• 検索結果がありません。

山上の憶良と「秋の七草」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "山上の憶良と「秋の七草」"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

山 上 の 憶 良 と 「

秋 の 七 草 」

山上 の憶良 に秋の野に咲 く花花を うた った もの が二首あるこ とは,余 りにも有名であ る。連作 と い うか,短歌 と施頭歌様式の と二首が続いて,一 単位 ・-セ ッ トをな しているO 万葉集巻第八 山上臣憶 良の秋の野の花を詠む二首 お よtF 秋 の野 に咲 きた る花 を指 折 りか き数ふれ は ななくさ 七種の花 其の- (8・1537) はぎ を ばな くTはrJ rJで しこ をA な へし 萩の花 ・尾花 ・蔦花 ・躍麦の花 女郎花 また ふ ぢはか ま あ さがほ 藤 袴 ・朝貌の花 其の二 (8・1538) 以上, とりあ えず 「日本古典文学大系」本の訓み に従 った。津潟久孝 の 『万葉集注釈』 も若干のふ りがなを除 けば全 く同 じ訓み方が してある。

*

山上の憶 良は,ふ しぎな人で

,

『万葉集』四千五 百首程 に及ぶ多数の歌 の うちで, これ しかない と い う唯一無類 の歌をい くつか残 している。例 えば あの I,とつくlこ 山上臣憶良,大唐 に在 りし時,本 郷を憶 ひ て作れ る歌 や土と Aつ いざ子 どもはや く日本へ大伴の御津の浜松待 ち恋ひぬ らむ (1・63) は,国外でつ くられた ことの明 らかで

,

『万葉集』 に収載 されている唯一 の外地制作歌 とい うことだ し,子煩悩で有名なあの歌-子等 を忍ぶ歌一首井に序 ( 序は省く) 瓜食めば 子 ども思ほゆ 栗食めば まして しJl い イく まなかひ 偲ばゆ 何処 より 来た りLものぞ 限交 に かか や 丁い な もとな懸 りて 安眠 し寝 さぬ (5・802) 反歌 しろがね くがね 王さ し 銀 も金 も玉 も何せむに勝れ る宝子に及かめ や も こ うい う手 はな しで愛児をい とお しむ歌は,時 代 を越 えて私 ども子 を もつ者の胸臆 にじかに訴 え

長谷川鑛平

るものがあるが,その子供に食わせた い,共 に食 べたい とい う瓜 と栗が,やは り 『万葉集』中, こ の歌 にしか出て来 ない。 この瓜は,松 田修の考証 に よると,マク ワウ リと受け とって宜 しく,美濃 国 (本巣郡)真桑村に産 した と言 う。次 に粟。 『万 葉集』中,栗 とい うのが形式的に出て くる歌 は, 憶良のの外 に二首 (9・1745と9・1783)あるが, AI->こ') 何れ も 「三乗の」 とい う枕詞 として出て くるので あ って,粟その ものに言及 してあるのではない。 それ に して も万葉 人 の 自然観 察 はけ っ こ う精 密 で,粟は多 く一つのいがの中に実が三つ抱 き合わ さっている。その中の一つ; とい うわ けで 「中」 を導 き出す枕詞 として 「三つ葉の」が用い られて あるのである。 実例 を引 く煩 は避 けるが,食べ も の としての栗に言及 してあるのは,憶 良の歌だけ なのである。栗は古代,大いに食べ られた もの と 思われ るが,不思議 に作歌の対象になっていない。 大衆の食べ もので,歌を もてあそぶ よ うな身分の ものの関心範囲には,はいっていなか ったのか も 知れない。 ちなみに,憶良の言 うウ リがマクワウ リで, 辛 ュウ リ (胡瓜)でない とされ るのは, キ ュウ リは 「胡瓜」 とい う字の示す如 く渡来植物 で,わが国 にはかな り早 く渡来 した らしいが,それで も万葉 集時代 にはまだ渡来 していなか った, とせ ざるを 得 ないか らであ る。十二世紀 にはすで に栽培化 さ れていた もの と推定 され,やは り生食 されていた もの と思われ る。 ところで,憶良の歌の検討 に入 る前 に,秋の七 草 なるものを辞書 ・事典 ・歳時記類は ど う取 り上 げているかち ょっ と見てお きたい。 まず 「日本国 語大辞典」(小学館)

,

「なな くさ」の項で は 「七種 ・ 七草」をあて,七つの種類, なないろ,引いては いろいろの意に もなるとして,多 くの ものを七種 - 3

(2)

5-に しは って挙 げ るや り方が古来あ った ことを示唆 して,憶良の秋 の七草の歌をその一例 として挙げ てある。次いてその秋の七草 として

,

「秋の野に咲 く,-ギ ・オバナ ・クズ ・ナデシコ・オ ミナ-シ ・ フジ,:カマ ・アサ ガオの七種をい う」 とある。そ して 「あ き 〈秋

」 の項の 「あ きの七草」で

,

「秋 に咲 く草花 の中で,秋を代表す るもの とされ る七 種の草花。萩 (は ぎ),尾花 (おはな),葛 (くず), 撫子 (なで しこ),女郎花 (おみなえ し),藤袴 (ふ じはかま),桔梗 (ききょう)の称。く季 ・秋)-春 の七草」とあ る。他の多 くも大同小異であ るが, 念のため, も う一つ 『広辞苑』を見てお くと

,

「あ きのなな くさ 〔秋 の七草〕①秋の野 に咲 く七種の 草で,萩 ・薄 (すす き ・尾花)・蔦 (くず)・撫子 (なで しこ)・女郎花 (おみなえし)・藤袴 (ふ じ はかま)・桔梗 (きき ょう)の称。一説 に,奈良時 代 には桔梗のかわ りに朝顔を入れた。・-春の七草」 とある。 いずれ も憶良の歌 に朝貌 とあるのにこだ わ って,代 りに桔梗が入れてあ る。 も う一つ,俳句 の歳時記では どう扱 ってあるか を見 るため,角川編 「合本俳句歳時記 新版」を見 ると

,

「秋の七草一 秋の野に咲 き乱れ る代表的な 七つの草。萩 ・尾花 ・蔦の花 ・撫子 ・女郎花 ・藤 袴 ・桔梗 をい うのだが

,

『万葉集』の山上憶良の歌 には,桔梗 のかあ りに朝顔の花が入 ってお り, こ れは今 日の木柱 (もくけ)の ことだ とい う」とある。

*

い らざるの前置 きか も知れないが, これだけの ことを前置 きして, さて,憶良の歌 を考 えてみ よ う。考証の便宜上,以下

A

-秋の野 に咲 きた る花を指折 りか き数ふれは 七草の花 其の- (8・1537) 秋野在,咲有花乎 指折 可伎数老 七種花 英一 B-萩の花 ・尾花 ・葛花 ・崖麦の花 女郎花 ま た藤袴 ・朝貌 の花 其の二 (8・1538) 芽子花 尾花 ・葛花 嬰麦之花 姫部志 又 藤袴 朝貌之花 英二 と

,A

・B

歌 として言及す ることにす る。 以上二首,後のが五 ・六 ・七 ・五 ・七 ・七の旋 頭歌様式七,- セ ッ トをな し,み ごとに完結 して いる。 しか し,別に奇 とすべ きところ もな く尋常 で,す こぶ る口ず さみ易 くリズ ミカルにまとまっ ているが,芸術的には さしてす く・れた作品ではな い と私 は受け とっている。そ して これが憶良独 自 の 自然観照の結果,おのずか らうたい上げ られた ものか,当時の知識人の一般的好尚を代表 して, 手 ぎわ よくうたい納めた ものか,軽軽 しく判断す ることはで きない。 憶 良の挙げた七種 の花 については,一往,最後 の朝顔 に関す る限 り異論があって,大勢は, 当時 の朝顔 はキキ ョウ (桔梗)の ことであろ うとい う ことになって,辞典頬や歳時記はおおむねキキ ョ ウとしてある。 この ことについては後 に更に考 え ることに して,考察の手がか りとして,取 りあえ ず, まず叙上七種の花が 『万葉集』 において どう 扱われているかを,数量的 (統計的) に検討 して みた。 これには小清水卓二 『万葉の草 ・木 ・花』 (朝 日新聞社 ・昭和45年刊) とい うのに,附録 とし て 「植物に関係ある万葉集の歌」 とい うのが載せ てあ るので,それを参考 して計算すれば,何の歌 が何首見出 され るかは,たやす く知 ることがで き る。 -ギは141首 でその余 りに も多 いのに一驚 させ られ る。 『万葉集』に見 出され る植物 は,専門的立 場か ら約

1

6

0

種が同定で きる由であるが,その うち 一番多いのが, ほかな らぬ この-ギで,次いで ウ メ (梅)の

1

2

0

首が続 く。秋の七草 としては -ギ 141首 ヲバナ (ススキ, カヤも含めて) 43首 クズ

1

9

首 ナデシコ

2

6

首 ヲ ミナ- シ 15首 フジバカマ 1首 アサ ガホ (キキ ョウ?)

5

首 とい う数字 になる。 ち ょっと意外である。 ヲ ミナ -シまではまあよい として, フジバ カマがた った 一首 とは驚 く。とい うことは,憶良のB歌(8・1538) ただ一首だけで, しか も, この歌では名前が挙げ てあ るだけで,花その ものについての叙述は全 く ない。アサ ガホも数が格段 に少ない。してみ ると, 憶良のいわゆる秋の七草は,当時一般の代表的意 見 とは言い兼ね るのではないか。 とす るなら,憶 良の独 自の趣好を含めての,一往の選定 -私撰 な のであ るか。

(3)

『古典の花 』の著者松田修は,憶 良が何故, こ とさらに七草 を選 んだか,七 とい う数字 がわが国 で も古来陽数 として特 に好 まれた事情は諒 とす る ち, フジバ カマ, アサガホなどで,水増 ししてま で七草揃 えた ことに,若干の不審 を表 明 している。 旋頭歌の五七 七 ・五七七 とい う形式に載せ られ, 思いつ くままに取 り入れて数を ととのえた嫌い も な くはないのではないか, とい うのであ る。少 く とも私 にはそ のよ うなご意見 と受 け とった。松 田 は, フジバ カマをのぞいた他の六種は,集中に数 多 く見出され るので, まず よろ しいが,ただ一首 しかない フジバ カマはおか しい, と問題 に してい る。「指折 り数 えて」とい う内容の重い表現に, 紘 た して値す るか,とい うのであ る。この点,私は, アサ ガホも五十歩百歩で,それをキキ ョウと同定 す るに して も,計五首では余 りに も少ない。 とも あれ フジバ カマ とアサガホはいただけない。

*

そ こで松 田修 は一種の助 け舟 として,七草の実 用性 に触れ る。野に咲 く美 しい花 としての観賞的 意味のほかに,薬草 ・食料 ない し生活資料 として の 日常生活 との関連 を,備考的 なが ら,考 えよ う としてお られ る。 これは松 田修 に限 った ことでは な く,他に もこの ことに言及 している人 もある。 つ ま り, -ギは,実 は粉 にして飯や粥 にまぜ る。葉は家 畜 の飼料 とな り,民間では煎 じて強壮剤, また茶 の代用 とし,茎葉は星板葺 き材料,茎の皮をはい で縄 も作 った。 ヲバナ (ススキ, カヤ) は,茎葉は昆板葺 き材 料,その他炭俵,縄,すだれ,等 な どと,穂は綿 の代用 ともした。 クズ,板か ら澱粉を とり(クズ粉),織経で蔦布 を織 り,茎葉 は家畜の飼料に,根は葛根湯 として 利用 した。 ナデシコ,茎葉 はさらして苦味を とり食用 とし, 実は利尿剤,水腫 の薬,通経薬 とされた。 フジバカマ,葉 を煎 じて疾結 を除 き, また利尿 剤 とした。 ヲ ミナ-シ,根を煎 じて排膿 性利尿剤 とし, 漢 た浮腫に も用 いた。 アサガホ (キキ ョウ),板は鎮核,去疾剤。 以上

,

『古典 の花』(106-7頁)か ら援用,だが, これ らはそのまま憶 良時代の万葉人の常識であっ たか どうか,私は知 らない。後世の知識 と利用法 が,相当量, さかのぼ らせてあろ うか, と私は疑 問に堪 えない.憶 良は F抱朴子jな ど神仙道術の 書を読んでいたか ら,神薬 ・仙丹の調製 に関 して 若干知 るところあ ったはずで,後世のいわゆ る漢 方薬については一隻眼を もっていた もの とは臆測 す ることは出来 よ うが,その知識を も加味 して「秋 の七草」 を選定 した もの とす ることには,私はち ゆ うち ょす る。 ともあれ,私は論歩を更に進める前 に,七草の 一つ一つについて若干,その身許を洗 ってお きた い と思 う。 まず, (1)-辛 (萩)はマメ科-ギ属

Le

s

pe

de

z

a

に属す るいわゆ る-ギ頬の総称であ る.つ ま り-ギ とい うのは普通名詞なので,植物図鑑を- ギで検索す る と見出せない ことがある

.

『万葉集』のいわゆる ・、ギはヤマ-ギ

Le

s

p

e

d

e

z

abi

c

o

l

o

rva

r

.

J

a

p

o

n

i

c

a

Na

ka

i

ではないか とされてい る。ヤマ-ギはひろ く山野に自生 し,夏か ら秋にかけて美 しい紅紫色 (まれに白色)の蝶形の小花 を穂状につ ける。低 木 また基部木質の草本で,高 さはせ いぜ い2mほ ど。憶 良は草本 と見た らしい。古来,秋 を代表す る草 とい うので,草冠に秋 と書いて 「萩」を-ギ と訓 ませた。 しか し中国では萩は ヨモギまたは-- コグサをあ らわす字の由である。 『万葉集』では 芽,芽子 と書 きあ らわ して,生芽 (は えぎ) とい うのが語源であろ うとす る説 (大言海) と,小 さ い葉が歯の形 に似 ているので 「歯木」 の意味だろ うとす る説 (日本古語辞典) とがあ る。それにし て も 『万葉集』では さかんに取 り上 げ られ,第二 位 の ウメの120首,第三位のマ ツの77首 をはるかに 抜 いて実 に

1

4

1

首,尾花 (ススキ)の

4

3

首を も遠 く 引 き離 している。万葉人が ど うして こんなノ、ギに か くも魅せ られたのか不思議 なほ どであ る。初 出 は巻二, 弓削皇子の,わぎもこ 吾味児に恋ひつつあ らず ほ秋萩の咲 きて散 り ぬる花 にあ らましを (2・120) 〔大意-あなたを恋い慕っていないで,あの秋萩 の咲いて散って しまった花のように死んで しま ったらよかったのに。〕 - 37

(4)

-であるが,やがて奈良朝 に入 ってか ら多 く取 り上 げ られた。 しか もここでの よ うに 「秋萩」 とした ものが多 く78例 に も及 んでい る。ついでに有名歌 人の作をい くつか拾 ってみ る と, 草枕旅行 く人 も行 き触ればにはひぬべ くも咲 ける萩か も 笠金村 (8・1532) tか わが丘の秋萩 の花風をいたみ散 るべ くな りぬ 見む人 もが も 大伴旅人(8・1542) わが宿の-む ら萩 を思ふ児 に見せずほ とほ と 散 らしつ るかな 大伴家持(8・1565) さを鹿の朝立つ野辺 の秋萩 に玉 と見 るまでに おける白露 大伴家持(8・1598) 以上, ア ト・ランダムに拾 ってみたが,いずれ もまず まずの出来栄 えで, しか もその多 くが秋萩 を うた っている。万葉人の萩観賞は どうや ら定型 化の傾向にあった らしい。 ところで火つ け役の山上憶良に関 しては,あの 列挙的 に七草をかぞえ挙げた

B

歌一首だけで,他 に彼の文藻 に思わせ るよ うな 「萩」の歌 は一首 も ない0141首の うち, B歌一首が含 まれ るだけで, それ っきりとい うのは,余 りに意外であ り且つ不 思議で もある。

*

(

2

)

尾 花 -ス ス キ (薄)

Mi

s

c

a

nt

hu

s s

i

ne

ns

i

s

Ande

r

s

o

n

日当 りの よい斜面 な どに どこにで も群生す るイ ネ科の大形 の多年生草本であ る。太 く短い根茎か らびっしり芽を出 し,す くす く伸びて高 さ 1- 2 mの大 きな株 となる。九月を過 ぎると,伸 びた茎 の項部 (梓頭) に派手 に大形 の花序 (徳)をつけ る。やや紫色をおびた黄色で

,

「尾花

「旗すす き」 「花すす き」な どと呼ばれ るの もまことに尤 もと うなずかれ る。 『万葉集胴こはススキ とあるのが15 首, ヲバナが17首, ススキ ・ヲバナ と重複 してい るのが

2

首,計34首, ほかにカヤ (加夜 ・草) と あるのが9首, これを加 えて計43首 とい うわ けで あ るが,少 し疑問が残 る。 ススキの枯れたのを昆 板葺 き材 としたのを カヤ と言 った とあるが, カヤ (茅 ・萱)は, チガヤ ・スゲ ・ススキなどのイネ 科草本の総称のはずで,いずれ も屋根を葺 く材料 に用 い られた。 だか らカヤはただススキにのみ限 らないわけで,従 って しば らくこれを除外 して, ヲバナ (ススキ)34首 とい うのが妥当な ところで あろ うか。 漢名 -漢字は己,国字 としては薄 とも書 く.花 穂 に注 目して ヲバナ (尾花),- タススキ (旗薄), -ナススキ (花薄) と愛 称 された ことは先 に も述 べた。 まことに F万葉集』 らしい形容である。若 干例歌を挙げると, ススキ めづ らしき君が家な る花すす き穂 に出づ る秋 の過 ぐらく惜 しも 石川広成(8・1601) 秋萩 の花野のすす き穂 には出ですわが恋 ひわ こもりづま た る隠 妻は も 花 に寄す る(10・2285) 帰 り来て見む と思ひ しわが宿の秋萩すす き散 りにけむか も 秦田麻呂(15・3681) 偶然なが ら後二首共 に 「秋萩」が出ている。 ヲバナ をIfな け ぬ わが宿の草花が上の 白露を消たすて玉に貫 く ものに もが 大伴家持(8・1572) を は{.. う九 夕立の雨 うちふれは春 日野の草花が末の白露 お もはゆ 小鯛王 (16・3819) ちなみにススキ とヲバ ナの重 出す る歌は元正天 皇の御製-むろ はだすす き尾花逆 さ葺 き黒木 もち造れ る室は 万代 までに (8・1637) 〔大意-すすきの尾花を逆さまにして葺き,黒木 で造 ったこの建てものはいついつまでも存続す るであろう。〕 いりの さを鹿の入野のすす き初尾花 いつ しか妹が手 を枕かむ (10・2277) ところで山上憶良自身 は, ヲパナのみな らず, ススキ, また カヤに関 して も,例 のB歌以外,全 く触れていない。

*

(

3

)

クズ

Pu

e

r

a

r

i

at

hu

nbe

r

gi

a

na

マメ科のつ る性多年草。わが国の原産で,全国 到 るところに自生 してい る。大 きな花が三枚一組 で一本の柄 についてお り,裏が白い。 しか し 『万 葉集』 に見出される19首 の中には,葉が風にひる がえって白 く見 える様を うたった ものは一首 もな い。八月 も末になると, 薬液の ところか ら総状花 序を出 して,紫色の大 きめの珠状花をふ さふ さと つける.元来,す こぶる強靭な植物で,温暖で適 宜の湿 り気 さえあれば, どこにで も生育,蔓延す る。つ る性なので, まもな くそ こらあた りを蔽 っ - 38

(5)

て しま う。根 か らは澱粉 (クズ粉)を とり,根 ・ 茎 の繊維か らは,かつては葛布を織 り,紙をつ く った。大和 の国は古来 クズ粉の産地で,植物名の く す クズも,同国吉野郡国栖の地名か ら起 った とも言 う。 ともか く生命力旺盛で,花 も案外美 しいが, 何 しろクズ粉 , ない し日常衣料 として も役立 った ので,プラグマティス トの万葉人 には好感を もたれ たのであろ う。 ところで憶 良は, このクズに関 して も,例 の

B

歌 以外,一首 も残 していない。やは り不思議極 ま る話である。 をみなへ し生ふ る沢辺の真 くず原いつか も終 きね りてわが衣 に着む (7・1346,実用性) 雁がねの寒 く鳴 きしゆ水茎 の岡の くず葉 は色 づ きにけ り (10・2208

,

「水茎の」は枕詞)

*

(

4

)

ナデシ コ

Di

a

n

t

hu

ss

u

p

e

r

b

u

s

わが国の山野 に普通 に見 られ る野草で,特 に川 原 に多いので別名 カワラナデシコとも呼ばれ る。 高 さ50cm内外,茎や葉が粉 白色をおびている。夏 か ら秋 にかけて淡紅色の五弁花をつけ,それが色 あ ざやかでいかにも可愛 らしいので, なでいつ く しみた くなる意味でナデシコと言 った とい う説が あ る。初夏か ら咲 き始めて花期が長いので 『こな 古今 集』時代になって 「常夏」 とも呼ばれ るようにな り,その頃には も う渡来 していた中国種 の石竹 (カ ラナデシコ) と区別 してヤマ トナデシ コとも言まっ れ,後世, 日本女性の代名詞になった。 しか し, 『万葉集』時代はもっぱ らカ ワラナデシコであ っ たはずで,計26首, とりわ け大伴家持が好んで う た っている。しかし,憶良には,やは りB歌以外, ナデシコを うた った歌は全然ない。 ひ とt,と 一本のなで しこ植ゑ しその心たれに見せむ と 思 ひ初 めけむ 大伴家持(18・4070) なぞ うるほ しみ吾が思ふ君はなで しこが花 に比-て見れ ど飽かぬか も 大伴家持(20

・4

4

5

1)

*

(

5

)

ヲ ミナ- シ (おみなえし)

Pa

t

r

i

ni

as

c

a

bi

o

s

-a

e

f

o

l

i

a

山野の, 日当 りのよい ところに自生す るオ ミナ -シ科の多年草。直立す る茎の高 さ 1m内外。九 月 ごろ茎の頂 に細かい枝 を出 して,小 さい黄色の 花 を多数散房状につける。 目立たないけれ ど,風 情 あ りげで,.ち ょっと日本的な秋の風物である。 日本本土のはか,沖縄,台湾,中国大陸等東 アジ ア各地 に広 く分布す るとい うか ら驚 く。若 い女性 (おみな) にちなんだ名前で,歌にはなまめか し い少女を連想 させ るものが多い。末尾 の 「へ し」 が何を意味す るかはっきりしない由。謡 曲 「女郎 花」ではオ ミナメシと訓 ませている。集中15首, 多い とは決 して言 えない。む しろ少数派なのに, ど うして憶良は これを取 り上げたのか。 この花 も 憶 良は例の

B

歌以外に一首 も残 していないので, 彼 の意向をさく・ることがで きないo例歌 として大 伴家持の歌を

2

首引いてお く。 をみなへ し秋萩凌 ぎさを鹿の露分 け鳴かむ高 士ど 円の野ぞ A (20・4297) 高円の宮の裾廻の野づか さに今咲 けるらむを みなへ しは も (20・4316) 大伴家持はひそかに山上憶良を尊敬 していた ら しく, しば しば憶 良独得の語法を学んだ りしてい るが,秋の七草の例歌について も,家持のだけに なって しまったのは,必ず しも偶然ではない。

*

以上五種の秋草は, まず まず及第であるとして ち,問題は次のフジバカマ とアサガオであるO ま ず

(

6

)

フジバカマ (藤袴)

Eu

p

a

t

o

r

i

u

m Fo

r

t

u

n

e

i

キク科の多年草。川岸 な どに自生す ることもあ るが,庭 に植 えて観賞す る。八∼九月に,決紫色 の筒状花か らなる頭花を散房状につける。本州中 部か ら,四国,九

,朝鮮,中国に分布す る。 日 本 のものは真の野生でな く,古い時代 に中国か ら 渡 った とす る説 もある。利尿剤 として も用い られ た。茎 と葉 は,い くぶん紅色をおび,一種の芳香 がある。半かわ きにす ると,そのよい香 りがやや きわ立 って くるためか,中国では昔 これを身につ 汁, また湯に入れて入浴す る習慣があ った とか。 それで (香草) とか く蘭草) といわれた とある。 いずれにせ よ珍 しい草で, この分布 は,関東地 方以西に分布す る となっているが, この数は極め て少ない し,関東地方ではほ とん どその野生は認 め られない と言 う(松田修『古典の花山02頁).その, いわば稀少種の フジバカマを, なぜ 山上憶良は取 り上げたのか。 実は フジバカマは 『万葉集』 において, これま - 3

(6)

9-た憶 良のB歌 に取 り上 げ られているだけで,他 に は見 出されない。憶良に してか らが,ただ名前 を 挙げてあ るだけで, い ささかの叙述 も,特徴づ け もしてないので, はた して何 ものであるか,結局 わか らない。 山 と渓谷社 の野草/、ソ ドブ ック 『秋の花』の著 者冨成忠夫は, 自分 も生涯 にただ二度 しかお 目に かかっていない, と告 白 してい る。恐 らく奈良時 代 に中国か ら入 って,特殊 な ところで栽培 され, それがやがて帰化 した, と一部植物学者 の間で考 え られている。 帰化植物 は,得 て して爆発的に繁 殖 し,やがて火 の消 えるよ うに落 ちついて しま う ことがあ る。戦後 のセイタカア ワダチ ソウがそ う であった。 フジバ カマに もそんな ことがなか った とは言 えない。 そんな異様 な さまを,憶 良はた ま た ま見て, この花 を知 り,且つその異様 さに惹か れたのか も知 れ ない。 とす ると憶良の「秋 の七草」 は,当時の一般人士 の好 尚を代弁 した ものではな くて,憶 良個人 の, かな り偶然的 な ものがはい り 込 んでい るのか も知れない。 倍良は同僚 た ちの多 くよ りはかな り年長 で, し か も出 自の こともあ り,ただ独 り自分の道を行 く 孤独の知識人であ ったか も知れない可能性が,少 な くない。従 ってその思考言動が他の一般人士 と 多少隔絶 した ものがあ った として も不思議ではな)こ い。例 えばいわ ゆ る憶 良語桑 に 「妻子」 とい うの があ る。巻五 の 「惑情 を反 きしむ る歌」 に 「父母 を見れば等 し,妻子見ればめ ぐし うつ くし」 とい う句があ るのであ るが, ここに出て くる 「妻子」 は,憶 良が憶 良の作 と認 め られ るもので四 カ所使 っているほかは,大伴家持に この句 を模 した と思 わ れ る ものがた だ- カ所 あ るだ けで あ る とあ る (津潟久孝 r万葉集注釈J五,37頁)。 ちなみに家持 は巻十 八 の 「史生尾張 少咋 を教 え諭 す歌」 (かな18・ 4)106)で 「父母 を見れば尊 く 妻子見れば)こ 愛 しく 慰 し」と措辞 してい る. この 「妻子」とい うのが, -見す こぶ る平凡な ことばの よ うで, しか も, ど うや ら憶良の新造語で,且つ憶 良の専用 であ ったいし らしい。妻子 の ことを遠慮せず,ず ばずば言 って のけることは, 当時の貴顕 ・紳士階層 の しなか っ た ことか も知れ ない。それを平気で何の気お くれ もな く憶 良が言 っている。 これはほんの一例 に過 ぎないが,そんな ところがやは り憶 良は相当の変 り者 であ ったのか も知れない。

*

『万葉集』四千五百余首の うちでただひ と り山 上憶 良が フジバ カマを取 り上 げ, しか もこれを秋 の七草 の一つ に数 えた ことに,古典 の植物 に くわ しい松 田修 は,少 なか らず こだわ らざるを得 なか った。 さかのぼ ると 「日本書紀」允恭天皇 (4世 あ ら らぎ 紀)の ところに 「蘭 」 とい うのが出て くる。 日 A /,●l、ざ 本古典文学大系本の頭注では,この蘭 について「ノ ビルの古名,本草和名に阿良 々支」 とあるが,松 田は これを誤 りとし,蘭 は ノビルではな くて フジ バ カマであ るとす る。蘭,蘭草 は, フジバ カマの 漠名で,古名 ラこ, ラニ ノ-ナ と呼んだO 中国で は有名 な草 で,香気 があ るので これを身につ け, 浴場 に入れ, また頭髪を洗 うのに も用 い,漢方薬 ともな している。松 田は これを 日本 の最 も古 い渡 来植物 の一つ と見ているのである。 しか し, フジ バ カマは現在,観賞用草花 として植 え られている が,野生 していた とすれば,それ は昔 その栽培園 か ら逃 げ出 した ものであろ う。多 くは河べ りの土 手 などに 自生 し,野原には余 り見 出 され ない由。 ところで今,野原 で俗 に フジバ カマ と人 の呼ん で いるのは,多 くは, これ に似た ヒヨ ドリバナや サ ワヒヨ ドリの煩の由で,外形 は フジバ カマ とほ とん ど同 じであ るが, フジ/てカマは生乾 きの とき 蘭草の名 にふ さわ しい芳香があるが, これ にはな い。 この区別を上代人 ・万葉人は知 っていたか ど うか。従 って万葉人, とい うよ りも山上憶 良が呼 んで フジバ カマ とした ものが, はた して植物学上 の フジバ カマであ ったか ど うか疑 問だ とい うので あ る。用字上 「藤袴」が用 いてあ り

,

「和訓莱」に 「花の色 もて藤 と称 し,その弁 の筒 をなせ るを も て袴 となす」一とあるのであ るが, これは フジバ カ マにはか りでな く, ヒヨ ドリバナ,サ ワヒヨ ドリ に もそ っ くりあてはまる。憶 良はその教養 か らフ ジバ カマの浜名が蘭 もし くは蘭草であ ることぐら いは知 っていたはず で,それを藤袴 とい う用字で 現わ してい るところに,彼 の美意識 の程 が臆測 さ れ るが,彼 の心 にあ ったのははた して稀 品の フジ バ カマであ ったか, む しろ類似品の ヒヨ ド1)バナ ない しサ ワヒヨ ドリではなか ったのか, と言 うこ とらしい。 しか し,松田修 の辛抱強い考察 も,私 の見 ると

(7)

ころ, どうや らひと り相撲 に終 りそ うである。万 葉集で フジバ カマを取 り上げたのがただひ とり憶 良だけで,他 は絶無 とい うことになると, これは 憶良の 「秋 の七草」 の信悠性に とってかな りのマ イナスでなければな らない。 も う一つ,問題のア サ ガオが残 っているが,憶良の 「秋の七草」はオ ミナ-シまで はまず よい として, フジバカマに至 って俄然おか しなことになって しまった。 四 (7)アサガオ (安佐我保 ・朝貌 ・朝容貌 ・朝果) アサ ガオが実は何であるかは,いまだ最終的決 着 はついてい ない。一往, キキ ョウであろ うと辞 典類や歳時記 類ではなっているが,私 としては少 なか らず釈然 た らざるものが残 ってい る。計

5

首 であ るが,憶 良の例 の

B

歌を除外す ると,下の

4

首である- h かげ (1)朝顔は朝霞負 うて咲 くと云ヘ ビ夕陰に こそ咲 きまき りけれ (10・2104) (ロ)こいまろび恋 ひは死ぬ ともいちしろ く色には 出でじ朝顔の花 (10・2274) こと ぐう言に出でていはばゆゆ しみ朝顔の穂 には咲 き で 出ぬ恋 もす るか も (10・2275) め づま き あ さが は わ (=)わが 目妻人に放 くれ ど朝貌の年 さへ こごと吾 は放 るがへ (14・3502) (1)かげの歌は, アサガオが今のアサガオであれば, 「夕陰にこそ咲 きまき りけれ」は何 ともおか しい とい うので, アサガオは実 は-- とい う問題を引 き起 して しま った。簡単には行 きそ うではないの で取 り敢えず後廻 しに しよ う。 そ こで(ロ)と(,うは 「秋相聞- 花 に寄す る」 とい うところに二首並んで見 出され る。あ るいは同一 作者 の連作か, もしくは恋人同士の唱和 した相聞 歌であるか も知れない。大意は(ロ)「ころびまわ り 恋 い こがれ死 にす ることになろ うとも,人の 目に 立つ よ うに顔色には出 します まい。朝顔の花の よ うには」。(.う「言葉 に出 して言 っては慣 りがあるの で,朝顔の花 の ように人 目につ くよ うな言動はせ ず に, ひそかに恋 しく思 っています」で, この二 首 における朝顔 は,今 日私共の言 う朝顔であろ う と, あるいはその他の ものであろ うと,パ ッと人 目につ く花 である限 り,それで よいわ けである。 従 って ここの朝顔はわれわれのいわゆ る朝顔であ って よろ しく, ましてそれを否定すべ きものは, 全 く何 も含まれていない。 次に最後の(=)であるが, これは巻十 四,東歌の 目録 に 「未勘国相聞往来歌百十二首」 とあるとこ ろに見出される相聞歌である。寄物陳思 とい う分 類の中の植物の項 に属す る。 ∫)づま さ あ さがほ わが 目妻 人は放 くれ ど朝貌の年 さへ こごと 吾は離かるがへ (14・3502) 東託 りが混 じっているので, このままでは素人 にはわか らない。 日妻は愛 ゾル妻の約で,愛 しい 妻。古典大系本では 「朝貌の」 を,一句飛 んで第 五句のさく-咲 く (放 く ・離 くと同音) にかかる 枕詞 と見ているが,はた して枕詞なら,朝顔論議 か らははず して差支 えないか も知れない。滞潟博 士 な どは反対である。す るとやは り実質的に朝顔 を意味す ると見 るべ きであろ うか。大意は 「私の い としい妻を, ひ とび とは引 き離そ うとす るけれ ど,朝顔の ようなあの人を,(月 日はおろか)年が 幾年た とうとも,私 は決 して離れは しない」 と解 して よろしかろ う。す るとこの 「朝顔」 も牽牛花 のアサガオで も桔梗のアサガオで もい っこうに差 支 えない。 そ こで結局,問題 は元 に戻 って,T. かLT (1)朝顔 は朝霞負 うて咲 くと云ヘ ビ夕陰に こそ咲 きまき りけれ (10・2104) の一首の理解如何に絞 られ る。揮潟博士 は 「朝顔 は朝露を うけて咲 くけれ ども,夕方の光の中にて 一層美 しく咲 きまさる」 と解 して, このアサガオ は今の朝顔 (牽牛花)ではな く,やは り桔梗であ ろ うとされ る。 これに対 して,古典大系本では, 大意を

,

「朝顔は朝露を うけて咲 くとい うけれ ど, 夕方の光の中で こそ,いよい よ盛んに咲いている のである」 と,一往は揮潟説 とはば同 じよ うに解 しなが ら,別解 として 「朝顔 は朝露を うけて咲 く とい うけれ ど,私 は夕方の光 の中であなたをお待 ち して咲 きまきってお ります ものを」を提 出して, 朝咲いてやがて しぼむ花が,夕方の光 の中でい よ いよ咲 きまさるとい う矛盾を,みごとに避 けた。 これを受 けいれれば,一往事 もな くお さまるとこ ろであるが,文字面 の上では,つま り文法的には, 「朝露を うけて咲 く」の と 「夕べの光 の中で咲 き まさる」 の との主語 -主体は,やは り同一でなけ ればなるまい。古代人ののん きさと,三十一文字 -

(8)

41-とい う形式的制約に しは られて

,

「私 は」と,後に 咲 きまさる者の 自己主張を怠 って しまった, とは 到底考 えられ まい。 そ こで問題 は,万葉集に言われ る 「朝顔」 なる ものがはた して何であ ったか,に帰 って くる。古 典大系本 『万葉集』二の補注 「一五三八 ・朝顔」 はまことに要領 よ くまとめてある。-,牽牛花(今 のアサガオ)説。 これは渡来植物で,野生 しない。 それに(1)歌の,夕陰に こそ咲 きまき りけれは,牽 牛花のよ うに朝だけ咲 くものには合わ ない。二, む くげ (桂)説。古典大系本に,・ムクゲは朝咲い てす く・しぼむ, とあるが, これは誤解で,筆者の 観察す るところ,朝咲いて一 日中咲 き続 け,夕闇 と共 にしぼみ始め, ポ トリと落ちるのは翌朝にな ってか らの よ うである。桂花一朝の栄 などとい う 成句 にしは られて, 事実をよく見ない弊ではある ゆ うかIf まいか と思 う。夕光の中で咲 きまさるは,少 し誇 張に過 ぎるが,言 えな くはない と思 う。ただ し, これ も渡来植物で, アオイ科の木本であ り,且つ 野生 しない ところが,秋の野に咲 く花 とい うには 不適合である, とされ る。 しか し七草 も,七種の 花の意 と解すれば,必ず しも草本である必要はな いであろ う。筆頭の萩に してか らが,草状 なが ら 実は多年生木本で,高 さも1m以上 に達す る。三, 桔梗説。「新撰字鏡」(僧昌位著,昌泰年中

(

8

9

1

-9

0

1) 成立)では桔梗 に阿佐加保 とある。キキ ョウは秋の 野に咲 く花 としては,美 しく,かつ野生の花で も ある。そ こで朝顔 -桔梗説が 目下の ところ最 も有 力であるが,古典大系本の著者 (団)は消極的で, 桔梗は 「新撰字鏡」 にはアサガホ とあ って も,他 の 「倭名探究抄」(源順著,承平年中

(

9

3

1

-9

3

8

)

成 立)や 「煩衆名義抄」(平安末期成立)な どには,牽 牛花や苑・桂 な どをアサガオ としてあ り

,

「新撰字 鏡」 にだけ桔梗をアサガホ としてあるのに過 ぎな い。だか ら 「新撰字鏡」だけを踏 まえ,他 を無視 して,桔梗 -アサ ガホ説を固執す るのはおか しい。 それに桔梗には,特 にアサガホ とい う名がつけら れ るよ うな,特別 な理 由が見当 らない,とあるが, これには私 も同感である。四,旋花 (ヒルガホ) 説。古典大系本では, この説 に理 由があま り決定 的でない として,最 も軽視 してあるが,私 はそ う は思わない。

*

牽牛花のアサ ガオに とって大いに不利なのは, まず, この花が万葉時代にすでに渡来 していたか ど うか,疑わ しいことである。その前に, これ ま での六花にな らって, アサガオその他の身許を, 再検討 してお こ う。

(

1

)

アサガオ(牽牛花 ・朝顔)

Ph

a

r

bi

t

i

sNi

l

Cho

i

s

y

ヒル ガオ科の不耐冬性一年草。つ る性。 アサ ガ オには,熱帯 アジア原産 のニホンアサ ガオ

Pha

r

-bi

t

i

sNi

lva

r

.j

a

p

o

ni

c

a

のほかに,熱帯 アメ リカ 原 産 の ア メ リカアサ ガオ

Pha

r

bi

t

i

s h

e

d

e

r

a

c

e

a

Cho

i

s

y

とい うの もあ るが,これはわれわれの問題 外 に置いて よい。 ニホンアサ ガオに,古語 として はキキ ョウや ムクゲの異名で もあったのか, まざ らわ しい。 ニホ ンアサガオは奈良時代 に中国か ら 渡来 し,当時牽午子 (けんごし) と呼ばれ,種子 を薬用 とす るために栽培 された。何 しろラ ッパ形 の,はでな花 なので,やがて観賞用にもなったが, それは鎌倉時代以後の ことで,江戸時代に入 って よ うや く最盛期 を迎 える。 とい うわけで,山上憶 良当時に,た といすでに渡来 していた として も, おそ らく特殊の薬園に薬用 として栽培 されていた に過 ぎず,野生化 して野原を色 どっていた とは到 底考 えられない。それに早朝開いてやがて しぼむ デ リケー トな花 なので,他の強靭な野草 と張 り合 って,秋の七草 に割 りこむよ うなものではない。 牽牛花 としての朝顔 はまず落第 として差支 えある まい。

(

2

)

ムクゲ (檀)

Hi

bi

s

c

u

ss

y

r

i

a

c

u

s

L

アオイ科。中国・イン ド原産の耐寒性落葉潅木。 夏か ら秋にかけ白 ・赤 な どの美 しい花 を開 くが, 一 日しか もたない とい うので,はかないことのた とえにされ

,

「桂花一 日の栄」 (白楽天) と言われ た。 目下,観賞用の庭木で,生け垣 として も広 く 植栽 される

芭蕉に 「道のべのむ くげは馬に食わ れけ り」の句がある。樹勢が強健で, 日当 りの よ い所 なら, どこで も育つ。かつては幹 の皮 (木桂 皮 ・もくきんぴ)が タムシ,水虫の治療 に用 いら れ,花 は腹痛 ・下痢 ・出血に きくとされた。 しか し,木本に属す るので,秋の七草を草本に限 るな らば,選 に漏れ ることになる。

(

3

)

キキ ョウ (桔梗)

Pl

a

t

y

c

o

d

o

ng

r

a

n

di

f

lo

r

u

m

キキ ョウ科の多年草。山野の 日当 りの よい草地

(9)

に生 える。 八,九月に青紫色の鐘形花冠の花をつ ける。先端 が五裂 して, なかなか恰好が よい。板 にはサ ポニ ンが多量に含 まれるので,去疾剤 とし て用 い られ る。私 も若 い とき胸 を悪 くして,大分 桔梗 の根の煎薬を飲 まされた。 日本 ・朝鮮 ・中国・ 東 シベ リアに分布す る。 大抵の解説書では

,

『万葉集』のアサ ガホはこの 桔梗 にほか な らぬ, と無造作に きめてかか ってあ る。 しか し,花のあの形はよいが,径

4-5

cmと い うのは, い ささか貧弱で,色 も青紫色 と, どち らか といえば地味で,パ ッと目につ く朝顔, とい った感 じはない。ちなみに 「朝顔」 とい うのは, 語意 として は元来

,

「朝,起 きた ままの顔

「お化 粧以前の, あ りのままの顔」 とい う意味の普通名 詞であ った。朝,起 き出 しの寝ぼけ 目を,大輪の 色あ ざやか な花が,すがすが しく迎 えて くれる。 そんな ところか らヒルガオ科のアサ ガオが「朝顔」 とい う名誉 あ る名を頂戴す ることになったのでは なかろ うか。 キキ ョウにそのよ うなことが期待で きるであろ うか.キキ ョウに朝漠の別名のあった ことは

,

「新 撰字鏡」の手前,一往受け容れ ざるを 得ないが, 私はむ しろ次の ヒルガオを推 したい。 (4)ヒルガオ

Ca

l

y

s

t

e

gi

aj

a

po

ni

c

aCho

i

s

y

ヒルガオ科 の多年草。道はたや野原 に 自生す る。 地下 に根茎 があ り,茎 とい うよ りもつ るが長 く伸 びて地物 に まつわ る。七,八月ごろ花 を開 く。花 冠 は漏斗形 で,径5cm内外,淡紅色で 日中に開 く。 花の形の よ く似ているアサガオ (牽牛花)が朝咲 いてまもな くしぼむのに対 して, 日中に咲 き続 け るので昼顔 と言いな らわ されたのであろ う。難は 花期が夏の七,八月 とい うことで,秋ではない こ とであるが,強い花 なので,秋 になって もけっこ う咲 き残 り,咲 き続けるものがあ るよ うである。

*

ここで念 のため,各花の花期 を表記 してみ ると, -ギ--・七 ∼九月。 ヲバナ(ススキ)・--八一十 月,時には十一 月 に

た る。 クズ--・七 ∼九月,早咲 きの ものは六月にさ かのぼ り,おそ咲 きの ものは時 に十月に 及ぶ。 ナデシ コ-目上 一八月,早咲 きは六月 よ り, おそ咲 きは十月にまでわた る. ヲ ミナ-シ--八一十月,早咲 きは七 月 よ り, おそ咲 きは十一月まで。 フジバ カマ--八一九月ごろ。 アサ ガオ (牽牛花)--・夏か ら初秋 まで。 ムクゲ--・八∼九月。 キキ ョウ--八∼九月。 ヒルガオ・・-・七 ∼八月。 以上で見 る限 り,ナデシコとヒル ガオを除 き, アサ ガオに若干留保をつければ,何れ も秋の花 と 一往は言 うことはで きる。 アサ ガオ (牽牛花) は や は り夏の花で

,

「夏か ら初秋 まで」とい うあいま いな言表 は頂 けない。 しか し,俳句では秋の李 に はいっている。朝顔を蒔 くのは春で,朝顔の苗, 朝顔の二葉 は夏の李に属 している。つ ま り,-ギ・ クズの七 ∼九月 と, ススキの八一十月の よ うに花 期 の比較的長いもの もあるが,大抵 の ものが夏に 咲 き始め,秋に食 い こんで咲 き続 ける,む しろ夏 花 と言 うべ きものばか りである。同 じ七 一八月の もので もナデシコは秋の李に属 し, ヒル ガオは夏 の李 にはいってい るが, もしナデシコを秋の花 と す るな ら, ヒルガオもほぼ同 じ程度,秋の花であ ってよいはずであ る。私見 としては,憶 良のいわ ゆ るアサ ガオを ヒルガオと同定 したい。 さすれば (1)の歌の形容矛盾 は,或 る程度,無理 な く解消で きるはずである。 いずれにせ よ,花期 か ら見て完 壁 に秋の花 と言えるのは,-ギ とススキ とヲ ミナ - シ ぐらいである。 どうせ常識 ない し趣味の こと だか ら,素朴 に受 け とっておけばよい ものを,め ながちにい ささか検討を加 えてみ る と, いずれ も 多かれ少 なかれ,おか しなことになって しま う。

*

ところで私の ヒルガオ説 に有力な味方 のあ るこ とを発見 した。滞潟博士の 『万葉集注釈』八,憶 良の

B

歌の訓釈 (173-6頁)で,朝顔 について一, あ さ が ほ も く Lf 牽牛子 (ひるがほ牽牛花)読,二,木柱説,≡,桔梗説, 四,旋花説が逐次検討 してある。一 については「牽 牛子が我 が国に渡 ったのは昌泰(898-901)年 中か ら延吉のは じめの頃 (901-)であろ うか」 とす る 向 き(藤原長房)もあるが,それを論拠 に牽牛子の 渡来年代を限定 して しま うことは ど うか。結局, 万葉のアサ ガオを今 日のアサ ガオで ない とす る明 瞭 な根拠 はないが, この草は本来薬草 として輸入 された もので,万葉 の頃,尾花や葛花 と共 に野の - 4

(10)

3-草 として詠 まれた とす るには大いに疑問がある。 とりわ け(1)歌の 「夕かげにこそ咲 きまき りけれ」 が障害 になる, として一説を し りぞけ,二 の木柱 説については, これ もアサガホ と言われた ことの あ った ことは認めて も,四説の うち,最 も論拠薄 弱 として しりぞけ られ る。そ して三,桔梗説を, B歌 のアサガホを桔梗 とすれば,「万葉 の どち らの 歌 にも無理 な しにあてはめ る事が出来 るので この 説が最 も有力な よ うに思われ る」 と結論 された。 そ して最後 に四の旋花説を論評 され るのである が,井上通事(1866-1941)の r万葉集新考』に 「思 ふに本集 (万葉集)に見 えた るアサガホはなは旋花 の事にて,初 め この花をアサ ガホ といひしを,牽 牛子西土 よ り渡 りLに,その花旋花に似たれは, これをアサガホ といひし程 に, アサガホの名は終 に牽牛子に奪はれ Lにぞあ らむ」 とあ るのが紹介 してある。 この説は推定 としてはなかなか面 白い が,古書に何 らの根拠 もない として津潟博士は し りぞけているが,私はそ うで もない と思 う。 ヒル ガオも,おそ咲 きの ものは十 月まで も咲 き続 ける とい うことであ る。夏草ではあるけれ ども,秋草 に入れて もおか しくないが,どこかやは りまず い。 私は改めてムクゲを考 えてみた。俳句歳時記をあ れ これ見ていた ら,その一冊 の例句に 「闇深 き火 祭村の木種かな 北野登」 とい うのを見つけた。 やは りムクゲは夜にはいって もちゃん と咲 きつづ け,それが火祭の火明 りに白 く浮 き上 って印象的 に見 えたのではあるまいか。 ムクゲは四つか ら四 つ まで咲 くと物 の本にある由で,昔の時刻で四つ と言 えば,午前十時 と午後十時中心の前後

2

時間 なので,早ければ,午前九時に咲 き始めるのでは 朝顔 とは言いかね るが,夜十時過 ぎまで咲いてい ゆ うか If るのな ら,夕光 に咲 きまさるとは十分に言 うこと がで きる。 しか しムクゲは木本で,且つ野生化 し ていない.一秋の野の草 とはやは り言いかね る. 五 億良の秋の七草 を検討 してみて,私 の不審に堪 えない ことは,憶良が

B

歌で秋の七草を,いわば フル コース として うたい挙げてお きなが ら,その 一つ一つについて一品料理 としての メニューを絶 えて出 し七いない とい うことである。 -ギ141首, その1首は憶良のB歌であるが,万葉人があの よ うに情感を こめて取 り上 げている-ギに,憶良は た った一首 もささげてい ない。以下同様である。 そ こで私 は憶良の植物鑑賞意識 に疑問を もった。 倍良が この

A ・B

歌以外 に植物 を取 り上げている か,調べてみると,梅の歌

5

首,あふちの歌

1

首, それに ともか くも松 とい うのの出て くる歌が3首 あ った。余 りに も少ない。 まず (1)松の歌∼ や士と いざ子 どもはや く日本-大伴の御津の浜松待 ち恋 ひぬ らむ (1・63) 憶良が大宝2年 (702)栗 田朝臣真人の率いる遣 唐使節団に,下 っ端の遣 唐 少録 として加わ って唐 に赴 いた ときの歌。明 らか に外地でつ くられた歌 は

,

『万葉集』中 この一首 だ けなので,その ことは 先 にすでに触れた。憶良 は2年 は ど在唐 して,慶 雲元年(704)七月,栗 田真人 らと一緒に帰朝 した らしい。時に憶良45歳。唐土を発つに当って感慨 を もらした ものであろ うが,作 としては平凡な も のである。

*

大伴の御津の松原か き掃 きて吾立ち得たむは や帰 りませ (5・895) 「好去好乗の歌一首反 歌二首」 の反歌第一首で あ る。 天平5年 (733)四月, 多治比真人広成が遣唐大 使 とな り,4隻の船をつ らねて難波津を進発 した。 その とき山上憶良は,かつて 自分 も渡海の危険を 冒 して渡唐 した,それを憶 い起 し, これか ら壮途 につ く多治比広成に, はなむけ として贈 った歌で あ る。「ほや帰 りませ」と ことはがれた広成は

, 2

年後の天平7年三月に無 事 帰国 した。1・63の歌 に は大伴の御津の 「浜松」 とあ り,5・895歌 には大 伴の御津の 「松原」 とあ る。儀礼的なもので,特 に植物 としての松 に関心 を示 した ものではない。 後書 によると,四月の発進に先立 って,三月, 遣唐大使広成 自身,憶良 の宅に赴 いてあいさつ し た らしい。憶良はすでに齢七十 を越 えた老翁で, 恐 らく渡唐経験のある生 き残 りとして稀有な存在 であったか も知れない。 そ うい う老先輩に,新任 大使は何が しかの忠言を得 ようとしたのであろ う か。天平

7

年に無事帰国 した とあるが,その とき 憶 良はすでにみまかって いた。 - 4

(11)

4-その他,松 の出て くる歌 は

2・1

4

5

と,はた して 憶 良の作か疑 わ しいのが-,二首あるが,惜 良の 植物観賞意識 を知 る材料 にはならないので,言及 を避 けることにす る。

*

(2) 梅 梅は遣唐使 が持ち帰 ったのか,当時,貴顕文人 の間で, もて はや されていた。 まだ春寒い季節 に 咲 くものなので,桜 に馴れ親 しんでいるわれわれ には ピソと釆 ないが,少な くとも九州の文人サ ロ ンでは大変で,天平2年

(

7

3

0

)

正月,大牢の帥, 大伴旅人の宅 で梅花 の宴が催 された。その ときの 歌が

3

2

,

『万葉集』巻五 に載 っている。その中で 憶 良が (1)春 されば まづ咲 く宿の梅の花 ひとり見つつや 春 日暮 らさむ

(

5・8

1

8

)

とい うのを寄せてい る。 まず尋常の作で,他 に比 べ て見劣 りは しないが,ただその程度 の作の よ うこた に私 には思まっれ る。その後に 「後 に追 ひて和ふ る 梅 の歌四首」 とい うのがあって,普通,憶良の作 とされている。 (ロ)残 りた る雪 に交れ る梅の花早 くな散 りそ雪 は か 消ぬ とも

(

5・8

4

9

)

ぐう雪の色を奪 ひて咲ける梅の花 いま盛 りな り見 む人 もが も

(

5・8

5

0

)

(⇒わが宿に盛 に咲ける うめの花散 るべ くな りぬ 見む人 もが も

(

5・8

5

1) いめ ふ やぴ あ九も (,+,)梅の花夢 に語 らく風流た る花 と吾思ふ酒に浮 あれ べ こそ (いたづ らに吾を散 らすな酒に浮べ こ そ)

(

5

・8

5

2

)

(ロ)

う(i)は習作の連作 とみ えて,率直 に思 うと ころを述べているところが,む しろ(1)よ りもよい のではないか. しか し,最後の桐 は, まことに憶 良 らしくない。酒仙であった らしい大伴旅人の作 が まざれ込 んだのではあるまいか。

*

(

3

)

あふ ち (セ ンダソ) 「日本挽歌一首」 に反歌五首がっいてお り,そ の一つにアフチ (セ ンダソ)を うた った ものが一 首あ る。 妹が見 しあふちの花はち りぬべ しわが泣 く涙 いまだ干 な くに

(

5・7

9

8

)

大体,長歌 「日本挽歌」 は大事の帥大伴旅人が 愛妻を失 った悲 しみを,山上憶良が代 ってその心 情を うた った もの とされているが,む しろ憶良 自 身の愛妻の死を,憶良 自身が うたったのだ とい う 説 もある。私 はむ しろこの後の説を とるものであ る。 ところでアフチは 「新撰字鏡」 に阿不知 とあ り,棟 の字をあててあるが,センダソ科のセ ンダ ソと同定 されている。五,六月 ごろ淡紫色の小 さ い花を開 く。高木で,今 日よ く並木に使われてい る。花 としては 目立たないが,集中,憶良のの外 に三首見出され る。大伴家持 「ほととぎすあふち の枝 に行 きて ゐば花 は散 らむ な珠 と見 るまで」

(

1

7・3

9

1

3

)

とい うのがある。 以上,憶良の植物美観賞眼を示唆す るもの とし ては,梅花の歌4首 とあふちの花の歌 1首 しかな く,作はいずれ も尋常で,当時,社交上の詠歌 と しては十分に通用す るものではあった ろ うが,憶 良が特に これ らの花 に打ち込 んでいた とい う様子 はない。従 って植物一般,花井一般 に も,彼 は一 般人なみの関心 しか もっていなかったのではない か と臆測 され る。 この憶良が短歌旋頭歌を連ねて 秋の七草を うたいあげた。芸術 として云為すべ き ほ どの作品ではないが,何 しろ調子が よい。簡単 に記憶 して,気軽に 口ず さむ ことの出来 るメ リッ トを具えている。 この ことが, 内容の検討に立 ち 入 ることなしに,昔か ら今 日まで,万 人に受け容 れ させて しまったのか も知れない。 私はあれ これ持 ち廻 って考 えてきたが,憶良が 叙上の七品を列挙 して 「秋の七草」 とした とい う ことが, どこか収 ま りに くく,やは り釈然た らざ るものが残 る。 ざっ くば らんに言えば,憶良の作 にはなっているが,実は憶良の作ではな くて,何 かの紛れで彼 の歌 とな って しまった のでは ない か, と臆測す る。それにして も辞書 ・歳時記 の頬 が, まるで当然の ことのよ うに

,

「秋 の七草」なる ものを恒良の創唱 として,何 らかえ りみ るところ のないのは,編集者 の怠慢 とい うか,余 りの無神 経振 りに驚 くばか りである。 後考を待つ。

(

1

9

8

3

-昭和

5

8

年11月

2

4

日初稿)

-4

参照

関連したドキュメント

噸狂歌の本質に基く視点としては小それが短歌形式をとる韻文であることが第一であるP三十一文字(原則として音節と対応する)を基本としへ内部が五七・五七七という文字(音節)数を持つ定形詩である。そ

この数字は 2021 年末と比較すると約 40%の減少となっています。しかしひと月当たりの攻撃 件数を見てみると、 2022 年 1 月は 149 件であったのが 2022 年 3

最後に要望ですが、A 会員と B 会員は基本的にニーズが違うと思います。特に B 会 員は学童クラブと言われているところだと思うので、時間は

(2011)

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

を負担すべきものとされている。 しかしこの態度は,ストラスプール協定が 採用しなかったところである。

ても, 保険者は, 給付義務を負うものとする。 だし,保険者が保険事故