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冒 険 商 人 の 性 格 | 雅 羅 馬 と グ ラ バ ー 邸 |

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(1)

長崎に於け冒険商人の性格|雅羅馬とグラバー邸|

一︑

二︑三︑

四︑五︑

六︑   目  次序﹁グラバi邸﹂の﹁かくれ間﹂開国と長崎長崎居留地の成立と拡大外人の投入と商社群雅羅馬とグラバー論

結﹁古地図﹂ に帽現7われた﹁グラ︒バー邸﹂

   一︑序﹁グラバー邸﹂の﹁かくれ間﹂

 幕末︑維新時に於いて︑長崎の外人居留地を舞台に南︑上海︑香港と       註一北︑日本を股にかけて活躍した..ζ霞︒げp︒葺−跨α<ΦbεH①目ω︑︑の群象の中

にトーマス・グラバーが在る事は言う迄もない︒彼は自ら﹁自分に歴史   註二はない﹂と豪語して居るし︑又その活動面が︑華やかな政治的な頂点の外

交場裡の底に潜む商社群としての経済活動であった丈けに︑その彼を群

・象の中から抽出して︑其正体を明確にする事は可成困難な問題である︒ 私が彼︑グラバーに共感を覚え︑関心を持つたのは極めて早い︒昭和

八年︑彼を主題とした拙稿﹁軍艦竜駿のエピソード﹂を発表したのは其具現に外ならない︒而も其直後︑文芸作家︑故村松梢風氏が︑彼を背景

に於いて麗筆を以て﹁唐人お才﹂を物されたので︑彼は物語の入物とし

て一般にポピュラー化された︒然しハリスを背景に於いた﹁唐人お吉﹂

の向うを張った筈の﹁唐人お才﹂は案外に﹁みのる﹂事なく終った様で

ある︒言はゴ其背景に置かれた﹁ヒロー﹂の認識如何にあった様である︒      マダムヘハタフライ その﹁唐人お才﹂の外国版として一転﹁お蝶夫人﹂が大きくクローズ・

アップされて来るのは昭和も十年の頃からである︒明治三十年代アメリ

カのジ・ン・ルーサー−・ロングに依って物語化され︑イタリヤのプッチ

ニーに依って歌劇に組まれた﹁お蝶夫人﹂は日本女性︑故三浦環の演出

に依って一躍世界的となった事は言う迄もない︒昭和十年︑ロングの姉

で当時長崎の東山中学校長であったコレール夫人が﹁弟の取材のヒロイ

ンは長崎在住の実在の人物﹂であると言う発表を為して以来︑問題はト

ーマス・グラバー夫妻と結んで郷土史家の問に可成りの論争が繰返され︑果ては今はなき古賀十二求心の﹁ロングの幻想﹂と言う調停まで飛

出す始末であった︒

 斯うした経緯の中で彼︑グラバーと子息︑トム︵式場富三郎︶が二代

に渡って居住した南山手三番を中心とする地域!﹁グラバi邸﹂が十年

置冬眠を破って︑一方的に﹁お蝶言入ゆかりの地﹂と決定されたのは終

戦後の事である︒華やかな脚光を浴びた﹁グラバー邸﹂出現には二つの

モチープがある︒一つはグラバーの子息で長崎経済界の重鎮であった倉

場富三郎氏の逝去であり︑一つは三菱造船所が其所有権を創業百年祭の

記念として長崎市に譲渡した事である︒

 倉場富三郎氏は長崎の経済人としてのみならず社会人として著名であ

ったし︑特に氏の蒐集に係る﹁近海魚譜﹂は専門家の貴重とする所であ

った︒戦時中︑混血児としての氏の身辺には可成りの束縛があった︒三

ω

長崎に於ける冒険商人の性格

(2)

長崎に於ける昌険商人の性格

番地を中心とする広大な地域を占める﹁グラバー邸﹂は既に昭和十四年︑

三菱の手に渡り︑当時氏はその下手の九番地に居住︑戦況不利につれて      註三監視も厳しく︑終戦直後︑不遇の裡になくなられたと聞いて居る︒倉場

氏死去の報と共にその遺志に基づいて︑長崎市復興の為め金十万円を寄

托されたとの新聞報道を︑私は原爆三嘆の床で聞き︑寝ながら私なりに

一つの﹁夢﹂も描いたが﹁夢は空なり﹂で現実は全く裏腹に﹁グラバー邸﹂

は一方的に﹁お蝶夫人ゆかりの地﹂として大々的に出現するに至った︒

 当時としては可成りの高額であった筈の金子を市に寄托して︑原爆に

依って其大半を失った長崎市の復興を祈念しつX此世を去ったグラバー

の分身の心情を思えば﹁報ひることに誤りなかったか﹂といさxか反省

せざるを得ない︒昭和三十一年に三菱では来るべき創業百年祭に当っ

て︑広くグラバー関係の資料を蒐集されつxあり︑其所有の﹁グラバー

邸﹂の管理についても︑グラバー関係資料と共に製鉄︑造船関係の資料

を蒐集︑展示する﹁日本近代化﹂の博物館として保存する計画のある事

を聞き︑ ﹁さいさき良し﹂と拙稿﹁雅羅馬考﹂を発表したのであった︒

拙稿の序に於いて私は

 幸ひ三菱造船所に於いては明年の創業百年祭に備えて︑グラバi関係

 資料蒐集にも物心両面に万全の努力を払って居られるし叉其所有の

 ﹁グラバー邸﹂の管理にも高遠な構想を持って居られる様であるか

 ら︑臆てグラバーの全貌が明らかにされ︑正しい位置付けが日本近代

 史の上になされて︑その持つ一義的のものが大衆の前に出る日も近い ことX思う

と結んだのであるが此叉﹁仇のぞみ﹂に終った︒三菱造船の百年祭の記

念事業は高遠な﹁日本近代化﹂の博物賠設置から﹁市移譲﹂へ変り一義

的なものをカバーする二義的な性格層倍に拍車かけられた感が深い︒

 長崎市は﹁グラバー邸﹂移譲後︑此文化財保持の工めに東大生産技術研究所の関野博士の調査を依嘱︑爾来博士は三回に及んで実地調査に来 崎︑昨年五月には屋根裏の実地検証の結果﹁かくれ部屋﹂を確認されて

一般の関心を喚起された︒昨年来崎に先立って頂いた博士の未定稿﹁グ

ラバー邸の建築年代について﹂の中には既に﹁かくれ問﹂が指摘されて

居り︑其記述の中に拙稿の引用もある関係上︑旧稿の補正の必要を痛感

し︑此処にグラバー研究の第三稿を草する次第である︒

七一註二

三三 .︑家Φ旨冨葺誤αくΦ讐霞︒の︑思の語は℃鋤ω屏①ω日群げの.︑≦①の8ヨしd鍵び9D︐﹃す昌ω言宣℃ききα悶霞ヨ︒の雪ぎ日︒犀二σq鋤名9︒U昌ω.︑に見える︒

