等々される前の真の姿を、心で観ること、心を聴くこと。そのようにして見えてきた姿の実在 を証明する資料・文献等(この場合はヒトラーのオリジナル書物)を全精力を傾けて探求し、
それらを分析し、目で見える形に表すこと。これが社会思想史研究の真髄だということになる であろう。恩師服部文男先生は、こういう姿勢を生涯貫かれた方である。
社会思想史・運動史研究のための宝庫「服部文庫」
-裁判報告『ライプツィヒ大逆罪裁判』(1872 年刊)を例に-
橋 本 直 樹(鹿児島大学教授)
ご紹介いただきました鹿児島大学の橋本です。服部英太郎先生が学長をされた福島大学の卒 業生であり-先ほど発表された相澤先生の受講生にもなるわけです-、服部文男先生を 慕って東北大学大学院に進学しましてからはその教え子の最後の世代の一人でした。したがい まして、このシンポジウムで発表の機会に恵まれ大変光栄に感じております。
◆服部文男先生の『共産党宣言』研究
○文男先生の研究と『宣言』 文男先生の研究分野はカール・マルクス、フリードリヒ・エン ゲルス、マルクス主義とそれに関連する思想史・運動史の領域と多岐にわたっておりますが、 『資 本論』、特にその形成史、『共産党宣言』、レーニン『帝国主義論』形成史が中心でした。なか でも現在の私の研究テーマに関係深いのは『共産党宣言』の研究です。
『共産党宣言』は、現在、『資本論』とともにマルクスの二つの主著の一つと一般には受け止 められています。しかし、本来は 1848 年2月に「共産主義者同盟」というもっぱら手工業職 人・労働者を主とする秘密結社の綱領として無署名で発表された文書です。さらに、その規約 によりますと、組織の綱領としてはそもそも 1848 年のただ1年間だけ有効であると定められ ていました。そのような性格をもつ文書が、今では広く一般に、マルクスとエンゲルスの共同 著作として、また社会科学上の一古典であり人類の学術遺産として知られ、読みつがれている わけです。よく言われることですが『宣言』は世界で『聖書』に次いで出版部数が多く、翻訳 された言語やその点数も非常に多いのです。
○『共産党宣言』とは その内容を簡単にご紹介するのは大変難しいのですが、まずは同盟の 綱領討議の総まとめであり、そしてなにより若い頃のマルクスとエンゲルスの思想の集大成で す。彼らは資本主義社会における労働の辛さや人間の自己疎外を深く分析した疎外論の考え 方、また経済的要素が社会全体を大きく動かす原動力になっていると見る社会や歴史の唯物論 的把握を初めて打ち建て、資本主義社会の歴史、現状および将来の把握を行いました。『宣言』
ではさらにそうした考え方を基にして当時のヨーロッパの展望が描かれています。特にドイツ
の見通しです。経済はすでにイギリスやフランスのような資本主義だ。が、当時のドイツの政
治体制は、われわれに分かりやすく言いますと日本の幕末のように各藩に分かれた各邦国で形
成されていました。ですから、ドイツは、フランス大革命のように資本家が主人公となった政
治的変革によって、資本主義経済体制に見合う政治制度にすぐにも移行するだろう、と彼らは
見ました。そうなった後に、労働者たちが資本主義の成果の上に立つ、資本主義後の社会制度
である社会主義や共産主義を目指す革命を早晩行うことになるだろうと展望し、1848 年の三 月革命において、彼らは民主主義の最左派を形成しました。後にマルクスが著した『資本論』
はこの見通しを特に経済学の面から理論的に証明しようとした試みでした。
○文男先生の『宣言』研究の学術性 このような思想の歴史やそれに基づく運動の歴史を評価 するには、『宣言』はその研究をおろそかにすることのできない第一級の史料です。その影響 史・普及史研究が必要とされるわけです。ところが、戦前は国禁の書、戦後は冷戦等ありまし て、わが国では『宣言』に関する学術的な研究はないに等しかったのです。
その例外が文男先生の研究でした。先生は毎年元旦に『共産党宣言』を読むのを習慣とされ ていました。もちろん毎年同じ版本ではなく、いろいろな版本なのです。が、先生の研究の学 術性はその翻訳を見るのが早分かりです。『宣言』の邦訳は堺利彦・幸徳秋水訳以来 100 種を 少し超えるほどあります。その中で最も厳密なのです。7つある序文はドイツ語、ロシア語、
英語、ポーランド語、イタリア語とすべて原語から初めて訳出されました。正確な事実認識の ための各言語の習得がその基礎にあります。本文も、初めて初版 23 ページ本を底本とし、30 ページ本およびエンゲルスの校閲による 1888 年のサミュエル・ムーアの英訳との厳密な校合 がなされています。また、『宣言』を生み出した 1840 年代後半の手工業職人・労働者の諸組織 およびそれらの運動を綿密に研究し、さらに、いわゆるマルクス主義の3つの源泉についても 深い研究を行った上での訳出でした。
◆『ライプツィヒ大逆罪裁判』に『宣言』が全文収録されたのはなぜか?
今日は、「服部文庫」が私の『共産党宣言』の研究で役に立ちました事例を一つご紹介しま す。それによって、「服部文庫」は「社会思想史・運動史研究のための宝庫」と言ってよいと いうことをお示ししようというのです。20 年ほど前のこと、私がまだ『宣言』を専門的には 研究していなかった頃のことです。さまざまな理由から、私が 1872 年に出された『共産党宣 言』のドイツ語版について、その刊行の経緯を論文に取りまとめることになりました。いろい ろな形で文男先生から懇切なご指導とご助力を賜りました。先生ご所蔵の刊年が同じ 1872 年 の『ライプツィヒ大逆罪裁判』という裁判報告書からのコピーを鹿児島まで送っていただいた りしたのです。この裁判報告書がこの度、本学に開設されました「服部文庫」にあるのです。
分冊形式で 12 冊出た仮綴じ本(小冊子)がまとめられて製本された書物です。その第3分冊 に「共産党宣言」がそのまま全文収録されているのです。当時のプロイセン(ドイツ)はまだ 社会主義者取締法以前の時期でしたが、『宣言』を出すのは極めて厳しい状況でした。出版す れば、大逆罪で起訴されることが確実だったからです。それなのに、なぜ収録されて出版でき たのでしょうか? その理由を順次お話しします。
①普仏戦争(1870 ~ 71 年)当時のフランスとドイツの状況
フランスは当時「第二帝政」の末期です。1852 年末以来、あのナポレオンの甥にあたるルイ・
ナポレオンが帝位に就いてナポレオンⅢとなっておりました。この帝政は動揺を始めており、
内政の矛盾を外政に転化する、外交・軍事上の成功による延命策が試みられていました。散々 失敗したあげく、その最後の試みが 1870 年7月 19 日にプロイセンに宣戦布告した「普仏戦争」
でした。
一方、この時期のドイツでは、各邦国のなかでプロイセンがオーストリアを退けて、ドイツ を統一していく全ドイツの覇者として立ち現れてまいります。プロイセンの「新時代」です。
病気がちだった兄王の摂政をしていたヴィルヘルムが 1861 年に即位します。ビスマルクが宰
相として長く統治する初年 1862 年、議会で「鉄血演説」を行い、議会の協賛なしに 1866 年ま でに軍人のモルトケらとともに軍制を改革します。それまでのドイツ連邦が解体され、プロイ セン主導下、マイン河以北の 22 邦国が北ドイツ連邦を結成します。
種々の経緯がありましたが、普仏戦争はフランスの側からの侵略戦争として始まりました。
ナポレオンⅢが捕虜となって以降、臨時政府とビスマルクとの間で平和交渉がありますが決裂 します。ドイツ側がアルザス=ロレーヌ(エルザス=ロートリンゲン)両地方の割譲を条件と したためです。ドイツ国内では、モルトケら軍部、国民自由派、保守派の中で両地域はフラン スの復讐戦からドイツを守るための生命線でドイツ領にしなければならないという見方が広が ります。これに逆らう者は国家の反逆者とみなされるようになります。
②社会民主労働党の反戦と平和を求める活動
○ブラウンシュヴァイク委員会によるリーフレット普及と彼らの逮捕 一方、社会民主労働党 のブラウンシュヴァイクの委員会が9月5日にリーフレット『社会民主労働党委員会の宣言』
を1万部普及します。11 日には社会民主労働党の機関紙『フォルクスシュタート』にも掲載 されます。総じて、その内容は、当初はドイツの防衛戦争だった。しかし、1870 年9月1日 のスダンの会戦勝利以降はドイツの側からフランスを侵略する戦争に変質した。このような侵 略戦争の続行に反対し、平和を求めるというものです。
