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麻生多聞『憲法9条学説の現代的展開―戦争放棄規 定の原意と道徳的読解』(2019 法律文化社)

著者 河上 暁弘

雑誌名 PRIME = プライム

巻 43

ページ 120‑124

発行年 2020‑03‑31

その他のタイトル ASO, Tamon. Constitutionalism and the Pacificism: The Original Meaning of the

Article 9 of the Constitution of Japan and the Moral Reading by Ronald Dworkin. Horitsu bunka sha, March 2019.

URL http://hdl.handle.net/10723/00003827

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麻生多聞『憲法 9 条学説の現代的展開―戦争放棄規定の原意と道徳的読解』

(2019 法律文化社)

河 上 暁 弘

(広島市立大学広島平和研究所准教授)

著者の麻生多聞は、賢人にして「多聞」の人で ある。そう言うといささか唐突に聞こえるかもし れないが、あらためてそう思う。

古来「賢者は聞き、愚者は語る」(ソロモン)

と言う。物事について「語る」前にはまず当事者 なり他者なりの言葉を「聞く」必要があるだろう が、これまで著者が先行研究と向き合うときに 採ってきた方法論は、先行研究における多様な論 者の提示している理論枠組みを把握するだけにと どまらず、それが依拠する理論についてもその

「声」を聞こうとするところから始まる。そのため、

著者の先行研究・学説との向き合い方は、その源 流にさかのぼり、それが依拠する理論、哲学、方 法論について深く読み込み、正確に理解し、もし 必要があれば、その依拠する理論等を用いて、い わば「内在的」な批判をも行うというものである。

誠実な方法と言うほかない。

このような方法論を真摯に行おうとする限り、

「多聞なればしばしば窮す」(老子)ということも おそらくなかろう。多すぎる知識が固定観念を生 み、思考や行動の柔軟性を失うことは、深い理解 もなく「知っていること」だけが多い者が陥りや すいことだが、ただ単に「知っている」というこ とと「わかっている(深く正確に理解している)」

ということは別の事柄であり、さらにそうした知 識を使いこなすということはさらなる知的力量が

必要とされる。著者は、様々な先行研究や理論を 十分理解した上で、評者にとってはかなり難解と も思われる法哲学的言説を自在に使いこなし、し かも論理内在的な視点からその問題点を解き明か そうとしているからである。

本書『憲法 9 条学説の現代的展開―戦争放棄規 定の原意と道徳的読解』(以下「本書」と記す)は、

序章「『自衛戦争』の諸相」、第 1 章「憲法 9 条学 説の現代的展開」、第 2 章「戦争放棄規定の原意 と歴史―制憲者意思をめぐる従来の通説を『誤解』

とする議論について」、第 3 章「『絶対平和主義』

とは異なる『非武装平和主義』の可能性」、第 4 章「前期中等教育課程社会科公民的分野における 平和教育実践の展開と課題」、第 5 章「『永続敗戦 レジーム』と沖縄―アイデンティティを結集軸と した『オール沖縄』の意義と限界」の全 6 章・

450頁からなる。

本書は、著者にとって、『平和主義の倫理性―

憲法 9 条解釈における倫理的契機の復権』(日本 評論社、2007年、以下「前著」と記す)に次ぐ、

二冊目の単著である。

「倫理」や「道徳」という日本の憲法学の書籍 の題名ではあまり目にしないかもしれない文言が 並ぶが、それこそが著者の方法論の大きな特徴で ある。そして、それは、著書の正確な理解に一定

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麻生多聞『憲法 9 条学説の現代的展開―戦争放棄規定の原意と道徳的読解』

の難解さを生じさせつつも、しかしそれをはるか に凌駕する読み応えを読者に感じさせることとな ろう。

振り返ると、前著は、イマヌエル・カントの平 和理論を用いながら、「平和主義における『倫理 的契機に動機づけられた啓蒙』の重要性を確認す ることにより、現在の国際政治状況を背景として もなお、日本国憲法 9 条による平和主義を非武装 絶対平和主義として解釈するという営為に、なお 大きな可能性が認められうることを示すべく執筆 され」たものとされていた(同書・ 2 頁)。本書も、

少なくともその問題意識は、(本書第 3 章も示す とおり「絶対平和主義」という部分を修正しつつ)

