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湖東焼の歴史と工芸としての価値
小 倉 栄一 郎
一 湖東焼の評価 湖東焼というのは,彦根において幕末の僅かな期間に焼かれた陶磁器で,そ のうちの逸品ばかりが相当数現存しているが,愛好家によって秘蔵されてい て,日常衆目にさらされているものではなく,店頭に姿を見せることも回れで, 幻の名品といわれている。銘の入れ方にはさまざまあるが,最盛;期の製品には 「湖東」と銘されたから,湖東焼と呼ばれるのである。彦根焼と呼ばれること もあるが,製品に彦根の字が入ったものはない。 文政13年(1829)から14年間は,絹屋半兵衛が経営する絹屋窯が製品を出 なおあき し,民窯時代と呼ばれる。つづいて,彦根藩主第12代井伊直亮がこれを召上げ なおすけ て8年間,第13代の直弼がこれを継ぎ,一時は,領内の豪商藤野四郎兵衛に委託 した二年間があるが,直弼の推進力が効を奏して,黄金時代を迎え,万延元年 (1860)桜田門外で兇Nにたおれるや,黄金時代が突如として幕を下ろした。 なおのり この間10年。第14代の直憲が継いでからは,職人の相当数が彦根を去り,規模 は半減し,文久二年(1862)10万石陸封されたのを機に窯を閉じた。通算21 年。これを藩窯時代と呼ぶ。藩の窯と諸道具・材料は山口喜平以下4人に払下 げられ民間の経営となった。この民窯時代を山口窯時代と呼ぶ。山口窯では藩 窯の半製品を仕上げたし,藩窯なみの技術で焼かれたので,湖東焼であること にしきには変わりがない。また,山口窯で焼いた素地に,城下の別の錦窯場で赤絵付 をしたものもある。これらを民窯赤絵湖東と呼び,湖東焼の系譜に入れるべき である。これに対して,他産地の素地に上絵付して湖東の銘を入れたものもあ るが,これは湖東焼ではない。明治二年,直憲は下智を奉還し彦根知藩事に任命せられたが,直憲の殖産興 業の道の一つとして,その年,円山に窯を開いた。昔の湖東焼に比し,窯は小 あとがま さいが,材料の用法,焼成法ともに伝承しており,一般には「後窯の湖東焼」 「円山湖東」といっている。2年間で廃止せられた。職人は京都や瀬戸,万古 に去ったが,湖東を称する「写しもの」を焼いた例はあるが,彦根で窯を再興 することはなかった。 藩学時代のうち,直弼の時代には藩窯の製品には小判形二重枠の中に楷書で 湖東の二字を書く銘がもっぱら用いられたが,他の時代には,これと同じ銘の ほかに,さまざまの湖東銘や,同義の他の文字を入れたものもあるから「銘」 のみで判定するわけにはいかない。素地の色の特色や,平野の発色具合の特色 も重要なきめてであるが,これとても,直弼の前の時代と,後ではいくらか相 違点がある。絵付の絵師の筆法に優位があるが,それらは筆舌に尽せないもの で,すぐれた観賞眼に負わねぽならない。いくらか詳細に後述したいが,要は 製陶技術史上,あるいは,美術史上における湖東焼の位置づけの問題である。 筆者のみならず,湖東焼を知る人は,日本陶芸技術の峠に位置せしめてい る。すなわち,江戸中期ともなると,日本製陶技術は,中国の影響を脱して独 り歩きをはじめたばかりでなく,中国やヨーロヅパに影響を与えはじめた。追 いつき,追い越して,世界の首位に立ったのである。鎌倉時代に中国で学んだ 加藤四郎左衛門景正が創始した瀬戸焼は古瀬戸といわれ,室町時代には茶器に も進出したが,その後急速に衰退していたものを,江戸時代に入って尾張藩が 御用窯として再興し,保護を加えたので,ふたび隆盛に向つた。有田焼という のは,佐賀藩主鍋島直茂が朝鮮から連れ戻った陶工李参平が開いた藩の御用窯 で,肥前各地で焼かれ伊万里港から全国に積み出されたので,伊万里焼と呼ば れ,江戸期製陶の先頭に立っていた。この技術を加藤民吉が瀬戸に導入した ことによって,瀬戸は文化年間からにわかに勢力をえて,幕末に急成長した。 古九谷というのは江戸時代初期に,加賀大聖寺藩主前田利治の命で,藩±:後 藤才次郎が伊万里焼を学んで帰り,焼きはじめたもので,承応・明暦の頃から 五十年程つづき,藩の財政窮乏により廃止されたのであるが,やがて,文化年
