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通訳の現象学の試論
――翻訳との比較をもとに
陶 久 明日香
はじめに
ヨーロッパの文化を日本において受容する上で、ヨーロッパの言語を日本 語に「翻訳」していくという作業は欠かせない。書店や図書館には無数の翻 訳書があり、その恩恵を多かれ少なかれ受けながら、我々は文化受容をして いる。また何かを専門的に研究する場合は自ら翻訳作業に取り組む必要があ るが、その際にも自らの解釈の妥当性を確かめたり強化したりするために補 助として翻訳書を参照する場合は多く、参照するのに好ましい、いわゆる名 訳なるものが重要視される。
こうした翻訳と似て非なるものとして、「通訳」の作業がある。通訳作業も 異文化受容には欠かせないものであるが、その重要さは果たして翻訳の重要 さと同等の仕方で認められているのであろうか。筆者自身、学会のシンポジ ウムや講演会などでドイツ語から日本語への逐次通訳を 6 回、また(ドイツ 人がドイツ語原稿を読むのに並行して、その音声を聴きながら、日本語の原 稿を通訳ブースで読むという)同時通訳を 1 回経験したことがある。しかし 研究者である場合、翻訳は業績として認められても、通訳は業績としては認 められない。また一般に、国際映画祭などのイベントや政治的外交の場でも 通訳者の存在は不可欠であり、通訳者がいなければその場は決して成り立た ないにもかかわらず、通訳者は特に注目されることがない。
たしかに、対価として賃金が支払われている場合はそれで満足すべきなの
かもしれないが、その名前すら会場にて紹介されることはないというのはど
ういうことなのか。実際に経験して素朴に思うのは、通訳というものはなん
だか割の合わない業務だということである。研究の場で言えば、通訳を介し
て発表する人はその発表により研究業績が増え、またその内容が評価の対象
141 となるが、通訳者はこれと同等のことを期待することができないのであるか ら。これは筆者のみの実感であるにとどまらない。日本通訳学会初代会長の 近藤正臣も、日本での通訳職に対する社会的評価は必ずしも高くないという 見解である。彼はその論拠として、「通訳?あんなものは、英語がペラペラな らだれでもできるんだろ」と実際に言われたという自身の経験や、翻訳者の ことはみな必ず「翻訳者」ないし「翻訳家」と呼んでおり、「翻訳」と呼ぶこ とはないのに、通訳者の場合は、「医療通訳を手厚く配置した」などというよ うに、たいていはただ「通訳」とよばれることのほうが多いということを指 摘している︵1︶。
また筆者が専門としている現象学の分野でも、「翻訳」という事象について 論述する試みはすでにいくつかなされている
︵2︶。しかし「通訳」という事象 となると皆無といってよい。こうした扱いの違いはどうして生ずるのか、ま た先述の「割の合わなさ」という感覚は一体何に起因するのか。このような 問題意識のもと、以下、本稿では通訳という事象と翻訳という事象を比較し ながら、「通訳の現象学」の「試論」という意味での「エッセイ」なるものを 展開してみようと思う。
現象学のモットーは「事象そのものへ」というものであるが、それは大雑 把にいえば、事象を上空飛行的に眺めながら他人事のように語るのではなく、
「一人称としての私」に現れているものへと迫り、記述し、その構造を明らか にするということを意味する。したがって、以下の論述は「一人称としての 私」による実際の通訳ならびに翻訳の経験(いずれも哲学関係の内容のもの でドイツ語から日本語)
︵3︶をベースとし、その言語化が中心となるが、他方、
この記述は素朴な思い込みの域にとどまっていてはいけない。あくまでもそ
こで見えてくる構造を冷静に取り出す必要があるため、その際、ハイデッガー
をはじめとする過去の哲学者たちの考え、ならびに著名な通訳者たちの考え を部分的に参照することにしたい。また本稿の狙いは、言語論的なアプロー チから通訳という事象を明らかにするということではなく、むしろ通訳をし ている「通訳者のあり方」の構造について描写することである。
1.制約の度合
まず翻訳と通訳の違いとして挙げられるのは、通訳業務のほうが制約が多 いということである。通訳の場合、たいていの場合が人々の前での特定の時 間内での何らかのイベントにおいてパフォーマンスをすることが求められる ため、「今」、「ここ」というものに必ず縛られており、途中で止めることは原 則として不可能である。他方、翻訳の場合は特定の期間内に仕上げられるこ とが求められるが、その範囲であれば時間と場所の使い方は自由である。訳 者の身体状態ややる気に合わせていつでもどこでも遂行することができるし、
人前でのパフォーマンスは求められないがゆえ、中断したい時にいつでも休 むことができる。つまり、翻訳作業というものが、ある種の緊張を強いられ つつも気晴らしをしながら取り組むことができるものであるのに対し、通訳 業務というものは気が抜けない状態と極度の集中力が要求されるものなので ある。このことは主に、通訳業務のもつ上述のイベント性に起因するといえ よう。さしあたり、両者の違いとしてこのような制約の度合の違いを挙げる ことができるが、こうした違いを以下、人間存在の根本的な有り方に照らし 合わせて、より詳細に考察してみたい。
ハイデッガーは人間存在を、外的世界から端的に区別されるような「主観
(Subjekt)」や「精神(Geist)」としては捉えず、自分の身の周りの事物や人々
143 と意味連関としての有意義な世界を織り成しながらその内に住んでいる「世 界内存在(In-der-Welt-sein)」として捉える。この世界とは、自分のみならず 様々な人や道具の有り方の様々な可能性がつねに何となく見えるようになっ ている「現われの場(Da)」であり、そうした場を形成しつつ存在している 我々人間存在は「現存在(Dasein)」とも称される。この現存在の根本的な有 り方を彼は「気遣い(Sorge)」とよぶが、これは「おのれに先立って、すで に(世界)の内で、(世界内部的に出会われる存在者の)もとで存在するこ と」として定式化される︵4︶。どのような現存在であれ現存在である限り、こ うしたあり方を絶えずしており、それゆえにのみ具体的な道具事物との関わ りとしての「配慮的な気遣い(Besorgen)」や具体的な人との関わりとしての
「顧慮的な気遣い(Fürsorge)」が可能になるという
︵5︶。
上述の定式は、人間の時間性にも対応している。「おのれに先立って」は将 来、「すでに何らかの世界の内で」は既在、そして「なんらかのもののもとで 存在すること」は現在であり、我々は現在の点に留まることなく、この三つ の様態を絶えず脱自的に行き来しながら生きている。何をするにしてもつね に前もって「~しそうだ」という可能性(自分を脅してきそうだ、自分に とって役に立ちそうだなど)を見込んで身の回りの物や人の連関全体のあり 方に見当をつけるという仕方で将来的に可能性へと先駆け、既に自分がもっ ている条件、知識、状況などを考慮に入れつつ既在的ものを反復し、その上 で何らかの具体的な状況において実際に行動して現在を生きているのである。
では、こうした三つの脱自態によって形成される現存在の根本的な有り方
に即して、翻訳の作業を考察してみよう。まず先行的な意味投射という点に
関してであるが、オリジナルのテクストで問題となる事柄の意味のネットワー
クを前もって自分で確保しつつ、理解の見当をつけるということはどのよう
なテクストを訳す場合でも多かれ少なかれ行われている。特に論理的な文章 の場合、「だいたいこういう流れで論が進むであろう」、「この事象とあの事象 が連関している」などということの予想が予めつけばつくほど、適切な語で 訳すことができるようになる。厳密には論理的に書かれているとはいえない ような文章、例えば手紙や日記や私的なものとして書かれた手記などの翻訳 が難しいのは、意味の可能性に向けての投射を予め行うことが難しいからで あるが、そのような文章でも、その著者の当時の生活状態や時代背景などの 周辺知識の収集を徹底的に訳者が行えば行うほど、理解の予測の幅は広がり、
訳しやすくなる。
また、いわゆる専門的な学術書の翻訳は、その分野を専門とする研究者に 依頼されるケースがほとんどである。例えば、翻訳事務所に所属したりフリー ランスという仕方で活躍をされているプロの翻訳者に出版社が哲学書の翻訳 依頼をするということはほとんど考えられない(もともと哲学研究をしてい た人がプロの通訳者に転向した場合は依頼されることもあり得るが)。確かに ドイツ語の知識やドイツ語を訳すテクニックということに関してはプロの翻 訳者のほうが、専門研究者より長けているということが言えるかもしれない。
しかし先行的な将来的な意味投射を可能とする既在の知識のストックの量は、
長年その専門を研究している者がやはり多く持っているのであり、それだけ 先行的意味投射に関しても研究者が行うほうが幅が広くなり、より適切な訳 が可能となる。
次に、既在的なものを考慮に入れるという点と具体的に訳出する作業に関
して考えてみよう。上述のようにそもそも先行的な意味投射が可能となる地
盤を形成しているのが、既在の知識のストックであるため、翻訳作業におい
ては先行的な意味投射の段階ですでに、既在の知識の参照というものが行わ
145 れていると言える。また、実際に訳出する際に、最初はあまり意味がよく取 れず、とりあえず字面上しか訳せないこともある。そうした解釈の曖昧さを 取り除くために、何度も原文を読み返しながら、既在の知識を想起しつつ様々 な訳語を当てはめて、内容を検討することになる。この作業は締め切りまで は何度でもやり直し可能であり、絶えず、自分の既在の知識へと戻って検討 することが許される。そして最終的には、読みやすい日本語にするわけであ るが、これも独和辞典、独独辞典のみならず日本語の同義語辞典なども適宜 参照しつつ、時間をある程度かけながら推敲を行っていく。
他方、通訳の場合はどうであろうか。通訳の場合も、原則として翻訳と同 様の手続きを踏む。つまり、まずは前もってそのイベントなどで話題となる 事柄の意味のネットワークを自分で確保し、理解のおおよその見当をつける ということが必須である。書かれた文字を相手にする翻訳とは違って流れ去 る声を相手にする通訳作業では、その内容の全てを記憶に留められるわけで はない。その際、周辺情報を集めておくことができればそれだけ「この手の 話が出てきたら~だ」という予測が立ちやすくなるのであり、内容を 100%
理解することは不可能でも、大体の訳はつけられるようになる。こうした観 点からすると、翻訳と同様、専門分野に関する講演会などであれば、通訳も その分野に詳しい人が行うのがおそらく望ましい。しかし読解作業とは異な り、その専門分野の全ての研究者が外国語を聴いて理解し、話すことができ るわけではないがゆえにプロの人に依頼することが多くなる。そのためプロ の通訳者は仕事を引き受けるたびに、本番前までにとにかく当該分野の専門 用語、基本的考えを習得することに努めるという。ロシア語の同時通訳者、
エッセイスト、作家として活躍していた米原万理は「一夜漬けで試験に挑む
日がひとつ終われば、また次が控えている、しかもその試験科目が毎回違う、
そんな比喩が通訳者の人生にはピッタリという気がする」
︵6︶と述べている。
次に既在的なものを考慮に入れるという点と具体的に訳出する作業に関し てはどうであろうか。外国語で言われていることと自分が既にもっている知 識としての日本語の語彙との照合を通訳でも行うが、これは同時通訳でも逐 次通訳でも、なるべく早めに言語化することが求められるため、時間がほと んどかけられない。基本的にはこの照合は一回きりであり、何度もやっては いられない。また出力まで時間がほとんどかけられないため、熟考はほとん ど不可能であるし、内容を確実に取れない場合、話者への確認は許される場 合があるが、「通訳できない」と言ってしまうことは原則として許されない。
こうした即時の言語化には、ある種の「瞬間的な決断」、「賭け」の性格も含 まれていると言えよう。さらに、一度アウトプットされてしまった自分の声 に関しては、後になって「やはりこう訳すべきでした」と撤回することがで きず、そのままどんどん議論が進んでしまうため、「不可逆性」という制約も 入ってくる。
2.仕事の成果と自己のあり方
つまるところ、通訳のほうが時間の制約が翻訳よりも厳しいため、それと
の連関において、取り消し不可能、瞬間的決断などの制約までもが付き纏っ
てくる。そもそもこうした時間的制約の差異のもととなっているのは何であ
ろうか。一方では、上述の通訳業務のイベント性が挙げられるであろう。他
方では、翻訳者、通訳者によって書かれた既存の翻訳・通訳論にて指摘され
ているように、翻訳はいつまでも残る「空間的存在」としての文字言語を相
手にし、通訳は即座に消え去る「時間的存在」としての音声言語を相手にし
147 ていることに起因していると思われる︵7︶。以下、文字言語と音声言語への関 わり方を主眼に入れながら、翻訳と通訳との差異を、その仕事の成果と業務 を遂行する際の自己のあり方に着目して考察していきたい。
まず翻訳の場合であるが、その成果は文字として紙に印刷されて配布され たり、本などの形として残ったりする。また注目を集めるのは、訳出の基と なるオリジナルの本や記事というよりも、むしろその訳出された文字言語そ のものである。それはオリジナルのものとは別の一つの作品として認められ る。例えば、有名な作家が訳した海外小説などは、その内容や訳の如何に問 わず、それだけで話題となったりする。その作家を愛するファンはオリジナ ルの作品に特別な興味を持っていなくとも、その作家が訳したということだ けでその訳書を手にとるのではないか。そして、このように形として残るが ゆえに「不朽の名訳」と賞賛されることもある
︵8︶。
他方、通訳の場合、人々の関心の的となっているのは、あくまでもその場
のメインスピーカーの発言である。自身が通訳としてかつて参加した哲学関
係のイベントの様子が、SNS を通じて実況中継されたことがあるが、そうい
うものを見ると、あらためて人々の注目しているのは通訳者の発話というよ
りもメインスピーカーの原発言なのだということが分かる。その時は、日本
人研究者 A さんが日本語で話し、ドイツ人研究者 B さんがドイツ語で話すと
いう仕方でトークセッションが行なわれたが、SNS 上では、A さんの発言が
A さんの発言として日本語で書かれ、その後に B さんの発言も B さんの発言
として日本語で書かれる。本来、B さんはドイツ語で話しており、日本語で
は通訳者としての筆者が発話していたのであるが、その媒介の手続きは無視
されており、A さんと B さん両者の間には誰も介在していないかのような印
象を与えるような中継なのである。このことは、なにもこのイベントの中継
に限らず、日本の政治家と海外の政治家との対談のテレビ中継、海外の有名 人やアスリートのインタヴュー中継などにおいても顕著であるし、当然のこ ととして行われる。またこの仕事の成果が注目されるのは、その場限りであ り、音声であるがゆえにすぐに忘却される。それゆえたとえ自他共に満足す るような通訳業務を果たせたとしても、名通訳として公に賞賛されることは 極めて稀なことである。しかし、米原が指摘しているように、この「忘却さ れる」、「後々まで残らない」ということにはメリットも含まれている。つま り、逆に仮にひどい訳をしてしまったとしても代々まで語り継がれるリスク というものがあまりないのである。他方、翻訳だとひどい訳をすると残るが ゆえに、代々まで悪訳として語り継がれるリスクが高くなるといえよう
︵9︶。 こうした翻訳と通訳の仕事の成果の評価のされ方の違いと連関しているの が、それぞれの業務を遂行する自己のあり方である。翻訳の場合、文字記録 として残り、場合によっては遺産として保持されるので、いわゆる「名訳者」
と呼ばれることが可能である。そして名訳者として著名になるためには、も ちろん原典解釈の正確さ、原著者への誠実さも要求されるが、ある程度は訳 者の自己の個性を前面に出すことが必要であり、また翻訳の場合にはそれが 許されているように思われる。自己の個性を出す仕方としては、まず日本語 の文体などを工夫するということが挙げられるであろう。いくら原典に即し て内容に忠実に訳出しても、日本語の文章がこなれていない場合には、読み 手の読む気をそいでしまう。逆に日本語が達者で読み手を魅惑するような個 性的な文章で訳出する者の場合、原作に特に興味がない人にも評価される対 象となり得る。
このように読み手を魅了するような文体にするには、ある程度意訳すると
いうことが前提となるが、他方、逐文逐語的に訳すことにこだわるのであれ
149 ばそれも可能であり、どちらのスタイルで訳すのかは、訳者が決定できる。
例えばハイデッガーは古代ギリシア語で書かれたテクストを逐語訳している。
通常、ギリシア語の「アレーテイア(ἀλήθεια)」はドイツ語では「Wahrheit
(真理)」と訳されるが、彼は敢えて「アレーテイア」の「ア」を否定辞と解 釈し、直訳的に「Unverborgenheit(隠れなさ)」と訳す。こうした逐語訳をす ることで彼は、原語に元来含まれていると想定される事象を際立たせ、慣例 の訳になれた読み手に違和感を抱かせ、そこに含まれている問題をあらわに する
︵10︶。この場合、ハイデッガーはギリシアの哲学者と共に思索しているの であるが、翻訳作業においては訳者には、このように原書の著書と共に思索 するという可能性が常に開かれている。先に、プロの翻訳家に哲学書の翻訳 は依頼せずその道の専門家に依頼するということを述べたが、それはやはり、
当該のテクストの内容について思索するという点では専門家のほうが慣れて いるからであると言える。
さらに訳者の自己の個性を出す仕方としては、細かい訳注をつけるという
方法もある。厳密にいうと、訳注で説明するということは翻訳するというこ
ととは別のことではあるが、読み手が広範囲にわたりそうな場合は、難解な
内容のところには訳注をつけるということはよくなされる。その注が細かく
多いということで個性的であると言われたり、その詳細な注ゆえに評判のよ
い訳者もいる。ハイデッガーの主著 "Sein und Zeit" の邦訳は現在十種類ある
が、ドイツ語の構文との対応を反映させるために徹底して逐文逐語訳にこだ
わったものもあれば
︵11︶、日本語での読みやすさを追求したものもあれば
︵12︶、
訳注の多さと詳細さを特徴とするものもある
︵13︶。このことは、翻訳において
は訳者の個性を出すことが許されているということを示す一例となるであろ
う。
他方、通訳における通訳者の自己のあり方とはいかなるものか。通訳にお いては媒体性への要求が高い。冒頭で述べたように、通訳者は自分に極度に 集中せざるを得ないが、それにもかかわらず、黒衣の役割を求められる。あ くまでも人々が注目しているのはメインスピーカーの発言であるので、うま くやることを目指すのであれば、目立つような振る舞い(その場で何か面白 い話題が出た場合にそれにつられて笑いながら訳す、よく意味が取れないと きにそれを露骨に示してしまうなど)は避けねばならないが、とはいえ人間 であるがゆえ、完全に自己を捨て去ることは不可能である。筆者が通訳をし たとき、ドイツ人講演者が高い椅子に腰掛けようとして床に倒れそうになる というハプニングが生じたが、やはりその時は一瞬訳すのを止めてしまった。
通訳はメインスピーカーの発話の内容を解釈して別言語にて再構成するわけ であるが、そうした作業はあくまでも通訳者の「一人称としての私」の立場 においてしか行なうことができないのであると言えよう
︵14︶。
だがパラドキシカルにも通訳者の黒衣としての存在を示すのは、その話し 方、つまり通訳者は必ずメインスピーカーの立場で「私は……」と発話する ということである。これはあくまでも「自分ではない「私」」
︵15︶ではあるが、
この仮面をかぶる以上、個性を出す必要はそもそもないのであり、その場が うまくいけばそれでよい。しかし翻訳者がその文体に工夫を凝らすことで個 性を出すことが可能であるように、通訳者が聴衆に与える印象も話し方や声 色で変わってくる。いくら訳出する内容が正しくとも、発声が明瞭でなかっ たり、人々に不快感を与えるような声色であったりすると成果は半減する。
また逆に声色のよさにゆえに聴き手の印象がぐっとよくなるということも起
こりうる。ビランが指摘しているように、聴き手はただの情報として音声言
語に触れてたんに音を知覚しているのではなく、それに付随する独特の印象
151 を感受しているといえる︵16︶。それゆえ以前、通訳を一緒にさせていただいた プロの通訳者の方の話しによると、彼女は早口言葉の練習なども欠かさず、
アナウンサーのような、聴き手に聴きやすく、不快に思われないような発話 をするためのトレーニングを欠かさないという。
また翻訳では意訳するか逐語訳にするかは訳者に委ねられるが、通訳の場 合、どこまで細かく訳せるかの程度は存在するが、原則として意訳にならざ るを得ない。なぜなら声は一瞬にして消えるものであり、その流れ去る内容 の全てを一瞬で把握することは不可能であるからだ。通訳の場合、大事な点 のみを押さえて、内容をつなげていわば一つの流れを再構成することが求め られる。違和感を際立たせるためにとか、原文の構造を示すなどという目的 で逐語訳をするということを通訳が行なったら(そもそも短時間でそのよう なことを行なうのはほとんど不可能なことではあるが)、それは失敗とみなさ れる。また聴き手が広範囲にわたりそうな場合には、翻訳の場合と同様、内 容を補足しながら訳す必要もあるが、通訳の場合それは必要最低限にするこ とが求められる
︵17︶。
4.仕事の複雑さと身体性
翻訳と通訳との違いとして本稿にて最後に取り上げたいのは、仕事の複雑
さと身体の使い方の違いである。これはやはり文字言語を相手にするか、音
声言語を相手にするかの違いに基づいている。通訳業務において通訳者に求
められる努力について考察する「努力モデル」の理論においては、三種類の
努力が想定されているという
︵18︶。それは原発言を聞いて情報を分析して意味
を理解するための「リスニングと分析」(1)、そして理解した原発言の情報や
メッセージを言語化する「発話産出」(2)、また原発言から入ってきた音声言 語を識別し分析するまでに短期的に記憶として蓄積する「短期記憶」(3)の 三つである。この「努力モデル」理論は、音声言語を相手とする通訳者がど のような場合に訳し漏れやエラーを起こすのか、などという問題を説明する ために構築されたものであるため、翻訳者についてどのような努力が求めら れるのかをそもそも追求するものではないのであるが、通訳業務との比較を 行うためにまずはこのモデルに翻訳のケースを当てはめて考えてみたい。
翻訳の場合、リスニングではなく、リーディング作業が入り、また発話産 出は口頭での発話ではなく、書くこととしての訳出である。そして短期記憶 は原書から読み取った文字言語を識別し分析するまでに必要とされる。した がって翻訳作業では「リーディングと分析」(1)、「訳出としての書く作業」
(2)、文字言語の「短期記憶」(3)という三つの努力が想定されるといえる。
具体的には、固定されている文字を目で追いつつ、それを短期記憶にとどめ ながら、原語の順序を変えたり、辞書を参照したり、既に自身が持っている 語彙や知識等を踏襲しながら内容を分析する。そして、訳出しながら書くわ けであるが、この際、原書に書き込んだ単語の訳やメモを読みつつ、それを 書いて文章にしながら再び秩序を見出すことになる。身体の動きに着目する のであれば、これら翻訳の作業は基本的には、原書や辞書を目で追って「読 む」、メモや文章を手を動かして「書く」という二つの行為に収斂されてお り、また上述のように通訳よりは時間をかけてゆっくり落ち着いて行なうこ とができるため、身体の酷使の程度もより少ない静的な行為といえるように 思われる。
他方、通訳業務の場合はもっと複雑な過程を踏む。(1)「リスニングと分
析」を行う際には(3)「短期記憶」が必要となるが、現れてはすぐに消えて
153 しまう音声言語を相手とするために、頭の中に原発話の全てをとどめておく ことはできない。そのため、短期記憶の補助として逐語通訳ではノートテイ キングをすることが多い。そうすると、(2)「発話産出」を行う際に、記憶を 想いだして内容を再構成するために、ノートリーディングを介して発話する ということになる。つまり通訳業務というものは、耳で「聴く」、口で「話 す」ほか、手を使って「書く」、目を使って「読む」という四つの身体的行為 の統合によって成り立つものといえる。この四つの身体的行為の統合という ものは実際にやってみるとなんとも難しい。米原の次の発言がその難しさを 如実に示している。「メモをとるといても、これも一定の年季が必要で、駆け 出しのころは、メモをとっていると、発言者の話を聴くのが疎かになり、か つ記憶のほうも曖昧になってしまう。ではメモの出来はどうかというと、こ れまた自分のメモの解読ができなくなって、立ち往生してしまう」︵19︶。さら に翻訳業務と違って、通訳業務では好きなときに休憩をとることができない ため、体力と集中力をキープすることが大事なこととなる。疲労度が高いと ノートにかなりの内容を書き留めることができているのにもかかわらず、そ れを再構成することが難しくなるということが起こる。逆に余力があると、
ほとんどノートが取れなくてもすんなりと訳せることが多い。
また同時通訳をする場合は、発話産出までの時間が逐語の場合ほど取れな
いため、読み書きの作業はさほど入らないが、自分で話すときに、発話者の
声と自分自身の声とを同時に聴かねばならないということが生じる。発話者
の声を聴きつつその内容を分析しながらさらに自分でも話すためには、自分
の声の認取をある程度コントロールする必要があり、やはり身体的にかなり
負荷のかかる作業になる。
おわりに
これまで、「制約の度合」、「仕事の成果と自己のあり方」、「仕事の複雑さと 身体性」という三つの観点から、翻訳者のあり方と通訳者のあり方を比較し てきた。筆者が通訳をしている中で感じた「割の合わなさ」の感覚は何に起 因するのかということを、これまでの考察を踏まえて考えてみたい。一つに は、人前での時間制限のある「今、ここ」でのパフォーマンスが求められ、
またすぐに消える話し言葉を扱うということから、精神的、身体的にかなり
の集中力を必要とするにもかかわらず、その労力が知られていないというこ
とが挙げられる。それは、その成果としての音声が記録されることがほとん
どないため、翻訳と違って例えば本一冊分、パンフレット一冊分といった量
での成果の計測が不可能であるということにも通じている。それゆえ、二言
語が使用できれば誰でも通訳などできると思われがちであり、個性を出すに
も限度があるため、どうしてもその場限りの消耗品としてみなされることに
もなる。またこうした目立たない媒体者なしには異言語間の対話は不可能で
あるのに、そのこと自体は忘却されているということも原因として挙げられ
るであろう。周知のとおり、デリダはヨーロッパの伝統を、書き言葉は話し
言葉よりも劣るという考え方の「音声中心主義」の伝統とみなしているが
︵20︶、
翻訳者と通訳者の日本での待遇の違いに着目すると、むしろ日本では話し言
葉のほうが軽んじられているということも言えるのではないか
︵21︶。本稿では
取り組むことができないこうした文化的差異についての考察は、また稿をあ
らためて行うことにしたい。
155
注(1) 近藤正臣『通訳とはなにか 異文化とのコミュニケーションのために』、生活書 院、2015年、143-144頁。
(2) 例えば以下のようなものが挙げられる。Paul Ricœur, Sur la traduction, Paris, Bayard, 2004; John Sallis, On Translation, Indiana University Press, 2002; Martin Heidegger, Der Spruch des Anaximander, in: Horzwege, Heidegger Gesamtausgabe Bd. 5, hrsg. von F-W.
von Herrmann, Vittorio Klostermann, Frankfurt a. M. 21977, S. 321-373.
(3) 翻訳ならびに通訳業務はもちろん哲学や文学といった文系の研究業界だけで行な われるものではない。ビジネス、会議、司法、医療などの分野で行なわれるもの、
また翻訳に限っていえば、機械の取り扱い説明書のようなものの通訳もあり、ま た通訳では音声通訳のみならず手話通訳もある。本稿の枠内ではそれらを包括す る一般的な議論は行なうことはできず、あくまでも哲学、文学などの文系の研究 業界において考察できることに的を絞ることにする。
(4) Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer, Tübingen 171993, S. 192.
(5) Vgl. a.a.O., S. 193.
(6) 米原万理『不実な美女か貞淑な醜女か』、新潮社、1998年、20頁。声という現象 がもつ独自の「現在性」に着目するという点に関しては、以下の哲学系の先行研 究も参照。村瀬鋼「なぜ私は物語なしには生きていけないのか」、『なぜ人々は物 語なしには生きていけないのか-多メディアの中の物語の発生・展開・終焉-』
(平成16-18年度科学研究費補助金研究基盤(C)研究成果報告書)所収、8-21
頁。
(7) 米原、前掲書、103頁。鳥飼玖美子編著、『よくわかる翻訳通訳学』、ミネルヴァ 書房、2013年、6頁以下参照。
(8) アメリカや英国では文学翻訳者の地位は低いとされ、表紙に訳者の名が記載され ないこともあるという(鳥飼、前掲書、75頁参照)。したがって、翻訳者の認知 度が高いということに関しては一般化することはできず、文化圏ごとに異なって いると考えることも可能である。日本においては哲学書、文学書に関しては表紙 に原著者名と共に訳者の名前が掲載されているため、以下の論述においても翻訳 者の認知度は通訳者の場合よりも高いという前提で論を進めることにする。
(9) 米原、前掲書、137頁以下参照。
(10) Heidegger, a.a.O., S. 219f. und vgl. auch. Martin Heidegger, Grundfragen der Philosophie – Ausgewählte »Probleme« der »Logik«, Heidegger Gesamtausgabe Bd. 45, hrsg. von
F-W. von Herrmann, Vittorio Klostermann, Frankfurt a. M. 21992, S. 96ff. また翻訳する とはいかなることかを示しつつ、古典ギリシア語の文章を逐語的に解釈している テクストとしては次のものが挙げられる。Martin Heidegger, a.a.O., Der Spruch des Anaximander.
(11) 辻村公一訳『有と時』(ハイデッガー全集第2巻)、創文社、1992年。
(12) マルティン・ハイデガー著、高田珠樹訳『存在と時間』、作品社、2013年。
(13) ハイデガー著、熊野純彦訳『存在と時間』(一)-(四)、岩波書店、2013年。
(14) いわゆる「通訳規範」なるものは、このような通訳の一人称性に由来する。鳥飼、
前掲書、47頁参照。
(15) 鳥飼、同書、同頁。
(16) メーヌ・ド・ビラン著、F.C.T.ムーア編、掛下栄一郎監訳、益邑、大﨑、北村、阿 部訳『人間の身体と精神の関係 コペンハーゲン論考 1811年』、早稲田大学出 版部、1997年、128頁参照。
(17) 近藤は通訳業務を音楽に喩えて次のように述べている。「二つ目の言語で表現して いるのは、自分の思想ではなくて、元話者という他人のものです。解釈者として のピアニストは、ショパンの書いた音を、たとえばドのシャープをただのドに変 えてはならないと思います。通訳者は作曲者ではありません」(近藤、前掲書、45 頁)。
(18) 鳥飼、前掲書、160頁以下参照。
(19) 米原、前掲書、105頁以下。
(20) ジャック・デリダ著、足立和浩訳『根源の彼方に-グラマトロジーについて』
(上)、現代思潮新社、1972年、16頁、33頁参照。
(21) この傾向は通訳業務がなされる場のみならず、学会発表の場などでも感じられる。
例えば、ドイツにおける哲学系の学会発表では、原則としてハンドアウトを配布 することがない。聴衆は話者がそれを発した瞬間に消え去る一瞬の言葉の一つ一 つに耳を傾け、それこそ通訳のようにノートテイキングしながら議論を追う。他 方、日本においては原稿を配布し、それを読み上げるというスタイルで発表する ことが普通であり、最近ではパワーポイントを使用してプレゼンテーションを行 うということもなされるが、少なくとも込み入った議論を要する哲学業界では書 き言葉をただひたすら読み上げ、またそのハンドアウトを参照しながら質疑応答 するというスタイルが依然として好まれていると言ってよい。