から藤島庄の寄進を受けている。 また建暦三年十二月一日の 「尊勝 陀羅尼供養表白」 において 或禅僧在二南北-煩;我慢邪慢於王道→ 或賊徒満:都鄭-感コ非常非法於迷路- 。 聖人絶 世無 人二千 訪‐之。 賢者少 倫有コ誰輔-之。 是次仏法日々衰王法年 々薄。 (門葉記) と慨嘆しながらも、 「伝燈 三宝争忘二利生之誓- 」 と して、 依然として末法到来の世相に直面しても、 自己の所信に動揺を示していない。 末法の諸現象はあくまでも自己ときりはなされた社会現象であ り、 人間観変革の契機 となっていない。 こ に露呈している末法観は観想的であり、 特に九条兼実 の場合にあっては情緒的であり、 自己の問題として決断を迫るさしせまった問題ではなかったので ある。 未法的社会現象は神 々、 冥衆、 怨霊の働きによってひき起されるものであり、 目に見えない 力に働きかける方法として、 加持祈祷は依然として有力なものであった。 コ レハ亦 法 爾 ノ ヤ ウ ナ レノニ チ カ ラ 及 バ ネ ドモ 仏 法 ニ ミ ナ対 治 ノ 法 ヲ 説 事 ナ リ。 (愚管 抄 第 三). として、 戯盛光法、 尊宿王法などの仏事を例としてあげている。 慈円において末法叉は正法という三時説に関する用語が用いられている。 しかしそれは仏法の推 移についていっているものでないことは前述の通りである。 王法主と して皇位継承についていわれ ており、 正法が失われ末法的な社会現象が出て来ることも、 仏法によって克服し得られるというの であり。 そ こに仏教的意味による末法意識がどれだけ深刻であったか疑問とすべきものがあろう。 勿論古代貴族社会の一般通念たる瞬 く嘆的意味での末法到来は意識していたであろう。 しかし或論 4「仏教の末法観に基いてゐる」1 5 者のいっているが如き 「一言で云へば仏教的な末法的世界観」1 と簡単に云いきれないものがある。 私は正法、 像法、 末法の三時説は論理乃至思考方式としてはと り入れられているとしても実質的にはとり入れられていないと考えるのである。 一 35 一.
(9) . 功. 橋. 高. 三、 道理、 自然法爾 愚管抄には道理なる言葉が頻繁に出ており、 しかもその意味内容は多岐であって一面では愚管抄 を晦渋ならしめていると共に、 他面では愚管抄をして異色ある歴史書たらしめている。 すなわち第 一巻に一 ヶ所、 第二、 四、 五、 六巻にそれぞれ四乃至七ヶ所、 第三巻に三十数ヶ所、 附録に最も多 く、 七十二ヶ所に及び、 全体として百三十余ヶ所の多きに及んでいる。 愚管抄に出ている道理をその 用例によって分類すれば次の通りである。 } 判 断 の 妥当 性 に つ い て い っ て い る も の。 (1 道 理 ニ カナ ハ ズ。 (第 三) 思 召 ケ ル モ道 理 ニ テ。 (第 三) 道 理 ナ リ ケ リ ト コ ソ仰 ラ レケ レ。 (第. ・是モ道理ト思ヒテ書ケル也。 (附録) 四) 偏二仮名ニ書ツクル事ノ { 2 1 世俗的、 倫理的規範として用いられているもの。 国王御子ナク バ孫子ラモチヰラルベシト云道理。 (第三) 御孝養アルベキ道理。 (第三) 男女 ニ ョラ ズ天 性ノ 器 量 ラ サ キ トス ベ キ道 理。 (第 三) 世 間ノ 道 理。 (第 三) 母 ヲ 養 ヒ ウ ヤ マイ ス. ベキ道理。 (第三) 減罪生善ト云フ道理。 遮悪持善トイフ道理。 (附録) ’ 歴史展開の原理として用いられているもの。 3 ( 世ノ移りュク道理。 (第三) ウッリマカル道 理。 (第三) ヨノッネノ 因果ノ道理。 (第三) 劫 末劫初ノ道理。 (附録) 作り力フル道理。 (附録) 世ノ衰フ ベキ道。 (附録) 作りカタメル道 理。 (附録) ナリマカル道理。 三世因果ノ道理。 (附録) 以上のように道理の種類を示す用例の外に道理の様態を示す用例がある。 } 道 理 に 軽 重 の あ る こ と。 (1. 太子執政シテ。 仏法王法マモラルベキ道理ノ重サガ。 ソノ時ニトリ テ引ハタラカサルベキモナ キ道 理 ニ テ ア リ ケ ルナ リ。 (第 三) モノ ・ 道 理 ニ ハ 一 定 軽 重ノ ア ル ラ。 ラ モ キ ニ ッ キ テ カ ロ キ ラ ス ッ ル ゾ ト云 コ ト ワ リ。 (第 三) 只 器量ノ 浅 渓道 理ノ 軽 重 ラ コ ソ ト ラ ポ シッ ・ 御 沙 汰 ハ ア ル 事 ナ ル ラ。 (第 四). { 2 1 道理に冥顕の区別あること。 冥顕首尾始中経過現当イサ・カモ事ノ道理二叶ウミチ侍りナソヤ。 (附録) 冥ノ道理 (附録) 圏 道理ならぬ道理、 僻事の道理の存すること。 ヒ ガ ゴ トニ ナ ル ガ道 理 ナ ル道 理。 (附録) ヨ ノ ウッ リ ュク サ マ ノ僧辛事 ガ道 理。 (附録). 4 1 歴史事実の根拠をすべて道理として説明する傾向がある。 { 以上のように慈円における道理の内容は多岐であるが、 一般的な用語例はそれほどまわりく ど いも の では な い。 玉 葉 に よ って 見 る に、. 無二先例-之上理不 可 然。 (玉葉治承二・七・一九条) d ミ仏存二先例-於 理不 可 然。 (玉葉治承三・正・一九条) 可 謂 道理- 。 (玉葉安元二・九・二〇条) 。 但猶可β」検旧記- 也叉事理有 便宜 歎 ( 是常例者 - 。 玉葉承安二・一二・廿六条) 二 例就 有二道理-用二康治例- 。 (玉葉女治 三・九・一七条) 以上の場合何れも先例と相対 して用いられており、 先例により難い場合、 政務執行、 叉は年中行 事の準則として道理がとりあげられてい る。 次に、 ● 父 父之道理。 (玉葉寿永元・一一・廿八条) 政教之道理。 (同 寿永二・九・廿九条) の如く世俗的倫理的規範たろ 生質を持っている場合もある。 - 36. -.
