日常」の修辞学
著者
小倉 悠輝
雑誌名
試論
巻
52
ページ
1-20
発行年
2017-10-30
URL
http://hdl.handle.net/10097/00121924
“
An Ordinary Evening in New Haven”における
「日常」の修辞学
小倉 悠輝
I
Wallace Stevens の Auroras of Autumn(1950)をはじめとする後期の詩集 には「普通」や「日常」を題材にした作品が散見される。これらの主題
は、社会動乱の時代であった1930 年代後半、すでにスティーヴンズの中
に胚胎していたものであり、大恐慌および第二次世界大戦という非日常の 危機に詩作を通して関わったことが詩人の現実認識に変化をもたらしたこ とは、批評家の間で意見が一致している。とくに実際の歴史と詩人との関
わりは、Alan Filreis や James Longenbach らの新歴史主義批評によって大部
分が明らかにされてきた。この流れを汲みつつも、近年ではLisel Olson や Siobhan Phillips が日常言語の哲学等を参照しながらスティーヴンズ作品に おける「日常」の詩学とでもいうべきものを考察している。二人の議論を 簡単に要約すると、スティーヴンズにとって「日常」とは退屈な繰り返し ではなく、日々更新され、必ず立ち戻るべき場所であり、日常の反復的な 行動様式や規則性の中にこそ期待や充足感が発見されうるというものであ る。1 従来のスティーヴンズ批評は、精神が外界にどのように結びついてい るかという認識論の領域に属する問題を、社会・政治的な現実を離れた次 元で、詩作によって探求した詩人としてスティーヴンズを論じることが多 かった。「日常」に焦点を当てた研究はこの傾向からの転向を促し、とく に後期の重要作品を読むさいに新たな視座を提供したといえる。 スティーヴンズ作品の中で「日常」を主題にした作品として論じられる ことが最も多いのはAuroras of Autumn 所収の“An Ordinary Evening in New
Haven”(以下“Ordinary Evening”)である。“Ordinary Evening”はタイト ルから推測されるような日常の何気ない夕景を描いた詩ではなく、実際に は都市及び自然描写、寓話や抽象的な格言が混在する難解な瞑想詩である。 ロンゲンバックはこの散漫な長詩は、社会・政治的な「日常の世界」に接 触することを回避した、スティーヴンズにとって「より簡単な仕事」に回 帰する試みであると批判している(294-95)。たしかに“Ordinary Evening” には明確な筋も、特定の主義・主張も認められず、一見「日常」とは無関 係なメタポエム的な格言が即興的に展開されるだけの詩にみえる。そうし た意味では、この詩は「日常」を描くことに「失敗」しているように見え るかもしれない。しかしオルソンが指摘するように、「日常」という主題 が表象困難なものである以上、“Ordinary Evening”の長く瞑想的なスタイ ルは不可欠な「失敗」なのであり(148)、むしろ同時代のモダニスト詩人 たちには成しえなかった修辞的な達成を示すものなのではないか。 ここで参考にしたいのが、スティーヴンズの後期作品に顕著な修辞に関 する議論である。オルソンたちが指摘したスティーヴンズ作品における抽 象化された「日常」の反復的な性質は、詩においては同格や並列といった
反復の形をとる。同時代のアメリカ詩人 ―― William Carlos Williams や、
その影響を受けた「事物主義」(“Objectivist”)の Louis Zukofsky や George
Oppen 等の詩人たち ―― が「日常」の事物を描くのにアメリカの土着的 な口語を散文的に用いたり、イマジズムを理想とした短く凝縮された詩行 を用いたりしたのに対し、スティーヴンズはともすれば冗長になりがちな
同格や並列を多用していた。2 これらの修辞法についてはFrank Dogget や
Helen Vendler によってかなり早い段階から考察されているが、最近では同
格を導く“as”の様々な用法に着目した Charles Alitieri の研究が、スティー
ヴンズの詩が文法規則の真価を読者と共有可能なものにしていることを、 斬新な方法で説明している(Wallace Stevens 131-32)。3 これらの先行研究が 明らかにしているのは、①同時代のモダニスト詩人たちと違ってスティー ヴンズの詩がいたずらに構文を破綻させたりせずに、あくまで統語的な規 則を前提に書かれているという点、②そしてその規則性を並列によってあ えて見えづらくすることで、逆説的に文法規則の潜在的な力を前景化させ ることに成功しているという点である。付け加えるならば、スティーヴン ズは「日常」を題材にした作品を書くことを通して、詩という言語表現の、 とくに修辞面の可能性を検証し、拡張していたという点で特異なモダニス ト詩人だったのである。
しかし、これらの形式主義的な先行研究は、あくまで作品内部の修辞的 機能のみに注目したものが多く、スティーヴンズの「日常」に関する詩群 の内実を、的確に指摘しているとは言いがたい。特に、“Ordinary Evening” が「日常」の探求を表向きの主題に据えながら、実は詩の可能性を検証し、 詩作過程を開示するメタポエムであったことはほとんど言及されていな い。注目すべきは、この詩において、スティーヴンズが詩についての「理論」 を展開する際に、詩の中で前述の修辞を用いて行為遂行的に理論の「実践」 を行っていた、という点である。Langdon Hammer の言葉を借りるならば、 スティーヴンズの詩は、「理論であると同時に、それが理論化するものの 実例」である(103)。より具体的にいえば、スティーヴンズのメタポエムは、 詩についての理論を提示し、同時にその内容を修辞という「行為」によっ て体現させ、効力を検証するものだということだ。4 言語行為が発話状況を 否応なく喚起させるように、“Ordinary Evening”は、メタポエム的「理論」 の開示が行われる状況や条件として「日常」が存在している点に読者の注 意を促し、思考させる作品なのである。そしてこのメタポエムの自己言及 性は、翻って、第二次世界大戦後の荒廃した「日常」において、詩の言葉 によってどのように現実を作りなおしていくかという切実な問題に、詩人 と読者の目を向けていくことになる。以下ではまず“Ordinary Evening”に 先行する“Of Modern Poetry”の分析を行うことで、スティーヴンズ流メタ ポエムの特徴を確認する。この作業を踏まえて“Ordinary Evening”をメタ ポエムとして精読することで、作品に複雑な形で内包された「日常」の叙 情性を、スティーヴンズが行為遂行的なレトリックによっていかに構築し ていたのかを考察するのが本稿の目的である。
II
スティーヴンズ作品における話者は、基本的には抒情詩の独我論的な性 質を体現するものとみなされることが多かった。Gerald Bruns はスティー ヴンズの詩が何かを「見る」ことに関する「観客の詩」(“poetry of specta-tor”)であるとしながらも、その話者が他者との対話を前提としないもので あると批判している(26)。また Marjorie Perloff もスティーヴンズ作品にお ける話者が、ロマン派的な“I”を引き継いだものであり、その声は日常的 な他者の声を抑圧し、「詩人自身に宛てられた」独白であると指摘する(21)。これらの指摘はおおむね妥当である。しかしヴェンドラーが指摘するよ うにスティーヴンズ作品では一人称の話者“I”が使われることは滅多にな く(“Speaker” 133)、読者を一方的に無視した独白の形をとることもない。 むしろ自己言及的なメタポエムという一人芝居の中で詩作過程を開示し、 間接的に読者との対話を試みている。スティーヴンズのメタポエムを読む 過程で読者が接触することになるのは、詩を不断に更新し続けようとする 詩人の詩作意識である。そのような創作欲ともいえる詩人の意識は、話者 の「欲望」の形を取って作品内に投影されている。読者は詩のレトリック を通してその「欲望」を共有し、詩作過程に参加することになる。 およそこういったスティーヴンズ流メタポエムの特徴をほとんど兼ね備 えた作品が、“Of Modern Poetry”(1940)である。抒情詩を書くことについ ての詩人のマニフェストともいえるこの作品では、舞台の比喩を用いて、 現代詩が取り組むべき題材について考察している。5
The poem of the mind in the act of finding What will suffice. It has not always had To find: the scene was set; it repeated what Was in the script.
Then the theatre was changed To something else. Its past was a souvenir. It has to be living, to learn the speech of the place. It has to face the men of the time and to meet The women of the time. It has to think about war And it has to find what will suffice. It has To construct a new stage. (1-11)
“Of Modern Poetry”で描かれているのは、引用部冒頭の“The poem of the
mind in the act of finding/ What will suffice”が、自らが欲する主題を見出す までの過程である。引用部によると、その「詩」はかつて、すでに用意さ れた「場面」や「台本」のもとに繰り返し演じられ、題材を「発見する必 要のない」ものであった。現代において「詩」の「劇場」は変容し、それ は「場所」や「時代」、そこに属する「男」や「女」に即応する題材でな ければならないという。そして「戦争」のような、現実に起こっている具 体的な題材について考えなければならない。“has to”という助動詞の繰り
返しで、列挙されていくこれらの題材は容易に想定できるものであり、ま だ「詩」を満足させるには至らない。よって「詩」は、「新しい舞台を建 てなければならない」のだ。
必要なのはより熟慮された、精神や感情、あるいは欲望に訴えかける言 葉である。「詩」の探究は役者の一人芝居に仮託されて、以下のように続く。
It has to be on that stage And, like an insatiable actor, slowly and
With meditation, speak words that in the ear, In the delicatest ear of the mind, repeat, Exactly, that which it wants to hear, at the sound Of which, an invisible audience listens, Not to play, but to itself, expressed In an emotion as of two people, as of two Emotions becoming one. (11-19)
「飽くことのない役者」は、自らの「いとも繊細な精神の耳の中」に、「そ の耳が欲している」言葉を繰り返し、「見えない観客」は、「劇」ではな く、その「音」それ自体に聞き入っている。両者の態度は、一見独我論的 な自己満足のようである。しかしまるで他人の耳に話しているかのように、 「ゆっくりと熟慮して」、「正確に」言葉を繰り返そうと詩人は努めている。 役者は自らの演技と方法論に意識的であり、言葉を話す自分自身と、言葉 を聞く「精神の耳」という他者を両方自分の中に認めているのである。そ うすることで、まるで「二人の人間が一つの感情」、「二つの感情が一つに」 なったように、「観客」にはその「音」が聞こえてくるのだ。Mutlu Konuk
Blasing は、この役者は「私自身」(“my self”)という他者を自らの発する 言葉のうちに認めており、自らに向けた言葉、音の中に他性を感じ取って いると指摘しているが(142)、まさに引用部最後の“as of”による二つの 比喩は、そのような状態を的確に表しているといえるだろう。「観客」が「劇」 や演技の内容ではなく、詩人の極めた言葉の「音」に聞き入ってしまうの も無理はない。引用部はこの「音」が観客の耳に入ってくる過程を、ま るで読者の「いとも繊細な精神の耳」に語りかけるように、“ear . . . ear”、
“emotion . . . Emotion”、“as of two . . . as of two”と、ゆっくりと丁寧に言葉 を繰り返すことで表現している。この反復的なレトリックに、読者の欲望 を満足させる配慮が隠されていると考えても見当違いではないだろう。
では、最終的に「詩」を満足させるのはどのような題材なのだろうか。 それは、作品末部に列挙された以下の日常的な題材である。
It must Be the finding of a satisfaction, and may Be of a man skating, a woman dancing, a woman Combing. The poem of the act of the mind. (25-28)
並列された動作の主体は、どれも分詞を伴い、反復的な行為の最中にある (“a man skating, a woman dancing, a woman/ Combing.”)。こられは“has to”
や“must”という助動詞によって見つけ出す必要のあった先行する主題群 とは異なり、“may”という助動詞によって推量される偶然的な主題であ る。言い方を変えれば、戦争や時代という具体的な主題の検証を正確に行 うことで、偶然的な「日常」を推量する条件が整う、ということなのだろ う。必然から偶然に至る過程が、主題のみならず、レトリックのレベルで も判別できるように周到に仕組まれているのである。さらに、冒頭の「詩」 が引用部最終行において反復・変奏されている点にも注目したい。上記の 日常的主題と同様に冒頭で「充足してくれるものを探している」(“finding
/ What will suffice”)行為の最中だった「詩」が、「精神の行為の詩」(“the poem of the act of the mind”)になっている。動詞や分詞を伴わずに、「詩」 は主題を探す行為を止めているのだ。「精神の行為」とは、詩の中で繰り 返し描写されてきた、「詩」が主題を探す行為そのものに他ならない。な らば、ここまで分析した「詩」が題材を見出し変容する「精神の行為」の 過程そのものを、反復的なレトリックを通して、読者に行為遂行的に見せ ることこそが“Of Modern Poetry”の真の主題だといえよう。そして、メタ ポエムという一人芝居に「観客」として参加することによって、読者はス ティーヴンズの詩作意識を覗き、日常的な主題を見出すための条件を確認 することができるのだ。 戦争によって政治や宗教の意味合いが変わってきたこの時代に、共有で きる「日常」をただ詩に並列して見せるだけでは足りない。詩人と読者と の共通理解である文法の力を前景化したレトリックを通して、読者が日常 的題材を見出す詩作過程を体験できるようなメタポエムを作ること。そ れこそがスティーヴンズにとって、現代詩を発展させる方法だった。“Of Modern Poetry”では、メタポエムの主題がまだ題材探しの段階にとどまっ
ているが、その発展形ともいえる“Ordinary Evening”ではニュー・ヘイヴ ンという実際の土地を舞台に、詩論がより「日常」という現実に即した形 で展開されていくことを次節で考察する。
III
まず、“Ordinary Evening”が「日常」の成立要件をメタポエムの形で探 究した詩である以上、詩人が置かれていた歴史的な状況を確認しておく必 要があるだろう。“Ordinary Evening”は、まだ第二次世界大戦の余波が残 る1949 年に発表された作品である。世界がアメリカの資本主義とソ連の 共産主義に二分されていたこの時代、戦争によって甚大な被害を被った ヨーロッパ諸国が、両陣営の覇権争いに巻き込まれていたことはよく知ら れている。表向きはヨーロッパの復興援助を目的としたマーシャル・プラ ンをはじめとする一連のアメリカの政策は、実際のところヨーロッパ諸国 に共産主義の影響が拡大するのを阻止するための「封じ込め」(“ contain-ment”)政策の一環であった。そしてこの「封じ込め」は、国民の支持を得 るために、政治家によってしばしば「復興」(“reconstruction”)を標榜した レトリックと混同して語られたのである。Alan Filreis の文献調査が示すよ うに、スティーヴンズはフランスの友人Barbara Church から送られた手紙 や写真を通してヨーロッパの窮状を知り、同情を示してはいたものの、ア メリカの復興政策については、単純な慈善活動とはみなしておらず、懐疑 的だった(220)。詩と政治の関係にはほとんど無関心の態度をとっていた スティーヴンズではあったが、戦争によるヨーロッパの破壊をアメリカと いう外部から目の当たりにして、詭弁的な政治のレトリックではなく、「詩」 のレトリックによっていかに「日常」の世界を作り直し、存続させるかと いう問題を“Ordinary Evening”で検証したのである。6 さて、この問題に対して、批評家たちは、第二次世界大戦後に発表され た“Ordinary Evening”が「平和の詩」であると論じている。戦争の「黙 示録的」(“apocalyptic”)な恐怖から逃れるために、「開花前」(黙示前を暗 示している)を意味するユーカリを名に冠した“Professor Eucalyptus”や、 戦後の予言者として「ソロモン王」“Eccleasiast”等の賢者を登場させるこ とで、詩が「終わり」を回避する“anti-apocalyptic”な詩になっていると 主張しているのだ(Berger 265, Cook 299)。しかし、興味深いのは、このような人物形象が複数登場するにもかかわらず、“Ordinary Evening”には 特権的な話者が、とくに一人称単数の「私」(“I”)を使う話者が、一人も いない点である。代わりに読者は、全篇に亘って出現する数種類の「眼」 (“eye”)を通して、詩に表象される現実を観察することになる。7 いうなれ ば、スティーヴンズは、詩による現実の再生を、抒情的主体にではなく、 読者に託したのである。以上の文脈を念頭に置きつつ、詩の分析に移りた い。 最初に詩の設定を確認する。“Ordinary Evening”の冒頭部は以下のように、 不思議な「眼」の性質を示唆するところから始まる。 The eye’s plain version is a thing apart,
The vulgate of experience. Of this, A few words, an and yet, and yet, and yet— As part of the never-ending meditation, Part of the question that is a giant himself: (1-5)
一行目の“eye’s plain version”とは、虚飾のない現実を歪めずに直視する
ための「眼」を表しているのだろうか。その推測は、すぐに次行の“The vulgate of experience”という表現によって否定される。「日常語」や「口 語」を意味する“vulgate”とは本来、聖ヒエロニムスによってギリシア語 から明快なラテン語に翻訳された普及版の『ウルガタ聖書』を指す語であ る。これを踏まえれば、まず、“vulgate”が共有可能な性質を持つという 点で、「眼」は“ plain”ではある。しかし、“vulgate”が「経験」(“experi-ence”)を訳されたものとして、つまり、翻訳による変化を受けた二次的な
ものとして示しているのならば、“eye’s plain version”とは、ありのままの
現実を認識する「眼」ではない。むしろ認識による変化を受けた現実を「訳」
(“version”)として提示する「眼」を表していると考えたほうが良いかもし
れない。8 冒頭部は、二重化された知覚の様態を導入することで、この詩で
表象される「日常」を現実の単純な再現模倣として見ないよう、読者に注
意を促しているのではないか。また、三行目の“an”という冠詞(題名の
“Ordinary Evening”を修飾しているのかもしれない)のあとに、“and yet,
and yet, and yet—”と接続詞が続くことも、現実が常に条件付きで、暫定的 にしか表象され得ないことを強調していると考えられる。この第一篇は、
meditation”)の一部であり、未解決の「問い」(“question”)に向き合う経 験であることを予告しているのだ。
“Ordinary Evening”では以下、匿名の認識主体であるこの「眼」が、荒
廃した外界の様子(“These houses, these difficult objects, dilapidate / Appear-ances of what appearAppear-ances,” 7-8)に直面して、直接的な意味や情報の伝達で はなく、言葉や詩句によって(“Words, lines, not meanings, not communica-tions,” 9)、現実が構築されていく様子を認めていくことになる。この舞台 設定はもちろん当時スティーヴンズが置かれていた歴史的状況を反映して いる。詩人は、第二次世界大戦の被害が少なかったはずのアメリカ、ニュー・ ヘイヴンの「日常」に、荒廃したヨーロッパの現実を重ね合わせて見てい ると考えられる。冒頭でヨーロッパ文化の根幹を成すキリスト教の布教に 寄与した“vulgate”が、「日常語」を表す語として採用されていたことも、 アメリカという新しい舞台で、ヨーロッパの再生を試みる詩人の思考実験 の一環として表れているのだろう。またGeorge Lensing が指摘するように、 スティーヴンズが生涯訪れることのなかったヨーロッパという外部の地へ の憧憬は、逆説的に、彼に自国アメリカの土地についての詩を書かせる遠 因にもなっていた(18)。つまり、この詩において、「見えている」ニュー・ ヘイヴンの現実は、「見えない」ヨーロッパの現実という否定性を媒介に 成り立っているのだ。 では次に、この不在や不足という否定的要素が、詩のシステムの一部を 担う重要な役割を果たしていることを確認したい。この詩では、並列によっ て列挙された現実の否定的要素を「見る」行為が、「欲望」に結びついて いる(“The point of vision and desire are the same” 37)。以下は「視覚」と「欲
望」を問題にした第3 篇の末部である。
Possess. It is desire, set deep in the eye, Behind all actual seeing, in the actual scene, In the street, in a room, on a carpet or a wall, Always in emptiness that would be filled, In denial that cannot contain its blood, A porcelain, as yet in the bats thereof. (49-54)
眼や現実に埋め込まれた「欲望」は、否定的な要素に反応する。「磁器」
る必要があるように、現実は満たされるべき不足を常に含んでいる。「欲望」 を埋め込まれた眼が、並列された事物を移って行く動きに平行して、その 認識対象に埋め込まれた、「欲望」を喚起する要素が顕在化してくる。「否定」 (“denial”)という抽象名詞が唐突に出てくるのは、現実に内包された不足 感を顕在化するためであろう。また「通り」から「部屋」を経て「カーペッ トや壁」という、外部から内部へと向かう眼の運動は、ヴェンドラーが指 摘するような「縮小」や「欠乏」へと向かう「ミニマリスト」的な感情の 動きに一致している(Desire 37)。9 引用部は、一見ただ列挙されているか に見える名詞が否定性を内包していることを、並列という修辞を通して読 者に見せて、それに気づくことで読者の「欲望」が満たされる、という仕 組みになっているのだ。 ここまでの各篇はいわば、様々に移り変わる現実を見る心積りをするた めの状況設定である。以下に引用した有名な第12 篇では、刻々と変化す る状況に詩や詩人がどのように対応すべきかを示したメタポエム的「理論」 の開示とその「実践」がいよいよ行われる。
