奈良教育大学学術リポジトリNEAR
一条朝初期の権力構造
著者 今 正秀
雑誌名 高円史学
巻 24
ページ 60‑79
発行年 2008‑11‑30
その他のタイトル The power structure during the early regime of Ichijyo Emperor (一条天皇)
URL http://hdl.handle.net/10105/8858
一条朝初期の権力構造
は じ め に 今
正 秀
︵ 1
︶
﹁ 2 こ
筆者は︑﹁摂関政治と天皇−円融天皇期を事例に−﹂・﹁花山朝の政治﹂において︑両朝の蔵人頭を務めた藤原実資の﹃小
右記﹄を中心に︑当該期の政務運営の実態について考察した︒﹃小右記﹄の残存状況から︑対象としえたのは円融天皇元服
後及び花山朝のいずれも藤原頼忠が関白を務めた時期であった︒その結果︑両朝において天皇から関白頼忠に政務について
の諮問が行われていたこと ︵円融朝と花山朝ではその頻度には相違があった︶︑頼忠がその諮問に答え︑坂本賞三氏が﹁一
︑・Jl
人諮問﹂とされた関白の職責を果たしていたこと︑関白の報答を参照しっつも︑政務の最終決裁は天皇によって行われてい
たことを明らかにした︒これらはいずれも関白設置期の政務運営のあり方としては当然のことといえる︒しかし従来は︑頼
忠が両天皇と外戚関係にないことから︑その関白としての存在感が希薄であったかのように説かれてきた︒それは拙稿で試
みたように当該期の大小様々な政務運営の実態︑政務への天皇と関白︵さらには公卿︶ の関与のあり方がふまえられること
がなかったためではなかろうか︒
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本稿は︑続く一条朝のうち︑天皇元服以前の政務運営について同様に考察しようとするものである︒寛和二 ︵九八六︶年
六月︑一条天皇が七歳で践詐すると︑頼忠に替わって外祖父で右大臣の藤原兼家か摂政となる︒正暦元︵九九〇︶年正月に
天皇が元服をあげると︑兼家は摂政を辞して関白となり︑五月には病により関白を通隆に譲り︑七月に没する︒道隆か関白
てユ
から摂政になるという異例を経て︑再び関白となったのは正暦四年四月であった︒本稿か対象とするのはこの時期であるが︑
前二稿が対象とした時期と異なるのは︑摂政設置期であること︑加えて︑父円融上皇︵一条天皇即位の前年寛和元年に落飾︶
と母藤原詮子が健在であったことである︒円融上皇は兼家没翌年の正暦二年に没するが︑宇多上皇とならんで︑摂関政治期
の上皇としての政務への関与が指摘されてきた︒また︑詮子は正暦二年出家にともない︑初めて女院号を宣下されるが︑そ
の動向は摂関政治における母后・国母の役割を考える上で注目されてきた︒とすれば︑本稿の課題は︑幼帝期において天皇
大権代行を担った摂政と父院・母后との関係について︑政務運営の実態に照らして明らかにすることになろう︒
一摂政兼家
﹃小右記﹄などによれば︑兼家が摂政として大小様々の政務を決裁し︑命を下していることは容易に知られる︒
叙位・除目など人事にかかわる事例としては︑一条天皇践碑からまもない寛和二年八月十三日に摂政直臆で除目を行って
いる ︵﹃小右記目録﹄五京官除目事︒以下︑﹃目﹄︶ のを初めとして︑永廷元︵九八七︶年三月十一日摂政直鹿で僧綱・所々
別 当 定 ︵ ﹃ 小 右 記 ﹄ 同 日 条 ︒ 以 下 ︑ ﹃ 小 右 記 ﹄ 本 文 に よ る 場 合 は 註 記 を 省 略 す る ︶ ︑ 九 月 二 L − 六 日 摂 政 直 虜 で 小 除 目 ︵ ﹃ 目 ﹄ ︶ ︑
永延二年九月十五日には摂政直麿で斎宮寮官除目︵﹃日本紀略﹄同日条︒以下︑﹃略﹄︶︑永種元︵九八九︶年正月五日には︑
翌日が天皇の衰日に当たることから今日叙位を行うよう指示︑十五日摂政直應において蔵人・昇殿・検非違使定︵これにか
かわって十日には蔵人頭実資が摂政第に赴き︑指示を受けている︶︑同二十七日からの除目に先立ち︑二十六・二十七両日︑
摂政直虜で申文撰定︑二月三日には男権大納言道隆を内大臣とするよう命じている︵これにかかわって二十一日には︑任内
大臣儀の宣命や雑事上卿を左大臣源雅信に行わせるよう命じている︶︒三月五日には実資が内昇殿のことを兼家に願い出て
六日に許されている︒八月十四日には︑十三日の大風で倒壊した内裏・大内裏の殿舎・門廊の造作国を定めるようにとの摂
政仰せを受けて定宛が行われ︵﹃略﹄︑﹃小﹄十五日条︶︑二十三日にはその造門行事に中宮藤原通子の推挙によって実資を加
えるとの摂政の命が下されている︒十一月二十七日には摂政直原で京官除目︑十二月九日には同じく摂政直慮において諸寺
所々別当定︑十二月二十六日には摂政直塵で直物︵﹃略﹄︶が行われている︒翌正暦元年五月には道隆が関白︑そして摂政と
なるが︑八月二十九日は摂政直慮において京官除目︑十月十日には摂政直應において小除目︵﹃本朝世紀﹄同日条︒以下︑
﹃本﹄︶︑正暦三年正月十七日は摂政直慮において除目が行われている︒
これらの事例の中で︑例えば永詐九年の造門行事については︑中宮から推挙があった実資以外にも︑修理権大夫藤原安親
が懇望し︑右大臣藤原為光が男春宮権大夫藤原誠信を推挙する消息を摂政に送るなど競望となったが︑実資が摂政御前で直
接聞かされた﹁以レ汝加∃寄道門行事一撃︑一日官有レ披レ仰︑析所レ令レ寄□者﹂との言葉から明らかなように︑その人選は
兼家自身の決定によっている︒また︑先には触れなかった永延二年二月二十八日の除目では︑藤原誠信が参議に任じられた
が︑誠信が二代の蔵人頭の労四年︑右中将の労三年であったのに対し︑三代の頑労八年︑左中将労六年に及び︑位階も高かっ
たにもかかわらず超越された実資は﹁以レ無二道理一﹂﹁朝儀巳軽︑天下以目﹂と不満をあらわにしつつ︑除目以前に誠信父
右大臣為光が摂政第に押しかけ︑誠信の参議任官を懇望し︑﹁若無二許容一︑不レ可二罷出一﹂とまでいったため︑兼家が許容
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したようだと書き記している︒この事例においても︑誠信の参議任官を決定したのは摂政の兼家であることが知られるので
あ る
儀礼の運営に関する事例としては︑元日節会において事由を申さずに退出した公卿を見参から除くよう指示 ︵﹃踏歌節会 ︒
次第﹄永延二年正月一日︶︑真言院念滴の間の天皇の食事について指示︵二月二十七日︶︑璽宮の怪への対応を指示︵閏五月
二十七日︶︑焚惑星の怪異につき︑延暦寺で俄盛光法を︑慈徳寺で泥塔供養を行うことにつき天台座主に指示︵八月七日︶︑
賀茂臨時祭について定め宣旨を下す︵十月二十五日︶︑賀茂臨時祭延引と親王尭奏日決定︵十一月十九日︶︑蔵人頑実資に早
く参内して小朝拝の準備に当たるよう指示 ︵永詐元年正月一日︶︑内裏で行う職盛光法・賭弓について命を下す ︵正月十八
日︒二十日にも賭弓について指示あり︶︑石清水臨時祭・春日行幸舞人定︵二月十八日︶︑国忌上卿について指示︵三月二十
日︶︑斎院御楔に着し事を行うよう実資に指示︵四月十九日︶︑五節舞姫を献じるよう実資に ﹁密語﹂︵九月十九日︒二十一
日に蔵人から正式の伝命あり︶︑冷泉院三宮為尊親王参内への供奉を諸卿に命じる︵十二月一目︶︑などがある︒遺隆に替わっ
ても︑定考の宴座の有無を決定︵﹃本﹄正暦元年八月二十七日︶︑重陽宴に諸卿不参であったことから︑春宮大夫藤原公李に
行うよう命じる ︵﹃本﹄九月九日︶︑大祓に上郷不参のため︑前例により左中弁をもって行わせる ︵﹃本﹄九月二十九日︶︑実
資に大原野祭上卿を命じる ︵十一月十三日︶︑実資に政始とその後の摂政大饗への参加を命じる ︵正暦四年正月二十三日︶︑
天皇も臨席した石清水臨時祭試楽で︑簾中に候じた摂政が﹁一舞﹂を舞う舞人を指名する ︵三月十六日︶などの事例をあげ
る こ
と が
で き
る ︒
上記以外では︑兵庫寮倉に放火し戎貝を盗んだ者を捕らえた検非違使に対して禄を与えるよう命じる ︵永延二年二月五日︶︑
官事を勤めない公卿を戒める ︵三月二十一日︶︑神祇官斎院の破損状況を調べるため蔵人所小舎人の派遣を命じる ︵三月
二十七日︶︑焚惑星祭を奉仕しなかった安倍清明に過状の提出を命じる︑滝口着到を厳にするよう指示︵八月十八日︶︑天皇
脳気により安倍清明に御占奉仕を命じる ︵永詐元年正月六日︶︑御体御占の奏闇を受ける ︵十二月十日︶︑維摩会不参の
五・六位を停任︵正暦元年十月二十六日︶︑季御読経定文の奏間を受ける ︵正暦四年三月二十日︶ などの事例がある︒この
. 1
︑
うち︑本来天皇に奏すべき文書の奏間を摂政が受けていることからすれば︑当該期に行われた公卿定の定文も当然に摂政に
奏されていたと考えられるのであり︑そのことは︑摂政が奏間を受けてその案件について最終決裁を下していたことを示し
て い
よ う
︒
以上︑煩雑を顧みず︑摂政の政務・儀礼への関与を追ってきた︒これらは︑ほとんどが政治史的に︑あるいは権力論の視
覚からは特筆されるようなものではない︒しかし︑これら様々な案件について最終的に決裁し︑指示を下すことこそが︑天
皇大権代行という摂政の職能の日常的な発現にはかならず︑それは︑本来当該期の天皇に求められた日常的政務決裁の実態
でもあった︒しかも︑摂政のこうした日常的な政務決裁には︑父院も母后も全く関与していないことに改めて注目しておき
た い
ところで︑摂政が置かれた場合でも︑諸儀礼に幼帝が自ら臨まなければならない場合もあったことは周知のところである︒ ︒
︑
・ か 1
そのような場合︑摂政は﹁候二御後一﹂して天皇を扶助した︒儀礼における摂政の扶助は︑幼帝が天皇としての威儀を整え
るために不可欠の行為だったのである︒
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二 父院円融上皇
院政開始以前の平安時代の上皇については︑かつて目崎後衛氏が嵯峨・清和・芋多・円融の各上皇の﹁国政関与﹂を論じ
られ︑円融上皇については︑﹁その政治関与は直接院に関係ある案件にはぼ限られ︑それさえしばしば朝廷によって抑止さ
︵ 7
︶
れた﹂と述べられた︒
近年︑太上天皇についての研究が深められる中で︑平安時代の太上天皇のあり方についても︑奈良時代からの変化をふま
え︑検討が加えられた︒春名宏昭氏は︑奈良時代の太上天皇は天皇と法制上同等の権能を有し︑ともに﹁統治権の総撰者﹂
であったが︑嵯峨上皇以後︑上皇は譲位にともなう内裏退去によって︑天皇大権を行使して国政を行うことを放棄すること
を表明したとの理解を示され︑院政期以前の嵯峨から三条までの各上皇の動向について︑権能行使如何という視点から考察
された︒そして︑﹁天皇が成人で国政執行能力がある場合には︑太上天皇は国政に関して権能に基づいた行動をとることは
できなかった﹂︑﹁太上天皇の意思表明は天皇に私信を送る形でなされ︑太上天皇の意志が結果的に国政に反映されたとして
も︑それは形式上は天皇の命令として実施された︒ただし︑国政執行の能力のない幼帝が即位すると︑摂政より上位の﹁統
治権の総撰者﹂として国政を領導していったが︑その場合にも摂政に直接命令を下すという形を取り︑命令系統の一本化は
堅持された︒この体制は摂政の﹁統治権の総撹代行者﹂とでも言うべき性格と密接に関連する問題であり︑今早急に結論を
述べることはできないが︑平安期の太上天皇も潜在的には﹁統治権の総携者﹂としての性格を依然有していたと言えるであ
︵ 8
︶
ろ う
﹂ と
さ れ
た ︒
以上から知られるように︑春名氏は︑上皇の意志が成人天皇に伝えられた場合は﹁希望表明﹂や﹁参考意見﹂にとどまる
のに対し︑幼帝時の摂政に伝えられた場合は﹁命令﹂と解されるのであるが︑その区別の拠り所はどこにあるのだろうか︒
これについて氏は明言しておられないが︑成人天皇と上皇との関係について述べられた中で︑﹁太上天皇の意向は単に希望
の表明であったり︑参考意見に止まり決定権はあくまでも天皇にある﹂とされることからすれば︑﹁決定権﹂ の所在による
と推察される︒とすれば︑氏は︑成人天皇は上皇の意志に対してもその認否について﹁決定権﹂を有するのに対し︑幼帝時
の摂政は上皇の意志に対する﹁決定権﹂を有しないと考えておられると解されよう︒なぜなら︑上皇の意志に対する﹁決定
権﹂を摂政が有しないからこそ︑上皇の意志が直ちに決定そのものになるのであり︑それは摂政にとって命令となると考え
るべきであろうからである︒
こうした氏の理解は︑幼帝時の上皇を﹁摂政より上位の ﹁統治権の総撰者﹂﹂とみなすことから生じていると思われる︒
これは︑上皇のあり方の問題であると同時に︑氏が正しく指摘された﹁摂政の ﹁統治権の総横代行者﹂とでも言うべき性格
と密接に関連する問題﹂でもあるのだが︑両者の関係を氏のように理解することの妥当性は必ずしも自明ではない︒論理的
には︑摂政の上皇に対する関係を︑成人天皇と上皇のそれと同様に理解し︑﹁太上天皇の意向は単に希望の表明であったり︑
参考意見に止まり決定権はあくまでも摂政にある﹂と考えることも可能なのではなかろうか︒これを﹁決定権﹂とのかかわ
りでとらえ直せば︑﹁統治権の総揖代行者﹂としての摂政が︑上皇の意志に対しても﹁決定権﹂を有していたか否かである︒
もしそうした理解が成り立つならば︑摂政は上皇の意志に対する決定権も含む﹁統治権の総薦代行者﹂と理解すべきことに
な る
一条朝における円融上皇と摂政兼家の関係は︑これについて考える上で興味深い事例を提供してくれる︒以下︑決定権の ︒
所在に注目してみていこう︒
66
永詐元年正月除目に際し︑﹃小右記﹄には二十五日条に﹁今日依レ召参し院︑下﹇拾大学助有家申二式部l申文拝左衛門志多
米 国 定 申 二 外 記 一 申 文 等 L ︑ 被 レ 遣 一 摂 政 許 一 ︑ 又 院 分 加 賀 事 可 レ 翠 一 相 違 ⁝ 之 由 有 二 仰 事 一 ︑ 即 申 二 摂 政 l 一 ︑ 被 レ 奏 云 ︑ 加 賀 事 前 目
奉レ仰︑又両人事諸卿会議可レ申者﹂︑二十八日条に﹁早朝参レ内︑於二摂政御直康一撰二人々申文l一︑従レ院有レ喚︑即参入︑⁝
又式部・外記等事同有二仰事一︑即帰﹁参内一︑末時許除目始﹂とある︒この時の除目で円融が兼家に自らの意向を伝えた複
数の案件のうち︑結果が知られるものに外記への任官を望んだ左衛門志多米国定の事例がある︒二十五日に国定の申文は円
融から兼家にもたらされたが︑兼家はこれを﹁諸卿会議﹂ の対象としている︒また︑二十八日にも︑円融は実資を通じて兼
家に重ねて国定・有家の任官についての意向を伝えたと思われる︒しかし︑この除目では国定は外記に補任されなかったの
である︒﹃外記補任﹄では︑国定の権少外記補任を翌正暦元年正月としている︒その直前の ﹃小右記﹄永詐元年十一月二十五
日条では︑国定が藤原惟風とともに実資のもとを訪れ︑前日の大原野祭での ﹁濫吹﹂について報告している︒惟風は右衛門
尉で検非違使であるから︑国定もこの時同じく検非違使として同通したのであり︑とすれば国定はこの時依然として左衛門
志の官にあったと考えられるのである︒この事例における円融の意向を︑春名氏の理解に従い︑上皇の大権行使としての摂
政への命令とするならば︑上皇の大権行使が摂政によって拒否ないし否定されたことになり︑摂政には上皇の大権行使を拒
否・否定する権能があったと解さざるをえない︒そのように考えるならば︑上皇の有した大権と摂政の大権代行の上下・優
劣が問題となってこようが︑先に指摘した﹁決定権﹂ の所在に立ち返ってこの事例をみるならば︑﹁決定権﹂が摂政にあっ
たことの証左にはかならない︒とすれば︑﹁決定権﹂を有する摂政に対する上皇の意向は︑成人天皇に対すると同じ希望表
明・参考意見にとどまるものであったと考えるべきであろう︒
そのような理解が成り立つか否か︑いま少し他の事例を見てみよう︒次にとりあげるのは︑円融院別当でもあった実資の
参議任官の経緯である︒一条天皇が円融寺に父上皇を朝観した翌永詐元年二月十七日︑院に参入した実資は︑円融から﹁八
座事昨行幸之間示二摂政\ 巳有一l許容\ 且所二喜恩l一也者﹂と聞かされる︒これに先立ち︑実資は九日兼家男遺兼のもとを
訪ねて﹁申コ付身上事J ており︑行幸に先立つ十三日には円融との間で﹁奉身上事一︑頗有二恩□一﹂とのやり取りがあり︑
十五日にも円融に﹁奏二身事こしていた︒十八日には兼家から円融に男道長が使者として派遣されたが︑それは﹁是八座
事也︑為レ承二又々仰・者﹂ であった︒兼家からの奏間の内容は﹁加任事楢可レ難軟者﹂というものであったことが翌十九日
条から知られるが︑それに対して円融からは﹁猶以レ余可レ被レ加﹂任八座l一之由仰事己切云々﹂との返答かなされた︒さら
に︑翌十九日にも︑兼家の使者として同じく男道兼が派通されたが︑円融は﹁此般事為l他人 可レ無l一l誘難︑只在∴於吾l一
者﹂とまで述べた︒同日夜︑実資が道兼から聞いたところでは︑兼家が﹁己有二許寧﹂とのことであった︒翌二吉︑実一
資はまず参院して ﹁奏二身上事こし︑続いて兼家第に参った︒そこで兼家から︑﹁院仰巳重︑難二固辞申l︑今日可レ令一奏 68
聞一︑可レ在コ存心中一︑今依二此事一人々怨多軟︑偏依二院仰一所レ可l一加任一者﹂と聞かされた︒そして︑道兼が使者となり︑
﹁巳有二可許一﹂との兼家の返事を円融に奏し︑参院した実資は円融から︑兼家の奏した﹁既有二可レ許之趣一﹂をあらためて
聞かされたのである︒以上によれば︑実資の参議任官は円融上皇の意向に発したものであるが︑摂政兼家は一旦はこれを許
容したものの︑その後難色を示し︑任官を求める上皇との間でやり取りが重ねられた︒そして︑最終的には︑兼家が ﹁院仰
巳垂︑難固辞申﹂︑﹁偏依院仰所可加任﹂として﹁巳有可許﹂と上皇に伝えたことで決着をみたことが知られるのである︒こ
の事例においては︑結果的には円融上皇の意向は実現されているが︑﹁決定権﹂は兼家にあったと考えられる︒円融の意向
に対する兼家の判断が一貫して﹁許容﹂と表現されていることも︑このように解することを可能にしようし︑兼家が﹁難固
辞申﹂と述べていることは︑場合によっては﹁固辞申﹂︑すなわち上皇の意向を受け容れないこともありえたことを示して
い よ
う ︒
次に︑一条天皇の春日杜行幸をめぐる一件をとりあける︒ことの起こりは︑永稚元年二月五日︑摂政兼家から円融上皇に
﹁来月二三日可し有二春日行幸l一︑依二前年御願l也︑人々夢想早可レ被し遂之由頻有二其告一︑的可レ被し果﹂と奏したことによ
る︒同時に奏した一条天皇朝戟行幸︑藤原道隆の任内大臣と合わせ︑上皇からは﹁此三事ふ⁚ヾ承之者﹂との返事があり︑そ
の夜のうちに左大臣源雅信が行幸雑事定を行い︑準備が始められた︒ト三日に﹁来月春日行幸不快之由光栄朝臣進二勘文一︑
以レ余被レ遣一左府︑被l二定申二日無二定l一︑但陰陽家進不快勘文︑無し指レ期︑被レ過□間如何者﹂と延期が検討されたよう
であるが︑三月十三日には円融からも兼家に対し ﹁仰云︑春日行幸日御物忌重畳︑栖不快事也︑就レ中両度夢相心不レ宜︑析
可し披レ延二彼日 之由示﹂送摂政許l一了者﹂と︑行幸延期の意向が示された︒これを受けて一旦は直ちに摂政から行幸停止宣
旨が下されたが ︵十四・十五日条︶︑十五日には ﹁摂政被レ命云︑春日行幸依一御物忌相垂l一可一停止一之由有院仰事一︑析
下 宣旨一了︑而有l一不快之夢想︑又百レ如し示土塊惟異事︑猶可レ有 行幸軟︑依レ有 事疑l一間l一陰陽家∴ 所し申縦横︑
叉キ令レ問可し令レ奏レ院也者﹂と行幸実施を求める兼家の意向が示された︒これについて ﹁公卿不レ被し申二定﹂ であった
が︑翌十六日には﹁摂政使頭中将猶可し有l行幸之由被レ奏し院云々﹂︑それについての円融の回答は記されていない︒十九
日には︑北野天満天神から自社への行幸を望む託宣が詮子にあったが︑その中で天神は﹁春日行幸神明巳有 歓悦l﹂と述
べたという︒そして二十日には春日行幸試楽が行われ︑当初の予定を一目早めて二十二日に一条天皇の春日行幸は行われた
のである︒この場合は︑摂政の意向に対して上皇が難色を示し︑一旦は摂政も上皇の意向を受け容れたものの︑結果的には
それを覆して摂政の意向通りに行幸は行われているのである︒行幸を行うとの決定は︑それに難色を示した上皇によってで
はなく︑摂政によって行われたと考えるはかないであろう︒
以上︑上皇と摂政の意向が異なった事例についてみてきたのであるが︑これらからすれば︑上皇が自らの意向を明らかに
した場合でも︑それについての決定権は摂政にあったと解してよいであろう︒上皇の意向が実現された事例についても︑そ
れは上皇の意向が摂政に対する命令であったからではなく︑上皇の意向を許容する決定が摂政によってなされた結果と考え
られるのである︒
このように考えるならば︑春名氏が指摘された﹁摂政の ﹁統治権の総摸代行者﹂とでも言うべき性格﹂ については︑摂政
は︑上皇の意向に対する決定権を含む︑成人天皇と同等の権能を有したと解すべきことになろう︒そうした理解は︑嵯峨上
皇以後︑院政以前の上皇が︑譲位にともなって内裏を退去することで大権行使による国政領導を放棄したとする理解とも整
合すると思われる︒
ところで︑こうした理解と矛盾するかのような事例として︑源時中の参議任官がある︒﹃楽記﹄によれば︑寛和二年十月 70
吉︑円融が大井川に運行した折︑源時中の舞に﹁再三之御感﹂があり︑﹁剰勅二摂政一︑早可レ令レ列二八座l一之旨︑被二仰−
付一之刻︑時中奏二二拝一︑則召列二公卿座一﹂︒時中は十五日に参議に任じられている︒この件は﹃玉葉﹄にも︑﹁円融院︑太
井川冶造︑依二舞賞\被レ仰下任二参議一之由上︑後日披レ載二除目∴ 此事見二小野官記一︑彼記意︑以二上皇宣一被レ任二参議一
︑q
・︑
之条︑甚難レ之﹂と記されており︑一見すると上皇が大権を行使して摂政に命令を下しているかのようである︒しかし︑
﹃玉葉﹄の記主藤原兼実が﹃小右記﹄に記された実資の意を︑﹁彼記意︑以上皇宣披任参議之条︑甚難之﹂としていることに
注目したい︒もし︑上皇が大権を行使して摂政に命令することが妥当と認識されていたならば︑実資がこれを難じることは
ありえないのではなかろうか︒一方︑当時の摂政兼家としても︑先に見た事例のように︑私信やそれぞれの侍臣を介して上
皇とのやり取りが行われた場合には︑上皇の意向に対する可否を忌憧なく伝えることができたであろうが︑雇従していた人々
の前で上皇の意向が表明されれば︑それをあからさまに拒否することは憧られたであろう︒そのことは︑結果的に摂政が有
した﹁決定権﹂ に抵触することにはかならない︒実資の批判はそれ故であったと考えられるのであり︑とすれば︑これもま
た︑本来摂政が決定権を有していたことをうかがうにたる事例といえよう︒
上皇と摂政の関係を︑決定権の所在から以上のように考えるならば︑幼帝時の上皇を﹁摂政より上位の﹁統治権の総攫者﹂﹂
とすることについても問い直さなければならないであろう︒ただし︑摂政が上皇の意向に対しても決定権を有していたと考
えることは︑摂政を上皇より上位の存在と位置づけることを意味しない︒身位においては︑摂政は上皇に対してあくまで臣
下であった︒それは兼家から円融への意思伝達が一貫して﹁奏﹂︑円融から兼家へのそれが﹁仰﹂とされていることからう
︵ 1
0 ︶
かがうことができる︒かつて拙稿で指摘したように︑臣下である摂政に天皇大権代行が委ねられたところにこそ摂政制の特
質があるのである︒
三 母后詮子
本稿が対象とする時期︑生母藤原詮子は皇太后であった︒この時期を含め︑詮子の動向については︑母后・国母の政治へ
︵ 1 1
︶ へ 接
︶
の関与をうかがわせる事例として注目されてきており︑近年では服藤早苗・古瀬奈津子両氏によって詳細な研究がなされて
いる︒それによれば︑当該期の詮子の動向として注目されるのは︑内裏での天皇との同居と行幸での同輿である︒
嵯峨朝から円融朝までの内裏での天皇との同居者を詳細に検討された東海林亜矢子氏は︑その変化を﹁天皇と妻后中心の
時代から︑天皇と母后か中心の時代に︑更には特に後宮において母后を核にしたいわば﹁ファミリー﹂ の時代へ﹂とされ︑
﹁后に最も期待された政治的機能の一つは︑天皇と摂関︑あるいは次期天皇と摂関を結ぶ紐帯としての働き﹂ であり︑これ
︵ 1
3 ︶
を果たせたのが母后であったところから︑母后の内裏同居は﹁王権の安定化をはかるために創出されたひとつのシステム﹂
であったとされた︒首肯すべき見解と思われる︒
天皇と母后の内裏での同居は︑譲位とともに内裏を退去した上皇が︑以後再び内裏に入ることができなかったことと対照
的であり︑例えば︑服藤氏は﹁穏子や詮子の例のように︑天皇元服後も同殿できた国母の政治的意志の介入は構造的にみて
ー︑‖ヽ
大きかったと思われる﹂とされる︒しかし︑東海林氏によれば︑朱雀天皇と穏子の場合︑元服後は﹁通常︑居所の昼御座で
政務をみている天皇と︑他の所生子と共に住んでいる母后穏子とが恒常的に同殿するのは難しかったであろう﹂ ことから︑
在位中は近くの殿舎を選んでいるようではあるが﹁母后と天皇は短期間を除いて基本的には別殿﹂ であったとされる︒内裏
での同居が︑直ちに︑また恒常的な同殿を意味するわけではないのである︒朱雀が村上に譲位した後は︑穏子は朱雀ととも
に内裏を退去しているから︑村上との同居はなかった︒
一条天皇︵懐仁︶ の場合︑永観二年八月二十七日の花山天皇即位にともなう立太子とともに東三条第南院から凝華合に入っ
ている ︵﹃略﹄︶ ことから︑それ以前は東三条第で詮子と同居していたと考えてよいであろう︒では︑立太子後はどうだった
のだろうか︒懐仁が立太子後に入った凝華舎は詮子の上直臆であったが︑この時詮子がともに内裏へ入り︑その後同殿した
ことを史料によって確認することはできない︒一方︑翌寛和元年二月二十日と六月五日︑円融上皇が詮子を東三条第に訪ね
ていること︑詮子は一条践詐直後の寛和二年七月九日に東三条第から入内している ︵﹃略﹄︶ ことから︑詮子は少なくともこ
の間は東三条第にいたと考えられる︒東海林氏が︑﹁平安宮の初めから一貫して︑先帝と先帝キサキたちは内裏から排除さ
れて﹂ いたが︑﹁その大原則よりも今上生母であることが優先され︑母后は先帝キサキの一人であるにもかかわらず内裏に
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入れた﹂とされることや︑一条践詐以前は詮子は女御であって后位についていないことをも合わせ考えれば︑花山在位時に
天皇生母ではない詮子が内裏に入ることはなかったと思われる︒とすれば︑一条が立太子後一貫して凝撃合にいたならば
︵一条は寛和二年六月二十三日践酢に際しては凝華舎で剣璽を受けている︵﹃扶桑略記﹄︶が︑その前後に他所から擬革合に
移ったとの記録がないことからすれば︑その可能性は高いと思われる︶︑この間︑母子は別居であったことになる︒
一条践詐直後︑詮子が皇太后となり︑入内して後は両者が同居・同殿していた可能性は高いと思われる︒しかし︑一条は
践詐翌年の永延元年二月十六日に凝華合から清涼殿へ移っているのである︵﹃略﹄︶︒とすれば︑天皇と母后の同殿はわずか
半年余に過ぎないことになる︒
一方︑母后同輿の事例は︑寛和二年十月二十三日大嘗会御楔︵﹃北山抄﹄五 大嘗会御楔事︶︑十一月十五日大嘗会八省院
行 幸 ︵ ﹃ 中 右 記 ﹄ 天 仁 元 年 十 一 月 八 日 条 ︶ ︑ 十 二 月 二 十 日 朝 覿 行 幸 ︵ ﹃ 朝 戟 行 幸 部 類 ﹄ ︶ ︑ 永 延 元 年 十 一 月 八 日 石 清 水 行 幸 ︵ ﹃ 略 ﹄ ︶ ︑
︼眼 瓦
十二月十五日賀茂行幸︵﹃略﹄︶︑正暦元年正月十一日朝戟行幸︵﹃朝戟行幸部類﹄︶などがある︒また︑永延二年九月二十日
の斎宮群行に際しての八省院行幸では︑詮子の物忌により﹁今般始無二同輿﹂とされているが︑これは幼帝の内裏からの
出向にあたっては母后同輿が常態であったことをうかがわせよう︒
︵ 1
6 ︶
母后の内裏での同居や同輿は︑吉川真司氏が﹁直接的かつ日常的な奉仕﹂とされたところの︑幼帝に対する直接的・日常
的な扶助こそが第一の目的であり︑それを果たすところに幼帝期の母后の役割があったとすることに異論はないであろう︒
︵ 1
7 ︶
末松剛氏が論じられた天皇即位儀における母后の同輿・同座に見られるような諸儀礼における扶助も︑同様である︒それは︑
先に摂政の儀礼における天皇扶助について述べたのと同じく︑天皇が天皇としての威儀を整えるために不可欠だったのであ
る︒
︑いしかしながら︑そうした直接的・日常的な扶助から︑﹁国母の政治的意志の介入﹂あるいは﹁天皇の政治意恩形成⁝への
︵l ︒︒︶ 補助﹂を直ちに導き出すことは︑先に見た同殿・同居のあり方をふまえるならば︑慎重であるべきではなかろうか︒一条幼
︵却︶帝期における詮子の﹁政治的な動向﹂として︑一条元服に備えた摂政兼家の太政大臣任命が﹁母后命﹂によって行われたこ
︵21︶とが指摘される︒しかし︑これが﹁耕し奉レ寄l事於母后命一︑只吾御心也﹂とされているように︑兼家自身の意によるもの
であることは明らかである︒この任官が﹁母后命﹂という﹁形式﹂をとったことの意味を否定しようというのではないが︑
その決定が誰によってなされたのかということこそがより重要なのではないだろうか︒
お わ 日 ソ に
はじめにで述べたように︑一条朝初期は︑幼帝に対する摂政が置かれた上に︑母后︑さらに直系の父上皇が健在であると
いう︑摂関期においても希有な時期であった︒本稿では︑政務や﹁後見﹂のあり方から︑三者それぞれの果たした役割と相
互の関係を考察した︒
この時期︑日常的な政務は摂政藤原兼家によって決裁・処理されており︑父円融上皇や母后詮子がそれに関与することは
なかった︒それに対して︑人事や一条天皇に直接かかわることについて円融上皇が私信や使者を介して摂政に意向や要望を
伝えることがあったが︑最終的な決定は摂政によってなされていた︒また︑摂政兼家から円融上皇の了解を求めることもあっ
たが︑その場合も同じである︒このことは︑摂政こそが決定権を有しており︑従って︑摂政の代行した大権が︑成人天皇の
それと同等であったと考えられることを物語っていよう︒
︑H
−. 1
筆者はかつて︑父上皇と摂政との関係を決定づけたのは︑陽成天皇即位に際しての藤原基経の任摂政にあったと論じた︒
伝国詔命において基経を摂政に任じた清和上皇に対し︑基経はその辞表において﹁太上天皇在レ世︑末レ聞二臣下摂政一︑幼
︵ 器︶
主即位之時︑或太后臨朝﹂と述べた︒にもかかわらず︑この後︑清和が一切政務に関与しなかったことは周知のところであ
る︒それによって︑摂政基経は成人天皇と同等の大権を代行することが可能になったのであり︑また︑そうせざるをえなく
なったのである︒以後︑摂関期において︑直系の上皇が健在であった時期はきわめて限られたが︑その場合の摂政と父上皇
との関係は︑基本的にはこれを引き継いでいるとみてよいであろう︒兼家と円融の事例は︑そのことをよく物語っている︒
一方︑母后詮子は︑天皇に対する直接的・日常的な扶助を担った︒内裏での同居と行幸での同輿はその象徴的なものであ
る︒ただし︑同居については︑天皇との同殿が︑その可能性のある期間が短いことを含め︑過大に評価することには慎重で
あるべきであろう︒
摂関政治における母后の政治的機能を︑藤原詮子・彰子の動向から論じられた古瀬奈津子氏は︑事例が多く残る彰子の場
合︑﹁政治的に重要な一般事項は︑天皇が幼少の時には摂政によって決定されるのが普通であろう︒しかし︑摂政や前摂政
に関係する事項については︑摂政の判断では決定できず︑母后の令旨が必要であったと考えられる﹂と述べられた︒詮子の
場合も︑先に見た兼家の太政大臣補任をそうした事例としてあげておられる︒兼家の事例は決定そのものも兼家自身による
ことが明らかであり︑母后と摂政の関係については︑両者が父子関係にあるのか兄弟姉妹関係にあるのかによっても差があ
るように思われるが︑古瀬氏の指摘に従えば︑摂政や前摂政に関わる事柄を除けば︑母后も上皇と同じように関係者の人事
などについて意向を表明するものの︑決して決定権を有していたのではなかったことが知られるのである︒
玉井力氏は︑摂関期の天皇を支える存在を︑行政面を担当する摂政・関白・内覧と︑﹁行政担当の部門に働きかけること
.パ
によってのみ後見が可能であった﹂院・女院・母后等に分けられたが︑本稿でみてきた一条朝初期の摂政・父上皇・母后の
あり方は氏の指摘されたところに合致する︒氏の指摘を決定権の所在からとらえ返すならば︑幼帝期に決定権を有していた
のは天皇大権代行を担った摂政であったということにはかならないのである︒
以上で本稿での考察を終えるが︑この後︑遺隆・道兼が相次いで死去し︑伊周との後継争いに勝利した道長が︑長く内覧・
一上として廟堂の頂点に立つ時期を迎えることになる︒道長はそのままの地位で三条朝を経て︑外孫後一条天皇即位に際し
摂政となる︒しかし︑短期間で摂政を頼通に譲り︑大殿として頼通を後見する︒頼通は道長没後四十年に及んで関白を続け︑
その地位は弟教通を経て男師実に継承される︒師実は堀河天皇即位にともない摂政となるが︑同時に白河上皇による院政が
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始まる︒坂本賞三氏は︑院政を院が﹁国家大事﹂を︑天皇が﹁小事﹂を担当する政治形態とされた︒これを本稿での考察に
引きつけるならば︑院政とは上皇が﹁国家大事﹂ の決定権・決裁権を担うということである︒とすれば︑本稿で見たところ
の摂政が最終的な決定権・決裁権を有し︑上皇の意向は希望表明・参考意見にとどまったあり方から院政への移行はどのよ
うにして可能になったのかが問われなければならない︒
春名氏は摂関政治から院政への転換を︑権能論から︑上皇の ﹁潜在化していた﹁統治権の総撰者﹂としての性格が再度顕
在化した結果﹂とされた︒坂本氏は︑白河院が﹁国家大事﹂を決裁しはじめた直接的契機は直系の子孫の皇位継承を守るた
めであるが︑当時の中央政府を悩ませていた寺社強訴に対処するためであり︑それは王朝国家が﹁国家大事﹂の運用を弾力
的に行うことで中世形成期の社会変動に対応していたことを意味するとされた︒筆者もかつて︑当該期国家の政治課題への
︵ 盟︶