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<絡み合い>における価値 : <ポスト・モダン文化>の哲学者としてのリッカート

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Academic year: 2021

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(1)93. (絡み合い)における価値 くポスト・モダン文化)の哲学者としてのリッカート キーワード:リッカート,現代思想,絡み合い,認識,実在. ・'j世1 森 (平成12年 9月14日受理) 序章前期思想の到達点と転回. 赴き,認識の心的作用を顧慮することなしに, 「純粋」 論理学的に取り扱うよう試みることができる。第一の道. 拙論「ニヒリズムから価値哲学へ- (ポスト・モダン. を超越論的心理学の道と呼び,第二の道を超越論的論理. 文化)の哲学者としてのリッカート(D-」1は,リッカー. 学の道と呼ぶことにする」 (ZW174)。しかるに,この. トの思想を「モダン」の思想と見なす哲学史的通説に反. 超越論的論理学の立場から見ると,前期思想は不十分な. 対して,彼の価値哲学をニヒリズムを克服する試みとし. ものにとどまる。このような問題意識から,リッカート. て解釈することを試みた。そして,リッカートが,近代. の中期思想への転回が始まる。. の「主知主義」の一面性を批判するニーチェ的近代批判. さて,リッカートの前期思想の意義は,実在論を逆転. を受容しつつも,価値を超越論的な仕方で基づけること. させ, 「観念論的転回」を行ったことにあった。リッカー. によって,ニーチュ的な「懐疑論」の一面性を克服して. トによれば,従来の認識論は「認識の対象」を実在物で. おり, 「ポスト・モダン文化」の哲学者として位置づけ. あると誤解し,意識の領域を越えた実在物が認識を導く. ることが可能であることを示した。. と考えてきた。しかるに,これはさらに実在物の認識を. このような成果のもと,リッカートは価値の思索を具. 必要とし,実在論のアポリアを引き起こしてしまうこと. 体化させ,中期思想への変貌を遂げてゆく。ただし,こ. になる。そのため,リッカートは, 『認識の対象』 (第二. のような転回は同時にアポリアをはらむものであった。. 版)において3,実在物を想定する実在論を拒否し,そ. だが,このアポリアの思索において,結果として,価値,. のことから帰結する,すべてを等しく表象と見なす「内. 実在,判断の問のく絡み合い)が主題化される。この主. 在主義」から,認識論を出発させる。しかし,それは超. 題化によって,リッカートは「現代思想」が可能となる. 越の否定であり,客観的な認識の否定につながってしま. 場の準備に参画することになる。このことを明らかにす. う。そこで,認識に客観性を賦与する「認識の対象」を. ることが本論文の課題である。. 探求することが課題となる。リッカートによれば, 「認. 本論文では,以下の順序で論じていくことにする。ま. 識の対象」は実在物ではなく,判断を導くような価値で. ず,リッカート自身の記述に基づいて,前期思想から中. ある。真理という価値に従って判断することによって認. 期思想への転回の筋道を明らかにする(第-章,第二章).. 識が成立する。そして,この価値は主観的な内在性の領. しかし,この転回は前期思想においては回避されていた. 域を超越しているという意味で超越的価値である。そも. 難問を顕在化させることになる(第三章)。だが,この. そも,実在性という価値に従って実在すると判断するこ. 難問と対決するとき,価値,実在,判断の間の(絡み合. とによって実在物が産出されるのである。しかし,だか. い)が主題化されることになる(第四章)。そして,ま. らといって,認識は主観による判断行為に依存した主観. さにこのく絡み合い)こそが「現代思想」を可能ならし. 的なものでしかないというわけではない。というのも,. める場であった(終章)0. 判断行為を導く「認識の対象」たる価値が普遍的である からである。さもないと,心理学主義に逆戻りしてしま. 第一章前期思想に対する自己批判. うことになる。とはいうものの, 『第二版』において, この価値はあくまでも(理念的なもの)として想定され. リッカートは前期思想の成果をさらに押し進め,論文. るにとどまり,直接それとして知られるようなものとは. 「認識論の二つの道」において認識論の二っのステップ. 考えられてはいない。しかしながら,価値に従った判断. を区別するようになる2。リッカ-トはこの二つの道を. のもたらす有効性を承認し,この価値にコミットしよう. 次のように規定している。 「まず第一に,実在的な認識. とするものはみな,その有効性を現実化するような仕方. 作用を心的な出来事と見なし,その分析から出発して,. で判断を下さざるをえないため,そのことによって客観. そこから徐々に,超越的対象に迫っていくことができる。. 性が生みだされる。このように内在的な領域にとどまり,. そして第二に,回り道することなく超越的対象の領域に. 価値をあくまでも直接には知りえない(理念的なもの). ・兵庫教育大学第2郡(社会系教育講座).