﹁史断速記﹂毛利文庫所収︒

長崎市南山手土地台帳を見ると一番︑三番︑二二番が昭和十四年四月三菱

重工業に移籍二十六年四月西日本重工業株式会社に移ったことが見え︑九

番は昭和二十一年上述の進転を経て二十七年三菱造船株式会社の所有とな       ︸って居る︒

二︑開国と長崎

 ﹁鎖国と長崎﹂に続く合言葉は﹁開国と横浜﹂であり︑︑此は日本史

上︑近世から近代へ移行する過渡現象の端的表言であらう︒それは日本

の近代化に伴って︑檜舞台が西端の長崎から中央の横浜へ移行する事を

意味するが︑鎖国時︑長崎の性格は三つの段階に変化して居るかに見ら

れる︒即ち正徳新令︑洋書解禁の処置に依って従来の経済的色彩が薄れ

文化的色彩が色濃くなり︑更に幕末対外的交渉の二様に伴ひょうやく政

治的色彩を加えて開国の下地を醸成して居る︒従って鎖国時︑唯一の

﹁世界に通ずる窓﹂として外交上一応の老舗であった長崎が開国当初の

外交事務調査︑研究の手がかりとなった事は極めて自然であった︒而も

長崎が中央から遠く離れて居ながら﹁天領﹂と言う﹁遠くて近い﹂基盤となり︑幕末︑維新時の日本転換期の舞台裏の役割を演じた事は注目に

値する︒ 安政三年の十月︑老中阿部正弘の辞職後︑其後を襲った堀田正睦は所

謂﹁蘭語﹂と言われた進歩主義者であり︑時勢の見極めも敏感であった

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(3)

   註一様である︒彼は老中首座として所謂堀田内閣を組閣すると間髪を入れず

﹁貿易取調掛﹂ を設けて︑ 自ら其主班となり関係幕吏の俊傑を集め︑

特に下田︑箱舘の両奉行と共に長崎奉行が参劃して居る︒其発足に当っ

て︑先づ貿易の是非を論じて自ら国歩の方向を決定し︑其調査事項の中

に﹁貿易の利益を商人に委せず︑幕府及諸侯積年の疲弊救済﹂を対象と

した事は︑その意図が伺え︑当初の開国事情を端的に示して居る︒

 従って︑当然将来さるべき各国との通商条約を予議する有力な資料と

して︑従来の長崎に於ける清蘭貿易の実態を調査︑来るべき時勢に対処

して日蘭全権追加条約を締結せしめた︒此条約は日蘭条約を補正︑追加

して四十ケ条に及ぶもので安政四年八月十七日︑勘定奉行兼長崎奉行︑

水野忠徳と長崎奉行︑荒尾三吟が和蘭領事︑クルチュウスとの問に締

結︑調印した︒其意図する所は列国の要求に応ずる条約基本に備え︑以て我国を有利に導くに在ったがハリスの術策に落ちて水泡に帰したとは

言え開国当初に於ける長崎の役割を暗示するものである︒

 而も此条約締結の翌月︑同年九月四日︑堀田正睦は突如︑肥前国彼杵       註二郡戸町村井新田の上知を領主︑大村丹後守に命じ︑此に呼応して︑前後して当該地域の地先海域の埋立申請が条約締結の両奉行の署名で老中へ

上申されて居る︒ 勿論︑当時は各国との通商条約締結前であるから当

然︑文面には﹁開港﹂﹁居留場﹂の文字はない︒現在此上申書は消失し       十三て無いが安政六年三月十八日付長崎奉行の老中上申書﹁長崎港内需地築

立之件﹂の前段に﹁長崎市中狭隆に而諸役差麦の儀も有之︑且近年海岸       註回附洲出来通船之便利不宜候二付︑新地蔵玉手井浦上新田地先︑長崎会

所銀を以て埋立蒲鉾去々巳年水野筑後守在崎中荒尾石見守連名を以て︵伺書所見なし︶相伺候処﹂とあって﹁市中節黒と海岸附洲﹂を謳って居るが以上の一聯

の関連性を考えると開国に処して行く幕府の対策が﹁長崎屠留場﹂設定

の萌芽の中に徐々と動きつxあった事が感じられる︒

 開港に伴う外人居留地設定は五ケ国条約に規定されて居り︑規準とな

長崎に於ける冒険商人の性格 つた日米通商条約には第二条に﹁開港に貿易の為め記入に永久的居留及借地建物購入︑住居倉庫の造営を許可す﹂とあり︑具体的に 此条内に載せたる各地は亜米利加人に居留を許すべし︒居留の者は一 個の地を価を出して借り叉其所に建物あれば是を買うこと妨なく且住 居倉庫を建る事を許すべしと言えど此を建てるに託して要害の地所に 一二る事決して成さゴるべし︒此の掟を堅くせん為め其建物を新築改 卜する時は日本人役に此を見分する事当然たらべし︒亜米刑加人建物 を借り得る一個の場所並に港々の定則はアメリカ︑コンシュルと各港 の役人議定すべし︒若し議定し難き直隠事件を日本政府とアメリカ︑ チプロアチーキ︑アゲントに示して所置せしむ可し︒其居留地の周囲 に門口を設けず出入自由成べしと﹁一個の地設定と相互諒解﹂﹁現地交渉と中央交渉﹂﹁居留地の自由解放﹂を規定して居るが此居留地設定に関する規定は自余の各国条約に於いても︑若干の文字の相異はあっても概して一致して屠る︒ 勿論日米通商条約の締結は一日にしてならない︒安政四年十二月から翌五年一月に及ぶ前後十三回の審議︑討論を重ねて成ったもので堀田︑

ハリスの会談対話書に其核心が示されて居るが︑居留地設定に関しては

大要次の諸点が論議︑諒承の上で条約丈に成文化されたと見て良い︒

一︑長崎︑箱館の居留地設定については神奈川の振り合に準ずること︒

一︑取扱ひは一様でも地割等場所の広狭に依って事前に一致し難い事︒

一︑私的な貸賃を認めず︑内外雑居を認めず一定の居留地を設定するこ

 と︒

一︑出島の如き囲を設けて自由を拘束することはないこと︒

 従って︑安政六年六月から開港と取極められた神奈川︑箱館︑長崎に

於いては直ちに居留地設定に就いて具体的接渉が起って来る︒然我国は

始めての経験であり︑暗中模索の中に﹁手量﹂の態で国内事情と外国の

圧迫に依って各地各様の難問に当面して居る︒神奈川に於いては日本側

の横浜案に対し領事団の神奈川案が対立したし︑箱舘︑長崎に於いては

η

(4)