22 もくべい 間に青木木米などがそれぞれに再興したのが九谷焼である。その他,大藩小藩 の別なく,多くの藩で藩窯がこころみられたのである。 元禄あたりから日本人の生活水準が上昇しはじめ,文化・文政の頃(19世紀 初頭)に著しい高まりをみせるわけであるが,陶磁器生産はこのような生活水 準の上昇に裏付けられた強い需要に支えられていたわけで,その頃,各藩は国 産奨励すなわち,藩の手による産業の育成に努力していたが,陶磁器生産は 時代の花形として多くの藩がこれに乗り出していたのである。それが藩窯であ る。彦根藩もむしろ後発ではあったが,江戸幕府の中枢をにぎる雄藩としての 実力にものを言わせ,藩窯湖東焼を推進した次第で,技術と職人を伊万里,瀬 戸,九谷から積極的に導入した。伊万里も瀬戸も,先発の強味で,すでに全国 的市場をもっていた。陶磁器のことを,「いまり」とか「せともの」と俗称す るにいたったのはこの事情による。したがって,その技術は最先端をゆくもの であったから彦根藩はこれに追随したのである。 たとえば,有力な陶器生産地の信楽でさえ瀬戸もの屋が幅をきかせているよ うに,水準が高くなった国民生活に浸透していったのは磁器で,先進窯業地の 伊万里や瀬戸では主力は磁器生産,しかも文化・文政期の商品経済の浸透の波 に乗って大衆的日用品の大量生産に移行して,急激な発達をとげたのである。 量産体制をとっている産地ででも,陶芸作家が並存しているものである。し かし,その間には厚い壁があって,量産技術と芸術は相反するようである。伊 万里・瀬戸はこの段階で大勢を決し,大衆日用品の量産体制と全国市場への供 給体制が整えられた。一方で,陶芸作家にしても,向上した民生需要に応じ て,それなりの量産に向うので,過言のそしりもあろうが,質的進歩が停止し たとみる。 京焼はいささかことなる。清水焼を中心に,古く,広範な発達をみたが,京 都はわが国最大の文化都市だけあって,強い高級品需要があり,花器,茶器を はじめ各種の高級品生産が成立したのである。しかし,その主力は陶器で,磁 器生産は,こころみられてはいたが,開発途上にあり,伊万里,瀬戸,九谷に は,はるかに及ばなかった。なかんづく,大衆日用品の生産の兆もなかった。
多くの藩が国産として窯業を育成しようとする動向はこのような時代的背景 をもっていたわけで,お庭焼き,御用窯,藩窯などと呼ばれ,いくらかニュア ンスのちがいがあるが,それは藩の事情によるもので,多くの藩が自ら経営し た。藩は自給自足体制の必要上,他藩産物二二という目標があったが,大衆日 用品市場はすで侵食されていたので,花器や茶器にその土地の持ち味を活かす 方向へ特化していった。いつれも藩の保護をうけると同時に,強い規制をうけ ていた。明治維新に際して藩の統制が解かれると,業者間の競争が激化し,乱 生産を誘発して,品質が著しく低下,ついに,消滅していったものが多い。そ の復興には,今次大戦後の経済の急成長による高級品需要の増大を待たねばな らなかった。今日,伝統工芸といわれ「昔,お殿様のお庭焼きであった」と註 がつく地場特産陶磁器はこの種のものである。 湖東焼も一応はこの部類に属するが,著しく高級化を狙って,はじめは伊万 うつし 里から,後に瀬戸,九谷の優秀な技術をとり入れ,はじめは「写」の生産が主 であったが,間もなく湖東特有の陶芸技術を完成して,伊万里,瀬戸,九谷に まさる高級工芸品を生産するにいたった点が特色である。それだけに,他の藩 窯が続々復活している今日でも,湖東焼復活はほとんど望めない。たとえ,復 興をはかる企業家が現われたとしても,技術が追いつかないのである。 湖東焼の最盛期は藩窯時代のうちでも藩主直弼の代で,直弼の死後,間もな く衰滅していった。陶磁器に限らず,絵画・彫刻にしても,芸術一般が,何ら かの実力者の庇護をうけて発達したのは,古今東西を問わない。そして多分に その実力者の趣味,嗜好に左右され,その人の勢力の消長に応じて盛衰した。 その側面だけでいえば,湖東焼もその通りであった。湖東焼に関する文献とし ま て唯一のものは北村寿四郎旧著「湖東焼の研究」であるが,その論旨は藩主直 弼のバトロネジの賞讃につきる。筆者はその点に満足できない。中世の工芸に ついてならともかくも,江戸時代の藩の国産については,産業育成の見地を三 三に据えなくてはならないのである。 D 北村寿四郎「湖東焼の研究」大正14年6月1日 湖東焼の研究出版後援会発行。
24 湖東焼は,工芸技術としては最高の水準を達成した。産業育成という点では どうであったか。結果的には成功しなかったが,それは内在,外在の諸理由に よるところで,別に詳細に論じたいと思う。総じていえば,文化・文政期を過 ぎて,経済の成長が鈍化し,黒船来航など外患におびえて,民需が冷却しきっ ていたので,伊万里や瀬戸のような華々しい展開は不可能であった。それで も,彦根藩の推進力は強くて,上述のような高級品生産技術を確立するととも に,大衆日用品生産技術もしかるべく発達せしめていた。すなわち,生産面で は所期の目標を達成していたのに,販売面では市場の開発確保に失敗したので ある。地方市場を官僚統制にしばられた株仲間商人に寡占せしめ,他国産品に 対抗するに必要な自由な戦術をとらせなかったこと,京都,大坂,江戸,での 高級品市場の確保には相当積極的であったが,すでに景気が冷え切っていたわ けである,たとえていうなら,せっかく優秀品種の種子を入手したのに,時す でに遅く,大地は結氷していて,発芽しないまま生命力を失ってしまった。