鉢かづきと観音信仰の普遍化
著者名(日) 渡邉 昭五
雑誌名 大妻国文
巻 39
ページ 41‑51
発行年 2008‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001325/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
鉢かづきと観音信仰の普遍化
渡 遺 昭 五
一
、は じ め に
本稿は︑﹁文正草子と鹿島信仰﹂という前論文︵芸能文化史幻・平ぎに連なる狭義﹃お伽草子﹄の論集に連なるものである︒
狭義﹃お伽草子﹄については︑その前稿論文の序に触れておいた︒中世の諸縁起類を含めた物語草子の何百篇︵あるいは
何千編︶の中から選ばれた二十三編の狭義のそれは︑選択された理由づけが難しいのであるが︑何れ論ぜられるべき主題
で あ
ろ う
︒
﹁文正箪子﹂に続く︑この﹁鉢かづき﹂は︑ いわゆる観音の霊験謹であり︑継子謹の代表的な筋書きとなっている︒そ
の梗概について︑述べておこう︒
河 内
国 の
交 野
郡 ︵
今 日
の 大
阪 府
交 野
郡 ︑
枚 方
市 の
周 辺
︶ に
︑ 備
中 守
さ ね
た か
と い
う 長
者 の
夫 婦
が あ
っ て
︑ 不
満 の
一 つ
と て
な い
生 活
であったが︑子供の無いことが二人にはあきたりなかった︒しかし︑長谷観音の信仰の厚かったこともあって︑図ら
ずも一人の姫を授けられる︒姫の十三歳の折に︑実母との死別に際して︵観音の御意のとおりに
111﹃ 室 町 時 代 物 語 集 ﹄ 所
鉢 か
づ き
と 観
音 信
仰 の
普 遍
化
四
四
収 奈 良 絵 干
|
l︶︑︿肩に隠るる程の・:﹀重い鉢を︑頭からすっぽりとかぶせられた︒鉢はそのまま︑姫の頭に︿吸いつ
きて︑さらに取られず﹀そのま﹀の姿で月日を経てゆく︒その後に︑父が要った継母は︑姫を不具一者として憎み︑ハえ
に 謹
言 し
て ︑
遂 に
︿ あ
る 野
の 中
の 四
辻 に
﹀ 身
一 つ
で 捨
て ら
れ て
し ま
う ︵
古 代
中 世
社 会
で は
︑ 不
具 者
は 前
世 の
因 果
と し
て 疎
ま れ
差 別
さ れ
る の
が 習
慣 で
︑ 捨
て ら
れ る
場 合
も 多
か っ
た
11
l
小
稿 ﹁
蝉 丸
の 実
虚 像
﹂ ・
昭 臼
・ 梁
塵 ・
新 聞
進 一
記 念
号 ︶
︒
姫は︑野を仲間僅し︑投身自殺を企てるが︑鉢が川に流れてゆくのに不審を抱いた舟人に助けられて︑ その土地の国
司である山蔭の=一位中将に一われて︑下女として働くことになる︒中将には四人の子があった︒その末っ子の宰相殿
の御湯殿にて︑奉仕しているうちに見染められて深い契りを結ぶ︒その後に︑一一人の中は深くなるばかりで︑懸念を
抱 い
た 宰
相 の
母 は
︑ 不
具 者
の 姫
を 遠
ざ け
る 手
段 と
し て
︑ 姫
に 恥
を か
か せ
る べ
く ﹁
嫁 く
ら べ
﹂ ︵
嫁 の
美 女
ぷ り
を 比
較 す
る コ
ン テ
ス ト
︶
を企画する︒姫と宰相は︑出奔を思い立ったが︑ その当日の朝に偶然にも被っていた鉢が︑︿かつぱと前に落ち﹀て︑
姫の美しい顔が表われた︒宰相は︑改めてその美貌に驚く︒また︑落ちた鉢の下には︑金銀の財宝が表われた︒姫は︑
︿わが母長谷の観音を信じ給ひし︑御利生とおぼしめして﹀喜んだ︒﹁嫁くらべ﹂の当日に︑美しき装束をまとった
姫の容姿は︑二一人の他の嫁より美しく優美なものであった︒二一人の兄嫁御前も美しかったが︑姫に比べれば︑︿仏の
前に悪魔外道に届たる︵比べものならない︶﹀見劣りがした︒姫も宰相も︑大いに面目をほどこし︑父の国司は所領二千三
百町のうちの一千町を姫へ︑ 一千町を宰相へ︑残りの一二百町を残った三人の子に分け与えた︒宰相は父の跡を継いで
の後に︑長谷で姫の父ともめぐり合う︒さらに︑帝の御意を賜って︑大和・河内・伊賀のコプヶ国をいただいた︒︿こ
れたぎ長谷の観音の後利生とぞ聞えける︒今に至るまで観音を信じ申せば︑あらたに御利生ありと申し伝えはんべり
け る ・ ・
・ ・ ・ ・
﹀
と︑長谷観音の御利得を以て結び︑この物語を聞いた人は︿観音の名号を十返づ﹀:・﹀唱えなさい︑と記している︒
名号を唱えることは︑阿弥陀如来の加護を求める﹁南無阿弥陀仏﹂の詑った﹁ナンマイダ:・﹂を以て︑今日の私たち現
代人の耳馴れた念仏となっている︒このことは︑専修念仏の易行住生の思想が︑真宗の日本全国への拡がりにおいて︑云
ひ馴胃りされた六字名号で︑現代では半ば感動調化されている︒﹁南無観世音菩薩﹂は云いにくさもあろうが︑蓮如以降の
真宗の大衆化のすすむ中では︑慣用句とならなかった︒﹁ナマイダl﹂﹁ナマミダ﹂﹁ナマミダブ﹂︵西日本︶﹁ナンマエダ
ブ﹂︵山形︶﹁ナンマンダ﹂︵秋田︶などなど︒地方に依って少しは異なるが︑これらの阿弥陀如来の慣用句の感動調化が︑
全国に拡張されたのに反して︑その随伴仏で脇侍であった観音菩薩が︑浄土教の敷街化とともに︑中世に登場して阿弥陀
如来に代る主役となって︑今日でも多くの寺院の主尊として杷られてくる理由について︑次章に少し考えてみよう︒
ニ︑観音信仰の普遍化
無学文盲の徒でも納得理解しやすい︑この種の縁起物が多く流行してくるのは︑ 一紙半銭の浄財をカンパしなければ︑
寺社の経営が成りたたなくなる平安末期からである︒
中世以前の難行難解の顕密体制の皇貴族中心の古代社会で︑その信仰を席捲したのは阿弥陀信仰である︒人聞を欲望の
しょくざい 肉塊として認識し︑その購罪のために難行苦行を以て阿弥陀如来の利生にすがって︑汚れた現世から清浄無垢の永遠性
を旦︵える来世に住生する︑という思想である︒人聞は︑終生常に保ち得ない永遠性を求めることは︑生を与えられた本能
を ち
︵ 欲
望 ︶
で も
あ ろ
う ︒
仏 教
渡 来
以 前
の 民
俗 信
仰 に
お い
て も
︑ 変
若 か
え り
︵ 穀
物 の
正 常
な 周
期 の
復 活
← 惜
の 再
生 ←
人 の
一 生
の 復
活 再
生 ︶
の
思想に共通していたために︑平安期に入って仏教の徐々なる大衆化に伴ない︑皇貴族から下層民に極楽往生とか来世奉迎
の観念が浸透していった︒しかし︑この阿弥陀信仰が︑平安中末期から聖僧の名である人間界に用いられるようになり︑
さらに受戒登壇を経ていない濫僧の名に命名されるようになる︒さらに︑念仏僧から楢素人を含めた無名僧や被差別人の
職人の名に命名されるほどに俗化した︒天上界にあるべき阿弥陀如来の徐々なる零落である︒その代表例が︑ 一遍の時宗
鉢 か
づ き
と 観
音 信
仰 の
普 遍
化
四
四 四
であり︑遊行濫僧の名は蔓延し︑芸人職人の名まで拡教伝播する︒
これらの阿弥号を名乗った下層者の築いた歴史が︑中世阿弥文化と称されるもので︑猿楽能の観阿弥世阿弥とか造園
の善阿弥・相阿弥などの例に見るごとく︑室町将軍家の同朋衆にこの号が多くなる︒特に︑同朋衆に阿弥号を命名した者
の多かったことは︑彼らの浄土住生の憧僚ももちろんあったが︑彼ら自身が卑賎身分の出自であって︑時宗に拠って脱俗
することで︑身分制度に束縛されずに︑貴族や将軍家などの上層階級の聞をたちまわれることも可能であったわけである︒
文化的には大いに貢献もした阿弥陀仏信仰であったが︑これが下層化大衆化するとともに︑宗教的には俗化することで
徐々に喧伝されなくなってゆく︒この︑聖なる阿弥陀信仰の落塊に代って︑徐々に盛んになってくるのが観音信仰である︒
観世音菩薩は︑阿弥陀如来に随伴してその先鞭者の役割を担った脇侍であり︑偶像崇拝の信仰においては一段階地位の
さがった如来から菩薩への格下げであったが︑観音の慈悲は現世の衆生救済能力に優れているとした観念が︑平安期の阿
弥陀如来より遥かに現世肯定的で︑大衆向きの気安さとともに︑中世向きに適った偶像と化してゆく︒
然らば︑多くの観音の偶像の中で︑なぜ長谷観音が採りあげられたのか・:ということになろう︒
それは︑当代における観音信仰において︑最も衆知されていた寺であったからであろう︒また︑当時の最大の人口の密
集地の京からの距離も適当な︑衆民の遊山遊行性を保つ位置に存在していたことも︑人を集める大きな要因となっていた︒
長谷寺とは︑﹃大日本地名辞書﹄︵吉田東伍・明?冨山房︶その他の地名辞典などに依れば︑今日の桜井市初瀬︵大和国磯城郡初瀬
町︶にあって︑十一面観音を本尊とする西国三十三霊場の第八番にあたる︑と﹂記されている︒草創は諸説あるが︑銅板碑
文には︿飛鳥清御原大宮治天下天皇敬造﹀とあって︑この天皇が天武とも持統ともいわれている︒その該当の干支のうち︑
干は不明で支が成年となる︒天武紀八年八月︑持統紀四年六月に行幸の記事があり︑この成年が朱烏元年︵六八六︶︑文武天
皇 二
年 ︵
六 九
八 ︑
和 銅
三 年
︿ 七
一
Gの三説がある︒銅板は︑川原寺の僧道明が︑天武天皇病気平癒のために豊山長谷寺に安
置したという説を採りあげる歴史家が多く︑天武とすれば朱烏元年ということになる︒年号変更の政治事情の紛議などの
いざこざを推察すれば︑このあたりが妥当であろう︒
その後の︑長谷観音の霊験あらたかな説話を一瞥すると︑﹃日本霊異記﹄﹃法華験記﹄﹃今昔物語﹄巻十六などが知られ
る︒これらの三著に共通する﹃長谷寺観音験記﹄もこれらの説話集から材料を提供されている在
1︶ ︒
こ れ
ら の
三 著
に 共
通
する﹃観音利益集﹄︵仮称︶という説草も︑その素材の提供を受けた﹃三国伝記﹄も︑また歴史研究家ではよく知られてい
る︹
注2
︶ ︒
観音信仰は︑中国の﹃法華経﹄普門品の六道輪廻の転業の思想から︑その普門品偶の︿即得解脱﹀を述べるように︑業
力業道を否定せずに︑観音の称名念仏を実践することにおいて︑即時に転業できるということから在立︑この思想が我国
に移入されて︑平安期の天台の六観音信仰から徐々に現世肯定的となり︑摂関期の多くの皇貴族たちの観音霊場参詣を流
行させた︒やがて︑何十人何百人の女性を含めた富裕上層階級の参詣の流行は︑私度僧たち真贋を含めたヒジリたちの手
において︑京都の庶民層から周辺の農民層へと渉透してゆく︒
ひ じ り お ほ み ね か
? り き い し っ ち み の う か ち う は り ま そ さ み な み く ま の な ち
聖の住所はどこ/\ぞ︑大峯葛城石の槌︑箕面よ勝尾よ︑播磨の書寓の山︑南は熊野の那智新宮︒
︵ 梁
二 九
七 ︶
こ の
平 安
中 末
期 か
ら 大
流 行
し は
じ め
た 今
様 の
歌 謡
は ︑
既 に
山 伏
た ち
︵ 里
に 下
っ て
ヒ ジ
リ と
な る
者 が
多 か
っ た
︶ の
修 行
場 と
し て
説
明をしておいて山上の霊域となっているが︑何れも観音信仰の普遍化とともに繁栄をした寺々である在
4︶ O すなわち︑院
政期の皇貴族時代の観音霊場としての︑平安末の現世肯定的な信仰から栄えたものではなく︑︵それが難行苦行を経ての
山頂への参詣であっただけに︶来世往生の希求の方が著しく濃くなっていった︒これが西国三十三霊場の巡礼をしての
︿聖の住所﹀をみるかたちで︑発展してくるのである︒
ヒジリの神秘性が︑里に下つての卑俗化とその零落化もさりながら︑真偽混滑︵:・というより当代からすれば︑殆どが
贋の聖者︶のこの聖職者たちの活動は︑大いに民間説話を拡張し︑またその庶民性を濃くしていったろう︒
そして︑民間説話や伝説伝承に引き曳られる恰好として拡がってゆく観音信仰と︑その一般庶民化大衆化と参詣人の普
鉢 か
づ き
と 観
音 信
仰 の
普 遍
化
四 五
四 六
遍化は︑街道の発達や各宿場などの成長発展と人口緊落地の急速な増加︵地方都市の発生︶︑庶民の潤沢化︵商産業の発展︶にお
一紙半銭の浄財を集める一般人や被差別民の信仰を大きな背景として︑あちこちのお詣りが盛行しはじめる︒
い て
京都を中心とした︑西日本中心の文化の観音参りが︑まずはこれらの説話などに依る人口に拾案されていた長谷観音な ︑
どに︑生涯に一度はお参りしたいとした思想が濫暢となって︑庶民生活の向上とともに盛行するようになる︒
皇貴族の熊野参詣も︑補陀落渡海の伝説も︑庶民の思想に下層民化傾向の波とともに︑鼓吹吹聴されてゆく︒長谷寺・
清水寺・志度寺などの観音の霊験謹も︑徐々に東海地方にも拡がってゆく︒名古屋市南区の笠寺観音や︑愛知県春日井市
の円福寺縁起も光り輝く観音像の由来である︒善光寺詣でを主題とした︑長野県小諸市の布引観音なども︑鎌倉期に盛行
しはじめる善光寺聖の活躍に拠るものであったろう︒そんな点では︑北条時頼の廻国説話も︑善光寺聖の創作が多く加え
られて︑巧みに庶民に親しまれてきている︑と考える︒
西国三十三所巡礼は︑鎌倉期に盛行を始め︑これを模した坂東三十三所巡礼がまもなく興り︑鎌倉将軍家から下層化し
てやがて十五世紀に民衆の巡礼が活発化する︒さらに︑坂東三十三所に併称される秩父三十三所が︑西国・坂東との一体
性の強調によって全国的崇拝を得ている︒それは︑西国三十三所巡礼の観音信仰の拡張であり︑その底辺の拡大をみる大
衆庶民化の動きであろう︒江戸期では︑坂東巡礼が不振であったが︑秩父巡礼は大いに流行している︒それは︑景勝にめ
ぐまれた秩父の方が狭い地域に集中していて︑大人口化してゆく日本の最大都市化をたどる江戸の町人たちの成長富裕化
による行楽性ゃ︑聖の物真似である遊行遊山性が大いに寄与していた︑というべきであろう︒
ニ︑鉢をかづく意義
今日的な合理性を以て考えれば︑肩まで隠れるような大きな鉢をかぶせられた十三歳の︑成長期の乙女が︑日々その起
肩の筋肉は発達し︑隆々たる頑健な豪女に成長すると考えるのだが︑物語は成長後の姿も︑ 居を繰り返しながら︑眠る時を含めての挙措を始め︑外出その他の多くの渡世を過すのでは︑さぞや重たいまま﹄に首や
一般の中世小説に類似する表
現 で
この鉢かづきの風情を︑ものによくよく誓ふれば︑楊梅桃季の花の香に:::信号:::はづかしげにてそばみたる ︑
あいきょう ︵横向きの表情も︶顔の愛婿のいつくしく︑楊貴妃李夫人も︑いかでかこれにまさるべき・:
と︑美女の醤喰の型に依ったま﹄の没個性の特徴を示している︒
自然主義ではない中世小説の世界のことに︑そんな矛盾を指摘しても是非がないことと︑叱責されそうだが︑私がこの
異常性で主張しておきたいことは︑この一つの矛盾している成長前と後の姫の表現から︑当時では非常に高価であった陶
器製品の︑そのもっとも大きい鉢などは︑物語の語り手も聴き手も︑また伝承者たちも︑それほどに識得は︑していなかっ
たのではなかろうか︒﹁鉢﹂という物の︑僧侶の托鉢用の小さな用器ゃ︑こわれやすい五鉢の如きものでは五年ぐらい歳
月を︑成長期の乙女にかぶせておくには用をなさないのであるから︑物語伝承者やその周辺の語り手や聴き手は︑寺院や
尊貴な家庭に時々見たり聞いたりする小さな鉢から︑︵瓦鉢ならいざ知らず︶この物語の如くに大きな同類を想像し︑お
伽話としてしまったのであろう︒ 一般庶民や農民の家庭に︑高価な陶器の鉢は︑中世中期あたりでは身近には無かった︑
とみるべきであろう︒
か づ
閑話休題︒物語の矛盾はともかくとして︑鉢を被く意義に似て説明をしておきたいことは︑若い女性が顔を隠すという
趣旨が︑先天的に民俗伝承の中で︑どんな心意を具えてきたか:・︑ということであろう︒
毎年の夏の先祖霊などの精霊を迎える盆行事の中で︑今日にその意義を失なって︑形態だけ娯楽化され伝存している盆
踊について考えてみる︒この年中行事が民俗的に年中行事化されているものでは︑女性は必らず笠を被いて︑顔の上半分
を隠す恰好になっている︒秋田県雄勝郡西馬音内町の盆踊は︑ 一名亡者踊とかガンケ踊と称されて︑彦三一頭巾という黒地
鉢 か づ き と 観 音 信 仰 の 普 遍 化
七 四
八 四
の袋のようなものを︑顔の全部にすっぽりとかぶって︑目の部分だけ穴をあけて踊る︒亡者を象どったものと伝えている
が︑全員が黒頭巾の強盗のようなこの恰好をすると︑薄気味の悪いものである︒まさに︑亡者の訪れと錯覚される珍しい
仮 中 年
面 行 を 事
被
1; で
る あ 、 る
と 。
つ
f丁
為
はマツリなどに行われる場合には︑ その本来の意義は︑神とか精霊などに扮した︑とされる
こ と
が 多
く ︑
その影向の形態によって︑種々の面が着用され︑扮した人聞は別人格の旨意を以て扱われる︒﹁鉢かづき﹂
の昔話の例としては︑ それが生活用具の鉢であるために︑類は異なるが︑ その容貌を隠す点においては共通した性格を︑
その本来義として具えていたものであろう︒
一 定
期 間
を 顔
を 蔽
い ︑
それをはずした時に別人格となる原義を有していた︑
と 考
え る
︒
実母の死に際して︑姫には他人から︑その顔の見られないように︿肩の隠るる程の鉢をきせ参らせて:::﹀︑さらに︿さ
しも草深くぞ頼む観世音誓ひのままにいただかせぬる﹀の歌を詠むのは︑ その顔を隠すことにおいて︑顔が見られるよう
になる日までの不具者としての不幸を︑観音菩薩に守られるように祈念したものである︒﹁さしも草﹂は雑草の中にもつ
μ A俳
a b
釘 さ ト
﹂ 院
a b
占さ
r とも数の多い蓬のことで︑﹁蓬生の宿﹂の古謡に知︐りれる如く︑一般庶民のことである︒この歌は︑﹃新古今集﹄釈教歌の
巻 頭
に あ
る ︒
なほ頼め︑しめぢが原のさせも草︑わが世のあらむ限りは
︵ 新
古 一
九 一
七 ︶
の歌の引用で︑﹁やはり清水観音にお頼みなさい︒はかばかしくないま
Lに死を覚悟するよりは・:︒もぐさの産地である
し め
ぢ が
原 ︵
下 野
国 に
あ る
︶ の
さ し
も 草
の よ
う に
︿ さ
せ も
﹀ ︵
ど ん
な 辛
い こ
と が
あ っ
て も
中清水観音が衆生を救って下さるとしている
聞は:::﹂の意で︑保元年間︵一一五七ごろ︶に成立していたと考えられている藤原清輔の歌論書の﹃袋草子﹄に︑この
﹃新古今集﹄収載の方の歌は解説されている︒それほど有名であっただけに︑﹁鉢かづき﹂の説話の中に転用されたのであっ
たろう︒大和言葉を以て︑男女の契りを結ぶ契機となる例は︑﹃歌垣の研究﹄︵喜一五 1
三 ペ
ー ジ
・ 昭
お ・
三 弥
井 書
店 ︶
に 論
述 し
た ︒
無学の無精者が清水観音にお詣りの折に︑貴族の女房と歌の掛合をして︑勝って契りを結ぶのはこの型であって︑すべて
大和言葉を利用して関係のない上臆と比翼連理の間柄となってしまう例は︑中世小説に多い︒﹃横笛草紙﹄﹃みなづる﹄
﹃をぐり判官﹄﹃ふくろふ﹄﹃和泉式部﹄﹃浄瑠璃十二段草子﹄﹃しゅんとく丸﹄などなどであるが︑この美女が必ず男に体
お を許す条件については︑本稿の主題ではないので︑ここでは措く︒ただ﹁花世の姫﹂﹁うばかは﹂は︑﹁鉢かづき﹂に類似
した筋書きとして︑存在している︒その類似性については︑岡田敬助﹁室町時代小説 H 鉢かづき勺花世の姫りうばかは H
考﹂︵園畢院雑誌六七の九・昭包に指摘されている︒﹁花世の姫﹂は︑母の夢枕に観音が表われて︑梅花一輪が飛来して姫が誕生
したように設定されている︒生まれは駿河国の富士の裾野の山里である︒﹁うばかは﹂は尾張国のいわくらの里となって
いる︒何れも地方豪族であり︑﹁鉢かづき﹂の長者謹・継子譜に共通する︒そして﹁うばかは﹂では姫誕生には観音は関
係なく︑家出した姫が母の信仰していた甚目寺の観音堂の縁の下にお寵りをして︑姥皮という木の皮を与えられた︒その
木の皮の衣を着して︑これを顔から脱ぐことで豪族と結ぼれる︒﹁鉢かづき﹂に相似した結末である︒甚目寺の鐘勧進に
ぉ 伴う説話とも恩われるが︑そのことについても︑今は措く︒
さて︑実母が大和言葉を包摂した歌を詠んだ時に︑鉢かつぎ姫には観音の守護としての鉢がかぶせられた︒そして︑こ
きほう の鉢のとれる日には観音の守護からは離れるが︑母が翼望した幸せの臼がくる︑と誓願したのである︒逆に考えれば︑鉢
をかぶるという仮面を被くのと同意義の行為は︑母の願いとしての観音の守護の期間であり︑仮面による別人格に化すこ
と で
あ る
︒
観音菩薩の影向している姫の仮の姿であって︑ その鉢のとれる日の後半の成功への︑準備の段どりとして仮面を被って
いる歳月が設定されているのである︒
仮面を被っている姿は︑姫の仮の姿として︑通常生活から逸脱した夢のような状態で生きる︒脱魂の状態と考えてよ
鉢 か
づ き
と 観
音 信
仰 の
普 遍
化
九 四
五 。
いだろう︒すなわち︑仮面をかづく別人格でありながら︑姫自身であり︑姫自身でない状態を粧った︑借りものの性格を
帯びる人格として︑時にはよそ者として多くの人々の前に現れる︒それは︑ マツリにおける仮面の習俗が︑現実と霊界を
往来するのに共通した二重人格者で︑ マツリの場合は︑信仰の上で神霊の想く脱魂状態と考えるが︑物語の方では神霊の
往還は無関係であるから︑せいぜい別人格に変貌転換する程度であろう︒
以前に︑女性や成年戒の少年の﹁化粧﹂が︑﹁仮粧﹂であって︑神のごつ物﹂となるための︑別人格となるための方
の り う つ り
法 と
述 べ
た こ
と が
あ る
︵ ﹃
歌 垣
の 研
究 ﹄
六 二
七 ・
六 三
0
ページ|上述書︶が︑年中行事における化粧は︑この仮面の脱魂の同形態と考
えてよいであろう︒成人社会に入ってきたばかりの村の若い少年が︑厳しい試練を受けたり︑定期的に苦しい踊りなどを
やらされたり︑妖怪に扮する面を付けさせられたりするのも︑﹁霊質﹂から変貌した人間であることを意味している︑と
いえるであろう︒有史以前からの長い伝承を具えたマツリの儀礼が︑廿一世紀を迎えた年中行事に伝存していることの
﹁仮面﹂の︑大きな事実を背景に︑顔を隠したお伽話の姫の存在を︑混同して考えてよいであろう︒大きな鉢を成長期の
年中行事の﹁笠﹂の風俗の中に︑ 姫にかぶせて︑その顔を見せなくしてしまうという物語の展開は︑非常に奇抜であるが︑その容姿が美女にみえる今日の
一般の人々は常に目にしてきたし︑時には深くも強い印象を与えられてきたのである︒
﹁ 鉢
﹂ を
か づ
く こ
と は
︑
一時的に観世音の保護による別人格に変態することであり︑この風装を脱することで︑観音の
冥加の結果としての幸福がもたらされるという成功に︑物語は招かれているのである︒
四 むすびに
お伽草子﹁鉢かづき﹂と題せられた︑昔話から草子化されたと察せられる説話を以て︑平安末期ごろから当代に語られ
る歴史的背景の観音信仰︵長谷観音︶の縁起を考えてみた︒
ぬ その荒唐無稽な筋がきも︑﹁鉢﹂をかぶせられて脱げないという奇禍も︑庶民性を容含した特徴を具えていて︑自然主
義性の形態を留めて多くの説話文学を湧出した鎌倉初中期では︑顧慮願望されなかった文学である︒
﹁お伽文庫﹂の命名が︑書捧渋川清右衛門︵柏原屋︶の命名と伝えられながら︑﹃お伽草子﹄の読者層が︑知識の多かっ
た皇貴族から無教養の一般庶民に拡ってきたことを︑文学史的性格の上でも証明している︒神仏の加護︑霊験といっても︑
じ き だ ん 語りには会話が多くなり︑読みものには絵入り本が増えてくるのも︑享受層が下層階級化していったからである︒直談性
を濃くし︑挿絵や画中詞を伴うことにおいて︑神仏もまた庶民に馴染ぷかくなり大衆化されたことになる︒
難行難解の山上他界の貴族信仰の急激な易行化への仏教の変革は︑中世の庶民化してゆく観音信仰にも同様であった︒
大きな中世史への変移の上に︑この種の荒唐無稽な物語が流布された︒それは︑わかりやすい説話を以て︑大衆の一紙半
銭の浄財を東める地方寺社の宣伝の徐々なる伝播波動において︑蔓延流通した説話であったからである︒
︵ 平
成 四
・
9 −
m稿 了
︶
︵ 注
1
︶︵ 注
2
︶︵ 注 3
︶︵ 注 4
︶山 根
賢 吉
﹁ 霊
験 護
の 蒐
集 |
| 観
音 と
地 蔵
il