間 接 伝 達 論 的 論 理 学
第 2 部 ・ 注 釈 部 ( そ の 7 )
清 水 茂 雄
Die mittelbare-mitteilungstheoretische Logik Zweiter Teil・Anmerkungen <7>
Shigeo SHIMIZU
Zusammenfassung:In der vorigen Anmerkung34 habe ich einen wichtigen Begriffftirdiemittelbare一mitteilungstheoretischeLogik"dasmagischeWortder Vorbereitung"gezeigt.Innerhalb des magischen Wor上der Vorbereitung sin° Heideggers Denken und Holderlins Dichtung erm6glicht. Es gewahrt die NachbarschartYon Denken und Dichten.In diesen Anmerkungen<7> willic九 seineandereSeite,welchedieZeitermoglicht,erOrtern.
In dieserAbhandlung willichnoch einen neuen Begriff,d.h.die zogernde Gegend dergeschichtlichen Logik aurtreten lassen,um die Logik Yon der Religionzuunterscheiden.ObwohldieReligioninnerhalbderzogerndenGegend moglichist,sollsienichtgerlnggeSCh包ztwerden.DieReligionkann erstihre eigentlicheTatigkeitgewinnen,indem siederWahrheitderzeigernden Gegend folgt.
Keywords:用意の秘術語(dasmagischeWortderVorbereitung),遠巡 領域 (die zOgerndeGegend),宗教(Religion)
は じ め に
この論文 は 「間接伝達論的論理学」の第2
部である 「注釈部」のための一連の論文の第 7報である.注釈の形式 は第6報までの もの と同様である.最初の番号 は 「注釈部 ・その1
」か らの通 し番号であ り,続 くか っこ内 に は,注釈箇所の記載 されているペー ジと行が, その下 にイタリック表記で注釈 され るべ き部 分が記 されている.引用の出典 は,この論文 自身が注釈であることか ら,引用文の末尾 に その都度記 した.3
5
′(
P.2
6
.5
行) 作土曜 日J
に言われ ることは一層奇妙 な 遵彦任を もって F日曜日J
で も言われるので ある.
」
歴史的論理学の最後か ら二番 目の論理学的 場面を我 々は,
「土曜 日」と名付けていた.そこ は現実には,ハイデガーの哲学 ,特 にEreignis としてすでに歴史的に出現 した.そ して,そ こは歴史的論理学 としては一義的な 「同語反 復」の起 きていることであることが明 らかに されたのである.また,34の注釈で ,この場 面の 「日曜 日」 との関係性がヘルダー リンの 詩作 との対話を通 じて明 らか にされ,
「用意 2002年4月8日受理 -1-の秘術語」 に基づいていることが示された. 「土曜 日」の場面 は
,
「用意 の秘術語」が発 言 されている境界の内部様相時空の言組立て (ことくみたて)にな って い るが,「用意 の秘 術語」そのものは,真言 へ の用意 ,真言が発 言 され ることの 「前」(dasVor)として発言 が許 されるのであるか ら,その内部で はまだ 発言許可 されることがない.この不許可 の可 能性 はどうい う事情 にあるか というと,その 境界で 「私」が発言 しているという事態が起 きているのである (「私」とい ったことが こ こで定義 されている).発言許可 されて発言 すべ きは言葉 その ものでなければな らないの に,この 「前」の内部様相時空で発言 してい るのは,まだ 「私」にして,はじめて 「私」に な っているのである.この 「前」こそが 「私」 といった ものの 「これか ら」と「すで にもう」 の可能性を可能化す るのである.「時」(Zeit) が ここに発祥 していることにな り,この 「時」 が,すなわち,かの発言 の不許可 の可 能性 を 開 くのである. 故 に,真言が発言 され る 「前」をめ ぐっては 次 のような 「奇妙な連続性」が認 められる.A
「前」の内部 にあることの必然性 B 「前」が 「前」として発言許可 され るとい う必然性 真言の 「前」に関するこのAとBの二つの必 然性,「前」の発言 の不許可 と許可 ,は 「奇妙 な連続性」となっているのである.ここで言わ れている「前」とはあくまで 「真言 の前」であっ て,比喰的に表現 されているのではない.そ れゆえ,この 「前」よりも秩序的に後のことが ら,つまり,一般 にハイデガーの言 うよ うな 「有論 的差異」(OntologischeDifferen∑)に 基づ くことが ら,言 いかえれば,形而上学的 に思惟 されることが ら,また,時間 と空間 に 根拠のあることが らか らこの 「前」 は理解 さ れてはな らない._この 「前」は,唯一,言葉が 言葉 (真言)へ と赴 く途上 において,そ こで のみ発言許可の可能性が開かれるのである. それゆえ,ここか ら次 のようなことが見えて くる.この 「前」は,言葉の言 (こと)を言葉 が言 うことが出来 るよ うになるという,一種 の移 り行 くことの可能性であるということで ある.か くして,かの内部様相時空 その もの が 自らが 「前であること」であることを発言 す るようになって くると,それとともに,言 葉 は言葉のことを言 うようになって くるので ある.自らが実 は 「前であること」であ った と発言す ることが許可 されるようになること は,
「時」その ものの中へ と食い込 んでいき, 「時」の本質,時性,をかの 「前」として言 うよ うになることであり,このこと自身が歴史的 なことである.まだ成 っていないこの 「前」 にすでに成 っていたということが時性 に他な らない.
「時」その ものの中で 「時」の何であ るかが このように して明かされて くることが 歴史性,つまり,歴史 の本質 であ る.歴史 を 動か しているものは人間ではなく,言葉であ り,論理学であるということになる. 「用意の秘術語」の発言の内部様相時空で 発言 されることが許可 された言 (こと)は, 本質的に 「言葉への途上」 ということになり, これが,上で明 らかにされた 「奇妙な連続性」
に従 って,
「日曜 日」か ら見直 され ることにな る.
「時」その ものに食 い込んでい ることは, 今や転ぜ られるということになる.言葉の発 祥の処で起 きているこの 「転」は容易 な らざ る最 も難解な事態である.アポステ リオ リが アプ リオ リに転ず るということは,ここに至 るまでの諸段階で何度か知 られるようになっ ているのであるが,ここでの 「転」は,い っ てみれば,最後 の 「転」であ り,秘密 に満 ち たことになっているのである.この事態 はい わば,「時が解 ける」とも言えることである. こうした表現です らかの 「転」の事態 を表す ことはで きない.しか し,「用意 の秘術語」が 発言 されているということは,この 「転」そ の ものに入 っているということである.自 ら の 「前」が転 じられて 自 らが転 じる.
「前」が「前」と成 って行 くとそ こに間接伝達す る言 糞が間接伝達 し始めるようになる.本質的 に 転ず る言責が発言許可 されて出現 して くるの である. なお,ここで このような 「本質的に転 ず る 言葉
」
,後出する真言,が 自らの 「前」を転 じ て言窯の言 (こと)になるということを,ヘー ゲル哲学 の媒介(
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と混同 しな いことが肝要である.確かに,真言 が発言 さ れるために自らの 「前」を前提す るとい うこ とは,真言のいわばEn
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(外化)と 受 け取 られて も仕方 はない. しか し, この 「前」は「秘術語」であって,単 に真言 が 自己 へ戻 って くるために自己の外へ と出てい くと いうことではないのであ る.この 「前」その ものが言葉の出来言であり,
「最終奥義」になっ ていることを知 るべ きである.後に示す よ う に,ヘーゲルの 「論理学」は 「土曜 日」の前 の 場面 を形成 しているのである.否定性 の可能 性はそれがまさに 「金曜 日」の場面 の論理学 の固有な ものになっているとい う点 にある. さて,「奇妙な連続性」は,連続 とともに同 時に非連続を含んでいる.この分裂 は,
「土曜 日」の内部 にも予感的に出現 して こなければ ならない.
「予感的」とい うのは,
「土 曜 日」の 内部では 「まだ」そ うした分裂 は現在 してい ず,未来的なことになっているか らである. なにか秘術的なこと,言葉 の秘術 として歌 の ようなものが,論理学 の中 に 「予感 的 に」見 えて こなければな らない.ハイデガーで は, 思索 と詩作の隣 り合 う関係 とい ったようなこ とが必然的に問題になるのである. 36,(P.26.6行) r裁々はそれを仏教何語を借用 してr
転法 華紺
と名づけ
ることにするJ
前注で述べたように,真言 の 「前」に関 し て は,「奇妙 な連続性」が認 め られ る. この 「前」は転ぜ られ る もの と して転ず る ものに 属 している.
「前」そのものの内部で はそれ は まだなお真言の 「前」ではないが ,しか し, 真言の 「前」としてそれは 「時」の本質を成 り 立たせているのである.このよ うな 「時」の 可能性が 「論理学の歴史」の可能 性 の根拠 に なっていて,この根拠に基づいてへ-ゲルの 「論理学」
,そ して,ハイデガーのEr
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が 歴史的に時の順番に従 って出現 したのである. およそ,全ての自然的なもの,精 神的 な もの (「有 る」を述語 としている全存在者)はヘー ゲルの 「論理学」に収 め取 られ るのだか ら, 人頬の歴史 と宇苗の過程の全てが この 「時の 可能性」の中で展開 されていたのである. このような見通 しにおいて この 「間接伝達 論的論理学」が開示 されてい くとしたならば, そこには宗教の入 る余地などはないとみなさ れよう. したが って,「真言」とか 「転法華」 などという仏教用語を外か ら借用すべ きでは ない,という批判 は当然突 きつけ られなけれ ばな らない.
「真言」に関 しては,後 に示す よ うにこのような批判 は必ず しも当たらないと 言える.しか し,
「転法華的」につ いて は,確 かにそうした批判の矢に当たるべ き点がある. この点 について論ず る前 に,我々は,最初に, 本質的な問題 として 「間接伝達論的論理学」 と仏教,あるいは,宗教 との関係 を明 らか に しておきたい. 最 も厳密に見るならば,あらゆる宗教は我々 がここで考えている 「論理学」
,つ ま り,「歴 史的論理学」に立ち入れない と言 え る.その 理由は,宗教 は 「人 を救 う」とい う関心 を ど うして も離れるCtとがで きないか らである. ところが,「論理学」は全ての関心 を離 れ るこ とを要求するのである.主語 と述語の関係の 奥底か ら聞 こえて くる言 (こと)を聞 くとい うことはなん ら「人を救 う」とい うことには な らない.このいわば 「非情 さ」 に宗教 は最 初か ら拒否感を感 じて しまうのである.世 の 中の役に立たないという宗教的真理で も 「人 を救 う」という点 に関 して は 「役 に立 っ」の でなければな らない.しか し,「論理学」はこー3-の世のいかなる役 にも立たないだけでな く, 「人を救 う」 ことにも役に立たないのである. 最 も抽象的な論理的な ものの秘儀 に参加する には,人間のために,という目的意識 も捨て 去 らねばな らない.なぜな ら,す でにア リス トテ レスが洞察 していたように
,
「論理学」は 人間の所有ではないか らである.「論理学」は 最 も始元的な ものの所有になっているか らで ある.人間はこのような秘儀には本質的 に犠 牲にされるべ き供物になるべ きであって,こ の秘儀が人間のために有 るので はない.「論 理学」 は人間本質を犠牲に捧げることでよう や く自らを現すのである.このような意味の 「論理学」が人間の苦悩 の救済をす るとい う ことはおか しい ことであ り,む しろ逆 に, 「論理学」 は人間 とい う苦悩 を必要 と し,こ の苦悩の火の中に自らを現すのである.苦悩 はここにようや くその有の意味が見出され, というより,ここで苦悩が言葉のほうか ら定 義 されていたのである.こうした苛烈 な事態 を人間は受 け入れ ることはできない.宗教が もしもこうした 「論理学」の秘儀をそのまま 提示 したとした ら,人々は離れ去 って行 くで あろう.歯 も折れるような堅 いせんべ いを食 べさせる前 に,まずは柔 らかいカステ ラか ら 食べて もらう,これが宗教の道の基本 といえ よう.キ リス ト教にも仏教にもはっきりと認 め られるこのような,最 も広い意味の 「方便」, これが 「論理学」か ら見直されるべきである. 「間接伝達論的論理学」 か ら見 られる限 り, 「方便」の中に美学的な ものがある.「間接伝 達論的論理学」の遥巡領域に宗教の可能性が 存 している.「迭巡領域」,それは,
「論理学」の 境位に入 ることを速巡 している,ため らって いるということであり,こうした 「速巡」 の 故に 「人を救済す る」 ということが可能 にな り,
「方便」 とい うことも考 え られ るよ うに なるのである. 宗教 と 「論理学」のこのような関係を最初 に見出 した哲学者がヘーゲルである.彼 のお そるべ き著述,
「精神 の現象学」 の終わ りこ ろに彼 は論理学の境界(Wissenの境位)といっ た ものが宗教の境界よりも高 い立場であるこ とを明か らかにしている.このよ うな見解 は -哲学者の個人的な意見 とか信念 とかいった ものでは全 くない.そうではなく,宗教 の境 界 は 「論理学」 に遠巡 しているという論理学 的な本質組立てか らどうして もそのようにし か考え られないということがそこで表明 され ているのである.宗教が国家を否定す ること が原理的にで きないの もこの論理学的組立て に拠 る.ある宗教が客観的に存在できるのは, それがEg家内部で認め られるかぎりであ る. もしも,その教義なり活動がEEl家を否定す る という場合 は,それはその国家に留まること はできない.それどころか,そのような否定 は その宗教を滅 ぼす ものになる.それ故 ,最 も 厳密に考えるなら,国家 の最 も純粋な形態 は あのプラトンの哲人国家 とい うことになるで あろう・しか し,国家 については我 々は′まだ 十分な高みには至 っていない.さらに,
「論理 学」は唯一的に歴史的に出現するのであるが, 宗教 は,その唯一的 「論理学」の迭巡領域 と して必ず しも唯一ではな く,異なる複数 の宗 教 として存在 しなければならない.ここに宗 教問の争いが引き起 こされる地盤がある.実 は,複数の本来的宗教 はその最 も深いところ では,同一の事態 になっていなければな らな いが,
「最 も深いところ」とは,
「論理学」的な ものなのである.同一の事態を地盤に してい る異なるものこそが最 も極端 な対立関係 に入 る可能性を潜 ませている. 宗教の可能性が 「論理学」の遠巡領域 にあ るということから,宗教が何 らかの意味で劣っ●●●●●●●●●●● た ものであるとい う価値判断をすべきではな ● い.ここで我 々が問題に している 「迭巡」 と いうのは,
「論理学」の秘儀に属することが ら であり,奥義のひとっ とみなされるべ きであ る.「論理学」 の境界 は秘儀 であ り,人間の 立 ち入れる処ではないが,そのような秘儀 のある特定の領域 として 「遥巡」 ということが 行なわれているのである.「速巡」という 「論 理学」の様態 は,最 も深 く捉 え られた 「行
」
(仏教的に考 えて はな らない)と言 え る.こ の境界にとどまる限 り,人間に救いの手 を差 し伸べることができるのである.「人を救 う」
ということが生起す るのである.
「方便」が働 く可能性が ここに起 きている.人間が救 われ ないのは,人間が供物になって 「論理学」 の 展開に人間であることを捧げることがまだ出 来ないか らである.このような主観的な 「速 巡」
,つまり,「迷 い」は,
「論理学」の 「蓬巡領 域」が可能であることによって可能 になって いるのである.人間存在が迷 っているとい う ことは主観的なことではな く,
「論理学」の秘 儀に属す ることなのである.それゆえ,
「自未 得度先度他」(自分が彼岸 に渡 りき らず に先 に他者を彼岸 に渡す)というあ り方 は,「遠巡 領域」 にもっとも適合 したあり方 と言え る. 「速巡領域」 にどこまで もとどまるとい うこ とが宗教作用の本質,つまり,
「行」である. 良寛の句,
「焚 くほどは風 が もて くる落 ち 葉かな」を例にとって今上で述べたことを考 えてみよう.自然的運動 と倫理的行為 との深 い連関を指示 しているこのような句 には論理 学的なものが隠れているが,それは しか し論 理学 としてはまだ自己を披露 しているのでは ない.良寛 は自らの宗教的境涯の深 ま りとと もにある抽象的思惟内容 に,ヘーゲル的 に言 えば 「思想」の門に近づいているのであるが, そこに入 って しまうことはない.そのよ うな 中途半端の故にかえ って人間の魂にこの句 は 響 くのである.もしも,良寛がその句 の内容 の普遍性 は何処か ら来 るのかを問題 として, そこか らア リス トテ レスの運動論 とか,西 田 哲学の 「内的事実即外的事実」 というような 「思想」 に至 った と した ら,もはや,彼 は宗 教的人間ではな くなって しまい,干か らびた 抽象的思惟の世界に入 る しかないであろ う. 良寛の句が人間の魂 に響 くのはそこで言われ ている思惟内容が純粋な形態を とることに遠 巡 しているために,本質的に迷 っている意識 にも共鳴可能になっているか らである.本質 的に迷 っている意識 にとっては論理学 は砂漠 のような ものなのである.つまり,思惟 と し てはまだ完聖に磨 きだされていない,その意 味で表象的な ものを妓 している思惟内容 は感 覚や表象 になずんだ意識に近づ きやすいので ある.魂 に響 くものがあるのである. 間接伝達論的論理学の 「遠巡領域」 は論理 学的場面 に入れずため らっているとい うこと であるが,その場合,何が,あ るいは,誰が そこへ入れないのか という問いに対 しては答 に二義性がある.一面では,言葉 その ものが 蓬巡 していると言えるし,また一面では「
私」
(定義 された 「私」で あ り,いわ ゆる 「自我」 ではない)が退巡 しているとも言 え るのであ る.遠巡す ることにはこのような本質的噴昧 さが あるのだが,こうした唆昧 さによ って 「論理学」 は宗教性 (「行」)を帯 びることがで き,美を獲得 して人々を誘 い,主観 的 に迭巡 している意識に,つまり,迷 って い る意識 に 救いの手をさしのべ,観音妙智力 とな るので ある.このように,
「退巡領域」は本質 的 には 美学 なのであ り,あ くまで 「論理学」 の一領 域 として考え られなければならない.それゆ え,宗教その ものが学のある特定の分野 であ ることが宗教意識の中に現れて くるとそれが 宗教哲学 とか神学などになるのである. しか し,宗教の可能性 は 「論理学」 の蓬巡領域 に あるのだか ら,「行」というあり方を失 うと宗 教的生命 は失われる.「自乗得度先度他」 の 精神を失 って思弁的な領域 に入 ることで宗教 はおのれに固有な ものをな くすのである. ヘーゲルでは芸術が宗教 に含 まれ るが,間 接伝達論的論理学では,美学の中に宗教 が含 まれ るのである.
「迭巡領域」というものが論 理学 の可能性の一領域 (美学)を形成 してい て,ここにはじめて宗教作用,つ ま り,救 い の働 きと救われ る者の対応が生起で きるので-5-ある.もしも,このようになっていない と し たな ら,救 い救われるということは何 ら普遍 的なものでは無 くなって しまい,単な る主観 的な出来事で しかないことになろう.・人が宗 教的に救われるということは決 して単 なる主 観的,個人的な満足 というもので はな く,客 観的な こと,あるいは何 らかの意味で絶対的 な ことなのであり,この 「感 じ」 には理 由が あるわけである.つまり,本当に宗教 的 に救 われるとい うことは 「論理学」の組立てに適 合するとい うことにな り,このことがそ もそ も救われた主色別こ意識 されるのである.そ し て,こうした適合によって救われた意識 には おのずか ら 「論理学」 の諸規定 といった もの が会得 されて くるのである. ここで以上のことを 「般若心経」の一部分 に関 して確認 しておこう. 「観 自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五 蓮皆空 皮一切苦厄」 ここでは五蕊,つまり,有 るものの本質的 な五つの構成要素がそれ自体 としては空であ ることを知 り,ここにすべての苦悩か らの解 放が実現 したという内容が記述 されてい る. ここで我々の立場か ら最 も問われるべ きこと は,このような知を一体何者が知 ったのか と い うことである.それはす ぐに答え られよう. 観 自在菩薩である,と.しか し,それで はな にも答えられてはいないのである.一体,鶴 自在菩薩とは誰なのか,あるいは,何 なのか. 間接伝達論的論理学か ら全 く諸々の顧慮抜 きに言 うな ら,あ らゆる有 るものの構成要素 を空 と観たということはまだ歴史的論理学の 「金曜 日」の時 に属 して いる.なぜな ら,そ こでは主語 と述語の関係その ものが問題視 さ れず
,
「有 るものは空で ある」 とい う言 が主 語一述語関係の内部で発言 されているか らで ある.「である」とか 「が有 る」とかが まだ言 糞 の出来言 としては聞 こえていない.このよ うな論理学的場面で観ているものは,これ ま で論 じてきた ことか らすれば,唆味 な 「行」 す る主体,
「観 自在菩薩」であるとい うことに なる.観 自在菩薩 は「論理学」の 「金曜 日」を 創 った歴史的実在であるへ-ゲルではないが, そ うか といって単に空想的な想像物でもない. 観 自在菩薩1ま唯一的な歴史的論理学を 「創る」 者ではなく,そこへ入れずに 「迭巡 している」 のである.
「行」の主体であるが,
「私」その も のではな く,
「行」す る言葉 に して 「私」であ り,唆味なもの (二義的な もの)なのであ る. また,
「行深般若波羅蜜多時」の 「時」とは決 して歴史的 「時」ではない とい うことが帰結 す る.この 「時」は「行」と本質的 に関連 して いる.というこ七 は,つま り,ここで言 われ ている 「時」は時の本質をまだ言えないと言 っ ている 「時」であるということである.観 自 在菩薩 はまだ 「時」の中で行 じていて,時の 本質,つまり,歴史的 「時」を発言す ること がで きないのである. 研究者によれば,観 自在菩薩の原語,Avalo -kite畠vara,は古 くは,Avalokita畠varaであっ たとされ,前者は観と自在 という意味をもつが, 後者は衆生に音声を観ぜ しめるという意味内 容を もっているようであ る (中村元 ,紀野一 義訳 r:般若心経 金剛般若経,岩波書店,東京, 1973,P.17.)
.「音声を観ぜ しめる」,これが観 自在菩薩の誰か,または,何か,とい う問題 と深い関係がある.おそ らくはここで 「音声」 と言われていることは,単 に 「音」一般,た とえば,水の音のような ものではな く,言葉 の音声のことであろう.言葉 の音声を 「観 る こと」 は言責の言 うことを言 うままにさせ る ことではない.後者 は 「土曜 日」,そ して, 「日曜 日」の場面のことが らであ るか らであ る.言葉の音声を 「観 る」 ことは 「観 られ得 る」 ように言葉がなっていることであり,そ れはただ,spekulativということが有 り得 る 論理学的場面で しか可能ではない. しか も, 「言糞の音声を観ずる」ではな く,
「衆生 に音 声を観ぜ しめる」のである.それは最 も深 く 考えるな ら,言葉その もの,ない しは,真言そのものが 「金曜 日」の場面の 「i窒巡領域」で 言 う言 い方 (方便を必然的に含む)と言 え る. このような言葉 その ものの振 る舞いがそれを 聞 く「私」の 「行」に もなるのである.衆生 に 言葉の音声 を観ぜ しめるということはある普 遍的な美学的事態 と言え る. 「速巡領域」 は 「論理学」 の場面 に入 るこ とを達巡 しているために,抽象的なことが生 起するのではな く
,
「論理学」に入れ ない とい う有 り方を とるすべての迷 ってい る 「私」, つまり,衆生 に方便を垂れる.すなわち,覗 自在菩薩 は現実的な働 きをす る主体(
「行」す る言葉)となるので ある一.しか し,この働 き は本質的に 「衆生 に音声を観ぜ しめる」 とい う 「論理学」の美学的領域のあり方 なのであ る.そ こで このような観音の働 きにはカテゴ リーが潜在 していなければな らない.観音 の 慈悲行 といえど もそれはなにか深い意味での 理性的な働 きでなければな らず,真理 の法 に 従 っていなければな らない. ここで言われたことその ものがすでに して 歴史的論理学の秘奥の言 (こと)が らなので あるか ら,こうした秘儀に批判的になる人が いて も仕方 はない.こうしたことは,いかな る人に も未知なることであるのだか ら,既知 のことに安 らいでいる人 には妄想 と映るのは やむをえないことである.ただヘーゲルのみ が r精神の現象学Jlで このような連関をよう や く発見 したのである.もちろん,彼 は芸術 を宗教的な ものに含 ませたのではあるが. 間接伝達論的論理学か ら眺め られ る歴史的 論理学 の 「主査巡領域」
,すなわち,美学領域 は,
「論理学」 に入 ることを遠巡 しているよ うな言糞の出来言 になっているために 「なに か他なるもの」 に関わっている.この ことは なん らかの仕方で他に影響 され,また他 にな る,つまり,動か され,動かす,す なわち, 行為的 とい う本性を必然的に得ている.行為 の始まりになる意志 はここでは主語一述語関 係の述語に対応す るものにな っているが,そ れはここ,
「速巡領域」 で は述語 と して言 わ れているのではな く,行為す るものの根 源的 アプ リオ リ,つまり,一般 に物の述語の述語, すなわち,超越的述語である.いいかえれば, ここで行為 とは本質的な意味での芸術的行為 ということになる.もっと言 うな ら,行為者 の行為を始 まらせるものは,行為者の最 も内 面的,自発的な意志であ りなが ら,同時 に物 の根源で もあ り,その意味で最 も他発的 とい うことである.「野 のユ リを見 なさい」 とイ エスが語 るとき,イエスの深遠 な内面 か ら言 葉が発せ られただけではな く,イエスは 「野 のユ リ」 に動か されたのである.ここで もま た,このような行為 その ものの意味 は,
「衆 生 に音声を観ぜ しめる」 とい う深 い意味の宗 教的な ものを含んでいる.すなわち,この よ うな芸術的行為の本質は 「方便」であ り,
「論 理学」への橋渡 しなのである.なお,ここで 言及 されたことについては,改めて間接伝達 論的論理学 の 「遠巡領域」 として論究 されな ければな らない. さて,以上のように,
「論理学」と宗教 の関 係の概略が明 らかにされたので,
「転法華」に ついて論ず るための基礎が据え られた. 宗教的言語が 「遠巡領域」の言語であ り, 従 って,本質的に美学的であるとい うことが まず確認 されなければな らない.そのことは, どのよ うな宗教の経典を見て も明白に示.され る.それはけっして論理学ではない.しか し, それはまた単 に文学的な もので もない.上 で 述べたように 「迭巡領域」 は本質的に行為的 であって,その言語 もまた行為的で あ り,同 時に本質的に 「方便」を含まなければな らな い.言 いかえれば人間を救 うという行為 的性 格を もたないよ うな宗教的言語 は有 り得 ない のである.教祖 とい う人たちはこのよ うな言 語を生み出す者 として.行為 と言語が一致 し ているとい うことになる.行為が言 うのか そ れとも言語が行為 しているのかさだかではな いよ うな人が本来的な宗教的人格 と言える.ー7-仏教の経典群の中で も法華経 はその真意を 汲むのか困難な もののひとつ と言えよう.多 くの比喉が織 り込 まれていて,その比 職その ものはなにか理解がで きるのであるが,比職 によって伝え られ るべ きことが何であるかが よ く見通せない.
r
六祖壇経」 に六祖 慧能 の ところに法達 という法華経を念ず ること三千 部 に及ぶ僧が訪れて くるという件がある.慧 能 はその僧の境界を見抜 き,
「あなた の名前 は法達 とい うが,まだ法に達 したので はない ですね」 と語 りかける.ずばり心中を見抜か れた法達 は,自己の問題の究極的解決 を慧能 に託 し,次の よ うに問 うのであ る.「私 は法 華経を読涌 して もまだ経典 の真意が分か りま せん.心 に常 に疑 いがあ ります.どうか先生, この経の真意をお教 え下 さい.
」 こう問われ た慧能 は法達か ら法華経を読涌 して もらい, 比職品に至 るとそこで法達の読詞を遮 り,法 華経の真意を説 き始める.そ して,教 えの最 後 に慧能 は次のような詩句を示す. 「心迷えば法華 に転ぜ られ,心悟れば法華 を 転ず. 経を謂 して久 しく明 らめずんば,義 と讐家 をなす. 無念の念 はすなわち正,有念の念は邪 とな る. 有無 ともに計せざれば,長 く白牛車に御す.
」
法達 はこれを聞 くと涙を流 し始めてとたんに 大悟する,つまり,自己の究極的問題 に決着 をつけるのである. 法華経を研究 し尽 くしたとして も,その人 が 自己の究極的問題 に決着をっけていないか ぎり,
「心迷法華転」で しかない.しか し,自 己の究極的問題にけ りがつ いた時に は,
「心 悟転法華」 ということにな り,ひとつ の比嶋 に無限の意を汲み とってそれを今度は自由に 扱えるようになるのである.彼 はここに法華 経 の説 く 「唯仏与仏」の境界に至 る. しか し,宗教的世界 はどこまで も 「論理学」 の 「遠巡領域」
,つまり,美学的境界である. 本質的に,
「衆生 に音声を観ぜ しめ る」 こと が可能になっていなければならない.主観的 に遥巡領域を経験 している迷える衆生 なるも のが可能 になっていなければな らない し,そ れに音声を観ぜ しめるという救いの働 きがそ の迷える衆生 にいっ も必ず どこか らかや って こなければな らない.そ して,この ことが普 遍的な事柄 として可能 にな っていなければな らない.もしも,こうした 「可能性」 自身が 無いとす るな ら,ほとんど観世音菩薩 とい う のは空想の産物 と異な らないとい うことにな ろう.「行」というものが本質的に 「迭巡領域」
で可能であり,その 「行」の本質か ら「衆生に 音声を観ぜ しめる」 ということが生起す るの だか ら,法華経その もの もまた,その よ うな 「行」の本質を内容 に して いると言 え る.そ れゆえ,ここで転 とい うことは,「行」的な も のが 「行」的なものに転ず るとい うことにな る.つまり,心迷 とは,本来 は 「行」的世界に 有 りなが ら,いいかえれば,
「自未得度先度他」
の領域にありなが ら,その逆 のあ り方,
「他 者 より先 にまず 自分が渡ろう」 というあり方 になっていることである.このあ り方 は,主 観的に迭巡 している,つまり,迷 って いる意 識 には必然的あり方である.これ に対 して, 心悟 になることは,同 じ「行」が 「行」の本来 的な有 り方 にな ることであ り,「自未得度先 度他」 という本来的な宗教性を取 り戻すこと, つまり,
「衆生 に音声 を観 ぜ しめる」 へ と転 ず ることであ る.「達 巡領 域」 の内部 には 「王墓巡」の故に起 きる 「転」の可能性 ,「行」が 「行」に転ずる可能性,があるのである. ところで,間接伝達論的論理学の内部 にお ける 「転」の可能性 は,すでに3
5
の注 で明 ら かになったように,
「用意 の秘術語」 の発言 許可 とい うことと関係する.「論理学」の 「遠 巡領域」で迷 え る衆 生 的 な 「行」が本 来 の 「行」
,仏教的に言えば,普貿行 に転 じたよ う に,言葉 は言葉 に転ず るのである.同- の 「行」が迷 いとしての衆生 のあ り方 とな り,また,覚 としての普賢行 になるのは
,
「行」が, 「論理学」の法巡領域固有の言 (こと)が らに なっているためである.前者 は 「遠巡領域」 に迷 い込んで閉ざされているのであるが,級 者 は 「速巡領域」の本来固有のあ り方,つ ま り,「行」という 「論理学」を遂行で きるよ う になっているのである,すなわち,「自未得度 先度他」 ということになっている.ここでは, 「蓬巡領域」の 「論理学」その ものが開 かれ, それの有 るがままに明るくなっている,つ ま り,美学的 となり,方便を垂れて,
「衆生 に音 声を観ぜ しめる」とい う 「行」の本質が披露 される.しか し,言葉が言葉 に転ず るときに は,
「行」が 「行」に転ず るので はな く,真言 の 「前」その ものの秘術 において転 ず るので ある.この 「前」こそ-「時」(Zeit)の基盤 にな るものであり,その意味では,この転 は歴史 的な ものであり,この点で 「遠巡領域」 のあ の転 と異なっている.「時」その ものの発祥 を 許す このような 「転」は,- イデガーの哲学 において 「言葉への途上」 としてようや く歴 史的に発言許可 されるようになって開始 され るのである.言葉が言葉 に転ず るのは真言 の 「前」の秘術語が発言 されているか らで あ る. この 「転」と 「行」の本質 に関す るあの 「転」
との問にはある種の類比 が認 め られ る.「転 法華的」 というのは,このような類比 か ら言 われているのである.3
7
,(P.2611行-14行) rこのSeynという言蒼liその r起 こるが起 こるJところで跳めるIWり,F言真 と してJ
T起 こるが起こっている
Jのである.つまり,そ こ で√主語楯突J
が起 きているのである.
ただし
,-イデガーにおいてはr
l語が滑失 シツ ツアルJ
ということが起 きているのである.
」
この箇所の理解のためには,注3
0
で述べ ら れたこと,な らびに,次の注3
8
の内容 を熟考 する必要がある.ここでは,注3
8
のための助 走のようなことを論 じておきたい.すなわち, 我 々は,-イデガ-の 「言葉の哲学」 の歴史 的意義を十分知 ってお く必要がある.ただ し, -イデガ-の思索空間の中には,これ まで歴 史上に現れたようないわゆる 「言語哲学」 な るものは全 く入 る余地 はないのではあるが. 言語 について哲学的に考察す るとい う態度 を とる限 りその人 はいっまでた って も-イデ ガーの思索空間で言葉が何故問われ るのか と いう必然性を知 ることはないであろう.なぜ な ら,言葉 というものを探求の対象 に して言 葉 の様々な様相 とか現象 とかか ら言葉の本質 を探ろうとす るその態度がすでに言葉-の問 いを塞 いでいるか らである.言葉への問 いに 至 るということが言葉の本質規定のための前 堤,あるいは,必須の準備 であ る.そ して, このような問いその ものが 「有 る」 とい うこ とと深 く関係 しているのである.言葉へ の問 と有 とのこのような連関が-イデガー哲学 の いってみれば神髄 といえることである.我 々 は,まず,間接伝達論的論理学 か らこの連関 を解 き明か しておきたい. ヘーゲルの 「論理学」で最 も問題 となるこ とはspeklllativな事柄が,ある名称を得 ると き,その命名の必然性,あ るいは,命名 され ているということが問われずにいるとい うこ とである.たとえば,
r
論理学」の中で 「定在」 (Dasein)が登場す るとき,--ゲル は語源 的にそれが場所(
Or
t
)
と関係す る とい うこ とを示唆 しなが ら,それをそのままに放 置 し て しまっている.同様 に,「有 る(Sein)」もま た,そのspekulativな把握がなされて い るの に,それが 「有 る」 と命名 されていることの 不可思議 さがヘーゲルはどの哲学者 の思考の 網 にもかか らないということにな っているの である. しか し,--ゲルの 「論理学」 には暗 が り になっているこうしたことこそが-イデガー の言 う 「別の始 まり」への入 り口になってい るのである.そこで,この入 り口 とは,つ ま り,「有 る」といわれるspekulativに把握 され-9-たことが 「有 る」 と命名 されていることの必 然性をそれ 自身で言 うようにな るとい うこと が可能 にな っているということである.しか し,実 は,こうした 「必然性」 その もの もま た,同 じようにそこで命名 され るので ある. こうした 「入 り口」のいわば開かれた暗が り が,ハイデガーが言葉を問 うことで入 ろ うと している事態である.そ こでは 「有 る」は も はや 「有 るものの有 ること」ではなく
,
「有 る」
という命名がなされていること(
S
e
i
n
で はな くS
e
y
n)
の現場が顕現するのである.命名 と は言葉 の ことが らで あ って, したが って , 「有 る」が命名 されるとい うことはそれ とと もに同時に言葉その ものが言葉 のことをそこ で為 していることも顕現す るのである.か く して,ハイデガーの哲学 は必然 的に言葉 と 「有 る(
S
e
y
n
)
」 との深い関係を問 うことにな るのである.しか し,実 は,このような顕現 の現場 は,すでに注3
5
で示 したように,真言 の 「前」の秘術語が発言 されることであった か ら,言葉への問いは本質的に歴史的 な問い になっているのである.すなわち,言葉 を-イデガ-が問 うことは任意の哲学者が言葉 に ついて思索することではな く,歴史的唯一的 な出来事なのである.あえてい うな ら,言葉 はハイデガーによって問われるようにあ らか じめな っていたということが正当に言われる のである.こうしたことを聞 くと言語 を研究 す る学者は,これは暴言だ と憤慨するか もし れない.しか し,このような連関が視界に入 っ ていない場合には,その人 は少 な くと も- イ デガーの 「言葉の哲学」の意義 について判断 を下す ことを差 し控えなければならない.吃 ぜな ら,-イデガーの言葉への問いは決定的 に重大な歴史的出来事であるか らである.そ れは人類史上長 も重大なことが起 きたという ことなのである. 間接伝達論的論理学か ら言え ることは,ハ イデガーの 「言葉の哲学」 は言葉の本質を規 定す るとい うよりも言葉へ問 うということが 生起するということである.真言の 「前」 の 秘術語の発言内部の様相 は,言葉が言葉 のこ とを発言することの 「前」が 「前」を転 じてい くことであり,
「問い」 にな るのであ る.つ まり,答をあ らか じめ先立たせているわ けで ある.「言葉への問 い」 こそ- イデガ-哲学 の神髄である.筆者 が--ゲルの 「論理学」 の 「奥の細道」 と呼んだ ことはこのような意 味の 「言葉への問い」が歴史的に生起 したと いうことに他な らない.そ して,このよ うな 歴史的唯一的に生起 しなければな らなか った 「言責への問い」の磨 きをか け られた問 い方 が 「言葉 としての言葉を言葉へ もたらす」 と いういわゆる 「道の公式」である. さて,ハイデガーの 「言葉の哲学」 が従来 的な言語哲学 とは本質的に異なるという基本 的な見方をどこまで も保持 しつつ,次 の注で その内実に立 ち入 ることにしたい.間接伝達 論的論理学か ら見通 されることは,上述 した ように,s
p
e
k
u
la
t
i
v
に見 られるところで は見 落 とされていた 「有 る(
S
e
i
n
)
」の命名 の消息 が,言糞への問いとともに顕現するとい うこ とである.しか し,この 「命名」の消息 の最深 部 は,後に示すように,Er
e
i
g
n
i
s
の更 に先か ら照明されて明 らかになるのであ り,従 って, 「命名」 に関 しては,- イデガ-の思索 もま だ偶然性を完全 には払拭 していない.この こ とは本質的な 「問い」が可能 にな って い るこ とを意味する.「有 る」と 「時」との連関が言 葉 に向けて本質的に問 うことか ら可能 になる のである.3
8
,(
P.
2
6
.1
4
行) rこの事唐を正好に言い表わ しているのがr
言蒼 としての言薯を言薯 に もた らすJ
である.
J
ここで示 された命題,
「言葉 としての言葉 を言葉 にもた らす」 は,ハイデガーの 「言葉 の哲学」のいわば精髄を表現するものとして 知 られている.しか し,厳密 に考えるな らば,これは,命題で もなければ,ま してや,言語 の本質を表現 しているもので もない.もしも, この 「命題」をなにかの思想の極めて洗錬 さ れた表現 と受 けとるな らば,そのよ うな人は, この 「命題」をすでに通過 して しまっている のである.この 「命題」は,いわゆる命題 で は な く,われわれ人間が根源的に巻 き込 まれて いる論理学的事態である.人間 とはなにか と いう人類の永遠の問題が この 「命題」によっ てその解決のとびらが開かれた とい うことで あり,しか も,人間 とはこれこれ こ うい うこ とである,といった陳腐凡庸な命題で答え ら れるのではな く
,
「言葉 と して の言葉 を言葉 にもた らす」 ということによって,つ ま り, 巻 き込 まれ るという事態によって答え られよ うとしているということなのである.言葉 に ついての命題のようなものが人間 とはなにか という問いの答えになるとい うことは,信 じ られないことであろう.しか し,人間 とは何 か とい う問いその ものが,
「言葉 と しての言 葉を言葉に もた らす」 というところにはじめ て顕現することがで きるので あ る.「人間 と はなにか」が言葉のほうか ら問われていて, 言葉のほうか ら答え られている,この ことが 看取 されるには,言葉その ものが話す よ うに なっていなければな らない. ハイデガーは,もちろん,この連関を はっ きり知 っていたのであり,次のような言 い方 でそれを示 している. 「言葉の跡をたどって思索す るとは,次 の ようなことを意味す る.死すべ き者 たちの本 質に滞在地を許 し与えるところのものとして それ(es)が起 こるとい う流儀 で言葉 の話す ことの中へ と到達すること」 (M.Heidegger: GesamtausgabeBd.12,VittorioKlostermann,
Frankfurtam Main,1985,S.ll.) ここにも先の 「命題」 と同様の事態が起 き ているのである.「言葉が話す」(DieSprache spricht)とい うの は,言葉が話 しているの だとい うように人間が見ているので はな く, 言葉が話 していると言糞が言 うようにな った ということである.そ して,言柔 が話 してい るのだと言葉が言い始めるには人間本質が要 るのである.つ まり,このような言葉 の話 し を聞 くには,人間 というよ うな聴覚が必要 に なるということである.「人間 の聴覚」 で は な く,
「人間 とい う聴覚」 が必要 にな るので ある.それゆえ,言葉が話すよ うにな って人 間本質 も出現可能 になるのである. しか し, 注意 しなければな らないことは,人 間 とは, 言糞の話すのを聞 くという役割 なのだ,これ こそ人間 とはなにかの究極的答えだ と図式的 に理解 しないことである.「言葉が話す」とい うことは,命題的に把握されてはな らな い. 「言葉が話す」 ということが どれ ほど微妙繊 細な境のことが らかを以下 に示 し,
「巻 き込 まれている」 とはどういうことかを明 らかに したい. 人間本質は 「言葉が話す」 ということに巻 き込 まれている,このことが 「言葉 と しての 言葉を言葉 にもた らす」 ということであ る, と筆者は述べたのであるが,言葉 は,ここで はまだ 「言葉への途上」 にあり,その本来固 有のことを言 っているのではない.言葉 は, ここでは,間接伝達論をな しているので はな く,言 うべ きことを言 ってはいない.しか し, 言葉 は言葉 として言 う 「道」を とったのであ り,このように して,
「言葉 と して の言葉 を 言葉 にもた らす」 というこのことが実に 「道」 を一義的に定義 しているということにな る. これは,どうして も言葉が拓かねばな らない 「道」であることにな る.- イデガーは,
「言 葉 としての言葉を言糞 にもた らす」を 「道 の 公式」(Wegformel)と名づけているが,この 表現 は必然的 な もの とい うことが言 え る. 「道」についてハイデガーはあ る重要 な思索 を している.ここで は,r
言葉Jと題 され る ハイデガーの論述のある箇所を引用 しなが ら その思索 に触れてみよう.最初 に原文を,吹 に暫定的な日本語訳を付 してお く.r l
H-DasGefugedes menschlichen Sprechens kannnurdieWeise(dasMelos)sein,in diedasSprechenderSprache,dasGelaut derStilledesUnter-Schiedes,dieSterblichen durch das Gehe
i
B des Unter-Schiedes verelgnet. 「人間的な話す ことの接合組立ては,たん に流儀(歌)であることができるのみである. この流儀の中へ と言糞の話す こと,つ ま り, 区一別の静寂の鐘の鳴 り響 き,は区一別 の言 い 付 けを通 じて死すべ き者たちをあてはめるの である.
」(Ibid.,S.29) この箇所で言われていることが 「巻 き込 ま れている」 ということであるか ら,日本語へ の翻訳 はあ くまで 「暫定的」 にとどまる.原 文のひとつひとつの語句が 「言糞の話すこと」 か ら言葉になっているため,ある一つの語 の 理解のためには,
「言葉 と しての言糞 を言葉 にもた らす」 という 「道」に立 たなければな らない.しか し,この ことは,理解を断念す るということであるか ら,結局,原文 を把握 す るということは諦めなければならないとい うことになる.それでは,一種 の暗号文 と変 わ らないということになろう.しか し,間接 伝達論的論理学 というのは,もともとこのよ うな種類の言語なのであ り,このようにな っ ているということが間接伝達論的領域の リア リティを証明す るのである.理解 され うるよ うなことであったな ら,どうして間接伝達で ある必要があろうか.間接伝達論的論理学 の リア リティは,む しろ,ハイデガーの 「言葉 の哲学」が理解不可能性を もつようになって いるということでかえ って疑いをさしはさむ 余地 もない くらい明確に証明されるのである. さて,この箇所全体 の最 も注 目 しなければ な らない語 がWeise(流儀)である. ドイツ 語 のWeiseの意味 は「方法」
「や り方」
「流 儀」 「くせ」
「風」といった意味の他に 「旋律」
「歌」 という意味がある.原文 に括弧 して,Melos (ギ リシア語で肢,歌 を意 味す る) とな って いるのは,Weiseという語が 「巻 き込 まれて いる」 ところでどんな具合 になっているかを 示すためである.つまり,Weiseとい う語 は, 「言葉が話す」 というよ うに言 われているか ぎり,
「流儀」にして 「歌」にな っているので ある.Weiseは,古 い英語 では,wiseに相当 し,これは,way,つ ま り,道 とか方法 とい う意味である.Weiseは,人間の行動 の仕方 とは関係することはな く,ただ,かの 「道 の 公式」 に固有の事態を名指 ししているのであ る.逆 に人間のいっさいの行動がここで言 う Weiseか ら起 きているということが言える. 言葉の言 う流儀が歌である.つま り,人間 が話すのではな く,言葉が話すようになると, そこに 「流儀」 と呼ばれるある独自な出来言 が起 こるということである.ここに 「道」 の ような ものが発言許可 され るのであ り,これ がMelosである.ということは,道 と歌 とは 切 り離せぬ関係にあるということになる.そ して,このよ うな歌 に して道 なるもの は, 「近 さ」 と関係する.「近 さ」 とは,思索 と詩 作の 「近 さ」を意味する.-イデガーは次 の ように言 う. 「隣り合っているもの,近 さの中に住むこと は,その規定を近さから受け取 っている.詩作 と思索 とはSagen(言 うこと)の仕方 (Weise) であり,しか も,際立 った ものである.もし ち,Sagenの二つの仕方がそれ らの近 さか ら 隣 り合 うことになっているとするな ら,近 さ その ものがSagenの仕方の中で統べていなけ ればな らない.すると,近 さとSage(吾われ) とは同 じものとなろう.
」(IbidりS.190) 実 は,ここで言われている 「近 さ」 とい う のは,
「遠 さ」とい う 「近 さ」なのであ る.遥 かなる 「遠 さ」が閑顕 していることが 「近さ」 が顕現 したということである.「遠 さ」
,ここ に 「道」ができる理由がある.「言葉が話 す」 という信 じられないことが目撃 される処では, このような遥かなる「遠さ」の中の 「近 さ」が統べているのである.このような 「近 さ」は, しか し,事物の問にみ られるいわゆる位置関 係ではな く
,
「言葉が話す」 というようになっ ている処 での独 自な関係性であ り,「思索 と 詩作」の 「近 さ」である.す なわち,「近 さ」 は,ただ 「思索 と詩作」の 「近 さ」以外にはこ こでは有 り得ないということになる.で は, どうして 「近 さ」は,
「思索 と詩作」の 「近 さ」 なのであろうか.間接伝達論的論理学か ら見 るな ら,すでに注34で示 したように,両者は, 「用意の秘術語」の必然的な二 つの面 で ある. 「用意の秘術語」が発言許可 され るよ うにな ると,言葉 は,一種の秘術を為 し,魅せ るの であり,charm(元 々は ラテ ン語 の歌 とい う 意味)になっていなければな らない.これが, 魅惑する言葉 としての詩的な面である. しか し,言葉 は,ここでは同時に 「主語 一述語関 係」を解 くのであ り,
「論理学」 の基礎 を与 えている.これが思索的な面である.しか も, この二つ は,まだ同 じものになっているので はな く,「道」にある.こうして,両者 は 「隣 り 合 っている」のである.ということは,ここ で言 う 「近 さ」 は,-イデガtの哲学的墳位 の内部では,その由来に関 して未知 なる もの になっているということになる.事実,彼 は こんなことを述べている. 「近さとは何か,我々がそれを沈思(nachsinnen) しようとするや,我 々はある遠 い思索 の道 に 向か うことを決意 したのである.今 はただわ ずかの歩みが うまくいくにす ぎない.その歩 みは,前進するとい うよりも,後退すること, 我々がすでに居 るところへ と戻 ることである. この歩みは,少な くとも外見では,これか ら あれへ とひきつづいて起 こる連続を形成す る ものではない.その歩みは,む しろ,同 じも の(dasSelbe)への集 まることへ と自らを接 合 し(fogen),自らをこの同 じものへ と打 ち 返す.遠回 りのように見えることは,本来的 な道引 くこと(Be-wegung)の中へ の滞留 で あり,そ して,この道引 くことか ら隣 り合 う ことが規定されるのである.
」(Ibid.,S.197) ここで 「道引 く (ミチビク)」 とい うの は, 「言葉が話す」 とい う事態 におのずか ら出現 していることである.このような ことは,
た だ,
「用意の秘術語」 がそ もそ も 「道 を用意 せよ」 という要請を含む,つまり,間接的な, 遠回 りす る伝達をすべ きという要請を含むと いうことか ら可能 になっているのである.こ のような独自の意味をもつ語として-イデガ-は,わざわざシュヴァーベ ン ・アレマ ン地方 の独特の言糞追 いであるwegen(道 を拓 く) に由来す るBe-wegungを ここで用 いてい る のである.しか し,ハイデガーは自分 の歩ん でいる道が 「遥かに遠い」道であることを明 確 に知 っている. Weiseと道 とは以上のように,互 いに親密 な関係にあるが.しか し,両者 は全 く同 じこ とを意味するとは言えない.「用意の秘術語」 は 「道を用意せよ」 という要請 に応 じること で,その中に 「道」が 「引かれる」よ うにな っ ているが,しか し,同時に「術」
,つま り,art 的な本性をもっている.しか し,このart的な ものは,テクニカルということではな く,すで に述べたように,charm,言 い換えれば,魔術 的に引き寄せるような独自な 「流儀」である. 「流儀」 というのは,どこまで も魅惑す ること を含み,陶酔的な境 を現前 させている事態 と して理解 されなければならない.もちろん,ハ イデガーもこのような事態 に 「巻 き込 まれて いる」のだか ら,同 じようなことを 目撃 して いなければな らない.ハイデガーがEreignis を論究す るときに,entriicken,つまり,
「うっ とりさせ る」 という語を使 う時,それ は,今 述べたような事態を指 している.こ うして, 魔術的に引き寄せ,うっとりさせて人間本質 を巻 き込 ませ る 「流儀」が 「言葉が話す」 と い うことに固有の ことが らにな っているので ある.人間本質はこのような 「流儀」 にはめ 込 まれている,これがfugenとい うことであ る.すなわち,
「言葉 が話す」 に巻 き込 まれ- 1
3
-ているが故に人間 は言糞を もち,言葉 を話す ことができるあである.人間本質 は,このよ うに して,本質的に詩人的 ということになる. さて,次に,我々は上に引用 した文の第二 に 注 目すべき語,区一別,原文では,UnteトSchied, に触れておかなければな らない. 区別 というのは,通常 は論理学の術語であ るが,ここでハイデガーが言 っているのは,物 と世界の問に存する唯一的な通 じ合 いを可能 にしているものである.しか し,ハイデガーが 物 と世界の間の区一別 と言 うときには,すでに 述べたような,近隣関係 ,思索 と詩作の 「近 さ」 ということが共に考慮 されている.区一別 は,区別されないこと,「親密性」(Innigkeit) ということを意味 しているのである.このよ うな親密性が区一別 と言 われていることであ る.ここで注意 しなければな らないのは,こ のような矛盾する言い方か ら,事態その もの が弁証法的な ものだと思わないことであ る. 確かも与,区別 とは区別がないことで ある,と いう言い方 は外見的には弁証法的な事態を表 現 しているように見える.しかし,-イデガ-の思索のことが らは,弁証法の先 にある.逮 いは歴然 としているのであるが,しか し,そ の違いが分か らない人は,外見上 の一致 は実 は,巨大な裂 け目を作 っているということを わ きまえてお くのがよい.「言糞 が話す」 と いう場面ではじめて区一別が親密性であるこ とが発言許可 され るのである.したが って, 「用意の秘術語」が発言 されている時空で は, すでにこのことが言われるようになっている ということになる.実際,-イデ ガーはすで に 「ヘルダー リン講義」の中でこのような親 密性を明 らかにしている.それゆえ,ここで 言われているような区一別を論ず るためには, 「ヘルダー リン講義」にまで遡 らなければな らないということになろう.しか し,この注 釈箇所ではそこまで詳細 に論ずる必要 はない と思われる.区一別 についての詳細な論究 は, このことが問題になっている別の箇所で行い たい. (続 く)