長崎に於ける冒険商人の性格

其地勢上︑条約面の﹁一個の地﹂設定が困難で住居と倉庫の二個設定が

現地としても要望され︑而も長崎の場合従来の清蘭の居留地i唐舘と蘭

舘と微妙に関連して居た︒

 而も神奈川に於ける居留地設定が自余の各地居留地設定の規準になる

ので幕府は慎重を期して︑当初専任の神奈川奉行を置かず﹁不容易大業﹂       一五として外国奉行の兼帯とした︒此兼帯は江戸に近い場所柄︑五入の外

国奉行が交代に勤務し﹁諸事談判を尽し叉江戸に帰りては他港の事も聞

いて外国人の扱ひ一般にせん﹂と謀ったものであり﹁両国人民の為め心       註六を尽す﹂と言うにあったが︑ 神奈川奉行の責任が明らかでなく︑ 領事

団は﹁奉行屡々代るはコンシュル役儀行ひなからしめんとする企なり﹂       註七と疑心を抱き︑其専任を要望して居る︒

 従って現実の具体問題として神奈川居留地設定の中に﹁一般規準﹂が

作られるとなると彼我の利害関係から﹁外交上の試金石﹂として︑神奈

川居留地設定には予想外の支障が生ずる事は自然の理であった︒今その

経緯の詳細を説く必要はないが︑其経過の中に︑特に現地接続の中に神

奈川を中心としながらも居留地一般の設置に関する彼我の感情と意見が

開陳されて﹁手探り﹂の我国も一つの﹁居留地﹂映像を刻明にして来

る︒ハリスの﹁日本居留地を支那の例にならって一大区とし︑各国商舘

を建設する﹂構想は各国個々の条約に基づいて一区一区に区劃して設定

すべく︑其地域と地積に苦慮しつxあった日本側に良き示唆を与えた

が︑居留民の増加に伴う地域︑地積の拡張性を要求されると﹁地所相対売

買禁止﹂にぶち当って新しい悩も生ずる事が判った︒而も居留地設定の

指導権がどちら側に在るかに就いては﹁品持つ丈けに貸方に権利あり﹂

とする我国の主張に対して︑条約丈を楯に金銭で相対解決し様うとする

相手方の考え方も判って微妙な条文の解釈にもぶち当った︒特に︑ハリ

スは﹁横浜を出島の如くに被成獣思召に可有之︑私は出島には住居不仕候﹂と横浜の出島化の非を再確認せしめて居るが︑其事は後来の英総事 オールコックの老中書翰の中にも見えて居る︒斯うした米英外交団の疑念に対し︑幕府は﹁長崎の出島を以て横浜之地に比せらる玉は海上より

一望ありしまでなるべし︑長崎出島は狭小な孤懸谷地を海中に築かせし       二八人造の地なり︑横浜は天然之地勢にて﹂と一応︑釈明はして居るが︑本

来横浜は三保の松原に准じた砂面半島の形成する字義通りの﹁横の浜﹂

であり︑其半島部の根本の所を水路で切って落せば自ら一つの人造の島

を形成する地形であった事はペルリ遠征記に収められた当地の実測図に

も明らかに示されて居るのであるから︑内外雑居を認めず一個の地を設

定する意図の中に﹁出島の変形﹂の構想が全然なかったとは言えないの

であり︑長崎に於ける日本側の描いた構想を思ひ︑横浜に於いて吉田川

の堀割を実現した事を思えば其間の消息が伺えると言うものである︒

 開港期を中心に﹁国の中央﹂の神奈川と﹁国の留﹂の南北両端︑箱舘

と長崎の居留地設定が同時的に而も中央の神奈川の振合ひに準じて計画

されるとすると其対策と解決の渋滞が直ちに箱館︑長崎のそれに関連︑

影響しながら現地の奉行の上申︑伺と中央の外国奉行︑老中の評議︑指

命との緊密な連絡の裡に現地居留地設定は具体化して行く︒長崎の外人

居留地設定は前述の如く︑開国前︑既に居留地構想の萌芽を胎みながら︑

正式には実線の上に乗って︑且ハ体化し︑決定を見る事は言う迄もない︒

註一註二

註三

註四 本庄栄治郎﹁日本経済思想史研究﹂所収の﹁幕末諸藩の思想傾向﹂大村家譜十一巻︒安政六・三・一八長崎奉行老中上申書︒

新地蔵南手と浦上新田地先の二つの築立の地域は当時の長崎の地勢の上で

は先端に人工の出島を持つ長い岬の丘陵を中心に南北に対して並んだ地域

に当って居り現在その上申の文書と附図面を失って明らかでないが少くと

も⑳新地蔵南手の地先の心立は南瀬崎から梅ケ崎へわたって従来埋立てら

れて居た地域の地先から南へ大きく湾入した大村領戸町前記上知の地域に

続くもの㈲浦上新田地先の王立は出島を基点に④と対照的な北方浦上川本

筋に開拓された新田の地先で此処は川幅も狭ばまり所謂﹁対岸﹂意識も薄

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(5)

註五

註転

註旧

註八 れて浦上渕村稲佐に続く地域を構成する︒図心﹁長崎港図﹂参照安政五・一〇・二三老中の外国奉行への申渡︵幕府沙汰書二一ノニ八三︶安政六・七・二九英総領事オレルコックの老中への書翰︵英国往復書翰二五ノ一六七︶イ︑其後のオールコックの老中書翰︵英国往復書翰二五ノ七八・一六〇︶

ロ︑安政六・八・九辰之口南角老中役宅対話書︵二六ノニ五︶

安政六・六・一八老中の英総領事オールコックへの書翰案︵英国往復書翰

二四ノ五八︶

三︑長崎居留地の成立と拡大

 現在残された長崎居留地成立に関する基本的資料の最初のものは安政      註一六年正月十八日付長崎奉行の老中伺書 ﹁外国人へ地所貸三之谷﹂ であ       註二り︑此に続くものが前掲の三月十八日付長崎奉行の老中上中書﹁長崎港

内湾地築立の件﹂であるが何れも各国領事との正式交渉以前の日本側の

私案︑腹案である丈けに其処に日本側の意図が汲み取れて極めて興味深

く貴重である︒前老の正月の伺書には

 昨一年追々新沢二相済候国々之上々実母より彩入港可仕に付而は於当

 地も各国御条約面之通一箇の地貸渡︑住居為楽可申義二候処︑一門の

 義は山間狭隆之地勢二有之︑別而海岸附は家居稠密にて一纒に外国人

 差置可講習地所無漏︑去とて︐一々之分取払候得は此方商民共海岸なら

 では活計を失ひ︑可憐義二有之

と開港に伴う居留地の設置が長崎の地勢上極めて困難であり︑さりとて

海岸附商人の地域を取払って一纒の地域を外人に提供する事は日本商人

の活計を失う事を強く指摘し︑﹁稲佐郷淵村にて柳も空隙の地有之候得

共︑同所は市中懸け隔り居︑不便に付外国人共承伏可仕立据も無毒﹂と

長崎居留地の候補としての需品案が︑その地の利から外人の承伏の困難

な事を告げ

 夫是勘弁仕候処箱舘表二而は海岸附異国入営所少しつX之地所相渡し

長崎に於ける冒険商人の性格  住居の地は外場所二而相渡候補二仕度段裏伺候趣にも有之当所は殊更 纏之海湾二而人家建詰箱舘之比類無碍候間御条約面とは柳齪齪仕候ニ ハ候得書箱舘振合に准じ蔵所二分は彼方役所をも兼ね海岸附叉は附洲 之場所埋立貸渡︑居住之儀は外場所に而相渡候様仕度と風聞の﹁箱舘振合﹂に準じて蔵所と居住のニケ所設定の諒解を中央に求めて居る︒ 居留地設定に当って地域差のあるべき事は堀田︑ハリス会談の含﹁取扱ひは一様でも地割等は場所の広狭に依って事前に一致し難し﹂に依って当然であったが︑此に対する老中指令は﹁不容易儀﹂として﹁在勤日付申談猶精力を尽条約面の通智歯候様私蓄心得事﹂と言う﹁不可﹂の線であった︒後者の三月の上申書は右老中指令に前後して出されたもので︑前段の浦上新田地先の埋立︵稲佐案の基盤︶を削除して︑ 妾先逮而相伺候︑新地南西平坪壱万四千七百坪之内先弐千三百弐拾坪 余︑同所地続高木作右工門御代官所彼杵郡戸町村大浦海岸平坪合弐万 三千六百八拾坪余別紙絵図面之通り埋立之義とあり﹁先達而﹂が既に述べた去々巳年安政四年の埋立計画である事は言う迄も無いが其中に含まれて居た﹁浦上新田地先﹂には触れてない︒

﹁新地南手平坪壱万四千七百坪の内先づ﹂とある以上︑それは新地南手

の内浦一円を埋め尽す計画の一部であったと推定され︑地続高木作右工

門御代官所戸町村大浦海岸埋立については所管の代官の諒解済みと見え

て居るが事実︑同年二月十一日付で奉行と代官の交換した奉行達書と代

官届書が現在残って居る︒     註三 其奉行達書の中二﹁南瀬崎より大浦下リ野辺迄別紙絵図面通リ場所御       註三論立酒国人之前渡商舘取立候筈二付﹂とあり︑其代官届書の中に﹁私御      カ  フレコ代官所肥前国是杵郡戸町村之内大浦地先字常盤崎より上古川申所迄同海

岸一円凡一万八千五百坪余外国人江御貸渡地所﹂とあって其地域が漸次

具体的にはなって居るが別紙絵図を失って居るので明確を欠ぐとは言え

9)

(6)

長崎に於ける冒険商人の性格

此れに依って長崎居留地の候補地としての大浦案も︑其淵源が早いこと

が伺える︒事実︑一月の奉行伺書に対する老中指令は三月二十三日に届

いて居り︑三月の奉行上申は此と関係なく併行して出されて居るから︑

去々巳年の浦上新田地先と大浦地先の埋立計画に乗る長崎居留地の候補

は稲佐案と大浦案が併回して有り︑それが外交団の長崎来港に依って漸

次一本にしぼられて大浦地域に固定したと見るのが妥当であらう︒

 長崎開港の直前︑英国の香港総領事オールコックは新しい使命を旧び

て日本総領事に任命され︑ホヂソン︑ヴァイス両領事を相具して上海から長崎に入港︑此と前後してアメリカのハリスも上海に出向いてウール      註五ス︑ドーア両領事を迎えて長崎に到着した︒ オールコックの ﹁外人居

留﹂に関する長崎奉行との対談が行われたのは五月の十四日で︑其覚書

は翌十五日付で長崎奉行に差出されて居るが︑同日付で長崎奉行は﹁外       註六国人へ貸渡すべき地所の件﹂の伺書を老中へ提出して居る︒此伺書に依

って領事団との正式交渉に入って︑大浦案が決定的となり︑而も其処に

描いた日本側の構想が根本的にくつがえされて行く事が伺えるが︑其文

中に稲佐案に触れて

A

 一躰居留場所之儀は品々勘弁仕浦上淵村稲佐郷帳は市中二懸隔リ居候

 二二︑一二国のものは同所之引分候二も可聴見込二て兼てより引合候

 得共長崎よりは渡海の場所には︑飲食日用の品運送往来等にも失脚多

 く︑不便利に付︑倉庫取立荷物等囲置候儀は格別居宅迄一団めに相構

 候義は承服不仕   且同所は製鉄所︑船修理場等も御取立相成右御用逐一除候ては幾何余 地無御座

とあり︑稲佐案が対外的にも困難であると共に対内的の事情f日本の近

代化に伴う開港場に製鉄所︑造船所設置の計画に応じて此に同調して行

った筋道が伺えると言うものである︒

 此処に﹁外人居留地は此岸に︑製鉄所︑軍艦打建所は彼岸に﹂と言う 長崎近代化の性格がようやくクローズ︑アップされて来る︒ 此五月の上申書を始め爾後数次に及んだ居留地設定︑地割に関する彼我の交渉を暗示する上申書の類が残されて居るが︑中央の指令に支えられ︑外人の強圧に戦ひつx︑外人居留地は﹁猫の目﹂の様に次々と図面が書き替えられ︑長崎居留地の最初の基盤f大浦居留地は固定︑決定されて行く︒此初期の居留地設定に就いては拙稿﹁外人居留地埋立に関す         註七る浜武古地図について﹂ 及び其後英国領事舘所蔵の古地図に依って増      註八補︑訂正した拙稿﹁居留地設定に関する二種の愚図﹂に於いて説く所があったが︑現在それ以上の有力な資料は寡聞にして聞かない︒将来される長崎居留地の最初の基盤となった第一期の大浦居留場所の完成は予定の万延元年三月よりずい分後れて同年十月に竣工を見て居るが︑其地域と地積は当初︑日本が描いた構想を水泡に帰し︑格段に変形︑増加して 前諾居る︒勿論一期居留地設定と言う﹁一期﹂は︑その完成に五月計画変更︑九月計画変更が停止することなく展開して行った様に︑其処に断層      註一〇があると言う意味ではない︒埋地日記に依れば此一期大浦居留地埋立は天草の赤崎村庄屋︑北野織部が請負って竣工して居るが︑引続き同年末迄︑其内部下水工事は続行され︑十一月からは改めて附帯工事としての波戸ニケ所の築立を同じ北野織部が請負って同年末に竣工して居る︒ 日本学は恐らく此に依って一応﹁居留地﹂に終止符を打つたと断じた節があるが︑外交団の周到な伏線は容易に此を拡大する余地を残して居た様である︒開港当初︑居留場未完成の為め︑蝟集の外人の居住地を迫られ︑出島に対する江戸町から大浦湾の対岸︑妙行寺に至る内浦沿岸か      註=ら大浦湾岸に掛けて条件付で外人仮泊を許した﹁仮泊地協定﹂は︑その最初のものであり︑一期居留地埋立竣工図と思われる日英両国の古図を   註一二比較すると︑日本側の﹁万延元年申十月十三日落成御見分相済﹂の古筆は明細に大浦居留地が四等地に分劃されて居るが対岸の大浦左岸地域に就

ω

(7)

いては何等触れてないにも不拘︑英国側の﹁勺一9DbO剛誓Φb①百里oH巴σqb

ω①洋竃B①bけ讐Z鋤σq9⊃ωp寂Oo8︿①触HcO①O﹂ の古図は大浦居留地が三

等地に分劃され︑而も対岸︑大浦左岸地域が点線で囲まれて 司葺母Φ

嘆︒冨︒ゴbαq﹂と記入︑その将来計画を取り付けてある︒而も所調﹁添増地﹂と言う特異の名称が古記録︑上申書に随処に処られ︑山手地域が﹁添

増地﹂として︑山手占拠に敏感な日本人を刺戟することなく大幅に居留

地に編入されて行く下地を構成しつΣあった︒

 従って︑当然外国側の要求は止む可くもなく︑居留地拡大の意図と実

現は休止する事なく展開する︒最近東大生産技術研究所関野教室の伊藤

氏より東大図書舘所蔵の ﹁長崎港居留地回図﹂ の復写の送附を受けた      ︵一八六一︶     ︵一八六二︶が︑其年代は少くとも文久元年後半から文久二年前半の間にしぼらるx       註一三もので居留地建設途上を示す好箇の資料である︒前記英国古図は三等地

の中一二等地に地割が出来て居住外人の記入があるが丘地は未だ地割が

されてないが︑東大古平には此門地︵現在の東山手︶の地割が出来而地続きの妙行寺の在る浪之平一帯の山手︵現在の南山手︶所謂﹁添和地﹂

にも一部︵十八番地迄見える︶の地割がなされ︑其端に阿蘭陀人相営場

所の一宇三千坪︵二一番  二五番︶が設定され而も地割には居住外入

名が記入されて居るが阿蘭陀人相営場所は五個に地割しながら居住外人

が空白になって居り︑山手地域が﹁添増地﹂として居留地に大幅に編入

された時期が案外に早かった事を示して居る︒

 然し英古図に司葺霞①O吋︒﹂Φ9ぎσq﹂とある大浦湾左岸は此古図には朱線で示されて居り未だ地割が見えないから︑あたかも埋立実施の時期

に当って居たであらう事は地方記録に依って肯ける︒此の大浦川を挾む      ︵一八六一﹀居留地の対岸地域を埋立︑大浦地番を拡大する工事は文久元年早々より       註一四姶り︑両地域を結ぶ大浦川の板橋の架渡が必然的に実施されると 大浦

川が人工的に形成され︑川を中に挾んで低地の大浦居留地が完成する︒      ソト此と前後して居留地の外に︑北方に於いては唐人屋敷前字母馬場から外

長崎に於ける冒険商人の性格 人居留地への内浦海岸通の︑南方に於いては解牛場︑造船所の築立が実 註一五    ︵一八六四︶施され︑次いで元治元年には居留地海岸百八十間に渡っての五間築足及波戸築立︑計画が見合せになって居た内浦奥地の梅ケ崎地先三八○○坪の埋立︑従来和蘭から要求されつ\あった出島波戸脇の埋立︑それに文久元年着工の大浦南岸工事の完成としての下り松波戸築立の四ケ所の大       註一六工事が地元︑長崎人の請負で実施されて居るから︑所謂白人の﹁長崎居留地﹂の全貌はほゴ此時代に形成されたと見て良い︒ 出島外入全体に解放され︑明治四年日清通商条約が締結されると従来支那人の勢力地域︑唐入屋敷から広馬場に至る一帯が名実共に居留地の中に編入され出島から梅ケ崎を経て大浦に及ぶ一連の居留地帯の現出を見たが︑それは鎖国時︑貿易の中心であった内浦沿岸を完全に悟入に占拠される事となり︑長崎奉行が当初に心配した﹁此方商人共海岸ならでは       ︵一八六二︶活計を失う﹂と言う最悪の事態が現出したと見て良い︒試みに交久二年忌      註一七の英領南舘に登録済の﹁日本貿易商人名簿﹂に依って其居住の分布を整理して見ると総数約百名の内︑内浦を囲む外廓とおぼしき地域に各半数の五十軒があり残余の五十軒は全市に散在して居る︒尤の居留地の大半は本来の長崎街の南方に新たに築造して町作りしたものであったから幕府及至長崎奉行が企図した﹁大浦川を三月上申書附図や浜武古図の示す様に北に寄せて作り︑此のOpb巴を境界に横浜のそれの如く南方に外人︑北方に日本商人の活計保持﹂と言う構想が実現して居たら恐らく此の貿易商人の分布は著しく変って居たであらう︒       註一八 明治三年の﹁長崎港図﹂に﹁外人居留地十万坪余︑支那人居留地一万坪余︑上中下三等の差あり﹂と附記して居るが︑其総坪数は横浜居留地に比較すると其半ばにすぎない︒然し横浜と長崎の性格の相異を考え︑開港当初当局の考えて居た坪数にくらべれば遙かに上廻った数である事は言う迄もない︒註一 安政六・一・一八長崎奉行の老中伺書︵長崎奉行書類二ニノ三八︶

D

ω

(8)

長崎に於ける冒険商人の性格

註二 安政六・三・一八・長崎奉行の老中上申書︵長崎奉行書類︶

註三 安政六・二・一一長崎奉行の代官達書︵長崎奉行書類二二ノニニ六︶

註四長崎代官奉行響︵篇殆灘耀埋籍録︶

註五 男鋤ω貯①ωB博ゴ..毛①ωけΦH⇒じd錠σ錠昌昌ω一つ冨冨づp⇒α切︒hB︒ωp

   日︒吋¢σq鋤堵鋤U9︒嘱の二

註六 安政六・五・一五長崎奉行の老中伺書︵長崎奉行書類二三ノニ七︶

二七 長崎大学学芸学部﹁社会科論叢第8号﹂所収︒

註八 長大史学第四輯︑拙稿﹁長崎に於ける外人居留地の成立と外人の動向﹂の◎

註九 註七参照︒

註一〇 画地日記三冊︑自盛政六古年九月至万延仕懸十二月県立図書館蔵︒

註二 ℃四ω匠①ω慧9.︑芝Φω諏∋しd錠σ餌泣碧ωヨ冨冨三碧Ω団︒↓ヨ︒ωpぢ

   ↓o三二σq鋤妻U四団ω..頃悼ωO a ︒︒5960田江︒づ︑︑ω①づけ 8  けプΦ 切ユ賦︒げ

   Ooづω巳げ団9①OO︿Φ諺︒凪がのせてある︒

註=一英領事館所蔵古身 ︒︑℃冨⇒ Oh9① Z①≦悶︒おおつωΦ巳Φ目Φづけ彗

   Zp・σq器p露○︒8<興Hり①O蔭武者図⇔長崎市博物館所蔵﹁大浦埋立略図﹂

   所収

    図中﹁坂田文庫﹂ ﹁南葵文庫﹂の所蔵印が捺してある︒

註二二      南紀徳川家より

   東大に入ったもの\様である︒年代考証は省略するが東山手に新教教会が

   見え南山手に未だ天主堂はないし大浦対岸の埋立実施中である所から大方

   の時代が伺える︒

世一四 ﹁大浦井下り松海岸埋立御入用附諸所雑用掛手当﹂居留起掛

   ﹁大浦並下り松海岸埋立一件﹂居留場掛従万延元至元治元︑

   ﹁妙行寺下手より下り松迄海岸埋立地明細帳﹂明治六一七

   右ノ面前二者は何れも第一期工事記録と共に収録され明らかに文久一︑二

   年の事があるのは明瞭︑最後のものは詳細な地積と入居者名が記入され酉

   戌年の干支一巡の誤りがあると見て良い︒尚﹁諸上書銘書﹂に依ると此件

   につき文久一︑二年に数回に渡って長崎奉行から上申書が出された事は明

   らかである︒

   板橋架設について﹁文久二年御用留﹂の中に﹁大浦川筋橋の入札者﹂の届    出が見える︒以上の記録は何れも県立図書館所蔵︒註一五 文久元年二月二六日付長崎奉行上申書︵諸上書銘書︶   ﹁唐人屋敷前字広馬場辺より外国人居留地入口迄海岸通新道築立方奉伺候   書付文久元年八月一二日付長崎奉行上申書︵諸上書銘書︶   ﹁英商之内牛を三三三井船匠之者居留地外は住居為仕度旨同国コンシュル   申立三二付奉伺候書付﹂   ﹁解牛場一件書類﹂外務課地租係註一六 ﹁居留地五間築足井梅ケ崎埋立御用留附下り松井出島築足﹂元治元年正   月より同年十二月まで   ﹁埋地書留﹂但五間築足︑梅ケ崎埋立︑其外波戸築三︑川筋俊︑尚﹁掌上   書銘書﹂に依り此件に関し元治元年より慶応元年二及び数回に渡って長崎   奉行の上申書が出された事は明らかである︒尤も此等の諸工事の請負者は   何れも一応辞退した記録が残って居り其計画は可成り変更されて漸次実施   二移された様で︑その詳細は後日発表し旧い︒莚卜い誓こ・§・⁝︵露盤恥砿㏄蕪薫ぎω・§一・量8   導Φ図謁σ皆○︒易巳ぎH︒︒8ξO︒<①ヨ︒巳︒hZ①αq9紹匹︵霊ω冨   ωB詳げ︑.b署①巳園Zρδ︶.註一八 長崎市博物館所蔵︒   四︑外人の投入と商社群 開港に伴う外人の長崎投入に就いては前記英総領事オールコックの安政六年五月十五日付覚書の中に於いて︑彼は領事団を代表して日本側提出の居留地案.に全面的に異議を申立てx其変更を余儀なくせしめたが︑其中に 右地面は一ケ所間口百五十ブートの積にて漸く商家ニケ所の為場所充 に有之候間︑追々埋立又平地を取建出て広地を得べき取極目有之候︑然る処既に貌利太尼亜の商入下ゼイン︵焔弐︶余此地籠在︑此者蝉

 定住の地面願骨継義二有之と長崎進出の英人の数を挙げて居るが︑同年末英議会に報告された長崎在留で英商の登録済のものは十六名となって居るから脱しも誇張はな       註一     ︵安政六年︶い︒尤もパスケ・スミスは其著書の中で一八五九年六月二十八日付の一

ω

(9)

領事の報告に依ると当時既に長崎には三十人の英国人が在住した事を指       ︵文久元年︶慨して居るが︑其の後に一八六一年一月五日付の長崎在勤英領事モリソ

ソの総領事宛報告書に二十五人の英人在住を載せて居る事も周到に併記

して居る︒

 勿論︑以上は開港当初の長崎在住の英人のみの数であるから在留聴入       ︵穿話元年︶の数は当然はるかに此を上廻るべき事は言う迄もない︒一八六〇年十月      註三作製の英国領事舘所蔵の古図には︑その平地の地割に居住外人の記入の

ある事を指摘したが︑其屋は二十八名で︑内英人十一︑米人八と大半を      二一占めて居ることが判る︒而もパスヶ・スミスが其著書に収録した﹁=雪

亀国︒冨お昌U鋤bΩ国①H︼8Hω鴇Zσq鋤ω鋤匠一︒︒①Ol一︒︒①ごに依ると其の総

数は六三名で内英人三六︑米人一七と書誌総数の大半を占めて居る︒勿

論此の﹁古図﹂と﹁ピ一馨﹂に記された数の比較は︑其処に時間的な差異       註二を読む可きではなく︑寧ろ﹁仮泊地協定﹂に基づいて散在した外人が漸

次設定の居留地に集結しつxある事を示すものであり︑右六三名の住居

地を明らかにすると設定の大浦居留地の平地地割の二八名は当然古図の       ︵イ︶      ︵ロ︶       ︵ハ︶それと一致し他は○︒bω巳葺①鵠臼に七名日oB鋤︒三20●に七名地所       ︵イ︶未記入に二一名となって居る︒ Oobω巳鉾Φ三一一一が英白図に地割のな      ︵ロ︶い大浦居留地の丘地であることは言う迄もなく叉 60ヨ四〇買Zo・がそ

れに陸続きの大浦湾対岸の山手︑所謂﹁添意地﹂であらうとすれば当然

未記入の場所は﹁既定の事実﹂としての仮泊地の中心︑居留地より北方

へ東山手の丘上から長崎指寄りの唐人屋敷を囲んで広場にかけての地域       註三であったらう事が肯ける︒

 従って此内は時間に依る数の変化を示すものではなく︑寧ろ数の地域

的移動を示すものであり︑開港時︑長崎に於ける外人の数に依る実力行

使を端的に示すものと言って良い︒此の外人集結の実態が﹁仮泊地協定﹂

長崎に於ける冒険商人の性格 を取り付ける領事団の背後基盤であった事は明らかであり︑而その彼等      ︵文久元年︶の数の集結は一八六一年に居留地内に﹁ζ¢巳︒首班Oo¢bo㎞ごと﹁O冨巳−      三四σ①HohOO目目①円8﹂の結成をうながして居る事も忘れてならない︒此二つは近代都市に於ける﹁市議会﹂と﹁商業会議所﹂になぞらえらる即きものであるが︑此に依って居留内地に自治的な町作りがなされ︑而も条約面の貿易権の獲得は商社群に依る貿易活動が健全に維持される事になるが半面此組織を通しての﹁居留地拡大﹂へ働く︑領事団背後の力は指摘されねばならない︒  ︵文久元年︶       ︵イ︶ 此一八六一年の外人総数六三名は其後﹁二ω↓○暁巷艮ざ鋤葺ω団︒邑    ︵口︶冨bΩω﹂及﹁︾Ob一冨p三一︒目黒曾Φぽ同obβσq①一〇房H①σq一ω$目①鉱鋤二才りζいピ℃   註五〇〇bの巳讐Φ﹂に依って整理すると次の如く漸次増加して居る︒ 日︒◎①D     ①ω十∫⁝    H①目       しd轟O. 諺・H日 日oo①ω     ①日記冨⁝十㊥   coO       しd.蒔⑩・ bHド Hco①鼻     coO十ロ八十⑧   11HOω      じd.①ω・ レHρ尤も此の資料の㈲は英領事舘関係に限定され︑点線で結んだ数は≦讐Φ﹃勾目ob鐙σqΦ一9ωを求める英人丈の数であるから全体の上から妥当でなく英米の比較も穏当ではない︒現在県立図書舘に﹁文久二年長崎県居留国入員録﹂と言う記録が残されて居る︒此内容は文久二年から明治二年に至る八ケ年の長崎在住の外人異動を月別︑国別に記録したもので標題は後で誤り付せられたものであらう︒恐らく当時の﹁外人名調書﹂に拠ったものであらうが一種のメモ型式で信熱性に乏しいが︑魚種の資料として極めて貴重であらう︒今此資料を年平均に直して年次総数︑白人︑麦那人に      ︵文久二年︶分数し︑国別の内訳を作ると表Oの通りになる︒町中一八六二年の白人       ︵慶応三年︶の八○名は前記前年の六三名の数の性格から矛盾はないし︑一八六七年の白人一七一は同年上海で出版された ﹁い一ω叶︒団国︒お一σqb鵠obσqω鋤b瓢切Φ巴◎①b叶ω﹂ に附記された外人名簿の総数二〇〇と大した矛盾をせず叉

ω3)

(10)

長崎に於ける冒険商人の性格他其

7

11 18 25 33 37 48 52

人蘭

5

12 17 19 32 29 33 17

人米

37 34 38 37 36 33 42 31

人英

31 40 49 63 66 72 76 79

比対支白%55ー%451%541訣60;%591%60ー%60ー%66ー

人那支

98 81

説ー

80 97

m

数総

m

鯉1脇1晒1鰯1鰯1艘1蹴1㎜1 慶応元年八月の外人取調帳の一五三も余り相異は 註六ない︒ 此表に依つて居留外人が漸次増大して居留地乃至貿易の拡大する事が暗示されるが︑英米の間に漸く優劣が生じ来ること︑特に条約の盲点にかくれて隠然たる勢力を温存育成して行く華僑の実体は興味深い︒勿論投入の外人全体が外商乃至商社群とは言えないが︑開港︑貿易に伴う居留地設定であつて見れば自ら外商︑商社を頂点に此を支える一連の外人団である

事は言う迄もない︒ 一八

︵文久元年︶六一年は前述の﹁ζpbや

6甘p︒一〇〇qbo一にと﹁○富8び曾○暁Oo白目Φ巴o①﹂を二本の麦柱として︑

外人居留地か内部の充実と今後の外廓へ拡大の基盤を作つた年で同年刊      註七行の日本最初の外字新聞﹁Z曽αq霧p庄の三b甘b︒qご馨鋤bαb鼻くΦ註ω興﹂

には当時の活気のある居留地の様相が記されて居る︒即ち既にζ①ωω員

名巴o耳巴9bα〇四越冨b嘱と 一=nう洋服商の定着が見え︑それが従来勢力

を張つた洋服商=︾b司乱と競ひ合つて居るししUo乱ぎσqと一Φ嘱の設

備をもつたホテルやサロソが出現し︑遊楽にも事欠く事なく︑酒は甘美 且安価で正に酒呑みの天国であると新聞丈けに極東の﹁楽天地﹂を謳歌して居る︒      ︵慶応三年︶ 更に降つて一八六七年の﹁ご馨o団国o肖虫σqb出obσqのpbα菊Φω益①b↓ω﹂を詳細に吟味して見ると六年の歳月は大浦居留地を拡大︑充実し︑大浦川が奇麗に形成されて居留地平地の中を流れ︑その背後の南山手︑東山手が居留地山手を構成して居る︒東︑南の両山手には対照的に新旧両教官が聾え立ち居留地扇の要に当る石橋近くの大浦三一番に..Z鋤σq簿銘置

o冒σ︑︑が出来て居り︑南山手に外商の豪荘な邸宅が︑東山手には英領事

舘を始め︑白︑葡︑普の領事舘が並び立つて開港当初外人が構想した

﹁Oob巳葺Φ匹一ご が現実に具体化して居る︒ 而も其丘下の大浦平地に

は海岸面の 国目︒bβσqΦに各商社が軒を並べ︑背後の 殉$轟σq① には

図×oゴpbbσQ①ゆp昌Fζ①血一8一鵠巴ど躍oけ巴じd已冨a℃↓鋤一δび出巴H

U①鴇①ωωo憎が記載されて居る外可成りの数の↓Φ鋤国罵ヨσq切ω訂σσ㎞ωゴー

日Φb房及び○ゴ一bΦωΦ国obσqωが見える事は注目に価し様う︒更に其地

番は大浦の対岸埋地に延び川に副つて国08ごしUo妻二bσq︾ご①ざしd一臣鍵Ω

ω巴ooPが軒を並べ海岸面にはω三℃$壱①b冨Hk舘α迄見えて居る︒

而も其南端には彼等の特異な食生活を麦える解牛場の設置迄あり外商︑

商社の乗る底辺は極めて幅広く︑豊かであつたと言わざるを得ない︒

 此底辺に乗る頂点︑花形外商の性格は如何なるものであつたらうか︑最初の小さな大浦居留地に定着した外人に就いてパスヶ・スミスは先づ

次の如く記して居る︒

 Ob9①覧彗︒囲甚Φヨ①什ω①註ωB①b戸α讐aO︒8<①同笛①ρ

お只098α8bσΦω①①b帥目ω叶墨目①︒︷B︒ω什︒鴎9①津珍ωB邑9a︒団出①おおbBΦ﹃︒冨葺−巴くΦ三霞①Hω↓︒8①bヨのωヨ①ωω貯

乞9σQ器田ぎ

 BΦ﹃o冨昌山鉱く①b酔貫興ωと言う言葉には凡そ時代に取り残された商業

政策の名残りが感じられるが︑一世紀時代取り残された日本の現場に︑組

織の中に束縛されない自由さは彼等外商の奔放な活躍を幅広く展開させ

ω

(11)

る一因でもあり︑斯うした意味を含めて﹁冒険商人﹂と言う言葉を彼等

に冠せしめて良いであらう︒

 本来︑長崎投入の外商群は日本開港に伴ひ勇躍本国から一路日本に投

入したものではない︒寧ろ︑居留地自体の系譜がそこに引かれる様に︑

対岸の支那に根拠を張った強大な商社の子株が根分けされて長崎へ移し

植付けられたものと見るのが妥当であらう︒此点に就いて外商を性格付     ︵萬延元年︶けたものは一八六〇年の前半に来朝した宗教家︑ジョージ・スミスの手

記﹁臼Φb乏Φ①屏ωぎ三脚9b﹂の記述である︒旧事に就いては曽って拙稿      註八﹁外人の目に映じた開港直後の長崎﹂に於いて紹介する所があったが︑

彼は先づ外商の日本投入の最初魅力は日本に於ける金銀比量に目を付け

た﹁金買ひ﹂であった事を指摘した上で︑長崎投入の外人が何れも若手

である事︑而もそれが支那に地盤を持ち世界を股にかけた強大な老舗商

社の子分であり︑それを背景に代理員︑出張員として長崎に躍進したも

のと強調して居る︒

 彼スミスより少しく後れて同年の後半渡来したロバート・フォーチュ      註九ンは其手記﹁く一ω詳け︒冒冨bpbα0巨bp﹂の中に︑長崎滞在中恩恵を

受けた外商としてイーウエンスとマッケンヂーの名前を上げて居り︑特

に前者イーウエンスは有名な上海のゲント商会の長崎出店の責任者であ

り︑本店の最高責任者ウェツブの紹介状とクレヂットを持参して居たの

で全く安心して旅行した事を﹁①<Φb讐導①Φbαo貼匪①①錠け戸H

ho=巳臼︽ω①罵Ω¢詳讐げ○目①﹂と記して居るが﹁我が家﹂の如く世界を       ︵安政六年︶股にかけたゲント商会の地盤には今更驚かされるであらう︒ 一八五九年      註一〇六月二二日付︑ ホヂソンの江戸︑ 英総領事宛報告書の中に︑ 長崎で

ぎGω①点Oo目を申込んだ最初の件数が嘱せてあるが英人で UΦ旨9bα

0︒B冨聴し霞9bΦ二七0︒B鋤身るζ﹃●ζ一越①b鼠ρ鋤接目・ζa︒目

の四件︑米人でけ≦oσ﹃○ぎ費ρ﹂○げb即≦巴ωげ9bα幻一〇尊翁α﹄●

類巴ω劉pζりU︒虹σq冨ω国量N錠の二件になって居る︒何れも最初に長

長崎に於ける冒険商人の性格       ︵萬延元年V崎投入の一流商一陣であって︑一八六〇年の英古志︑大浦居留地の地割のされた平地のを讐Φ同司H︒bβσq①の一番にU①三田︒oの責任者国ぐ鋤b︒Φが二証否に ζpo屏①bσq一Φ︑三㎡蕾に ぐく9一ωげ五番にζ蝉﹂○目︑ 六番に.国噌鋤N鋤目七番に諺詳が乗って来るが冨a言ζ讐げ①ωob俸OOの責任者囚①ω芝寄吋の姿丈けは見えず︑当時依然として仮泊地に定着して居た事は﹁ご馨      註二〇h国︒お一σqb目鋤bα知①b8びZ鋤σq9銘ざ一︒︒①01︸o︒①一﹂ に依って明らかであらう︒ 斯うした一流商社陣の子株を頂点に若い野心に燃えた新進気鋭の外商       註一二達が︑あたかもホヂソソの表現した ﹁死肉に蝟集する禿鷹の如く﹂陸続と長崎に投入する︒此等外商陣をパスケ・ス︑・・スは﹁冒険商人﹂と評して居るが︑強大な老舗商社を背景に於いて新天地︑日本を経済的に開拓する彼等は皮肉にも日本の幕末︑維新と言う政治的激変相の中に︑因となり果となり一役買ひながら﹁滅ぶべきは滅び︑残る即きは残る﹂と言う優勝劣敗の変転が極めて顕著である︒此現象を端的に表明するものは有名外人商社群の盛衰表であらう︒      註一三 その為め拙稿﹁長崎に於ける外人居留地の成立と外人の動向﹂ の中       ︵萬延元年︶    ︵明治三年︶に於いて︑私は一八六〇年から一八七〇年に至る十年間の商社の推移を  ︵三三元年 文久元年︶    ︵慶応三年︶   ︵明治三年︶e一八六〇1一八六一年⇔一八六七年⇔一八七〇年の三期に劃して有名商社を整理︑分類して﹁外人商社群推移表﹂を作製したのである︒今其表と資料を詳述する事は避けねばならないが︑その表の示す所は︑明治初年に活躍した商社の中で居留地設定の当初から永続︑発展するものは極めて少く︑僅かに曾○<二陣OP︾一け俸Oo・≦巴ωげ帥Oo●O曙白鋤bω帥00・の四社にすぎず︑前記ホヂソン報告の英四件米二件の有力商社の生き残るもの僅か一件≦巴ωげ俸09転けであり︑他は       ︵慶応三年︶強食弱肉で吸収︑消滅︑後退の過程を経て︑而もその大半は一八六七年の調査には既に登って来ないが︑同時に此の年から有名商社大半が浮び

35

(12)

長崎に於ける冒険商人の性格

上って来る事は極めて興味深いものがあらう︒

 此は微妙な日本政局の動きの中に有名商社群に劃期的盛衰の現象が生

じ来る事を意味するもので︑ 所謂﹁ピ①容冨bけ−Qα<Φ三霞①邑のピー

クとして︑ 幕末維新時志士と結んで特異の舞台に活躍したと言はれる

O﹈o<Φ暦俸Ooは斯うした基盤の上に乗って居る︒

註一 勺四ω丼︒ω目詳F..謡①馨ΦヨしugHσ錠冨5ωぢ冒摯︒昌9つ創切︒目Bo鋸貯

   ↓o閃⊆σq四脚餌U四団ω..

三二 国碧︒片頭⑦ZΦ薯勾︒需おつωΦ詳一①目①口け碧Z9σqN紹霞09︒<Φh円︒︒①O

一三 ℃pω犀︒ω目騨プの右著書の中に﹁Z9茜︒讐ぢPω①暮け︒募Φしd泣鉱ωげOo午

   ω巳σ︽9ΦOoく①讐︒目﹂がのせて︑詳細が明らかであるが︑内容丈けで日

   付を欠いで居る

註四 ﹈<冒ロ一〇甘9︒一〇〇βづ︒には一八六一年四月︑○げ四馨σΦ戦oh Oo琶日①H8は同

   年六月設立す拙稿﹁長崎に於ける外人居留地の成立と外人の動向﹂参照︒

註五 ℃pω犀ΦωB詳げ右著書所収︒

註六 ℃霧犀Φω目算げ右著書に一八六二年の外人数が此表と大幅に相異して次の   如く記されて居る︒HゆHc︒①PぎΦ5讐一く①℃oO巳①怠︒βo︷2ωσq9ω9困一ミΦω

   目ΦbOユΦα 鋤け 切OOO9 零巨一① 一冴 POω hO﹃Φ一αQ昌 H①ω置①b諺 OoB℃比ωΦ山

   山北怠ωげooO ︾ B①ユopづωP U¢9げ ωco 勺目βωω一鋤PP㎝ 団同Φ昌OげPO

   ω≦一ωω心 餌口山勺︒﹃εσq¢Φ︒陰轟 ..妻Φ馨Φ目βヒd碧σ霞冨づωぎ臼四℃鋤づ田口Q

   頃O﹃ヨOω鋤︑鴇勺悼H恥

思草 土︑水︑週二回の刊行紙で初号は一八六一年六月二二日 刊行者 ζ廿

   口pつの碧α氏は同年十一月横浜に転じ同市で ﹁冒冨p山①﹃巴α﹂を刊行す

   ること\なるので其刊行期間は極めて短かをつた︒

註八 拙稿﹁外国人の目に映した開国直後の長崎﹂長大史学第二輯輯所収︒

六九︑三八︒

尺一〇 ℃鋤の屏Φ紹巳畠右著書所収勺DωP

註一一 右に同じ       困鯉ωlP匁・

註一二国巴σqop﹁Z9σq①ω四匹碧α︒冨貯︒α呂①﹂

註一三 拙稿﹁長崎に於ける外人居留地成立と外人の動向﹂長大史学第一輯所収 五雅羅馬とグラバi邸

 従来グラバー商会は英商クラバーが同志フランク︑グルームと組んで

大浦二番に設立したものと言われて居るが其発足は一流商社陣に比べる      ︵万延元!丈久元年︶と極めて影の薄い小さな存在であった事は明らかで一八六〇〜一八六一

年に於て︑其借地権は僅か二件︑而もゲント商会︑ウオールス商会︑マ

ッケンジー︑オールトガ 司Hob↓鋤σqΦ の一等地を占めて居るに対し︑其

所有は背後の知$墨αq①の二等地と日oB鋤︒臣ZO・にすぎない︒然し所       ︵慶応三年︶謂国内の﹁文久政変﹂以後断然頭角を現わし︑一八六七年には既に居留

地借地二十ケ所を持ち︑オールトガ十ニケ所で漸く此に追随するが︑ウ

オールス商会は僅かに三ケ所にすぎず︑其他を断然蹴落して第一位を占     ︵明治三年︶め︑而も一八七〇年に於ける長崎の対外貿易に於いては外人商社の貿易      註一総額の大半をグラバ!商会が独占して断然他を制圧して居る︒     ︵明治三年︶ 然し此一八七〇年の前半こそクラバー商会の最絶頂時であり爾後下降       註二傾斜を辿り︑其衰退の上にリンガホーム商会 の拾頭が見られる︒県立

図書館所蔵の弓丈書の中に朋治五年から七年の問に﹁英商ゴロウル跡引

受人和蘭商社より⁝﹂﹁英町ゴロウル分散跡引受和蘭商社ドンブリンク

より⁝﹂﹁英商ゴロウル跡引取扱アンデルポツト訴⁝﹂等の文壷自が見え

るし︑同商社の最後の牙域で︑﹁日p冨ω三唐鋤O&①曙﹂と謳われた高島炭

   ︵明治七年︶坑も一八七四年に官営にる移管されて居るから︑幕末維新と言う時勢の

波に乗ったグラバーの﹁ζ①零冨葺﹀α<①bεお﹂の性格は此辺に終止符

が司れたと見て良い︒従って外人商社陣の隆替は正に外国貿易︑居留外

人の盛衰︑推移の具体像であり︑長崎に於いては商祉群像の中で其頂点

はゲント商会からクラバー商会へ︑クラバー商会からリンガー商会へ

と︑日本近代化の時勢の浪に乗って推移したと見て良い︒

 先年︑拙稿﹁雅羅馬考﹂を草するに当って︑その表題の下に小註を加

えて︑肥後藩国事史料に収録された肥後藩の探索書f慶応元年五月十二

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参照

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