当然、9日には、このような内容の宣言を発行したかどで、軍司令官ファルケンシュタイン の命令によって、委員会メンバーが逮捕されます。鎖につながれ東プロイセンのレッツェン
〔現名ギジツコ〕付近のボイエン要塞に送致されます。
○北ドイツ連邦議会での戦時公債案への反対(1870 年 11 月) 北ドイツ連邦議会の第2特別 会期が 1870 年 11 月 24 日(木)に召集されます。翌々日の 26 日に戦争を継続するために、
1億2千万ターレルの追加支出をもとめる政府案が提出されます。7月の戦時公債案に続くも のでした。アウグスト・ベーベルとヴィルヘルム・リープクネヒトら社会民主労働党の議員た ちは、排外主義的議員たちの侮辱や妨害、威嚇にもかかわらず、26 日に戦時公債反対の動議 を提出します。彼らは、議会の討論のなかでもアルザス=ロレーヌ併合の意図に反対し、フラ ンス民衆との連帯を表明します。28 日の戦時公債の採決では、7月には戦時公債に賛成投票 した議員たちからも多くの反対が出ます。政府案は通過するものの、このように戦時公債案へ の反対が増えたのは、社会民主労働党の反戦平和を求める行動が、その支持階層である労働者 階級のみならず、ブルジョアジー勢力の同意をも得たためです。
これをプロイセン政府が黙って見ているはずはありませんでした。
③ライプツィヒ大逆罪裁判
○『フォルクスシュタート』編集部の逮捕・拘留と釈放 翌 12 月 17 日(土)に A. ベーベル、
W. リープクネヒト、アードルフ・ヘプナーの3名がライプツィヒで逮捕、拘留されます。ブ ラウンシュヴァイクで押収された社会民主労働党委員会の資料に基づいて、大逆罪として告発 されたのです。無論フレームアップで、彼ら『フォルクスシュタート』編集部3名の拘留は、
同紙の反戦と平和を求める立場や彼らの議会演説を、フランスに対する征服戦争を遂行する上 での妨げとなるとみたプロイセン政府の命令に基づいて行われたわけです。
翌 1871 年3月に社会民主労働党の議員を中心とする連邦議会での釈放動議の提出により、
議会でもめるのを嫌ったザクセン政府が釈放を指示し、28 日に3名は釈放され、30 日にはブ
ラウンシュヴァイク委員会のメンバーも釈放されます。
○「ライプツィヒ大逆罪裁判」の審理 ベーベルら3名の大逆罪裁判はどのように進んだので しょうか。審理は 1872 年3月 11 日~ 26 日、ライプツィヒ陪審裁判所で行われました。
起訴理由は、共和制論者・社会主義者として、ザクセンおよびドイツ帝国の現体制を暴力的 に転覆しようとしたというのです。証拠となったのは、社会民主労働党を創設したこと、国際 労働者協会(第一インターナショナル)に所属したこと、マルクスと文通したこと、でした。
罪状は、リープクネヒトとヘプナーが『フォルクスシュタート』の編集、ベーベルは同紙の発 送、また、この紙上で革命家・国際主義者としての彼らの見解を普及させたこと、そして、ブ ルジョアジーとプロレタリアートとの間の階級闘争を現在の社会に決定的であるとみなした事 実だけでも大逆罪に値するというのです。起訴資料は、何通かの手紙と協会・集会・論文・小 冊子における3人の宣伝活動のすべてというものでした。
この裁判は今日でもドイツでは歴史上大変有名な裁判の一つのようです。当時もマスメディ アの大きな注目を浴びました。国際的にも関心が拡がり、数多くの新聞の通信員が傍聴しまし たし、ほとんどの新聞が詳細に報道しました。したがって、裁判手続きを公明正大に進めなけ ればならなくもなったわけです。
一方、被告たちの裁判での闘い方は、労働者階級が革命的な目標を設ける独自の政党をつく る権利を擁護することと、ドイツの過剰な排外主義およびパリ・コミューンに対する中傷に反 論することとを方針とし、総じて、法廷を彼らの社会主義思想を宣伝するための演壇に変える というものでした。被告3人の間で役割分担も決め、もっぱらリープクネヒトが矢面に立つ。
1852 年の“ケルン共産党裁判”(その約 100 年後のわが国の松川事件の“松川裁判”と同じく、
共産主義者たちに対するでっちあげ裁判でした)の折にマルクスが裁判批判の書『ケルン共産 党裁判の秘密』を執筆したのですが、その資料収集等の作業を補助した経験が彼にあったため です。ベーベルはそのパートナー。ヘプナーは無罪を求めて後景に退く。党の出版体制の維持 を優先したわけです。弁護人はザクセン人民党の支持者のベルンハルトとオットーのフライ ターク兄弟でしたが、裁判では社会民主労働党に歩み寄ってくれて、裁判長にしばしば法廷秩 序違反を指摘するなど優れた裁判戦術を駆使します。
裁判長はアレクサンダー・エードゥアルト・フォン・ミュッケで、大きな注目を浴びた裁判 でしたから、熱心に運営しました。例えば、起訴資料を逐一読んで聞かせる、種々の証拠文書 を朗読させる等です。ここから、『共産党宣言』、『国際労働者協会の創立の呼びかけ』、「社会 民主労働党の綱領」等々の種々の文書の審理での公然たる朗読に至りました。
○『共産党宣言』はどのようにして、またなぜ朗読されたのか では、『宣言』はどのように して朗読されたのでしょうか。3月 13 日(水)第3回審理の記録からは、被告の側からでは なく、むしろ検察官の指示にもとづいてその本文全体が提出され、その求めによって午前中の 半日すべてをかけて全文朗読されたことが分かります。『宣言』をめぐる争点の一つは民衆蜂 起に基づく革命を主張している、これが大逆罪に当たるということでした。『宣言』中の「目 前に迫った革命」という言葉をめぐる法廷でのやり取りから見てとれます。
被告の側、特にリープクネヒトは、ドイツにおいては、『宣言』第Ⅱ節末の革命後の 10 項目 の施策および第Ⅳ節の革命に触れた最終段落が大逆罪の疑いを受け、出版禁止の原因となって いると考えていたように思われます。被告らは、『宣言』は 24 年前の 1848 年2月に書かれた、
現在の社会民主労働党とはまったく別の目的をもった組織、共産主義者同盟の綱領であり、 「目
前に迫った革命」も 1848 年の三月革命ですでに済んでしまったことであり、社会民主労働党
の現在の理論および活動とは無関係である、と主張したわけです。
○判決と刑の執行 罪状を証明することができなかったにもかかわらず、ベーベルとリープク ネヒトは2年の要塞禁固に処せられ、ヘプナーは無罪をかちとりました。ベーベルについては、
翌月4月6日、ライプツィヒ地方裁判所は「皇帝侮辱」のかどであらためて彼を裁判にかけ、
さらに9ヵ月の禁固に処し、連邦議会議員の資格を剥奪しました。二人には 1875 年4月1日 までに所定の刑が執行されました。
以上の裁判を『共産党宣言』の出版という点で見ますと、大逆罪に問われることなく『宣 言』をドイツで出版することのできる予想外の機会が訪れたということになります。裁判の審 理資料や報告書は当時のドイツでも公刊することができたからです。裁判資料の一つとしての 扱いならば、『宣言』をもライプツィヒ大逆罪裁判の報告書に収録できることになったわけで す。審理の記録ですから、朗読された『宣言』本文がなんら改められることなく、裁判の忠実 な記録として全文収録されなければならなかったと言えます。
◆裁判報告書の出版
○分冊の発行 ドイツ社会民主労働党は裁判報告を大量に印刷・普及することに成功します。
リープクネヒトは審理の詳細な記録『ライプツィヒ大逆罪裁判』を、小冊子の分冊形式で 1872 年4月 17 日[頃]から刊行し始めたのです。発行所はライプツィヒの『フォルクスシュ タート』印刷所です。『資本論』ドイツ語第2版もこの年、若干遅れて分冊形式で刊行されて います。いずれも普及を容易にするためです。しかし、審理記録の場合には、裁判資料の普及 というより、各分冊を、労働者を啓蒙するための宣伝文書として何千部も印刷して活用する意 図があったように思われます。各分冊は、黄色の表紙が付けられた 48 ページ(3印刷ボーゲン)
の体裁で、価格は4ジルバーグロッシェンでした。当初は全体で6~8分冊を予定していまし たが、1874 年初めに発行された第 12 分冊をもって完結します。
○合本の刊行 各分冊は最終第 12 分冊発売後、一巻に合本され、タイトルページには刊年が 1874 年と印刷された上で配本された、とされています。
この点については、第 10 分冊 447 / 448 ページの乱丁の 原因などと併せて、今少し精査の必要があります。印刷 所で合本する際に分冊のいずれかの表紙を使用した可能 性や、印刷所で合本したものとは別に個人が私的に合本 させたものもあり得ます。いずれにせよ、この合冊本が
「服部文庫」にある書目です。「服部文庫」のには第2分 冊の薄い黄色の表紙が残っています(右の写真を参照) 。 この表紙がとても大事なのです。分冊で発行されたこと を証明する物的証拠だからです。管見の限りでは、少な くとも第2分冊の元のままの表紙が付いた合本は、この
「服部文庫」の1冊しか世界にもう残されていないので はないかと思われるのです。
以上、本学 尚絅学院大学に新たに開設されました「服 部英太郎・文男遺文庫」に含まれます稀覯本、裁判報告
『ライプツィヒ大逆罪裁判』のお話を申し上げ、「服部文 庫」が「社会思想史・運動史研究のための宝庫」である
尚絅学院大学図書館蔵「服部文庫」
の裁判報告『ライプツィヒ大逆罪裁 判』から(撮影 : 坂本藍)
ご説明とさせていただきます。
長時間のご清聴、まことにありがとうございます。
〔付記〕本稿は昨年 10 月 13 日のシンポジウム当日の口頭発表の要約です。裁判報告『ライプツィヒ大逆罪裁判』
と『宣言』1872 年ドイツ語版との関係および本稿の参考文献については拙稿「『共産党宣言』1872 年ドイツ語 版の刊行経緯」鹿児島大学経済学会『経済学論集』第 39 号(1993 年 11 月)をご覧ください。貴重な写真をご 提供くださり、その利用をお許しいただいた佐々木学長はじめ関係各位に記して謝意を表します。なお、本稿 は 2012 年度科学研究費補助金・基盤研究(C)研究課題名「『共産党宣言』の起草者名の普及史」(課題番号 21530182)の研究成果の一部です。
フランス思想史からみた服部遺文庫の意義
-フランス第三共和制期(1870-1940)における“社会思想”の再構成をめざして-
太 田 健 児(尚絅学院大学 総合人間科学部教授)
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