基本的には前著の延長線上にあるものととらえて よいだろう。

そ し て、 本 書 の 副 題 に あ る「 原 意(original  meaning)」 と「 道 徳 的 読 解(moral reading)」

という言葉には、本書の基本的な研究対象と方法 論が示されている。すなわち、憲法解釈において、

「原意」を探ることの重要性が強調され、またそ れと関連して、ロナルド・ドゥオーキンが『自由 の法―米国憲法の道徳的読解』(原著・1996年)

で提起した「道徳的読解」という方法論に依拠し た憲法解釈方法論が本書の分析・内容を理解する 上において核心的な重要性を持つ。

憲法において、原点となる「意味」をいかに「読 み解く」か、また、憲法が規定する理念ないし抽 象的な「道徳」的言語を含む条項をいかにしたら 正確に理解できるか(特に憲法制定者[制憲者]

の意図をその歴史的背景や発言の文脈において理 解することがいかに重要か)、憲法体系ないし「憲 法全体の構造図」の中でそうした条項の意味をい かに位置づけるか、こうしたことが本書の分析の 中核をなすことが本書の題名からすでに示唆され ているのである。

本書は、表題にあるとおり、憲法 9 条「学説」

の現代的展開を考察するものである。著者は、憲 法 9 条の解釈論としては、結論的には、憲法学界 の従来の通説である「憲法 9 条 2 項全面放棄説」

( 9 条 2 項の戦力不保持規定の帰結として侵略・

自衛・制裁を問わずあらゆる戦争・武力による威 嚇・武力行使が放棄されたと解する説)が「憲法 理論的に妥当」という立場に立つ(本書・303頁 等)。また、近代以降の日本の対外出兵・侵略が、

「自衛のための武力行使」として正当化されてき たことなどの「特殊日本的な歴史」を踏まえれば、

日本には自衛のための武力保持・行使までをも自 制・禁止すべき歴史上の理由があり、それが憲法

9 条解釈に通じるとする(序章)。

そうした立場から、例えば、自衛力保持を合憲 と解する長谷部恭男などの理論が学問的検討・批 判の俎上に上がる。

長谷部は、その著書『憲法と平和を問いなおす』

(ちくま新書・2004年)などにおいて、「絶対平和 主義(政府が実力をもって国民の生命・財産を防 衛する行動をとることは、いかなる場合にも決し て許されないという考え方)」は、侵略を促し国 家間関係を不安定なものにするから国際平和の実 現に役立たず、また近代立憲主義にも反するとし て、日本国憲法の採るところではないと主張する。

さらに、「絶対平和主義」を採ることの根拠は、

実効的な平和維持・安全保障を棄ててでも「絶対 平和主義」を貫くことが「善い生き方」であると いう思想のみであるとし、こうした考え方を国策 として採用することは、個人レベルの倫理として 語られるべき価値観を、これに同調しない国民に も押しつけるものであって、(多角的な価値観の 存在を前提として、その各々の価値観を尊重する ものである)「近代立憲主義」に反するとするの である。そして、長谷部自身は、「穏和な平和主義」、

つまり「各国が自衛のための何らかの実力組織を 保持することを完全には否定しない選択肢」(長 谷部同書・160頁)を採る。また、憲法 9 条につ

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いては、「準則(rule)」(ある問題に対する答え を 一 義 的 に 定 め る 法 規 範 ) で は な く、「 原 理

(principle)」(答えをある特定の方向へと方向づ けることにとどまる法規範)ととらえる(長谷部 同書・171 174頁)。

このような長谷部説については、立憲主義の理 解の仕方、非武装平和主義を絶対的平和主義とと らえた上でそれを採る根拠を「善い生き方」であ るという思想のみであるとする理解の仕方、非武 装平和主義を貫けば外部から攻撃を受ける危険性 が大きいという認識の妥当性、「穏和な平和主義」

を含む武装平和主義が国民の生命・自由等を適 切・有効に保障できるかなどについて、学界にお いても様々な応答・批判が提示されてきたところ ではあるが(評者の見解は、河上暁弘『平和と市 民自治の憲法理論』敬文堂・2012年参照)、そう したいわば「外在的」な批判とは異なる形で本書 は検討・批判を試みている。

本書では、長谷部理論の「準則」と「原理」の 区分等は、ドゥオーキンの「道徳的読解」の理論 に依拠するものであるとの理解を前提として、長 谷部理論を一定程度評価しつつも、それが依拠す る理論をさかのぼり、その理論を用いて、逆に長 谷部理論の問題点にも迫るという「内在的」批判 の方法を採る。