(10) . 没落期における古代貴族の歴史思想について. 中世 の荘園女書に 「相伝領掌道理」 「任二道理- 」 なる愁訴の慣用句のあることは周知の通りであ る。 これらの文書に出ている道理は在地性の強い言葉であって、 独自の歴史を持ち 「法及び道理 、 は現実の中に実現され、 貫徹されねばならない」 生きた規範であり 「反歴史的実践的」 であっ 、 1 6 このような道理は明に抽象的な言葉と化した公家法の道理と異るものがあるとしても 世俗 た。 、 的倫理的規範た る点において玉葉の第二種の用例と 変るところがない。 吾妻鏡において 「任 道 二 、 理-被二裁許‐者」 (女治二・正・四条) 「任二道理-可 有=沙汰- 」 (文治二・三・三条) 「任二道理- 停ュ止論人之妨‐ 」 (女治四・二・三条) など)述べている道理は何れも慣習法に基礎をおく世俗的 規範意識である。 「只道理之所説E 、 心中之存知不 悌二傍輩- 不 恐二権 門→ 可 出 詞也」(貞永式 目起請) という道理観は武士社会における規範意識を最も高い調子で表現 したものといえよう 公 。 家社会の道理が慣例を離れた無内容、 形式的な妥当性の主張であるのに対 して 武家社会では慣例 、 と密着している点に相違はあるとしても 世俗的妥当性 規範性を意味している点で共通したもの 、 、 があり、 それほど複 雑ではない。 このような日常的な論理においては当然互に背馳することもあり うるところであり、 軽重も考えられよう。 しかるに慈円にあっては 「道理ナラヌ道理」 「ヒガコ トニナルガ道理」 などの特殊な用 語例があ るが、 この命題は明に二律背反であり、 判断中止を求めているかの如く見える このような論理は 。 たしかに日常的なものではない。 その理解には特殊 な思考形式を必要とし こ に葱円の思想的系 、 譜をたどり、 大乗仏教の論理をさぐる必要がある。 四種道理は解深密経巻八如来成所作事品 大乗荘厳経諭巻一二 大乗阿毘達膚難集論巻-- 華 、 、 、 厳経深玄記巻三等に出て いる。 四種道理の名目については大乗荘 厳経論では相侍道理 因果道理 、 、 成就道理、 法爾道理の四であるが、 他のものでは いずれも観待道理 作用道理 証成道理 法繭道 、 . 、 、 理の四となしている。 大乗阿毘達磨群集論巻一一に 後次因弁下観二察契経等法一 - 二解菊 諸法道- 由依二此道理…能観ド彼法上放。 間若欲下方 諸 。 応当- 法-正勧審観察上。 由二幾種道理-能正観察耶。 答申二四種道理- 。 と。 四種道理は仏教的真理探求の論理である。 四種道理のうち法繭道理について愚管抄の中で述べ られているのは次の二ヶ所である。 オホカ タ ハ 日 本 国ノ 様 ハ。 ヨク ョ ク コ ・ ロ ヘ テ、 仏 法ノ 中ノ 深 義 ノ 大 事 ラ サ トリ テ。 井 心 ラ ラ コ シテ。 仏道 ヘイ ルヤ ウ ニ ス コ シモ タ ガ ハ ズ。 コノ 世 間 ノ 事 モ 侍 ヲ。 ソノ マ ・ ニ タ ガハ ズ 心 ウ ベ キ ニ テ ア ル ラ。 ツ ヤツ ヤ トコノ 韻 ニイ リ テ。 ′ムヱ ソ トス ル 人 モ ナ シ。 サ レ バ 叉 エ ゴ ・ ロ ヘ テノ ミ 侍 レ ノミ。 カ ク ハ 叉 ウ セ マ カ ルナ リ。 コ レ叉 法 爾ノ ヤ ウ ナ レ バ チ カ ラ ラ ョ バ ネ ドモ。 仏 法 ニ ミ ナ対 治ノ 法. ラトク事ナリ。 (愚管抄巻三) 大 方ノ・上 下ノ 人ノ 運 命 モ 三 世ノ 時 運 モ、 法 爾 自 然 ニ ウ ッ リ ュク 事 ナ レ バ イ ミ ジク カ ヤ ウ ニ 思 、ヒ ア ハ ス ルモイ ハ レ ズ ト恩 フ 人 モ ア ル ベ ケ レ ド。 三 世 二 因 果ノ 道 理 ト云物 ラ ヒ シ ト ラ キ ッ レ バ。 ソノ 道 理 ト法 雨ノ 時 運 トノ モ トョ リ ヒ シ トジ ク リ合 セ ラ レテ。 流 し下 り モ ヱノ ボ ル事 ニ テ 侍 也。 (愚管 抄. 第五) 解深密経如来成所作事品第八に 法爾道理者。 謂如来出世不出世法性安住法住法界。 是名二法爾道理- 。 1 7 一切諸法のよって立つ根拠である 法繭道理はまさに形式 法住法界とは真如、 事理一切であり、 。 論理の思弁を超越した宗教的真理であり、 このような道理観に立ってはじめて 「道理ナラヌ道理」 「ヒガコトナルガ道理ナル道理」 という矛盾概念も許容されうるところであろう。 観侍道理以下の 三の道理については次の如く説明されている。 観侍道理者、 謂若因若縁能生 諸行-及起;随説- 如 非ヒ名為:観侍道理- 作用道理者。 調若因若 ← 37. -.
