NDC 933
「南海」の二面性
W.S. MaughamのRomanticismとRealism
植 月 徹
(昭和59年】4月28日受理)
W.S.モームのいわゆる「南海もの」と言われる一群の 小説がある。そこにはむろん,さまざまなテーマが織り込 まれているとしても,とりわけ欧米の白人の伝統が南海の 民族の文化に触れた際の異文化接触という問題も最も大き
なテーマの一つであることには異論はないであろう。
さて,この小論は欧米の物質文明を象徴する土地と南海 の島々を小説の中の二つの「地点」としたモームのいくつ かの作品をとりあげ,この二つの地点を揺れ動く入物群像 を辿ることで二つの文化の接触や人間の葛藤の問題を軸に モームの「南海もの」の意味をさぐってみたい。
1
W. S. Maughamほど旅行体験の多かった作家も珍らし い。フランス,イタリー,スペインなどのヨーロッパ諸国 は言うまでもなく,アフリカ,北米,中南米,さらには東 洋一中国,インド,日本一から,果ては南海諸島にま で足をのばしている。C. S. Mclverが
On a quantitative basis, at least half of Maugham s work has been written as a direct result of his travels, and without this part of his work his importance as a writer would certainly be diminished. (1)
と言っているのはやts大袈裟であるとしても,少なくとも 旅によって彼が小説の素材を多量にしかも見事に仕込ん で,それを小説の創造の申に生かしたことには間違いな い。それというのもモーム自身My interest has been:nen and.th6 lives they led(S 200)と言っているように,彼は 人間性のあくなき探究者としてできる限り人間とそのさま ざまな環境の中で(略種各様の生きざまを貧焚ともいえる ほどに探し求めたことは処女作Li2a of Lambetk以来変ら ぬ特色であることは言うまでもない。だから,この「各種 各様」を求める小説家としての取材は単に生れ故郷たるイ ギリスにとどまることなくグローバルな視点をもって世界 各国に及んだのは当然である。そのような彼にとって特に 東洋,ことさらに南海(The South Seas)は欧米の伝統と完 全にちがって全く別の「秘密」を持つ土地としてモームを 驚かせたのである。それ故にこそモームのromanticな作
家魂に大きく訴えかけたのである。モームの南海に対する 関心はどのようなものであろうか。こういうモームの東洋 への志向はいろいろの段階をへて最高潮に達する。
まず第一にモームは青年時代から東洋への憧れを持って いたこと。第二は第一次大戦中の諜報部員としての活動 や,Syrieとの結婚一院などにより生じた煩わしさから心
の平静さを,つまりなんらかの心の転換を求めたこと。
第三に病気の静養のために,アメリカに渡り,さらに南 海に足をのばしたこと。さらに第四には1928年のL.A.
Marchand宛の手紙によるように, Of Human Bondageを 完成した後,もはやイギリスにその材料を求めることがな くなり いわば小説家として「行き詰った」状態の中 で,その「行き詰り」を打開しようとしていたこと。最後 に以上述べた点をもふまえて,いよいよ1916年目Paul Gauguinを題材にした小説を書く取材のために南海の土地 を踏むことになったのである。
第一の少年時代からの憧れについてはThe Trembling Of AL6げのPrefaceや, The Summing UPの53章で詳しく 彼自身が語ってくれる。
Ihad always a romantic notion of the South Seas, I had
read of those magic islands in the books of Herrnan Melville, Pierre Loti and Robert Louis Stevenson, but
what 1 saw was very different from what 1 had read.(Txiii)とカ),
It was not only the beauty of the island that took皿e,
Herrnan Melville and Pierre Loti had prepared me for
that....(S 193)と述べているが, H. Melvilleや, R. L.Stevensonや, Pierre Lotiの描いた東洋は beauty ,
tt
窒盾高≠獅狽奄メ@notion という彼自身の言葉が示すように,い わばモームの心の中にあるexoticismを掻き立てたのであ る。南海を訪れたモームは感動して,Ifound beauty and
romance, but I found also spmething I had never expected.1 found a new self..(S 193)(下線筆者)とまで言いきって
いる。 「南海」というヨーロッパ世界から遠く隔たる「新 しい世界(a new world)の中で文明の仮面(a mask that なま hides their(men s)faces)(S 194)をかなぐり捨てた生の
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人間の姿一層目わけその中に住む白人の「ふるまい」を 観察した時の驚きはモームの「作家の心」を激しく揺さぶ
り,モーム自身の過去の「狭さ(narrowness)」(2)からの 脱皮を促すに十分なものであった。このような南海旅行の 体験からモームのThe Moon and SixPenceカS生れ, The Fall of Edward Barnard の話を仕上げ,またいくつか のいわゆる南海ものの短編をモームは陸続と発表すること になるのである。
皿
さて,モームのromanticな魂を魅きつけて止まなかっ たこの「南海の自然」の正体はどのようなものであろう か。そこでまず第一にttThe Poo1 という短編をとりあげ てみよう。.この小説はSamoa島のApiaという町で「私」
がChaplinという男からスコットランド出身のLawsonと いう男を紹介されることから始まる。Chaplinの話による とLawsonはアルコール中毒に罹っている。それというの も美しい混血娘Ethelとの結婚の破綻のせいなのである。
そもそも数年前,Lawsonは自分の健康上,転地療養のつ もりで,イギリスの銀行の出張所長としてSamoaにやっ て来たのである。やがてその土地にもなれ出歩きはじめた 彼はタ方になると近くの「淵(pool)」へ水浴に行くよう になる。ある晩,いつもは人気のないはずのその「淵.iに 美しい混血の少女が水浴しているのを発見する。彼にとっ て彼女は入間というより「美しい少女の姿をした水の精
(naiad)」に見える。彼女の美しさはLawsonを夢中にさ せ,やがて二人は結婚。しかしLawsonは混血の女と結婚 したヨーロッパ人である自分の今後の立場と二人の間に生 れた混血の子供の将来の生活のことなども考え合せて,妻 子を伴い故郷スコットランドに帰る。(混血児(half−caste)
の問題はモームの「南海もの」を通じて悲劇的,劇的な素 材を提出していることはKlaus Jonasの詳しく述べている ところである)しばらくの間は異郷の地で幸福であった Ethelもやがてまた,故郷の南海への望郷の念がしきりに 湧き,彼女はいつしか,ひそかに故郷の「淵」で水浴して いたように北国スコットランドの小川の「淵」で水浴を始 める。そのことを知って不安な気持でいたLawsonであっ たが果たせる哉,ある日勤めから帰宅してみると,突如と してEthelは子供を連れてSamoaへの帰国の途についてい たのである。彼女の後を追ってSa皿oaに再びやって来た しawsonに対して,なぜかEthelは冷たく,ひどい仕打ち をするようになる。次第にEthe1はLawsonから離れて ゆき,別の男と情事を重ねる。あげくの果て,絶望した LaWSQnはかつて耳thelの美しさに酔いしれたゆかりの
「淵」に重い石を縛りつけ沈んでゆく。
この物語においてApiaにイギリスの銀行の支店長に
なって赴任した当初,Lawsonはこれまでにない「自由
(freedom)」と「余暇(1eisure)」を得て心に余裕を持って
「南海の美」に浸ることができた。 「日光」に酔いしれ,
「灌木1の中を通り過ぎる時,彼を取り巻く「美」に頭が ふらつく思いをする。土地は名状しがたい程に「肥沃」で あり,森林は今なお「処女」林のようで,「珍らしい」樹木 が纏れ,繁茂した「下生え」や「蔓」などはいやが上にも
「神秘的(mysterious)」である。こういう南海の beauty や freedom を述べたあと,モームカゴ?troubling と一言 断bていることに注意しよう。つまり「人の心を混乱させ る(troubling)な印象とモームは書く。この南海の大自然 の「美」は強烈にヨーロッパ人を魅惑すると同時に彼にあ る得体の知れない不安感を与えることにモームはふと気付 くのである。このようにCt 111e pool ではヨーmッパの
「土地」に生きた男の「南海」に触れた喜びと同時にこの 中に住みきれない一所詮は異質である二つの「風土」の 異和を対峙させて描いている。
あるいは,タヒチ島の「礁湖(lagoon)」の夕方の光景は A Writer S Notebookの中で次のように描かれている。
At sunset the sea turns to a bright purple; the sky is cloudless and the sun, burning red, sinks into the sea,
rapidly, but not so rapidly as writers lead one to believe,
and Venus shines. When evening cornes, clear and si−
lent, an ardent, frenzied life seems to break out. Count−
less shelled animals begin to crawl about at the edge of the water, and in the water every living thing seerns to be in action. Fish leap, there are mysterious splashings,
and a swift sudden turmoil as a shark frightens everyth−
ing within sight of its cruel stealthiness. Smail fry leap by hundreds into the air and sometimes a large coloured fish gleams above the surface with a momentary glitter.
But the most impressive thing is that feellng of urgent,
remorseless life. ln the quiet of the lovely evening there is something mysterious a℃out it and vaguely alarming.(W 115)(下線筆者、
上述の水中の生きものの描写はまさに「南海」の自然の 生々として活気あふれるさまの描写である。しかし同時に そのあまりにも奔放な生の故に,却ってある「妖しさ」,
「神秘な不安」をももたらす。この短文の中にはモームの そういった南海の自然に対する直感的な把握がよみとれる のである。Lawsonの破滅はつまりこの危険さに魅入られ た結果であった。
また別の作品,t The Ctat.station をみよう。.場所は三 年間に一度もほかの白入に会わず,周囲二百マイルに白人 二人しかいないBorneoの奥地。 The Resident Warburton の部下として着任したAllen Cooperという男は有能であ
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南海の二面性 植月
る上に労を惜しまず仕事をする。しかし彼の原住民に対す る扱い方はまことにぶつきら棒で,いわゆる原住民の心の 擬めない入物として描かれている。おまけに礼儀作法は知 らない。とりわけ英国紳士の体面を重んじるWarburtgn とはことことに意見が合わず,この二人の関係は次第次第 に険悪の一途を辿る。(同じ南海ものの短編 Mackintosh に於ける行政官Walkerと部下のMa6kintdshの間の憎し みの亀裂の大きさを想い出させる。)たとえばWarburton はCooperを「パブリックスクール卒業生でない育ちの悪 い男(cad)」と罵れば,一方Cooperは逆}( Warburtonは 鼻持ちならぬ「俗物野郎(snob)」と言い返す有様である。
アンタゴニズム
度重なる反目から彼らの対立は決定的になる。まさに軌 ボ を一にするかのようにCooperの虐待に耐えかねていた少 イ 年召使Abasによって睡眠中に短剣でCooperは刺殺され る。( Mackintosh でも原住民の指導者Manuma(自分の 拳銃の盗み出しをMackintoshは黙認したのだ)によって Walkerは銃殺される。、このCQoperに対するWarburton の焦立つ心も,静かな夜の美しさの中に消滅してゆく。
アほバ
「あずまや」の入口に生える樹木の「甘い香り」。熔隔た る月光。彼方の岸に,夜空を背景に美しいシルエットを描 く株欄の木。という風に自然の美しさが述べられている。
この美しさと静寂の申でPeace stole into the soul of Mr. Warburton(C4.343)とモームが述べるほどである。
C{Mackintosh でもWalkerは日没の美しさの中でHe felt at peace with the world and with himself.とモームは述 べている。)しかしこのような南海のもつ妖しい魅力と共に Abasの行為が示すようにC Mackintosh ではManumaの 行為が示す、それが作り出す危険性をもモームがこの小説 で暗示して,彼の「二面的な(ambiguous)」南海観を見て とらざるをえない。つまり「南海の美」や「南海の自然」
は人の心に「安らぎ」を与えてくれる。が同時に人を傷 け,人の命すら危殆に瀕する「自由さ」,「奔放さ」,「規 律のなさ」をも与えるのである。比喩的に言えば規律と伝 統ある欧米を「昼」.とすれば,南海は「情熱と奔放と愛の
「夜」め世界である。 The Fall of Edward Barnard で
も,
It was very warm an(1.the alr was scented wih the
white flowers of the night. The full moon, sai1ing across an unclouded sky, made a pathway on the broad sea that led to the boundless realms of Forever.(G1..66)とか,或はtcHonoluliX .でも, The inoon, nearly fu11, made a silver pathway over the dark sea,(C1.93)
と述べているようにモームにとって「月」と「芳香」と r海」と「澄んだ空」の「南海」は,そしてそこにおける
「夜」こそまさに, The Garden of Eden なのである。
「南海」は彼にとって一つの(dream)であると言えよ
う。モームの足跡を克明に追って,彼の伝記を書いている Wilmon Menardとの会話の申で, Tlh e Pandemonium of
modern rnachipe ! Noise can kill s!owly, yeu know. How I appreciated the peace and quiet of the South Pacificislands!(3)とモームが語っているが,この言葉は哩he Fall of Edward Barnard 1こ於ける主人公の気持を適切に 代弁していると言ってよい。しかしこのような見方はあく までもモームの思う「南海」の一面にすぎないことに注意 しなければいけない。さきに一寸触れたように「南海」に はもう一つの面,総じてCtnatUre がそうであるように,
そしてt mOOn 「がSymbOlical lこ示すように入を「狂気」
にさせる奔放さや執拗さをも内包している。それを端的に 示すものに作品 Rain がある。あの作品の中の雨はきわ めて象徴的で,始めから終りまで低音として雨が降りっつ いている。その雨はいわば「南海の自然」のもう一つの面
である。It (rain) is not like our soft English rain that drops
gently on the earth; it was unmerciful and somehow
terrible; you felt in it the malignancy of the primitivepowers of nature.(C1.27)(下線筆者)
と述べられているように雨は自然の「悪意」の象徴として とらえられている。この雨は執拗に降りつづけ,その降り 方たるやまるでバケツから水を流すようである。そしてひ とたび雨が降り止み,ぎらぎらと南海の太陽が照りつけれ ば,まるで「煮えたつような(seething)」, 「湿った(hu・
mid」,「蒸し暑い(sultry)」,「息切れするような(breath・
1ess)」「温田と化す。つまり「南海」の自然こそbeauty,
romanceとその半面にmalignancyを,或は彼のA Writer s Notebooleの中においてIn the quiet of the Iovely eve。
ning there is something mysterious about it and,vaguely
alarmin9(W 115) (下線筆者)と書いているように「静
けさ」の反面に「神秘」. ニ「不安」とをあわせ持つ「二面 的(ambiguous)」な存在であるとモームがみていたのでは なかろうか。そしてそれこそモームが「南海もの」でいい たかったことなのではないであろうか。
皿
モームはLeslie A. Marchand}こ宛てた手紙(1928,12 月6日)の中で,
....When I went down to the South Seas I came across a great many types that were entirely new to me, and sit−
uations which appealed to my irriaginatiQn: I was very struck by.the effect of the climate and surroundings on
the white people who for one reason or another−had
drifted there. (4)
と述べている。かくて「文明の栓楷」を脱出して,「南海」
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に遭遇する時,白人はプリズムにあたる光線のように様々 な反応の仕方をする。そこでこの章では前の「南海」の二 つの「相(aspects)」をふまえた上で,それに接触したさま
ざまの人間像とその「南海」反応を探ってみたい。A1),
「西洋文明」,つまり従来の自己の持つ文明のあり方,乃 至その文明の要求する生き方を「南海」の風土の中であく まで固執する型。或はA2),「南海」に仮りに定着する が,ついには順応できず,再び「西洋文明」の世界に活躍 の場を求めて「南海」を脱出する型。B) 「西洋文明」の 世界にも「南海」にも定着できずついに自己を喪失する 型。C)「南海」に順応し,その生活にすっぽりと埋没
し,そして却って開きなおって,その世界に安住するか,
又はその視点から逆に「文明世界」を批判するという型,
南海埋没型に大まかに三つに分類してみたい。
さて,第一の型A)に相当する「西洋固執型」の人物と してまず The Outstation のThe Resident Warburton がある。彼はBorneoの奥地に二十年間も行政官として駐 在しているものN,彼はイギリスの文明の中での生き方を そgまS「南海」.へ来ても捨て去ることを拒否する。それ は彼の日常生活の項直なことに至るまで細大漏らさず彼の 細心な注意に示される。持物はすべて几帳面に整理され,
服装ときたら,
【「」^ ^_1__ t〔 _r.A^ ゆ^ 4.L^ ^てこmn串^ ▼野n^ 鼻^
ine oni−y concesslon i Le ;txiaae lo zi .e cil.rriare was :G wear a white dinner jacket; but otherwise, in a boiled shirt and a high collar, silk socks and patent−le4ther shoes, he dressed as formally as though he were dining at
his club in Pall Ma11.(C4.339)と述べられているよう に,大戦中三年間にr度も白人に会わなかった僻地にいて すら,.彼はロンドンの一流クラブに出入りすると同じ「服 装」を身につけたまb・・でいる。新任の部下のCooperが着
任早々, you needn t have bothered to dress on my ac・COUnt, you㎞ow. (C4. 340)と彼の正装を初対面の人に対 する敬意と誤解して恐縮しているのに対して,Warburton
は, ldidn t. I always dress for dinner. (C4. 340)と言
う。Warburtonにとっては「服装」こそ「西洋文明」への固 執であり,まさに南海の優位に立とうとする支配者意識を 失わない断乎たる意志の表明なのである。さらに「新聞」。
Like his habit of dressing for dinner it ( [he Observer)
was tied to civilization.(C4.352)なのである。そしてThe Observer紙を読むことによって彼はillusion of living at home(C4.352),つま.り「南海」の中に埋没せずその土地 でartificiallyに「小イギリス」の「城」を築き上げてた のしみながら「南海1を拒否するのである。この点で一一方 のCooperとは対照的である。新任の挨拶をするために Warburtonと会う時の「服装」もカーキ色のズボン,カー キ色のシヤッ,.ぽろぽろのジャケットといういかにも無頓
着な軽装である。tWell, if you expect me to put on a boiled
shirt and a stiff .collar .in this heat 1 m afraid You 11 be disapPointed. (C4. 340)と初対面の時から全くWarburton
に反抗的態度である。優越者として「南海」に入りこまぬ 傲岸さを持つA型のWarburtonが原住民の操従術を知っ ているがために生き残り,逆に「南海」の風土の中に入り こみ「西洋」と「南海」の隔絶を取り払おうとするB型の COoperが原住民に対する扱い方を誤り,彼らに対して「手 ひどい(taetless)」仕打ちをするために殺害さ.れるのは皮 肉である。.「南海」にいてそれに距離をもつ人間の「勝 利」とそれを下手に操ろうとする人間の「敗北」が描かれ ているのが(tThe Qutstation であろう。それは又別の作 品でも例証できる。 「南海」を操作しようとする点では
tc
qain に於ける宣教師DavidsonにしてもCooPerと同じ ことがいえる。Davidsonは原住民を教化するためにはま ず「服装」から変えてゆかねばならないとする思い上った 一いいかえれば「南翔を西洋と同次元に処理しようと する心構えがみられる。そのためにはlava・lavaという腰 巻きふうの赤い布切れを廃止すべきであると強く言い張
る。そうしてthe inhabitants of these islands will never
be thoroughly Christianized till every boy of more thanten years is rnade to wear a pair of trousers. (Cl. 13)
と自惚れた精神で強硬に℃1v呈h2e , Christianize を押 しつけ,南海の風習をねじふせようとする。しかしこの Davidsonは結局, 「南海」の「雨」の中で「性」という
「自然」に敗北するというやはりCooperと同じ皮肉な運 命を辿る。ここにもモームの「南海」に対する鋭敏な「眼」
を感じることができよう。したがって我々は南海はモーム のThe Summing UPでいうような単純にrom 3nticな風土 と文字通りうけとるわけにはいかないのである。
次にA2)型としで Red の中の人物を取りあげよう。
島を行き来して貿易を行う小型商船の船長がその島に上陸 して長い年月の間住みついているNeilsonというスエーデ ン人に会う。Neilsonが美しい原住民の娘Sallyと白人の 美青年Redとの烈しい恋を回想的に語り,最後に今は「肥 満した(obese)」,「醜い(ugly)」老人となって昔の面影 を失ったかつての青年と,やはり今は「太って(fat)」年 老いたかつての美少女(Redの妻で, Redが去った後,
Neilsonが妻にした女)が再会するが二人とも互に気付く.
ことなく別れて行く物語である。
さて,この美しい「南海」に肺結核の療養のためにやっ て来たNeilsonの心は「南海」の美に魅了され,幻想に耽 けらせられる。その美しさをモームは次のように描写して
いる。llie sea was deep blue, wine−coloured at sundown, like
the sea of Hopaeric Greece;but in the lagoon the colour一一 160 一一
南海の二面性 植月
had an infinite variety, aquamarine and amethyst and emerald; arid the setting sun turned it for a short mornent
to liquid №盾撃пD Then there was the colour of the coral,brown, white, pink, red, purple; and the shapes it took were marvellous. lt was like a mag ic garden, and the hurrying fish were like butterflies. lt strangely lacked
reality.(C4.414)(下線筆者)
この幻想的とも言える「南海」はNeilsonに, the mgst beautiful spot I had ever seen だと思わせ,さらに余命 一年と医者に宣告されたNeilsonは. I will spend it and then 1 am content to die. と叫ぶ程にこの美しい島を自分
の生涯を終えるにふさわしい場所と考える。Neilsonは病 弱にして醜い自分の姿にひきかえ,RedとSallyの恋は健 康で美しいが故に,彼らの恋を感傷的な程にもロマンチッ クに美化している。ところでNeilsonの語る二人の恋とは どんなものだろうか。
Neilsonはそれを That(Their love)is the real love, not
the love that comes from sympathy, common interests,
of intellectual comrnunity, but love pure and simple. . .
(C4.413)と述べているが,「文明に毒され,知性と道徳 と機械によって抑圧され,曲げられてしまった現代の10ve 以前の,原始自然の愛を夢み,文明に疲れ切った現代イン テリの原始生命への憧憬を追っているのだ。」(5)上述の 言葉のようにこの愛はもっと動物的で生殖的な愛であり,
それが可能な土地が「南海」なのである。Neilsonはさら につづけて,そのことを次のように述べている。 That is
the love that draws the beasts to one another, and the Gods.... That is the love which gives life its pregnantmeaning. (C4.413)これこそ「南海」での一南海でな ければ生れ得ぬ「愛」の一つの型である。このような愛の あり方について,Wilmon Menardとの会話の中でモーム はフランスの航海者であり,探険家であったAntoine de BoUgainville〈1729−1811)の言葉を引用して, Red に 於ける自分の考え方の裏付けを次のようにしでいる。
t Born under a most beautiful sky, nourished on the
fruits of an earth which is fertile w ithout tillage, ruled
by patriarchs rather than kings, they know no other godbut love... lhe whole island is a temple of love... the act of procreation is an act of religioti. 1 . following the
tender impulses of a consistently pure instinct, because they have nQt degenerated into reason. (6)(下線筆者)「南海」では男女の性交渉は「愛」の結果ではなく肉体の 接触が「愛」を生む。「理性」が堕落であり,「生殖」が 宗教なのである。しかし,やts陳腐だがEast and East,
West即d West.一.一度このような異質の世界に溶けこん だかに見えたRedも,ついに永住することはできなかっ
たA2)型とも言えよう。 RedはSallyの手作りの
Pandanus cigarettes iこはあきたらず,本物の西洋のタバ コを求めて港にやって来た捕鯨船に乗り込み,再び元の姿 ではSallyの前に現われず,本国へ帰国する.のである。さ て,一方ではNe韮lsonはRedの捨てたSallyの中にギリ シャ神話の美女「サイキ(Psyche)」像にも似た理想美を 認めそれを追い求める。しかし,ついにNeilsonのロマン チックな夢の破れる時が来る。今自分の眼前にいるでぶで 憎悪をそxるような船長がかつてのSallyの憧れた美青年 であり,その美青年と恋をし,憧れた美少女が今の自分の 平凡なる老いた女であることがわかったとき,Neilsonの 夢は破れる。そうして
The open air, the equable temperature, the rest, the
simple fare, began to have unexpected effect,pn his health。(C4.418)と述べられているように体力を回復した Neilsonは南海の二十五年という長い歳月をただ Was‡e,
what waste! (C4.422)と後悔しながら,故郷であるス エーデンへと力を奮い起して帰ってゆく。これも又,A 2)の型の人間と言えよう。南海に生涯を埋め得ない二人 の白人が Red ではSallyを中心にして描き出されてい
る。
次にB型の自己喪失型としては前章11でそのあらすじを 簡略に述べた The Poo1 のLawsonの例をさぐってみよ
う。
It ( llie life in the island) was a more natural life than
any he had known, it was nearer to the friendly, fertile earth; civilization repelled him at that moment, and bymere contact with these creatures of a more primitive nature he felt a greater freedom. 〈Cl. 119)
とLawsonの心情が描かれているように, Lawsonの心に
「西洋世界」の秩序や理知の蛭桔から解放され大きな自由 を感じる。それとともに「西洋文明」に強い嫌悪を抱くよ うになる。そして一度は「西洋世界」を捨てるが,再び西 洋に帰り,さらに又Ethe1を追って「南海」に舞い戻り,
自滅するという経路を辿る。かくてLawsonは「西洋世 界」にも「南海」にも自己の安住の地を見失った一つの型 と言えよう。前章で述べたt Rain の宣教師DavidSQnも 自己破滅型に入ると言ってよい。彼はホノルルの赤線区域 を追放された娼婦Saddie Thompsonを改心させようと寝 食を忘れて全力をつくす。彼の祈りが天に通じたのか彼女
はついにかたくなtS反抗を止め, 1 ▽e been a bad WQman。
Iwant to repent. (Cl.38)と悔い改め,罪の償いを決心 する。そうして彼女の改俊するにつれて,自分も気付かぬ うちに彼は彼女の肉体の美しさに魅かれてゆく。そのこと は,彼が妻に語る he had been drearnin9 abOut the moun−
tain of Nebraska. (C1,40)という言葉にほのめかされて
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いる。.「円い(rouhded)」,「なめらかな(smooth)」ネブラ スカの山は作者の分身に近いDr. Macphailにtta・woman s breasts を想い出させることによって暗示されている。宣 教師は改心したEhompsonの美しさに負け,ついに彼女を 犯してしまうのである。崇高な宣教師もやはり「南海」と いう地点では思いがけない方法で人間の恥部をさらけ出さ なければならぬのであるが, yon men!you filthy, dirty pigs!(C1.45)という罵言となってThompsonの口をつい て出てくる言葉がそのことを暗示している。そして宣教師 は喉をかき切って死んでゆく。残酷なほどに執拗な「雨」
の中で,「南海」というcta new wor14 (S, 193)1こ手を 出した傲岸な宣教師はかくして自らの破滅となって終るの
であ.る。
さて,最後にC型とは何であろうか。この型にこそモー ム自身の生き方,幸福感がかなり色濃く語られていると 言ってよい。T・ E. Morganがその『モー.ム伝』の中で,
.撃??@theme of man escaping .the bourgeois society was a!so to be found in such works as.The Moon and SixPence
組d哩he Fall of Edward Bamard. (7)と述べているよう
にこの型は「西洋世界」から脱出すると共に,「南海」に 定着した後, 「南海」から逆に「西洋世界」を批判する立 場である。まずt lhe Fall of Edward Barnard を辿って みることにする。
題名の示すように,「西洋世界」の観点から見れば
:Edward Barnar4のとった行為は明らかに一つの堕落では
.ある。Wilmon Menardとの会話の中で,実際に「南海」
を見聞した印象をモームは次のように語?ている。
Here (in the islands of the South Pacific and the Far
East) white men were living under less civilized re−
straints, at !east the habits and routine of a EurQpean
city were considerably relaxed. True, many white
men did maintain a certain dignity and self−respect,by dressing formally for dinner every evening, but this wasonly a pretense. Deep down皿ost of them had begun to
disintegrate, this brought on by the intolerable climate,the endless days of boredom, too many stengahs, and too
many i 1e. hours of soul−searchi.ng.(8)(下線筆者)
.こ.
フように人をして空想と怠惰に耽らせるような環境の中 で The Fall of Edward Barnard の主人公のロマンチシ ズムが刺激され,いわゆ.る主人公の「堕落」が始まるので
ある。さて,物語はMward Barnardの親友であるBateman Hunterがアメリカへの帰国から始まる。タヒチ島から二 週間.の航海の後,サンフランシスコに上陸,さらに三日 間の汽吏の旅を終え,今やChicago.に着いたBateman タイタン
H岨ter.彼は財界の大物の娘, Isabelへの恋心を抑え,.親
友EdwardとIsabe1との仲を取り持とうとする.「犠牲
(self−sacrifice)」的精神の持主である。父の事業の失敗の ためEdwardはひと稼ぎして恋入Isabelとの結婚を成功 させるために,アメリカ系商社のマネジャーとしてタヒチ 島に行く。しかし,やがて帰国の意図もあやしくなる。
Edwardの帳入BatemanはそのようなEdwardを連れ戻 すべき使命をlsabel(やはりBateman も愛している女性)
から受けタヒチ島に出かける.。その犠牲(self−sacrifice)的 とも言える重大な使命も不首尾に終る。Edwardがアメリ カと全くちがう「南海」の世界に浸りこみ,そ.こで新しい 恋人すらも出来ているからである。このように舞台はアメ
リカの「物質文明」を象徴するChicagq,それに対して「南 海」を象徴するタヒチ島が設定される。モームはChicago
を,
He (Bateman Hunter) was at home. And he was glad
that he had been born in the most important city一 in theUnited States. San Francisco was provincial, New york was effete; Tl Le future of America lay in・ the developrnent
of its economic possibilities, and Chicago, by its position and the energy of its citizens, was destJ ned to become a real capital of the country.(C1.47)(下線筆者)と描いている。ところでこのアメリカ資本主義の象徴であ るChicagoに住むEdwardの婚約者Isabel Longstaffe とはどんな女性であろうか。
IsabelはChicagoが生んだ典型的なアメリ.力女性とし て描かれている。.ルイ十五世風の家具調度品を備え,ヴエ タイタン ニスの宮殿をモデルにした豪邸に住む実業界の「大君」の 娘である。二年間ヨーロッパの大学で教育の仕上げをし,
.ミュージカルを楽しみ,詩人の講義を聴き,巨匠の絵画を 観賞するといったいわゆる西欧の教養(culture)を身につ
けた令嬢である。しかし彼女の眼は「冷やかで」,灰色,
「目先きがきいて」,「狡猪な」のに対して,「南海」で のEdwardの新しい恋人Evaの「黒々した」,「素晴ら しい」眼との対照的なこと。さらにIsabe1の厳格な礼儀作 コ ルドサイレンス
法に違反した行為に対する冷やかな沈黙の態度。それに対 してEvaの甘美で,親切で,やさしい態度といった具合 にモームの視線はEvaに好意的に注がれている。一方の
Isabelは「高潔さ(uprightness)」,「正直さ(truthfulness)」,
「厳格なる名誉意識(rigid sense of honour)」,「不屈の精 神(fortitude)」,「活力(energy)」,「野心(ambition)」.
と言った「西洋世界」において必要欠くことのできない規 律や美徳をすべて備えている女性である。
In civilized communities men,s idiosy耳crasie,s are mit−
igated by the necessity of conforming to certain rules of
behaviour.(S 194)Edward自身, She was born to make
asu¢cess. of .life. (C1.70)とIsabe1をアメリカ社会で見一162一
.南海「の二面.性 植 月
.事に生きるためのすべてをかなえている典型的な女性.と考 える.。このよう.なIsabel}C対してEdwardは 1 m entirely
UnworthY of her. .と自分を卑下.してい.る.かのような告白をしてい.る。もち.うん,とれは「文明世界」の行動,..判 断・..価値の基準からの発言であζ。.「文明世界」ゆら見れ
ばEdward.の告白.は「堕落」で.あるが,..それ1こ価値も.意味.も見出し得なくなった側からすれば「堕落」ではなく「解
放」であ.りr自己解脱」..なのセ.ある。..さて,.とのIEdwardめ「堕落」,.裏を返せば, 「文明世 界」からの「解脱」の触媒の役割を担う入物がAndrew
.J麗≧sQnとい.う男である6彼はIsabelの伯父で, Chicago
ブルーブラツド
の名.門の銀行家であり,高潔な人格者として尊敬された
フイランスロピスト
慈善家。どうしたζとか彼は詐欺の理由で,...告訴され」
ペデン師,偽善者などの汚名をきる.。やがて家族や親戚の
「厄介物(blacksheep)」となって「文明社会(ciマilized society)」から「南海」に追放。 EdwasidによればAndrew Jacksonは次のよ.うな人物であ.る。 He is cQmpletely
unmoral. He accepts ever凾狽?奄獅〟@and he accepts himself
as we11..He s generous and kind./(Cl・. 67)こ.のようなAndrew Jacksonの道徳に無関係に超然とした生き方をし よう.とする姿に影響.されて,.Edwardは当初もっていた島 の産業化という理想を棄て,別の「生き方」を教えられる のである。Bate血anと.の対話め中で, Ed wardは,
1 came to like the iife.here, with ease.alld its leisure,
and the people. with.their good−natUred.and.their happy
smiling faces.(G1.69)(下線筆者)
と「南海」の生活に対する心情を率直に吐露し,その環境 に調節してゆこうと積極的な態度をとる。それに反して,
Ithink of.Chicago now and I see a dark, grey city, all
sto「ie 一・一一it is Iike a prisoR(C1.69)..(下線筆者)と述べ
ているように「閉ざされた世界」がChicagoである。こ ごに二つの風土の差が鋭く対立的に描かれている。ζのよ うにかつては「重要な」ものであったものが.Edwardの
.心の中で,「つまらぬ」ものへと「価値の転換」が行われ ている。「文明世界」.の存在たる.B耳te照n.から見れば Edwardは「怠惰」で.「無能な」人間。「貧しさ」に満足
し,ただ.「生命をつないで」ゆけさえずればよい意気地な プツズン
しである。しかし..Edwardは今は「文明」の.「牢獄」.か ら解放されて新しい「軽快さ.」.(jatintiness)」,「無頓着さ
(carelessneSs)」,..「陽気さ(gaiety)」を得る。そうして Klaus Jonasが,
Arnerican civilization has not .been able to.give.Edward a.meaning i皿life.工t was only on Tahiti that he found real happines.s and learned what was most importa豆t for him.(9)(下線筆者)..
と述べているようにEdward.は「南海」.に於いて初めて彼
の「幸福」を撰むことになる。
そ.れでは.「南海」.に於けるEdwardの生き方を辿ってみ
よ.う。.Bat6manの What dd you va!ue.i111ife then?,(C1.69)という質問に対して, 1 am afraid you ll.laugh at me・
Beauty, truth, and goodness.(C1.69)と.Edwardは答え
.る。 「美」,「真」,「善」.を「文明世界」..で.は得ることが不
可能かと.いうBatemanの周いに対して, Edwardは. Some
men. モ≠氏C perhaPs, bint not I..(C1.69)(下線筆者)と控えめに答える.。Edward.自身は「文明世界」では「美・真.;
善」を追求することは不可能なことを認め, 「文明世界」
.の陥穽からの脱出に安堵するのである。.そ.れでは, 「美・
.真・善」の追求を阻む「危険」とは何であろうか。Edward が
1 never knew 1 had a soul till 1 found it here. lf 1 had
remained a rieh man・1 might have lost it for g ood andall. (Cl. 70)
と答えてい.るよう.に,.機械文明,物質文明に於ける「魂
(soul)の喪失」である。具体的な生き方として.この作品の 中でモ.一ムは次のように描く。
Ishall build皿yself a hQuse on.my.coral islatid an(I I shall live thetie, Iooking after my trees 一 getting the fru it out of the nuts.in 狽??@same old way that they have done for unhumbeted years 一 ・ 1 shall grow all sorts
of things in my garden, and 1 shall fish. llbere will be
enough work to keep me busy and not enough to make me dull. I shall have my books and Eva, children, 1 hope,and above all, .the・infinite variey of the sea and the sky,
the freshness of the dawn and the beauty of the sunsbt,
and the rich magnificence of the night. 1 .shall make a garden out of .what so short a while ago was a wilder
neSs . (Cl. 72)
この「幸福な」,「質素な」,「平和な」.生活こそモーム のL面,つま.りモームの詩魂が「南海」に触発されて描か れた牧歌的なtaマチシ.ズムの表明であると言えよう。ある
.批評家はこのEdward.のt Fall を The admiration for
・the courage of thd drbp−out in the I he Fall of Edward
.Barnard (10)とまこと.に興味ある表現で語っている.。
しかしこの物語の結末でIsabe1はBatemanからEdwa rd ζ鰯話を聞き終った後 ・P…恥・・d・.h・ ・ P・b・dy ・ enemy but his own. (C.173).とあくまでEdwardの個人 的問題として非難し,Edwardに欠けているものは「気骨
(backbOne)」だと冷やかに決めうける。こめような断乎 たるIsabel.の態度は, The・Moon and.S・ixPenceに於けるフ
ランス人医師の妻,Mme Coutrasを想起させる。彼女は
.「南海」の「入を無気力にさせ.る魔力(the enervating
.charlh)」(M 208)に露ほども屈しない女で, Edw3rdと
一一 P63一
津山高専紀要第22号(1984)
対照的人物である。結局,Edwardは「南海」に残り,
IsabelとBatemanの二二が結婚することになる。ぷっつ り切れた二つの世界の断層をみる思いである。Batemanは Isabeiを両腕に抱いて,
he had a vision of the works of the Hunter Motor Traction and Automobile Company grow ing ip size and
importance till they covered a hundred acres. (Cl. 74)と述べられているように,止まることのないアメリカの物 質文明の発展を夢みる。一方,Isabe1も「古風な家具」の しつらえられた「見事な邸宅」,「自宅で開く演奏会」,「午 後の茶会兼舞踏会(th6s dansants)」や「晩餐会」のことを 夢みている。このように二つの世界での生き方がそれぞ れの人物を通して提示され,モームは「あいまいにも」
何れかを価値あるものとして出さず,1]he FallとEdward Barnardの生き方を「片付け」ながら,そのThe Fallに 二重の解釈を与えるように読者に用意している。これはモ ームの「南海もの」における大事な小説のあり方で,彼は.
このどちらにも高い価値を与えることをしていない。むし ろ読者をして考えせしめるという風につきばなしている。
むろん「南海」のロマンスに美しいものを見 シカゴを皮 肉っていることはいうまでもない。しかしただそういう一 方的南海讃美がモームのすべてであろうか。この点をより 明らかにするために南海を舞台にした問題作を追ってみた
い。
さて,前章で述べた「南海もの」の解釈はThe Moon and SixPenceにもあてはまる。主役Charles Stricklandは Edward Barnardと精神的には同系列に属する人物であ る。天才画家Paul Gauguinをモデルにしたと言われるが,
相当にモーム自身が脚色した創作の人物である。出版の順 序から言えば,StricklandはEdwardの「原型的人物」と 言えよう。さて,簡単にあらすじを辿っておかねばならな い。この小説は「私」がCharles Stricklandという天才画 家と直接交渉する部分と彼の数奇な人生を追ってゆく回 想的形式の部分とから成っている。小説の始まった頃の Stricklandは年齢40歳の中年男。文学とか芸術には凡そ興 味のない「株屋(stockbroker)」として描かれている。彼 は素朴で,気取らず,.文学趣味豊かな妻,男女の子供二 人,それに女の召使二人を雇っているロンドンの中流家庭 の主人である。夏休みを終えて避暑地から家族がロンドン に帰省してみるとStricklandの突如とした蒸発に気付く。
Man is incalculable.(M26)(まことに人の心はわから ぬ)。そのうちパリに隠棲していることが判明する。喫茶 店の女と駈落したという噂もある。「私」はStrickland夫 人に依頼されて,彼を連れ戻す交渉のためにパリに行く。
しかし彼はただ 1 want to paint! (M47)とか, 1 ve got
to paint. (M 48)と再三繰り返すのみ。どうやら彼の逃亡 は色恋沙汰ではないことがわかる。それは彼の意志に反し て,抑えることのできない「内的衝動」のせいであった。
それから五年後,「私」はパリで暮すことになる。すぐに 友入であるオランダ生れのDirk Stroeveなる画家に会う。
彼は底抜けに人のよい,「道化師(buffoon)」(M107)と言 われる程に自己犠牲的,献身的な絵かきである。音楽や文 学の造詣も深く,他の画家の絵画に対する鑑識力は抜群だ が,自分の描くものは凡庸なもの。ただ金持の画商が喜ん てい
で買うので金まわりがよいために体よく喰いものにされて いる。ある時,独身のStricklandが病に倒れる。人のよい Stroeveは妻Blqncheが嫌がるのをふり切って,むりやり
自分の手ぜまな家に連れてくる。これがStroeve夫妻の悲 劇の原因となる。はじめはBlancheはStricklandを恐れ るが,ついに熱烈に愛してくれる夫を裏切り,Strickland の愚かれたような「野性的なもの」に魅かれて,夫の卑屈 な程の懇願にも拘らず,BlancheはStricklandと同棲する 破目になる。だがしかし,最後にはStricklandにあっけな
く捨てられて自殺してしまう。その後,Stricklandはマル セイユで浮浪者の生活をした揚句,船の仲仕として傭われ てタヒチ島に辿りつく。そこでAtaという原住民の娘と結 婚し,子供も生れ、タヒチ島を安住の地として住みつく。
が最後には癩病に罹り,死んでゆく。「私」はStrickland が彼の平凡ではあるが幸福な家庭を脱出して20年後に,今 では天才画家夫人としておさまり,何不自由なく,立派に 暮しているStrickland夫人に「南海」での彼の生涯を語る 場面で小説は終る。
さて, 「私」というモーム自身を思わずようなpoint−of−
view characterはもちろんのこと,一方のStricklandにも モームのある面が強く投影されていると言えよう。
「私」とStricklandとのパリ時代での会話の中で「南 海」への思慕の情は,
Sometimes I ve thought of an island lost in a boundless sea, where I could live in some hidden valley, among strqnge trees, in silence. There I think I could find what I want.(M 79)
というStricklandの言葉に既に予告されているが,もっと 具体的には,タヒ.チ島にStricklandが行った理由を「私」
なりに推測して次のように述べていることからもうかがえ
る。
Ido且ot know how he had come upon the notion of
going to the South Seas, though I remember that his im・agination had long been haunted by an island, all green and sunny, encircled by a sea more blue than is found in
Northern latitUdes.(M 167)(下線筆者)
一 164 一
南海の二面性 植月
こういう南海へのあこがれはモームのWriter S Noteboole の中でみつけるのにたやすいが, 「美」と「真実」と「自 由」を求めるStricklandの「魂」もついに「いまだ知らぬ 故郷への郷愁」.にも似た気持で放浪の末に「南海」に安住 の地を探しあてたのである。このことを「私」は次のよう に述べている。
Here is the home he sought, and he w ill settle amid
scenes that he has never seen b ??盾窒?C among men he has never knowni as though they were familiar to him from
his birth. Here at last he finds rest.(M 180)(下線筆者)そして money も fame も,つまり俗世間的現実をふり 捨て,自分の心ゆくまでに「真実」の追求を「南海」に見 出したのである。そこで,_,only beauty with him took the place of truth.(M 195)とあるように, 「真実」の追 求,即ち「美」の追求に打ち込むことが出来たのである。
それ故に彼の場合,美の追求のためならば,自分自身を も,いやすべての人をも犠牲にしてゆくのである。善さえ も美の追求のためには犠牲になっても構わないのである。
こういう訳でStricklandは彼の家族も, StroeveもBlanche もAtaも,彼と関係のあったさまざまの人々の犠牲の上に 立って「美」の完成を追求してゆく男である。そうして Edward BarnardがIsabelを捨ててEvaと一緒になった ように,Stricklandも自分の妻や, Blancheを捨てて原住 民のAtaと結婚する。 Ataは大変自己中心的な天才画家 Stricklandを自由に活躍させ,自らの天分を限りなく発揮 させるという意味でまことに理想的な女性として描かれて いる。Ataとの生活が幸福であるかという質問に対しての Stricklandの次のような返答によってAtaがどのように理 想的な妻であるかが理解できよう。
tShe leaves me alone , he said. She cooks my food and
looks after her babies. She does what 1 tell her. She g圭ves me what I want from a woman.(M193)(下線筆者)こXではモームの「女嫌い(misogyny)」が顔をのぞか せている。モームにとっては女は男の創造的生活の敵で あり,また寄生虫でもあり,男を操り,男の活力の破壊 者。(11)男をつねに自分のものにしようとしてやまず,彼 女の「家計簿(account−book)」の中に男を閉じこめよう
とするもの,などとモームの女性評はきわめて辛辣であ る。(12)このようにモームは女性心理のみならずもっと低 い次元のものに対しても事実をリアルに描いていることに 気付くのである。
さて,Brunot船長〔南海でのStricklandの生活につい て「私」に語ってくれた人物)が,Stricklandの住んだ場 所を
... the place Strickland lived had the beauty of the Garden of Eden. Ah, I w ish 1 could make you see the
enchantment of that spot, a corner hidden away from all
the world, w ith the blue sky overhead and the rich, lux−
uriant trees. lt was a feast of colour. And it was fra−
grant and cool. Words cannot describe that paradise. (M
191)〔下線筆者)
と語っている。この美しい土地で,まさに先の作品で Edward Barnardがアメリカという「物質文明世界」を捨 て,永久に「南海」で幸福に暮すことを夢みたと同じよう に,Stricklandもやはりパリやmンドンの「街灯」を,昔 の知人や友達のr交際」を,「劇場」や「新聞」を,石だ だみの「舗道」を行く「乗合バス」を,つまりすべての
「文明世界」のものを捨てて未練がない。Edwardが友人 のBatemanに語ったと同じようにStricklandも l shall stay here till I die. (M 193)という言葉の示す通り,彼 のすべてを投入して,彼の住む家の四方の壁に最高の傑作 を描いて,妖しく燃える芸術の「炎」を消滅させて行く。
さらにこの小説ではこのように「文明世界」を脱出した人 物に二次的人物ではあるが,Brunot船長とAbraha皿がい
る。まずBrUnot船長から話を始めよう。突然一文無しに なったBrunotは彼が船長時代に巡航していた南海にある 一つの島を友達から借金して買い取り,さまざまな苦労と 貧しさを乗り越えて,森林を開拓し,ココヤシの木を植え る。昔の荒れ地は肥沃な土地となり,真珠の養殖さえも夢 ではないと希望を持つ。そういう意味で「私」に Ihave made something where there was nothing. I too have made beauty. (M 196)と語るBrunotは何物かを作り出
した入物,美の創造者とも言えよう。Edward Barnardと 同じようにBrUnotもまた「野心(ambition)」も, 「悪意
(㎜1ice)」も,「羨望(envy)」もない世界で素朴な生活を 送り,そこに幸福を見つけているのである。
もう一人の人物のAbrahamは才気自発で,将来を大き く嘱望された若い医師であった。彼は休暇をとって中東に 出かける。Alexandriaの町で,街並,波止場,行き交う 原住民の姿,青い空などを眺めていると、突如として,
「啓示(revelation)」を受ける。そうして彼は突然「喜悦 の情(exultation)」と「すばらしい解放感(splendid free−
dom)」を感じ,医師としての将来の可能性を捨て, Alex−
andriaに残り,つつましい地位に甘んじて貧しい生活を送 るのである。そのAbrahamと将来の医学の地位を競って,
今ではいくつかの病院を兼務し,「勲爵士(knight)」の称 号を得るまでになっているAlec Carmichaelなる人物は
Abrahamを _he s gone to the dogs altogether.,(M 183)
と言って温む。これは全くBatemanがみた,或はみたと 思ったEdwardの姿である。しかしAbrahamは,
fNever, not for a minute. 1 earn just enough tc live
upon, and 1 m satisfied. 1 ask nothing more than to
一165一
津山高専紀要第22号(1984)
remain as 1 am till 1 die. 1 ve had a wonderful life. (M 182)
と語って,その生活に満足して悔むことはない。そこで彼 は最大限に自己を表現できる「自由」を味わいたいのであ る。T. E, Morganが彼の『モーム伝』の申で, Insfde the Edwardian gentlernan there was a Charles Strickland trying to get out.(13)と述べているようにStricklandも,
Brunotも, Abrahamも, 「文明世界」の外に心の故郷を 見つけようとする姿は,その時代のヨーロッパ人の風潮で あったのみならず,作家活動に行き詰って南海を求めたモ ーム自身の姿と二重写しになっているとも言えよう。
しかし,同時にモームは決して,決してStricklandで はない。あの小説の中でStricklandをつきはなす一つの
「眼」を作目に導入したように,モームはStricklandに あこがれ 必ずしも全般的な一romanticな憧憬を寄せているので
はない。むしろStricklandのegocentricなamoralな生 き方を題名からでもわかるように The Moon で示し,
「私」やStroeveの生き方を Sixpence で示している。