ドゥオーキンの「道徳的読解」は、「端的には、

少なくともある種の憲法規定が一般的な道徳的原 理(moral principles)を表すものであるとの理 解のもと、それに従って当該規定を解釈し適用す る方法として理解できる」(門田孝「憲法を『正 しく解釈する』ということについて」『広島法学』

42巻 1 号・2018年、71頁)ものである。著者によ れば、このドゥオーキンの「道徳的読解」におい ては、「憲法解釈は制憲者が述べたことを出発点 として開始されなければならず」、「制憲者が述べ たことを理解するためには、制憲者についての具 体的な情報や、制憲者の発言の文脈に依拠するこ

と」が必要であり、また、抽象的な道徳的言語を 含む憲法条項解釈を行う際に、「制憲者がその言 葉に言わそうと意図したことの内容を、最もよく 捉えることができるような、我々自身の言葉が見 出されなければならず、そのためには歴史が決定 的な根拠となる」(本書・ 6 頁)。また、さらに、

「憲法のテキストや体系的構造、その歴史的な理 解などと整合する原理であること」(インテグリ ティへの適合性)が求められるともされる(本書・

59頁)。

「愚者は自己の経験から学び、賢者は他者の経 験から学ぶ」(ビスマルク)とも言う。他者の経 験から学ぶということは、歴史から学ぶというこ とでもある。ドゥオーキンの方法論に沿った論証 を行う本書も「歴史」を決定的に重視する。

さて、本書は、基本的に次のような柱に従って 論証が展開されている。

第一は、ドゥオーキンの「道徳的読解」に依拠 して憲法 9 条の解釈を行うとどのような結論が導 出されるべきことになるのかを検証することであ る(第 1 章)。

筆者は、憲法 9 条の「原理」が導こうとしてい る「特定の方向」ないし「方向づけ」とは、長谷 部が言う「『軍』の存在から正当性を剥奪し、立 憲主義が確立を目指す公共空間が、『軍』によっ て脅かされないようにするという憲法制定者の意 図」(長谷部恭男『憲法とは何か』岩波新書・

2006年、142頁)にとどまるものではなく、さらに、

「戦争によらざる自衛権による安全保障」という 制憲者により意図された方向性にまで及び、その 方向性が「原理の核心」として特定されるべきも のであるとする(本書・75頁、なお前述の「準則」

と「原理」の相違に注意。 9 条を「準則」ではな く「原理」としてとらえた場合においても、どの ような方向づけを与えたものであるかを著者は論 じようとしているのである)。

第二に、先に触れた「道徳的読解」にとって決

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麻生多聞『憲法 9 条学説の現代的展開―戦争放棄規定の原意と道徳的読解』

定的な日本国憲法制定過程における制憲者意思を 実証的に分析することである。

そのため、本書では、帝国憲法改正(日本国憲 法制定)における帝国議会や枢密院の審議録(質 問と答弁)、政府・法制局の想定問答等の膨大な 史料を分析する。特に会議録・速記録の類いは、

ほとんどすべてを引用して分析の対象とする。そ うすることにより、当時の発言・議論の文脈すべ てが客観的に明らかになるように掲出されてい る。これは、史料・資料そのものに語らせようと する姿勢とも思われ、評者もこれまで歴史分析に おいては恣意的な引用とならないようにそうある べく心がけてきたため、学生時代より「お前の論 文は引用が異常に長い」という非難というか善意 の忠告を受けてきたが、本書では量的にはそのよ うなレベルをはるかに超えた膨大な引用がなされ ている。そのため、 9 条の原意を探ろうとする第 2 章は、分量として、本書の約半分を占め、200 頁を超える。そのほとんどは引用で占められ、水 も漏らさぬ実証的な分析と論証が試みられてい る。読者が同章を読み込む際に求められる集中力 と必要とする時間の甚大さにもかかわらず、もち ろん、その方法論と誠実な実行を評者は高く評価 するところである。

また、本書では、議会等の記録だけではなく GHQにおける草案起草過程とその際に出された GHQ側の見解等も分析している(もっとも本書に 複数回出てくる「民生局」[ママ]はGovernment  Sectionすなわち「民政局」と一般的には訳され てきた機関のことであろう)。

この実証的な検討により、著者は、警察力を超 える実力説的に理解された「戦力」の全面的不保 持説と両立可能な「戦争によらざる自衛権」によ る安全保障という方向性こそが、制憲者により憲 法 9 条に込められた戦争放棄規定の概念の核心と して特定されるべきことを論証しようとしてい る。結論そのものは憲法学界の従来の通説的見解

と一致するところであるが、それを膨大な議事録 等の検証によって明らかにしようとしたところに 大きな意義を感じる。

第三は、(解釈として憲法 9 条 2 項全面放棄説 の立場に立つことが妥当だとしても)「憲法によ る統治機構規定力(立憲主義の制度的規定力)は 決定的なものではなく、制度のあり方は多元的社 会で規定的影響力を有するアクター間の相互関係 により決定される」とするロバート・ダールの視 座や「ノーマル・ポリティックス」(普通の政治 の局面)と「コンスティテューショナル・ポリ ティックス」(憲法改正が政治課題となる局面)

を区別するブルース・アッカーマンによる二元論 を踏まえつつ、(憲法典に過度に特化して考える のではなく)市民による「日々の憲法実践」によ り不断に形成されるものとしての「憲法政治」と いう概念を重視する杉田敦の視座等を参考とし て、憲法 9 条の非戦主義的解釈が広く国民に受容 され、これが国政へと接続されるためには、どの ような前提が求められるのかという問題意識か ら、「絶対平和主義」とは異なる「非武装平和主義」

の可能性を追求するということである(本書・

303 310頁)。

その際に、ピーター・カッツェンスタインの戦 後日本の安全保障政策に関する研究(

) を参照し、暴力行 使に抑制的な戦後日本の安全保障政策は、憲法の 条文よりもむしろ世論による支持により支えられ てきたことを強調し、しかも、それは「善き生き 方」(絶対平和主義)に基づくというよりは、「相 互作用関係にある制度、規範、利益によって形成 され、持続的に為政者を拘束してきた集団的アイ デンティティ、そして制度化された規範」による ものとする(本書・321頁)。

また、同章では、憲法 9 条に適合的な「戦争に よらざる自衛権」による安全保障論の一例として、

ジーン・シャープの「市民的防衛」について詳述

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している。著者はそれが 9 条の求める唯一の方法 とするわけでも、またそれがただちに実現される べきことを主張しているわけでもない。しかし、

市民を土台とした軍事力によらざる安全保障につ いての方法論の提起とそれにまつわる多様で開か れた議論は、「対抗的公共圏」の形成という課題 においても重要な役割を果たすことになるであろ う。

振り返れば、著者と評者は、ほぼ同時期に大学 院生時代を過ごした。著者はカントの平和論研究 で世に広く知られ、評者はその頃、ジョン・デュー イらの平和論・「戦争非合法化(outlawry of war)」

論の研究を行っていた。一方はドイツ観念論哲学、

他方は米国プラグマティズム哲学の代表的論者で ある。評者の学説からすれば、立作太郎なども指 摘しているように、( 9 条 1 項に影響を与えた)

不戦条約にある「国際紛争解決の手段」としての 戦争を非とすることと「国家政策遂行の手段」と しての戦争放棄は区別されるべきであり、その意 味で、 9 条 1 項の解釈においてもそうした視座は 無視されるべきではないと思われる。その点も含 めて、「憲法 9 条 1 項全面放棄説」( 1 項の戦争放 棄は侵略・自衛・制裁すべての戦争を放棄したと 解する説)についても再評価されてよいと考えて いる。また、自衛権論も、立憲主義の基本視座か ら国家自衛権そのものの自明性を疑い「国防高権」

の日本国憲法への授権を否定する「国家自衛権否 認」論(山内敏弘説、古川純説等)などもあわせ て理論的に検討を行ってほしいとは思う。しかし、

おそらく著者との学説の違いは、制憲議会等の議 論の憲法解釈論における位置づけ等の相違ゆえに 生じているのではないかとも思われる。

ところで、デューイは、実験主義的プラグマティ ズムの立場から、理論の完全性を抽象的・自己完 結的に追求するよりも、結果として相対的に有意 義な効果が得られそうなことはまずは実践してみ るべきであり、問題があればその都度フィード

バックして再検討すべきこと、理論は絶えず実 践・行動を通して現実の中で検証されなければな らないことを提唱しているが、その点からすれば、

著者が、本書第 4 章・ 5 章で、「平和教育」や「沖 縄」をめぐる言説といった実践的課題に、自身の 理論を適用し、その考察を深めようとしているこ とは、こうした方法論と親和的にも見える。評者 としても本書から学ぶところが大変多かった。

参照

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