一 部京都へ移し植えた分だけは見事に発芽して,大日本幹山で世界的に通用する 京焼の磁器生産が確立されたのである。 二 湖東焼の技術 絹屋半兵衛は城下町の東端,鳥居本道沿いに店を構えた古着商であったが, 京焼に刺激せられ,有田の陶工を連れ帰り,同業の島屋平助,西村宇兵衛を誘 って,組合商い(共同出資)で窯業を創始した。文政12年(1829)のことであ る。最初の窯は,芹川畔,晒屋(晒山)に築いた。芹川は城下町の南側に人工 的につけ替えた川で,平地に直線状に堤防を築いてあるが,晒山のあたりだけ が天然の隆起を利用したもので,狭いけれども緩斜面がある。そこに築いたの であるから,多分小規模なものであったと思う。藩の許可をえて初窯の火入れ をしたが失敗し,翌天保元年七月再び火入れしてやや成功をみた。もともと, 棟梁の設計ミスがあったというが,平助がまつ脱退したので,半兵衛と宇兵衛 は移転を決意したQ 移転先は町の東側に走る低い山脈の裾,石田三成の居城跡の意で古城山と呼
ばれている佐和山の一角で,沢山と当字することもある。佐和山は高い山であ るが,その裾にはいくつもの30米ばかりの丘が重なっており,古図には一々名 称が附してあるが,今日の地図に該当させるのはむつかしい。一帯は今次大戦 中に徹底的に耕作され,その後,宅地開発が進行したので,現在は窯跡を証明 するものは残っていないが,畑の隅に素地の破片が多量埋もれている。仕損品 であるから,窯場から離れた空地に投棄したことを考え,畑に開墾するときに 一隅にまとめ直したことも考えられるから,厳密な窯場の位置とはいえない が,およその位置がわかる。 文献には餅木谷に築いたとあり,古地図を見ると「モチノキ谷」の南に「切 通シ道」がある。彦根から鳥居本へ山越えするため古城山南肩のコルを切通し たもので,これは現存するから,窯の位置はこれより北に当ることは確実で, そのあたりは古地図には「居舘跡」 「石田家侍屋敷」「馬屋跡」 「米蔵跡」な どと書かれている。米蔵跡には「今愛宕御宮地」とあるから井伊神社に当る。 そこで,築窯の位置は井伊神社の南にあたる。ところが,この古地図を註釈し お た彦根旧記集成には,『「石ケ崎第一」と「同第二」の接続点,現在の近江鉄道 沿線に当る一帯,、トンネル入口より南方百米附近を一般に「茶椀焼」と称す, 湖東焼民がまの旧趾』とある。そこで古地図で石ケ崎というのをさがすと,井 伊神社よりさらに北,弁財天のある大嘘山の麓になっているから,切通しから 大壷弁財天まで500米以上のへだたりがあり,上の註記は粗雑すぎる。登窯の 耐用年数はさほど長いものではなく再三改築され,その度に位置は多少変った と思うが,それにしても差がありすぎる。窯場の見取図が残っているが,敷地 内の工場レイアウトのみで,周辺の地形,地名が示されていないので,位置の 確定セこは役立たない。 出土品を手がかりにした別の推論がある。陶工が仕損品を投棄するのは,窯 2) 「彦根三根往古絵図 円居清心浦部法印之留書」は井伊直政の家臣であった卜居清 心が描いた古絵図に,後世加筆されながら複製された。井伊家所蔵のは享保の頃のも ので,弘化3年9月写すとあり,彦根市立図書館所蔵のものは化政時代の作を大正13 年に模写したとある。筆者所蔵のものは延宝二三年とある。 3)彦根史談会発行「彦根旧記集成」第一号,昭和33年。
26 場から相当へだたった所であることが多いから,彦根旧記にあるように二つの 石ケ崎の接点というのが正しいかも知れないという判断である。ところが,こ のあたりは清涼寺,龍潭寺が古くからあり,地形は窯場に適した長い緩斜面で はない。出土品発見位置と,文献の記述の双方からつめてみると,近江鉄道の トンネル附近と想像できるのである。 窯土は耐火性の高い粘土で,多賀神社の南の敏満寺あたりで掘って運び,窯 の様式は有田系の登窯「二宮」であった。慶長の頃,李参平が朝鮮からもたら した中国風の窯は「古窯」と呼び,九谷も瀬戸もこれであったが,有田では後 に改良を加えて「丸窯」としたもので,均質な良品を焼くことができるが,大 きいので燃料を多量に必要とし,熱効率が悪いのが難点である。大きな窯場で は素焼窯と本焼窯の二基を一組とするが,絹屋窯ではこの丸窯一基でもって素 焼・本焼併用したし,陶器の焼成にも用いた。赤絵付というのは,粕薬を施し べんがら にしき 本焼きした半製品に,弁柄(酸化鉄)を発色剤として上絵を描き「錦窯」(彦 石ケ崎町 大陸山
雲
霧
酌人清心浦部法印之留書 彦根三根往古絵図︵部分︶根ではきん窯と呼ぶ)という小型の窯で,数百度の低熱で焼くのであるが,錦 窯は土焼窯で焼いて造るほどの小型のもので,小さい場所で使用できるので, 絵師が自宅で焼くこともできた。有名な鳴鳳や幸町などもこの形で独立して制 作した。 陶器のことを彦根では土焼と呼んだ。本来は磁器に専化していたが,花器や 茶器,日用品で陶器を良しとすることもあるので,陶器も扱った。しかし,別 に土焼窯をもたずに,丸薬の一間を土焼に充てたのである。これは原価が高く つくので不利な操業法である。 五年足らずして,天保5年(1834)窯が破損したので,藩に願い出て,仕法 方御用掛から銀五貫目を借用し,瀬戸から職人を雇入れて瀬戸風の古塚を新ら ま しく築いて,語部に代らしめた。窯室が九間ある登窯であった。古窯は前述の ように,磁器産地で昔から使い馴れたもので,これ以来,瀬戸の技術が主とし て導入され,湖東焼の技術の基本をなした。 6年経ってまた破損したので再度藩から借財して改築したが,翌13年,藩主 直亮が彦根に帰城,絹屋の窯を藩に御用窯として差出すよう沙汰してきた。こ の譲渡の一件を「湖東焼の研究」で北村氏は権力による理不尽な召上げと解釈 しているが,筆者の解釈では,商人は商人としての筋を通し,藩は為政者とし 4) ての筋を通した譲渡であった。(鷺草で詳説したから参照されたい。)かくて, 絹屋窯は有毒のまま彦根藩に引渡され,藩窯時代に入ったのである。藩窯がは じまって,第1回の焼立の直後,古窯の改築が始つた。弘化二年(1845)には 吟歩を廃して5間の丸窯を築かせた。藩窯の目標は天下を刮目させるような大 物と高級品の大量焼成であったので,:丸窯が適していたのである。直亮の存世 中にすでに直弼は藩窯に強い関心を示していたが,嘉永3年11月(1850)直弼 ま ま が藩主となるや,積極的な育成策を打出した。まつ,5間の丸窯を7間に拡張 し,名工の招聰を積極的に進めた。すでにわが国の海辺は黒船におびゃかさ れ,文化・文政期の消費経済の高まりが鈍化して,軍事的出費が嵩み,景気は 急速に冷却されつつあった。北村氏は藩窯が欠損続きとなり,藩論に反対気運 4)滋賀大学経済学部附属史料館紀要15号。
28 がきざしはじめたが,直弼は耳をかさずに湖東焼を続けさせたと書いている が,欠損というのは会計資料の解釈のあやまりで,企業採算の見地から採算が 合わなかったのではなく,官庁会計の見地から,財政支出の必要が絶えなかっ たということで,技術的には湖東焼の黄金時代を迎え,続々と名品が産出され たばかりでなく,経営の改革を実施して,経営的にも成功させる目途が立って いたので,軍事費に差支えない範囲で財政投資が強行されたのである。 国事多端のため直弼出府を機に,嘉永5・6年の間,領内の豪商藤野四郎兵 衛に経営を委託したが,安政元年(1854)藤野が辞退してきたので,再び藩 り手で改革が進められた。その直前の状況が「御陶窯場所地面#諸御建前三二 5) 図」に出ている。この段階で現われた拡張計画は主として技術者の新規雇入れ と,若年工養成であるが,窯については,丸窯を高級品焼成に専用せしめ,日 用品や陶器の焼成には古窯,土焼窯を充てることによって,品位に応じた焼成 原価にしょうとするもので,従来の丸窯の北側に二丁5間と土焼窯5間をつな いだ10間の登窯を築いた。そのために藩の財政収入である八ツ尾山の薪炭代収 入の1,000両が交付された。 安政6年(1859)に普請奉行が家老に差出した書面には,工事もあらかた完 了し,経営法も定まって,高級品が産出し,良品率も高くなったと報じている が,世情風雲いよいよ急を告げ,藩の財政も逼迫してきたので,二三に対する 四囲の批判の声も大きくなった。それでも直弼は手許金1,000両を下付したの である。これ桜田門外で兇忍に倒れる前年のことである。この年の7月に土焼 窯一基と細工場を建設するため,北の接続地3段14歩を買上げ,日用品の焼成 の量産化を促進しようとしたが,この土焼窯新設は実際にはおこなわれなかっ たようである。 翌万延元年(1860)桜田門の変が起り,これで黄金時代は終焉した。 第14代の藩主直憲の藩窯経営は要員の半分を失ったままの消極経営で,年間 の焼立も4回に低下した状態で文久二年(1862)10万石二丁となって,藩窯は 5)北村唯四郎「湖東焼の研究」見返写真版,彦根市京町三丁目植田義雄氏所蔵の見取 図では建屋が二階建になっている。
廃止され,一切を山口喜平など4人置払下げられた。これ以後が民営山口窯の 時代である。焼成技術はまったく藩窯時代と同様で,その素地を用いて,赤 水,床山,自然斉,賢友,辻捨五郎,吉造などが赤絵付をしている。これが民 窯赤絵湖東である。 別に土焼窯があった。難聴でも土焼を製したが,藩窯と並行して,絹屋窯の 頃からそのすく鱗に久平という男が土焼窯を築いて焼いていたが,久平焼とい う。久平が断念してこれを文助に譲った。文助は美濃の出身,九谷で蹴轄蠕を 習い,鳥居本の某家へ養子に来た人で,文助窯と呼ぶ,家族労働で切廻わし, 地味に継続した。茶人向きの陶器を焼いたが,銘には小さく久平,文助と刻印 した。別に二重小判に隷書で湖東,財形に隷書で湖東,あるいは古城ともあ り,民主湖東である。その窯の詳細はわかっていない。 廃藩置県のあと,明治二年に直憲が開いた円山窯はわっか2年しかな:かった あとがま が,その窯は単車より一まわり小さかった。後期の湖東焼で,技術的には藩窯 を伝承していた。 伊万里焼は天草で発見された天草石が基礎になったが,湖東焼も基本的には 天草石を用いた。日本では天草石が最.ヒの素地材料で,他の磁器産地でも基本 的には天草石を用いた。湖東焼の場合,焼き上った素地がうすく灰褐色を呈す るのが特色であるが,その原因はわかっていない。また,陶器の素地土には ど ど犬上郡多賀の敏満寺の小字渋谷と,坂田郡鳥居本村の百々から出る粘土を用い た。 原土石を粉砕して,聖節にかけたものを用いる。このような仕事は荒師と呼 ばれる工夫が担当している。できた原土を成型する工程がまつ第一の要所であ る。轄嘘を用いない角物師と,蹴輔轄・筋丁子を用いる円形を基本にした蠣轄 師には,袋物師というのがあり,花瓶,壷などを専門にしている。彫物師,型 物師など,それぞれ成型工程の得意の仕事をもって分化していたのである。急 須が得意だとか,大運に得ているなどという製品種別の特化もある。 成型工程で刻印で銘を入れる場合と,本面前に,絵付けの段階で書き印を描 く場合とがある。成型には名手というものがあって,名工の成型した良品に
30 は,名のある絵師が絵付けをするのである。 なまきじ 生素地は自然乾燥の上,窯詰めするのであるが,登窯の窯室内は,その部分 によって炎のあたりがちがい,熱の高さもちがう。また生素地の形によっても ちがうので,諸般の事情を勘案しつつ,適度の焼成がおこなえるように組み合 わせ配列するのである。このとき伊万里方式と瀬戸方式があるが,湖東では両 技術が混用されたようで,棚板などの道具は双方のものが準備されていた。窯 詰めが完了すると,窯室を閉じて,火袋から焚きはじめるのであるが,丸窯と 古窯では要領がちがう。それぞれ専門があって,丸窯師,古窯師と呼ばれた。 焼成は特に経験を要する工程であるが,連続何昼夜かにわたって焚続けるので ある。焼成工は一般に成型その他にも覚えのあるものが多かった。焼成から次 の焼成までの問に窯を充たすに足る生素地を作り揃えなくてはならな:いので, 焼成は間激的におこなわれ,その間は窯は休止しているから,他の作業にまわ る。焼成中は従業員総がかりで徹夜が続く。火度を保つことと,還元炎,酸化 炎の使い分けをするのが大切で,それは火色で判定するので,窯師は年季のい る職種である。一回の焼成が終るまでを一窯といい,焼成回数を丁数という。 一月に一回火入れするのが普通のピッチであるから,年間12窯となる。 湖東焼は高級品が重点で,準備工程に時間をかけたので,窯室が満たされな い状態で焼成に入ることが多く,それでもなお年間数窯というようなことがあ った。窯の規模と準備工程の能力の不整合という難問題があったわけで,藤野 四郎左衛門が管理を辞退したあとの藩の改革がこの問題の解決に志向されたの は当然のところである。名工の確保と若年労働の養成がそれで,この中から多 くの名工が出た。 燃料は松割木を用いた。西江二二の松が樹脂分に富み火力が強く,かつ,豊 富に供給されたので,湖上の舟運を利用した。 焼成が終ると,窯を冷却させてから製品を搬出する。焼成中には,焼割れ, さめ割れ,切れ,へたり,その他の不良原因で仕損品が相当に出る。二三の方 がその危険が多い。歩留り60%がよいところで,すべて窯師の脚こかかってい る。
所期の製品を確保するには,この歩留りを考慮に入れて,注文数以上の補充 分を含めて焼く。注文の納入品のほかに,同一の品が存在するのはこのためで ある。 窯出しされるのは素地という半製品である。素地に紬薬を施して本焼にかけ る。陶器は素地に汲水性があるから,丹薬は水密にするために不可欠である。 磁器は素地そのものが緻密であるが,肌を整へ,美感を増すために施す。紬は 本来透明な石英質で,薄いガラスの層をかぶせることになるが,青磁とか瀬戸 粕はこのガラス層自体に金属塩を入れ青や飴色に発色させるわけで,炎が還元 炎であるか酸化炎であるかによって,金属イオンの色になったり,酸化塩の色 になったりするのであるから,当主の腕がものをいう。染付けというのは,織 物でいうなら糸雨織り,英語ではアンダーグレーズ,紬薬をかける前に,下粕 で肌を整え,金属塩で文字や文様を描いておいて,その上に当薬をかける。上 絵付けというのは紬の上に発色する粕で絵や文字を描いて焼くもので,これは 低火度で焼成する。酸化鉄を使って赤色を出すのが赤絵,錦手で,金銀を使う にしきと金副手,心心手ということになる。この焼成には「錦窯」という小さい窯を き 使った。彦根では音読して「幾ん窯」と呼んだ。そこで,登窯で焼成した素地 を買って,自宅の錦窯で赤絵付をするという職業形態がうまれる。前述の有名 な諸家はこれで,藩は赤絵焼付窯元として免鑑を下付し寡占させた。 粕の原料土は石部土,白絵土,生瀬土上薬,石部上薬など江州南部に産する ものを基礎に,近くの鳥居本村土蔵山,磨針峠の土石を混用し,粉砕,水飾し た。これに木灰を加える。灰分は溶解無期,硬化剤であるとともに紬を白色に するのに灰の性質が決定的な作用をもつ。何の木の灰にするかは陶工の苦心す るところで,栗灰,桐灰,藁灰などがいわれるが,湖東焼では瀬戸にならって いす 三業を用いた。梼は南国産の喬木で,柞ともいう。薩摩や日向の産というが, 尾張でも彦根でも苗木を移入して,城内や侍屋敷に植えさせ自給しようとし た。とにかく高価なものであった。 絹屋窯のとき半兵衛は近隣を踏査して,物生山で適当な石をみつけた。物生 山石という。物生山は絹屋の持山であったが,藩窯に替ったあと,藩は絹屋に
32 地代を払って採掘権をえ,峠のあたりで,20−25米ほど表土をとり去って,露 天堀で採掘した。工夫には当初は掻取人足を雇入れたが,直弼の改革以来は徒 刑者を用いた。 湖東焼の特色の一つは,粕が純白でなく,心もち青色を呈するのである。初 期のものには顕著であるが,直弼は赤絵の場合に不適当であるとして純白にな るよう指示したので,それ以前の製品と,黄金時代の製品を区別する一つの手 がかりであるが,それでも共通してこの特性があらわれる。淡青色の原因は物 生山石にあり,その混合具含で違うというのが通説であるが,異説もある。藩 窯廃止後,京都に移った職人の1人,喜之介が,湖東焼と同処方で焼成してみ たら彦根でと同じ肌合いにならなかった。これは水と火の相違によるといつ の た。明治以後に長浜で三生山石を混じて焼いたが純白に上ったという。北村氏 は織物の処理でもないのに水質など問題でないといっているが,喜之介は技術 者としての経験から立てた判断で,彦根の水が多分に鉱物質を含み,還元炎に かかって,金属イオンの色があらわれることをいっているのではなかろうか。 染付に使う藍色は天然の酸化コバルト,呉須を用いた。唐呉須が尊重された が,格別に高価であった。ヨーロッパ二酸化コバルトが中国に輸入され,唐呉 須として日本に売込まれたという説もあるが根拠は薄弱である。唐呉須も何度 か精製して用いると,素晴らしく純粋な,明るい藍色に発色する。湖東焼の初 期の作品には,鉄分で黒いしみが混じった藍もあるが,明るい純純な藍色は湖 東の特色でよく精製された場合には,驚くほど深い味のある藍色に発色するの である。並級品には国産の美濃呉須が用いられた。安価である。北村氏によれ ば,唐呉須は安政2年(1855年)以後,すな:わち,直弼の改革による黄金時代 わ べんがら のことであるという。また能登産も用いた。赤絵や三門手の赤の発色には弁柄, 金色には金箔,金粉が用いられた。 絵付けは絵師の仕事で,湖東焼の最大の特色は緻密な絵の絵画的,美術的な 美事さである。湖東焼を論じるにはこの点を避けて通るわけにはいかないので 6) 北村寿四郎,前掲書,202頁。 7) 同上書,132頁。
あるが,残念ながら筆者の文章力では満足できない。 陶器の場合は素焼よりも冷熱の方が高火度で,かつ,微妙である。磁器は逆 で,本焼はその良否を「あがり」という表現で評されるもので,これまた重要 な工程である。 三 工芸としての湖東焼 藩窯湖東焼の目標には産業育成という一面があったが,この問題は別稿に譲 るとして,本論文ではいま一つの性格,工芸としての価値に限定したい。 直亮,直弼二代にわたる彦根藩主をパトロンとした工芸の発達という別の一 面は成功といえる。パトロン自身がまつ芸術愛好家でなくてはならない。特に 直弼は石州流の茶道では一派の祖となり,華道に通じ,和歌俳句にも,絵に も,また,工芸一般を自ら手がけ,楽焼では多数の名品をものにした諸芸の達 人であったばかりでなく,禅の修業を通じて哲学をもっていた人で,その人柄 は,一口でいえば,細心大胆,鋭い審美眼をもち,高湛な目標設定と適切な指 導助言を与えることができた。これは直弼の発注のときの書翰に書添えられた 周到な指示によって立証できる。また,彦根藩は幕府の普代大名の首位にあ り,300年間転封されたことがなく,経済的にも雄藩であったので,内外の美 術品を卑しく所蔵していて,工芸技術の教育にこと欠かなかった。湖東焼には 絶大な期待をかけ,超一流の高級品生産を目指し,諸国の名工を下々するには 厚遇の限りをつくし,最高の技術水準を確立するという目標を堅持した。 したがって,直接の衝に当る官僚にも文化人が多く,陶工達がその所に安ん じることができたのは,このような抽象的バトロネィジに負うところが大であ った。加うるに,具体的物的なバトPネィジも強大であった。藩窯の経緯を検 討した結論として次のように言える。 藩窯そのものには企業採算を考えていなかった。北村氏は,損失を出したと か,採算が悪化して藩論が反対論に傾いていたのに,藩主は権威にものをいわ せて継続を強行したという書き方を,その著書のいたるところでしているが, これは会計資料の解釈のあやまりで,藩はもともと藩窯を独立採算体とは考え
34 ず,藩の行政組織に附随した公営事業という形で,藩の歳出の一項として扱い 必要に応じて財政投融資をおこない,国事多端ではばかられるような事態にな ったときでも,直弼自身の手許金から1,000両を補給するという徹底した庇護 ぶりであった。 工芸という側面に限ってみれば,バトロソの理念が強い指導力を発揮する。 直弼は,既存窯業の産物に比して,質的に劣らない高級品生産を目指し,これ を達成したのである。文章では表現し切れない問題であるが,以下この点を論 じてみよう。 うつし 湖東焼には写が多い。写は既存の名品そっくりにつくるのであるが,文字通 りの模造品といってしまえば真意でない。工芸品の写は単なる模造を超えて, 実質的に原作に劣らぬ作品を目指すのである。外見がそっくりということもけ っこうであるが,要点は「味」が同じでなくてはならない。場合によっては形 も色もちがうが,実質的に原作とみまちがうということがある。 絹屋窯ではもちろん,藩窯でも,国内各地の製品にとどまらず,中国古窯の 写を盛んにつくったので,湖東焼は写:ものといわれるほどであり,写は原作を 超える逸品が少なくなく,湖東焼をさがすと何が出てくるかわからない楽しみ があるといわれる。しかし,これは湖東焼の一面で,その三三の中から,早期 に湖東焼自身を形成していった。絹屋窯の末期にはこれを確立していた。旧記 はいうまでもなく,直弼の代の黄金時代がもっとも賑やかである。 陶工は伊万里,瀬戸,九谷,京都から迎えられたから,成型にも絵付けにも それぞれの風があるのは当然である。現存する名品について,その作者の作風 う と,陶工の系譜は北村氏が詳細に調査記述している。この小論文では私見を加 える紙幅の余裕はないので,抽象的になるが,概括して述べるにとどめたい。 工芸品としての陶磁器評価の要点は,素地成型の良否,粕薬発色あがりの良 否,図柄の良否など,全般にわたって揃って良くなければならない。 素地成型はさすがに端正である。概して中国風な造形が支配しているのは, この時代の通例であるが,線の優美さに江戸文化の新味が感じられる。小物に 8)北村寿四郎,前掲書,第三章第五節,第四章。
特にその傾向があり,急須のような袋物や,煎茶怨は驚くほど薄手に出来てい る。破壊しなけれぽわからないことであるが,下しめが強いので通常の磁器よ りもはるかに硬い。素地がやや褐色を帯びているので,感触にもそれが感じら れるが,破損品を接ぐときに穴をうがつと実証できる。彫師に良工があって, 型もの,彫りもの,透かしものに工夫を凝らしたものがある。その場合でも, 洗練されていて,俗な感じ,いや味がない。 特徴的といわれる紬の青味であるが,低級品の青味はきっすぎるけれども, 逸品といわれる製品の青味はほんのりとしていて,粕の透明度に適合した透明 の青味である。粘の感触は透明感の中にあたたかさがあり,あがりのよいもの は極微の結晶をおもわせるような美しさがある。俗に「ちりめんじわ」とい う。紬のこの美しさが湖東焼についてまず観賞される点である。大物の紬は概 して白いが,それでもこの共通点をもっている。 染付の藍色については前にも触れた。絹屋窯時代には美濃呉須を用い,藩窯 時代にも下級品にはこれを用いたが,高級品志向が強かったので,わりあい贅 沢に唐呉須を用いた。特に三度磨り五度磨りといって精製した呉須を用いる と,美事に発色する。化学的に精製したコバルトを用いると,紫がかったほど の藍色を出すが,黄金時代の高級品の中にはそれかと思うほど発色の良いのが ある。染付の藍色は湖東焼が誇りとするところである。 湖東焼について周知されているのは赤絵であろう。錦手,金欄手が湖東焼と 思っている人が多いほど,代表的なもので,その技術については前述した。弁 柄を主とし,これに白玉を加えると鮮明な赤が出るが,九谷や伊万里の赤とは いささか異なり,あまり光らないあたたかい赤である。赤絵窯元の有名なもの は次に述べるが,赤の発色がそれぞれちがう。 赤絵作家のうち,幸斉と鳴鳳は直亮の代から直弼の代のはじめにかけて短期 聞彦根にいた人で,ほかに三水がいるがこの人は幡龍軒を冠し,また,日本二 水とも銘している。北村氏によれば,直亮の子のうちの誰かで,公邸内で焼か れたものと推定している。また,琵琶湖東隠士蝸門主人文龍の赤絵菊の盃は筆 者の所蔵であるが,その菊は鳴鳳の銘のある金鍔手菊絵鉢の菊と酷似してい
36 る。また,これに模して後世京都の陶芸家に焼かせた菓子鉢があるが,亡婦の 菊の筆致がどれよりも優れている。幸斉,鳴鳳とも湖東の初期を飾る代表的絵 師で,緻密で絢瀾たる作品である。製品の全面をくまなく絵で埋めつくしたも のもあれば,大胆な余白を残しながら繊細な筆で豪華さを出した作もある。井 伊家所蔵の袋雨月麓雁絵錦手水指はその好例で,北村氏は鳴鳳の異例の作とい うが,ほかにも湯立,蓋置などに同巧のものがある。この水指は関東大震災の 業火の炎で還元されて,赤が変色しているが,それでいてなお湖東の風格を失 っていない。もとはいかばかり豪華なものであったかと感じ入る。鳴鳳の筆致 は円山派の写実主義に沿った流暢なもので,鳴鳳に限らず,他にも同様の画風 の絵師がある。 赤絵窯元は黄金時代に,赤水,床山,自然斉,賢友の4人が免鑑をうけた。 中国の窯業の影響を受けて育ってきたわが国のことであるから,基本的に明 言・清高の陶芸が底流となっていることは争えない。湖東焼もその例外ではな く,成型面によくあらわれていることを前述した。しかし,文政期を過ぎる と,庶民文化が拾頭し,武家社会にもその風潮があらわれており,単なる技巧 的に美しい線であるにとどまらず,自然主義的な造型が伝統の上に新味を加え ていることを指適したが,絵付の面にも同じことがいえる。 写は伊万里,九谷,瀬戸はもとより,中国,交趾などの写もある。祥瑞写が 特に多い。祥瑞文様は日本人のアイディアで中国人が焼いたと信ぜられている が,とにかく,江戸期にはわが国で一般に写された。もっと多いのが文人画で ある。文人画はすでに極端に様式化された時代であるが,陶画の場合は,画材 の性質と・曲面に描かれる点などで・陶画特有の筆法が生まれ,もっと様式化 されて装飾性が著しく高い。題材としては,百一図,唐子,七賢人,七福神, 山水,名花十友など群像が好まれた。器物の表面一杯に絵で埋め尽すデザイン がこのような題材を選ばせた理由と思うが,中には彦根名所,近江八景などの 南画風の風景画もある。思想性の高い図柄は注文の品に多いのではなかろう か,直弼の注文書には図柄も讃に入れる詩歌も指定している。自然斉などはま さにこの種の絵付に終始したが,詳細に検討すると様式化された陶画とはい
え,筆がいたって闊達で,熟している。 南画調,文人画風の絵付が多いことについて北村氏は,彦根藩士に文人墨客 が多く,陶工に影響を与えたものといっているが,それもあろうけれども,実 はこの時代の一般的傾向で湖東焼の特色ではない。図柄,題材について上のよ うな傾向が共通してみられる中で,陶芸絵師の筆致は陶画化が著しく,職人絵 としての上手さが身上であるのにひきかえて,湖東焼の場合には,陶画以上 に,絵画としての観賞に耐えるものがある。名花十友図染付の夏火鉢一対をも っているが,紙に描けば十分一幅の絵で通用するほどの練達した筆で,しか も,絵画的手法にとどめて,掻落しなどの陶器特有で絵画では用いえない手法 は使っていない。 以上のことは高級品の場合であって,二級品については,陶画はやはり陶画 の域を出ない。限定つきであるにしても,絵画的価値をもった絵付というのは 湖東焼の特色である。発想がまとまると,まつ紙面に原画が描かれ,これを器 物の面に合わせて割付けて下絵にする。下絵に従って実際の絵付をするのであ る。直弼が幸斉に注文する手紙に,下絵の段階でみせてほしいといっているよ うに,このプPセスが確実に踏まれたようである。大量生産の並級品になれば, 下絵なしで,絵師の慣習のままの絵付けをするから,約束どおりの絵,陶画く さい絵になってしまうのであるが,湖東焼では手の込んだ精巧な絵である。 原画は本職の画家が描くこともあるが,陶工である絵師がその能力をもって いる場合が多い。床山などは狩野派の絵を習っている。時としては画家が自分 で絵付することもあり,その作品も残っている。書家についても同じである。 すぐれた文化人がいてアイディアを出し,腕の良い画家が具体化すると,これ を適切に絵付けできる絵師がいるというのが望ましい産地条件である。当時の 彦根にそれが整っていたのである。画家は実際に誰であったか,絵師の腕がそ れに相当するものであったのか。円山派かと思われる写実的で優美な画風は, 狩野派といわれる無名画家の手になる国宝彦根屏風とともに,その系譜の究明 が今後に残されている。