• 検索結果がありません。

ハウプ トマン

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ハウプ トマン"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

153

G. ハウプ トマン ≠Di e Ra t t e n

における空間処理

ゲルハル ト・ハ ウプ トマ ンは,ベル リン ・レツシング劇場 での "VorSon‑

nenau短ang〟による衝撃的 なデ ビュー以来, 自然主義 を始 め とす る時 の文芸 思潮 を常 に数歩逸脱 し続 け,従 って好評 と不評 の矢面 に絶 えず晒 された作家 であ る 彼 の作 品 は,EinsameMenschen〟 FuhrmannHenschel〟 な ど若干 の例外 を除 いて,初演 当時 の反響 として は控 えめな ものが多 く,後 に なってその真価 を認 め られ る傾 向が強 い。小論 で取 り上 げ る 「悲喜劇」"Die Ratten〟もその例 に漏 れず,1911年の レツシング劇場 での初演時 には,文芸 批評 の指導的立場 にあったA.Kerrも,「この作 品 は,確 か に彼 の前作 よ りも 力強 い。 しか し彼 の傑作群 よ りは力が ない。‑‑取捨選択 に欠 け,説得力 に 欠 け, (内面 的 にパ ンチカが奪 われてい る。)核 心 に欠 けてい る 早 い話が, 個々の点 について は専 ら二線級 の作 品で あ る」 1)と評価 す るに留 まった 時の文壇 の反応 は,概 ねKerrと同様 であ る。2) ところが,その5年後 に行 わ れた新演 出あた りか ら評価 は全般 的 に好転 す る。S.Jacobsohnが,「何故私 は

この "Ratten〝に目が向か なか ったのだ ろう。」3)と再評価 す るの を始 め とし

1)WernerBellman,GerhartHauptmannDieRatten,Stuttgart1990(Reclam, ErはuterungundDokumente,UB8187),S.91.

2)Kerrのこの批評 は,全体 としてむしろ寛容な方である。有力な批評家 としては, 他 にS.Jakobsohn全てが馬鹿馬鹿 しい」,M.Harden陳腐 なメロ ドラマ」,F.

Mehring哀れむべき演劇」など酷評 した者 も少な くない。ただ,H.Bahrのみが, 初演に 「私は,久 しくこれ程力強い作品を劇場で見た ことはない。」と最大級の賛 美を寄せた ことは注 目に値する/Vgl.ibid.S.80104.

3)ibid.S.110.

(2)

て,否定 的 な評価 は姿 を消 し,現在 で はH.Mayerの見解 「多分, 〔中略〕現 代演劇界 に対 す るゲルハ ル ト ・ハ ウプ トマ ンの最 も重要 な貢献 であ ろう。」4)

も十分 な説得力 を持 つ に至 ってい る。事実,1957/58及 び1958/59の シーズ ン で は,"Ratten〝は全西 ドイ ツの上演 回数 において,"RoseBernd〝と並 び,

"DerBiberpelz〟に次 ぐ数字 を示 してい る。5)一方,活字化 された作 品 に目を 向 けてみ る と,DieWeberクや"DieversunkeneGlocke〝や"DerBiberpelz

といったお馴染 みの作 品 は,40年程 の間 に100版 以上 を重 ね て い るの に対 し,Ratten〟は,発表 か ら18年経 た後 も14版 しか記録 していない 。6) 出版 としての "Ratten〃 は,大 きな成功 を納 めた とはいい難 いのであ る。 この, 演劇人 や批評家達 の高 い評価 に も関わ らず何故 か大衆 にい ま一 つ浸透 し切 れ ない戯 曲が,その構造 に独特 な特徴 を持 つ ことは,従来か ら指摘 されて きた。

それ は主 にタテの構造 としての プロ ッ ト面 に関 してである ことが多 いが,小 論 で は作 品の ヨコの構造 としての幕,及 び空間 に注 目し, そ こか ら作品の新 たな有機 的統一 性を探 ってい きたい。

1."DieRatten〝の二重 プロッ ト性

"Ratten〟が,その二重 プロ ッ ト性 とい う構成 において,同 じハ ウプ トマ ン "DerroteHabn〝も含 めた他 の悲喜劇 と明 らか に趣 を異 に してい る とい う点 について は,発表 当時か ら指摘 され続 けて きた。即 ち, ヨー ン夫人 を軸 に展開す る赤 ん坊売買の事件 と,ハ ツセ ンロイター,ヴ ァル ブルガ,シュピ ッ タ等が 中心 となる恋愛騒動 が,全幕 に渡 ってそれぞれ別個 に進行 す るので あ

4)HansMayer,GerhartHauptmannVelbert,Mtinchen1967(dtv6823),S.116. 5)57/58のシーズンでは99回で3,58/59には75回で4位。因みに両シーズン

1位 は,"Der Biberpelz,220か ら230回程上浜 されている/Vgl.E.

NevilleAlexander,StudienzuinStilwandelim dramatischenWerkGerhart Huptmanns,Stuttgart1964,S.140.

6)RoyC.Cowen,Hauptmann‑Kommentar,zumdramatischenWerk,M臼nchen 1980S.68.