The poem is the cry of its occasion, Part of the res itself and not about it. The poet speaks the poem as it is, Not as it was: part of the reverberation
Of a windy night as it is, when the marble statues Are like newspapers blown by the wind. He speaks By sight and insight as they are. There is no Tomorrow for him. The wind will have passed by,
The statues will have gone back to be things about. (199-207)
第一連で唐突に述べられる“The poem is the cry of its occasion”や“The
poet speaks the poem as it is”といった格言を大まかに要約するならば、「詩」 は表象に先立って存在する出来事としての「叫び」であり、「詩人」はそ れを事後的にではなく、現在の事象として話すよう努める、ということに なるだろう。第二連のコロン以下は、そのような「叫び」が出来する「状況」
の実例と、「詩人」がその状況をいかに語るのかという実演部となっている。
night”の力と、次々と変化する状況に対応する詩の力である。まず第二連 では、重く固定化された「彫像」が、比喩によって簡単に風に吹かれる「新 聞紙」に変化している。過去や権威の象徴である「彫像」が、現在の事象 を表す日常的な媒体である「新聞紙」になっている点も示唆的である。
詩はこのような「彫像」の流動性を、第三連の現在形から未来完了形に
移る時制の変化に引き継いでいる。“There is no / Tomorrow for him”とい
う一文がこの変化の理由を縮約して述べていることをまず確認したい。こ の“him”とはおそらく「詩人」を指していると考えられる。なぜなら第 一連の格言によれば、詩人は状況を「ありのまま」(“as it is”)に、現在形 で語るからだ。Roger Gilbert が指摘するように、もし詩を現在形の出来事 として語ることが詩人の使命ならば、詩人は、現在という発話状況にいる 限り、その状況が過ぎたあとの、固定的な未来の出来事を想定して話して いないはずである(95)。しかし、風が吹くという出来事が起きてしまえ ば(時が過ぎてしまえば)、未来では、「彫像」が過去の時点についての事
象に、参照可能な過去の象徴に舞い戻ることになり(“The statue will have
gone back to be things about”)、現在という状況の一部ではなくなってしまう。 結局のところ、詩人は「ありのまま」現在形で現実を語ることはできない、 という逆説が「彫像」の変化によって示されているではないか。それはま た、言語表現の不確実性を知ってはじめて、捉えどころのない現実に近づ くことが可能だということも同時に暗示している。 以上の分析を踏まえれば、詩人が同時に話す“sight”と“insight”の意 味が分かってくる。“sight”は「彫像」が変化する状況の描写に見出せる。 一方“insight”は、一般的に状況を把握し理解する能力だと考えられる。 また“insight”は、第一連の格言を「彫像」の変化に関する「状況」を語 る過程で遂行することで得られる上述の逆説 ―― 現実は「ありのまま」 表象できない ―― という「見識」を、指していると考えることもできる だろう。「詩人」は自らの詩作理論をまず開示し、その理論の実例を言葉 の“sight”として見せながら、レトリックによって“insight”を導き出せ るようにするという作業を同時に行ってみせているのだ。以上のように、 理論であると同時にその理論の実例でもある、スティーヴンズ流メタポエ ムの面目躍如ともいえるのがこの第12 篇なのである。 “Ordinary Evening”の構造を一旦まとめると次のようになる。①現実は 暫定的に提示され完結しない。②現実は否定性に裏打ちされており、「欲 望」を喚起する。③詩は現在形の出来事であり、詩人はその状況をありの
まま表象しようと努め、失敗する、という三点が挙げられる。このように、 ニュー・ヘイヴンという場所の状況を、表象するための条件を見定めるこ とができれば、詩の中心部へと議論を進めることができる。とはいえ、こ れらの「理論」の提示と「実践」は、結局のところ詩を命題として定義・ 定式化する、詩人による一方的なパフォーマンスとして自己完結してしま う恐れもある。しかし、次に分析する詩のクライマックスでは、スティー ヴンズが、詩を一義的に定義することすらも、回避しようとしていたこと がメタポエムの形で確認することができるだろう。 これまで分析した修辞的特徴や、「欲望」を喚起させる詩のシステムを 踏まえれば、スティーヴンズの詩句の中でおそらく最も引用率が高い「詩 の理論は生の理論である」(“the theory / of poetry is theory of life”)という一 節の行為遂行的な性質を読み取ることができる。この詩句が含まれている
第28 篇は、第一、第三最終連に効果的に並列が使用されており、この布
置の中で読むことでのみ格言として機能する。 If it should be true that reality exists
In the mind: the tin plate, the loaf of bread on it, The long-bladed knife, the little to drink and her Misericordia, it follows that
Real and unreal are two in one: New Haven Before and after one arrives or, say, Bergamo on a postcard, Rome after dark, Sweden described, Salzburg with shaded eyes Or Paris in conversation at a café.
This endlessly elaborating poem Displays the theory of poetry, As the life of poetry. A more severe, More harassing master would extemporize Subtler, more urgent proof that the theory Of poetry is the theory of life,
As it is, in the intricate evasions of as,
In things seen and unseen, created from nothingness,
The heavens, the hells, the worlds, the longed-for lands. (487-504)
詩行の細部を具体的に分析する前に検討したいのが、引用部で三度出てく る「理論」(“theory”)という言葉である。批評家たちは、第五連の「証明」 (“proof”)の対象となるような「理論」を想定することが多い。しかし、 第四連に出てくる「理論」が「見せる」(“display”)という動詞にともなわ れている点に注目したい。OED によると“theory”は先述のウルガタ聖書 の『エゼキエル書』を初出とする後期ラテン語源または、ギリシア語源で 「見ること」(“looking at”)や「熟考」(“contemplate”)等を意味する。また 第12 篇でも、「詩人」は“sight”と“insight”を同時に話し、メタポエム 的「理論」の提示と実践を同時に行っていた。これらに従い、「見て」「考 える」行為の総体が「理論」なのだとすると、読者は、まさに“This
end-lessly elaborating poem”であるこの詩篇の並列を凝視するよう要請されてい るのだ。 引用部の並列を正確に読み解くために、ここで“Ordinary Evening”執筆 時にスティーヴンズが置かれていた状況を少しだけ確認しておく。フィル レイスが明らかにしているように、第一連、第三連に描かれている日常の 事物は、スティーヴンズがヨーロッパ旅行中の友人、Barbara Church からも らった手紙とポストカードの描写を基にしている。特に第三連の異国描写 は、チャーチの体験をほぼ正確に再現している(224-5)。前述のとおりス ティーヴンズは、ヨーロッパの窮状に同情する一方で、ポストカードに描 かれるような、破壊される前のヨーロッパに憧憬の念を抱いていた。第28 篇には幾分この詩人の「欲望」が読者に共有できるレベルで投影されてい るといえる。以上の事実を留意しつつ、第一連、第三連、最終連の並列を 段階的に「見て」「考えて」いきたい。 まず、条件節で始まる第一連に並列されているのは少量のパンや酒、食 器などの日常における必需品といった類の事物だ。第二連で多音節と句跨 りによって“Misericordia”という情緒が強調されているのは、これらの必 需品が、第二次世界大戦後に、ヨーロッパで不足していた事情に関係して いると思われる。現実における必需品の不足は、富裕層であったチャーチ、 あるいはスティーヴンズにとっては「慈悲」や「同情」のような「欲望」 を抱かせるものだったと推測できるからだ。よって最初の並列は、実際に
見ることのできる現実の状況を表していると考えられる。もし第一連の状 況を「精神」(“the mind”)の中に正しく思い描くことができたならば、帰 結節が導く第二、第三連の描写に進むことができる。 次に、第三連の並列では「異国」という非日常が日常に持ち込まれる様 子が描かれている。「ベルガモ」や「スウェーデン」などの異国は、「ポス トカード」や「絵」という表現媒体によって、アメリカの日常に移送され ている。また「日没後のローマ」の情景、カフェでの会話の話題になるよ うな「パリ」、ポストカードの中の「ベルガモ」は、ある程度理想化され た形で描かれていることが予想されるだろう。引用部の異国描写は、戦争 によって破壊された当時の西欧諸国の状況を正しく表しているとはいえな いかもしれない。しかし、それらヨーロッパは、「精神」の中では、再生 された形で思い描くことができる。いまはもうないはずの「異国」という 非現実は、ニュー・ヘイヴンの現実の中で再構築されているのだ。このよ
うにして、“Real and unreal are two in one”という状態が生まれるのだろう。
そして、第一連と第三連の並列に描かれた不足や不在といった否定性を 媒介に、最終連では、「無」(“nothingness”)から出来した、「未知」の様相 が描かれている。最終行には、「天国」や「地獄」そして「待ち望んだ島々」 という現実には存在せず、知覚もできない非現実が列挙されている。この ような世界は未到来の可能性のまま提示されており、到来の「期待」とい う「欲望」を喚起するものであるといえるだろう。このように、各篇の並 列には、「欲望」につながる否定性が内包されていることがひとまず確認 できるだろう。そして、それらを段階的に読み解くことで、「見えるもの
と見えないもの」(“things seen and unseen”)、すなわち現実と非現実の移り
変わりを概観することができるように、言葉が配置されているのである。 ただし、以上の過程を明らかにすることで、「理論」の「証明」が行わ れると考えるのは早計であるといえよう。なぜなら全篇を通して、詩が未 完了性への志向を示している事実を踏まえなければ、第28 篇を読み違え てしまうことになるからだ。ここで注目したいのは、引用部の最終行の名 詞がすべて複数形であるという点だ。それらを導くのは最終連の“as”の 用法に他ならない。句跨りとコンマで区切られているために、最初の“as” が直近の“life”に係って“life as it is”となるのか、“theory”に係るのか 判別しづらい。また一見“of”の目的語として名詞的に使われている二つ 目の“as”も後続の語を連鎖的に伴う働きをしているようにも解釈できる。 おそらくどの解釈も可能であり、文字通り“as”は文法の統制的な範囲内
での「逸れ」(“evasion”)を行うことによって、一義的な世界を提示するの ではなく、複数の解釈を可能にしている。統語の複数性が名詞の形に反映 されているのだ。したがって統語的に未確定な位置に置かれた「詩の理論 は生の理論である」という詩句は、個別の格言として機能するのではない。 並列が移行する過程に、文が完結しない形のまま格言が挿入されることで、 繋辞による意味の断定が回避され、「理論」をどう解釈するかという「証明」 までもが先延ばしにされているのである。 言葉を自在に操る「達人」(“ master”)であったならば、「巧緻」(“Sub-tler”)で「緊急」(“urgent”)の「理論」の「証明」を、「即興でやってのけ る」(“extemporize”)のかもしれない。だがこれはあくまで仮定の話であり、 読者は解釈を急ぐ必要はない。「詩の理論」が何かを説明することよりも重 きが置かれているのは、このメタポエム的格言に含まれた「理論」が生成 される条件や過程をレトリックに忠実に、じっくりと描き出して確認する 読者の「行為」である。ニュー・ヘイヴンの「日常」は、そこにないヨー ロッパに裏打ちされて存在している。自分が生きている身近な場所の「日常」 は、遠い「異国」を介して、その新たな側面を見いだされるのだ。そのこ とを正しく想像できたのならば、最終連で列挙された未だ見ぬ世界を、言 葉によって作っていくことができる。重要なのは、詩のレトリックが具体 化しているように、それらを一義的な意味や情報に還元することではなく、 未定性という可能性の中に複数形でとどめておくことだ。そうすることで 詩の世界は、多極的な解釈を誘発する力を有したまま閉じられることなく、 戦争や政治の支配的な言説に囚われずに、生きるための「理論」を読者に 見せることができるのかもしれない。 そもそも、“Ordinary Evening”は、季節の移り変わりを色で刻印する葉
が散在する秋の(“In the area between is and was are leaves, / Leaves burnished in autumnal burnished trees” 209-10)、日没から夜へと移行する狭間の夕方に 時間設定された詩である。詩は刻々と変化するこの時間の中にとどまった まま、終着点に向かわずに幕引きを行うことを最後に確認したい。以下の
最終第31 篇では、定義や完結に至らない詩の未定性が最後まで引き継がれ
て、「日常」を描き出す「力」になっている。 Flickings from finikin to fine finikin
And the general fidget from busts of Constantine To photographs of the late president, Mr. Blank,
These are the edgings and inchings of final form, The swarming activities of the formulae Of statement, directly and indirectly getting at, Like an evening evoking the spectrum of violet, A philosopher practicing scales on his piano, A woman writing a note and tearing it up. It is not in the premise that reality Is a solid. It may be a shade that traverses A dust, a force that traverses a shade. (547-558)
詩の「力」は、並列された名詞の運動とその連鎖に表れている。「コンス タンティヌス帝の胸像」から、「現大統領の写真」まで、過去から現在に
至る権力者の推移は、“fidget”という落ち着かない動きの一部になってい
る。おそらく集団の力を集めていたであろうこれらの形象の動きは、じり じりと動く“final form”の“the edgings and the inchings”や、“formulae of / statement”が蝟集する“the swarming activities”として、一般化された「形 式」や「定式」の動きに変容している。そしてこれらの式が変化する日常 の事象に適用可能になり、夕暮れによる「紫のスペクトル」の喚起、ピア ノで音階を練習している「哲学者」や覚書を書いては破っている「女性」 の日常的な動作に繋がっていくのだ。“Of Modern Poetry”の末部と同様に、 これらの匿名の人物たちは、分詞“ing”を伴う反復的な動作の途中にあり、 運動を止めずに、また次の動きに移っていくと考えられる。
そ し て、 一 連 の 運 動 は ま さ に、“It is not in the premise that reality / Is a solid”という最終連の詩行を体現しているといえるだろう。Charles Berger
が指摘するように、この文頭の“it”が“the edgings and inchings of final
form”を指していると考えるならば(265)、“Ordinary Evening”の closure
という“final form”もやはり運動の一部に巻き込まれており、“solid”な
命題の形で終わることはない。その証左として、最終文は交差配列的な表 現になっている(“It may be a shade that traverses /A dust, a force that traverses a shade.”)。「影」が「埃」に交差し、「埃」が「力」に交差するように、あ る事象はほかの事象に重なり合い、交差的に存続していく。この終わりの
ない運動によって詩は閉じられる。10 まさに、冒頭で“Ordinary Evening”
詩の「力」が完結せずに続いていくことが、最終篇に暗示されているので ある。 このような反復的なレトリックの中にこそ、新しい「日常」の姿を見出 す契機が潜んでいることを、読者は“Ordinary Evening”を読むことを通し て既に知っている。「日常」とは一見無関係に見えるメタポエム的探求は、 それが絶えざる更新を必要とする以上、詩や「日常」の未定的な性質を考 えるのに必要な方法論を提示していたといえるだろう。「日常」が完結し た形で語りえないことを自覚していたからこそ、スティーヴンズは自らの 詩を不断に修正し作り直す行為を、メタポエムに体現させる形で読者に示 す必要があったのだ。だからといってもちろん、詩が実際に現実を再生す る力を持つわけではない。しかし、政治が曖昧な虚偽の言説で現実の再生 を謳う時代に、自らが依って立つ「日常」という足場を読者が再考し続け るためのレトリックを、詩は提供してくれるのである。
V
“Ordinary Evening”においてスティーヴンズは、反復的な「日常」の抒 情性をメタポエムの形で吟味することによって、自らの創作原理を問い直 し、その過程に読者を参加させることを可能にした。同格や並列といった 修辞法は、単なる冗長なスタイルではなく、安易な断定や定義を避け、詩 を未定的な可能性の中に置くための方策だったのだ。詩人のレトリックへ の信頼は、詩の言葉が現実を作り、再考するための手掛かりを与えてくれ るのだという、確固たる自信の表れである。この一見楽観的な詩人の言語 観には、メタポエムに体現されるように、自らの方法論に対する鋭い省察 が含まれており、同時代のモダニスト詩人と彼を隔てるものになっている。 そのような詩人の自己言及的な探究をわれわれ読者が共有したとき、「日 常」の叙情性に裏打ちされた新しい世界の様相を垣間見る機会を得るのか もしれない。注
(Endnotes)
1 スティーヴンズと「日常」に関する議論は、Olson 115-48; Phillips を参照。
2 スティーヴンズとウィリアムズの関係についてはAlbert Gelpi, “Stevens and Williams: The Epistemology of Modernism” 3-23 を参照。「事物主義」の詩人及び同時代のアメリカ 詩人との関連についてはAltieri, The Art of Twentieth-Century American Poetry: Modernism
and After 97-125 が詳しい。 3 Dogget は並列関係にある隣り合う語が繋辞を介さずに互いを結びつけるような働きを していることを指摘し(145)、Vendler は、同格は言葉を増殖させるのではなく、並置され た言葉を注視させることでより大きな文構造の「全体」を垣間見せるような機能を果たして いると論じている(Wings 306)。 4 J.Hillis Miller はスティーヴンズのメタポエムが、「詩の理論が競合する戦場」であると し(5)、その理論の定義の一つとして詩が「行為」(“act”)であると主張する(7)。ミラー の論を注釈したBart Eeckhout も、スティーヴンズの詩の理論の行為遂行性を指摘しており (204)、スティーヴンズのメタポエムは、彼の詩を読むという行為に自意識的な「メタ読者」 (“metareader”)を要請するとしている(22)。
5 本稿ではLibrary of America 版の Collected Poetry and Prose を使用する。詩作品から の引用の行数は本文中に括弧を入れて示す。評論に関しては稿数を括弧に入れて示す。 6 1948 年に Partisan Review 上で行われた質問“The State of American Writing, 1948: Seven Questions”で冷戦期のアメリカ文学の動向について尋ねられたスティーヴンズは、 詩と政治は別物であるという見解を示している(825)。また冷戦期のアメリカとソ連による レトリック戦略についてはB. Thomas Trout を参照。
7 一人称についての興味深い指摘は、Justin Quinn 96 を参照。また「眼」についての詳 細な議論はVendler, On Extended Wings: Wallace Stevens’ Longer Poems 285-88 を参照。 8 “version”を「訳」(“translation”)ととる同様の解釈は Gilbert 79 を参照。
9 Frank Lentricchia はスティーヴンズの長詩の特徴を無軌道な欲望の流れに認め、消費 資本主義社会特有の「ブルジョワ的内部性の叙事詩」であるとしている(204)。しかしな がら本稿ではヴェンドラー的な「縮小」や「無」へと向かう叙情性を作品内に認める方向 性をとる。
10 Mark Noble は、スティーヴンズが大学での講演録“A Collect of Philosophy”で同時 代の物理学を参照していたことを手掛かりに、この最終篇及び第28 篇での物質の振る舞 いを、Niels Bohr の提唱する「相補性の原理」に当てはめて解釈している(179-82)。
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