(11) . 高. 橋. 功. 。 誠生道理者。 謂若因若縁 緑能得二諸法- 。 如し此名為二作用道理- 。 或能成弁。 或後生己作二諮業用- 能令r所立所 説所襟義‐得中成立ト 。 如し此名鳥二誠成道理- (解深密総如来所作事品第八) .令二正覚悟- この四種道理は同一平面に並立する四種の道理 と考えることは出来ない。 因縁の所生である一切 の存在はすべて相対的な在存であり、 流転をくりかえし、 絶対的な存在はないことを説いたもので あり、 このような理 法は論証しうるとしても、 論証の如 何にか わらず実在するものであるという のが法爾道理であり、 法爾道理は宗教的直覚によってのみ把握しうるもの ようである。 慈円が 「世ノ ウッ リ ュク 道 理」 「ウ ッリ マ カ ル道 理」 「何 レモ 定 メ ナ キ 道 理」 「ナ リ マ カ ル道 理」 と い >、. また 「ヨノッネノ因果ノ道理」 「三世因果ノ道理」 な ど>い っているのも何れもこのような仏 教的 道理観をいっているのである。 かくして一切の歴史事象は必然性を担ったものとして、 それぞれの 歴史的意義を持つ。 以上愚管抄から主要概念を幾つかひき出し、 その論理的構造を吟味した。 その結論と していふう る と こ ろは 次 の通 り で あ る。. 肌 仏教における高次の思考訓練を経た慈円は 思考方式において、 仏教特に夫台教学の実相論に よって日本の歴史を解きほぐそうとつとめており、 一応の筋を通していると見なければならな し、。. 2 〔 } しかし仏教の論理は宗教的な論理であり、 知的思弁の論理ではないのであるか ら、 具体的事 実の究明ということになると、 日常的な経験を媒介とする必要があり、 具体的、 特殊的な実践 的立場が介入せざるを得ない。 慈円の立場に依 然として古代貴族特に藤原氏の立場であり、 そ のために神成神仰が温存され、 木地重逃説を以て 説明された。 三. 時. 代 国. 分. 観. 上古、 中古、 近古なる時代概念は中国古典に見られるところであるが必ずしも尚古思想に 基いて 1 8 このような時代区分に関する用語は日本でも一般的に用いられて いる時代区分の概念ではない。 いる。 日本における用語例にあっても必ずしも上古が最も理想的な時代であり、 中古、 近古と時代 が新しくなるにつれて劣って来るという尚古思想の産物ではない。 玉葉における 「上古」 なる用例 に次 の如 き も のが あ る。. 1 何必尋二上古之風- ( 1 。 随 時立 法。 非二聖代之徳猷-哉。 (寿永二・六・九条) { 2 1 上古中古。 治政之代。 兵乱猶加 此。 末代末世。 乱逆 之今。 共禍叉不 可 疑 (文治元・一 ・二 七 条ノ. 1 上古末.必如-此。 末代哉。 (文治二・七・三〇条) ( 3 4 1 上古ヌ ミ ( コ必然 (文治三・一一・七条) 5 } 上古之政晒可馬枠 非拠‐者鰍。 (建久二・三・二八条) { { 1 上古住二大尉- 6 。 近代頗希。 (建久二・二・二一条) . : ト記‐理不 可 然歎。 (承安二・一0・一〇条) 之。 而尚仰ニタ 弁官儀 ) 上代近古井 { 7 } 叉近代如オヒ事過 法右=忌禁- { 8 、 上古不 然者也。 (承安二・一0・一〇条) d 不耳 { ) 件之憎有二智徳行 : 9 ;上古…之人。 (治承二・一一・七条) 回 依二上古之例- 。 欲 預ご恩容‐者。 (治承四・正・二 五条) 。 耳・任一也道之跡- 以上十例の中上古を以て、 典型としてその例を追うべきであるという尚古思想の表現 と 見 る べ 、 、 o dのプぐ例あるが、 必ずしもはっきり出ているわけでなく、 他の四例は上 1 } 9 6 8 3 きは「 、n 、{ 、( 、 樫、{ 古必ず しも範とするに足りないという意 味に用いられており、 「随J専立 制。 聖代億鰍」といってい るのは最もよく九条兼実の上古観を示している。 結論として上古といえども必ず しも模範 とする時 一 38 -.