(3)

G.ハ ウプ トマ ン DieRatten〟 にお ける空 間処理 155

る。各々 は,劇 の悲劇面 と喜劇面 を担 当 し,一応 の完結 を見 る訳 だが,悲劇 と喜劇 は進行上接点 を持 つ ことが な く,一 方の人物群 は他方 の筋 に関 して殆 ど影響力 を持 た ない. とりわ け,悲劇 の中心 に立 つ ヨー ン夫人 とその夫バ ウ ル ・ヨー ン (以降バ ウル と略す る) に対 して は,劇 中で進行 す る喜劇 の存在

さえ明 らか にされないので ある この,F.Mehringが呼ぶ ところの 「二つの ぞんざい に繋 ぎ合 わ されたス トー リー」7)を,作 品全体 を鑑 みた上で どう解釈 す るのかが,今 日まで ≠Ratten〟研究 の柱 であ り続 けた。 その試 み として, 例 えばB.V.Wieseは,登場 人物 達 にプ ロ ッ トを支 えtるだ けの主体性 を認 め ず,彼等 を 「傍観者」 と位置付 ける そ して, それ らの,筋 の錯綜 を見守 る 他 に術 を持 たぬ人物達 を通 して, よ り高次 で現実社会 を動かす 「見 えざる手 ("Mythos〟)」の存在 を認 める。8)B.Stuhlmacher P.Sprengelは,プ ロ ッ ト の差異 を空間 の移動 と関連 付 け,前者 はモ ンター ジュ理論,9)後者 は フロイ

トの精神分析10)を援用 しなが ら,や は り現 実描写 としての作 品 に現代性 を読 み取 っている いずれの解釈 も 「ドラマ化 された生活」 を描 いた従来 の戯 曲 に対 してハ ウプ トマ ンのUrdrama〟論11)に基づ く「生活化 された ドラマ性」

Ratten〟に認 めているが, その際登場人物 に付 きまとうアイ ロニー的色 彩 が強調 され る余 り, ともすれ ば ここでの二重 プ ロ ッ トさえ,一 つのアイ ロ ニ ー と捉 え られ勝 ちである傾 向 は否 めない。12)ともあれ,作品 に統合性 を模

7)Ann.1,S,99.

8)BennoYonWiese,WirklichkeitundDramainGerhartHauptmannsTragi kom6die"DieRatten",in:GerhartHauptmann,Darmstadt1976(Wegeder ForschungBd.207),S.301318.

9)Brigitte Stuhlmacher,"Vom TeilzurEinheitdesGanzenH."Gerhart Hauptmanns"Ratten",in:ZeitschriftftirGermanistik4(1983),S.524.

10)PeterSprengel,GerhartHauptmann,Epoche‑Werk‑Wirkung,Mtinchen1984 ll)最 も古い舞台は人間の頭脳である。その中では最初の劇場が設立する遥か以前

に劇が演 じられていた。 (中略)戯曲は作者 によってではな く,自ら動かな くては ならない.その動 きの根源は,人生の根源 と同様誰の目にも隠されていなければ ならない」(G.H.,C.A.Bd.ll,1036‑1038.)

12)Stuhlmacherも同様の指摘をしている/Vgl.Anm.9,S.8.

(4)

索す るために試 み られた解釈 として は, その 自然主義 的要素 を踏 まえた上で 人物達 か ら主体性 を奪 い取 り,作 品全体 に 「文学 的正義 の持 つ"justalionus

(同害報復法)」の否定13)も含 めた種 々 のアイ ロニ カルな手法 を見 出すか, さ もな けれ ばK.S.Guthkeが主張す る様 に,同一 の人物 に喜劇性 と悲劇性 の両 面 を認 める もの14)が挙 げ られ よう 一方,小論 で は この作 品 に も他 のハ ウプ トマ ン作 品同様, もうひ とつの対立 す る概念 ‑日常 と非 日常 ‑が, これ また 彼独 自の空間処理 によ り盛 り込 まれてい る点 に注 目す る 更 に この概念 が, 人物 と空間 とい う作 品の二大要素 を介 して二重 プロ ッ トと絡 み合 いなが ら複 雑 な様相 を呈 す る点 に,"Ratten〟は構造 上際立 った特徴 を有 す る とい えよ

>

つ 。

2.ttDieRatten''の 空 間 処 理

"Ratten〟を,その喜劇部分 と悲劇部分 に大別 した場合,オー ソ ドックスな 方法 として人物,そ して人物 の支配す る幕が それ ぞれ に当て はめ られて きた。

即 ち,ハ ツセ ンロイターが主 とな る第 1・3幕 は喜劇 的な性格 が,対 して ヨー ン夫人 が支配 す る第 2・4・5幕 は悲劇 的 な性格 の強 い幕 と位置付 け られ る

この分類 その もの に大 きな矛盾 は認 め られ ないが, その際幕 の舞台 とな る空 間が非 常 に重要 とな ることを見過 ごして はいけない。劇 の舞台 は, プロ ッ ト

13)"Ratten〝では,赤ん坊の所有 を巡 る争いから二人の女性が因果応報 ともいえる 死 を迎 えるが,結末で暗示 される当の赤ん坊の暗潅たる将来は,何の正義によっ ても説明されるものではな く,作品のアイロニー性を象徴 した形 となっている。/ Vgl.Sprengel,S.152.

14)Guthkeは,悲喜劇の構成要素 を人物の性格,台詞,空間 (環境),空間 と性格 及び筋 との間の反作用に大別 し, これ らが統合的に動貞 されることにより悲喜劇 は生み出されるため,それを喜劇的や悲劇的な側面に分離することは出来ないと している。空間を基本的構成要素に組み入れた彼の説は,殊ハウプ トマンに関 し ては有効であるが,人物 に悲喜劇両面 を投影する試みが,"Ratten〟に完全に当て はまるか どうかは疑問である/KarlS.Guthke,GerhartHauptmannunddie Kunstform derTragikom6die,in.Germamisch‑RomanischeMonatsschriftBd.

38(1957),S.349369.

(5)

G.ハ ウプ トマ ン "DieRatten〝 にお ける空間処理 157

と同様二種類用意 されている。 まず,第 1・3幕の舞台 となる屋階。 この屋 階は以前 は兵営であ り,今 は没落 した元劇場監督ハ ツセ ンロイターの所有す る膨大 な舞台衣装 の倉庫 として使 われている。 それか ら屋階の下 に位置 し, 残 りの幕の舞台 となるヨーン夫妻の住居 (以降 「住居」 と略する)であるO

とはいえ,二つの筋立ての舞台 として,屋階 はハ ツセ ンロイターが根城 とす る喜劇的空間,住居 はヨー ン夫人 を取 り巻 く悲劇的空間 と,単純 に結論付 け ることが出来 るだ ろうか。両空間の描写 とそ こでの人物達 の行動 を子細 に検 討 してみれば,作者が これ らの空間には,単 なる事件 の背景以上の積極的意

味 を付与 しようとしていることに気付 く筈である。

兵舎 としての過去 を色濃 く残す屋階 は,種々雑多な衣装があた りを覆 いつ くし,乏 しい光の もとに密蒼 とした‑一種独特 な雰囲気 を醸 し出す。 そこに足 を踏 み入れた者が 「古城の武器庫か,骨董屋か, はた また仮装用の貸衣装屋 にいるのか と疑 いを抱 く」 (735)程の雑然 とした空間が, 冒頭か ら観 る者 を 驚かせ るのである。 この空間 をⅤ.Wieseは,人物達がそれ を現実 とも幻影 と も識別 し得ない,自然主義的現実か ら遠 く隔たった「詩的イメージ」と捉 え,15)

Guthkeは,その悲喜劇両面の特徴 (ヒロイ ックな舞台衣装が表現する悲劇性 と,下町である周囲 も含 めた薄汚い兵舎が暗示す る喜劇性)を指摘す る。16)そ れに較べて住居 は,「子供 のいない夫婦 によ く見か ける様 に,こぎれいで整頓

された印象 を与 える」 (754)空間 として描かれ る。 この空間の落 ち着 き ( 陛では,始終人が出た り入 った りを繰 り返す) と, そこで話 され るベル リン 方言,更 にその主であるバ ウルの小市民的で平凡な性 向 (2幕の結末 にピ ベルカルカ と会話す るまで, ヨー ン夫人 の行動様式 もバ ウルのそれ と同様 の ものである。)か らも,住居が下町の平均的な家庭 の実社会 を,外面か らで は あれ忠実 に措写 した空間であることには異論があるまい。次 に, この二つの 空間で,劇 の悲劇面 ・喜劇面が如何 に展開 してい くかを分析す ることにより,

15)Ⅴ.Wiese,S.305306. 16)Guthke,S.356.

(6)

両者の性格 を探 ってみたい。

llDieRatten^Jの悲喜劇両 プロッ トの展開 : 悲劇 的プロッ ト (ヨー ン夫人 の赤 ん

坊売買事件)

□第 1幕 (屋階)

ヨー ン夫人が,女中 ピベルカルカ に対 し,身篭 った私生児 を金 と引 き 換 えに譲 り渡す ことを説得す る。

□第 2幕 (ヨー ンの住居)

ハ ツセ ンロイター一家が ヨー ン夫 婦 を出産祝 いに訪問。座 が和 むの も

つかの間, ピベル カルカが子供 を取 り返 しに現れ, ヨー ン夫人 と口論 に なる。 その際,女 中が役所 に子供 を 実子 として届 け出,明 日役人が鑑査 にヨー ン家 を訪れ る事 を告 げる。

□第 3幕 (屋階)

無人 の ヨー ンの住居 (ヨー ン夫人 は,赤 ん坊 を連れて姿 を くらます。) か ら,別 の赤 ん坊 を見 つ けて きた ピ ベルカルカ,キールバ ッケが現 れ, 同様 に子 供 を探 しに来 た ク ノ ツベ と,ハ ツセ ンロイター,シュピッタ, ヴァル ブルガ も巻 き込 んで赤 ん坊 の 奪 い合 いになる。 その内その子供 が 既 に死亡 している事 が判 明す る。

喜劇的プロ ッ ト (シュピッタ, ヴァ ルブルガ, そ してハ ツセ ンロイター

を含 めた恋愛騒動)

ヴ ァルブルガ とシュピッタが待 ち 合わせ をす るが,ハ ツセ ンロイター と歌手 ア リスの逢 い引 きに邪魔 され る。

シュピッタがヴ ァルブルガに対 し て,厳格 な父 と, 自分 と同様 の恋愛 騒動 を起 こして勘 当 され 自殺 した姉 の話 を物語 る。

シュピッタの父が現れ,息子が俳 優 を志願 している事 と,女性 と付 き 合 っているらしい事 に対 してハ ツセ ンロイターに抗議す る。 そ こでヴ ァ ルプルガ とシュピッタの恋愛がハ ツ セ ンロイター にばれ,彼 は娘 を説教 す るも,逆 にア リス との件 でや り返 され る。

(7)

G.)、ウプ トマ ン "DieRatten"にお ける空間処理 159

□第 4幕 (ヨー ンの住居)

バ ウルが妻 に疑惑 を抱 き,夫人 は 取 り乱す。弟 ブルーノが登場 し, ビ ベル カル カを殺 した事 を白状 し,夫 人 は荘然 自失す る。

□第 5幕 (ヨー ンの住居)

ハ ツセ ンロイターが現れ,赤 ん坊 の疑惑 を更 に提示す る。続 いてバ ウ ルが ブルーノ指 名 手 配 の知 らせ を 持 って登場 し,赤 ん坊 を連 れて家 を 去 ろうとす る。 ところが,ゼルマの 告 白で, その子供 はピベルカル カが 屋根裏で産 み落 とした子 であること が発覚す る。錯乱 した ヨー ン夫人 は, 窓か ら身 を投 げ自殺 す る

生 活 資 金 を ヨー ン夫 人 に借 りに シュピッタが現れ る 続 いてヴ ァル ブルガが家か ら逃 げる様 に現れ,二 人共 自分の親 の無理解 を憤 り,相互 の愛情 を確認 す る。

ハ ツセンロイター に再 び劇場監督 への招待が届 き,彼 とヴ ァル ブルガ, シュピッタは和解す る。

以上 の対比 は,作品の骨組 みを明確化 す るために, プロ ッ トの展開それ 自 身 に焦点 を絞 った ものであって, それ らの周辺部 に存在 する挿話的エ ピソー ド,例 えば第2幕で シュピッタが物語 る馬車事故 の話 や,第 3幕でのハ ツセ ンロイター とシュピッタの演劇論争 な どは,全 て割愛 してい る。 このプロ ッ

ト展開表 か ら,作品の構造面 において若干の興味深 い傾向を読 み取 ることが 可能だ ろう。

まず,既 に述べた ことだが,両 プロ ッ ト共第 5幕全体 に渡 って展 開す るに も関わ らず,互 いに殆 ど没交渉 といって もいい程独立 した形 で進行 す る。唯 一ハ ツセ ンロイターのみが両 プロ ッ トに関与す る人物 であるが,彼 も赤 ん坊 売買プロッ トにおいては事態の混迷 を深 めるばか りで,進行 その ものに何 の

(8)

寄与 も施 さない。17)その他 に,架 け橋 として両 プロ ッ トの交差 す る機会 が二 箇所設定 されてい る 即 ち,第 4幕 で シュピ ッタが ヨー ン夫人 に金 を借 りに 来 る場面 と,終幕 でハ ツセ ンロイターが件 の赤 ん坊 を引 き取 ろう と申 し出 る 場面 で ある。共 に一 方のプロ ッ トの主要人物が他方 のプロ ッ トの展 開 にポジ テ ィブに関与 す る可能性 を持 つ場面 で あるが,第 4幕 で は ヨー ン夫人が不在 であ り,終幕で は管理人 カカ ロにハ ツセ ンロイターが諌止 され,結局両 プ ロ ッ

トの接触 は不首尾 に終 わ る。18)従 って,両者 は各々独 自に展 開す る こ ととな るのだが, それでいて, その様式 には幕 によ り一種 の共通点が見受 け られ る ので あ る。 それ は両 プロ ッ ト共,第 1幕 と第 3幕 で その (外 的)状 況 を一変 させ る ことで ある。 この点 について は,恋愛騒動 プ ロ ッ トの方が, よ り明確 な特徴 を示 してい る とい えるだ ろう このプロ ッ トは,喜劇色 の強 い もの と して三幕仕立 てで も十分処理 し得 る筋で あって,所謂"Exposition〟 (事件 の 提示 と両者 の決裂 とい う展 開)は,共 に屋階が舞台 とな る。赤 ん坊売買 プ ロ ッ

トは, それ に対 してやや複雑 に進行 す るが,第 1・3幕 の役割 は前者 と同様 である ただ, ヨー ン夫人 の心理面か らプロ ッ トを眺 め る と, ピベ ルカル カ

17)ハウプ トマン自身は,ハ ツセンロイター とヨーン夫人の関係を次の様 に述べて いる。「彼 らは全体 としては度々接触するが,個別的には殆 ど接触 しない。その様 に作品が始 まり,最後 までそのままである」(C.A.Bd.ll,S.810)この 「個別的 ("inbesonderen〟)接触の欠如が,両人物の もう一方のプロッ トへの影響力の 乏 しさを物語っていよう

18)"Ratten〝は,1887年に "DerBuchstabetotetと遷 した断片で着想されてか ら,"DasRattennest,"MutterJohnsKindbettなどと題名を変 えなが ら,ハ ウプ トマンとしては異例 ともいえる程の改稿 を重ねている。改稿 は第5幕が中心 であるが,中で も初演か ら半年程以前の19107月に書かれ,"DerStorchbeim Maskenverleiher〟と題 された稿の第5幕は,現在の終幕 と内容的にかな り異なっ ている。そこでの舞台は屋階であ り, ヨーン夫人の犯罪がヴァルブルガ とハ ツセ ンロイターによって明確に暴かれる。 ヨーン夫人 は発狂 し,警察に逮捕 され,残 された赤ん坊 を前にハ ツセンロイター達が世の皮肉に思いを馳せ る, というもの である。 ここでは両プロットが,結果的に程 よく統合 され,決定稿 よりもバ ラン スの取れた終幕を形成 しているかの様だが,そのためにハ ツセンロイターが理性 的人物に変身するといった様 な,人物,更には屋階その ものの性格が不用意 に変 化 してしまう感は否めない./Vgl.C.A.Bd.9,11811202./Anm.1,S.55‑59.

(9)

G.ハ ウプ トマ ン "DieRatten"にお ける空間処理 161

が役人 の来訪 を告 げる第 2幕 と, ブルーノが ピベル カルカ殺 しを白状す る第 4幕 にそれぞれ展開点が用意 されてい る感 を受 けるか もしれない。 しか し, それ は作品 をヨー ン夫人 の心理劇 と捉 えた際の解釈 である とはいえないだろ うか。赤 ん坊売買 とい う明確 なプロッ トに照 らし合わせてみれ ば, その提示 部 は犯罪が計画 された第 1幕であ り,決定的な展開部 は, その犯罪が (た と

え疑惑 とい う形 を取 るにせ よ)公的 に発覚す る第3幕 に求 めなければな らな いだ ろう

両 プロッ ト共,従 って枠組 みを第 1・3幕 で規定 され,第 2・4幕で は心 理的 な展開 を見せ る訳 だが,赤 ん坊売買 プロ ッ トについてはその悲劇性 に関 連 して更 に言及 しな けれ ばな らない。第 1・3幕,即 ち屋階での出来事 を発 端 とす るこのプロ ッ トが悲劇的な結末 を迎 えることは周知 の通 りだが, 当の 1・3幕 を支配す る雰囲気 は,到底悲劇的な もの とは呼べず,後 の悲劇 を どれ程暗示 してい るか もまた疑問である。む しろ,屋階で繰 り広 げ られ るど たばた こそ,喜劇的 な性格 が色濃 い と断 じて も差 し支 えあるまい。特 に第 3 幕 は, プロ ッ トの要 とな る場面であ り,赤 ん坊 の死 とい う 「悲劇的」 な事件 で幕 を閉 じる ことにな るに も関わ らず, (赤 ん坊 の死 を最初 に発見 す る人物 が, ヴ ァルブルガである とい う点 に も注 目したい) それ 自体 に喜劇 的な効果 さえ認 め得 る とはどうい う訳であろうか。各人が状況把握 に失敗 し続 け,上 滑 りした口論 とその仲裁が どん どん脱線 していった挙 げ句 に, い さかいの中 心である赤 ん坊が とっ くに死 んでいる事 さえ気付かない とい うこの幕 の登場 人物達 を目の当た りにして,既 に状況 (犯罪) の全貌 を見通 した観客達 は, 笑 っていいのか悲 しんでいいのか蹟躍す るので ある。そ こで は,「殆 ど全 ての 人物が非合理的であるか,少 な くとも影 の様 な存在で, 自分 白身 さえ認識 し 損 なっている」19)空間 としての屋階 自体 の持 つ雰 囲気 を見逃 す訳 にはいか な

い 。

屋階が住居 とコン トラス トを成 す空間 として設定 されてい ることは論 を待

19)Ⅴ.W iese,S.307.

(10)

つ まで もないが,両空間の性格 の対比 を非合理 的 ‑合理的/古典主義的 ブル ジ ョア階級 ‑自然主義的労働者階級/喜劇 的 ‑悲劇 的 な どといった具体 的 な 概念 で捉 える他 に, そ こには更 に根源的 な相違 が認 め られ る。屋階 は住居 の 階上 に位置す るに も関わ らず,後者 に較 べて はるか に外界 を意識 させ る空 間 .として措 かれてい る。第 1幕 で時折聞 こえるベル リンの喧騒,第 3幕での子 供達が外 で遊 ぶ声や廊下 での話 し声,或 い は来訪者 のく呼 び鈴,更 には部 屋 か らつなが る図書館 や屋根裏部屋が, 「開かれた空間」としての屋階 を強 く 印象付 ける ことだ ろ う 住居 で も,雨 の音や鐘 の音 が外部 か ら漏 れ聞 こえて

くるのだが, それ らは室 内での赤 ん坊 の鳴 き声 同様 ,劇 の状況や人物達 の心 理状態 と密接 な関係 を持 った効果音 であって,空間 その もの を特徴付 ける役 菩掴ま果 た していない。第 2幕後半 での ヨー ン夫人 とピベルカルカの 口論 の頂 点 を告 げる赤 ん坊 の鳴 き声や,第 4幕以 降でのブルー ノのイメー ジに ま とわ りつ く鐘 の音 な どは,その典型 と考 え られ る。20) む しろ住居 は,そ こでの ヨー ン夫人 ‑ ピベルカル カ ・ブルー ノや, ヴ ァル ブルガ ‑ シュピッタ, それ にヨー ン夫妻 な どといった二人 だ けの会話 (屋階で も,例 えば第 1幕 でのハ ツ セ ンロイター ‑ ア リス,第 2幕 でのハ ツセ ンロイター ‑ シュピック牧 師

とい う1 1の会話 が行 われ るが, その際 には屋根裏 に人 が潜 み,聞 き耳 を 立 ててい る ことを忘 れてはい けない) に よって,又,散逸 した筋が ヨー ン夫 人 の犯罪 へ と次第 に収赦 してい く様相 に よって, ゆるやか に閉 ざされた感 を 与 える空 間 と定義 して も差 し支 えあるまい。作 品の結末で,住居が警察 に よ

り封鎖 され る とい う事 実 は, その暗示的 な意味 において興 味深 い。K.Hilde‑

brandtは,作 品中の二 つのプロ ッ トの特徴 として,恋愛騒動 プロ ッ トを,そ

20)ハウプ トマンが,空間や場面の状況や,人物の描写の補助手段 として,視聴覚 的イメージを頻繁に利用することは再三指摘 されているoそしてそれ らの手法が, 極 く初期の小説 "Bahnw宜rterThiel〟(1887)にさえ明確 に認められる事実は, 彼が既 に当時か ら自然主義 を脱却 しつつあった ことの証左 ともなろう。/拙論

G・ハウプ トマン 『線路番ティール』解釈試論 ‑ その空間的象徴性 ‑ 」,「 島 ドイツ文学」 (広島独文学会),1990,ト18貢参照。

(11)

G.ハ ウプ トマ ン "DieRatten〟 における空間処理 163

の断片的な扱 われ方や,現実認識 を回避 しようとす る展開か ら「開かれた筋」

と,赤 ん坊売買 プロ ッ トを, その一貫 した展開 によ り 「閉 ざされた筋」 と規 定す るが,21)何 よ り舞台上 の両空間その ものが これ らの性格 を分 け合 ってい るのである。即 ち,屋階 と住居の性格差 は,「合理」‑非合理」以前 に, その 根源的特徴 を 「開かれた空間」 と 「閉 じた空間」に求 めることが可能であ り,

そ こか らプロ ッ ト進行 に関 しては,第 1・3幕 の 「拡散」 に対す る第 2・4 5幕 の 「収束」 とい う特徴が指摘 し得 るのである。両 プロッ トは,屋階 を背 景 とした場面で,外界 か ら様 々な人物 を取 り込 み,(その中には合理的な人物 も少数存在す るが)混迷 の度 を深 めて拡散 した後 に,住居で漸次整理 されて い くとい う経過 を辿 る。

3.空 間 に よ る人物 の特 色

屋階 と住居 のプロ ッ ト進行 に対 す る役割 を 「拡散」 と 「収束」 に上で規定 した訳 だが, これ らの特徴 の形成 には, い うまで もな く空間 と共 に登場人物 が大 き く寄与 してい る プロ ッ ト中心 に作 品 を見た場合,両 プロッ トの中心 人物 として赤 ん坊売買 プロ ッ トにはヨー ン夫人,恋愛騒動 プロッ トにはハ ツ セ ンロイターが置かれてい ることは言及す るまで もない。だが,ここでプロ ッ トか ら空間 に視点 を移 し, その機能面か ら人物 を分析 す る と,作品の拡散 を 担 う中心的人物 は,恋愛騒動 プロ ッ トと同様ハ ツセ ンロイターであるのに対

して,収束 に努 める中心的な人物 は, ヨー ン夫人 の夫 ウル ・ヨー ンとす る のが妥当である 但 し,バ ウル は恋愛騒動 プロ ッ トに加担 しないため,以下 の考察 は主 に赤 ん坊売買 プロッ トを背景 とした ものである。(恋愛騒動 プロ ッ

トは,第 4幕以降全 く副次的な筋 に転落 して しまい, その収束 を担 う人物 は 特 に限定 されない。)

バ ウル は屋階 には一切姿 を見せないが,住居 で繰 り広 げられ る三 つの幕 に

21)KlausHildebrandt,NaturalistischenDramenGerhartHauptmanns,Mtin‑

chen/01denbourg1983,S.8289.

(12)

は全 て登場 す る。 自分 の家 に現れ る とい うこと自体,当然 といえば当然 であ ろう ただ,彼が妻や, カカロや, ブルーノや,ゼルマ と交わす会話 は劇 の 進行 にこの上 な く重要 な場面で あ り,彼 を,単 に事件 の顛末 に右往左往 す る とい う主人公 の夫 の地位 に留 まらせ は しない。第 2幕で我 が子 の誕生 に小躍 りして喜 び,第 4幕で疑惑の示唆 に耳 を貸 そ うとせ ぬふ りをす るものの,一 抹の不安 と疑問 を払 い きれず, そして終幕で は事件 を率先 して解明 し自ら深 い絶望感 に打 ちのめされ るバ ウル は,閉 ざされた空間の中で (精神的 に もプ ロッ ト的 に も)小市民的 な安定性 を思考す る住居 その もの を象徴 す る人物で ある といえる。 さて,一方の屋階 を象徴す る人物がハ ツセ ンロイターである ことは自明だが, それで は他 の重要人物 は空間 に どう関わ って くるのだ ろう か。以下 に考察 してみたい。

住居 の中心 に位置す る人物 をバ ウル と規定 す る と, ヨー ン夫人 の空間 に対 す る関係が大 きな問題 となって くる。彼女 もまた, 自分 の住居 に属 し, そ こ に安住 で きる存在 なのだ ろうか。第 4幕以降,否正確 には第 2幕後半での ピ ベルカルカ との対話以降, ヨー ン夫人 の意識 が平静 を失 うことは明 白で,局 囲の人 間 と正常 なコ ミュニケー シ ョンを図れ な くなってい る その原因 を, ピベルカル カの役所 への出生届 けで事件が発覚す る事 に対 す る恐れ と判 断す ることは容易 いが, それ ばか りではない。実 はピベルカル カ との面会以前 に も, ヨー ン夫人 の様子の異様 さについては,二度 ほ どヴ ァルブルガによって 認識 されてい るので あ る 最初 は第 1幕 で屋 階 の ラ ンプに火 を灯 した時 に ヴ ァルブルガが彼女 を見 て,「まあ,まるでお化 けみたいに見 えるわ よ,ヨー ンさん」 (742)と口走 る場面,次 は第 2幕で,天折 した我が子 アデルベル ト の髪 の毛 を,手 に入れた赤 ん坊 の髪 と較べ る彼女 を指 して,「ヨー ンさんの様 チ,変 だ と思わない ? エー リッヒ.」 (766)とシュピッタに尋ね る場面 であ

る。前者 の場面 で は,ヨー ン夫人 自身 の態度 は平常 だが,ヴ ァルブルガに とっ て彼女 は 「幽霊 に取 り囲 まれてい る様 な徴臭 い部屋」 (742)にふ さわ しいメ ンバ ー として捉 え られ る ヴァルブルガ は, ここで二点の重要な示唆 をほの めか している即 ち,屋階が非現実的,或 いは非 日常的空間であること,又,

(13)

G.ハウプトマン"DieRatten〟 にお ける空間処理 165 ヨー ン夫人 が この空間 に馴染 む存在 で\ある ことの二点で ある こうい った彼 女 の指摘 は,第 1幕 で は暗示 の域 を出ていないが,第 2幕 においては明瞭 な もの とな る。 この時点 を境 に彼女 はバ ウル を中心 とした 日常的空間で ある自 宅 か ら明 らか に隔絶 され始 め る訳 だが, それ はアデルベ ル トのモテ ィー フに

よって誘発 され る ことに注意 しなけれ ばな らない。

K.D.Postは,ハ ウプ トマ ンの 自然主義作 品群 に共通 す る"Mystisch〝な母 親像 を認 め, その像 の崩壊 や喪失が作 品 の悲劇 を引 き起 こす と指摘 す る。22)

"Ratten〟は正 に この典型 であ って,ヨー ン夫人 はアデルベル トが生 まれ た こ とによ り一旦理想 の母親像 を手 にし,我 が子 の死亡以来, 当時 の状態へ の回 帰願望が彼女 の生存本能 と同化 す るに至 るのであ る その際アデルベル トの 存在 は,G.Kaiserの言葉 を借 りれ ば 「息子へ の憧憶 は,世 の中の幸福 と生活 への参入 に対 す る憧慢 」23)と一体 化 され るまで に昇華 され抽 象化 し, もはや 何人 を もって して もこの憧憶 を満足 させ る ことはで きない。従 って,買 い取 られた赤 ん坊 は,単 に亡 き実子 の レプ リカ として ヨー ン夫人 の寵愛 を受 ける に過 ぎず,彼女 はバ ウルの反対 に も関わ らず赤 ん坊 をアデルベル トヒェン と 呼 び,髪 の毛 を較 べ, ひたす ら二人 の赤 ん坊 を同一祝 しようと努 め るのであ

ここでの彼女 は,既 に 『線路番 テ ィール』 の結末 で,事故死 した トピア スの帽子 を狂気 に染 ま り無心 に慈 しむテ ィールの姿 さえ孝方裸 とさせ る ことだ ろう 5幕 で,真相 を知 ったバ ウルが,赤 ん坊 の服 を箪笥か ら手 当た り次 第 にっ張 り出す と,ヨー ン夫人 は こう叫ぶ。「バ ウル,止 め と くれ / 何 を

した っていい け ど,私 の体 か ら肉 を引 きち ぎ らないでお くれ/」 (829)ヨー

22)"BahnwかterThiel,"Faschingp,"VorSonnenaufgang,"DieWeberp,

"RoseBernt〟など,ハウプ トマンの自然主義作品の多 くは,理想的母親像の欠如 と硬直化 した父親像が重要な背景 となっている/Vgl.KlausDieterPost,Das UrbildderMutterinHauptmannsnaturalistischem FrGhwerk,in:Helmut Koopmann(Hrsg.)MythosundMythologieinderLiteraturdes19. Jahrhun‑

derts,Frankfurta.M.1979,S.34ト366.

23)GerhardKaiser,DieTragigkom6dienGerhartHauptmanns,S.371,in:W.d.

F.,S.360384.

(14)

ン夫人 の亡 き実子 に対 す る執着が, ここではフェテ ィシズムの域 にまで達 し てい ることが見て取 れ よう 従 って,彼女の真の (そ して永遠 に到達す るこ との出来 ない)母親像への回帰願望が,作品後半での彼女の錯乱の根源で あ り,彼女 に とって赤 ん坊売買や ピベルカルカ殺 しとい う 「世俗 的」な犯罪 は, この本源的な要因 を顕在化 させ る契機 に過 ぎない。彼女 は既 に第 1幕か ら, 得 る術 のない非現実 としての母親像 を追 い求 めることで,住居 に安住 し得 な い非 日常的要因 を多分 に内包 しつつ舞台 に登場 す るのである。(そ して必然的 に,終幕で は自宅 か ら飛 び出 して行 く。)さて,重要人物 としては,次 にブルー ノ及 び ピベル カルカに目を向 けてみたいが,彼 らを考察す るに当た って必要 不可欠 となるのが,第 3の空間 「屋根裏」の存在である。

4.不 可視 空 間 と しての屋 根 裏 の持 つ 意味

屋階の天井 に位置す る屋根裏 は, その内部 を観客 の前 に晒す ことはない。

即 ち,視覚的な認識 が不可能 である訳だが, また, そ こか ら何の物音 も聞 こ えて こない点で,聴覚的 に も観客か ら閉 ざされた空間で ある。(これ は屋階 に 隣接す る図書室や,住居 に しっ らえられた小部屋 と屋根裏 の大 きな外面的 な 特徴 の違 いである) しか し, そ こへ人物 が頻繁 に出入 りし,話題が しば しば そ こに及ぶ に も関わ らずプロッ トの舞台 となることを回避 しているため,屋 根裏 は空間 としてのイメー ジのみによって存在 してい る (屋根裏 にいる人物 は,階下 の人物 の行動,つ ま りプロッ ト進行 を観察 しようとす るた め,屋根 裏 にい る間 は, 自らの存在 と行動 を全 くア ピール しない) とさえ考 えられ,

その空間的象徴性 の点で,典型的 なハ ウプ トマ ン的空間 とい えよう Spren‑

gelは, この屋根裏 を評 して 「大都会 の悪魔 的,地獄的性格 の空間的象徴」と 定義 し,"Unterwelt〟としての屋階の性格が凝縮 された空間である とす る。24)

この解釈 は,確 か にオー ソ ドックスで妥 当な ものだが,屋根裏 は 「ネズ ミ」

とい うライ トモテ ィー フを担 うばか りで はな く,人物 との関連 によって また

24)Sprengel,S.144.

(15)

G.ハウプトマンDieRatten〟における空間処理 167

プ ロ ッ ト進行 に も積極 的な意味 を有 してい る

屋根裏 と最 も類似 したイメー ジは,誰 しもブルー ノに認 め ることだ ろう。

彼 は全編 を通 じて一度 しか屋根裏 に上 らないが, その風貌,25)ネズ ミと直結 す るイメー ジ ( 1幕で,彼 はネズ ミ取 りを手 に登場 す る),登退場時 の不気 味 な静 けさな どは,屋根裏 に直結す るイメー ジで ある。 ヴ ァル ブルガ は,第 1幕で屋根裏 に潜 む彼 を見 て仰天す るが, その驚 きも屋根裏 によって増幅 さ れてお り, いわ ば彼女 は,「未知 な る屋根裏 の住人」た るブルー ノに恐 れおの の くので ある 特 に,第 4幕 で人知 れず ヨー ン夫人 の前 に姿 を現す ブルー ノ は屋根裏 を通 って きてお り, その様 子 は, いか に も 「屋根裏 か らの来訪者

