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嫡孫承祖と人生儀礼一秋田藩佐竹義真を事例に―

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嫡孫承祖と人生儀礼一秋田藩佐竹義真を事例に―

著者

清水 翔太郎

雑誌名

国史談話会雑誌

52

ページ

25-46

発行年

2012-02-20

URL

http://hdl.handle.net/10097/00127069

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嫡孫承祖と人生儀礼

││秋田務佐竹義真を事例に││

は じ め に 25

( 1

)

とある大名の誕生 卒 保 一 七 年 ( 一 七 一 一 一 二 ) 八 月 間 目 、 秋 m 間 滞 江 戸 中 屋 敷 に 男 -土 し み ね よ し か た 子が誕生した。秋田務第五代滞主佐竹談裂の養嗣子佐竹義墜 を 父 に 、 侍 姿 の 野 口 氏 を 母 と し 、 左 土 問 と 名 付 叫 り ら れ た 。 後 に よ し ま 3 義援の跡を継ぎ、六代帯主となる佐竹義其である。義英は父 義疫が養父義裂に先立って亡くなったことを受けて嫡孫承祖 し世間となり、宝勝一五年(一七五一)逃銀製封している。彼 の 出 生 は 元 文 一 一 一 年 ( 一 七 三 八 ) に 幕 府 に 丈 夫 屈 を 提 出 す る ま で、務主家族・綴族や、家老など務政の中畑軌を担う者のみに しか知られず、その存在は公に岐路されなかった。 本稿の目的は、当初存在を秘され、養嗣子の庶子という権 威の劣る左吉がいかにして政治的身分を獲得し、家替相続を

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なし得たのかを、彼の人生儀礼を系統的に分析することによ っ て 明 ら か に す る こ と に あ る 。 ( 2 ) 先行研究と研究視角 本務を執筆するにあたり、武家相続、儀礼研究、奥向研究 の 一 一 一 つ の 分 野 の 先 行 研 究 に 学 ん で い る 。 武家抑制統については、中田然、鎌悶浩苅氏をはじめとする 法制史における山国国な研究蓄積がある。政治史においては御 家騒動という﹁御家﹂存統の危機にスポットが当てられて論 じられることが多かった。近年では笠谷和比古氏の﹁主君押 込﹂の研究、大森映子氏の公辺内分の相統をはじめとする一 連の研究、その他養子相統と政治‘社会状況の関連性につい て論じた研究など、近世大名が﹁御家﹂の永統を希求する様 相が多様な視点から分析されている。しかしながら、養子相 続や本稿で取り上げる血縁関係の希薄な相続において、権威

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26 の劣る身分にあった者がどのような過程を経て大名として宥 臨し、その身分の正統性を得たかについては言及されてこな かった。それを分析するうえで個人の人生儀礼を系統的に分 析する視角が有効ではないかと考える。 儀礼研究においては、近世社会の政治構造、秩序維持シス テムの解明が主になされてきた。そのなかで、大友一雄氏は 人生儀礼を身分の獲得と位置づけ、それを構成する諸儀礼を 個別にではなく、一連のものとして系統的に分析する視角を 提 示 し て い る 。 このように人生儀礼に着目し、それを系統的に分析するこ とによって前務主との血縁関係が希薄であり、権威の劣る'身 分にあった者がいかにして政治的身分を獲得し、家替相続を 成し得たのかを明らかにすることとしたい。 さらに本稿では、人生儀礼を検討するうえで﹁奥﹂の女性 との関わりを視野に入れた検討も試みようと考える。 武家権力における女性の研究は、将軍・大名の委娘が儀礼 的な側簡を中心に政治的役割を鈍っていたとする長野ひろ子 氏の研究を受けて、盛んに行われるようになった。以後、大 名家の奥向の構造と職制、正室と表の家信の主従関係の構 築 、 婚 姻 な ど に よ る 大 奥 と 大 名 家 の 府 内 、 大 名 家 の 樹 党 同 士 の 交 流の様相などが明らかにされた。しかし、これまでの奥向研 究では娘答や儀礼の泊で研究が深められてきたが、大名家の ﹁御家﹂の存統に女性がどのように関わったかについての検 討が手務になってしまったように感じられる。そこで本稿で は奥の女性が、務主家紋の一員として大名家の男子の成長過 程、身分の獲得にどのように関わったのか、一大名の生涯を 追うなかで﹁御家﹂の存続に関わる女性の姿を見出すことが で き な い か 検 討 す る 。 なお史料については、主に秋田務政の山内例となる文滋・記 録を主題別に収録した編築物である﹃医典類抄﹄を使用する。 第 宝主 佐竹殺の後継問題と佐竹義哀の身分上昇 第一節佐竹義峯の後継問題と存在を秘された男子 秋田務佐竹家では枇嗣となり得る男子の誕生に滋まれず、 恭子相続や幼少相続が近世を通じて度々行われた。五代務主 佐竹議裂も四

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歳を越えてもなお世間となり得る男子に恵ま れなかったことから、養子選定が行われ、卒保一七年(一七 三一一)五月九日、幕府から分家大名の佐竹義思を養嗣子とす ることを許可された。この時、議峯数え限一ニ歳(以下、年齢 は数え年)、議堅四一歳と年齢はわずか二歳しか変わらず、 両者とも﹁御長年﹂であったことから、二人に万が一のこと があった場合に備えて、次の世代の後継者を確保する必要が 生じるのも時間の問題であったロ 義墜は義腕子に選ばれたものの、この時点では談峯に笑子

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が誕生する可能性もあった。そのため翁峯に実子が誕生した 際には、議堅の養嗣子として家替を継がせるとの条件付きで へ u w 選ばれたのだったロ議哀が誕生したのは、幕府から養嗣子の 許 し が 出 て か ら 一 一 一 ヶ 月 後 の こ と で あ り 、 彼 の 山 山 生 が 秘 さ れ た のは義峯の実子の誕生を考浴して、騒動を未然、に防ぐためで あ っ た と 考 え ら れ る 。 ﹃新編佐竹氏系図﹄をみると、本保一七年からこ

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年にか けて談裂の男子と側室が相次いで亡くなっていることがわか る。友古口の誕生するこヶ月前の亭保一七年六月には義峯の男 子仙持丸が亡くなり、それから二年後の同一九年には仙寿丸 の母で、他に五人の女子を産んでいた側室の保野が亡くなっ ている。翌二

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年三月には側室伊与との附に男子が生まれた ものの、二日で没している。さらに産後のひだちが悪かった ためであろうか、伊予も六月に亡くなっている。このよう に 、 李 保 二

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年には義裂の側室も亡くなったことによって、 実 子 の 誕 生 の 可 能 性 が 低 く な り 、 城 北 山 市 の 笑 子 に 代 わ る 後 継 候 補として友吉の存複を認知しようという動きが出てくるので あ る 。 27 第二節庶子身分として認知される 表は﹃潤典類抄﹄などに記載のある佐竹義誌の人生儀礼を 時系列脳にまとめたものである。この表をみると義哀が生ま れてから三年間は儀礼が行われていなかったことがわかる。 それが本保二

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年以降﹁内々﹂ではあるが儀礼が行われるよ うになるのである。そこで本節ではこの年に義哀の身分にい かなる変化があったのかを明らかにすることとしたい。 卒 保 一 一

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年には義峯の笑子誕生の可能性が低くなったこと で、次世代の後継者の確保が難しくなったことに家老今宮大 学説透は危機感を抱いていた。そこで今宮は、佐竹家の﹁御 ( 川 ω } 出入御旗本衆﹂のひとり細井佐次右衛門と棺談し、﹁屋形様 (義峯)御対碩被成、外ニ而も段々存知候様一一被成﹂、すな わち義裂と左土日を対商させ、その他にも段を追ってその存在 が知られるようにすること、﹁御実子も無御座候か、いっと ても被御用立候節、御年を何程も御増、浜町ニ而之御姿版ニ 被成候得は済侠事﹂、つまり務家の実子不在に備えて、いつ 何時でも﹁御用立﹂することができるように年始を水増しす ることで対処しようとしている。このように実子による﹁御 家﹂の継承が危ぶまれてきたなかで、今官大学を中心に左吉 の身分を上昇させて﹁御家﹂の安定した継承を図ろうとする 動 き が 出 て き た の だ っ た 。 それから一ヶ月後、幾度が世嗣として中屋敷入りしたこと への祝儀が中屋敷の災御般で行われたが、次の史料からその 様 子 が わ か る 。

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表 佐 竹 毅Aの人生儀礼 日 時 数(官え年年齢) 儀礼名 出j考、 ~J~拠 卒保17年(1732)8月4日 誕生 於 江 戸 朝

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]r明日(中屋蚊) 父佐竹瀧~ 母野口氏(1',姿)r図~ 1-3 『党政J 幼名‘「左

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悶』 本保20年間3月初日 4 対 顔 『悶~ 2-2 同20年10月25日以後 4 (髪配) 「左古様ニ而御!韮位被成!日]数J

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匝』 1-19 元文フロ年(1736)11月17日 5 誇司5 袴 着 役 、 介 添 役 記1院なし 於:永寿院の部屋『家計uι1"-727 「御内々ニ而Jr国~ 1-21-22 河年12月19日 5 娘f古f上梓祝儀 『悶j1-558 フじ文3年5月31ヨ 7 ;Ili直 『国n.1-22 同年5月7日 7 (11) 嫡HヤG& 幕府に丈夫周を拠出、親戚大名、 家国へ披露『悶~ 2-15-16 徳!IolJL と改名 f悶~ 1-8,