(12) . 没落期 における古代貴族の歴史思想について. 代でなく、 それかといって現代が上古に比較 してすぐれていると考えているわけでもない。 上古な る時代概念は漠然としており、 特に現代との連りが明瞭でない。 中 古については次のような用例がある。 1 } 上古中古。 治政之代。 其乱猶如 此。 末代末世。 乱逆之今。 其禍不 可 疑。 (前出) ( ( 2 } 中古以来大納言三人。 中納言五人。 後冷泉院御時以後大納言五人。 中納言八人為二定員- 。其 後平家押二領天下-之間。 大納言及二七八 人- 中納言 末代之 十人之例 叉有 被 政 減 官員 ‐ 。 : - 。 , . 。 之条。 錐 有人愁- 。 中納言之員数。 過コ参議一之条。 猶不 可 然敷。 (文治二・一0・二 八条) { 1 中古以来。 臨時諸社幣。 多被申二伊勢以下-歎。 (建久二・九.二○条) 3 , 1 中古以来今月入月之時、 為二神事- 依=五節‐也 (建久二・一÷・一条) 4 { ・ 中古以来雄 及 夜漏 5 } { ; - 。 組右:日中之例- 。 当今無事。 似 被-興行J日札- 。 例仰=此旨 也。(建 久四・正・廿五条) 1 遷宮年内裏神事。 中古以来、 只如二例幣之時- ( 6 。 承安 三・ニ・二一条) { 7 } 中古以来。 偏有二軌柄之御沙汰・ (承安四・正・廿六条) ) 中古以来。 惣凶事右弁。 目余皆左弁官也。 (安元二・八・一条) ( 8 { } 諒闇中改元中古以来不 見。 承平以往。 代始改元者有,三四ヶ度.鰍。 (安元二・九・一七) 9 - 回 往昔第一親王挙 之。 中古以来。 諸王之中為コ長者之者挙 之。 (治承二・正・四条) { P 祭日非二神事”敷。 而中古以来神事云々。 未 見二其証拠- I 。 就二近例-為コ神事。 (文治二・四・ 八条) 以上の用例によって見るに、 先例の根拠として中古なる概念が用いられているように見える。 中 古と は い つか ら い つ ま で の 期 間 で あ る か と い うこ と に つ い て は 次 の よ う な 用 例 が あ る。. 倍案二先例- ー街多-其例-年限不 定。 四五年己上十八年己下。 。 依コ大臣労 。 加級之輩。 延啓以来d 大略無二定年限-敷。 専d l街存二一定』 今年余弁左大臣。 労十一年也。 中古以来以コ十一年-入二勘文- 。 然而不二必被-液。 (承安四・正 ・七) 醍醐天皇の延喜以来の先例が考え られているが、 ほゞこれを以て中古のはじまりとして大過ないで あろう。 また 近日万物油価。 殊以違法。 非二市人之背法- 。 殆及二州民之訴訟-云 々。 寛和延久之聖代。 被 定;下 : 随去保 其法- 延四年 且旦用 中古之制 且任 。 二 ‐ 、 二延久之符 。 宣ニ遵行-之由。 重被二宣下-了。 この例 では保延は勿論延久年間も中古に入っていない 従って醍醐天皇の延善年間から後冷泉天 。 皇までの摂関政治の絶頂期、 平安時代中期を以て中古としていると見てよい。 この時代が公家社会 の先例の成立 した時代であり、 公家文化の黄金時代でもあったのである 。 近代、 末代、 末世なる用語は極めて多いが、 近古なる用語例は少い。. 上古近古弁官催 之。 而仰二外記-。 理不 可 然敷。 (前出) 右府申云。 無 所 拠事。 猶被 用コ吉例-之時。 不 顧;天下之費-者。 近古以来例也。 何況造寺之 条d 一天之大事也。 争恐二謡人之口 。 忌二造寺之営-哉。 (文治三・一○・二〇条) 近古も一応中古に引きつゞき先例の淵源と考えられている趣が見られるが 年代的に現代と近い 、 関係から近古と して区別されている。 その年代については造寺のためには財政を顧みないという社 会状勢を考えるならば、 白河法皇の院政時代以後を以てこれにあてることが出来よう。 近代叉は末代なる用語例は頗る多い。 近代なる時代区分を明に知り得る徴証は下の通りである。 近代保元以後。 無二式日‐被 行し之例。 (承安三・四・二四条) 近代職事好二巨多成功- 。 太以不当云々。 (建久元・四・二一条) 保元以後は明に近代に入るが、 成功を以て近代の弊とする用法からすれば 更にさかのぼるものが 、 - 39 -.
(13) . 高. 橋. 功. あるようである。 しかし近古と近代の境界は 明でない。 近代は現代と同義語であり、 中古の輝 しい先例をもはやそのま〉行うことの出来なくなった時代 であると考えている。 同時にまた近代 の例は悪例であり、 衰退の時代であるとしている。 「近代例 不二拠用- 」 (丈治二・七・廿三) 「是近代之作法也」 (文治五・五・七) 「近代如 此。 皆過 例」 」 (建久二・一二・九) 「近代不 然」(建久五・二・廿 (建久元・五・廿一) 「近代之事無二是非- 七) 「近代作法可し謂=奇怪 」 (嘉応二・一・三) 「近代作法如 此」 (嘉応二・三・九) 「近代礼. 儀如 無二大臣-」 (同三.--・一五) 「近代朝務朝成夕故事云々」 (同三・潤一二・一) など多 くは近代を以て非難すべき時代となしているようである。 山田英雄氏は平安時代の時代区分 に つ き、 公卿日記を材料として、 寛仁 (後一条) 、 寛億 (後朱雀) の間に中心を求め、 それ以前を上古、 2 0 それ以後を近代としているが、 中世初頭にあっても中古観はほゞ同一であり、 たゞ近代が延びて いるだけに、 中古と近代の間に、 あいまいではあるが、 近古なる時代を介入さ せているように見え る。. 愚管抄においてはどのような時代区分観がとられているであろうか。 寛 平 マ デ ハ 上 古 正 法 ノ ス ヱ トラ ポュ。 延 害、 夫 暦 ハ ソノ ス ヱ 中 古ノ ハ ジ メ ニ テ。 メ デタ ク テ シ カ モ叉 ケ ダカ ク モ ア リ ケ リ。 冷 泉 円融 ヨ リ 白 川 鳥 羽ノ 院 マ デノ 人 ノ コ ・ ロ ハ タ ぐ ラ ナ ジ ヤ ウ ニ コ ソ ハ ミ ュ レ。 後 白河 ヨ リ ス ヘ ヨ リ ム ケ ニナ リ オ トリ テ。 