(2) 94. と見なしつつも,その名目のもとで客観性が生み出され. ない点に,その限界があると考えるのである。. ると考えた点に前期リッカートの根本図式は存する40 このように「認識の対象」が実在物ではなく,価値で. 第二章超越論的論理学の構想. あると考えられるようになると,それにともなって,判 断を導く価値の内実を明らかにするという課題が浮上し. 第一章において見たように, 「超越論的論理学」の立. てくることになる。その課題を取り扱うのが「超越論的. 場からすれば,前期思想は不十分なものにとどまってい. 論理学」である。そして,この「超越論的論理学」の問 題関心からすると, 『第二版』は不十分なものにとどまっ. 想への変貌が成し遂げられる。この章の課題は,リッカー. た。これを克服することを通して,前期思想から中期思. ている。リッカートは「二つの道」論文において二つの. ト自身の主張に基づいて,前期思想から中期思想への転. 論点を提示している。. 回の筋道を明らかにすることである。. まず第一に,リッカートは『第二版』が超越的な価値. さて, 「超越論的論理学」と「超越論的心理学」の差. を,判断を下す際そこにともなっている内在的な感情か. 異を明らかにし, 「超越論的論理学」の主題を明確にす. ら思惟していると批判している。確かに, 『第二版』に. るために,リッカートは「内容」と「形式」という区別. は,判断を導く明証性は「感情」によって知られるとい. を導入する。判断とは「或るもの(表象の多様-内容). う表現が散見される5。論理的に考えれば,感情が超越. を或るもの(形式)として判断する」ということである。. の存在を証示するのではなく,反対に超越への到達に感 情が付随していると言うのでなくてはならない。 「感情. すると,認識において重要なのは,内容ではなく,内容. の分析に先立ってすでに超越的対象が私たちにとって確. たもの)をく実在する)と判断する」のが実在性の判断. 実でなければ,私たちは決して,感情の内に感情以上の ものを見るに至るようなことは無いであろう。もしも,. であり,この意味では実在性もまた一つの形式である。. [感情の分析に先立ってすでに超越的対象が私たちにとっ. あり,そのようなものとしてのみ現れることができる。. て確実であるという]暗黙の内の前提が無ければ,単な. 「認識論の領域すべてにおいて問題となるのは形式問題. る感情の分析は・--心理学主義に巻き込まれてしまうで. である。というのも,思想における内容は,直接与えら. あろう」 (ZW190)。このように,内在的な判断作用と. れた実在性における内容とは異なった形式をしているか. 超越的な真理の相関関係は超越的なものを前提としての みはじめて考えられるのであるから,心的作用を通して,. らである。より正確に言えば,私たちが単に「知覚」し ているだけならば,内容は形式を持っていないが,私た. 超越を規定するとすれば,それは誤りである。ただし,. ちがその内容について言吾るならば,そのことによってす. このような混同に関しては,若干の混乱は見られたもの の, 『第二版』において,すでに指摘されていた。すな. でに形式化される。このことは,所与の内容を言葉を使っ て表現する際の言葉の意味が全て普遍的であるのに対し. わち,リッカート自身が丁私たちが判断の必然性という. て,所与の内容はことごとく個別的であるということか. ことで理解しているのは,肯定をもたらす心理学的強制. らしてもすでに明らかである」 (ZW178)。そもそも,. を選択し,整序する形式である。例えば, 「く表象され. あらゆるものは常に既に「何ものかとして」現れるので. のことではない。ましてや,判断の必然性は因果的必然. 私たちは「純粋な内容(形式を全く欠いた内容)」につ. 性とは何の関係もない。すなわち,判断の必然性は原因. いては語ることすらできない。このように,リッカート. ではなく,論理的な根拠なのである」 (GE(2)114)と指. は心的出来事を記述する枠組みとして「内容」 (作用). 摘していた。したがって,この論点は『第二版』に対す. と「形式」 (意味)の区別を新たに導入する6。両者の間. る根本的な批判とはなっていない。. には相関的な基づけ関係が成立する。すなわち,超越的. むしろ,主要な論点は次のような第二の点にある。確. 意味は心的作用によって具体化されるが,意味の内実は. かに, 『第二版』は価値を,単なる表象を超越したく理. 心的作用には依存していない。例えば,実在性という価. 念的なもの)と見なし,個々の判断を導くという役割を. 値の意味は実在をめぐる個々の判断において具体化され. 果たすと指摘し,形式的な仕方では考察していた。しか. るが,その意味の内実は個々の判断からは独立しており,. し, 『第二版』は,価値の内実は個別科学において考察. それどころかその意味の内実こそが個々の判断を可能な. されるべきものであるとして,もはやその具体的な内実. らしめるのである。 「理解の作用そのものはそもそも真. を考察してはいない。そもそも,内在的な領域から出発. とは言えない。真でありうるのはただく理解されたある. する限り,単なる表象を超越するようなものの内実を規. もの)だけである。このあるものは, (理解すること). 定することはもはや不可能である。このようにリッカー トは『第二版』を,価値を形式的に思惟してはいるもの. とは原理的に異なったものである。く真であるもの)は 理解の作用によって私に意識されるが,真理としてのそ. の,内在的な領域に留まっているという意味で「超越論. の独立性はこの作用にはまったく依存していない」 (Z. 的心理学」であると見なし,価値の内実を取り扱ってい. W194)。この相関関係の導入によって,認識論の二つ.

(3) く絡み合い)における価値. の側面が明確となる。すなわち, 「形式」を取り扱う 「超越論的論理学」と, 「内容」を取り扱う「超越論的心 理学」とである。 そして,リッカートは認識論の本来の対象は「作用」 ではなく, 「意味」であると確認する。 「文には一つの 「意味(Bedeutung)」が,すなわち,この文を書き記し たり,発話したりした者が意図し,私がその文を読んだ り,聞いたりしたときに,私が理解する一つの「意味」 が結びっいているのでなくてはならない。この意味のみ が本来の意味で真でありうる。そして,この意味ゆえに こそ,この意味を伴っている文もまた真となる。それゆ え,認識の対象を見出すためには,この意味を探求しな くてはならないであろう。だが,以上をもって,このよ うな方法は,認識論の第一の道から原理的に区別される ということが全く明らかとなり,真なる「意味」は例え ば単なる思考作用ではなく,ましてや心的な存在ではな いということを,これまで以上に厳密に示さなくてはな らない」 (ZW195)。すなわち,認識を認識たらしめる のは,内在的表象ではなく, 「意味」なのである7。この ように, 「超越論的論理学」が取り扱う「意味」は実在 物に先行し,かえって,実在物を可能ならしめるような ものである。 「意味はあらゆる存在を「超越して」,ある いはそれ「以前に」,ある。このことは, 「あるものが存 在する」という認識が, 「あるものが存在する」という 文に伴う意味をいっも前提としているということからす でに明らかとなる。その際,問題となっている存在が, 物的な存在でも心的な存在でも,実在的な存在でも理念 的な存在でも,感性的な存在でも超感性的な存在でも, 所与の存在でも推論された存在でも,このことに変わり ない。この意味が真でないならば,まったくいかなるも のも「ある」ことはできない。それゆえ,意味は存在に 数え入れられえず,存在に論理的に先行するのでなくて はならない」 (ZW203)cそしてさらに,リッカートは. 「意味」を価値として考察する。 「存在という概念は,私 たちが「あるもの」を分類することのできる唯一の概念 ではない。無の外に,存在概念と並んで,非存在者に関 する第二の包括的概念として価値の概念がある。一一す ると,あらゆる存在を超越している意味は価値の領域に 属し,ただ価値として理解されうる」 (ZW203)。 かくして,個々の判断を導く普遍的な価値の内実をそ. 95. に内在的意味には関わらない」 (ZW201)。 「かくして, 意味の価値形式を体系的に記述する学が成立する。この 学はもっぱら論理的価値の領域内のみを動き,それゆえ, 実在的な認識作用を考慮せずに,純粋に超越論的論理学 的な方法を取る。この学が示さねばならないのは,いか なる意味が実証的な意味一般の前提として「妥当」する のか,そしてさらに,お互いに形式的に異なる真なる諸 命題が備えている特殊形式的な意味の前提として「妥当」 するのかである。