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佐竹』 淡 記 「徳7h丸織」 問4丞H 月11日 8(12) 幕府に嫡子}ffiを挺i士i 同年8月14日 B 読む!i初 r!君~ 1-54-55 フじ文5年9月10EI 9(13) 宮参 神田明事l'、 Xb越ß1用心『悶~ 1-13 !司1j三日月12日 9 下

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有j 『問~ 1-48 究 保2年(1742)4月19日 11(15) 嫡孫承級 『悶~ 2-34、W'('.[政』 表 記 「若殿様」 [!U1f:.lO月18日 11 J見召初 『悶』ト56 同1"f.l0月24日 11 弓初 『国~ 1-57 !司王下12月26日 11 御'I!I名梁 「義J![Jと改める『悶~ 1-33 『佐竹』 問31p 3月8日 12(16) 表ヘヲ!移

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主U1-60 延1j(克年(1744)7月12日 13(17) 剣術初 『悶~ 1-58 同年9月1日 13 梁出 8月25日通称「次郎Jを名乗る f間』 2-107 将軍吉宗に御目見得『悶.n2-108、 『佐竹』

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日 l時 数("gえfl年F-齢) 儀礼名 的考、 M!!拠 延 本311三8月初日 15(19) 半ヌじ服 n詰~ 1-39 袖官1 問年11月 17日 15 前髪i血 『悶』ト43~44 肉年12月11日 15 婚約 『国~ 2-73 同年12月18日 15 従問位下叙任 『国~ 2-167、『佐竹』 19日友兵術日?と称す 'fl延2年(1749)日月 3日 18(22) 上怪蚊へ引務 『図~ 3-793~794 同4ド10月 6日 18 逃瓶事基去} 『佐竹』、 n'l政』、 ff!UIU 1()-499 日j歪fo12月18日 18 侍 従 任 官 『関~ 5-449、『佐竹』 窓際フじ年(1751) 20 初 入 部 5 月 8 日松田城到着、『悶~ 5-458 『佐竹』 宝 際2年(1752)7月l日 21 婚礼 『図~ 4-35、『佐竹』 疋2主 前 回 吉 徳 ( JJllt'1金沢城主) 娘(招) 16,ι 1 問311'-8月201ヨ 22(26) 死去 n語~ 8-478、『佐竹』 葬 儀 百 月22日『依竹』 *典拠『図~ : nmgl!fJi抄』巻数ー頁数。『佐竹~:~新編佐竹氏系図~o r家殺~:f佐竹家計』 1*1主主ー頁数。『究政~:r新司 1E政

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修滞家論 ~3 巻~o r~!VIU: r徳川実記』。

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30 [史料①﹁今宮大学義透御家老勤中日記﹂享保二

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年 ( 一 七 三 五 ) 四 月 一 一 一 日 条 ] 一 今 日 御 中 屋 敷 奥 御 殿 江 屋 形 様 大 御 前 様 兵 部 少 輔 様 智 治 院 様 両 得 姫 様

釧捌劇科刈

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鉄、御中屋敷江御移以後上々様御揃被為入候義相 延候而、今日御祝儀在之候 佐官口様江初而御対顔為御祝儀御守紛指巡候、拙者縫殿 助も奥に而御料理被下、御茶過御殿一一間健婦候、御見物 在 之 上 々 様 夜 中 迄 被 成 御 座 候 ( 傍 線 筆 者 ) この祝儀には、﹁上々様﹂と称される人びと、すなわち、 ﹁ 屋 形 様 ﹂ ( 議 案 ) 、 ﹁ 大 御 前 様 ﹂ ( 義 察 正 常 品 ) 、 ﹁ 兵 部 少 附 様 ﹂ ( 壱 岐 守 家 の 級 居 佐 竹 務 長 、 議 山 常 実 父 ) 、 ﹁ 相 官 出 納 院 様 ﹂ ( 四 代 務 主義絡母)、﹁岡御姫様﹂(義架娘栄常)、﹁壱岐

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様 ﹂ ( 佐 竹義道)、﹁延持丸様﹂が一向に会していた。このような務主 義峯をはじめ佐竹家の女性を含む諸問主家族、そして分家大名 の壱岐守家の人々(柑捕ま親銀)が一河に会した場で対顔が行 われることによって左官は務主家族と親族の一員に迎え入れ られたロこの対顔を貌其の家制世相続以前の人生の第一のタ l ニ ン グ ポ イ ン ト と 位 霞 づ け て お く 。 こうして﹁御家﹂の当主と対顔し、﹁上々線﹂と席を共に することで左官は庶子身分として認知されたといえるが、こ の 狩 点 で は 家 中 に 数 時 附 さ れ て お ら ず 、 左 士 E の身分は佐竹家内 部のみ、なかでも﹁上々様﹂の附でのみ認知されていた存在 であったといえる。このような認知のされ方がなされたこと は、おそらく議案に笑子が誕生する可能性がないとは言い切 れないことから、実子が誕生した場合を考えてのことといえ よう。このように佐官の身分の獲得は貌峯の実子誕生の可能 性と不可分の関係にあり、その可能性が低くなるにつれて ﹁御家﹂の安定した継承を恕殴して身分の上昇が悶られた。 また、安定した継承のためには佐吉の年齢を水湘しし、政治 的社会的な成長をより一一回早めておく必要があったのであ る 。 この後、佐古の﹁髪底﹂と﹁袴翁﹂の儀礼が執行されてい るが、簡略化して行われている。これは左士ロが庶子身分であ ったこと、そして家中に彼 m 除 さ れ て い な か っ た た め で あ る 。 第三節﹁嫡孫弘﹂による公的身分の獲得 本節では、﹁嫡孫弘﹂、すなわち公儀への崩け出によって義 容の嫡孫として認められ、家中や対外的に披露される一連の 過程を、彼の家替相続以前の人生の第二のタ

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ニ ン グ ポ イ ン トと位置づけて、その過程とそれに関わった人々の動向を明 ら か に し よ う と 思 う 。

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31 左 士 口 と 掠 拍 車 中 の 対 顔 が 行 わ れ て か ら 三 年 間 、 義 援 に 実 子 が 誕 生することはなかった。そこで友吉も対顔以後成長していた こ と も あ り 、 元 文 一 ニ 年 ( 一 七 一 ニ 八 ) 二 月 、 義 山 市 は 、 左 中 古 J V 嫡 孫とすることを家老たちに提案し、問怠を得ている。家老た A m v ちの述名の覚怒によれば、議峯に実子が誕生しない時期もあ り 、 左 士 口 を 披 附 附 す る こ と に よ っ て ﹁ 御 家 之 根 源 ﹂ を 厚 く し 、 そのよで笑子の誕生を心永くして待つ同意がなされている。 また、翌一ニ月に義峯は参勤で江戸に赴くことになっていた が、﹁御弘之御用﹂として家老今宮大学と宇都宮帯刀も赴く こととなった。彼らの﹁御用﹂は友吉の﹁御弘﹂について ﹁上々線﹂の同窓を得ること、さらに同怒を得たうえで幕府 へ の 届 け 出 を 済 ま せ る こ と で あ っ た 。 江戸に到着した家老同名は﹁上々様﹂の問怒を得るために { ω “ も ( 判 付 } 彼らのもとへ赴いたが、政初に四代務主義格の母智清院のも と へ 赴 い て い る 。 知 官 清 院 は ﹁ 御 家 同 時 ク 成 候 事 ﹂ と 喜 ん で 同 意 したが、彼女はを岐守家の隠居の兵部少帥州議長の訟見を気に かけており、家者たちには彼のもとへ赴くよう指示してい る 。 義 長 も 奥 論 は な か っ た よ う で 、 次 い で 談 山 幸 正 室 黒 悶 氏 も 同訟をしたことは後日の史料から確認することができる。 こ の 一 一 一 人 の 向 怠 を 得 た 後 、 旗 本 細 井 佐 次 十 相 続 門 を 招 き 、 判 柏 { a v 府への届け出についての棺談が行われている。左吉の存在を 幕府に届ける際には前に述べたように年齢を水摘しして腐け 出ることが計画されていたが、ここで具体的な相談がなされ ている。佐竹家ではこれまで男子の年約操作を行ったことは なく、左士同が初めての事例であり、情報通の旗本から情報を 得る必要があったのであろう。ここでは四点への御

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見得の 取り成しの燦に支障をきたすことを考慮して、義峯の意見で 四歳足した一一歳で幕府へ崩け出ることに決まった。 ﹁家之安堵﹂のための年齢操作は一般的に行われていたと { 舗 ︼ され、実年に対して幕府に届出た年齢は官年と呼ばれたが、 佐竹家においても縫其の事例以後、官年を用いた事例が見受 けられる。政治約役会的な成長を早め務主の権威を維持す る う え で も 効 果 的 で あ っ た の だ っ た 。 このような幕府への服け出の具体的な内容を決定した後 に、今宮たちは左 L T h の実父義墜と祖母永寿院のもとへ赴く が、両者は当初向立しなかった。しかし、義峯から左古を蚊 露することは﹁御家﹂﹁御悶﹂のためを思つてのことで、佐 ょ L も と 竹山城(佐竹京家の義本)をはじめ一門と家老、そして﹁上 々 様 ﹂ の 同 意 も 得 ら れ て い る の で 、 待 問 坦 し な い よ う に と の 言 葉を伝えたことで両者は﹁御弘﹂に同意している。 ﹁上々様﹂の河訟を得て、幕府への崩け出が行われるが、 細井の意見により、届け出が煩雑にならないようにひとまず 庶子として届け、対外約にも庶子として披銘し、その後時を おいて嫡子屈を出すこととしている。ただし、丈夫屈の提出