コノ 廿 年 ハ ッ ヤ ッ ヤ トア ラ ヌ コ トニ ナ リ ケ ル ニ. コソ。 (愚管抄第三) といっているのは九条兼実に おける用語例とほゞ一致している。 保 元 元年 七月 二 日鳥羽 院 ウ セ 給 ヒ テ 後、 日 本 国 ノ 乱 逆 ト 云 コ トハ オ コ リ テ 後、 ム シヤノ 世 ニ ナ リ. ケル也リ。 (愚管抄第四) 末代 悪世 武 士 ガ世 ニ ナ リ ハ テ ・、 末 法 ニ モフ \ニ タ レバ。 (愚管 抄 附録). な ど あるように、 「武士 ガ世」 「ムシャノ世」 は末代、 すなわち近代であり、 保元の乱を以てそ :の頃におき、 めでたくしかもけだかき時 のはじめとしている。 また上古と中古の境界を寛平、 延高 代と考えている。 いにしえは単にふるい時代であるばかりでなく、 模範とすべき時代であり就中中 古はその頂点に立つ時代と考えられている。 ところがこれと全く異つた時代区分観が出ている。 ー 冥 顕 和 合 シテ 道 理 ヲ道 理 二 テ トラ ス ヤ ウ ハ ハ ジメ ナ リ。 コ レハ 神 武 ヨ リ 十 三 代 マ デ鰍。 二 冥ノ 道 理ノ ュク ュ ク トウ ッ リ ュ ク ヲ。 顕ノ 人 ハ ヱ 心 ヘ ヌ 道 理。 (中 略) コ レハ 仲 哀 ヨ リ 欽 明 マ. デ敷。 三 顕 ニ ハ道 理 カ ナ ト、 ミ ナ 人 ュ ル シテ ァ レ ド、 冥 衆ノ 御心 ・ニ ハ カ ナ ハ ヌ 道 理 也。 (中略) コ レハ. 叉敏達ヨリ後一条院ノ御堂ノ関白マデ敷。 四 当 時 サ タ シタ ル 間 ハ 我 モ 人 モ ョ キ 道 理 ト,恩ホ ドニ。 智 ア ル 人ノ イ デ キ テ。 コ レコ ソイ ハ レナ ケ レト云 トキ。 誠 二 サ ア リ ケ リ ト恩 ヒ 返 ス道 理 也。 (中 略) コ レ マ タ 宇 治 殿 ヨ リ 鳥 羽 院 ナ ドマ デ 敷。 五 初 ヨ リ 其議 両 方 ニ ワ カ レテ、 ヒ シ ヒ シー ・論 シテ ュ リ ュク ホ ドニ。 サ ス ガニ 道 理 ハ ー コ ソア レ バ。 ソノ 道 理 ヘイ ・ カ チ テ ラ コ ナ フ道 理 也。 (中略) コ レハ 武 士ノ 世 ノ 頼 朝 マ デ 敷。 六 カ クノ ゴ トク 分 別 シ ガタ クテ。 トカ ク 或 ハ 論 ジ或 ハ 未 定 ニテ ス グ ル ホ ドニ。 ツイ ニ一 方 ニ ッ キ テ行 フ 時。 ワロ キ 心ノ ヒ ク カ タ ニ テ。 無 道 ヲ 道 理 ト ア シク ハ カ ライ テ。 ヒ ガ ゴ トニ ナ ル ガ道 理 ナ ル. 道理也。 (中略) コし叉後白河院 ヨリコノ院ノ即位マデ鰍。 七 ス ベ テ 初 ヨ リ 思 ヒ ク ワ ダッ ル 所。 モノ ラ ッ ヤ ッ ヤ 我 モ 人 モ シラ ヌ アイ ダ。 夕 ぐア タ ルニ シ タ ガ イ テ 後 ラ カ ヘ リ ミ ズ。 腹 寸 白 ナ ドヤ ム 人ノ。 当 時 ラ コ ラ ヌ 時。 ノ ドカ ハ ケ. トテ 水 ナ ドラノ ミ テ シ. バ シア レバ。 ソノ ヤ マイ オ コ リ テ。 死 行 ニ モ ラ ョ ブ道 理 也。 コ レハ コノ 世 ノ 道 理 也。 (愚管 抄 附録) - 40 一.
(14) . 没落期における古代貴族の歴史思想 について. 冥顕については 顕 ニ ソノ ヒク ヒ ラ ハ タ サ ネノミ 、 冥 ニ ナ ル バ カ リ ナ リ。 (愚管 抄 附 録) 冥 二天道ノ 御 沙 汰 ノ 外 二 顕 ュ 汝 等 ラ ニ ク ・ モ 疑 ヒ モ ラ ボ シメ ス コ ト ハ ナ キ 也 。 (愚管 抄 附 録). などとあるよ うに、 意識されうるものと 意識出来ないものとの区別であって 必ずしも慈円独自 、 、 1 の用 語 では なく、 当 時 の 一 般 用 語 で あ る 2 。. 慈円は冥顕の道 理の展開について七の時代区分を試みているがrブぐと七とは重複しており また 、 上古、 中古、 末代 なる時代とはくいちがいを示している 上古 中古 下古をそれぞれ正法 像法 。 、 、 、 末法にあてる考は早くからあった。 すなわち最澄が次の如くいっているのはその例で ある 2 2 。 夫 三古之運つ 盛衰不 同。 後五之機慧悟叉異。 貴拠二一途. ‐済。 就ゴー理-整乎。故詳二正像未之階降帽 或彰二破持僧之行事- 。 (末法燈明記) 慈円はこのような仏教の三時説による三古の解釈を中世初頭の一般用語たる上 古 中古 近古乃 、 、 至近代に及ぼし図式化して示そうとした しかし観念と して提示したに止まり 充分に歴史事実を 。 、 媒介として説明するに至っていない。 こ において三巻からフ 巻に 及ぶ時代区分観と附録に示され てい る そ れ との 間 の く い ち が い が 生 じた と 考 え ら れ る こ 。. において慈円は歴史的思考の論理とし て三時説をとり入れているが、 むしろその歴史意識の真相は古代貴族一般と共通した王朝時代憧襟 の中古観にあったというべきであろう。 しからばこのような玉朝時代憧帳の中古観 はどこから生れて来たか 愚管抄の歴史叙述が古代に 。 粗であり、 時代 が新しくなるにつれてくわしくなっていることが一の特徴となっている 勿論その 。 最大の理由はその著述の動機 が現代的関心 特に時勢の動きを非とし か すかに希望を将来に見出 、 、 そうとする自 己主張にあったからであろう。 しかしまた一面には著者の抱いていた歴史意識も顧み られねばならない。 日本書紀講書の例は康保二年 ( 96 5) を以て廃絶し、 もはや再び復活 しなかった 。 平安時代末期 になって藤原信西に日本紀抄があるが、 これは信西のくせのある性格と教養を示すものであり 2 3 、 むしろ慈円が六国史、 律令、 三代格式、 官曹事類が蓮華王院に蔵せられているにか わらず 「坂出 シテ見ソト云事 ダニ モナシ」 (愚管抄附録) というのが古代末期 中世初頭における公家の日本史 、 研究の実状であった。 