この学は,実在するのではないものの みを取り扱い,積極的には理論的な価値についての学と して特徴づけられる学である。この学は,物理的な存在 にも心的な存在にも,実在的な存在にも理念的な存在に も,感性的な実在性にも超感性的な実在性にも関わらな い。この学は, 「純粋」学として,あらゆる存在の学に 対立する。その問題は,理論的な価値の妥当性のみであ る」 (ZW207)c リッカートは, 「二つの道」において,このような 「超越論的論理学」のアウトラインをスケッチしている。 「そもそも何が存在するのかという問いに対する答えが 意味を持っような場合,数学がある存在について語ると いうことが意味を持っような場合,存在に関する経験的 諸学の「材料」となるような実在性について語ることが 意味を持っような場合,お互いに作用しあっている諸物 の世界を実在的と見なすことが意味を持っような場合, 他者との社会的関係の内に生きている意志する存在を実 在的であると見なすことが意味を持っような場合,自然 科学的原理あるいは心理学的原理によって,または歴史 学あるいは体系的文化学によって,この実在的な世界を 認識するということが意味を持つような場合に,すでに 妥当しているのでなくてはならない価値がこの認識論に とって問題となる。理論的価値に関するこの学が取り扱 うのは,あらゆる学に,そして,存在しているとかある いは実在的であるとか見なされる,学の素材に先行する ようなものである」 (ZW208)。すなわち, 「価値の学」 は諸領域を可能ならしめるような価値の概念を対象化し, その内実を記述するというのである。ここで注目すべき なのは,カント以来,理念化されてきた自然科学の価値 概念とならんで,歴史科学の価値概念をそれと並ぶもの として規定しようと試みている点である。そして,この 発想はさらに,宗教と呼ばれている実践の活動(それ自. のものとして考察する「超越論的論理学」が要請され, 認識論の中心、としてクローズアップされることになる。. 体は不合理なものであるが)を導く価値をも規定すると. 「その際,心的作用は度外視され,論理的な真理内実の みに限定されるのであるから,私たちはこのような問題 設定を,超越論的心理学における問題設定とは区別して, 超越論的論理学における問題設定と名づける。このよう な問題設定は「純粋」論理学へと導く,この「純粋」論 理学は超越的意味にのみ関わり,超越論的心理学のよう. 合理主義」が不当な仕方で持ち込んだものを学的な仕方. いう課題へと発展されることになる。だが,それは「不 で語る可能性を切り開くことになる。ここに,新カント 派の理論的な意義を見ることができる。そして,リッカー トはこのような価値の体系を『哲学の大系』8において具 体化する。 さて,認識を導いているのは「実在物」でも, 「心的.

(4) 96. 作用の法則」でもなく,価値であった。 「実在的な認識 の形式は超越的な意味の形式に対応していうのでなくて はならない。それゆえ,無条件に妥当するいかなる理論 的な価値も,超越的な対象である。思惟がその形式をもっ てこの超越的対象に則るならば,この思惟は認識となる」 (ZW209)。したがって,単なる表象という内在的領域. と純化させていった。その意味で, 「二っの道」は『第 二版』に内在する傾向を押し進めるものでありながら, 同時に,価値だけを純化させようというその試みは, 『第二版』の根本図式(前期リッカートの根本思想)香 変更してしまう側面をはらんでいる。中期思想への転換 として以下の二点を指摘することができる。. に留まっていた『第二版』は, 「心的作用」の領域にと どまる「超越論的心理学」と見なされる。確かに『第二. まず第一に, 「意味」をく理念的なもの)として形式 的に考察するだけではなく,その内実を規定するように. 版』は,価値を判断における「心的作用」 (単なる表象) との相関において形式的な仕方で思惟していた。しかし, もはや価値の内実を考察してはいないという点で不十分 であるとされる。このような意味で, 「超越論的論理学」 においてはじめて,認識論はその基礎を獲得することに なる。ここに「超越論的論理学」の優位がある。 「内在 的意味を解釈することが可能となるために,超越論的心 理学的方法が前提せねばならず,そこにおいてはただ暗 黙の内に前提され,そして証明されることのなかった前 提がいま表明的に明らかにされ,基礎づけられた。すな わち,認識の対象は超越的価値である。このような理由 から,超越論的論理学的な道は,超越論的心理学的方法 に必然的に伴っている欠点を免れている」 (ZW209)c 「第二の道は直接超越的価値へと導く。このような価値 の概念は認識の対象を純粋な仕方で与える」 (ZW209)。. なった。実在論に反対し, 「内在的な領域」から出発す るため,前期リッカートは,認識を前もって正当化する ような具体的な「基準」を探求することは,個別科学に 委ねることで,これを回避し,価値を(理念的なもの) と見なすという仕方で,認識の可能性の条件を形式的に 考察していた。そして,その内実は,価値に従うことで 下される判断によって具体化されることを通して思惟さ れうるとするにとどまった。このように,前期リッカー トにおいて,価値と実在とは「相即関係」にあると見な されていた。すなわち,価値が暗黙の内に実在を可能な らしめるが,その価値の内実は実在を介して「間接的」 にのみ規定されるというのである。ここにおいて,価値 の内実は「直接的」に知られるようなものではない。こ れに対して, 「二つの道」は価値の内実をそれとして考 察しようとする。しかし, 「二つの道」のように価値を 直接知りえるとしてしまうと,前期思想が回避していた. 第三章超越論的論理学のはらむ問題. 「基づけ主義」へと逆行してしまう危険性がある9。. 前期リッカートは,超越論的実在を想定する実在論を 拒否し,そのことから帰結する,すべてを等しく表象と 見なす「内在主義」から,認識論を出発させる。しかし, それは超越の否定であり,認識の否定につながってしま う。そこで, 『第二版』では判断を導く超越として価値 を導入した。しかるに, 『第二版』において,価値はそ れとして知られるようなものではないとされていた。価 値の内実を具体的に規定するとすれば,その価値に基づ いて遂行された諸判断を介して,間接的に推論するしか ないであろう。そして,リッカート自身は価値の内実を 問うてはいなかった。これに対して,前期思想の成果に 基づいて,中期リッカートは,価値と実在との峻別を押 し進める。例えば, 「この道[超越論的論理学]の最初 の一歩は,意味を心的存在から区別し,思想を思考作用 から区別することにある。このような区別が行われるこ. とするため,価値をそれが具体化される判断作用から峻. また第二に,判断行為よりも価値そのものを考察対象. と,そしてそれのみに,この研究の独自性がある。この 研究のあらゆる長所は価値と実在性の間の徹底的な区別 に由来する」 (ZW218)とリッカートは述べている。こ のようにして,彼は「価値の領域」を,判断行為を介し てではなく,直接に考察するようになり,価値の体系を 具体的に規定するようになる。すなわち,彼は認識論を (価値の内実を規定しようとする) 「超越論的論理学」へ. 別するようになった。 『第二版』では,価値がく理念的 なもの)と見なされつつも,その内実は判断行為の中で 具体化されると考えられていた。すなわち,判断行為を 通して価値そのもの,ならびに,価値の具体化が考えら れていた。しかるに, 「二つの道」は価値をそのものと して思惟するために,価値を判断(作用)から切り離し てしまう。その結果,実在と価値を媒介する(「∼を∼ として判断すべし」という)当為は「あてにならない, 不純なもの」すなわち二次的なものと見なされてしまう。 「価値と当為とは単純に一致しはしない。当為は純粋な 価値ではない。当為は命令という非存在者を意味し,そ うすることで,この命令を主観という存在者-と関係づ け,この主観にこの命令を承認し,それに服従,従属す ることを要求する。しかし,このことは全く二次的で, それどころか誤解を招きやすい関係である。価値は自ら 自存しており,そのようなものとして,価値が適用され るいかなる存在者や主観との関係にも依存していない。 このような価値のみが超越的対象なのである」 (ZW209 f.)11。ここでリッカートはいやおうなく主観による判断 作用に関わってしまう当為を価値から区別することで, 価値の超越性を守ろうとしている。 「しかし,価値ば,.