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以降は、佐竹家内では義察の嫡孫の扱いとすることに決定し て い る 。 元文三年五月、細井佐次お衛門が老中本多中務大櫛へ丈夫 屈を提出、左官は佐竹家嫡子の幼名である﹁徳寿丸﹂へ改名 し 、 波 紋 大 名 、 ﹁ 御 並 之 大 名 ﹂ ( 大 広 澗 訪 の 大 名 ) 、 ﹁ 御 出 入 御 ︹ 川 必 ) 肱本衆﹂へ庶子身分として披 m 附された。さらに家中において も披附附され、国訟の先祖の御露屋、菩提寺をはじめとする寺 社三笠也が代参をすることで先祖との結びつきの確認がはじ めてなされた。このようにして佐竹中部内のみであった左官の 身 分 が 公 の も の と な っ た の で あ る 。 翌元文限年四月には細井佐次右衛門が老中松平伊豆守へ嫡 子屈を提出し、これによって対外的にも嫡子(議案の嫡孫) { m v 身分を獲得した。この際の祝儀の贈答をみてみると、﹁家﹂ 内部の贈答では義率、義架正室、議盤、義殴正室、智治院、 ー も な お ひ さ 永寿院、栄・痘寿(義府軍の娘)、兵部少輔義長、自信岐守義 道、求馬(延寿丸改め)といった﹁上々様﹂から贈り物が届 き、返礼している。また義裂の二女でこの年の二月に信州松 と み 本務主松平光雄に嫁ぎ、﹁呉服橋奥様﹂と称されていた笛も { 初 V 贈答に加わっている。一方、親戚大名とでは、義堅正室の実 家である久留米務有馬家から太刀と潟代、自録が届けられた ことが発端となり、他家からの贈り物を受け取るか否かが問 題となっている。続戚にあたる中村落相馬家、布地問就附岩城 家、福岡務黒 m 田家にはかねてから祝儀の贈り物を断っていた のだが、この後贈答に関する史料はなく、おそらく締り物は 断ったものと考えられる。このように親戚大名との贈答が行 われていないなかでも他家に嫁いだ女性とは州問答が行われて いるのだが、これについては訟を変えて述べる。 寺社との関係については、丈夫届の挺出の際と同様であっ た。嫡孫身分においては、先祖や国許の菩提寺などの寺社と の関係にとどまり、佐竹家の対外ネットワークに本格的に組 み込まれるようになるのも嫡孫承祖を柑慌て批嗣身分を獲得し て か ら に な る ロ 第 牽 嫡孫承祖と毅替相統 第一節嫡孫承祖 究 保 二 年 ( 一 七 四 一 一 ) 二 月 四 日 、 ﹁ 悲 殿 様 ﹂ 貌 堅 が 死 去 し 、 再び義懇の股嗣を定める必要が生じた。そのため幕府へ嫡孫 承祖のお願いをして徳寿丸を位協とするのだが、この嫡孫承 祖を義哀の人生の第三のタ l ニングポイントとして位絞づけ て み て い き た い 。 出 削 孫 一 雄 祖 の 抑 制 統 に つ い て は 、 代 位 相 続 法 ( 代 襲 相 続 法 ) と いう観点から、法制史の分野で研究がなされてきた。 { 詑 ) まず、中部終氏は﹃法制究論集﹄第一巻において、近世の 嫡孫養子の制度は焔係承祖と称されたが、これは代位相続で

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33 はないと述べている。その波耐として、嫡孫といっても組父 が幕府に嫡孫承祖を願い出なければ家督を相統することは不 可能であったこと、嫡孫が幼少であった場合には他人を中継 として相統させる場合があったとことが挙げられている。 その後、中田氏の論を﹁近代法的概念における相続権不存在 ということからの必然的帰結としての代後相統権の官官定であ る﹂として、嫡孫承祖を代後根統と捉え直したのが鎌田浩氏 { m v であるロ鎌田氏は、中田氏の一吉う他人を相続人として嫡孫を その順養子とする方法は、事情は嫡子であっても全く同様で あり、﹁,純子について認め得る格統期待権に比し、何等劣ら な い 代 制 捜 相 続 期 待 機 が 嫡 孫 に 存 夜 し た ﹂ と し て い る 。 鎌田氏によると、嫡孫の格統はごゑ祖父の恭子としてか ら相続させるいわゆる父子相続の涼刻が、平安時吋代後半刻か ら成立し、中枇を通じて設かれた﹂とし、﹁近世においては もはや祖父の養子とすることなく、孫の地伎のままで代刑判相 統が行われることとなった﹂としている。また氏は宝麿五年 ( 一 七 五 五 ) の 幕 府 触 荒 川 に よ る 嫡 孫 承 祖 の 成 文 化 を 悶 矧 と し 、 元禄以前においては嫡孫義子という考えも混在していたが、 漸次消滅していき、事保燃に代製相続観念(嫡孫承祖)の完 全 普 及 が な さ れ た と い う 。 務 哀 の 嫡 孫 承 知 也 の 事 例 は 設 暦 五 年 以 前 の 寛 保 二 年 の 市 引 例 で あるが、鎌悶氏のいう特徴はどれだけ見出せるのか、また嫡 孫承組を経て義真にはいかなる身分の変化があったのかをみ て い き た い 。 悶許での翁堅の葬儀を終えて参勤で江戸に到着した義援 は 、 四 月 一 一 一 一 日 に 公 儀 へ 嫡 孫 承 視 の お 願 い を す る こ と を 徳 寿 丸に伝え、二ハ日には細井俊次右衛門に依頼のうえ、菅岐守 義道が同伴、嫡孫承紐の御願書を御用番へ挺出し、受理され て い る 。 一 八 日 に は お 中 設 が 開 聞 き 、 一 九 臼 に 義 裂 と 徳 寿 丸 の 江 戸城への綾城を求められているが、徳寿丸は病気のため名代 として壱岐守義道が同伴のうえ、談峯は江戸城へ笈城し、白 { M V 滋院で徳寿丸の嫡孫承知旭を許可されている。これを期に家中 では、﹁若殿様﹂とされ、世納身分として認知された。義峯 に加え、承祖の対象である徳一舟丸までもが登城を求められて いることは、将楽的に将軍と主従閃係を結ぶことを怒閉山して 承視の対象者も設械を求められたのと考えられるが、病気を 理由に登域をしなくても承祖のお願いは受壊されたものの、 原則としては当主である組父と承祖する孫の河者が登城する ことによって嫡孫滋祖は認められたのであり、この点を考慮 すると、鎌田氏の言う通り縦孫承祖は代後総統としての側面 が 強 い と 考 え ら れ る 。 では嫡孫承組を経て銭其にはいかなる身分の変化があった のであろうか。まず寺続との関係については、国許の守院に 加え、常陸時代の菩提寺の正宗寺と江戸の務提寺である総泉

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34 ︽ お } 寺と贈答が行われている。それまでの嫡孫としての国許の菩 提寺などを通した先祖との結びつきに加え、世嗣となったこ とで常陸時代の菩提寺と江戸の菩提寺との贈答も行われるよ うになり、家替相続に向けて寺社との交流範囲も拡大したの だ っ た 。 次に親戚大名との交流については、﹁嫡孫弘﹂の際には行 われていなかった他家との贈答が行われるようになる。また 承祖から約一年後の寛保三年には祝儀の饗宴が行われている が 、 そ の 様 子 を 記 し て い る の が 次 の 史 料 で あ る 。 円 史 料 ② ﹁ 大 塚 新 左 衛 門 資 益 日 記 ﹂ 寛 保 二 一 年 ( 一 七 四 一 ニ ) 四 月 二 日 条 ] 一若殿様御承祖之御祝儀井御餓別之由、御客松平隠岐守 様松平丹波守様・細井新五郎様・長尾全庵様、右御四 人御タ過より被為入候 若股様壱岐守様は昼より御出也、御見物もの暮より 参、終夜狂言致候、創刷樹州側即判凶﹁剣淵闘樹 、一氷寿院様俊交院様愛岩下御前様呉服橋奥様も被為 入、狂言明迄在之、御客様明過段々御帰被遊候 ( 傍 線 筆 者 ) ﹂の饗宴では、客人として伊予松山藩主松平定喬、信州松 本藩主松平光雄、旗本細井新五郎(細井佐次右衛門の子)、 長尾全庵(奥医師)が招かれている。佐竹家での出席者は、 義 真 、 壱 岐 守 義 道 、 ﹁ 御 前 様 ﹂ ( 義 峯 正 室 ) 、 智 清 院 、 永 寿 院 、 俊 交 院 ( 義 竪 正 室 ) 、 ﹁ 愛 宕 下 御 前 様 ﹂ ( 義 峯 の 長 女 照 、 松 平 定 喬 正 室 ) 、 ﹁ 呉 服 橋 奥 様 ﹂ ( 義 峯 二 女 冨 、 松 平 光 雄