また慈円は 「日本紀以下律令ノ ・我国ノ事ナレドモ、 今スコシ読解人アリ難 シ」 (愚管抄第三) とも語っている。 顕昭が日本紀釈注を撰進したことにつき 藤原定家が次の如 、 く非難しているのは当時の日本書紀観を最もよく示すものであろう 。 日本書紀者我朝之国史。 尤可 重。 若可 有二其沙汰-者。 大臣公卿官外 記尤可.奉行-敷 。 非二法師 撰進之仁‐敷。 (明月記承元元・五・廿条) 日本書紀は敬して遠ざけられており、 鎌倉時代中期になってその研究が復興している 2 。4 然らば公家の歴史的知識はいかなる書物によって供給されたのであろうか 。 藤原定家の治 承四年以後の日記から拾って見るに、 中国史については漢書の説を受け 自書して 、 おり、 北史、 斉、 周、 略書に及んでいるが、 (明月記建保五・七・四条 嘉禄元・三・二七条) 日 、 本の史書に目を通した記載はほとんどない。 熱心 ・に書写し、 研究したと, 思われるのは公卿日記であ る。 すなわち資房脚記 (建久九・正・二五) 宇治左府御記 (建久九・二 ・二二) 台記 (建久九・一 ・二七) 中右記 (寛害元・六・二) などその数が多い。 以」 二によって公家の歴史的知識は公家日記によって得られた趣 を知りうるが、 就中聖典化 してい ると見るべきものに延i曇 天暦二代の御記がある。 清涼殿御五間。 四季扉風。 母屋日記御厨子。 日記御厨子二脚。 近代不 納二二代御記 (禁秘抄) 。 近代二代御記を納めていないというのは寛弘六年 ( 10 09 ) 皇居一条院 の焼亡により失われたからで.
(15) . 高. 橋. 功. あり、 (百錬抄) このことは日記が寛平遺誠などと共に天皇の心得を示す聖典とさえ取扱われてい る 趣 が あ る。. 本文 に ついて 知 慈 円 は 「世ノ 中 ノ 道 理 ノ 次 第 ニッ ク リ カ ヘ ラ レテ、 世 ラ マ モ リ 人 ラ モ ル コ ト」 を. りたいものに対 して、 寛平遺誠、 二代御記、 九条殿の遺試、 識者の人の家々の日記、 顕密の先徳の 抄物な ど 「スコシ物ノ要二カナウベキ」 ものとなしている。 (愚管抄附録) 慈円が明瞭に引用を示 しているものに、 寛平御記、 浄蕨法師伝、 世つぎの鏡、 済時の大将が日記、 小野宮の記などがある が、 そ の外 にス ;ゞ 日 記 と して だけ 示 して い る も の に、 巻 三 に 一 ヶ 所、 巻 四 に 一 ヶ 所 が あ り、 恐 らく. 愚管抄の著述にあたって日記が多く参照されたことは推察に難くない。 正史編纂の事業が中絶し、 日本書紀講書が行われなくなった平安時代中期以後、 日本史における 視野が極めて狭醗なものになってしまった。 延喜夫暦以前については漠然とした印象があるだけで あって、 上古は中古から時間的にさかのぼるだけのものであり、 現代に対して特副の意味を持つも のではなかった。 延高夫暦の頃が長く聖代として仰 がれたのもこのような事情 があると考え ら れ る。 愚管抄の時代区分観にはこのような公家社会一般の歴史意識が反 映していると見なければなら ないが、 これが仏教の三時説と混在して充分に整理されていないと ころに愚管抄における歴史液述 の破綻があると考えられる。 四. 歴. 史 的. 展. 望. 古代末期から中世初頭にかけての内乱は武家政治の成立を確定的ならしめた。 同時に古代貴族と 結びついている顕密諸宗 の衰退はもはや動かし得ない事実となってあらわれた。 京都では倒壊した ま >再興出来ない寺院も少くなかったらしい。 藤原定家は次 のようにしるしている。 徒然之余見二白河方- 。 歓喜光院破壊己及.顛倒之期-轍。 南痛如 無。 旧遊之恋慕涙難 禁。 叉見= 尊勝寺- 。 (明月記安貞元・九・二四条) 。 無二金堂-如し入二他室- 巳時評 「窺入二歓喜光院- 。 徒寄.数多之民 。 往年花樹之跡一株古木不 残。 堂宇傾殿。 不 能二昇見- 煙- 。 是叉大破。 事与し心相違歎。 (同 。 悲痛無 窮。 (中略) 次叉北見二白川殿- 。 不し知二大破之仏閣- 安三・三六条) このような事態に際会して、 叡山出身の僧侶の中から、 宗教革新の叫び、 新しい社会的基盤に向 って教線を拡大する者があらわれた。 5 ほ ぼ 時 を 同 じ く して 比 親 欝 が 慈 円 に つい て 学 ん だ こ と が あ る か どう か は問 題 が あ る と して も、2. 叡山に住んでいたことはたしかである。 しかし、 浄土系の信仰にあっては神仏の関係は著しく異る もの が あ る。. 12 05) 専修念仏排撃のために書かれた興福寺奏状に、 (大屋億城 元久二年 ( 三 p.177. 日本仏教史の研究. 以下引用). i 宗廟大社. 第五背二露神‐失。 念仏之輩、 永別コ神仏- 。 若膳←神明-必 。 不一 。 不 論二権化実類- 上代高僧皆以帰敬 至 者 既是大聖也 堕ニ魔界-云々。 於二実類鬼神-者。 置而不し論。 ;権化重述- 。 。 。 と非難している。 念仏行者に果して神成廃立の挙があったどうか明でないにしても、 このような非 難を招くべき素地はその教義の中に内在していると見なくてはならない。 125 7 ) 十二月十四日の消息で次の如 く述べている。 親轡は正嘉二年 ( 自 然 と い う は、 目 は お の づ か ら と い ふ。 行 者 の は か ら ひ に あ ら ず。 然 と い ふ は し か ら しむ と い ふ こ と ば な り。 し か ら しむ と い≦一法。 行 者 の は か ら ひ に あ らず。 如 来 の ち か ひ に て あ る が ゆ へ に 法 蘭 まよ そ 行 者 の は か ら ひ の な き を も て。 こ の と い ふ。 法爾 は こ の 御 ち か ひ な り け る ゆ へ に。 おを. のゆへにしからしむといふなり。 すべて人のはじめてはからはざるなり。 このゆへに義なきを裁と 2- ー4.