(5) (絡み合い)における価値. 97. それが認識する主観に関係づけられると直ちに当為となっ. らアポステリオリに抽出された尺度によって吟味される. てしまう。すると,価値ば,主観がそれに則らねばなら. とすれば,価値はもはや実在や判断から独立とはいえな. ない規則,規範として主観に対立することになる。しか. くなり,矛盾をきたすことになってしまう。. し,まさにこのような考えが価値を,価値の純粋な妥当. そして第二に,価値が実在に適用されて認識が生じる. という超越的な高みから引き下ろし,理論的な権威を価. のであるが,価値と実在はどのようにして結びっけられ. 値から奪ってしまうと言うことができる」 (ZW210)c. るのか。すなわち,アプリオリであるとされる価値には. このような価値と当為の分離は実在と価値の相即を破壊. もはや実在への適用のための条件は含まれえないため,. してしまうことになる。価値の体系が判断を下すという. 適用が可能となるためには,適用の基準が別に知られて. 実践活動の中にその起源を持っているということが忘却. おり,かつ,実在が何らかの仕方で知られているのでな. されてしまう。確かに,超越的意味を独立した世界と見. くてはならない。しかし,すると適用の基準と実在の認. なすことによって, 「意味」だけを思惟することが可能. 識という新たな問題が生じてしまう。まず第一に,適用. になった。しかし,そのかわり,実在と価値を媒介する. の基準に関して言えば,価値を適用するそのやり方に法. 当為は「あてにならないもの」として二次的なものと見. 則性を兄いだすことはできるかもしれない。しかしなが. なされ,両者の関係が損なわれてしまうことになったの. ら,それは具体的に下された諸判断から抽出された「経. である。. 験則」であり,判断を導くアプリオリな法則であるとは. しかし,これらの転換は様々な難問をもたらすことに. もはや言えない。その意味ではかならずLも超越的なも. なる。リッカート自身も「しかし, [超越論的論理学の]. のとは言えない。したがって,この基準に従っているか. このような長所には逆の側面がある。すなわち,この研. らといって,判断が正当化されるとは限らない。そして. 究の肝要な点は区別することにあるのであるから,この. 第二に,実在の認識が可能となるためには,すでに判断. 研究は,対象と認識とを再び結びつけることばもはやで. が下されているのでなくてはならない。このように,判. きない。かくして,この方法は原理的に一面的であり不. 断の正当性の根拠はどんどん後退していくことになる。. 完全であることが示される」 (ZW218)と述べている。. このような無限後退は究極的な基礎づけの不可能性を意. 判断とは「∼ (実在)を∼ (価値)として見なす」こと. 味している。ここにおいては,モダンの「基づけ主義」. であるが,それが可能となるためには,まず,判断を下. と同様に,リッカ-トの提示する価値の体系(「超越論. すに先だって,適用されるべき価値の内実を知っている. 的論理学」)もアプリオリな正当化を可能にするものと. のでなくてはならない。その上で,その価値が適用され. しては挫折することになる。 このように「価値の体系」が,具体的な判断の場にお. るべき実在についても知っているのでなくてほならなし.I. そしてさらに,さらにその「適用」が正当なものである. いてしか考えられず,したがって,アプリオリに存立し. ことを知っていることが必要となる。価値そのものを. えないということになってしまうと,価値の妥当性が疑. 「直接的」に考察の対象とし,その内実を具体的に記述. わしいものとなってしまう。実在をその背後で支えてい. することが試みられるようになると,その価値の認識,. た価値がその基礎づける権能を喪失するからである。こ. 適用において難点が生じてくる。 まず第一に,アプリオリであるとされる価値の内実は そもそもどのようにして知られるのか。この問題はそれ. のような意味で,価値の内実を明示しようとする中期思 想は破綻をきたすことになり,それにともなって「価値 の体系」も維持しえなくなってしまう。. ほど単純ではないと思われるが,価値の内実について論 じることができるという事実に訴えかけることで,この. 第四章超越論的論理学から(絡み合い)へ. 問題を回避している。しかしながら,このような明示的 な価値理解が, (個々の判断に先立ってこれを導いてい. 第三章において見たように,価値論的転回の立場から. る)暗黙の内に常に既になされている価値理解と合致す. すれば, 「二つの道」のような中期恩想は「基づけ主義」. るものであるかどうかは別の問題である。後者の価値の. への逆行にはかならない。その結果,認識論は価値の認. 内実はそれに従って遂行された認識の結果得られる実在 を通して,抽出することができる11。すると,これと明. 請,通用といったやっかいな課題を抱え込むことになっ てしまう。しかし,他方においては,このような考察な しには,認識論は個別科学のあり方を追認するだけの形. 示的な価値理解とを比較検討することが可能となる。い ずれが正当なものと認められるかはその比較検討が遂行. 式的な議論にとどまり,実践的な意味を提示できないで. される状況によって様々であり,前もって決定すること. あろうし,また,豊かな認識論的含意を失ってしまうこ. はできない。とはいえ,認識のあり方の検討が価値の位. とになるであろう。この章では,中期思想がもたらした. 置づけやあり方を変化させることは実際に生じている。 いずれにせよ,アプリオリであるとされる価値が実在か. く絡み合い)の思索の意義を明らかにすることを試みる。 以上において見てきたように, 「超越論的論理学」への.