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室 ) が 招かれていた。義峯の娘婿の大名をはじめ、承祖の届け出の 際 に 世 話 に な っ た 旗 本 や 奥 医 師 た ち で あ っ た 。 このように嫡孫承祖以前はみられなかった親戚大名との贈 答が行われるようになり、さらに、祝儀の饗宴の席で親戚大 名と同席するようになったが、こうした場が家替相続に備え て親睦を深める機会となったのだろう。嫡孫承祖で世嗣身分 となったことで佐竹家における親戚大名とのネットワークに 本 格 的 に 仲 間 入 り し た と い う こ と が で き る 。 世嗣身分を獲得したことで義真の対外的な交流範囲は拡大 したのであるが、嫡孫承祖によって彼の世嗣身分が盤石なも のとなったわけではなかった。義真の場合、義峯との血縁関 係が希薄であるということが最大の問題であり、その欠点を 補うためには権威づけを行う必要があった。そこで嫡孫承祖 以 後 、 集 中 し て 人 生 儀 礼 が 行 わ れ る の で あ る 。 第二節家督梱続へむけて 先程の義真の人生儀礼をまとめた表を見ると嫡孫承祖以

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後 、 寛 保 二 年 ( 一 七 四 一 一 ) か ら 延 享 元 年 ( 一 七 四 四 ) ま で の 二年間に集中して人生儀礼が行われている。本節では各儀礼 を系統的に分析することでその背景などを明らかにする。 (一)御判名乗 嫡 孫 承 祖 か ら 八 ヶ 月 後 の 寛 保 二 年 一 一 一 月 、 御 判 ・ 名 乗 の 儀 礼が行われたが、この儀礼によって徳寿丸は義峯から花押を ︻ 幻 ︾ 授けられ、﹁義真﹂と名乗っている。佐竹氏は源頼義の後胤 という出自認識をもち、平安時代末期以来﹁頼義﹂の偏誇 ﹁ 義 ﹂ を 通 字 と し 、 ﹁ 義 ﹂ と 嘉 字 一 宇 を 組 み 合 わ せ て 実 名 を 名 ︹ 鉛 ︾ 乗ってきたが、徳寿丸も﹁義真﹂と名乗ることにより、佐竹 氏 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ が さ ら に 深 く 刻 ま れ た の で あ る 。 なお、この時﹁真﹂の字や読みに﹁まさ﹂が用いられてい る者の改名が命じられているが、これは秋田藩における禁字 ︻ 泊 ) 令の初見とされている。ここでは、秋田藩での禁字規制は血 縁関係が希薄な世嗣の権威づけの一環として行われるように な っ た 可 能 性 を 指 摘 し て お く 。 また義真に関しては、徳寿丸を名乗った際にも禁字規制に 関 連 し た 記 述 が 残 っ て い る 。 35 [史料③﹁今宮大学義透御家老勤中日記﹂元文三年(一七 三八)五月九日条] 一、徳寿丸様ニ御名御改被遊候ニ付、徳之字之者指而名改 被 仰 渡 候 筋 二 無 之 候 、 兵 衡 を 以 若殿様江御内々申上置候 御先代こも其例有之段、羽石権 この史料からは幼名の﹁徳﹂の字のつく者については改名 の必要はないと認識されていることがわかる。このように義 真 の 幼 名 に つ い て 禁 字 は 課 さ れ な か っ た 。 しかし、義真以後の事例をみると、安永四年(一七七五) ー っ

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さ 元日、八代藩主義敦の庶出の男子直丸(後の九代落主義和) が 誕 生 し 、 一 月 一 一 一 目 、 そ の 誕 生 を 知 ら せ る 触 が 出 さ れ て い るが、そこでは幼名についても禁字が課されている。直丸の 事例の他、義敦の子女は嫡出庶出を問わず、町触によって 誕生が庶民にも伝えられ、禁字も課されている。義真の事例 から三三年の聞に庶子の幼名にまで禁字規制の及ぶ範囲が拡 大していることがわかる。血縁関係の希薄な嫡孫承祖の相続 が契機となって、以後規制が強化された可能性も考えられる が、この背景については政治・社会状況の変化も考慮しなが ら 今 後 検 討 を 試 み た い 。 ( 二 ) 乗 出 ﹁乗出﹂とは、はじめての将軍への御目見得のことである が、これについては大友一雄氏による研究がある。大友氏に よれば、この﹁乗出﹂は将軍への奉公が可能であることを確

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認する肌切であり、将軍への拝潟行為が済まないと一人前とし ( 叩 } て受入られず、対外的な交流も大きく制限されたという。 佐 竹 宗 家 の 男 子 の 場 合 は 一

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歳もしくは一一歳で御判名 乗を済ませ、さらに通称を名乗った上で乗出を行い、御判 e 名乗と梁山山はセットで行うことが先例となっていた。しかし 務誌の場合には御判名乗の約二年後に乗防を行っている。 突は義誌の場合も御判名乗とセットで行う予定であったも のの、﹁今以御不丈夫ニ付御長鹿難被成、何而当分御自見 御延引﹂という状況にあった。つまり、不健康で長く座って いることができず、将軍への奉公が不可能であるため、延期 さ れ た の で あ る 。 その後、延手元年(一七四四)八月二五日に通称﹁次郎﹂ を名乗り、九月一目、将箪徳川吉宗に御目見得している。結 果 と し て 、 官 年 で 一 七 歳 、 実 年 で は 一 一 一 一 歳 と い う 先 例 よ り も 追い御目見得になってしまったが、これにより将軍と主従関 係を結び、総閣との交流も開始されている。それ以前まで、 対外的交流は親戚大名との交流にとどまっていたが、梁出を 機に将箪をはじめ議閣との関係の構築など、より広範四とな り 、 片 品 滞 社 会 へ と 乗 り 出 し て い っ た の だ っ た 。 ( 一 一 一 ) 表 へ 引 移 御判名乗と梁出の聞に行われた綴災の政治的身分の獲得 に お い て 重 要 な 儀 礼 、 そ れ が 、 宛 保 三 年 ( 一 七 間 一 一 一 ) に 行 わ れた﹁表へ引移﹂である。大名家の子女はある程度成長する まで大名の私的生活空間である﹁由民﹂で滋有されていた。 ﹁奥﹂から政治の行われる﹁表﹂へと生活空間を移し、公務 に従事することを可能にするのが﹁表へ引移﹂である。義真 の 事 例 で は ﹁ 移 初 ﹂ か ら 一 一 一 ヶ 月 間 は そ れ 以 前 と 同 じ よ う に 奥 の部屋で寝起きをして表へ出向き、﹁永々御引越﹂以降は、 表の﹁御絞之浦﹂でも綴起きをするようになった。 究保三年三月八日、﹁移初﹂の祝儀のため義烈は中屋敷か ら滞主義峯のいる上度数へ向かっている。上屋敷での祝儀が 終わった後、中墜放に帰り、﹁表﹂玄関口から中震数の﹁表﹂ へ入っているが、この時、玄関前の式台までを岐守義道が綴 哀を出迎え、﹁年寄衆﹂(家老今宮大学、向右近)が﹁長薄緑 其外来石之上迄﹂出迎えている。その後初院にて務哀がこれ らの出迎えの人々に裂

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を 渡 し 、 刊 闘 が 述 ば れ ﹁ 年 寄 衆 ﹂ が 相 { ぽ 叩 ︾ 伴を務めている。分家大名の当主や家老たちの存在から、務 政の中核を担う人物と政治的な間関係を結ぶ契機となっていた と考えられる。その後﹁永々御引越﹂をし、家中からの御目 見得を済ませることによって、この時点で将軍への御目見得 を済ませれば公務に従事することができる身分を獲得してい た 。 次 に 義 哀 の ﹁ 表 へ 引 移 ﹂ の 時 期 に 着 目 し た い 。 可 悶 山 門 開 削 抄 ﹄ には、四代務主義絡の﹁茨へ山山初﹂に関する史料がある。議

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格 は 元 禄 一 六 年 ( 一 七

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一 ニ ) 一

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歳 で 巡 領 を 製 封 し て い る が 、 務主になったからといってすぐに政治の行われる﹁表﹂へ生 活空間を移したのではなく、宝永六年(一七

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九)に一六歳 で﹁表﹂へ移るまで﹁奥﹂で生活していたのである。この点 に大藤修氏は注

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し、﹁務主であっても、肉体的精神的に 大人になった焼に初めて表の空間に出て表の役人たちの御目 見得を受け、公務に従事している﹂と述べている。 義哀の場合には、﹁表﹂へ移った時、官年では一六歳と、 義格の年齢と変わらないが、実年紛ではまだ一二歳であっ た。また長く箆っていることができないとして吉宗への御目 見得を延期している時期にあたり、とても肉体的精神的に 成長しているとは言えない。では、議又はなぜ先例によらず 肉体的精神的にも成長する以前に﹁表﹂へ移ったのであろ う か 。

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義格と務災を比較すると次の一一つの相違点がみられる。義 絡は一ニ代議主義処の庶子(母は智清院)ではあるが、父子相 統であったのに対して、議官持は血縁関係の希務な嫡孫滋視の 相続であった。また、殺格が襲封した元禄末期に秋田溶の財 政は好転したとされ、事保期以降の務財政の感化・社会の疲 弊が進んでいた義哀の時期よりも滞政は安定していたと言え る 。 このようなことを念頭に義哀の﹁表へ引移﹂の時期につい て考えてみると、先代、先々代と幼少、養子相続が行われ、 安定した相続が行われていなかったが、この時期は以前とは 迷い務財政の怒化など、務政の不安定要素が顕在化してお り、さらなる不安定化を紡ぐためにも権威の劣る主君の相続 を何としても避けたかったが般に、肉体的・紡神的な成長を 待たずに官年を指標として﹁表﹂へ移ったのではないだろう か。ここでは、議誌が﹁表﹂へ移ったという事実が援要であ り、それが知れ渡ることで家中に彼が公務に従事できること を認知させ、彼の枇洞としての身分を盤石なものにしようと い う 怒 閣 が あ っ た の で あ ろ う 。 また、もうひとつ注目すべきことがある。それは、壱岐守 義 道 の 嫡 子 求 烏 の 存 復 で あ る 。 議 官 持 は 承 知 世 に よ り 世 間 酬 と な っ ているが、幼年かっ当主義裂との血縁関係が薄いのに対し、 求馬はこの時一八歳で、すでに将軍への御目見得も済まして おり、肉体的にも、政治的'社会的にも成長していた。義哀 が嫡孫として安定した家替相統をするためには、求馬との身 分の迷いを演出しておく必要性があり、そのため早々に表へ 移り、公務に従事できる状態にしておいたのではないだろう ! カ このように、肉体的精神的な成長を見越して決められた 先例は、官年を拠り所として﹁御家﹂の安泰が危ぶまれる状 態になることで開催され、世嗣の権威づけが行われたのであっ

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fこ亘 38 第三節家替相統と婚礼、そして死 ( 一 ) 家 組 副 総 統 覚 延 二 年 ( 一 七 四 九 ) 八 月 、 五 代 務 主 佐 竹 義 擦 は 死 去 し た 。 世嗣の義文は九月三日に中農政から務主の住まいである上屋 敷 へ 間 引 越 し 、 一

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月 六 日 、 幕 府 の 許 可 を 得 、 遺 領 制 捜 糾 問 し た 。 こ れ ま で み て き た よ う に 、 究 保 一 一 年 ( 一 七 四 一 一 ) の 遊 間 子 貌堅の不測の死によって﹁御家﹂の安泰が危ぶまれる状況の 中で、義援の死後、嫡孫承祖を経て、儀礼を集中的に行うこ とによって徳寿丸(議哀)の身分を急速に上昇させ、﹁御家﹂ の安定した継承を図っていた。官年を指標として先例を複す ことによって、宮年の一七歳の時点でいっ家督相統をしても 公務に従事することが可能な状況をつくりだし、幼少相相続に よる務政の不安定化の危険性は回避できていたのである。 ところで、家替相続以前の三度の義兵の人生のタ l ニ ン グ ポイントにおいて見落とすことができないのは、いずれにお いても家老今宮大学の姿があることである。二皮目の対阪に おいては、今宮が旗本細井佐次右衛門と図って義裂との対顔 の場を用意し、一一度目の﹁嫡孫弘﹂の際には江戸に赴き﹁御 弘御用﹂を務めた。一ニ度目の嫡孫承視の前後の今宮の様子は わからないが、﹁表へ出初﹂の際には彼の姿を確認すること ができる。義墜の死によって﹁御家﹂の安域が覚来ないなか で、党保二年の参勤の折に議案に同道して徳寿丸の政治的身 分の獲得に携わったのであろう。このように義英が家替相統 に奈るまでには家者今宮大学の関与が非常に大きかったので あ る 。 当該期の秋田務は今宮の言葉を借りれば、﹁世勢共ニ段々 ︹ M W V 致衰徴、土民も困窮仕侠﹂という状況にあり、正徳則から態 化した簿財政の改革と政務の刷新を行おうとした。彼はそれ までの笑務官僚が主導する会所政治を廃止して政務所を設置 し、務財政の運営に大きな役割を果たしていた本方奉行も廃 止している。また家老就任の年に議接に上おを相提出してお り、それには務主親裁が掲げられていたが、実際には会所政 治を一台定して今宮自身に権力を集中する上での名目にすぎな { 別 古 か っ た と い う 。 このような状況にあって後継者不在という問題も生じ、跡 自をめぐる騒動が生じかねず、務政の混乱を何としても避け る必要があり、そこで今宮は後継者の確保に積極的に関わっ たのであろう。今宮が改革政治を遂行し、務政を建て症すた めには、家中の対立を招くような棺統は避ける必要があった のであり、彼にとって義文の政治的身分を確乎たるものとす ることは﹁御医許も世勢共ニ段々致袋徴、土民も悶窮﹂して いる中で、﹁御家御国之御根源﹂を悶めるために非常に議

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39 雨宮であった。今宮の改革政治の遂行のためには、将来的な義 誌の安定した相続が必袈不可欠であったのである。しかしな がら、後真が家替相統を成し遂げるためには当主義峯との年 齢差と取縁 m 関係が希薄であることを補わねばならず、そのた めに官年により政治的社会的成長を早め、さらに新たな先 例を創出することとなったのである。 ( ニ ) 婚 礼 宏騎二年(一七五二)、義又は加賀金沢車問主前田吉徳の娘 ょ う 揚を正室に迎えた。佐竹宗家の縁組は一門以外の大名家であ ると、同格の大広間諮の大名家との縁組が多く、それより絡 の 向 い 大 廊 下 詰 の 大 名 家 と は 義 真 の 事 例 と 一 一 一 代 議 処 の 嫡 子 義 萄の紀伊徳川家の事例の品である。これまで述べてきた人生 儀礼の一連のものとしてこの婚礼を考えるならば、議峯との 胤縁関係の希薄さを補うために家絡の高い家と縁組をして後 ろ盾を確保し、議哀の権威を高める狐いがあったのではない だ ろ う か 。 ( 一 一 一 ) 死 婚礼の翌年の支暦一ニ年に義哀は二度目の入閣を果たした が、久保田城内において七月末から体調を崩し、高熱に悩ま され、一時は快方に向かったものの、八月一九日に急変し、 譲 二

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日 に は 死 去 し て い る 。 実 年 齢 で は 一 一 二 歳 、 官 年 で は 一 一 六歳という短い生涯であった。二八日に天徳寺に葬られ、同 I烏 年 物 九 停 月 比 二 A -M ー が 日 出 に さ 葬 れ 儀 て が い 行 る言わ 。れ て し、 る な お 一一月九日には 第 章 佐竹薮真の家替相続をめぐる人びと これまで大名家当主が日常生活を滋む奥は男性社会である 表の位界から縞絶した社会であると捉えられてきたが、当主 以外の男性が奥の枇界から全く排除されたわけではないこと が近年明らかになってきた。福岡千鶴氏は、大名家の男子も 幼年の一定期聞を奥で育てられたことや奥の男性役人の存在 を見出し、男性の存在も視野に入れた奥向の機能や構造につ いて考祭し、﹁奥という空間は閉鎖的であっても、表との有 機的関係によって成り立っているのであり、そうした関係性 を前提に奥向独自の構造について検討を深めていくことが必 要﹂と述べている。本章ではこうした視角を念頭におき、談 真の身分獲得や﹁御家﹂の存続に滞主家族として女性がどの ように関わっていたかをみていきたい。 第一節佐竹出家の奥向と儀礼 佐竹銭其の人生儀礼をみると、﹁内々﹂に行われている儀 礼について祖母永寿院が m 関わって行われている事例がみられ る。﹁袴着﹂の儀礼は永寿院の部屋で行われ、﹁下帯召初﹂は 永寿焼から下帯を頂戴して行っている。﹁表へ引移﹂のよう

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40 な政治的儀礼については官年に従い先例よりも執行時期が早 められているものもあるが、このこつの儀礼は肉体的成長に 合わせて行われる身体的儀礼であり、これらは実年齢に則し て行わざるをえなかった。そのため公に行うと年齢水嶋しの からくりが家中はじめ幕府にも明らかになりかねなかったた め、﹁御家之御格式﹂には影響がないと認識したうえで﹁内 ︽ 別 } ム ペ ﹂ に 行 わ れ た の で あ っ た 。 奥 の 閉 鎖 的 な 側 蘭 を う ま く 利 用 し た 事 例 で あ る と 言 う こ と が で き る 。 次に、前にみた義裂と毅其の﹁対顔﹂に再び校目したい。 これは中屋敷の奥御殿において当主義援はじめ﹁上々様﹂が 同席した銭安の場において行われたが、この際、今宮大学、 小瀬縫殿助の二人の家老も府内で料理を振舞われている。奥に おける家者の存在は次節で検討する。佐竹家の江戸中度数の 奥には、都附主家族の他にも壱岐守家の男性(当主、隠居、嫡 子)といった簿主親族、家者まで出入りをすることがあっ た。このように佐竹家の奥では務主家版・親族の縫袋が行わ れ、これらの人々のつながりを強くする場でもあったのであ 守 也 。 第二節﹁上々様﹂の同意と﹁御家﹂の存統 これまでの大名家の相続の研究では宗家の相統について一 族と熟談し了解をとるなど、分家・一門が重姿な役割を巣た してきたことは明らかにされてきたが、女性を含む務主家族 の関わりについては手薄になってしまったように感じられ る。そこで本節では﹁上々様﹂と称される佐竹家の務主家膝 が﹁御家﹂の存統にどのようにして関わったかをみていくこ と と す る 。 義真の﹁嫡孫弘﹂の際の﹁上々綴﹂の岡村山形成の過程は前 に述べたとおりであるが、義思を義裂の義子に決定する際も ﹁ 上 々 様 ﹂ の 同 訟 を 得 る た め 、 今 宮 大 学 は 江 戸 へ 赴 い て い た 。 このような﹁御家﹂の存統に関わるような事項については ﹁上々様﹂の同意が重要であり、その悶怒を得ることは家老 の役割であった。彼らは府内の女性たちの同訟を得るために奥 へ出向くこともあり、いわば表と奥をつなぎ、河者の同意を 形 成 す る 役 割 を 担 っ て い た の で あ っ た 。 義 英 の ﹁ 嫡 孫 弘 ﹂ の 際 、 議 堅 と 永 寿 世 田 が 当 初 同 窓 し な か っ たことは前に述べた。こうした事例からは、﹁上々様﹂が同 意をしない場合には当主の言葉を伝えたり、先例などをもち だして説得をするなどし、同恕を得るまで表と奥を行き来し て い た こ と が 想 像 で き る 。 このように、義子の決定、男子の政治的身分の枯得、呼称 の決定など﹁御家﹂の当主の存続に関わるような事演につい て は 、 表 で の 悶 怒 の 後 、 ﹁ 上 々 様 ﹂ の 同 意 が な け れ ば な ら ず 、 祭 主 也 は 山 内 に 住 ま う ﹁ 上 々 様 ﹂ の 向 立 を 得 る た め 奥 に 出 入 り し 、

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41 説得をした。そうした労をねぎらうために、時には梨で料濯 を振舞われることもあったのだと考えられる。 ﹁上々様﹂の向怒形成に関わる家老の存在が見出せる一方 で 、 ﹁ 上 々 様 ﹂ の な か で の 同 窓 形 成 の 動 き も 見 ら れ た 。 ま ず 談 万 円 の ﹁ 一 嫡 孫 弘 ﹂ の 際 の 如 H 消院の動きに再び注目する と 、 今 宮 大 学 ら が 訪 れ て き た 際 、 自 ら の 同 窓 の 泣 田 ど を 伝 え る とともに、を岐守家の沼田出総長の怒見を気にかけ、今宮へ議 長のもとへ赴くように指示している。智治院はこの時七

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歳 を越えており、長く佐竹家の女性として奥をまとめ、﹁御家﹂ を見守ってきた存在であった。先例についても銀協な知識が あり、人生緩験も豊富であったことから、﹁上々様﹂の和を とりもち、﹁御家﹂の安定した継承のためには必要不可欠な 存 筏 で あ っ た の で は な い だ ろ う か 。 また、議哀の父義堅を養嗣子として決定する際、智清院、 議長、議案正室が寄合をしてな息の統一を闘っていた。養嗣 子の決定は﹁御家﹂の存統においてとても重要であり、やや ともすれば意思の統一がならなかったことで騒動に発展しか ねず、このような供重に扱うべき事現については﹁上々様﹂ の聞で不和が生じないようにするためにも寄合をして調整を す る 必 要 が あ っ た の で あ ろ う 。 本節で述べてきたことをまとめると、務主はじめ家老たち による表での同意、それに引き続く﹁上々⋮様﹂と称される奥 の立性を含む務主家族と分家大名である菅波守家の務主親肢 の 河 窓 な ど 幾 重 一 に も 及 ぶ 悶 窓 の 末 、 ﹁ 御 家 ﹂ の 存 続 が 濁 ら れ ていたということができる。そうしたなかでも表と奥の蕊思 統一を導くために努力する家老と奥において藩主家族・親族 内の和を取り持とうとする女性の存在が﹁御家﹂の存続を図 る 上 で 重 要 な 役 割 を 果 た し て い た 。 第 一 一 一 節 義 峯 の 娘 た ち これまで結婚後の女性と実家との関わりについては畑尚子 氏が将軍家の事例を検討している。氏は将軍の姫は﹁御守殿﹂ を通して将軍家や江戸城大奥との交流や繋がりを直接持ち、 笑子や嫡出女子は鳩上寺に埋葬されるなど、嫁いでも将軍の 家族として遇され、実家で手厚い悦相続がなされていたことを 明らかにしている。一方、大名家の艇については、尾張徳川 家の事例を正室付女中に注目して論じているが、実家今家 のどちらに帰属するかははっきりしないとしている。 そこで本節では義真にとっては務理の叔母にあたる議採の 五人の娘のうち、伊予松山静松平定喬に嫁いだ長女照(﹁愛 と み 宕 下 御 前 様 ﹂ ) と 信 州 飢 山 本 務 松 平 光 雄 に 嫁 い だ 二 女 一 同 ( ﹁ 呉 服 橋奥様﹂)を中心に彼女たちと議其の関係を分析するなかで 実 家 と の 関 わ り を み て い き た い 。 前 に 述 べ た 義 政 刊 の ﹁ 嫡 孫 弘 ﹂ の 際 の 贈 答 で は 、 ﹁ 上 々 様 ﹂

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42 との務主家族続族内での贈答に限り、親戚大名との贈答は おこなわれなかったが、松平家へ嫁いだ話とは贈答を行って いる。また嫡孫承祖の祝儀の饗宴においては照・富いずれも 夫の大名とともに出席している。このように実家で﹁上々様﹂ として伯加わっていた紛答が嫁いでも断絶することなく継続 し、また祝儀の饗{去の際など実家に出入りする機会もあった こ と が わ か る 。 また、家老たちとも嫁いでもなお﹁上々様﹂と家老の関係 が続いていたと考えられる事例もある。究保一一一年(一七回 一 ニ ) 、 家 老 山 方 泰 該 は 智 消 院 と 枯 拍 車 中 正 室 の も と へ ﹁ 然 、 中 御 機 嫌侭﹂に出向き、この前後には﹁愛宕下﹂、﹁呉服橋﹂へも向 A M M ︼ 様に出向いている。また、山方が図許へ帰る際には照のもと へ挨拶に出向いている事例もみられるが、彼はそこで孫の誕 生をきいた照から手製の御守袋と人形を贈られ、その後料理 A m ︼ を 振 舞 わ れ て い る 。 このように佐竹家の女性は嫁いでもなお実家から﹁上々様﹂ と し て 遇 さ れ 、 儀 礼 の 折 々 の 贈 答 に 加 わ っ て お り 、 北 北 山 市 の 娘 たちと義哀の関係は、彼女たちが嫁いでも﹁上々様﹂との間 柄でつながっていたということができる。大名家の男子が他 家に養子にいく場合、苗字、姓ともに変わり、養子先の家の 者として遇されるのに対し、女性の商字と刻は実家の氏の系 { ω } 訟につながり、嫁いでもなお実家との強い結びつきがあった が、それによって親戚大名とのネットワークを構築し、強 化・維持することができたのではないかと考えられる。ここ では断片的な事例であり、他の史料によりさらに突 z耐を深 め、大名家の娘が嫁いでも実家の家族として遇されていたこ と が 、 明 林 務 制 社 会 に い か な る 彩 捌 慨 を 与 え て い た か に つ い て 検 討を深めることは今後の課題としたい。 お わ り に 佐竹義衣の人生儀礼を系統的に分析することによって、彼 の人生儀礼は、﹁御家﹂の安定した継承を視野に入れた日程 で執り行われていたことがわかった。 事保一五年(一七三

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からの佐竹義察の養子選定は、血 筋と年齢ともに申し分のない者を求めた結果、式部少納家か ら議接とニ歳しか年齢の変わらない佐竹議限一を縫桐子に迎え ることとなった。しかし、当主殴嗣ともに﹁御長年﹂であ り、議案に実子が生まれる可能性が低くなることで存在感を 噌してきたのが、議墜の庶子友吉であった。彼は議峯に実子 が生まれる可能性が低くなるにつれ身分を上昇させ、嫡孫と し て 遇 さ れ る よ う に な っ た 。 究保二年(一七回一一)父義竪が死去したことによって、嫡 孫承祖し、佐竹家の世嗣となるが、当主義察との血縁関係が なく、幼年の義災の身分は盤石なものであるとはぎえなかっ

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43 た。この時拐にはもはや義崇に男子が誕生する望みはほとん どなくなっていたが、義峯の養子選定時に候補となっていた を蚊守家の求馬は、義真よりも政治約肉体約にも成長して おり、両者の僚で、義裂に不測の事態が起きた場合には家督 を巡る対立が生じかねず、そこで義竪の死後一年の聞に、嫡 孫承組によって股嗣身分を獲得した後も談哀の儀礼が集中的 に行われ、急速な政治的身分の獲得が行われた。そうするこ とによって、求馬との身分の巡いも演出され、﹁御家﹂の安 定した継承が殴られたのであった。 近世の幕滞権力の特徴のひとつとして家政的な側面を持っ た﹁家﹂としての権力体が公権力として権力を行使していた ことがあげられる。務放を弓り民衆支配を行う﹁公儀﹂と家 { 刷 V 政を司る﹁内儀﹂には分かちがたい側一闘があった。表で政治 を行う公儀権力の主体は権主以下家老をはじめとする男性家 医であり、奥の女性たちは表の政治には基本約には携わらな かった。一方で内儀において奥の務主家族の女性は大名の子 女を産み、育てることに加え、子女の身分の獲得の際の間 窓、恭子決定の同窓など、﹁御家﹂を構成する一員として家 政 に 携 わ っ て い た 。 公儀において家老は行政を控い、また内儀においては後継 者の確保も狽い、公儀と市内儀が分かちがたく結びついている なかで二つの役割を担った存在であった。議峯の恭子選定、 議哀の﹁娘孫弘﹂の際、今宮大学は、後継者を定めることは ﹁御家御閤之御恨源﹂を﹁厚ク﹂することになると述べてい た。このことから後継者を磁保することが公儀と内儀の線幹 であると認識されていたと理解することができるが、この根 幹が揺らいでしまえば公儀としての権威が衰え、今宮の改革 政治の遂行にも支隊をきたす可能性もあったことから、彼は 談誌の身分の獲得、権威づ付に絞極的に関わりこの銀幹を厚 くすることに努めた。一方、奥においても﹁御家﹂の存続に 関わる重要事項について離主家族の人びとは寄合を行うなど して家族内の恕思疎通を悶り、家内秩序の維持に努め、家政 に混乱が生じないように努めていた。このように表と奥それ ぞれの中抑制を担う人びとは協力して内儀を治めることで、公 儀としての権威の維持に努めていた。奥の女性は内儀におい て混乱が生じないように努めることで、間接約ではあるが表 の政治に混乱が生じないよう、公儀の権威の維持に寄与して いたということができる。このように表と奥は有機的に結び ついて﹁御家﹂の存統に努めていたのだった。 近世中期に至り、務財政の慢性的な悪化、また役会状況の 怒化に対応する必要性が生じ、務政は問題が山積みであっ た。それに加え後継者の確保が覚束ないという問題が生じ、 ﹁御家﹂の安泰のために世澗となりうる男子のそれまでより も 一 岡 山 早 い 政 治 的 ' 井 分 の 獲 得 、 権 威 づ け が 行 わ れ た 。 そ れ に

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合わせて先例も磁され、新たな先例を創出することで政治・ 社会状況の変化に対応し、﹁御家﹂の永続を閉山ったのだった。 義哀の死後、務主の早世、幼少相続が続き、落政について は、家中騒動や一撲の多発など混迷を深めていくが、そうし たなかで、務中十一の身分の獲得にどのような変化が生じるの か、議真の先例はどのように受容され、変容していったの か、今後の課題としたいロ ( i ) ﹁今宮大学説透御家老勤中日記﹂卒保十七年八月六日条(﹃悶 典 類 抄 ﹄ 第 一 巻 、 一 一 一 頁 ) 。 以 下 ﹁ 議 透 日 記 ﹂ と 略 記 。 ( 2 ) 中田線﹃法制史論集﹄第一巻︿岩波郡閥、一九二六年三石井 良 介 ﹃ 日 本 抑 制 統 法 史 知 ( 背 林 叫 院 、 一 九 五 問 年 ) 。 鎌 団 地 旧 ﹃ 明 幹 部 体制における武士家族法﹄(成文堂、一九七

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年)。服務弘司 ﹃ 相 続 法 の 特 質 ﹄ ( 部 文 堂 、 一 九 八 ニ 年 ) 。 ( 3 ) 笠谷和比古﹃主君﹁抑込﹂の構造

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近 世 大 名 と 家 隠 問 陥 ( 講 談 社 学 術 文 郎 、 二

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六 年 ) 。 ( 4 ) 大 森 映 子 ﹃ お 家 相 続 大 名 設 の 背 洲 ﹄ ︿ 魚 川 選 出 、 一 一

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悶 年 ) な ど 。 ( 5 ﹀ 都 田 千 鶴 ﹁ 近 枇 大 名 相 続 に 開 閉 す る 法 礎 的 研 究 ﹂ ( ﹃ 史 料 館 研 究 紀要﹄第一一九号、一九九八年三岡原持﹁近枇大名における義子 相続と幕時附制社会﹁他家﹂養子を中心として﹂(﹃史学﹄六 七二、一九九八年)。自恨孝胤﹁徳川宗務の家信相続官位叙 任 と 幕 開 附 関 係 ﹂ ( 林 抑 制 一 編 ﹃ 近 世 名 古 窓 本 元 絵 巻 の 世 界 ﹄ 前 文 堂 、 二

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じ年)。佐藤宏之﹃近世大名の権力総成と ι 弔 意 識 ﹄ ( 士 阿 川 弘 文 館 、 ニ

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年 ) な ど 。 ( 6 ) 大友一蛾﹁近枇武家社会の年中儀礼と人生儀礼はじめての 御 目 見 に 注 目 し て ﹂ ( ﹃ 日 本 間 出 史 ﹄ 第 六 一 一 一

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吾 、 一 一

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年 三 悶 ﹁ 近 世 の 武 家 儀 礼 と 江 戸 江 戸 城 ﹂ ( 明 日 本 史 研 究 ﹄ 第 四 六 一 一 一 号 、 一 一

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一 年 ) 。 大 勝 修 氏 は ﹁ 秋 間 滞 佐 竹 家 子 女 の 人 生 儀 礼 と 名前徳川将説家と比較して﹂(﹃図立陛史民俗博物館研究報告﹄ 第 一 四 一 集 、 一 一

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八 年 一 一 一 月 ) に お い て ま に 朗 代 務 主 義 絡 ま で の佐竹家子立の人生儀礼を系統的に分析し、個々の儀礼の位校 づけやその関連性、さらには名前についてまで検討している。 本怖において佐竹義立の人生儀礼の時代的特徴などをつかむう え で 比 較 対 象 と し て 大 藤 氏 の 研 究 に 多 く を 学 ん で い る 。 ( 7 ) 大 友 一 雄 氏 は 前 畑 山 論 文 ( 二

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年)において、政治的なも のも含め人生において一度限りの儀礼行為をすべて人生儀礼と 呼 ん で い る 。 本 航 で も そ の よ う に 人 生 儀 礼 を 位 校 づ け る 。 ( 8 ) 長 野 ひ ろ 子 ﹁ 幕 務 制 部 裁 の 政 治 構 造 と 女 性 ﹂ ( 河 吋 日 本 近 昨 日 ジ ェ ン . タ 1 1 酬い古川弘文館、ニ

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一 一 一 年 ) 、 ( 近 世 女 性 史 研 究 会 縦 明 江 戸 時 代 の 女 性 た ち ﹄ 古 川 弘 文 館 、 一 九 九

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年 初 出 ) 。 ( 9 ) 州尚子吋徳川政権下の大災と奥女中﹄(岩波議出、二

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九 年)。松崎聡美﹁近世武家社会のジェンダ l e システムと女性の 役割近世中期の仙台部伊述家を事例として﹂(﹃歴史﹄一

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一 一 一 料 、 二

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問年)、河﹁天下統一・幕務制確立期における武家主 性の役割仙台務伊迷家を事例として﹂(﹃悶史談話会雑誌﹄第 凶 五 号 、 一 一

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悶年)。柳谷陵子﹁武家話会と女性﹂(大石学編 ﹃本保改革と社会変容﹄古川弘 f X 館、ニ

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一 一 一 年 ) 、 陀 ﹁ 武 家 権 力と女性正室と側議﹂(絞剖民柳谷慶子抑制﹃︿江戸﹀の人と 身 分 4 身分のなかの立性﹄古川弘文館、二

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年 ) 。 高 野 信 治﹁給人多久氏夫裂の知行地入部武家の姿と主従制領主制

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﹂ ( 向 ﹃ 近 世 側 主 支 配 と 地 域 社 会 恥 校 食 前 日 出 、 一 一

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九 年 ) 。

(22)

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5

( 叩 ) 全 一 九 巻 、 加 賀 谷 市 町 応 、 一 九 七 八 1 一 九 八 じ 年 。 以 下 、 ﹃ 悶 典 矧抄﹄については、﹃国﹄品数真数で附記サる。引用に当たっ て は 適 宜 読 点 を 付 す 。 t L f 弘 之 L ︿ に ( 日 ) 一 一 一 代 務 主 義 処 は 例 制 の 後 継 者 確 保 の た め に 佐 竹 式 部 少 側 議 都 ZL 々 が に 一 万 石 ( 式 部 少 輔 家 ) 、 佐 竹 を 蚊 守 議 長 に 一 一 万 石 ( 官 官 岐 守 中 部 ) を分知して分家大名を創設した。を岐守家は義長の浪子に一門 上 L -一 助 む 京家から義道を迎えて相続させ、彼には延労丸という嫡子もい K L J か たが、一一代滞主義降と義処の血筋が絶えること、幼年であるこ とが問題となり、家老たちは諸処の孫にあたる棺馬徳胤を義阜市 の娘畑町に迎えようとしたが、初出向家に断られ、血筋、年齢とも に申し分ないとして、式部少腕家の義堅が義嗣子に逃ばれた。 ( ロ ) ﹁ 義 透 司 記 ﹂ 事 保 十 七 年 五 月 九 日 条 ( ﹃ 図 ﹄ 一 一 一 五 九 ) 。 ( 日 ) ﹁ 義 透 日 記 ﹂ 本 保 十 六 年 十 二 月 六 日 条 ( ﹃ 悶 知 一 一 一 一 一 一 1 一 一 一 一 一 一 一 ) 。 な お 卒 保 一 六 年 九 月 に は 議 案 の 庶 子 仙 寿 九 が 誕 生 し て い るが、この時すでに義援を延子とすることが決まっていたこと もあり、出生を泌そうとしたものの、家中に広まってしまった 事 例 も あ る 。 ︿ HH) 威武男校訂﹃新編佐竹氏系鴎﹄(加賀谷川口倍、一九七三年三 六 九 1 七 四 頁 。 (日)門閥砲座の出で、本保六年こむこ一)家者となる。 ( 日 ) 亭 保 一 人 手 ロ フ 刷 、 一 五 文 元 年 に は 鉛 泰 行 と な る 。 制 引 佐 次 お 衛 門は義山市の縫子選定から、後述するように義況の政治的身分の 獲得にまで深く関わっているが、大名家の男子の政治的身分の 投 前 日 と 旗 本 と の 関 わ り の 検 討 に つ い て は 今 後 の 課 題 と し た い 。 ( げ ) ﹁ 義 透 日 記 ﹂ 本 保 二 十 年 間 一 一 一 月 八 日 条 ( 吋 悶 ﹄ 一 一 一 ) 。 ( 同 ) ﹁ 義 透 日 記 ﹂ 同 年 間 一 一 一 月 十 二 剖 条 ( 明 国 ﹄ 一 一 l i t -一 ) 。 ( 川 山 ) 門 間 ﹄ 一 一 一 一 。 ( 初 ) ﹁ 義 透 日 記 ﹂ 元 文 一 一 一 年 二 月 日 六 日 条 ( ﹃ 悶 ﹄ 一 一 一 一 一 1 昭 三 ( 剖 ) ﹃ 義 透 日 記 ﹂ 同 年 二 月 廿 九 日 条 ( 吋 隙 陥 二 四 ) 。 ( 辺 ) ﹁ 義 透 日 記 ﹂ 同 年 間 月 七 日 条 ( 吋 留 ﹄ 一 一 五