の感 を強 める ことだ ろう そ して もう一人 , ブルー ノ とプロ ッ ト的 に も空間 的 に も奇妙 な結 びつ きを見せ るのが ピベル カル カであ る 2幕 と第 4幕 の 終盤 に, ヨー ン夫人 が両者 それぞれか ら衝撃 的な話 (役所 への出生届 ・ピベ ル カルカ殺 し) を聞か され荘然 自失 す る ピベル カル カ は赤 ん坊 に会 いに, ブルー ノは金 を借 りに ヨー ン夫人 の許 を訪 れ る訳 だが, その際 ヨー ン夫人 を 震増 させ る これ らの事 実 を,彼等 は副次的 に持 ち出す に過 ぎない。 そのた め 両者 とヨー ン夫人 の会話 中の思惑 には差異 が生 じ,会話 は微妙 な食 い違 い を 見せ なが ら進行 す る。26) 2・4幕 は,従 って第 3幕 を挟 んで対 照的 に配置 さ れ てお り, ピベル カル カ ・ブルーノ両人 は,赤 ん坊売買事件 の発端 とその発

25)「ブルーノ ・メヒェルケは,背はむしろ低 く,猪首に筋骨隆々 とした肩 を持つ。

狭いいびつな額,ブラシの様な髪,小 さな丸い頭,左の小鼻に傷痕のある搾猛 そ うな顔 つ き。」 (737)

26)P.B6ckmannは,ハウプ トマンの自然主義的戯曲の特徴 を,作品の進行に影響 を及ぼし得ない "Mimik〟としての会話 に求め,その結果,作中での会話が本質 的にすれ違い続けると述べているが,Ratten〟における問題の会話 は,ピベルカ ルカ及びブルーノの発言が明 らかにヨーン夫人の動揺 ・錯乱 を招 くもの となって いる。従って,例 えば DasFriedenfest〝 や EinsameMenschen〝での家族の 上滑 りした会話が事態に何の影響 も与 えないのに較べて, ここで会話 は作品の展 開 を左右 し,Mimik〝と形容 出来 る もので はない。 自然主義 的 と呼 ばれ る

"Ratten〟 も, この様 に手法の点で初期作品群 と一線 を画 している/Vgl.Paul BOckmann,DerNaturalismusGerhartHauptmanns,in:W.d.F.,S.2171249.

(16)

展 に関わ る人物 として ヨー ン夫人 を追 い詰 めてゆ くのである

ブルーノが屋根裏 に帰属 す る人物である とい うことは既 に述べたが, そ こ が ピベルカルカに とって も重要 な空間であることは明 白であろう。何 よ り第

1幕 と第 2幕 の間 に生 じた彼女の屋根裏 での出産 は,終幕 まで云々 され続 け る訳 であるが,特 に第 3幕 でその根拠 (羽根布 団や晴乳瓶 な ど) をきっか け として,屋根裏 に出没す る とい う自殺 した騎兵 のイメージが, カカロによ り ピベルカルカ と暗 に関連付 けられ る点や,第 2幕後半 で シュピックが亡 き姉 の亡霊 について言及す る時, それ と呼応 す るかの様 に青 ざめた ピベルカルカ が静 か に登場 す る点 は興 味深 い。 ブルーノが屋根 裏 に直結 す る悪魔 的 なイ メージを持 つな らば,従 って ピベルカルカ も同様 に霊的なイメージの持 ち主 として屋根裏 に身 を置 いてお り,両者 は,出産 と殺人 とい う相反す る行為 を 行 うに も関わ らず, それ らの行為 同様,登場人物達 の認識領域外 に位置 して いる。 そ ういった彼 らの作 品での在 り方 その ものが,空間 に準 えれ ば屋根裏 の存在 に類似 してい るとい えるだ ろう 更 には屋根裏 その ものが, 出産 と殺 人 に象徴 され る 「発生 と消滅」 を暗示 してお り, そ こに従来か らハ ウプ トマ ン文学の一大特徴 とされて きた 「万物 の源泉た る母性」 の影 を認 めることも 十分可能 である 先 に, ヨー ン夫人 は日常空間である住居 に安住す ることを 許 されない人物 である と述べたが, そ うす る と,彼女 の追 い求 める神秘的母 性 と共 に, ヨー ン夫人 に とって もまた,屋根裏 は三つの空間の内,最 も近 し

い存在 である といって も過言ではあるまい。第 1幕 の最後 に,彼女 はブルー ノ とどベルカル カの潜 む屋根裏へ ワイ ンを持 って上が ってい く 下 の屋階で は,ハ ツセ ンロイター とア リスが,正 に喜劇的 な幕切 れ を演 じてい るが, そ の時既 に屋根裏 は, 自らに帰属す る住人達 と共 に後 の悲劇 を醸造 しつつ,壁 間 としての独 自の存在 を主張 し始 めてい るので ある

上 の三人 とは異 なった特徴 を有す るものの,や は り屋根裏 と密接 に関連 す る人物が,管理人 カカロである 彼 については作 品中でバ ウルが指摘す る通 り,"Zerberus〟 (冥界 の番犬)(797)として,従来 の研究で は屋根裏 とワン セ ッ トに捉 え られて きてお り,登場 回数の少 な さか らか余 り考察 の対 象 とは

参照

関連したドキュメント

tiSOneと共にcOrtisODeを検出したことは,恰も 血漿中に少なくともこの場合COTtisOIleの即行

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

第一五条 か︑と思われる︒ もとづいて適用される場合と異なり︑

これらの船舶は、 2017 年の第 4 四半期と 2018 年の第 1 四半期までに引渡さ れる予定である。船価は 1 隻当たり 5,050 万ドルと推定される。船価を考慮す ると、

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので