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女性史研究 : 第14集 (1982.6.1)特集「近代の女キリスト者 」

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鴇戸 り,・、卜者 s

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国立婦人教育会館

  情報図書室

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編躁 家芝、三史研_会

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      特集

天折の先駆者・冨井於菟

近代熊本の女キリスト者たち

花陵会のこζ

天草の天主堂をたずねて

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ないよう

近代の女キリスト者

  小松 とき 1

  光永 洋子 2

  林  葉子 25

  小柴 雅子34

訳・石原 通子 40

  徳永 真理

(3)

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天折の先駆者・冨井於菟

  

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小 松 と き

 冨井於菟の名を知る人は少ない。近代日本女性史の第一頁に必ず 登場する岸田俊子、福田英子と並んで﹁民権女性三羽鳥﹂と謳われ ながら、於菟の名は女性史の表には殆んどあらわれていない。しか し於菟一七才の時兄に書いたという﹁游学ヲ請フノ書﹂ ︵日本婦人 問題資料集成第八巻一一⊥上里︶には明治初年の日本女性の暗い道に 炬火をかかげる先駆者の一人としての情熱がみなぎっている。  於菟は慶応二年、兵庫県竜野町一〇九一番地冨井定助の三女とし て生まれている。学問を好み、一七才の時、上掲の書を家兄に残 し、当時京都に在った岸田俊子を頼って家出同様にして出郷、まも なく上京して福田英子との交友が始まり、肝胆相照らし姉妹の約を 結び、行動を土ハにし、自由党左派の運動に協力する仲となるが、英 子が捕えられ獄に下った後、於菟はキリスト教に入信し、零本善治 の明治女学校の創業に参加して、自由と人権への期待をキリスト教 的教育の実践に見出すに至るのである。これは、当時の自由民権運 動の最も進歩的な指導老たちすらも、性道徳などにおいては前近代 的な封建的モラルから殆んど脱していなかった日本人に対して、近 代的人間のモラルを掲げ、男女同権、一夫一婦意識、売淫否定など を高唱し、若い青年男女に近代的自我を促し、婦人解放の重要な過 程を示すものである。こうして於菟は明治女学校の教師の仕事に没 頭したが、その抱負や才能を生かさないうちに、わずか二〇才の若 さで東京第一病院でその短い生涯を閉じてしまったのである。  私は、わが郷土、竜野が生んだ冨井於菟への思慕止みがたく、一 日、竜野市を訪ねた。竜野は兵庫県西播の小京都とも呼ばれる古び た城下町で、駅周辺の都市化された喧燥を離れると、未だに百年の 風雪に耐えて来た古い商家が建ち残り、於菟の生家、冨井酒店もそ の中に昔ながらの面影を残していた。しかし地元は於菟の名前すら も知らなかったのである。冨井酒店の当主は、母や伯母から聞いた という於鋼管を語ってくれたが、資料となるものは何一つ残ってい なかった。わずかに於菟の墓は東京谷中の墓地にひっそり建ってい ると知らされただけだ。於菟がもう少し延命されていたなら、婦人 解放思想の形成、展開の上にどんなにか大きな軌跡を残されただろ うと、惜しまれてならないのである。        ︵兵庫県婦人運動史研究会︶ 天折の先駆者・冨井於菟 1

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近代熊本の女キリスト者たち

光 永 洋 子

 私たちは少しずつ勉強してきたことをまとめて、 ﹃近代熊本の女 たち﹄二巻を刊行したが、ここでの女たちのうち半分ほどは、明治 のはじめにキリスト教をうけいれた女たちであった。それに熊本の 後進性は宣教師たちにやむにやまれぬ情熱をもやさせて、社会事業 と女子教育を熊本に根づかせていることもあきらかにされた。  それで、近代になっての熊本でのあわただしさのなかで、キリス ト教がどのようにしてつたわり、出たちにどのようにしてうけいれ られてきたかを、男たちのありかたをにらんで考えてみなければな らないのだが、ここではそのための資料をまとめてみた。         一 組合教会    ︵  ω明治四年に横井小楠の兄の子どもである横井大平の努力によっ て、熊本に公立の洋学校が開かれ、フルペッキの紹介によるアメリ カの退役陸軍砲兵大尉レロイ・ランシング・ジェーンスが教師とし て招かれた。ジィーーンスの妻はサンフランシスコの第一会衆教会の 牧師スカッダー博士の娘であり、ジェーンスじしんも敬度なキリス ト教徒であった。明治六年に外国の圧力によって切支丹禁制の高札 がおろされると、彼は自宅で聖書研究会をはじめた。長崎から英語 と漢訳の聖書、伝道用の小冊子や、絵入りの立派な本なども送られ てきて、生徒以外の人たちも話を聞きにあつまって、盛会であった らしい。ジェーンスの教えは次第に熱をおび、多感な洋学校の生徒 たちの信仰は高まり、明治九年一月三〇日の早暁、花岡山上で三五 名の青年たちによって奉教の誓がむすばれた。長崎にいた宣教師た ちの反応ははやく、英国監督教会のモンドレルが、次に改革派のス タウトが受洗をすすめにやってきたが誰も応ぜず、同志社のデイヴ ィスの提案で、ジェーンスじしんが四月三日に洗礼をさずけた。横 浜バンド、札幌バンドとともに、日本のプロテスタントの三つの大 きな流れである熊本バンドはこのようにして生まれたのであった。  この事件によって洋学校は廃校になり、熊本を去らねばならなく なったジェーンスは、教え子たちのその後の教育を、その前年に新 島裏によって開校された京都の同志社に託した。新島裏は一八四三 ︵天保一四︶年一月一四日に上州安中藩の江戸屋敷で、祐筆職の新 島民治の長男として生まれた。二二歳のとき函館より出国し、リン カーン大統領が暗殺された直後のアメリカに渡った。九年後の明治 七年にマサチューセッツ州のアンドーヴァi神学校を卒業し、アメ リカンボードの宣教師補となって帰国した新島は、D・C・グリー ン、J・D・デイヴィス、J・C・ペリーらの宣教師に迎えられ た。このころアメリカンボードの八組の宣教師夫妻と三人の女宣教 師が関西で伝道にあたっており、新島の帰国した年には、摂津第一 基督公会︵のちの神戸教会︶と梅本町公会︵のちの大阪教会︶が創 立されていた。このような状況のなかで、京都府顧問である山本覚 馬とデイヴィスの協力をえて、=月二九日に同志下士学校は創立

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されたのであった。同志社で神学教育をうけた熊本バンドの青年た ちは、優秀な伝道者となって日本各地で布教をはじめることにな る。  ②熊本バンドの青年たちの家族にとって、キリスト教は何であっ たかを、矢嶋家の姉妹について考えてみたい。矢嶋家の六女である 二子にとっては、別れた夫の許にのこしてきた息子林治定が洋学校 で学び、熊本バンドの一員となった。里子は明治五年に兄直方の看 病のために上京し、ツルi夫人をしって、築地新栄女学校の教師と なる。王子のもとには息子の治定や海老名弾正、姪の徳富初子や横 井みや子らが訪れて、キリスト教にふれる機会は多く、姉妹の中で は一ばんはやく明治一二年に新栄教会のタムソンより受洗した。矢 嶋家の五重である横井つせ子は、夫の小楠がヤソの疑をかけられて 京都で暗殺されて七年目、期待をかけた息子の時雄ばかりか、娘の みや子までがキリスト教を信奉したので、身の置き所がなくなり切 腹さわぎまでおこした。けっきょく彼女は、妹の揖子についで、夫 小楠の兄時明の未亡人清子、 一生を横井家のためにつくした田上寿 賀とともに、明治一四年中、息子時雄が初代牧師となっていた愛媛 県の今治教会で、海老名弾正によって受洗している。のちに時雄が 挫けそうになったとき、それをはげましたのは母であったと、その 信仰のかたさを海老名は語っている。海老名は明治一五年に時雄の 妹みや子と結婚した。弾正・みや子の二女である大下あやさんは八 ○歳になられるが、お元気で京都で暮らしておられる。  矢嶋家の四女久子は、息子猪一郎︵筆・名は蘇峰︶と四女の初子の キリスト教信仰におどろきあわてたが、夫の一敬がどうずればキリ スト教をおさえることができるかを福沢諭吉に相談に行った留守中 に、三年坂メソジスト教会の飛鳥賢次郎より受洗した。明治■ハ年 のことである。当時まだ熊本に組合教会がなかったからであるが、 二年後には久子の長女の山川常子、次女の河田光子、三女の大久保 音羽子とその娘落実︵のちの久布白落実、幼児洗礼であった︶、そ れに次男の健次郎︵筆名は薩花︶、長男猪↓郎の妻静子と静7丁の兄 倉園秀雄が、やはりメソジスト教会の飛鳥賢次郎より横井時雄の立 会いで洗礼をうけた。そしてのこされたさいこの一人である徳官里 敬も、明治四〇年に受洗した。八六歳であった。家族の人たちの所 属する小崎弘道の霊南坂教会でなく、本郷教会で海老名弾正より受 洗したが、 二門の親戚列座の上での信仰告白﹂は、見守る教会員 たちにも感激的なできごとであったことを、 ﹃本郷教会五十年史﹄ は伝えている。横井小楠の直弟子のなかで、あるいはまた矢嶋姉妹 の夫たちのなかで、たった一人の受洗者であった。  久子の子女教育は徹底したものがあった。長女の常子には養蚕 を、次女光子には織物を、三女音羽子には製糸をというように、音 羽子を長野湯平とともに群馬県の富岡製糸所へ学びに行かせてい る。大江の屋敷に織物工場を建てて、光子夫妻の仕事として力織緋 の生産をさせたのも久子であった。負けぎらいで頭のよい初子には 洋学を勉強させた。二歳年下の従妹横井みや子とともにジェ!ンス 夫人の教育をうけ、夫人が出産で勉強をつづけることができなくな ってからは、堂々と男生徒とともにジェーンスの教えをうけてい る。キリスト教をしったのも熊本バンドの人たちと同じであった。 洋学校が廃校になったあとは、弟の蘇峰と行動を共にして、東京 で、京都で勉強をつづけるが、これは久子の配慮であったのかもし れない。明治一五年に蘇峰が大江義塾をひらいたころは、初子も手 近代熊本の女キリスト者たち 3

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助けをしていたものの、更に勉強の必要をかんじて上京し、桜井女 学校戸長であった叔母揖子のもとに身を寄せて、エリザベス・ミリ ケンについて保育学を学んだ。そして明治一⊥ハ年に麹町教会で受洗 したが、母の久子の受洗と前後している。二年後に海老名夫妻の媒 酌で群馬県安中の湯浅治郎の後妻となる。安中は新島裏の出身地 で、新島の影響をうけたキリスト教徒が多く、海老名は安中教会を 冒していて、湯浅は明治一五年に群馬県が全国にさきがけて廃娼を 決議したときの県会議長であった。  明治一九年六月、万国婦人矯風会のレビット夫人が来日し、東 京、神戸、岡山、長崎など各地で禁酒の講演をし、また青年男子に むかって、純潔は男女平等だということを説いた。一夫多妻の日本 人にとってこれはショックであったにちがいない。夫の酒乱がいや で、乳呑子の達子をつれて実家へかえり、姉たちの家に転てんと居 候をし、女の経済的自立の必要を身をもって体験していた潜込は、 同志の人たち五十数人と東京基督教婦人矯風会を設立する。この年 は、日本基督教伝道会社の年会ではじめて組合教会の名称がきめら れ、未開拓の東京に伝道を開始することになり、海老名弾正は湯島 に伝道所をひらき、横井時雄は今治教会牧師を辞任して上京する。 蘇峰もまた大江義塾をたたんで、父母の一敬・久子ともども一家を あげて上京した。ジャーナリストを志していた蘇峰は前年出版した ﹃将来の日本﹄がベストセラーになって見通しがついたためでもあ るが、義兄の湯浅治郎とともに民友社を設立して、 ﹁国民の友﹂を 創刊することになるのである。  初子は翌二〇年に赤坂の自宅を開放して榎坂幼稚園を経営する が、明治二三年一月二三日に新島裏が亡くなったあと、夫の治郎 は、新島の遺産である同志社の財務主任を二〇年にわたって無報酬 でつとめ、更に一〇年を組合教会本部の財務部に奉仕することにな るのである。晩年の湯浅は故郷の安中に、柏木義円が四〇年にわた って牧師をつとめている安中教会の新しい会堂を建てることにその 情熱を傾けた。どこにいても月に一回は安中の教会に帰り、息子を つれて教会の草とりまでして、片時も教会を忘れなかった治郎は、 会堂を自力で完成させて、昭和七年六月七日に亡くなった。ノイロ ーゼ気味でながいあいだ心配をかけた息子の十郎がやっと一人立ち をし、ホーリネス教会の福音使となってブラジルへわたった。初子 もどうしてもブラジルへ行かねばならないと用意をしていたが、夫 より二年八ケ月おくれて、昭和一〇年三月一三日に心臓マヒで亡く なった。このために初子は分骨されて、姪の久布白落実に伴われて ブラジルの地に埋葬された。先妻の子が四人いる湯浅に嫁ぎ、彼女 じしんの子ども四男四女があり、その苦労は大へんであったろうと 思われる。  初子の姉の音羽子もまた、結婚した相手が大久保真次郎であった ので、のちに組合教会の牧師となった夫について、ハワイヘアメリ カへと移住して夫の仕事をたすけた。娘の久布白落実が矯風会を背 景に廃娼運動を展開できたのも、子どもたちを安心してあずけてお ける母がいたればこそであった。自分は表面に立たず、母に従い、 夫に従い、子どもに従ったキリスト者であった。  矢嶋家の三女である竹崎順エJには息子がいなかった。夫の茶堂と ともに大のキリスト教嫌いであったが、夫が西南戦争のあとで亡く なってから、熊本市外の高野辺田で孫たちの養育に余念がなかった が、妹たちはつぎつぎに受洗していった。姪のみや子の夫である海 4

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老名弾正が熊本に赴任してきた翌月の明治二〇年一〇月に、娘の節 子とともに宣教師の0・H・ギュリキから洗礼をうけた。六三歳で あった。家族のなかでとりのこされた徳富一敬が八六歳で受洗した のと似ている。しかし一敬とちがって、クリスチャンとしての順子 の仕事は受洗後はじまるのである。  大宅壮 は肥後の黒影第一号に矢嶋雲斎をあげた。そして姉の竹 崎順子、その二人の姪たちである横井みや子と徳富初子、初子の姉 の大久保音羽子の娘である久布白落実、徳富藍花の妻である愛子を えらんだが、大宅は徳富久子を見おとしていたようだ。まずみずか らを教育し、さらに子供たちの教育にうちこむばかりか、さいごに は夫をも信者にしてしまい、九〇歳の長命で亡くなった久子こそが 矢嶋姉妹のリーダーだったように思えるのである。息子について東 京に出てもじっとしてはいない。明治二一年には妹のつせ子とはか って、老人花見会を霊南坂教会で設立する。有閑婦人の教会員同志 の親睦会ととれなくはないが、久子の思いつきは揖子にたいするい い示唆となり、芸子のよき協力者として婦人矯風会を裏から支える 役目をはたしたが、久子のうしろには反動化していく蘇峰がいたこ とも考えなければならない。  個熊本バンドの人たちが各地で伝道の成果をあげていたのに、彼 らの郷里である熊本に組合教会の伝道がはじまったのはずっとおそ い。明治一八年に辻得太郎が新島裏から派遣され、はじめの講義所 は西外翼井町にあったという。彼は大江義塾の塾生たちをキリスト 教のとりこにしたといわれている。海老名弾正が熊本の地を評する ようになったのは明治二〇年九月であった。  同年六月に徳永規矩らのおこした英語学会は、海老名の熊本赴任 を転機として大きく飛躍し、二一年四月に熊本英学校となるが、同 じ年徳富久子の発案で、下村ふさ、有馬まつ、不破つるらによって 三人の生徒からはじめられた熊本女学会は、英学校とおなじく浜田 康喜を設立者として認可され、熊本英学校附属女学校となり、翌二 二年一一月に熊本女学校と改称した。熊本ではじめての女学校がキ リスト教主義による女学校であったのは興味のあることである。海 老名弾正が英学校と女学校の兼任の初代校長となって、その妻みや 子も、宣教師たちも、力をあわせて英学校と女学校をたすけた。 生徒たちが教会に出入りするようになって、このころは草葉町教会 の黄金時代であったようである。組合教会本部の力の入れようも、 0・H・ギュリキ夫妻、ミス・ジュリア・ギュリキ、S・L・ギュ リキ夫妻、C・A・クラーク夫妻、ミス・マルサ・クラーク、少し おくれてバセット夫妻、ミス・グリゾルトら宣教師多数が熊本に駐 在していたことでもわかるようだ。  大日本帝国憲法の発布された明治二二年には、北米YMCAのル ーサー・D・ウィシャードが来日した。東京YMCAは明治一三年 に結成されて、小崎弘道が会長となっていたし、同一五年には大阪 YMCAが宮川経輝を会長として結成され、二〇年代に入って学生 たちの間にキリスト教運動がひろがった。ウィシャードは日本に 滞在した九ケ月間に二百回をこえる伝道集会を開き、海老名弾正の 通訳によって行われた熊本での集会は、英学校や第五高等中学校の 学生に大きな影響を与えていた。同志社で開かれた第一回夏期学校 には、英学校より渡瀬常吉ら六名、第五高等中学校より一名が参加 した。翌二三年明治学院で開かれた第二回夏期学校に講師として招 かれたのが縁となって、海老名弾正が日本基督教伝道会社戸長とし 近代熊本の女キリスト者たち 5

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て熊本を去ったことは痛手であり、第三回夏期学校が阿蘇の序論温 泉で開かれて機運はもり上ったものの、学生YMCA結成は、明治 二九年の第五高等学校花陵会の創立をまたなければならない。  四海老名の後任の蔵原惟郭がスコットランドから帰るまで、柏木 義円が同志社に在籍のまま教会と英学校、女学校の面倒をみること になった。柏木は新潟県のお寺の生まれで、安中教会で海老名弾正 より受洗した。後半生を新島裏のひらいた安中教会牧師として、 ﹁上毛教界月報﹂を四〇年にわたって発行し、弾圧にも屈せず非戦 論をつらぬき通した人である。蔵原惟郭は熊本バンドの一人であ り、エジンバラ大学で哲学博士の学位をとった人であった。明治二 五年一月二〇日の新校長歓迎会の席上、教師奥村禎次郎の演説のな かに、 ﹁我々の眼中には国家なく外人なし⋮⋮﹂というけしからぬ 言葉があったとして、時の県知事松平正直より奥村の解雇を命ぜら れた英学校事件がおこった。松平正直はかつて宮城県知事であった とき、新島裏に協力してキリスト教主義の宮城英学校︵のちの東華 学校︶を設立したほどの進歩的な人であったのに、六年後にはキリ スト教を弾圧する人にかわっていた。明治二二年には大日本帝国憲 法が、翌年には近代日本をゆがめるもととなった教育勅語が発布さ れて、天皇を頂点とする国家体制ができ上っていく時期である。英 学校事件のあと八代南部高等小学校、山鹿高等小学校でもキリスト 教徒事件がおこり、第二回総選挙の政争がからんでいるとはいえ、 キリスト教は国権党のいい攻撃目標であった。知事命令に賛否両論 あり、英学校も女学校も教会も二派にわかれて大騒ぎであったこと が、福田令寿の﹃百年史の証言﹄にしるされている。  柏木義円はその苦しい立場を東京の植村正久と巖本善治あてにう ち明け、その手紙はただちに﹁女学雑誌﹂第三〇四号に、 ﹁熊本英 学校一教師の告白﹂として掲載されたので、日本中の﹁女学雑誌﹂ の愛読者に読まれたにちがいない。今でこそ評価はできるが、当時 の人たちの反応はどうだったのであろうか。 ﹁女学雑誌﹂第三〇七 号にのせられた柏木義円の﹁吾人の心事を開陳して男女両学校諸氏 に告別す﹂では、 コの熊本英学校に死するも天下に百の熊本英学 校を起すを得るなり、我校一たび義に由て死するも、更に凛乾たる 義気を以て復活し来るの望みあるのみならず、天下幾十の私立学校 をして皆我熊本英学校と為すを得るなり⋮⋮﹂とその信念をのべて いるが、知事命令に屈して奥村を解雇した英学校にきびしい批判を のこして、熊本に失望して柏木は同志社へ去った。キリスト教主義 の私立学校に国家権力が介入してくる一つの段階として、またキリ スト教主義の学校だけでなく、キリスト教が国家権力に屈服してい くという大きな意味をもった事件として、内村鑑三不敬事件より深 刻な内容を含んでいるものと思われる。奥村禎次郎はその後ハワイ へわたって伝道し、ハワイで亡くなった。反対派の人たちは英学校 からわかれて東亜学館をおこしたが、経営もむずかしくなり、また 英学校と合併して九州私学校となるが、明治二九年に閉校した。明 治二〇年前後には仙台の宮城英学校や新潟の北越学館、大阪の泰西 学館等の組合教会関係の学校が次つぎに創立されているが、二〇年 代後半になって熊本英学校と同じく閉校になっている。外部からの 圧力だけでなく、組合教会内部の事情にもよるが、明治八年に創立 された神戸女学院、明治一〇年創立の同志社女学校やその翌年創立 された梅花女学校、それに熊本女学校も、女子教育の学校はおしつ ぶされることなく、いまにつづいているのは何故だろうか。 6

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 樹明治二五年に草葉町の現在地に新会堂も落成したのに、教会も 英学校と運命をともにしたかのように、礼拝に集る者もなくなっ た。英学校事件のあと経営がむずかしくなって、その借財返済のた めに宣教師の住宅を校長権限で売却したりしたので、宣教師たちは 熊本からひきあげてしまった。これは熊本だけの問題ではなく、同 志社でも同じようなことがおこっている。アメリカンボードとの関 係もあり、組合教会全体の苦悩の時期でもあった。夜は浮浪者の宿 泊所になっていた教会をたびたび訪れて祈りを捧げていたのは竹崎 順子、山川常子、河田光子らであった。英学校が閉校になったあと に結成された第五高等学校の花陵会の会員たちも年ごとに多くな り、日曜たびに順番に教会をまわって礼拝のあつまりをもったこと と、藤原直信が牧師として赴任したことがその後の教会の支えにな っている。  熊本女学校は明治三〇年に独立認可をうけて、舎監であった竹崎 順子が校長となった。キリスト教信仰と女子教育に余生の一八年を 燃焼させて順子は明治三八年三月七日に亡くなった。順子の後任と して熊本女学校の校長をひきうけたのは福田令嗣であった。熊本英 学校で学んでいたときに海老名弾正の影響をうけ、0・H・ギュリ キより受洗した。イギリスとドイツで医学を学んで帰国し、京都で 開業していたとき同志社女学校で教えた経験もある。熊本女学校長 をつとめるかたわら、産婦人科病院を開業し、県医師会を結成し、 明治四一年には熊本市内にある七つのキリスト教婦人会がその運営 にあたった無料診療所紫苑会治療所を発足させるなど多彩な活動を した人である。そして大正一二年より昭和二四年までの二六年間 を、順子の孫竹崎八十雄が校長をつとめることになる。大正一〇年 に文部省の認定をうけて、各種学校より私立大江高等女学校となっ たものの経営はくるしく、どうせ廃校になるのなら順子の孫の責任 においてという周囲の考えであったらしい。このさい順子の偉業は 葬むるべきで、決して軽率に同志社を去ってはならないという骨無 の忠告があったにもかかわらず、同志社の宗教主任であった竹崎八 十雄は、祖母の思いの入った女学校を何とか存続させたいと思った にちがいない。熊本英学校より同志社に学んだ竹崎は、雄弁家、向 う意気の強い人、権威に屈せず所信のためには何ものをもかえりみ ない、公開の席でどんなにくまれ口でも平気で述べ得る度胸をもっ た人と評されたほどの人であったが、昭和二四年の学制の改革を機 会に校長を引退し、翌年急逝した。大江高等学校は明治二〇年の熊 本女学校の発足から今年九六年目を迎えている。  大正=二年に草葉町教会では女子青年会FG会が結成されて﹁F G時報﹂が発行された。第三号のころから﹁ともしび﹂と名づけら れ、未婚の女性教会員が中心となって編集されていた。八九号から は寺沢牧師が一人で発行編集をうけもったが、昭和一五年の第一一 四号で終っている。第二八号のころから﹁ともしび﹂紙は組合教会 九州部会の機関誌となって、教会の活動や当時のキリスト三界のこ とをしるためにも貴重なものとなっている。         二 聖公会    ︵  ω熊本聖三一教会は一九七九︵昭和五四︶年に伝道百周年を迎え た。ということは一八七九︵明治一二︶年に熊本伝道がはじまった ことになる。その年七月一四日に安巳橋通二丁目の集会所で、ハー バート・モンドレルから三人の日本人が洗礼をうけた。そのなかの 近代熊本の女キリスト者たち 7

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一人はのちに牧師となった中村亀三郎であり、翌明治一三年の二回 目の受洗者には、熊本女学校の創立老の一人である有馬まつがい た。  一八五九︵安政六︶年、英国聖公会のC・M・ウイリアムズは日 本派遣の宣教師として、伝道中であった中国より禁教下の長崎に上 陸し、崇福寺を根拠地とした。三〇歳のときである。中国で苦労を ともにし、日本派遣もともにきまったJ・リギンスは病気のため、 ウイリアムズより早く長崎にきていたが、 ︼○ケ月で帰国した。翌 年来日した宣教医師シュミットも過労のため帰国し、ウイリアムズ は一人で長崎にとどまることになった。宣教師たちが年若くして来 日したのも、心身ともにタフでなければつとまることではなかった からと思われる。リギンスが帰国したあと、ウイリアムズのただ一 人の友は、ウイリアムズより五ケ月おくれて長崎にきたフルペッキ であった。フルペッキはアメリカ改革派の宣教師であったが、子ど もたちはウイリアムズより洗礼をうけている。やがて伝道の機会が くることを信じながら、伝道用のパンフレットをつくったりしてす ごすウイリアムズの大きなよろこびは、慶応二年の肥後藩士荘村助 右衛門のひそかな受洗であった。バラに日本語をおしえていた矢野 元隆についで、荘村は日本で二番目のプロテスタントの受洗者であ った。文久三年ころに長崎へ英語の勉強にいった肥後藩士の監督を しているうちに、キリスト教をしった。若いころ松崎懐堂より漢学 を学び、安井息軒は同門の兄弟子にあたる。荘村はのちに官吏にな り、三条実美の秘書をしたりしていたが、日本の伝道主教として東 京に移ったウイリアムズには再会せず、信仰もさめてしまったので はないかといわれている。晩年は熊本市ですごし、明治三八年に八 二歳で亡くなった。墓は坪井の真浄寺にある。  ②明治六年に英国聖公会は日本に七名の宣教師をおくってきた。 モーリシャス島とマダガスカル島で⋮二年間の伝道経験をもつハー バート.モンドレルは、明治八年に長崎に赴任した。二年あと、英 国領事館敷地内にアンデレ神学校を創立するが、明治一七年に設立 された大阪聖三一神学校に合併した。テニスンの従姉妹であったエ リザ・グッドウォールは夫の死後、英国聖公会最初の婦人宣教師と して明治九年に長崎に上陸した。一二年に女子塾を開き、一〇人ほ どの塾生とともに生活した。十人女学校ともいわれ、のちに長崎女 学校となったが、明治三九年に大阪のプール女学校に合併した。  明治一五年から四年間熊本に牧師として在任した洪恒太郎は、過 去をふりかえり最も伝道の困難だったのは熊本であるが、収穫の多 かったのも熊本であったと述懐している。熊本はそんな土地だった のである。  明治二〇年には英国聖公会からビカステス司教が派遣されてき て、監督系英米三つの伝道会社が合併して日本聖公会が設立され た。そして地方会の中心として東京、熊本、大阪、函館の四都市が えらばれた。その年に熊本では紺屋今町に新しい教会が建てられ、 英国人宣教師ジョン・B・ブランドラムが責任者となって、聖十字 教会と名づけられた。九州ではじめての日本人の手によって建てら れた教会であった。  團明治二〇年春に第五高等中学校が開校され、ミス・ブランドラ ムは英語教師となって勤務した。お雇外人たちは高給であったが、 宣教師は無報酬であり、英語をおしえるかたわらキリスト教の伝道 ができることは、宣教師にとって魅力のあることであったにちがい 8

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ない。当時熊本にはキリスト教主義の熊本英学校や熊本女学校があ ったが、組合教会の0・H・ギュリキをはじめ数人の宣教師が滞在 しており、九州の最高学府である熊本市の第五高等中学校学生たち への伝道のために派遣されたハンナ・リゲルは、明治二三年の二月 熊本に到着した。ロンドンで貴族の家に生まれたりゲルが三五歳の ときである。すぐに学生を相手に伝道をはじめたが、四月三日に本 妙寺の桜の花の下で見たライ患者は、リゲルの生涯をかえてしまっ た。昭和七年二月三日に亡くなるまでの四二年間を、日本の救うイ 事業に捧げることになるのである。文明国ではそのころライ病は忘 れかけられている病気であったが、日本では面倒をみる者もなく、 ライ患者は野放しの状態であった。日本のライ患者救済のための援 助を英国伝道会社に拒否されたリゲルは、英国にあるリゲルじしん の財産を処分して、竜田山のふもと、第五高等学校の東側に四〇〇 〇坪の土地を買い、聖公会エビントン主教司式のもとに回春病院が 開院したのは明治二八年一一月である。収容した患者は三八名であ った。  カトリックのコール神父によって熊本市外の琵琶崎に待気無が開 設されたのは三年後のことである。プロテスタントとカトリックの ちがいはあっても、リゲルとコール神父が、同じ目的をもってお互 に語りあうことはなかったであろうか。そのような資料は何一つの こっていない。コール神父はリゲルより早く本妙寺のライ患者のこ とはしっていたし、静岡ではすでにテストウィード神父によって復 生病院が設立されていた。リゲルが女の身で寺崎に臨時救護所を設 けて患者の治療にあたっている様子を見て、ときには見舞もしたの ではないかと九〇年の昔に想像をたくましくするばかりである。  リゲルの政治力はすぐれていた。精力的に旅行をし、その育ちの よさからくる物おじしない性格で、病人のことなど考えようともし ない、富国強兵だけの政治家や財界人と逢い、声を大きくしてライ 撲滅につながる救うイを叫びつづけたのである。新島裏が寄附集め でその精力をすり減らしていったように、リゲルの回春病院運営の ための資金調達も想像に絶するものがあったのではなかろうかと今 ふりかえって思うばかりである。リゲルの最初の仕事である五高生 への伝道はそのあと実をむすび、花陵会員のなかから宮崎松記のよ うな、キリスト教だけでなく、その生涯を救うイ事業に捧げた人を 育てていったのである。  リゲルの仕事は姪のエダ・ライトにひきつがれた。明治二九年に 二七歳で来日して伝道事業にたずさわり、伯母の仕事をたすけるた めに来濃したのは大正一二年であった。昭和七年にリゲルが亡くな ったあと、そのかぼそい身体で回春病院をささえてきたが、昭和一 ⊥ハ Nのリゲルの命日の二月三日に、回春病院は四七年の歴史を閉じ た。戦争という異常な状態であったとはいえ、熊本はライトにスパ イの疑いをかけて、石を投げて追いはらうようにしてオーストラリ アに送り出してしまった。ライトは七一歳の老令であった。母国イ ギリスにはもう帰るところもなく、前年帰国した聖公会の宣教師ミ ス・フリースをたよったのであった。ミス・フリースはリゲルのよ うに目立つ仕事はしなかったが、明治三四年に熊本にきて以来、宣 教師ペインターとともに阿蘇伝道に力をいれ、多くの業績をのこし た人である。戦後ライトは死に場所を求めるようにして、再び熊本 に帰ってきて二年目の昭和二五年二月二六日に八○歳で亡くなっ た。その晩年はいたましい。カトリックの待労病院がいまでも立派 近代熊本の女キリスト者たち 9

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に運営されているのにくらべると、回春病院は個人の仕事であった だけに、リゲルとライトの仕事には宿命的なものがあったように思 える。  回春病院がその幕をおろして四〇年たった。竜田山麓の泰勝寺に ガラシア夫人の墓があることはしっていても、その通り道に回春病 院があったことをしる人は年ごとにへってきている。イギリスの女 宣教師が独力で病院を開き、救うイにその生涯を捧げたことを語り ついでいくことで、リゲルとライトに対するせめてもの感謝としな ければならない。  凶明治二九年五月二三日、七人の学生によって第五高等学校YM CAである花陵会が創立されたが、リゲルにかわって学生伝道をし たのはブランドラムであった。明治三三年に病気で熊本を去るま で、ブランドラムは花陵会員の指導者となり相談相手となって、花 陵会史にその名をとどめている。  ミス・フリースやペインターにより阿蘇伝道がはじめられて、昭 和五年には聖テモテ伝道所の聖堂が宮地に建てられ、幼稚園も併設 された。昭和七年には三浦清一が牧師として熊本に赴任した。三浦 は明治二八年五月二〇日、上益城郡甲佐町の生まれである。福岡神 学校で学び、聞く人の心をひきつけるその弁舌のために、リー主教 は三浦に﹁教区巡回伝道者﹂という前例のない任務を与えたほどで ある。聖使女学校を出て各地で婦人伝道師として働いていた石川光 子︵啄木の妹︶と、大正一二年に結婚する。昭和二年に三浦の指 導で﹁阿蘇兄弟団﹂が宮地で結成され、三人の青年が定住して、農 業労働と信仰の実践集団としてその成果をあげていたが、昭和一五 年の八月、反対派の青年たちによって、聖テモテ伝道所も宣教師住 宅も兄弟団も破壊され、井戸水もつかえなくなってしまった。太平 洋戦争のおこる一年前のことである。これを機会に英国人宣教師た ちすべては自発的に帰国することになり、日本人キリスト者たちの 受難も敗戦までつづくのである。聖公会は英米との関係が深いとみ られて監視の眼もきびしかった。ライトの秘書をしていた飛松甚吾 も豊福牧師とともに、スパイ容疑で拘留された。家族の人たちも言 うに言われぬ辛い思いをされたにちがいない。三浦清一は昭和工百 年の一二月、台湾伝道から帰るのをまって逮捕され、六ケ[月の拘留 生活を送った。出獄後は九州には身のおき所がなく、賀川豊彦のも とに身をよせて、賀川の経営する精薄施設である神戸愛隣館長とな った。戦後は社会党員として兵庫県議員を一〇年つとめ、キリスト 教と社会事業のために精力的な働きをして、昭和三七年七月一〇日 に亡くなった。愛隣館長は妻の光子にひきつがれ、六年後の一〇月 二一日に光子が亡くなったあとは、息子の賜郎氏にうけつがれてい る。         三 メソジスト教会    ︵  ωメソジスト教会の日本宣教は明治六年目はじまる。この年アメ リカ・メソジスト監督教会から派遣された宣教師たちは、横浜にR ・S・マクレーとJ・H・コレル、東京にJ・ソーパi、函館にM ・C・ハリス、長崎にJ・C・デビソンが到着して布教をすること になった。聖公会のバンサイドと改革派のスタウトがすでに伝道を はじめていた長崎の出島二二番に本部をおいて、デビソンは活動を はじめるが、教会を建てたのは明治九年であった。そして教育事業 にたずさわる宣教師の派遣を要請し、婦人外国伝道協会から教育活 10

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動にはエリザベス・ラッセルが、福音活動にはジーン・M・ギール が派遣されて、長崎に到着したのは明治一二年=月のことであ る。ラッセルは四三歳、ギールは三三歳であった。一週間後に﹁私 を伝道者として教育してください﹂と申し出てきた官梅湊をたった 一人の生徒として、教師二人の女学校が発足する。のちの活水女学 校である。鎖国以来、日本でただ一つの開かれた港であった長崎の 女たちは、外国の文化にたいして常に新しい女であったといえるよ うだ。たった一入の生徒官磁心は二三歳で、寡婦になって居り、能 の娘のマサエはのちにラッセルの養女となって、メイ・ラッセルと 姓もかわり、アメリカで教育をうけて帰国し、活水のために働いて いる。明治=二年にはC・S・ロングが外国伝道局より派遣され て、翌一四年一〇月東山手六番にカブリー英語学校を創立する。の ちの鎮西学院である。  横浜では改革派のフェリス女学校が明治三年に、メソジストの海 岸女学校︵のちの青山女学校︶が明治七年東京に、聖公会の立教女 学校が明治一〇年に創立されていて、長崎はそれにすこしおくれる が、熊本のミッション・スクールは長崎より二〇年おくれて、カト     まいかい リックの盛運女学校が明治三三年に創立されるのである。  ②メソジスト教会の熊本伝道は明治一六年の一二月、鎮西学院の 創立者C・S・ロングと飛鳥賢次郎によってはじめられている。飛 鳥賢次郎は徳富藍花の﹃竹崎順子﹄によって私たちにもなじみの名 前である。通町から安巳橋通りへ坪井建町へと講義所はうつった が、明治二六年一二月には安巳橋通りに会堂が新築された。明治二 二年八月には活水女学校神学部の第一回卒業生である大島サキが婦 人伝道師として着任して、大正六年=月二八日に亡くなるまで二 八年にわたって、教会の母としたわれた。また第五高等中学校教師 として来熊したカナダ・メソジスト教会のE・クランミーも初期の 教会の力であった。  ㈹熊本英学校で学んだ田添鉄二は明治二五年に牧師栗村左衛八よ り受洗する。しばらくメソジスト教会の書記などしていたが、翌年 長崎の鎮西学館に入学した。これは熊本英学校事件のあと英学校が 分裂した時期にあたるので、キリスト教を学ぶには長崎でなければ いけないと思ったのではないだろうか。明治三一年に神学科を卒業 してシカゴ大学神学部に留学し、シカゴ大学では神学より社会学を 学んで二年後に帰国した。帰国後は教会に行くことはなかったとい うことであるが、明治三五年に七歳年上の中尾ユキエと結婚する。 ユキエは長崎県の生まれで活水女学校に学び、明治二二年に校長の ラッセルが休暇で帰米したときにともなわれて、オハイオ州ウェス レアン大学で美術を専攻し、帰国して明治三二年まで六年間、新設 された美術部で木彫の指導をした。今でこそ木彫は流行している が、 ﹃活水学院百年史﹄にのせられた写真でみると、九〇年前にこ れほどの精巧な木彫をつくった活水の教育におどろかされる。ユキ エが母校で教鞭をとっていたころ田添鉄二はアメリカに留学してい たのであるが、知りあったのは留学前であったと思われる。一年足 らずつとめた鎮西日報社をやめて鉄二・ユキエ夫妻は上京する。明 治四一年三月一九日に田添が亡くなるまで、結婚生活はわずか六年 である。田添の社会主義者への歩みは、キリスト教によって培わ れ、アメリカ留学によって方向づけられたものであった。三九歳で 寡婦になったユキエはしばらく社会主義運動をつづけたが、就職し た日本女子大学にも長くおられず、明治四二年に中国にわたり、四 11 近代熊本の女キリスト者たち

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川省成都の師範学校につとめ、日本に帰って昭和一九年一月七六歳 で亡くなった。田添の活動もユキエの支えがあってのことだったと 思われる。田添とユキエの結婚のころ、田添の妹テルは活水女学校 で学んでいた。音楽師範科を卒業して母校にしばらく勤め、服部牧 師と結婚した。夫が若くして亡くなったあと田添に復籍して、熊本 の県立第一高等女学校や尚志高等女学校に勤務し、晩年には活水女 学校の舎監を六年ほどつとめ、昭和五三年一一月七日に八九歳で亡 くなっている。テルのほかに剣道の達人であった重太郎彦、太郎彦 の後妻ふみ、鉄二の妹石坂カジュも受洗しているが、田添家の受洗 は大島サキの影響であったと、活水学院の吉村先生より教えていた だいた。  四明治二六年に島原地震があったとき、熊本県には大きな津波が おこり、沢山の子どもが親を亡くした。ラッセルは孤児となった女 児一五名をひきとって、大江町九品寺に孤児院を開いた。現在の白 川教会に隣接した土地で白水女園と名づけられていた。ラッセルは その経営に力をそそぎ、大島サキらの協力もあったが、熊本市での 借家は家賃も高くて、活水の卒業生より土地の寄贈があったので、 明治三一年に福岡市外古賀村に引っこした。熊本でのラッセルの孤 児院が大村活水女園のおこりであった。幼いとき母を亡くした田添 テルは父の再婚もあって、白水女園で読み書きを学び、明治二九年 に活水女学校の小学科に入学することになる。  大正=二年に当時としては珍しい鉄筋コンクリート建の心逸幼稚 園が創立されたが、これは前年より熊本市九品寺の婦人宣教館の一 室で、近所の幼児一二名をあつめてはじめた保育事業が実を結んだ ものである。熊本ではじめてのプロテスタントの幼稚園であった。 名付親は福田令寿であり、初代園長はマーベル・り一であった。代 々女宣教師が園長であったが、昭和一六年からは市川ピサさんが園 長にかわり、ミッションからの援助もうち切られて、その運営は大 変な苦労であったときく。  エリザベス・キルバンは一八八九︵明治二二︶年アメリカのフィ ラデルフィア生まれ、大正八年三〇歳のとき宣教師として来日し、 翌九年から五年間熊本市に在任した。大正一二年に小作争議中の八 代の満干を賀川豊彦とともに訪れたが、そのあまりに気の毒な状態 を見るに見かねて、翌年一月二〇日に毛糸やネルや木綿の布などの 材料を自動車に満載して、郡築の女たちを見舞った。一週間とまり こみで午前中は編物、午後は裁縫をおしえて大変感謝をされたとい う。その後キルバンは仙台、札幌、函館、東京などへ赴任し、第二 次世界大戦でほとんどの宣教師が日本からひきあげたが、彼女は他 の品名の女宣教師とともに、アメリカに帰ることを承知せず、四年 聞の抑留生活をつづけた。戦争がおわるとすぐキルバンは熊本を訪 れた。三年坂の教会も戦災にあい、市川姉妹や近所の入たちの協力 で焼けのこった幼稚園に教会も牧師一家も同居しているのを見て、 すぐ進駐軍にかけあってMPにメリケン粉を届けさせた。日曜ごと に教会でもだんご汁がつくられ、園児だけでなく教会員たちも空腹 をみたすことができたということである。大変な親日家であった が、抑留生活の無理がたたって昭和二一年一二月二〇日に五七歳で 亡くなった。郡築争議のときのキルバンの勇気のある行動を、教会 の昔をしっている人たちは覚えて居られたが、教会の記録にもキル バンの伝記﹃翼なき天使﹄にも記されていなかった。困っている人 たちをたすけるのはあたりまえのことであって、特記すべきことで 12

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はないのかもしれないが、 いたのである。 郡築争議の記録がキルバンを書きとめて    吻日本基督教会    ︵  口D日本基督公会は、改革派のジェームズ・H・バラに学んだ英学 塾の学生九名と、別の信者二名の青年たちによって、明治五年に設 立された。横浜バンドといわれている人たち、井深量之助、押川正 義、本田庸一、植村正久らがその中心となっている。明治六年に創 立された東京基督公会とともに、アメリカの長老派と改革派の宣教 師たちの尽力によるものであった。外国の教派によらない無教派主 義の日本人の独立教会であったが、明治六年になるとメソジストや バプテストなど、教派主義のつよい教会が入ってきて公会主義もむ ずかしくなった。米国伝道会社の宣教師たちの協力によって、明治 七年には摂津第一公会︵のちの神戸教会︶、梅本町公会︵のちの大 阪教会︶が創立されて、合同問題がおこったがうまくいかず、明治 一〇年になって長老派、改革派などが合同して日本基督一致教会が 組織された。そして明治一九年になり組合教会との合同問題が再燃 するが、足かけ五年かけて交渉を重ねたが失敗におわり、一致教会 は明治二三年に日本基督教会となった。  ②熊本伝道は明治二⊥ハ年八月二〇日に平山武知によって坪井鳥町 ではじめられた。 ﹁組合教会の地を侵すべからず﹂という理由で熊 本伝道開始はおくれたのであるが、翌年には日清戦争がはじまり、 礼拝の出席者も四、五人になってしまったという。明治三〇年には 三宅俊輔が鹿児島より転会し、ハンナ・リゲルの回春病院辺長をつ とめながら、大正一五年に亡くなるまで長老として教会を支えた。 明治三九年には熊本市東外部井町に会堂と牧師館が新築され、翌四 〇年には伝道局の補助を謝絶して自給独立の教会となり、熊本日本 基督教会と称するようになった。教会の性質上外人宣教師はいな い。選挙によってえらばれた長老たちがそれぞれに牧師ほどの重み をもっており、学者の多い教会といわれていた。  どこの教会でもそうであるが、第五高等学校の花陵会をはじめ、 熊本高等工業学校の渓水会、熊本薬学専門学校のヨルダン会の学生 たちが果した役割は大きい。前熊本市長山隈康の夫人芳子は、経済 的に楽でなかった学生や社会に出たばかりの若者たちに目をかけ て、家を借りて数人を住まわせていた。教会の伝道所の看板をかけ て、子どもたちのための日曜学校を開かせていたので、子どもたち や学生たちの集会所となり、この学生たちのなかから牧師も三人生 まれている。山隈芳子は昭和四年から二九年まで教会の長老であっ た。昭和四年から九年間牧師をつとめた松尾喜代司氏は五高花陵会 の出身であるが、五・一五事件を批判したとか、伝道説教で軍人を 攻撃したとかいわれて、数年のあいだ警察につけまわされた。先輩 の松尾牧師をしたって花陵会員の出入りが多く、余輩会館にもまた 学生があふれていた。元熊本県知事の寺本広作氏や植物学者の塚本 洋太郎氏など、それぞれの居住地の教会の長老となっておられる し、丘陵会の人たちは五高を卒業するとともにキリスト教も卒業し てしまうという批判は、この熊本教会に関するかぎりはあたらない ように思える。  ㈹昭和二四年の春、荒尾市の現在の孫文記念館の一室で、日本基 督教団熊本坪井教会の荒尾伝道所が設立され、二六年には有明海を 見渡す増永の小高い丘の上に荒尾教会が新築された。これは宮崎民 13 近代熊本の女キリスト者たち

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蔵の妻美以と長女の貞さんの努力によってできたものであった。こ んどの戦争のときに東京から疎開してきて、荒尾市の東方の龍門に 住んでいた貞さん母子は、敗戦のあと荒尾市の生家にかえった。貞 さんは東京の美竹教会の浅野牧師が九州伝道の途中に荒尾市にたち 寄られたのを機会に、熊本市の坪井教会の松本牧師にもきてもらっ て、自宅で一八人の最初の集会をひらいた。それから月に一回、あ るときは二回と牧師に足を運んでもらって家庭集会をつづけた。荒 尾高等学校に英語教師としてつとめるかたわら、忙しいときは試験 の採点がすんでから、夜中までかかって翌日の集会の準備をしたり などした貞さんにとっては、家庭集会はいのちであった。教会を建 てるときは、全国にいる教え子にも寄附をよびかけ、本当にそのと きは大変でしたと、貞さんと一しょに暮らしていた白谷マツエさん は語って下さった。荒尾教会は貞さん母子の遺産だったのである。  昭和二八年九月一日に貞さんは母の美以とともに上京する。戦前 つとめていた恵泉女学園に復職し、園内に美以と二人でくらした。 七〇歳で退職し、個人教授などしておられたようであるが、美以が 九九歳で亡くなった翌年の昭和四八年に、社会福祉法人新生会経営 の老人ホーム春光園にはいった。かつての英語教師のきりつとした 面影があり、一日の大半を読書と手紙をかくことですごしておられ たようであるが、現在は新生会の特別養護老人ホームで寝たきりに なっておられる。この貞さんは明治二六年七月一六日生まれで、熊 本県立高等女学校から津田英学塾に進み、そのころ受洗されたよう である。徳富蘇峰に小崎弘道を紹介された叔父の寅蔵︵宮崎濡濡︶ と弥蔵は、熱心に教会に通い明治二〇年に受洗した。祖母のサキも 伯母の留茂も信仰をもっていたと貞さんは伝えている。民蔵は若い ころ寅蔵や弥蔵とよく宗教哲学のことで議論をし、取っ組みあいま でしたというが、キリスト教をどんな眼でみていたかはわからな い。  昭和工寮母六月、カトリック、ハリストス正教会、聖公会以外の 教会は合同して、日本基督教団として発足した。明治時代にできな かった組合教会との合同が、このような形で実現したのはまさに政 治の力であるが、このあと四〇年以上もそのままつづいている。         五 バプテスト教会    ︵  ωペリー艦隊の水夫として一八五三︵嘉永六︶年に日本に上陸して 国内を視察したジョナサン・ゴーブルは、七年後に米国自由バプテ スト伝道協会の宣教師として、夫人とともに来日した。漂流民の仙 太郎を教育してつれてきたが、ゴーブルの期待にこたえることはで きなかったという。ゴーブルがくるしい自給伝道生活のなかで、日 本ではじめての﹃摩太福音書=を明治四年に横浜で出版した業績は 大きい。バプテストの本格的な伝道がはじまったのは、明治六年半 米国北部バプテスト伝道会社によって、ネーサン・ブラウンが派遣 されてからである。翌年にはブラウンの息子が印刷機械をもって来 日し、出版事業をはじめる。ブラウンは来日したとき六六歳であっ たが、すぐ日本語の勉強にとりかかり、明治二一年八月新約聖書の 全訳を完成した。バプテスト訳にいわれている。そのほかに旧約即国 書の一部分、讃美.、などを翻訳し、明治一九年一月一日に疲労のた めに亡くなった。  ㈹ジョージア州アトランタ第ニバプテスト教会のW・H。クラー クは明治三二年一月長崎に上陸し、福岡のマッコーラムのもとで日 14

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本語を勉強した。マッコーラムは明治二二年に来日した米国南部バ プテスト教会の宣教師である。クラークはおくれて来日した婚約者 ルシール・ダニエルと結婚して、一二月下旬に熊本に赴任したが、 一年前より伝道をはじめていた後藤六雄とともに、熊本教会の基礎 をつくった。明治三五年には熊本浸礼教会が組織され、同三八年前 は南坪井に会堂が建てられたが、日本バプテスト連盟の教会として は一番早いものである。クラークじしんが阿蘇の小国に行って聖壇 の柱などをえらんだといわれ、戦災にもあわず、つい最近まで熊本 市北警察署の前にあった教会である。  クラーク夫人は日本にバプテストの女子教育機関が必要だという ことを、誰よりも早く主張していた人で、宣教師の集会や伝道会 社、あるいは南バプテスト大会にと、機会あるごとに熱心に訴え た。当時の宣教師のなかには教育事業に無関心な人たちも多く、反 対論もあってその苦労は並大抵のことではなかった。夫妻の寝食を 忘れての運動によって、ジョージア州の多くのバプテスト教会の婦 人会から、女学校建設のための最初の寄附八万円がおくられてき た。熊本市の京町台に建てたいというクラーク夫妻の希望であり、 敷地を何度も見に行ったりして、その夢も大きくふくらんでいた矢 先、反対派の宣教師たちから敷地変更論がおこり、福岡にという説 から小倉へと決定されてしまった。それと同時にクラーク夫妻は二 〇年間の熊本伝道から東京へ転任になってしまった。女学校設立に かけたクラーク夫妻の情熱と苦労をふみにじったこの決定は、当時 バプテスト教会内でも論義の対象となっていたようで、節高諸陵会 の学生がバプテストは問題が多いから、他の教会で受洗したのもこ のころのことであろう。もしこの女学校が熊本に設立されたら、熊 本女学校と合併するというような話も出ていたと福田下露は語って いる。  福岡の西南学院は米国南部バプテスト教会の宣教師C・K・ドー ジャーによって、大正五年に創立され、二年後にはバプテスト系の 教会が合同して日本バプテスト教会が結成される。そして西南女学 院がJ・H・ロウによって設立されたのは大正=年のことであっ た。クラーク夫人は昭和八年に病気で帰米の途中、明日はサンフラ ンシスコに到着するという五月三日に亡くなった。  個五高の花陵会出身で、日本YMCA育ての親である斉藤惣一は 山口県の生まれであるが、父が門司周辺の砲台建設の仕事をしてい たころ、父の友人の影響をうけてミス・カミングのバイブルクラス に通う。五爵教授として在任中は花金会の指導にあたり、母も妻も 妹も一家をあげて教会の支えとなった。クラーク夫人は熊本にバプ テストの女学校ができたら、斉藤に女学校の仕事をさせたいという 希望をもっていたようである。  熊本英学校の創立者である徳永規矩・うた夫妻の長女である福永 津義は、明治二三年八月五日に熊本県芦北郡津奈木町で生まれた。 規矩は徳富一敬の末弟である昌龍の長男であるが、昌龍夫妻が早く 亡くなったために、一敬の母のもとで育ったので、蘇峰とは兄弟同 様の間柄であった。慶応義塾に在学中ナックスより受洗し、﹃逆境の 恩寵﹄の著者として有名である。母うたは同志社女学校で学んだ人 であり、のちに熊本女学校の舎監をつとめた。クリスチャンであっ た両親の教育をうけ、活水女学校の幼稚園師範科で創立者エリザベ ス・ラッセルの影響をうけた。福井のメソジスト教会附属の栄冠幼 稚園の主任保母であったとき、牧師の福永半語と結婚した。結婚後 15 近代熊本の女キリスト者たち

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朝鮮に渡り、ホルストン女学校に勤務したが、大正一五年に夫とと もに神戸に早緑幼稚園を創立する。昭和一五年にはドージャー夫人 が開設した福岡の西南保母学院に招かれた。バプテスト教会の学校 で一校の責任を負う立場になって、洗礼をうけなおして、メソジス トからバプテストにかわるほどけじめをつけた人であった。西南保 母学院が福岡保育専攻学校と改称し、のちに西南学院大学に合併す るまで、その生涯をキリスト教主義の保育ひとすじに捧げた立派な キリスト者であった。ミス・ギールが創立した福岡女学院に、はじ めての日本人の校長として二五年間つとめた徳永ヨシは津義の妹に あたる。西南女学院短期大学の高橋さやかさんは津義の長女であ り、児童文学者として著名な方である。  高群逸枝の﹃火の国の女の日記﹄によると、高群が熊本女学校に 在学中に呼びとめられて注意をうけた。 ﹁あなたは天才ではない。 天才と思ってはならない。あなたの才能はあなたが書物をたくさん 読んでいるからであって、思い上がってはいけない﹂とさとしたと いう﹁徳永歌子先生﹂が徳永うたである。         六 ルーテル教会    ︵  ωアメリカ南部一致ルーテル教会が外国伝道局を創設して、日本 伝道をきめたのは一八八八︵明治二一︶年のことであった。三年後 に日本伝道の先駆者としてえらばれたのは、まだ二三歳の青年J・ A・B・シェーラーであった。彼は一躍南部一致教会の話題となっ て、その写真はとぶように売れたという。彼がガーリック号でサン フランシスコを出航するときは、数回の教会の鐘が一せいに鳴らさ れたと、 ﹁日本福音ルーテル教会史﹄はその劇的な出航の様子を伝 えている。  シェーラーは明治二五年二月二五日に日本の土を踏んだ。そして 新栄教会のタムソンから山内量平を紹介される。山内は植村正久の 義兄にあたるが、当時日本基督深川教会の長老であった植村正久が 経営する﹁日本評論﹂と﹁福音新報﹂の出版をひきうけていた。そ のため本屋と印刷所をひらいていたが、資金ぐりが思わしくなかっ たので外国人に日本語を教えていて、タムソンとの関係もその日本 語の教師としてであった。シェーラーの日本語の教師となった山内 量平は、のちにルーテル教会の初代牧師となり、教会創設の功労者 となった人である。  明治二〇年代の日本のキリスト教は国家主義との対決があり、ま た新神学の影響によって大きな動揺のあった時代に、他の教会にた ちおくれて伝道を開始したルーテル教会は、都会よりもむしろ他派 の教会のえらびのこした田舎の方に伝道をしたいという希望をもっ ていた。シェーラーは佐賀で英語教師をしていた友人のブラッドベ リーの後任に推薦されたので、佐賀を本拠として、あとから到着し たR・B・ピーリーと山内量平夫妻の四人で、日本福音ルーテル教 会の最初のささやかな礼拝を行った。明治二六年四月二日のことで ある。最初の受洗者は熊本県小天の志水徳松であったといわれてい る。山内量平と同じ和歌山県出身で明治学院神学部に学んだ鈴木直 丸が、山内量平の娘あやと結婚して山内直丸となり、佐賀にきて伝 道をたすけることになった。そして明治三一年の秋にはデンマーク ・ルーテル教会のJ・M・ウィンテルと、健康を害して帰国したシ ェーラーにかわって、C・L・ブラウンが着任した。この人こそ熊 本教会の建設と九州学院創立の業績をのこした人である。 16

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 熊本にルーテル教会の伝道がはじまったのは明治三一年﹂○月二 日である。山内直丸夫妻と、その当時は五高の学生で花陵会員であ った副島松一の三人で、熊本での最初の礼拝が行われた。明治三三 年一二月にはブラウンが家族と共に定住し、水道町の現在地に教会 が新築されたのは明治三八年六月であった。会堂にかかっていた押 柱時計は、熊本にいたロシア人捕虜のうち三十数人のルーテル教会 員が記念に寄贈していった時計だったそうであるが、戦災で焼けて しまった。日露戦争のとき熊本教会の婦人会では、出征の令状をう けた教会員とその家族の人たちへ毛糸の靴下を贈呈するために、熱 心に編物をしたという。また帰還傷病兵士慰安のための各教会連合 の大音楽会を開催し、熊本女学校生徒の合唱、ブラウンのギター、 ブラウン夫人の英詩独吟、メソジスト教会のデビソンのヴァイオリ ン独奏などの出演があったという記録がある。このころルーテル教 会の主力は佐賀県から熊本県に移っていた。  ②明治三八年に神学校を含む教育機関を日本に建設することが米 国ルーテル教会で決議され、四一年九月に熊本高等予備校が当時の 熊本市外大江村の︵旧︶向栄社跡に設立された。三八年にピーリー にかわって着任したA・J・スタイワルトが校長となり、五高教授 らが講師となって、五九名の入学者に毎日四時間の授業が行われた が、翌年六月急に閉校になった。そしてその年の九月二七日に同じ くスタイワルトが校長となって、新屋敷のスタイワルト宅を仮校舎 として、教職者養成のためのルーテル神学校が開校された。現在の 日本ルーテル神学大学の前身である。  九州学院は明治四三年一月一九日に認可をうけ、翌年四月一五日 にまだ校舎も完成していないなかで授業がはじめられたが、創立当 時の教員に田添鉄二の舜太郎彦の名をみることができる。院長には それまで五高の英語科主任教授であった遠山参良が就任し、ブラウ ンは主事の肩書きであった。ブラウンが来日したのは二四歳のとき であったが、今や日本での布教経験ゆたかな三七歳の宣教師として 押しも押されもせぬ人であった。遠山参良は八代郡鏡町の出身で、 慶応二年生まれであるからブラウンより八歳年長である。熊本洋学 校で一年学び、同志社、カブリー英語学校︵鎮西学院の前身︶を卒 業し、明治二五年にアメリカのオハイオ州ウェスレアン大学に留 学、帰国後は母校の鎮西学館と活水女学校の教師をつとめ、夏目漱 石のあとをうけて五高英語科主任教授となった。遠山とブラウンの 運命的な出逢いも、遠山が甲高の夏目漱石に挨拶に行って長崎に帰 る途中の汽車の中であった。ちなみに遠山はメソジストであるが、 九州学院に勤めてもル!テルに常会はしていない。  九州学院の一回生一二二人のうち、大正五年に卒業したのは三分 目一の四二人である。 ﹁ブラウンは授業熱心で、一所懸命英語を教 えたが、ブラウンが力を入れれば入れるほど、外国語に耳馴れない 生徒たちはとまどった。とくにWの発音なんか生徒たちにデブリュ ーと聞えて、そのつど﹃デブリュi、デブリュー﹄と調子をとって 精子たてた﹂と、昨年発行された﹁九州学院七十年史﹄にある。私 の父もそのなかの一人であった。ブラウンは手塩にかけた第一回卒 業生の晴れやかな顔を見ることもなく、大正五年の二月アメリカへ 去る。そして大正一〇年の四月アフリカへわたるが、その年の一二 月五日に黄熱病で亡くなった。  九州学院が開校されてから、ルーテル神学校は九州学院内にうつ り、九州学院神学部とよばれるようになったが、文部省認可は大正 17 近代熊本の女キリスト者たち

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五年である。教会の本部が熊本にある以上、神学部、九州学院の生 徒教育のために黒熊する宣教師たちの、キリスト教を通じてなされ る人聞教育にこたえる素質を生徒たちは充分にもっていて、のちに 宗教界、教育界で働いた多くの人たちが巣立っている。創立直後の はなやかな時代が去って、神学部は次第に生徒もへり、大正=年 から二年ほどはゆきづまりの状態であった。熊本での一六年の歴史 を閉じて東京へ移り、J・P・ネルセンを校長として日本ルーテル 神学専門学校が大正一四年九月一五日から開校された。これはルー テル教会の中心勢力が東京へ移ったことであった。  ③ルーテル教会のはじめての女宣教師として大正三年に来日した マーサ・B・エカードを校長として、マリオン・E・パッッを協力 者として、熊本市でのはじめてのプロテスタントの女子ミッション ・スクールである九州女学院が開校されたのは、大正一五年四月の ことであった。第一回の生徒募集の入学案内には、 ﹁基督教ノ主義 二基キ女子二須要ナル高等普通教育ヲ施シ堅実善良ナル婦人ヲ養成 スルヲ目的トス﹂とあるのが、翌年の第二回生募集のときには、 ﹁教育勅語ノ本旨ヲ遵奉シ基督教ノ主義二基キ⋮⋮﹂と変っている のを見てもわかるように、創立のあとのキリスト教の主義にもとず く教育には次つぎに制限が加えられ、昭和三年の天皇の即位式には 県知事訓令によって、ステンドグラスのある講堂に天皇皇后の写真 がかざられ、讃美歌のかわりに君が代がうたわれた。女学院の第一 回卒業式は昭和六年三月に行われて五二名が卒業した。一回と二回 は卒業記念礼拝として行われたが、昭和八年の第三回は卒業式とな り、讃美歌、聖書朗読祈檎のつぎに国歌斉唱、勅語奉読が行われる ようになった。だがその反面では、エカードとパッツの授業に対す る態度はきびしく、他の女学校にない聖書の時間が週二時間あり、 それで落第点をつけられる生徒がいた。落第は恥ずかしいことでは なく、駄目ならもう一年やり直すというアメリカ式の考え方と、落        の 第は恥ずかしいことで、お情け点をもらってでも進級しなければと いう日本式の考え方とは落差が大きく、五回、六回となるにつれて 卒業生はしだいに少くなってきた。毎年補助金を送ってくる伝道局 にたいして申し訳ないとエカードは随分気もつかったようである。 昭和一六年七月四日、プロテスタントの信仰にもとずいたアメリカ の独立宣言の日を断固たる態度で祝い、生徒にアメリカの国歌をう たわせたエカードは、その年の九月二三日にパッツとともに帰国し た。そして昭和一八年四月より女学院は清水高等女学校と名称をか え、九州女学校は翌一九年三月三一日で閉校になるが、戦争によっ てエカードもいなくなり、ミッション・スクールでもなくなった女 学院は、普通の私立女学校とかわることはなかった。九州女学院の 名称とキリスト教にもとつく教育が復活したのは、昭和二一年にな ってからであり、戦後の第一船で帰ってきたエカードを迎えること ができた。昭和三〇年に停年のために帰国したエカードは一四年後 の五月三〇日に、故郷のブロントビルで亡くなっている。  四ルーテル教会はえらばれた者たちへの教育事業に力をいれる一 方、社会事業をはじめることをきめ、大正九年にモード・パウラス は熊本へ赴任した。宣教師会の話しあいで、不幸な老人や子ども、 少女たちのための慈善事業の施設を建てることが決議されて、パゥ ラスはその責任者にえらばれたのである。パウラスが三一歳のとき であった。第︷次世界大戦後の不況のしわよせは弱い者たちの肩に かかっていた。大正デモクラシーの美名にかくされたこの時期は、 18

参照

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