(16) . 没落期における古代貴族の歴史思想 につい て. すとしるべ しとなり。 (末燈 抄) 鎮護圏家なる鬼才 侍的儀礼を媒介として古代貴族の政治 的特権と結びついていた顕密諸 ; 教とは完全 に訣別している親鷺の立場を読 みとることが出来る 建長八年 ( 1 256 ) 五月二十九日善欝を義絶 し 。 たのも善講が仏、 神、 道叉は仏 神 儒の三道合法の異議を以て親鷺 、 、 密授の教義とな したからであ つた。 親鷺消息の 詮 しさふ ら ふと こ ろ は。 御 身 に か ぎら ず 念 仏 ま ふ さ ん ひ と び と は 。 わ が 身 の 料 お ほ しめす と も。. 朝家の御ため、 国民のために。 念仏さふらふべし わが身の往生一定とおぼしめさ 。 んひとは、 仏の 御恩をお ぼしめさんに。 御報恩のために .御念仏こ るにいれてまふ して。 世の中安穏なれ、 仏法ひ ろまれとおぼしめすとぞおぼえさふらふ。 (御消息集) につき、 反語と解 して、 親講に護国思想がなかったとする考に対しては 異論が 2 7 神祇不 あろぅが、 拝の問題は本願寺の正統的解釈如何にか ゎらず後世まで長く尾を引いているのである 2 8 。 親灘は 次の消息で まづ。 よろづの仏菩薩をかろしめまいらせ。 よろづの神祇 冥道をあなづり すてたてまつ るとま 。 ふす。 このことゆめゆめなき事なり。 (中略) 仏法を深く信ずるひとをば 天地に おは しま すよろ 、. づ の神 は、 か げ の か た ち に そ へ る が ごとく して ま も らせ た ま ふ こ と に て さ ふ ら へ ば。 念 仏 を 信 じ 。. たろ身にて天地の神をすてまふさんとおもふことゆめゆめなきことな り。 (御消息集) と神祇不 拝を否定しているが、 これが単に善欝の関東の信徒団についての誤った 報告に基いて書か れたものとのみ見ることが出来ないものがあろう 親講の信仰 には神仏混合 の神成崇 拝を難行雑修 。 と して 退 けよ う とす る考 は 脈 々 と して 流 れ てい る の で あ り 、. かな しきかなや、 このころの、 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもと して 天地の鬼 神を 、 、 尊敬す。 (正像末和讃) といっているのはその端的な表現である 。 このような信仰に対 して顕密 諸宗及びそれと結びつく 政治的権力の圧迫はつ ねにつきまとうこと であり、 これに対しては次の二の反応があり得る 一 はことさらに神紙崇 拝 現世祈祷 。 を行って他 、 宗と異らないことを示 し、 既成勢力と妥協 しようとするもの他はことさらに神祇不拝を標梯 し、 そ の信仰を誇示しようとする態度である 。 真仏房への消 息に、 他力 のな かに は 自 力 と ま ふ す こ と は さ ふ ら ふと き 。. 候 ひ き。 他 力 の な か に 他 力 とま ふす こ と は. き 候はず。 他力のなかに自力とまふすことは、 雑行難修 定心念仏をこ ろがけられて 候人々 、 は、 他力のなかの自力のひとびとなり。 (末燈抄) すなわち他力のなかの自力は前者であり いわゆる他力のなかの他力は後者であって 関東の原始的 、 真宗教国が互に分裂 して論争していた趣を知ることができる 十四世紀に入って本願 寺を中心と す 。 る寺院組織がほゞ完成 し、 し・ろいるな意味で旧勢力と妥協するようになると 浄土真宗の側にも本 、 地垂逃説があらわれ、 所謂浄土神道 が公認されるようになった 3 0 。 神明ノ ・擁護 ラー向専修ノ 行人ニタ レ 行人ノ ・尊敬ヲ一切諸神ノ明徳二ヌキイッ。 西方欣求ノ行者 、. ナ ニ ・ ヨ リ テ カ神 明 ヲ 忽 緒 シタ テ マ ッ ラ ソ ヤ 。 (破 邪 顕 正 抄) 親 鷺 聖人ノ 勧 化ノ コ トキ ハ コ レライ マ シメ ラ レタ リ イ ハ ュ ル 教 行 証ノ 女 類 六 ノ 二諸経ノ 女 ラヒ 。 キ テ 仏 法 二帰 セ シモノ ハ ソノ 余ノ 天神 地紙 ニ ッカ フ マ ッ ル ヘ カ ラ サ ルム ネ 判 セ レタ ラ ラ ・リ。 (中 略) 垂逃ノ 本意 ハ シカ シ ナカ ラ衆 生 二 縁 ラム ス ヒ テ ッ ヰ 二 仏 道 ニイ ラ シメ ソカ タ メ ナレ・ 。 。 真実念仏 ノ 行 者 ニナ リ テ。 コノ タ ヒ 生 死 ラ ハ ナ レハ 神 明 コ ト ニ ョ ロ ヒ ライ タキ 権 現 サタ メ テ ヱ ミ ラ フク 。 。 3一 ー4.