そしてこれら二つの生き方を対比させたま罰こ小説を終っ ているらしいことに注目せねばならない。やはりモームの
「輪晦」と考えることができるのである。
結 び
モームの「南海もの」とよばれる作品およびThe Moon and SixPenceから「南海」における白人の様々な対応の 模様を述べ,さらにモーム自身の一つの投影とも言える Edward BarnardおよびCharles Stricklandに主な焦点を あて,モームの南海への陶酔とそれへ没入することへの現 実主義者としての逡巡とを述べてきた。このまさに同じ問 題をmレンスも『アメリカ古典文学研究』の申で提起して いる。D. H.ロレンスは,]Kメルヴィルの『タイピー』と
『オムー』を論じたところで,
「こと(原始生活への回帰)の真相はあともどりできな いということだ。なかにはできる人もいる。つまり脱走者 だ。しかしメルヴィルはあともどりできない。ゴーギャン だって現にできなかった。そしてわたしにも決してできな いだろうということがわかる。過去の方へ,野蛮な生き方 へもどることはだ。おのれの内部に宿るおのれの宿命なの だ。」(14)という。 Destiny だというロレンスの文明の不可 逆性を語るその Destiny をモームもはっきり見てとって いたということが出来るのではないか。さればこそ The Fall として,また The Moon として「南海」をとらえ た。一方に Sixpence の世界をふまえつs「南海」をあ くまでillusionの世界としてその限界を知っていた。「南 海」への「没入」.を危険と感じ,あくまでStricklandを,
Edward Barnardを, Davidsonを作品の一一つの「極」「に
配置するにと.s め,それに対してpoint−of−view character を使って相対化したり,批判させたりしている。こNにモ ームの a new world である「南海」に憧れるromanti−
cismとそしてそれをつきはなすrealismの眼(それはま たモーームのegotismと言ってよいかも知れぬが)がみられ るのである。まさにモームの南海文学こそ彼のしたたかな 眼を通して描かれた面白さがみられるというものである。
追 記
1.. カ中の数字は下記それぞれの書物の頁数であり,文中 の略字はそれぞれ次の書物を表わす。
Cl. ・・・…W. Somerset Maugham, COLLECTED SHORT STORIES 1 (New York: Penguin Books, 1982)
C4. ・・・…W. Somerset Maugham, COLLECTED SHORT STORIES 4 (New York: Penguin Books, 1979)
M・・・…W. Some rset Maugham, THE A40C)N AND SIX PENCE (New York, Penguin Books, 1982)
S・・・…W. Somerset Maugham, THE SUMMING UP (London: Heinemann, 1964)
T・・・…W. Somerset Maugham, THE TREMBLING OF A LEAF (London: Heinemann, 1956)
W・・・…W. Somerset Maugham, A PVRITER S NOTE−
BOOK (London: Heinernann 1964)
注
1, C. S. Mclver, Willictm Somerset Maergham: A study of
Technique and Literary Sourses (Darby: Darby Books,1936), p. 35
2. W.Somerset Maugham, THE SUMMING UP (Lon−
don: Heinemann, 1964).p. 193
0n the surface my life was varied and exciting;
but beneath it was narrow. Now 1 entered a new
world, and all the instinct in me of a novelist went out with exhilaration to absorb the novelty.(下線筆者)モームは南海という新天地の体験の感想を以上の ように述べている。
3. Wilmon Menard,The Two Worlds of Somerset Maugham (LOSANGELES, CALIFORNIA : SHERBOURNE
PRESS, MC., 1969), p. 13
4. Klaus W. Jonas, TLIE urORLD OF SO.14ERSET MAUGHan (CLONDON: PE[[ER OWEN LIMITED,
1959), p. 97
5.元田脩一著『短篇小説の分析と技巧』;東京:(開文 社)P.36
6. Wilmon Menard, oP., cit., p. 11.
7. T. E. Morgan, Somerset Mougham (L6ndon: Jonathan
Cape, 1980),p. 603.
8. Wilmon Menard, oP., cib ., p. 30.
9. Klaus W. Jonas , oP., cit., p. 125.
10. Anthony Curtis, Somerset Maugham (New York:
Mabmillan Publishing Co., Inc.,1977),p.142. ある
批評家とはRebcca Westという批評家のこと。
11.T. E. Morgan; op., cit.;p.241.の中で, T. E. Morgan
はMaughamの女性観を次のように述べている。
一 166 一
南海の二面性 植 月
In The Moon and SixPence, Maugham s view of wom−
en was given its fullest airing.. [hey were the enemies of creative life, parasitic and rnanipulative,
sapping the strength of men. ln Charles Strickland,
whQ says that Cwomen are very unintelligent, he foun. d an.outlet for his gall.
12.W。 S..1幽ugham, THE MOOIV AND SIXP孤℃E(New
Ybrk, Penguin Books,1982), P..144.に於いて When a woman loves you she s not satisfied until she pgssess.es your soul. Because she s weak shehas a rage for domination, and nothing less will sat−
isfy ber. She has a small mind, and she resents the abstract which she is unable to grasp. She is occu−
pied with material things, and she is jealous of the idea1, The soul of m鋤wanders through the utter−
most regions of the universe, and she seeks to im−
prison it in the circle of her account−book Do you remember my w ife? 1 saw Blanche little by little trying all her tricks. With infinite patience she prepared to snare me and bind. She wanted to bring
rne down to her level; she cared nothing for me, she
る
ロ
34
1←噌■
only wanted me to be hers. She was w i ll ing to do
everything in the world for me except the one thingIwan宅ed:to leave me alone. とStricklandに手き.び
しい,女性批判.をさせている。
T. E. Morgan, oP., cit., pp. 239−240
D. H. LaWrence, Studies in Cltzssic American Literature.
(Penguin Book : Harmondsworth, Penguin Books,
1971) p. 144
[Ehe truth of the matter is, one cannot go back.
Some rnen can renegade. But Melville couldn t go
back: and Gauguin couldn t go back: and 1 know now that l could never go back. Back towards the past,savage life. One cannot go back. lt s one s destiny;
inside one.