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六 ) 。 ( 幻 ) 布 施 氏 時 限 。 一 一 一 代 滞 主 義 処 の 侍 妾 で あ っ た が 、 元 禄 十 五 年 ( 一 七

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一 一 ) 正 室 に 擬 さ れ た 。 立 延 二 年 ( 一 ー じ 四 九 ) 八 五 成 で 死 去 ( 吋 新 編 佐 竹 氏 系 図 ﹄ 五 八 頁 ) 。 ( 剖 ) ﹁ 義 議 日 記 ﹂ 元 文 一 一 一 年 四 月 十 一 一 日 条 ( 吋 悶 二 九 ﹄ ) に ﹁ 相 官 能 院 開 叩 兵 部 少 輔 様 大 御 , 山 間 悼 江 御 内 談 彼 遊 皆 同 叩 同 意 ニ 付 ﹂ と あ る 。 ( お ) ﹁ 義 透 日 記 ﹂ 問 年 四 月 十 日 条 ( ﹃ 国 ﹄ 一 一 六

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九 ) 。 ︿ お ﹀ 大 繰 り 川 掲 お ︿ ニ

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四 年 ) 。 ︿ 幻 ) 佐 竹 式 部 少 帥 州 議 都 の 侍 妾 で あ っ た が 、 諮 問 院 を 皮 み 、 正 室 に 綴 される。義都没後永寿院と号した(吋新編佐竹氏系図 h 七

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頁 ) 。 ( お ) ﹁ 義 透 日 記 ﹂ 元 文 三 年 五 月 七 日 条 ( ﹃ 国 ﹄ 一 一 一 五

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( 初 ) ﹁ 間 的 治 左 衛 門 秀 満 徳 寿 丸 山 慨 御 附 頭 役 勤 中 日 記 ﹂ 一 五 文 田 年 四 月 十 一 日 条 ( ﹃ 悶 ﹄ 二 二 一 一

135

以 下 ﹁ 秀 前 日 記 ﹂ と 略 記 。 (叩)﹁秀前日記﹂元文四年四月十七日条(﹃国﹄二二割 1 一 一 六 ) 。 ( 別 ) ﹁ 秀 満 日 記 ﹂ 陀 年 四 月 十 三 日 条 ( ﹃ 国 ﹄ 二 二 一 一 一 1 二 問 ) 。 ︿ ロ ) 中 間 前 掲 没 。 ( お ) 鎌 田 前 縄 市 川 。 (MM) ﹁秀満日記﹂覚保二年間月十一一一十六十八日条、﹁御右筆処 御浅物御日記投故﹂同年四月﹂ l 九 日 条 ( 明 削 悶 恥 二 一 一 一 二 1 一 一 一 四 ) 。 (お)﹁御右筆処御性物御日記書紋﹂悶年限月廿八日条(吋庖﹄一 一 一 中 ハ ) 。 ( 犯 ) 吋 悶 恥 一 一

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一 一 一 九 。 ( 幻 ) ﹁ 秀 尚 日 記 ﹂ 党 保 一 一 一 年 正 月 十 二 日 条 ( 吋 悶 ﹄ 一 三 回 ) 。 ( 犯 ) 大 藤 前 掲 論 文 。 (ぬ)今野氏﹁幕滞体制下の生活規制

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物停此令と禁字

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﹂ ( 吋 宮

(23)

46 峨 庇 史 科 学 研 究 恥 第 一 一 一 八 号 、 一 九 九 四 年 三 今 野 氏 は 禁 字 を 、 身 分を越えた生活規制とし、権力的権威的序列をより強く認識 させる機会であったとする。松田務においては安永四年(一七 五五)段階で禁字法令が全領誌を対象に発布されていたことは 明らかだが、いつから始まったのかは明らかではなく、甘や保年 間では少なくとも禁字規制が体系化されていなかったとしてい 又 旬 。 ( 岨 ) 吋 ⋮ 回 出 一 一

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一 一

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。 (必)今村義孝尚橋秀夫編﹃秩田滞町触接﹄上(未来社、一九七 一 年 ) 、 二 六 賞 。 (MH) 大 友 前 拘 論 文 ( 一 一

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年 ) 。 ( 必 ) ﹁ 御 右 彼 処 飾 部 物 御 日 記 山 政 ﹂ 究 保 二 年 十 月 一 一 一 日 条 ( 吋 図 ﹄ 一 一

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五 万 ( 判 ︺ ﹁ 御 布 箔 処 御 お 物 御 日 記 市 川 町 抜 ﹂ 延 手 元 年 八 月 H 五 日 九 月 朔 日 条 ( ﹃ 困 ﹄ 一 一 一

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八 三 (MM) ﹁ 秀 満 日 一 J 山 ﹂ 犯 保 一 一 一 年 正 月 十 七 日 条 ( 吋 悶 ﹄ 一 j 五 九 ) 。 ( 羽 ) ﹁ 秀 満 日 記 ﹂ 同 年 一 一 一 月 八 日 条 ( 明 悶 ﹄ 一 六

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。 ( 灯 ) 大 藤 前 掲 諭 z V ( 川 崎 ) ﹃ 秩 岡 山 A ﹄ 第 一 一 数 近 役 柄 棚 上 。

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八代務主義敦、九代部主益和ともに一一歳で相続した。議敦 は逃領在制捜対してから約一カ月後に表へ移り、義和は六月一日 に 父 義 教 が 死 去 し 、 間 開 封 前 の 七 月 一 一 四 日 に 表 へ 移 っ て い る 。 銭 其以降の離主では、肉体的精神的成長を待たずに表へ移って い る 引 例 も 見 受 け ら れ る よ う に な る 。 ( 印 ) ﹁ 説 遊 日 記 ﹂ 平 保 十 五 年 四 月 二 十 七 日 条 ( 吋 悶 ﹄ 一 一 一

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一 一 ﹀ 。 (日)﹃秋田県史﹄第二巻近枇編上。 ( 臼 ) ﹁ 察 宗 日 一 品 ﹂ 宝 儲 一 一 一 年 十 一 月 九 日 条 ( 吋 間 間 隔 八 閉 九 三 ﹀ 。 ( 日 ) 幅 削 間 千 鶴 ﹁ 近 世 中 期 に お け る 彦 恨 引 伊 家 の 奥 向 ﹂ ( 村 完 成 彦 編 ﹃ 彦 回 世 城 博 物 納 議 お 6 武家の生活と救護﹄サンライズ出版、ニ

00

五 年 ) 。 ( 日 ) ﹁ 秀 糊 日 記 ﹂ 一 見 文 五 年 十 月 じ 日 条 ︿ ﹃ 国 ﹄ 一 四 七 ) 。 (日)大森映子﹁大名相続をめぐる分家と一門﹂(深谷克己姻新総 明 ︿ 江 一 一 戸 ﹀ の 人 と 身 分 3 権威と上昇駅製﹄古川弘文館、ニ

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年 ) 。 ( 日 ) ﹁ 説 遊 日 記 ﹂ 事 保 十 六 年 三 月 十 じ 日 条 ( 明 間 ﹄ 一 一 一 一 一 五 万 ( 貯 ) 畑 前 弱 視 。 (日)﹁山方内匠泰滋御家老勤中日記﹂党保一日一年十一月引六日条 ( ﹃ 闘 ﹄ 一 四 四 八 一 ) 。 ( 印 ) ﹁ 泰 談 日 記 ﹂ 延 本 元 年 三 月 四 日 条 ( ﹃ 悶 ﹄ 一 一 間

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凶 八 一 一 ) 。 ( 印 ) 大 藤 仲 間 ﹁ 近 世 の 国 家 社 会 と 商 字 姓 氏 ﹂ ( 同 ﹃ 近 世 山 崎 民 と 家 村国家﹄古川弘文館、一九九六年)。 ( 引 ) 山 口 啓 二 吋 鎖 閉 山 と 悶 悶 ﹄ ︿ 岩 波 現 代 文 庫 、 一 九 九 三 年 ) 。 ︿ 何 一 宮 山 ﹀ 本 輸 は こ

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年度東北大学文学部卒業論文を改稿したも の で あ る 。

表 佐 竹 毅 A の人生儀礼 日 時 数(官え年年齢 )  儀礼名 出j考、 ~J~拠 卒保 1 7 年(1 7 3 2 )8 月 4 日 誕生 於 江 戸 朝 W ]r明日(中屋蚊) 父佐竹瀧~ 母野口氏(1',姿) r図~ 1 ‑ 3  『党政 J 幼名 「左 : rT J  r悶 』 本保 2 0 年間 3 月初日 4  対 顔 『悶~ 2 ‑ 2  同 2 0 年 1 0 月 2 5 日以後 4  (髪配) 「左古様ニ而御!韮位被成!日]数 J r 匝』 1 ‑ 1 9  元文フロ年(1 7 3

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