(17) . 高 ミタマフヘ シ. 橋. 功. Q寺名妙). 諸神 本懐集は沙門源空記なる題号ある 坊門流布本に対 して存 覚が筆を加え、 武 士出身の空性房了 源に与えたもので厳格な意味で存覚の著とすべきではないが、 本願寺の権威によって承認をえたと ころにその意味がある。 この書物の中で顕密諸教と同じように主な神紙の 本地を示し、 神明本地ラタッヌ レハ。 オホクハ釈迦弥陀薬師弥勤観音勢至普賢女珠地蔵龍樹等ナリ。 コノ諸仏 菩 薩 コ トニ弥 陀 ヲ 念 セ ョ ト オ シヘ ヒ トヘ ニ西 方 ノ 往 生 ラ ス・ メ タ マ ウ。 垂 逃 マ タ ヒ トシ カ ル ヘ ケ レ ・。 イ ッ レノ 神 明 力 コ レラ ソ ム キ タ マ ハ ソ ヤ。 (中 略) 仏 陀 ノ 擁 護 ニ ア ッ カ リ 神 明ノ 御 コ ・ ロ ニ カ ナ ハ ソ トオモ ・ソ ニ モ タ ・ ネ ソコ ロ ニ 後 生 菩 提 ラ ネ カ ヒ テ ー 向 二 弥 陀ノ 名 号 ヲ称 スヘ キ ナ リ。 (諸. 神本懐集) と説いている。 本願寺教団の本地垂逃説は諸仏等同を前提として、 弥陀ー仏に帰依すべきを説いた ものであって、 日本在来の多神教的神観を是認し、 か る神観を真俗二諦の教義によって温存しよ うとした顕密諸宗とは自ら区別すべきものがあろう。 このような鎌倉新仏教に対 して 慈円はどんな態度を執ったのであろうか。 慈円の周囲には浄土宗 1 建永元年 ( 3 12 06) の法然流罪につい 関係者があり、 一脈連るものがあったので あるけれども、 て、 愚管抄では冷い態度で絃述 し、 誠 ニ モ仏 法ノ 滅 相 ウ タ ガイ ナ シ。 於 ヲ 心 ウ ル ニ モ。 魔 二. 頃 魔 逆 魔 ト 云。 コノ 順 魔ノ カ ナ シ ウカ. ヤ ウ ノ コ ト ドモ ラ シフ ル也。 (愚管 抄 第 六). と述べている。 慈円の 所 祈之作善。 己有二冥加‐今不 会:急厄- 。 更興二本願-分可 祈二王法-也。 (門葉記) という信念は微動だにしていない。 この両者の相違は唯神的、 外在的神観型式と唯心的内在的神観型式との相違といってもよいので 2 また同時に宗教と政治との分離でもある。 私は慈円が道理=自然法爾を以て日本の歴史を 3 ある。 内観 しようとしながら、 神々の誓約;藤原氏の特権的地位を非歴史化 し、 愚管抄全体の叙述に破綻 を来した理由はその抱いた神観に外在的な同時に呪術的な要素を含んでいたからであると考える。 自然法繭は観欝によってはじめてその真義が発揮された。 しかし本願寺教団の側からは宗教的歴 史観によって貫かれた歴史叙述は生れては来なかった。 一には本願寺教団が強大な勢力を持つのに は十五世紀までくだろ必要があったという事情 もあったであろうが、 一には本願寺教団の支えとな った社 会的基盤のもつ性格によるものといえる。「浄土教が保証した救済は、その社会的身分的制約 3 3 という説も の故に、 現世において実現 出来ぬ願望を、 後世において満足せしめることであった」 一応こ〉で顧みられるべきである。 このような社会層に根を 張った本願寺教団には日 本の歴史を回 顧して、 現代を歴史の上に位置づける必要はなかったのである。 かくして仏教的歴史観によって日 本歴史を徹底的に追求してみようとする試みは出ずべく して、 出て来なかったのである。 先例によって政治を運営することが出来なくなった社会状勢下にあって、 上層貴族は新しい政治 1 1 81 ) 無動寺検校に実寛僧正を補したことにつき 原理を模索しっ}あった。 九条兼実は養和元年 ( 次の如く語っている。 背‐ 。 令一申入-之処。 仰云。 :本願起請→ 忘二相承之道理-。 不 能。左右-事鰍。 余立コ次第之道理- ) 一・二三条 非ご依 理被 補之儀- 。 (以下略玉葉義和元・一 「次第之道理」 は 「相承之道理」 と対立する概念であり、 理によって追求さるべき道理なのであ る。 叉 「国家廃興在二政教之理舌L之故」 (玉葉嘉応二・六・六条) とも語っている。 か}る道理を 城門は仏教の四種道理により肉づけようと試みたのであるが、 外在的な呪術的神観及びそれと結び 日社会秩序に安住出来なくなっている中世人はむしろ儒教を受け入れようとする傾向があっ ついた1 - 44 一.
関連したドキュメント
・精神科入院時は、本人の意思決定が難しい状態にあることが多く、その場合、家族に説明し理解してもらってい
ア.×
出てくる、と思っていた。ところが、恐竜は喉のところに笛みたいな、管みた
式目おいて「清十即ついぜん」は伝統的な流れの中にあり、その ㈲
【参考 【 参考】 】試験凍結における 試験凍結における 凍結管と 凍結管 と測温管 測温管との離隔 との離隔.. 2.3
信号を時々無視するとしている。宗教別では,仏教徒がたいてい信号を守 ると答える傾向にあった
今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ
神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな