阿含経と般若経の接点
―長部『清浄経』の逆説表現に注目して―
藤 井 淳
はじめに
大乗経典の特徴として『維摩経』『金剛般若経』に顕著に見られるような逆説表 現1)を多用することがある.本稿の第一の目的は,般若経の逆説表現は初期経典 から継承したものであるのかを長部Pāsādika-suttanta『清浄経』に見られる二つの 逆説表現と〈不定法〉 (aṭṭhita-dhamma)を手がかりに考察することにある.本稿では 『八千頌』(『小品』T227)『二万五千頌』(『大品』T223)般若経を考察対象とする.本 稿の第二の目的はそれらの逆説表現が大乗仏教において思想史的にどのような意 義を持ったのかを考察することである.第二について本稿の関係上で言及するに とどめる.調査にはC-Beta2014, 庄司史生[2015]を用いた.また翻訳として片 山一良訳 2005,梶山雄一・丹治昭義 1974–1975を参照した.『清浄経』の節番号 をビルマ版については数字で,PTS (DN III pp. 117–141)については( )内に示す.『清浄経』の先行研究
2) 『清浄経』については本経の後半部分に〈無記〉が説かれることから,無記 について言及した諸論文で簡潔に言及される.本経で特に注目されてきた点 は,tathāgata(如来)の語義についての箇所である.しかし,その箇所は切り取 られて論じられるのみで,外道の批判への回答という本経の文脈と関連づけら れ た こ と は な い. ま た『大 智 度 論』『楞 伽 経』 な ど に 見 ら れ る〈二 夜 経〉 *dharmarātridvayasūtraの典拠としてLamotteが本経をあげている3). このように個々に興味深いテーマがありながらも,本経が内容全体にわたって 分析されることがなかった理由は,三枝充悳[2004: 57]が指摘するように「変 則的」な印象を受けるからであろう.しかしその構成を分析すると,本経は当 時,異教の遍歴行者やジャイナ教徒などから仏教に対してなされた批判に対し て,長部Mahāparinibbāna-suttanta『大般涅槃経』(長阿含『遊行経』)を第一に参照し,その他の初期経典の記述を踏まえながら,石上善応[1973: 22 n. 13]が簡潔 に指摘するように「整理」して構成された経典であると言える. また本経冒頭で述べられるジャイナ教の分裂については他の初期経典において も定型的に用いられるものの,本経の成立が他の長部経典より遅く,部派分裂・ 大乗興起の時代と近いと考えればより興味深い.本経および般若経の逆説表現に ついては将来的に詳細な研究がなされるべきであるが,本稿では紙面の許す限り において,阿含経と般若経に関する逆説表現に注目する.
『清浄経』と大乗経典との関係
本経の〈不定法〉 (aṭṭhita-dhamma)が般若経にどのように影響を与えたかについ て考察する前提として,『清浄経』と大乗経典の関係を指摘しておく.①『如来 秘密経』4)『楞伽経』の〈一字不説〉で用いられる〈成道から涅槃までの二夜の間 の説法〉および②『金剛般若経』14fの〈五種言〉(空海『声字実相義』の表現)は ANに用例があるものの,本経第25(28)節を踏まえている可能性がある.その他 にも第14–18(17–21)節は〈四依〉のうち〈文vyañjanaと義attha〉の展開を考える 上で重要である.「仏の教えの不安定さ(不住法)をいかに安定的に長く保ってい くべきか(久住addhaniyaṃ ciraṭṭhitikaṃ)」という課題をもつ『清浄経』は,「正法久 住」という課題を持つ大乗仏教徒にとって振り返るべき点の多い経典と見なされ たと筆者は推測する.長部
Pāsādika-suttanta(『清浄経』)の内容
『清浄経』の制作意図について筆者は以下のように考える.釈尊の死後かなり たち,他の長部経典も既に成立し,無記説も定型化した.そのような時代になっ て,仏教教団は外道から寄せられたいくつかの批判に答える必要があった.〈釈 尊の弟子が資具を所有していること(第19(22)節)〉や〈釈尊の弟子たちの修行が 苦行というより「安楽の実践にふけっている」(第20(23)節)〉ということに対し, 裸形などで物を所有せずに苦行を行う外道からの批判があったと思われる.本経 は第24(27)節で,外道から指摘された点に答えて,十四無記を三つの項目に分け て回答している(第26(30)節でtathāgataについて・第28–30(34–36)節で過去について・第 31, 32(37–39)節で未来について).『清浄経』の逆説表現①「見るものは見ない」
釈尊は第13(16)節でウダカ・ラーマプッタが剃刀のみについて説く「見るものは見ない(passaṃ na passati)」という語は「下劣で誤ったもの」であると否定する のに対し,「見るものは見ない」という語について正しい意味があるとする.こ こで釈尊が「見るものは見ない」という逆説表現を肯定して解釈していることは 注目される.さらにウダカ・ラーマプッタの「見るものは見ない」という話を剃 刀に限った点は本経で確かに否定されている.しかしその教説は〈文と義〉の関 わりで説かれる『大智度論』『楞伽経』の〈指月の譬喩〉とのつながりで興味深 い点がある.ウダカ・ラーマプッタは面と刃先とを対比し,カミソリの面を見る ものはカミソリの働きをする刃先を見ない,とする.つまり実際に効果をもたら すもの(真実)を見ないということであろう.本経は〈文と義〉との関係に特に 注目していることから,般若経を始めとする大乗経典は『清浄経』に見られるよ うなこのような逆説表現に注目したのではないかと筆者は推測する.
四大教法と四依のうち〈文と義〉の関係
『清浄経』の第14(17)節は,パーリ仏典の検索によって比較すると,『大般涅槃 経』『結集経』Saṅgīti-suttantaの表現を参考にして作成されたと思われる.『大般涅 槃経』『結集経』に見られない『清浄経』独自の表現は「集合し(sam.gamma),共に集まり(samāgamma),意味(attha)によって意味を,表現(vyañjana)によって表現 を」結集するというものであり、これが『清浄経』独自の課題であったと言える. さらに『清浄経』の第14(17)節は『大般涅槃経』の〈四大教法〉の箇所で用い られる定型表現を用いている5).『清浄経』は第14節に引き続いて,「梵行の永続」 を願い,第15(18)節から第18(21)節にかけて,〈文と義〉について詳細に説いて いるのは注目される.というのは初期経典で説かれる〈四大教法〉の大乗仏教の 〈四依〉への影響が指摘されているからである6).
般若経の逆接表現①
〈文と義〉の関係(指月の喩え)と四依について見てきたが,「見るものは見な い」という表現の問題に戻って,関連する般若経の例を示す.『八千頌般若経』ASP 76 Sa cet punar evaṃ saṃjānīte - na cittaṃ cittaṃ jānāti, na dharmo dharmaṃ
jānāti, ity api pariṇāmitaṃ bhavaty anuttarāyai samyaksaṃbodhaye / 「また,彼が『心は心を知 らない.ものはものを知らない』というように知るとしたなら,その場合も,無上にして 完全なさとりに 向が行われたことになる」
ASP 136–137 sarvadharmā ajānakā apaśyakā iti「す べ て の も の は 見 ら れ ず, 知 ら れ な い」 sarvadharmā hi (中略) śūnyāḥ / 「(その理由は)すべてのものは空だから」さらに如来が世界
を「見る」あり方について以下のように説明している.yadi (中略) na rūpārambaṇaṃ vijñānam utpadyate, evaṃ rūpasyādṛṣṭatā bhavati / 「…物質的存在を対象とした知識が生じない ならば…物質的存在は見られないということ(以下五蘊),」saiva lokasya dṛṣṭatā bhavati / evaṃ hi (中略) lokastathāgatena dṛṣṭo bhavati / 「それこそが世界が見られるということ 実に このように,如来は世界を見ているのである」 以上のように初期の般若経は認識に関わって,「見ない・知らない」ことを正 しく「見る」あり方とする.『清浄経』で「見るものは見ず」という外道が説い た表現を仏教側が取り込んでいることは,直接ではないものの,初期の般若経に 見られる①多くの逆説表現,②認識についての否定的表現,そして③「不住に住 する」という逆説表現につながっているのではないかと筆者は推測する.
『清浄経』の逆説表現②「釈 の弟子は安楽にふけっている」
『清浄経』のもう一つの逆説表現を取りあげる.それは外道からの批判を言葉 の意味を逆転させる形で釈尊が承認したものである.本経第20(23)節で「沙門の 釈子たちは安楽の実践に耽り住んでいるsukhallikānuyoga(中略)viharanti」として 異教の遍歴行者たちが批判している.それに対して,釈尊は「下劣,粗野,(中 略)涅槃のためになら」ない「安楽の実践」もあるが,沙門の釈子たちが実践し ているのはこれらではなく,「絶対的な厭離,(中略)涅槃のためにな」る「安楽 の実践」であるとする. ここでは長部と長阿含で返答の仕方に違いが見られるので,まず長部を見る. 釈尊は最終的に「安楽の実践」という語を外道が批判する否定的な意味での「安 楽」ではないと転換させて,「かれらは正しく語っているSammā te vo vadamānā」 としてそのまま肯定している.これも初期経典における逆説表現の一つというこ とが出来る.これは「安楽の実践」という言葉の「表現」は同じであるにも関わ らず,言葉の「意味」を転換したものといえる. この経典は〈文と義〉との関係を重点的に扱っているだけに逆接的に意味を転 換していることは意図的であると考えられる. 一方で,長阿含『清浄経』は外道の批判に対して,「そのように言ってはならな い(莫作此言,T1.74c7)」と直接的に否定して,続けて説明的に釈尊による「呵責」 と「称誉」の場合の二つに分けて説き,長部のように逆接的に説かない.長阿含 は法蔵部のものとされる.このような変更は漢訳時や漢訳後の編集ではなく,こ の箇所がいずれかの形で一旦成立した後に,いずれかの部派によって変更された ものと筆者は考える.そしてこのような変更を許容することが起こり得たとすれば,次の不住法への対応も別の反応の可能性(長部や長阿含経では起きなかったが), つまり般若経による「不住」の積極的な評価への道を開いたと筆者は推測する.
不住法
aṭṭhita-dhamma 長部Pāsādika-suttantaでは「見るものは見ず」「安楽の実践に耽り住んでいる」 という外道の言葉を仏教側は最終的に取り込んでいた.一方で,第23(26)節で外 道の修行者の「沙門の釈子たちは不住法者として住んでいる」とする批判に対し て,釈尊は弁明する.釈尊は長部では外道からの指摘に対して,直接は否定しな いが,弁明して,堅固な「インドラの柱,鉄の柱」に喩える.一方で,長阿含経 は「そのようにいってはならない(莫作是説,T1.75b22)」と否定した上で「常住不 動」と述べる.ここで揺るぎないことを長部はacalo,長阿含は「不動」として いることが注目される.というのも後に検討する般若経の「不住」asthāna, asthita の語は「不動」acalita, acālyaとともに使われるからである. 外部からの批判とはいえ,釈尊の教えが「不住法」とされているのは注目され る.仏教教団は釈尊の没後に他の教団との競争が激しくなるにつれ,外部からの 批判にどのように答えるかが課題になったはずである.その答え方の一つは『清 浄経』のように釈尊の教えは不安定なものではなく,「揺るぎない安定したもの」 とすることである.しかし外部からの批判は批判された側の考えの特徴をかえっ て的確に表しているとも言える.「不住」とされた釈尊の教えを積極的に認める 方向が般若経の「不住」という考えに継承されたと筆者は考える.般若経の逆接表現②
般若経の特徴として「無住」「不住」という考えがある.般若経はその考えに 基づき,「とどまらないという仕方でよくそこにとどまっている (Skt: susthito sthānayogena住無所住,住不住法)」という有名な逆説的な表現を用いる.それは松 本史朗[1989: 229–236]が指摘するように『宝性論』にまで受け継がれる. 般若経には「不住」という考えが主として用いられる.それに比べて数は少ないが tathāgatasthānaṃ(ASP 19, 『小品』如来住T8.540b,如来のとどまり方),dharmadhātusthiti (ASP 102, 法性常住T8.553b),lakṣaṇāni sthitāni(ASP 135諸相常住T8.558c)という表現に見られるようにsthiti/sthita/sthānaが肯定的に使われている.このように般若経に
は「とどまる」ことを否定する面が見られるとともに積極的に評価する面が見ら れる.これらのうち,積極的表現は時代を経て,『楞伽経』の〈二夜経〉の箇所
と思われる.
不住と不動
般若経では「不動」という表現が「不住」という表現とともに用いられる箇所 がある7).PvsP 1–2: 110 asthānayogena acālyayogena「以不住法,不動法故」(『大品』 T8.260c3)ここでは「不住」asthānaと「不動」acālyaという語が同時に見られる ことに注目したい.aという否定辞をつけつつ,安定的な構造を表現する「不 動」という語は般若経で積極的な意味を持つ.「不住」が構造的な不安定性を 意味するのに対し,「不動」は安定性を意味する.この両者を同時に用いるのは 前者の不安定性に後者の安定性を与えようとしていると考える.一方で,「不動」 が構造的な安定を表すsthitiとともに用いられる.ASP 102 (『小品』T8.553b17)acalitapāramiteyaṃ (中略) dharmadhātusthititām upādāya / 「さとりの世界に安住してい ることによって,これは無動の完成であります」 このように般若経は一方的に不 安定さを打ち出すのではなく,安定した構造をも積極的に示そうとしている.
まとめ
『大般涅槃経』など初期経典の編纂時から「正法(梵行)が久住すること」が求 められていた.初期経典の中でも早い段階に成立した経典を受け伝えていた仏教 教団にとって,「不住法に住している」という外道からの批判は一面において仏 教の特徴をよく捉えたものであった.この批判に対して,仏教内の様々なグルー プは異なる反応をしたと考えられる. 最後に簡潔に思想史的な意義について言及する.この問題で扱った資料は袴谷 憲昭氏・松本史朗氏が提起した批判仏教・如来蔵思想批判で扱われたものが多 い.この批判仏教・如来蔵思想批判の提言を踏まえて,末木文美士は[1996: 286]「仏教が他の宗教に較べて特徴的なのは,まさにこのような不安定性4 4 4 4を構造 上の必然性として内在させている点に求められるのではないだろうか.」(傍点筆 者)としている.外道による「不住」という批判は仏教の特徴を的確に言い表し ているといえる.この批判に答える形で,否定辞を多用する般若経では,aの否 定辞をともないながらも安定的な構造を著す「不動」(『清浄経』を継承)を併記し て,本来は不安定さを意味する「不住」という語に新たな意義を持たせていった と筆者は考える.(注は多くを省略した)1 長尾雅人[1978: 550]は『般若経』やその系統の経典に見られるものをチベット訳 『維摩経』に基づき「矛盾した表現(vyatsya-pada)」とする.本稿では「逆説表現」の定 義を大まかに用いる. 2 生野昌範氏より『清浄経』に対応するガンダーラ出土のサンスクリット写本が存し, 写本研究がなされていることを御教示いただいた.本稿は印仏研発表時未参照. 3 Lamotte[1976: 12][1981: 30 n.2] 4 『如来秘密経』の一字不説について伊久間洋光[2016]参照. 5 長部と表現を異にする長阿含経『清浄経』もこの箇所で長部Mahāparinibbāna-suttanta に対応する長阿含経『遊行経』の表現を参照している.丘山新・他[2001: 252 n. 62, 254 n. 77]は長部には言及しないが,長阿含経『清浄経』の表現が『遊行経』と類似するこ とを指摘する.このことは部派を異にしても『清浄経』のこの箇所は『大般涅槃経』を 参照していることを示す. 6 向井亮[1987: 104–105],荻原雲来[1938: 899]. 7 『維摩経』にも見られる.VKN p. 22 12b4 bhūtakoṭipratiṣṭhitaḥ atiantācalitatvāt「法住実 際,諸辺不動故」(T14.540a) 〈略号表〉
パーリ文献はPTS版を使用し,略号はA Critical Pali Dictionaryに従う.
ASP Aṣṭasāhasrikā Prajñāpāramitā. With Haribhadra's commentary called Āloka. Ed. P. L. Vaidya,
Darbhanga: The Mithila Institute, 1960.
PvsP Pañcaviṃśatisāhasrikā Prajñāpāramitā I∼VIII. Kimura, Takayasu, ed., Tokyo: Sankibo Buss-horin, 1986–2007. VKN Vimalakīrtinirdeśa.『梵文維摩経―ポタラ宮所蔵写本に基づく校訂―』大正大学 綜合仏教研究所梵語仏典研究会編,大正大学出版会,2006. 〈参考文献〉 石上善応 1973 「パリバージャカについて」『三康文化研究所年報』4/5: 1–27. 伊久間洋 光 2016 「一字不説――『如来秘密経』の神変を中心に」『密教学研究』48: 1–14. 丘山 新他 2001 『現代語訳阿含経典――長阿含経――』第4巻,平河出版社. 梶山雄一・丹 治昭義訳 1974–1975 『八千頌般若経』中央公論社. 片山一良訳 2005 『パーリ仏典 長 部(ディーガニカーヤ)パーティカ I』大蔵出版. 三枝充悳 2004 『初期仏教の思想』 (三枝充悳著作集第2巻)法蔵館. 庄司史生 2015 「第四章 基本的般若経の構造対照 表」小峰彌彦・勝崎裕彦・渡辺章悟編『般若経大全』春秋社,195–210. 末木文美 士 1996 『仏教――言葉の思想史――』岩波書店. 長尾雅人 1978 「空性に於ける 余れ るもの 」『中観と唯識』岩波書店,542–560. 松本史朗 1989 「『般若経』と如来蔵思想」 『縁起と空』大蔵出版,225–297. 向井亮 1987 「〈四依〉の教説とその背景」『印度哲学
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1981. Le traité de la grande vertu de sagesse de Nāgārjuna (Mahāprajñāpāramitāśāstra),vol. 1. Uni-versité de Louvain, Institut orientaliste.
(平成三十年度科学研究費(16K02169)による研究成果の一部)
〈キーワード〉 Pāsādika-sutta,『八千頌般若経』,『大般涅槃経』,四依,不住,不動