(6) 98. 純化とともに,価値の認識,実在の認識,価値と実在と. い)の領域の中へと差し戻されることになる。. を媒介する判断とはそれぞれいかなるものかという問題. かくして,リッカートは認識論の課題を二重化する。. が主題化されるようになる。しかし,第二章において見. 「超越的なものが何であるか,そして,その超越的なも. たように,価値,実在,判断がそれぞれ相互に依存しあっ. のがいかにして内在的となり,思惟の内に入ってくるの. ているということになると,認識を何らかの最も根源的. かを,認識論は探求する」 (zwm)cここにおいて,. な尺度に基礎付け,前もって正当化するということは不. 認識論の課題は,まず第一に,認識の対象を求めること. 可能になってしまう。仮に認識が正当化されるにしても,. となり,そして第二に,対象の認識を規定することとな. それはその認識が遂行される状況全体の中においてのみ. る。リッカートは前者を遂行するのが「超越論的論理学」. であるということになる。このようにして,認識が遂行. であり,後者を遂行するのが「超越論的心理学」である. される場へと遡及することが必要となり,現実の認識を. とする。この二っの課題は一方だけでは不足であり,相. 可能ならしめている領域が主題化されるようになる。だ. 補的な役割を果たす。そのため,認識論にはこの二っが. が,その領域においては,価値,実在,両者の媒介とし. どちらも必要である。このようにリッカートは論じる。. ての判断といった様々なファクターが,どれかが優位を 占めることなく,互いに絡み合っている。それが「内在. ただし, 「超越論的心理学」の規定がさきほどとは少 し違ったものとなっていることに注意しなくてはならな. 的意味の領域」である。この点についてはリッカート自. い。すなわち,先はどの規定によれば, 「超越論的心理. 身が自覚的であった。 「確かに,超越論的論理学的考察. 学」は「内在論」から出発して,認識を導く「認識の対. から認識論を開始することができる。その場合の成果は,. 象」に到達するという課題を担っており,それを『認識. 一方において超越的価値であり,他方において内在的な. の対象』 (第二版)が果たした。そのことによって,認. 心的思考作用である。 [ただし,両者は分かたれたまま. 識論の中心は「超越論的論理学」に移行することになる。. である。]だが,存在はどのようにして意味に至るのか。. しかし,このような課題設定は別の課題を生みだし,そ. あるいは,実在性はどのようにして価値へと至るのか。. の課題をもリッカートは「超越論的心理学」という同じ. このような問題を理解しうるのは,超越的なものと内在. 名称で呼んでいるのである。 「超越論的心理学」は「超. 的なものとのあいだに一つの中間領域,すなわち,内在. 越論的論理学」の準備段階にすぎないとみなされる一方. 的意味の領域を設定する場合においてである」 (ZW220)。. で, 「超越論的論理学」を支える場の思索という新たな. しかるに,リッカートによればこのような領域への遡. 課題をも担うようになる。それとして指摘されることな. 及は「超越論的心理学」への回帰を意味する。 「ここに. く暗黙の内に遂行されているこの「改釈」がリッカート. おいて,超越論的論理学を補完する必要性が示された。. の中期思想を実り豊かなものにしている。 「当為は当為. 完全となり,認識論の体系を与えるためには,それ自身. のゆえに自由に承認され,価値は価値のゆえに自由に承. の内に自存している超越的価値から,認識の心的過程へ. 認されると考えることで,超越論的心理学は,超越論的. と立ち戻る道を見出さなくてはならない。 --・ここにお いて,第一の超越論的心理学の道に注目するよう促され. 論理学によって分離された二つの世界の間に橋渡しをす る。実践的に「自由な」存在者として,そして,そのよ. る。認識作用を無視するわけにはいかない。確かに認識. うな者としてのみ,超越的価値の世界を所有するにいた. 作用から出発する最初の道は欠点を持っているかもしれ. りうる。そのことが意味しているのは,判断作用の内在. ない。しかし,この道は,対象と認識とを結びつけるこ. 的意味の理論,超越論的心理学が私たちに与える理論を. とが要請されている以上,なしですますことはできない」. 意味している」 (ZW221)c. (ZW218)c超越的なものの構造を主題化するとき,そ. 第三章において見たように,超越論的論理学に基づき,. れが現実とどのように関わるのかが同時に主題化される. アプリオリな価値の体系を構築しようとする中期思想は. ことになる。この二つの課題の成立は相関しあっている。. 破綻することになる。しかし,前期思想による価値の超. 皮肉なことに, 「超越論的論理学」への純化は, 「超越論 的心理学」への回帰を不可避なものとしてしまう12。 「超. 越論的な基礎づけまでが否定されるわけではない。前期. 越論的論理学」の導入が「超越論的心理学」をともなっ. 理といった)価値が前提とされざるをえない。それ故に,. てしまうのである。言い換えれば,中期リッカートは,. 価値は単なる表象に還元されえない(理念的なもの)と. 思想によれば,認識が可能となるためには(例えば,真. 価値を実在とは独立なものであると見なし,両者を別々. して想定されざるをえないのであった。そもそも,実在. に分析し,その上で両者の関係を思惟することを試みよ'. すら,実在性という価値を前提とすることによって可能. うとした。しかし,両者の分離はかえって,価値が実際. となる。しかるに,認識が可能でなくてはならないのは,. には実在と交錯せざるをえないということを露わにして しまうのである。結局,このようにして,リッカートの. 認識の欠如が生存を脅かすからである。例えば,世界と. 価値の体系の存立は,究極的な基準を欠いた(絡み合. この価値を承認しないことも可能であるかもしれない。. 関わる上で,実在性の認識は一つの価値である。確かに,.

