経 済 学 説 に お け る 有 機 体 思 想
川 田 俊 昭
本稿は︑既発表の﹁後進国における自由︑その諸条件 ‑ フ‑‑ド‑ツヒ・‑ストの場合 ‑ ﹂ (その1)︑
(その二)︑(その三)に継ぐ︑富を改めての方法論的補強ともいうべ‑︑(その四)に相当する.
但し︑本稿の一千マそれ自体については︑先の拙稿﹁学説並びに方法I‑,.<.シュムベーター﹂ (経営と
経済'第二五号)の該問題に関わる1註記に連続するものである.
有枚休息想 ‑ それは︑私をして言わしむれば︑通常謂うところのドイツ浪漫派即ちフィヒテ'シェリングへ
アダム・ミューラ 或は ‑ 有機体思想としては正目の ‑ コント︑スペンサー などに限定されるもの
ではない︒‑ストIIマルクス‑‑ゴットル︑ゾムバルト'ウェーバー‑‑マーシャル︑シュムベータ1‑‑ハ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
ロッド‑‑等'今日に至る(経済学を中心とした)社会動学乃至発展理論の大凡に共通する不可欠な基礎'秘め
ヽ ヽ ヽ ヽ
られたる実質である︒
又︑例えば'‑ストを有機体思想と呼ぶことは容易であるLt従来その様な慣行も一部にはあったものの︑全
経 営 と 経 済
‑'‑ /¥
然と云ってよい位(行文に沿っての)その根拠づけ・論拠づけは︑なされていなかった︒本稿の最初から始まる生
物学による援用の一系列︑リストの﹃国民的体系﹄就中第十五章へのその集約的適用は︑その様な曲芸の大胆な
試みである︒些少でも成功すれば︑拍手喝采!
そして︑更にその様なリストが︑へlゲルやマルクスに︑換言すれば︑発展の原理(の原理)としての弁証法
に結びつく可能性をも暗示される︒へlゲル︑マルクス両者の基本における有機体的
(H
生物学的)アナロジー
の発見は︑既に或る程度の見通しがつけられつつも︑おそらく今後における超人的努力を要する・最も困難な課
題となろう︒その成功は︑従来におけるが如き観念・論理の遊戯としての︑或は﹁魔女の九九﹂としての弁証法
の暗諦乃至学習ではなく︑真に実感ある弁証法の││従って又へlゲルやマルクスの
ll
理解
乃至
把握
であ
る︒
本稿では︑単に端柏としての問題提起を︑しかもその単なる素描を行う︒その尚末了の過半︑そして引続く
それらの解決は︑幼稚・不完全極まるものを予想されつつも︑次稿以降に予定・準備されている︒
本稿を支配する私のモットーは︑いつもながらの次の言葉である││
﹁共
感な
くし
て︑
理解
なし
!﹂
﹁生物はすべて︑動物でも植物でも細胞から出来ている︒生物が生きているのは︒それを構成している細胞の一つ 一つが生きて生活しているからである︒生命は一つ
CE q
え ロ な と 言 う 乙 と の 根 拠 は
︑ 実 は 乙 の 細 胞 学 説 を 侯 っ
て︑初めて確立されたのである︒﹂(藤井隆︑﹃生物学序説﹄︑昭和四O
年︑二頁) 我々の体を初め︑多くの生物体は︑多くの細胞の協同体
855
ロ巳々である︒(藤井︑前掲書︑三頁) 細胞はばらばらに集って直接的に有機体を形成しているわけではない︒同種の細胞が先づ一定の並び方をして︑所謂
と云って︑
﹁組織﹂をつくる︒そして︑その組織の中で︑
それを構成している細胞は互いに関連しつつ︑個々の細胞が示す より更に一ヨリ高次の機能を示す様になる︒我々の体について言えば︑
同種の細胞が集って一つの組織を形成︑
これらの器官の統一としての﹁個体
E
︿EE CE
了H数種類の組織が集合して脳︑胃︑賢臓:::等の器官をつくり︑
z e i p M m
とが形づくられているわけである︒(藤井︑前掲書︑
一三
│四
頁)
・
‑﹁民族乃至国民なる一つの
全体:::は恰も生活力ある統一的有機体と看似され得るし︑個人はその細胞として︑諸国体はその諸器官として︑全
体の有機体の内部においてのみ存立し得る︒﹂(武村忠雄︑
年)
﹃独
逸経
済学
﹄︑
慶応義塾大学講座・経済学︑昭和二ニ
ポアンカレは︑次の様な意味の乙とを述べているD﹁我々は実在を求めるが︑実在とは一体何であるか︒生理学
者は有機体が細胞より成ることを我々に教え︑化学者はこの細胞そのものが原子より成ることを附加する︒これは︑
その原子或は細胞が実在を構成するというのか︑又は少くとも唯一の実在を構成するという意味であろうか︒.
これらの細胞の並び方︑個体の統一の生ずる根源も又実在︑否!個々の要素より遥かに興味ある実在ではあるまい
か︒﹂(藤井︑前掲書︑一四頁):::﹁個体の統一の生ずる根源﹂:::生命力(我々にとって何より大事なことは︑
有機体が自らの勤力を内に蔵していることである)
‑﹁
生産
力﹂
︒
﹁国民は個々の人間の偶然的堆積と解さ
れずして︑否!それは独自の概念であり︑成長し来った有機的な︑即ち臭った機能を営む諸部分から成り立った全
体である︒﹂(フラウエンドルファl︑﹃国家社会主義の基本思想﹄︑一九三三││武村︑前掲書より)
体内で内部環境を維持しようとする生理的作用は非常に複雑な過程で︑そこには脳︑神経︑心臓︑肺︑賢臓︑牌臓
(今日で云えば︑全んどすべての内分泌器官)その他すべてが協同的に働いている︒(藤井︑前掲書︑
一四
八頁
) 力 日
えて
︑
その内部環境の恒常性(従来私のよく言及するll所謂ホメオスタシス
g g g ω
宮巴
ω )
が保たれている限り︑
経済
学説
にお
ける
有機
体思
想
七
経 営 と 経 済
)¥
生物体は外界の変化から自由であり得る︒クロード・ベルナi
ル日
く︑
﹁内部環境の定常性は︑自由なる生の条件で
ある
︒﹂
(藤
井︑
前掲
書︑
一四
七頁
):
::
自由
::
・
‑﹁
自然
的自
由﹂
(所謂個人主義的自由とは又異った)︒
﹁我々非アリアン人種(即ちゲルマン民族)は︑国家の下に専ら国民の生々たる有機体を考え得るのであり︑国家は
この国民の維持を保証するに止まらず︑更に又その精神的並びに観念的能力を発展せしめ︑以って最高自由に導くも
ので
ある
︒﹂
(ヒ
ット
ラー
︑
﹃我
が闘
争﹄
)
﹁国家は合理的自由の具現であり︑
その自由が自らを客観的形式の中
に実現し︑認識したものである︒:::国家とは︑人間の意志とその自由の外部的顕現における精神的理念であ
絶対的自由を自由││自身の絶対的形式そのものを自らの
意図として持つような自由ーーの際限なき自己規定として実現することである︒﹂ る
︒﹂
( ヘ iゲル)
﹁ド
イツ
精神
::
:そ
の精
神の
目的
は︑
生物が﹁生きている﹂ということは︑それが個体のレベルであれ︑又細胞のレベルであれ︑絶えず外界からの働き
かけに応答しつつ︑積極的にそれに立向ってゆき︑自由且つ独立の生を維持し続けようとすることである︒(藤井︑
前掲
書︑
一O六l七頁)﹁生あるものは︑外的影響の極めて多様な条件に自己を適応させ︑しかも一定の獲得された
決定的な独立性を失わないという天賦を有する︒﹂
‑﹁
神聖
なる
使命
は︑
至国民)そのものを維持し︑発展させることであり︑又その国民的特性を破壊してこの有機体を阻害し︑
( ゲ
l
テ)
・
この全体(即ち民族乃
そのために
滅亡という刑罰を刈り取らざる様になす乙とである︒﹂(フラウエンドルファl︑前掲書)
リストにおける﹁国民体﹂︑国民経済も︑又斯かる固有の﹁個体﹂即ち有機体として現れる︒﹁社会的構成体と有
機体とは相互に極めて近いDどちらも鋭い観察眼を向ければ一様に働く統一体であり︑自ら働いて獲得した存立︑い
わば内面的につくり出された生を保ち︑その周囲に適応している︒﹂
(ゴ
ット
ル
﹃民族・国家・経済・法律﹄
l l
有機
体忠
怨と
して
のゴ
ット
ルに
つい
ては
︑拙
稿︑
﹁経
済学
の方
法﹂
(そ
の三
)︑
経営
と経
済︑
第九
一号
参照
)
リストの云う︑﹁個人と人類との聞には︑その特殊の言語と文学とを︑その固有の血統と歴史とを︑その特殊の風
俗と習慣・法律と制度とを︑その存在・独立・完成及び永続に対する要求を川又区画された領土を有する国民が介在
している︒それは精神と利益との無数の紐帯を通して独立に存在せる一つの全体に結合し︑互いに法律を承認し合
い︑そして今のところ未だ自然的自由を保持しつつ全体としては同種の他の諸社会と対立し︑従って現在の世界情勢
の下では︑ただ自らの力と手段とによって独立不罵を主張し得るところの一つの社会である︒﹂(リスト︑
﹃政
治経
済学の国民的体系﹄︑正木訳(勤草書房版)二五一頁)
又云
う︑
﹁イギリスが工業・航海業及び商業においてなし遂げた飛躍は︑適当な領土・国力及び知識によって工業
生産に適している国民がこの工業上の支配国と競争する乙とを威赫して中止せしめる乙とが出来ない︒工業・商業及
び航海業は︑現在が過去を凌駕しているのと同じ程度に︑現在を遥かに凌駕するであろう未来に向って進んでいる︒
ただ我々は︑偉大なる国民の将来を信じ︑乙の信念を抱いて前進する勇気を持たなければならない︒しかも特に︑先
づ将来の世代にその最も豊富な果実を与えるであろう樹木を現在において既に植え付け保護するに足るだけの国民精
神を持たなければならない︒少くとも一般需要品に関しては先づ自国民の国内市場を獲得し︑熱帯の生産物をその代
償としては自国の工業品によって支払われるが如き諸国から直接に輸入する様に努力しなければならない︒特にこれ
は︑ドイツ国民が遠くフランス人や北アメリカ人の背後に︑否!ロシヤ人'の背後に立たないつもりならば︑ドイツ
商業同盟の解決しなければならない使命である︒﹂(リスト︑前掲吾︑訳二七一頁V
外界に対し︑自由且つ独立であるということは実に生の特徴である口(藤井︑前掲害︑
一四
七頁
):
::
‑﹁
独
経済
学説
にお
ける
有機
体思
想
九
経 営 と 経 済
立や勢力の観念は︑国民の概念とその成立を共にする︒﹂(リスト︑前掲書︑
及び海外植民地を通して国民にその幸福の増大を保証するのみではない︒それは内面的幸福と国民の全存在││それ 訳二五八頁)
Z、照
治、〉
的、
勢、
力、
は 外 国 貿 易
は物質的富とは比較にならぬ程重要である
ll
ーとの保有をも保証する︒﹂(リスト︑前掲書︑訳二六二頁)
我々の体内では︑各組織はそれが正常である限り︑厳密に同種組織細胞に共通な或る情報を交換し合っていて︑そ
れによってその固有な機能や成長が調節されているものと思われる︒各組織細胞は各々その自己ω色町を認識する能
力を具え︑その組織特異性を保っているともいえる︒:::正常な動物にあっては︑卵細胞から出発した分化過程は組
織の特異性が確立されるに及んで初めて完成され︑ここに細胞の協同体としての個体が出来上ることになる︒:::生
物が健康で正常である限り︑厳密にこの様な組織特異性を保たれているのである︒個体としての秩序統一もこの様な
基礎の上に建立されているものと考える乙とが出来る口(藤井︑前掲書︑三二l三頁):::細胞を結合しようとする
力︑それは究極的には一つの有機体(個体)を形成しようとする傾向の表れに他ならない︒(藤井︑前掲書︑
頁)::::::﹁共同の目的を遂行するために個人の力を統一することは︑個人の幸福を粛す最も有力な手段であ
る︒個人はその仲間の人聞から孤立し分離しては徴弱無援である︒社会的結合を成す人間が多ければ多い程︑又統一
が完全であればある程︑その生産物即ち個人の精神的及び肉体的福祉は一層大きく且つ完全である︒﹂(リスト︑前
四
掲書︑訳五六頁)
生物が個体として生きていくためには︑全身の各器官が互いに協調して︑全体としての統一を保っていかなければ
ならない︒(藤井︑前掲書︑一五七頁)・‑﹁国民の統一が永続的な国民幸福の根本条件である︒﹂(リスト︑
前掲書︑訳二三九頁)
従って︑斯かる国民体乃至その有機的機能を没却し︑両極端の個人と人類︑しかもその生産物(無機物)をのみ強
調する古典派の体系(殊にリカアドの体系:::スミスについては必ずしもそうでない
114
リストには誇張がある︑と
私は思うが:::)は︑少くとも斯かる見地に立つ限り︑完全に誤っていることとなる︒
﹁学
派の
体系
は︑
::
:三
つの
重大な誤謬に陥っている︒第一は根底なき高民主義であって︑それは︑国民体の性質を認めてもいなければ︑又その
利益の充足を考慮してもいない︒第二は死せる物質主義であって︑それは︑いたるところで主として物の交換価値に
注目し︑国民の精神的及び政治的の・現在及び将来の・利益並びに生産力を顧慮していない︒第三は分裂的な分離主
義及び個人主義であって︑それは︑社会的労働の性質及び協力の作用のヨリ高き結果を認めないで︑根本においては
社会即ち全人類llそれが特定の諸国民社会に分たれていない場合にはーーとの自由交易によって発展するであろう
私的産業のみを説明している︒﹂(リスト︑前掲書︑訳二五一頁)
メリカ第一の代弁者でコロンビア大学総長のトlマス・クlパlは︑国民なるものの存在をすら否認している︒彼は ﹁アダム・スミスの意味する様な自由貿易の北ア
国民
を以
って
︑
﹃ただ説明を省くためにのみ作られた文法上の発明であり︑何等の実在性を持たずして単に政治家の
頭脳内に閃く想像的存在物である﹄と称している︒﹂(リスト︑前掲書︑訳一九六頁)
﹁国民経済の概念及び本質が認識され得なかったのは︑経済的に統一された国民が存在しなかったことと︑国民と
いう特殊な又一定した概念が社会という普遍的な又空虚な概念
1 1
それは国民に対して応用されると同じ様に︑全人
類もしくは一小国又は各都市にも応用され得る概念iーによっていつも代位されていた乙とによるのである︒﹂(リ
スト︑前拘書︑訳二七三頁)
と同時に︑有機体が個々の細胞の単なる集合でない如く︑国民は単なる個人の集合ではない︒﹁国民の生産力の総
市山斗也︑
dh
tp
b‑
‑
︹古典派によって想定された如く︺各々単独に考察されたす・べての個人の生産力の集合と一致するものではな
く︑この生産力の総額は︑主として社会的及び政治的事情によって︑特に国民の分業と生産力結合とをその国内にお
経済学説における有機体思恕
四
経 営 と 経 前
四
いて実現したその程度によって制約されている︒﹂(リスト︑前掲書︑訳二四六頁)
﹁ス
ミス
やセ
イは
︑
保護関税に
よってその工業を奨励しようとする国民を︑自己の幸福を促進するために自分の靴を作ろうとする仕立屋や︑戸口に
関税を設けようとした靴屋になぞらえている︒学派の一切の誤謬におけると同様に︑この点においても又トl
マス
・
クlパlはアメリカ保護関税制度に反対する彼の著書の中で次の様に極論している︒﹃政治経済学は︑﹄と彼は云
﹃あらゆる個人の私経済学と略同一意義のものであり︑政策は政治経済学の本質的な構成部分ではない︒社会は
それを構成している諸個人とは全く別個のものである︑と信ずるのは愚かなことだ︒個人は何れも自己の労働及び資 つ
本を如何に用うべきかを最もよく知っている︒社会の富はすべての個人の富の集合に他ならない︒そして各個人が最
もよく自分自身のことを配慮するならば︑各個人が最も多く放任されているが如き国民が最も富裕であるに相違な
い﹄と︒:::否!私経済において愚鈍であるかも知れぬものが︑国民経済においても英知であることが出来る︒又
逆の場合もある︒蓋し︑
それ
は︑
一人の裁縫師が国民ではなく︑一国民が裁縫師ではなく︑又一家族は幾百万家族の
結合とは全く別個のものであり︑一軒の家は広大な国土とは全く別個のものである︑という極めて単純な理由からで
ある︒﹂(リスト︑前掲書︑訳二四
Ol
二頁
)
原生動物(単細胞動物)についてはともかく︑一般に個々の・単独の細胞・組織は原則として考えられない如く︑
﹁個人は主として国民によって又国民の内において精神的教養・生産力・安全及び幸福を獲得し得る様に︑人類の幸
福は諸国民の文明及び登場を媒介としてのみ考えられ又可能なのである口﹂(リスト︑前掲書︑訳二五一ー二頁)
有機体成立における諸条件が異るに従い︑有機体は夫々異った特有の生を保っている︒と共に︑有機体はそれ自身
の生をーーその諸条件の不利・有利に拘らず
1 1
貫徹・完成せんと努力しつつある︒:::生物界で第一次的なこと
は︑たとえそれがどんなに小さい生命であっても︑それが﹁存在すること﹂なのである︒生物とは︑誰もその理由を
知らないけれども︑絶えずそれ自身の存在の維持・充実を志向している何ものかなのである︒(藤井︑前掲書︑
五頁)国民の場合︑又同じである︒﹁諸国民の状態には今のところ無限の差異が存する︒即ち彼等の間には︑巨人と
依儒︑正常体と不具者︑文明人と半文明人と未聞人︑が認められる︒各個人にとってと同じく︑自己保存の衝動・完
四
成への努力が自然から植え付けられている︒未開国民を文明化し︑弱少国民を強大化し︑とりわけ彼等に存立と永続
とを保証することが︑政策の使命である︒国民の経済的育成を成就し︑これを将来の世界社会へ入るの準備をなすこ
とが︑国民経済学の使命である︒﹂(リスト︑前掲書︑訳二五Ol一頁)﹁国民体の維持・発達及び完成は国民の努力
の主要対象であり︑又そうでなければならぬ︒﹂(リスト︑前掲書︑訳五七頁)
いわば︑リストにとって﹁政策﹂とは(通常我々の考える如く)決して他律的なものでなく︑ーーー我々の体の﹁身
体 の 智 慧 三 包
O B O同 吾
σσ
身﹂(キヤノン)の存在:::内分泌系と自律神経系の作用における如くo
ll
国民体そ
のものの本然的要求︑自然なのである︒(リストのこの考え方は︑後にゴットルの﹁存在論的価値判断﹂として一つ
の結実を見る︒)例えば
│
│
l﹁自由貿易は自然的に作用し得るためには︑先づ後進国民は︑イギリス国民が人為的に
高められたのと同一の発展段階にまで︑人為的方策によって高められねばならないであろう﹂とリストが言う時
まさに彼は斯かる意味で書いているのである︒或は
ll
l﹁
関税
制度は︑人々の主張して来た如く︑思索的な頭脳の発明品でなくて︑諸国民がその存続及び繁栄の保証又は優越せる
国力を得んとする努力の当然の結果である﹂と言う時(リスト︑前掲書︑訳五九頁)︑又同じである︒従って又︑リ (
リス
ト︑
前掲
書︑
訳二
O六i
七頁
ーー
ー傍
点筆
者)
︑
ストが彼の最初の著作を﹃自然的体糸﹄︑第二の著作を﹃国民的体系﹄と呼ぶ時︑その実︑彼は同一の体系を指示し
ていることになる︒﹁思恕的には両者は全んど一致している︒﹂(ワーゲンブュl
ル ︑
﹃国民経済学における体系的
思考
i
l一つの方法史的考察﹄)
経済学説における有機体思想
四
経 営 と 経 済
四 四
生物は絶えず外界からの刺激に応答(反応)しながら︑場合によっては︑積極的に外界に働きかけるととによりそ
され
る以
上︑
の生(成長・発展﹀を獲保している︒(藤井︑前掲書︑
それを観察するに当っては︑当然不断の成長・発展の過程にあるものとして歴史主義的立場をとらなけ
一五
七頁
):
::
‑﹁民族乃至国民が一個の有機体と看倣
ればならぬ︒﹂(武村︑前掲書)
進化論の教えるところによれば︑我々人間を含めて生物が現在この地球上に存在するのは︑生物が簡単なものから
次第に複雑なものに発展し︑同時に︑多数の種類に分れてきた結果である︒従って︑生物の一つの重要な特徴は︑そ
れが歴史的にここにこうして存在しているものだということである︒(藤井︑前掲書︑
一七
九l八O
頁)
﹁経済的関係において諸国民は次の如き発展段階を経過しなければならない︒即ち原始的未開状態︑牧畜状態︑農業
状態︑農工業状態及び農工商業状態︑これである︒諸国民の産業史の示すところによれば
l
lそしてイギリスの産業
史ほどこれを明瞭に示すものはない
1 1
1未開状態から牧畜への︑牧畜から農業への︑農業から工業及び航海業の初期
段階への移行は︑先進諸都市及び諸国との自由貿易によって最も迅速且つ有利に実現されるものであるが︑しかし完
全な工業力や有力な航海業や大規模な外国貿易は︑国家権力の干渉によってのみ獲得されるものである︒﹂(リスト︑
前掲書︑訳二五四│五頁)
斯くして︑リストによれば︑経済学は(その静学・勤学の何れにおいても)重農主義者や古典派におけるように政
策(政治)を離れて考えることは出来ないD
﹁ケ
ネ
lの論じているものは︑明らかに高民経済学即ち全人類が如何に
すれば幸福となることが出来るかを教える科学であって︑反対に政治経済学即ち或る特定の国民が特定の世界情勢の
下において如何にすれば農業・工業及び商業によって幸福と文明と勢力とを招来し得るかを教える点に限定されてい
る科学ではない︒:::アダム・スミスもケネ!と同じく︑政治経済学即ち特定の国民がその経済状態において進歩を
遂げるために従わなければならない政策を論ずることを︑使命としてはいなかった︒﹂(リスト︑前掲書︑訳一九
ー四
頁)
が︑リストにあっては︑経済学は文字通りの意味での﹁政治経済学﹂なのである︒政治経済学は﹁その名称に値す
べきであるとすれば︑政治も経済も相等しく結合されねばならぬ︒﹂﹁我々が論理の諸法則と事物の性質とに忠実で
あろうとすれば︑私経済学と社会経済学とを対立させ︑後者において政治経済学即ち国民経済学ll│国民なるものの
概念及び性質から出発して︑或る特定の国民が︑現在の世界情勢の下で又その国民特有の事情の下で︑如何にすれば
その経済状態を維持し改善し得るかを教えるーーーを︑高民経済学即ち世界経済学
l
地球上のあらゆる諸国民が永久l
平和の下に存続する唯一の社会を構成するという前提から出発するーーから区別しなければならない︒﹂(リスト︑
前掲書︑訳一九七頁)
﹁国民経済学は︑:::諸国民の現在の利害と固有の状態とを認め︑如何にすれば各国民を経済発達の一定段階││
乙の段階においτ︑発達程度を同じうする他の諸国民との結合︑従って自由貿易が︑各国民によって可能となり有用
となるであろうーーに到達せしめ得るかを教える科学であるD﹂(リスト︑前掲書︑訳二O二頁)
では︑リストの﹁国民経済学﹂の志向せる国民即ち﹁正常的な国民﹂
全雇用﹂︑ハロッドの﹁適正成長率﹂を別にイメージせよ!)とは︑一体如何なるものであるか︒
化すればする程︑その個体性が顕著となってくる︒││藤井︑前掲書︑ (スミスの﹁自然価格﹂:::ケインズの﹁完
(生物は高度に進
一六
八頁
)
リストはその諸特徴を次の様に
述べている︒﹁正常的な国民は︑共通の言語と文学とを有し︑種々の資源に富み︑広大にしてよく整った領土と大な
る人口とを有している︒農業・工業・商業及び航海業は︑ここでは均等な発達を遂げている︒芸術や科学・教育施設
や普通教育は︑物質的生産と同じ高さに在る︒憲法・法律及び制度は︑その所属民に高度の安全と自由とを与え︑宗
経済学説における有機体思想
五四
経 営 と 経 済
1444
︑ ︑
ロト﹂/
教心・倫理及び幸福を促進する︒即ち一言でいえば︑市民の福祉を目的としている口それはその自主及び独立を防
衛し︑その外国貿易を保護するに足る陸海軍を擁している︒その国民には︑後進諸国民の文化に働きかけ︑J自国の過
剰人口と精神的及び物質的資本を以って植民地を建設し︑新しい国民を生み出す力が具わっている︒﹂
(リ
スト
︑
前
掲書︑訳二五二頁)
(有機体における根本条件︑
とり
わけ
︑
血 と 土
しー
﹁自然と民族Z
巳ロ
円ロ
ロハ
日間
ω ω ω σ
﹂←│)
﹁大
なる
人口と種々の富源に富む広大な領土とは︑正常的な国民の本質的な必要物であり︑それらのものは︑精神的教養並び
に物質的発展及び政治的勢力の根本的諸条件である︒:::小国はその領土内において諸程の生産部門を完全に発達せ
しめることは不可能である︒ここでは如何なる保護も私的独占となる︒それはただ︑ョ・リ強力な諸国民との同盟によ
って︑国民の利益の一部分の犠牲によって︑
又非常な努力によって︑辛うじてその独立を維持し得るのである︒﹂
(リスト︑前掲書︑訳二五二│三頁)
(再
び︑
血と
土
﹁すべての人間史の前提は︑勿論生きた人間的個体の生存である︒従って確認され得る
第一の事態は︑これら個人の身体的組織と︑そして︑乙れによって与えられるところの︑その他の自然への彼等の関
係とである︒:::人間自身の肉体的性状:::人間の眼の前に見出される自然条件即ち地質学的・地理学的・風土的そ
の他の諸関係:::すべての歴史記述は︑とれら自然的な基礎と︑歴史の行程での人間の行動によるこれらのものの変
更とから出発しなければならない︒﹂(マルクス︑﹃ドイツ・イデオロギー﹄)
リストの場合︑経済条件と他の諸条件との聞には︑マルクスの唯物史観を初仲間させる一つの関連がある︒即ち︑云
vつ ︑
﹁国民の文明・政治的伸張及び勢力は主としてその経済的状態によって制約される︒:::彼等の経済が発展し完
成すればする程︑それだけその国民の文明と勢力とは増大する︒﹂(リスト︑前掲書︑訳五七頁)
生物は空気なしには生きて行けない︒水なしでも︑食物なしでも生きて行けない︒(藤井︑前掲書︑
一七
O
頁)
・
‑﹁生きるのに必要なのは何よりも先づ食う乙と︑飲む乙と︑住む乙と︑着ること︑その他尚いくつかのこと
である︒﹂(マルクス︑前掲書)││l社会における経済の重要は︑むしろ我々における生物学的実感である︒
ことま﹃人の生くるはパンのみに由るにあらず︑神の口より出づる凡ての言に由る︒﹄まこと︑生物学的生のみが我々の
生活のすべてでないことは確かである︒(すべて︑と考える世の単細胞人聞に災いあれ!)が︑パンなくしては生き
ること能わざるのも又我々における真実である︒││むしろそれが我々の現実である︒ロ
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巳ω
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(ここで報告しているのは君のことなのだよ!)﹁従って第一の歴史的行為はこれらの欲望を充すための手段の産
出︑即ち物質的生活そのものの生産である︒しかもこれは︑ただ人間の生命をつなぐためにも︑今日尚数千年前と同
じく日々刻々やり遂げられねばならない歴史的行為であり︑あらゆる歴史の根本条件なのである︒﹂(マルクス︑前
掲書)
﹁人間は意識によって︑宗教によって︑その他任意なものによって動物から区別されることが出来る︒しかし人間
自身は︑彼等が彼等の生活手段を生産し始めるや否や︑自分を動物から区別し始める︒この一歩は︑彼等の肉体的組
織によって制約されているものである︒人間は︑彼等の生活手段を生産することによって︑間接に彼等の物質的生活
(傍点一部筆者)そのものを生産する︒﹂
又︑生物の個体は︑他の個体から全く隔絶されて生活することはない︒同じ種類の又は異る種類の動物個体は︑そ
の種に適した生活場所において︑色々な個体問の相互関係で結ぼれた﹁集団宮古色己目︒ロ﹂を形づくる︒又一つの勤
経済
学説
にお
ける
有機
体思
想
四七
経 営 と 経 済
四
Ji、
物の種類は︑植物︑微生物を含む他種の生物との聞の食物関係でつながって居り︑或る一つの地域に棲息する全生物
は﹁群集
85 5ロ ロ
5 1 ﹂を構成するのである︒群集は更にその環境である物理化学的諸要因を統一的に合む一つの大
きな﹁生態系
22 35
5﹂を形成するに至る︒(藤井︑前掲書︑
業段階はいつも一定の協働様式或は社会的段階と結びついて居り︑
一 七 O
頁)
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﹁一定の生産様式或は産
乙の協働様式がそれ自身一つの﹃生産力﹄であ
る︒
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マル
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謂﹁
生産
関係﹂:::﹁社会の経済的構造﹂口
﹁人間は︑その生活の社会的生産において
一定の必然的な・彼等の意志か
ら独立した諸関係を︑つまり彼等の物理的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を取結ぷ︒乙の生産諸関
係の総体は社会の経済的構造
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Hを形作って居り︑
これが現実の土台とな
つで
︑
その上に︑法律的・政治的上部構造が笠え立ち︑又一定の社会的意識諸形態は︑この現実の土台に対応してい
る︒物質的生活の生産様式は︑社会的・政治的・精神的生活諸過程一般を制約する︒︹﹃聖書﹄における如く︑或は
観念論における如く︺人間の意識がその存在を規定するのではなくて︑逆に︑人間の社会的存在がその意識を規定す
るのである︒﹂(マルクス︑﹃経済学批判﹄︑序言)
﹁一定の必然的な・彼等の意志から独立した諸関係:::物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する:::﹂
l!
こ
れが(本稿での私の立場ーーー私自身無数の立場を可能にすると自惚れているがーーからすれば)突に︑人間の生物学
的実感に由来する表現︑換言す札ば︑生物学的実感によってのみ(文字通り実感込めて)理解され︑説明され得るも
のなのである︒既にかなりの程度証明されたが︑今だに尚疑う人は︑
は直接には無縁なーーによる次の叙述を読みたまえ! 一生物学者││おそらくマルクスや社会科学と
﹁:::渚の石などを裏返して見ると︑薄紫色や緑色をした海綿の類が附着しているD磯を採集して行けば︑海綿ば
かりではなく︑小さい植物の様に見えるヒドロ虫類や︑矢張原始的な動物である渦虫類など︑その他多くの動物があ
とからあとから見つかる︒ここにもかしこにも︑人に知られず生きているものがいて︑生あるものは人間︑又自分ば
かりではないと気が附く︒生命︹以下︑﹁生命﹂を﹁生命力﹂︑更には﹁生産力﹂と読み替えよ!︺というものは海
そ乙を揺箆として発生して来たと云われるが︑それも本当だと思う︒そして︑乙の自然がこんなにまで生
に満ち満ちていて︑自分がこの様な自然世界に属しているという乙とに︑今更ながら或る感慨を覚える︒生物界の多 に
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ということが言われるが)単細胞生物や海綿の様なものから象の様なものまでを含むこの
自然世界は矢張実なるもので︑かりそめのものではないであろう︒この海辺に立つての感想と同質の感動を︑人は例
アフリカの無人の原野や河を渡って︑野生象の大群が疾走して行くのを見るとき覚えると思う︒えば映画などで︑
︹観念論者︑例えばへlゲルの﹁歴史哲学﹂における如く︺人間だけが本当の意味で存在し︑或は人聞にとってのみ
本来の意味の歴史がある︹:::人々は︑屡々一切の歴史的社会的事象をば専ら人間精神の所産︑創造物と考える︺な
どと言っても︑その様な人間の意識に関係なく多くの被造物(生物)を含むこの世界は実にそこに在るのである︒海
綿の様なものには感覚細胞も神経細胞もないので︑人に踏まれでも痛さを感じないであろうが︑それでも︑それはそ
れ自身の歴史をもってそこに生きている︒精気を帯びた磯の風に吹かれながら海辺に立っていると︑この様な感想が
次々に湧いて来て︑やがて︑人は自然の魅力にとりつかれてしまう︒﹂(藤井︑
前掲
書︑
一ー二頁││傍点筆者)
‑﹁主観︑精神︑観念に本源性を認め︑対象たる客観的実在が主観の所産だと考える乙とは︑特に自然現象
につ
いて
は︑
我々の常識には認め難いであろう︒﹂(奥田忠雄︑﹁マルクス主義経済学方法論﹂︑慶応義塾文化科学
研究
会編
︑
﹃経済学方法論﹄︑昭和八年︑所収)
経済学説における有機体思想
九四
経 営 と 経 済
五O
外界自然︑生物学的
(H
自然科学的)自然の現実(或は着物︑食物︑住宅等﹁生存のため﹂の我々の実際
生活)に我々がじかに接する時︑人は初めて唯物論者たり得る︒﹁我々が現実的に観察し思惟する限り︑我々は決し
て唯物論から脱し得ない︒﹂(マルクスのエンゲルス宛の書簡より)
然 り
!
﹁我々が出発する前提は何ら任意のもの︑何ら
教条ではない︒それは︑ただ想像のうちでのみ捨象され得ると乙ろの現実的な前提である︒それは現実的な諸個人︑
彼等の行動であり︑そして眼の前に見出されもすれば︑自分自身の行動によってつくり出されもするところの彼等の
物質的な生活条件である︒従ってこれらの前提は純粋に経験的なやり方で確認され得るのである︒﹂(マルクス︑
﹃ ド
イツ・イデオロギー﹄)
自分の見ない或は知らない自己以外の人々の(或は動物の︑植物の:::生物の)人生
l
たとえ︑それが日常的なl
ものの一かけらであってもーーの存在(客観的実在)を確信し得る時︑人々は(主観的観念論者たり得ず)初めて実
在論者││ヘi
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マルクスか︑:::或はリストか:::弁証法か︑有機体説か:::ーーたり得るのである︒
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﹁有機体説と弁証法﹂と題した論文(﹃社会科学の予備概念﹄︑昭和四年︑所収)において︑そのテ
ーマそのままに︑少くとも本稿の立場にとっては︑興味深々たる問題の取扱い乃至その論理の展開を行っている︒
へlゲルの観念弁証法︑マルクスの唯物弁証法︑そして歴史学派によって代表せられる有機体説ーlそれら三者の
関係こそ︑彼にとって問題である︒
先づ三者の関係について︑男頭彼は自らの課題を次の様に設定する口日く︑﹁観念弁証法は︑恰もそれが観念論の
基礎の上に立つが故に︑弁証法における﹃弁証的なるもの﹄と矛盾するに至り︑斯くて反対のものに︑唯物弁証法に
まで転化した︒私はこの小論においてこの転化の必然性を悶明するであろう︒しかし︑
説を媒介とする乙とによって私の課題を解決するであろう︒﹂ この場合︑私はまさに有機体
それでは︑観念弁証法そのもの││観念弁証法は弁証法としてそれ自身一つの弁証法的性質をもっーーーの自己否定
の契機ともいうべき﹁弁証的なるもの﹂とは何であるか︒
ヘlゲルによれば︑客観的実在そのものの認識を可能とすべく︑
(註︑同時に絶対的理念であるところの人間主観の思惟形式)﹂は︑三つの方面もしくは契機をもっ︒
﹁論理的なるもの含
ωFO阿佐岳丘︑所謂﹁思惟
第一に︑抽象的なるもの或は悟性的なるもの含ω
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出 向 ︒ ︒
悟性としての思惟は︑固定した規定性並びにそれの他に対する差別性の傍らに止まる︒一つの斯かる制限された拍
象的なるものがそれにとって独立に成立し存在するものとして認められる︒:::(換言すれば)乙の抽象的普
適性に固執する悟性的思惟(所謂カント的形式論理学の思惟)は︑普遍的規定を他の特殊的規定から独立にそれだけ
で存するものであり︑即ちそれ自らに即して存するものであると看倣すが故に︑
﹁即
自的
g巴♀﹂思惟とも呼ばれ
る︒(武村︑前掲書)
(問題の)弁証的なるもの或は否定的U
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弁証的なる契機とは︑斯くの如き有限なる諸規定の自らの自己止相旬︑それのそれに対立した諸規定への推移であ
﹁弁証法とはこの内在的な移渡(移行)︑そこでは悟性の諸規定の一面性と制限性は︑それが在るところのもの
第二
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経済
学説
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有機
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五
経 営 と 経 済
五
一切の有限なるものは︑このものの自己自身を止場するという乙と
である︒弁証的なるものは︑従って学問的行程の運動する魂を形作り︑そしてそれによって︑ひとり内在的なる関連
と必然性が学問の内容のうちに来り︑並びにそのうちに一般なるものを越えての真実なる︑外面的ならぬ高揚が横た として︑即ちそれの否定として自らを表現する︒
わっているところの原理である︒﹂::悟性的思惟が抽象的普遍的規定に固執すればする程︑却ってその規定
は否定さ
J れ︑内的必然性をもってその反対の規定即ち特殊的規定に移行せざるを得ないのである︒乙の弁証法的思惟
は即自的に存すると考えられた普遍を否定し︑それに対立する規定に移行するととろの思惟なるが故に︑
宮門位︒﹃﹂思悔とも呼ばれる︒(武村︑前掲書)
﹁対
自的
第三に︑思弁的なるもの或は肯定的u理性的なるもの己
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同u o
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片言
︒︒
仏・
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ロ コ 仲 間
︒ ︒
乙のものは︑諸規定のその対立における統一︑それの解消と推移とのうちに含まれている肯定的なるものを包括す
る︒それは区別された諸規定の統一として具体的なるものである︒.
‑否
定的
であ
えと
同時
に肯
定的
・・
・・
・・
即ち
特殊から全く抽象され︑即自的に存すると考えられた普遍を否定するが︑同時に対自的な特殊と不可分の統一にある
普遍を肯定し︑保有するのである︒この思弁的思惟は即自的普遍と対目的特殊を統一において把握するが故に︑
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以上︑弁証法的思惟を仲介として悟性的思惟は思弁的思惟へ発展し︑その際悟性が固執する抽象的普遍は否定さ
れ︑それと対立する特殊に移行するが︑同時に特殊との統一において普遍は肯定される︒斯かる﹁対立性の統こな
る思惟運動によって︑終りに普遍的規定と種々な特殊的規定の統一たる現実の具体的対象(客観的実在)を認識する
に至る︒そして︑乙の対立性の統一なる思惟運動の主観は本来絶対的理念である(へlゲルは﹁主観的観念論者﹂で