江戸文人の歳月 : 蜀山人大田南畝に於ける(四)
著者名(日) 濱田 義一郎(遺稿), 宇田 敏彦(編)
雑誌名 大妻国文
巻 19
ページ 175‑195
発行年 1988‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001550/
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正 月
江 戸 文 人 の 歳 月
︱
︱ 蜀 山 人 大 田 南 畝 に 於 け る
︵四
︶
︱
︱ 文
化 八 年 一人 一 一 辛 未 一ハ十 三 歳 イ
﹃南 畝 集
﹄ 十 七
・十 八 ︒ 口
﹃一 話 言一
﹄ 巻 二 十 五
・二 十 七 c 蜀﹁ 山 人 大 田南 畝 書 簡
﹂︒ 目 次
ホ﹃放歌集﹄︒﹃大妻女子大学紀要﹄7号
七一 五
月正 175
日暮 里詩 碑 179 慶 と弔 184
秋 186 柳 連営 歌 194
西鶴 評 195 六
十 三 に な り け る年 よ め る 江戸 文人 の歳 月
雲茶 会 182 屋敷 替 190
宇 濱 田
田
義 敏 厖夢 貞Б
編嘱
七一 六 あ ら玉 との もし 六十 三番 受 と うノ ヽ たら りた ら り長 いき
︵﹃ 万紫 千紅 し
﹁辛 未 元 日﹂ の詩 は例 年 と趣 を異 すに る︒ 金城 鉄鎖 五更 風 玖 や鼓 声雲 霧 中 三百 三十 有 三槌 一通 一通 叉 一通 城 内 で宿 直 を し て︑ 時 の大 鼓 や夜 廻り の槌 の音 聞を く のだ ろ う か︒ つぎ の正 月 二 日︑ 詩 の門 人雪 山師 が松 の盆 栽 を手 み やげ に訪 ね て来 た のは 越︑ 年 直宿 明 け の休 日 で年 礼 に出 な いと 知 てっ であ ろう
︒ す ると 三 日四 日 は年 始 廻り を たし はず だ のに 詩 も歌 も な い ︒ し かも
﹁正 月十 日観 三諸 侯謁
東叡 諸廟 こ の詩 があ る のか ら 察す ると 将︑ 軍 の上 野 東叡 山霊 廟参 詣
︵﹃ 続 徳 川実 紀 し のお 供 を し たら し い︒ こと によ ると 月正 の何 日置 き か の特 別 の 当 番 だ たっ かと も 思わ れ る︒ 正月 十 一日 の柳 営連 歌
﹁唐 何﹂ 百詢 の阪 昌成 自 筆 を 月翌 いち はや く借 抄 し得 た のも 城︑ 中 で の役 日 と関 係 があ るか も知 れな い
︵柳 営連 歌 に つい て は末 に追 記す る︶︒ かし し 七 日 には 麹 町 の高 倉 雄偉 の対 馬 出役 を送 る集 に出 席 した
︒ 塚 田大 峰 も宴 に加 わ り︑
﹁初 春 送 下高倉 雄 偉預
朝 鮮 来 聘 事 千一 役
¨一コフ 対州
ど 等 の詩 のあ る こと を揖 斐 高氏 が示 教 され た︒ 大峰 は名 古屋 藩 儒 で延 享 二年 生れ 天︑ 保 三年 歿︑ 年 八 十 八︒ 詩 の つ一 に つぎ の題 のが あ る︒ 高
・倉 雄偉
宅 初 見 二大 田南 畝翁
・席 上 賦輿
焉︒ 翁弱 冠 時 有 二滑 稽之 著
・共 声聞 夙 達 都 部 ヽ 嘗 聞 焉寛 政中 学 宮 対策
日文 題伍 子骨
論誤 レ伍 童房 呉 翁︑ 乃 作 臨機 之文
・以 諷 刺 之 ヽ 故 今 詩中 及 レ之 寛政 四年 の学 問吟 味 の時
︑ 出題 の誤 り をそ のま 知ま ら ぬ ふり で︑ 呉 国 の子 骨 か楚 国 の子 骨 かと うい 論 を書 いた がの
︑ 当 時評 判 にな たっ こと を︑ 大峰 も 知 てっ いた での あ る︒ 初 めて 逢 う こと を喜 ぶ詩 は長 い ので 少 しだ け引 く
︒
何 時 遅追 得
︶相 語 ヽ 其 非家 ゥ遠 人甚 遠 風︑ 月幾 回 貯 二我恨 ヽ 今 春谷 鳥 求 朋¨ 日︑ 一朝 初 見 二清 楊 婦 寸フ 傾 蓋如 レ旧 終 日親 心︑ 緒 解 得 適 二我 願
・ 一夕 の歓 を つく たし よう であ る︒ こ のあ と に
﹁送 一鈴 木猶 人之 一対 州
ど の詩 があ かる ら ︑ 二 人 は同 じ 日 に江 戸 を発 たっ かも れし な い︒ 立春 後 一日
︑ たぶ ん十 四 日 の草 堂小 集 には
﹁︑ 不 レ厭 生人 典 熟 人 L とあ り︑ 初 めて の客 も なじ み の客 も
︑ そ れぞ 酒れ など 携 え て集 ま り︑ 盛会 であ たっ
︒ 二〇 月 に入 ると 早 速
﹁二 月 朔 日墨 水 探梅
﹂ に出 かけ て いる 第︒ 二句 に
﹁梅 屋暗 香 三百 本﹂ と いう 梅 屋 は佐 原菊 鳩 の梅 屋敷
︵後 百の 花園
︶ で︑ 文 化 四年 の冬 の詩 では
﹁手 栽 三百 六十 本﹂ と植 え たば かり だ たっ のが す︑ で暗 香浮 動す るま で生 長 し て居 り︑
﹁春 日梅 屋集 送 っ篤 忍 律師 之一 比叡 山 ど の詩 でも
﹁満︑ 園 香 雪白 鱗 ミ﹂ 花と 盛 りを 賦 し て いる
︒
○ 諸 侯 に呈 す る詩 が二 つあ る︒
﹁奉 ν寿 関宿 侯 六十 初度 一時 新伎
四 品 こ は久 世大 和守 広誉 宝︑ 暦元 年 生 れ の還 暦祝 いで
︑ た また ま昨 年 末 に四 品 に叙 され て いた ので あ る︒ 侯 と は若 い時 から 相知 で︑ 文 化元 年 にも 常 盤 橋内 の上 屋 敷 へ招 かれ て い 2つ︒
﹁奉 レ送 龍 野 侯之 二対 州 L は脇 坂 中務 大輔 安 董が 文 化 三年 以 来︑ 朝 鮮 人来 聘 御 用係 りを つと めた 関 係 でや はり 対 馬 へ行 く ので あ る︒ これ まで は接 が触 な いか ら︑ 儀 礼 であ ろう
︒
○ 幕 臣 で は二 月九 日に 金沢 瀬兵 衛 千秋 が 勘︑ 定 味吟 役 から 佐 渡奉 行 に転 じ た︒ 三年 前 玉の 川 巡視 の上 司 で︑ 後 長に 崎奉 行 もに な る能 吏 であ る︒ 昨年 は千 秋 の
﹃巡 河 日記
﹄ を南 畝 が読 んで 詩 を呈 たし よう な私 的 な附 合 いも あ たっ ので 和︑ 歌 二首 贈を てっ いる
︒ みち のく の山 なら な く に よろ こび の長 き た めし の こが ね花 さく 黄金 はな さく てふ 島 にこ と のは の玉 藻 かる べき 時 も そこ あ れ 江戸 文人 の歳 月 一 七七
一七 八
〇 月二 十 二 日︑ 勘 定組 頭岸 彦 十郎 が 勘定 吟味 役 とな り︑
﹁賀 岸慎 斎 擢 司会 点 検職 こ の詩 の中 に 青﹁ 雲 ノ色 フ 見 ル フ 喜
﹂ブ な とど あ る︒ 岸 は寛 政 ご ろか ら勤 務 上 だけ でな く
︑ そ の包 実館 で漢 籍 読を む集 りを 統 け 文︑ 化元 年 には 尾藤 二洲 を ま じ え て宴 し た とこ は︑ す で に述 べた
︵﹃ 大 妻女 子大 学 紀要
﹄ 15号
︑ 49 ペー
︶ジo
ま た昨 年 おは 茶 水の の屋 敷内 に小 亭 を新 築 し︑ 南 畝が 一詩 を寄 せ て いる ので あ る︒
○ 転じ て江 戸 景の 況 を語 る興 あ味 文る 章 を見 て きお た い︒ まず 芝 居 市は 村 座が 五代 目団 十郎 そ 他の の追 善 興行 に 助﹁ 六由 縁 江戸
﹂桜 を上 演 して
︑ 代七 日団 郎十 が好 評 を得
︑ 当春 市 村 羽左 衛 門座 市︑ 川団 十郎 あげ 巻 助 六 狂の 言 大入 にて 御 坐候
︑ 本日 橋 辺之 肴 売 百三 軒 余見 物 之 日︑ 一 日 に百 両 ば かり 之騒 ぎ 御に 候坐 役︑ 者 共之 花 に遣 わ 候し 金 も 三十 両五 ば りか 所︑ よミ り幕 新 らし く いた し遣 わ 候し 幕︑ も十 ば かり これ 有 り︑ 桜 の つく り花 一め ん てに 賑 はし 御く 候ざ 吉︑ 原中 の町 けの しき 御に 坐候
︒
︵長 崎 中村 李園 宛
︑ 間 月二 十 三 日付
︶ 大 坂役 者 三代 目中 村 歌右 衛門 への 意 地 から 若︑ い団 十郎 人の 気 を盛 り上 げ よう すと る魚 岸河 連 活の 動 が 日︑ に見 え るよ う であ る︒ 続 いて 書 画会 に つい て︑ 書 画会 と申 候し て日 ヽ所 ヽの 酒 楼 を かり 切 り︑ 書 画 名の 人 集会 たい 候し 右︑ 引の 札 くば り申 候し て 日 々 の 様 に 御 坐 侯
︑ 百人 も来 会 たい 酒し 食 果の て は青 楼な ど へ参 り候
︵同︒
右
︶ 書 画会 の愚 劣 流な 行 に つい ては 適︑ な当 批判 詩の が あ る︒ 春﹁ 蓬日 末楼 集 喧︑ 甚 逃 レ席 過 二小 山書 屋
・和 二五 韻山 Lで あ る
︒ 上野 不忍 池 畔 の蓬 薬楼 の書 画会 馬の 鹿騒 ぎ に閉 口し て市 河米 庵 の小 山書 屋 へ脱 出 たし と うい 詩 で︑ 菊 池 五山 の原 詩 を引 いて 見 よう
︒ 仙頑 今 会日 蓬末 不耐 群 喧逃 得 回
誰識 人間 別 成趣 梅 花樹 下酔 盃銀 米庵 は市 寛河 斎 の子 名︑ 三亥 であ る︒ 気 ご ろこ の知 れ た家 の梅 花樹 蔭の で銀 盃 で のむ 方 が好 いに 決 てっ いる
︒ この 年 月正 下旬 に書 画会 では 代表 的な 柳橋 の万 八楼 が 焼失 たし ので 池︑ 端之 蓬の 来楼 が 大繁 昌 な ので あ る︒ 日暮 里詩 閏 碑
月二 廿九 日 にた てし と いふ 日ぐ ら し の里 修 性院 の いし みぶ を見 て 三河 島 みな かわ らけ に埋 む とも こ のい ぶし み のか け ずく づ ずれ 書 ちら す こ の手 柏 のふ た面 と にも くか にも の れこ 石 ぶ 教 碑 の面 には 詩 を記 し︑ 背 には ざ れ歌 書 たれ 也ば
︒ 日ぐ ら し の里 は︑ もと の名 は新 堀
︑ それ を 日暮 里 と つく り︑ さ ら に美 化 した 名 あで る︒ 現 在 は荒 川区 西 日暮 里 三丁 目あ たり で︑ 道灌 山 の辺 が 四 丁目 なに てっ 居 る︒ 三丁 目 には 諏 訪 明神
・養 福寺
・青 雲寺
・修 性院 など があ る︒ 戸江 時 代 は諏 訪明 神あ たり 高の 台 に遊 覧 向客 け の土 器投 げ もあ たっ
︒ 東 見に おろ す 三河 島 あ たり 飛に ん でゆ く ので
﹁か わ らけ の小 言 いひ ノヽ 麦 を刈
﹂り と いう 安永 元年 川の 柳 あも る︒
み﹁ な かわ らけ に埋 む﹂ はそ れを い たっ での あ る︒
﹃江 戸 名所 図会
﹄ に
﹁こ の辺 寺 院 の庭 中 奇︑ 石 を畳 んで 築 山 を設 け 四︑ 時 草木 の花 絶 えず 常 遊に 観 供に ふ﹂ あと るが
︑ この 一帯 に文 学 趣味 を導 入 し よう と つと めた こと は次 の 一条 から 知も られ る︒ 江 戸谷 中 日暮 里補 陀 山養 福 寺 に︑ ち かき 頃難 波 宗の 因 墓の 建を つ
︹割 註︺ つね に錠 を下 し て人 を いれ ず︑ 寺 僧 にこ ひ てみ 事る を得 たり
﹂︒ か たは ら に梅 多を く植 たり
︒ そ の墓 を みれ ば
︑ 江戸 文人 の歳 月 一 七九
一八
〇 於 我何 有哉 江 戸 をも つて 鑑 すと な り花 の樽 誹談 林初 祖梅 翁 西山 宗 因 天和 二年 壬成 月三 廿 八日 初祖
六︶ 西 山宗 因 歿の 後 百年 を記 念 し︑ 戸江 談 林 六代 の歿 年 月 を刻 んだ も ので 南︑ 畝 は終 り に 右﹁ は俳 諸宗 匠素 が丸 建 しと
﹂云 と書 いて いる
︒ 素 丸 は幕 臣俳 人 で寛 政 七年 歿
︑ 八十 三歳 であ る︒ 南 畝 は こ の年 月正 の探 梅行 の途 中 見︑ よう とし たが は いれ な か たっ ので あ︑ ら た めて 訪 れた ので あ る︒
口
︵二 十︶
つぎ に文 化 六年 月五 に
﹁谷 中 日暮 里 にた て し碑 な りと て墨 本 にせ しを みる
﹂に と し て︑ たれ なと く咲 そ ふ花 かの げ と ひ てげ に日 ぐ ら し の里 ぞ にぎ はふ 従 一位 資 枝 日野 資 枝 卿 の和 歌 だが
︑
﹁此 うた に て勝 地 と よば れ んも 口お かし るべ
﹂し と評 てし いる
︒ た し か に名 歌 と は程 遠 い作 で あ ろ う︒ そ し て同 年 月九 には みず か ら修 性院 へ行 き
﹁近 頃 日野 大納 言資 枝 卿 の歌 を石 にゑ り て山 上 にた
﹂つ の を 見 て い 口︵ 十一
︶
2 つ
修 ︒
性 院 へは これ 以 前 にも 行 たっ 形 跡 が あ る が
︑ そ れ 詩は 碑 の依 頼 を 受 け て
︑ 現 場 を見 行に たっ も のと 思 わ れ る︒ 碑 文は 化 八年 間 月二 末 に建 たっ が
︑ 明 治 時 代 の悪 改 修 で失 わ れ て し ま たっ
︒ そ の詩 は 六 年 月八 ご ろ の作
﹁日 莫 里
﹂ で あ たっ
︒ 今 日 不 知 明 日暮 酔 時 莫 間 醒 時 路 春 光 九 十 幾 分 身 一ミ 看 花 千 万 樹 文 化 八年 辛 未 二 月 南 畝 題 背 面 狂の 歌 は わ か ら な けい れ ど も
︑ 京 都 と 大 阪 の名 家 の和 歌 と俳 諧 の碑 に対 し て
︑ 江 戸 の文 人 の詩 と 狂 歌 の碑 が 出 来 た