(7) く絡み合い)における価値. 99. しかし,それはあらゆる認識を放棄することに他ならな. は不十分なものにとどまらざるをえない。しかし,吟味. い。というのも,実在性という価値にコミットして初め. が可能となるということは,価値がまったく基づけを欠. て,実在と非実在が区別されるようになり,この区別こ. いたものとも言えないということを意味している。実際,. そが他の認識の基礎となるからである。このように考え. 具体的な判断は多層的な決定の中で下されるのであり,. るならば,実在性を価値として承認しないわけにはいか. 決して,悉意的なものではない。そのような意味で,価. なくなる。むろん,何を実在と見なすかという実在性の 内実の点では議論の余地があるであろう。しかし,実在. 値は「吟味」によって,そして「吟味」が可能となる場 によって支えられてもいると言うことができる。その意. 性という「理念」そのもの,すなわち,実在と非実在と. 味では「正当化の不可能性」しか見ない「モダン批判」. を区別すべLという価値そのものを否定することは困難 である。このように,単なる「生存」にとどまらない. は一面的にしか事態を見ていないということになる。価 値は,実在や判断行為によって支えられており, (絡み. 「生」が可能となるためには,認識が可能でなくてはな. 合い)の場において固定されてもいるのである。. らず,そのためには価値が前提とされざるをえないので. 価値には矛盾した二重性がある。具体的な判断を導く ものとして,内実を備えていながら,同時に,理念性を. ある13。以上の立場から,中期思想を考察し直すとき, 新たな視野が切り開かれることになる。すなわち,中期. も備えてもいる。具体的な規定によって明らかにされる. 恩想への転回は,もはや価値を究極的に基づけることは. 内実は常に既に実在や判断(行為)と絡まり合ってしまっ. できないという一種のニヒリズムを招いてしまったが, 同じく中期思想がもたらしたく絡み合い)の場を具体的. てお.り,それゆえにやがてあらたな実在やあらたな判断 によって超克されてしまう可能性をもっている。しかし. に考察するとき,この問題が解消されることがわかる。. ながら,価値はその理念性ゆえに,このようにして得ら. 中期思想に従えば,価値,実在,判断は相互依存関係. れる内実に還元されえず,それどころか,具体的な判断. にあり, (絡み合い)の場を形成していた。例えば,私. に先行し,それを導くものでもある。まさに,この理念. たちは常に既に暗黙の内に価値を何らかの仕方で理解し. 性ゆえにこそ,個々の判断やその吟味,内実の検討,そ. てしまっている。そして,その理解に従って,個々の判. の検討といったことが可能となる。このような意味で,. 断を下し,実在のあり方を決定している。しかし,この. 実践の(絡み合い)そのものが価値の理念性を前提とし. 暗黙の内の価値の内実が顕在化するのは,実在のあり方. ているのである。したがって,実践から抽象された内実. から出発して,それがいかなる価値に基づいて判断が下. によって,価値を規定しつくすことができると考えるこ. されることによって可能となっているのかを考察するこ. とは価値の理念性を損なうことである。この二重性を捉. とによってである14。このように価値,実在,判断が相 互依存関係にあるとなると,いずれかが根源的な基礎と. え損なった点に「二つの道」の問題がある。中期恩想は 挫折することにおいて, 『第二版』においてはあいまい. なるというわけにはいかなくなる。例えば,価値の内実. なままにとどめおかれたこのような「理念性」と「内実」. を明らかにすることは,価値に基づいた具体的な判断や. との関係を顕在化させたと言える。. 実在のあり方を分析することによってのみ可能であり, 価値は判断や実在に依拠せざるをえない。その意味で,. 終章現代哲学の場. このようにして得られる価値の内実は経験的なものでし かありえないということになる。すると,価値によって. 第四章において見たように,中期思想において,リッ. 判断を正当化し,そして,判断によって実在を基礎づけ. カートは超越論的心理学の概念に「改釈」を加えていた。. るといった仕方で,価値によって一元的に基礎づけると. このことについて,リッカート自身,無自覚なわけでは. いう「中期思想」の目論見は破綻してしまう。しかしな. なかった。だからこそ,後期になると,価値の領域と存. がら,このことは価値そのものが否定されるということ. 在の領域の関係を主題的に問うようになり,両者の(絡. を意味してはいない。というのも,価値の内実や価値の. み合い)の考察を, 「超越論的心理学」という誤解をま. 適用の正当性の吟味が不可能となるわけではないからで. ねくような用語で呼ぶのではなく16, 「前自然学(Pro-. ある。実際,これら三者の循環的な(絡み合い)の場の 中で,これらの正当性を吟味することは可能である。例. physik)」あるいは「原自然学(Protophysik)」という 別の名称を用いるようになる170リッカートはこの語を. えば,実在のあり方を通して,暗黙の内の価値理解の内. 次のように規定している。 「万有は---経験的現実的対. 実を抽出し,それをそれまでの明示的な価値理解と比較. 象の総体としての感性的世界と合致しない。かといって,. 検討することによって,価値の概念を吟味していくこと. 妥当する非現実的価値の世界のみが想定されるわけでも. ができる15。. ない。そうではなく,これら以外にさらにもう一つの領. 確かに,このような吟味といえども,それが遂行され. 域[第三領域]が想定される。すなわち,この領域が分. るく絡み合い)の場を規定しっくることはできず,吟味. 離された二つの領域を再び結びっける。そして,この領.

(8) 100. 域は,価値づける主観の作用における現実的存在と非現. が切り開いたものであるとされてきた。しかし,フッサー. 実的妥当性との根源的相互関係(Ineinander)として. ルの同時代人としてのリッカ-トの眼差しにはフLyサー. 理解される。それゆえ,この領域は,現実的であるとか,. ルの思考が必ずしもこの領域を十分にとらえているとは. 妥当しているとか理解されることによって対象として思. 映らなかった。例えば,リッカートは「超越論的論理学. 惟されるものの背後にあるのではなく,それ「以前」に. に特殊な問題を取り扱うためには,超越論的論理学は,. ある。一一これに対応して,この世界に関する学に対し. その素材を,ただ思考作用の分析からのみ得ることがで. ては, 「形而上学(超自然学) (Metaphysik)」という 名称ではなく, 「前自然学」という名称がふさわしい」. であってはならない。というのも,存在についてのこの. (SP296)。さて,この領域においては価値と実在が相即. 純粋な学は,論理学にとって本質的な構成要素を非本質. 関係ではなく,相互関係の中に置かれる。すなわち,価. 的な構成要素から区別することのできる選択の原理を持っ. 値と実在のどちらかが優位を占めるわけでもなく,両者. ていないからである。思考の論理的な本質を確立するた. は一種の「遊動空間」の中に置かれることになる。その. めには, [論理的なものと心理的なものとを媒介しうる]. 意味で,もはや,価値の一元論は不可能である。 (絡み. 超越論的心理学的考察が不可欠である」 (ZW226)と述. 合い)の上に価値と「存在」を支えていかざるをえない。. べている。すなわち,現象学を心理学的記述として見な. このようなことをリッカートの思索の展開は証示してい. す限り,リッカートが主題化した「第三領域」の問題は. る。しかしながら,だからといって価値が否定されるわ. 十分に思惟されえないように見えたのである。この問題. けではない。確かに,前もっての正当化はもはや不可能. を思惟するためには,まず純粋心理学と純粋論理学を峻. であり,その意味での超越性はもはや持ちえない。そも. 別し,そして,その上で,両者を関係づけてゆかねばな. そも,それはリッカートが求めたものではもともとない。. らない。しかるに,リッカートの目にはフッサールの現. きる。この分析はしかし純粋心理学的に, 「現象学的に」. しかし,だからといって,ただちに価値の規範性まで喪. 象学はこの課題に答えているようにはうつらなかった。. 失されるというのは短絡的である。というのも,価値の. 「・.I-フッサールは興味深い仕方でこの[ボルツァーノ. 適用のルールを批判し,さらに価値のあり方を吟味して いくことは可能であり,その際,常に既に価値が前提と. による「文自体」の理論の]地盤の上をさらに進んだ。. されているからである。このような意味において,価値. 論理学といえども心理学との決定的な境界づけにはいま. は(絡み合い)の中で支えられている。そもそも,価値. だなお至っていないということである。彼の「現象学」. が無ければ,実在への接近すら不可能となる。この点で,. の概念はなお困難な問題を抱えている。そして,フッサー. 「懐疑論」や「近代批判」は不十分なのである。さしあ. ルが,超越論的心理学もまた心理学であると言うとき,. たりの価値に依拠して,実在への接近が図られ,この接 近において価値の有効性が計られ,実在が確証されるの. 現象学もまた超越論的心理学でしかなく,そのようなも のとして,何事かをなしえるとしたら,それは論理的価. である。. 値関係を介入させることによってのみであるとつけ加え. このようなく絡み合い)の領野が現代哲学の一つの中. しかし他方で,まさにフッサールが示したのは, 「純粋」. ることも許されるであろう」 (ZW227)。リッカートの. 心となっていく。例えば,デリダは「差延(differance)」. 側からは,現象学は彼と近い問題を考察していながらも,. という概念を用いて,意味,真理,理念性といった諸概. 価値と実在との区別とく絡み合い)とを十分にとらえて. 念は,自存的であることはできず,常に既に非現前的な. はいないように見えたわけである。このような印象は,. ものと絡み合ってしまっているということを示した。彼. 草稿に至るまで研究が進んでいる現在においてはともか. のこのような思考法の一つの源泉はフッサールの現象学. くも,ごく一部の著作のみが公刊されていたにすぎない. である。彼は『フッサールの哲学における発生の問題』,. 時代にあっては,やむを得ないものであろう。このよう. 『「幾何学の起源」序説』, 『声と現象』といった著作にお. な事情を考慮にいれるとき, (絡み合い)の問題は現象. いてフッサールの思想遍歴を詳細に追跡し,その中から,. 学のみの独占物というわけではないことがわかる。. デリダに独自な思考法を抽出している18。そこにおいて. 以上において見てきたように,リッカートの思索は価. は, 「絡み合い(Verflechtung, enchevetrement)」,. 値を基づけるという動機によって推進されて, 「第三領. 「錯綜(complication)」, 「含蓄的からみあい(implication)」といった概念がキーワードになっている。デリ. 域」という豊かな領野へと開かれていった。この領野こ そが,現代思想を可能ならしめる場をなしているのであ. ダが主題化したく絡み合い)の思索は現象学を通して形. るが,この領野は現象学のみに帰することのできないよ. 成されたと考えるのが妥当である。しかし,以上におい. うなものであり, 20世紀初頭の哲学の共通感覚に属する. て見てきたように,リッカートもまた同様の問題を主題. ものなのである。. 化していた19。 哲学史的記述によれば, (絡み合い)の問題は現象学.

(9) く絡み合い)における価値. 101. 論「ニヒリズムから価値哲学-」 141頁以下を参照。. 読 1 「ニヒリズムから価値哲学--<ポスト・モダン文. 10 「すでにミュンスターベルクは価値と当為とを峻別. 化>の哲学者としてのリッカート(1)-」, 『兵庫大学. するに至っていた。彼は『価値の哲学』によって当為. 研究紀要』第20巻第二分冊, 2000, 131頁以下。. の哲学を克服しようとした。ラスクもまた同様の区別. Heinrich Rickert, "Zwei Wege der Erkenntnistheorie" , in Kant-Studien, Bd.XIV.以下におい. を強調したが,同時に彼は価値の妥当性と規範との関. てこの論文を「二つの道」と呼ぶこととし,引用は. そして,脇に逸れることなく即日的に考察するのでは. ZWという略号と,貢数で指示することとする。. なく,同時に妥当に身を委ねるような主観性にまで逸. Heinrich Rickert , Der Gegenstand der. 係をも示している。すなわち, 「妥当の本質を純粋に,. 脱するとき,妥当は私たちにとって要求や規範となる」. Erkenntnis, Einfiihrung in die Transzendental-. と述べている。それゆえ,ここにおいてもまた当為の. philosophie, 2. Aufl‥以下において,この著作を 『第二版』と呼ぶこととし,引用はGE(2)という略号. 思想は価値「それ自体」と対比するようにして派生さ. と頁数で指示することとする。. 論にとっては対象の超越的な妥当性が問題のすべてで. 4この点については拙論「ニヒリズムから価値哲学へ」 を参照。 5例えば, 「私は,判断しようとするとき,私が同意. せられた,第二次的なものでしかない。そして,認識 あるから,認識論は,このような逸脱を避けねばなら ず,当為についてではなく,妥当する価値についての み語るべきである」 (ZW210)c 「純粋な学としての認. をよせる明証性の感情によって,同時に自分が拘束さ. 識論は,実在的存在者に適用される当為には関わらず,. れているのを感じる。すなわち,私は窓意的に肯定し. 超越的な意味の非実在的領域,そして,この非実在的. たり,否定したりすることができないのである」 (GE. 領域を構成する超越的に妥当する価値のみに関わる。. (2)112f.)と述べている。. すでにこのような理由から客観的な道は,ただ当為に. 6 「色は,知覚作用によってのみ,私に意識される。. のみ導くことになる主観的な道に対して優位を占める。. しかしながらだからと言って,私は色を知覚作用と同. ・--妥当する対象,価値,理論的意味も自由ではない。. 一視しないであろう。私が研究の対象とするのは白さ. 確かに,対象は,人間に対する単なる規範として出現. であって,作用は決して白くはない。これと同様に,. する。そして,あらゆるものは擬人的に脚色されて見. 私が真なる命題を理解するときにおいても,理解の作. える。しかし,妥当している価値はあらゆる人間的な. 用そのものは真ではない」 (ZW194)。 「思考作用は各々. ものをはるかに超越しており,それゆえ,あらゆる判. 人によってそれぞれ別々であり,心的存在としてもそ. 断や承認の作用もまた超越している」 (Heinrich. の度毎にそれぞれ異なっている。それにもかかわらず, 引力についての思想は,それを実際に考えている誰に. Rickert, Der Gegenstand der Erkenntnis, b. Aufl , 1928, S.276).. とっても,同一である。 ---ここにおいて,思考. 11とはいえ,これはアプリオリな価値をアポステリオ. (Gedanke)という語の二面性が明らかとなる。すな. リな経験から抽出することになり問題をはらんでいる. わち,一方では,真なる命題の自己同一的意味のこと. 12 「確かに,認識論は常に論理的価値内実を「純粋に」. であり,他方では,常に変容し,厳密には決してくり. 仕上げなくてはならない。しかし,そこ-と導いていっ. 返すことのない,理輝や思念の心的な作用のことであ る。」 (ZW196)c. た道において,認識論は認識の実在的な作用を無視す. 7 「認識論は真なる文から出発する。その際,思念や. 根づいているわけではない。無時間的に妥当するもの. 理解の心的な作用が現れても,認識論はこれらを非本. を単に心的な思考から区別するためには,すでにいっ. 質的なものと見なして,脇にどけておくことができる」. も実在的な思考作用に結びついているのでなくてはな. ることはできない。あらゆる思考形式が超越的価値に. (ZW197)。 「真なる思想,真なる文の意味は,思考作. らない。かといって,それだけで十分なわけではない。. 用から区別されるだけではなく,決して思考作用に依. そもそも無時間的に妥当するものは,時間的な心象に. 存してはいない」 (ZW199)c Heinrich Rickert, System der Philosophie, I. Teil, Allgemeine Grundlegung der Philosophie, 1921,以下,この著作からの引用箇所はSPという略. 号と頁数で指示することとする。 9リッカートは「現象」を支えるような「実在」を拒 否し,実在論にせよ, 「観念論」にせよ,近代的な 「基づけ主義」を批判している。この点については拙. 即してのみ見出されうるのである」 (ZW225)c 13拙論「ニヒリズムから価値哲学へ」第二章を参照。 14このような問題意識は-イデガーの「理解」と「解 釈」の関係に影響を及ぼしているかもしれない。また, -イデガーの存在理解の問題とも関係する。すなわち, 彼は暗黙の内にとどまる存在理解を解釈学的循環の中 で仕上げることで,現前性という存在理念を転換しよ うと試みた。.

(10) 102. 15 『自然科学的概念構成の限界』 (Heinrich Rickert, Die Grenzen der naturwissenschaftlichen Begriffs-. る」 (Heinrich Rickert. ``Die Methode der. bildung. Erne logische Einleitung in die hisoto-. Philosophie und das Unmittelbare', in LogosXII, S.253.)とも述べている。ここで事象(Zustand)とは. rischen Wissenschaften, 1896)の第四章において,. 「前対象(Vorgegenstand)」とも呼ばれ,対象. 価値が現実に通用すること,価値の普遍性が体系的に 基礎づけられることなど,価値の妥当性を決定する要. (Gegenstand)を成立せしめる形式と内容との分離に 先行するような「直接的なもの」のことである。この. 因について述べている。. ような「事象」の領域は価値の領域や「存在」の領域. 16なぜなら, 「超越論的心理学」と「超越論的論理学」 との対立は, 「作用」と「意味」との対立に対応する. に先行するという意味で「第三領域」と呼ばれている (vgl. SP254f. )c. ものであり, 「作用」と「意味」との絡み合う関係を 思惟することまで「超越論的心理学」と呼ぶとすれば,. dans la phuosophie de Husserl, 1990, Introduc-. それはいきすぎた意味の転用であるといわざるをえな. tion de Longme de la geometrie, 1962, La voix. い。. Jacques Derrida, Le problとme de la genese. et le phenom∂ne, 1967.. 17リッカートは「私たちが求めているのは,対象の. 19デリダ自身も『フッサールの哲学における発生の問. 「背後」に,それゆえ,感性的世界の背後に存し,追 感性的なものや形而上学的なものの内に存する何もの. 題』においてはフッサール現象学が伍胎した場として, 論理主義と心理主義の論争をとりあげ,リッカートら. かではないのであるから,私たちは,前対象的な事象. の思想に言及している。これらの思想こそが,フッサー. (vorgegenstandliche Zustande)を前・自然学的な. ル現象学を(絡み合い)の思索として解釈する際のコ. もの(Vor-Physisches)に属するとし,事象について の理論(Zustandslehre)を「前自然学」に属するとす. ンテクストとなっている。.

(11) く絡み合い)における価値. 103. Der Wert in der Verflechtung -Rickert als Philosoph der post-modernen KulturKey words : Rickert, moderne Philosophie, Verflechtung, Erkenntnis, Realit己t. Hideki MORI Nach der philosophie-geschichtlichen Darstellung gehort die Wertphilosophie von Heinrich Rickert zur neuzeitlichen, 《modernen》 Philosophie. Indem sie aber von jener nihilistischen Situation ausgeht, die die 《antimoderne) Kritik von Nietzsche thematisiert hat, versucht sie, diese Situation zu iiberwinden. In diesem Sinne ist es moglich, Rickert als 〈Philosopher! der post-modernen Kultur》 auszulegen. Durch das Korrigieren dieser philosophie-geschichtlichen Darstellung versucht diese Abhandlung, zur 《Geschichte der Philosophie des 20. Jahrhunderts》 beizutragen. Dabei lassen sich zwei Aufgaben stellen. Die erste Aufgabe, von der der erste Teil ( "Vom Nihilismus zur Wertphilosophie ) dieser Abhandlung handelt, ist, die Wertphilosophie vom friiheren Rickert als Uberwindung des Nihilismus aufzuhellen. Obwohl Rickert die kritischen Betrachtung von Nietzsche iiber den Wert akzeptiert, bleibt er nicht bei dem Nihihsmus, sondern versucht, den Wert durch die Wertphilosophie zu rehabihtieren. Seme Wertphilosophie zeigt, daロ der Wert als unentbehrliche Voraussetzung immer bereits. im ZirkelverhaItnis zwischen dem Urteilen und den Wirklichkeiten vorausgesetzt und dadurch unterstiitzt ist.. Das Nachdenken iiber diese Wertphilosophie verursacht aber eine Wende zu semem spateren Gedanke. Hier taucht das Problem der 《Verflechtung≫ zwischen dem Wert und der Praxis auf. Durch die Thematisierung dieses Problems mmmt Rickert an der Vorbereitung fur die Philosophie des 20. Jahrhunderts teil. Das zu. erklaren, ist die zweite Aufgabe, die der zweite Teil ( "Der Wert in der 《Verflechtung》 'つbehandelt. Erstens wird die Veranderung von seinem friiheren Gedanke zum spateren dargestellt. Diese Verkehrung laβt aber eine Aporie auftauchen, die im friiheren Gedanke vermeidet ist. Durch die Auseinandersetzung mit. dieser Schwierigkeit wird die 《Verflechtung》 zwischen dem Wert, der Wirklichkeit und dem Urteilen thematisiert. Genau diese Thematisierung dieser 《Verflechtung》 eroffnet den Horizont der gegenwartigen Philosophie..

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参照

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