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『 保 元 物 語 』 に お け る 〈 理 〉 と 〈 哀 〉

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(1)

   

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

       

─ 『平治物語』 『平家物語』と比較して ─

阿    部    日 菜 子

     はじめに 保元元年(一一五六)の保元の乱を題材にした『保元物語』には、 「 理

ことわり

」という言葉が目立つ。実際に数えてみると、 半 井 本『 保 元 物 語 』 文 中 に「 理

ことわり

( 道 理 )」 と い う 言 葉 は 一 二 例 あ る

(注1)

。 用 例 数 だ け を み れ ば、 そ れ ほ ど 多 く 出 現 し て い る わけではない。しかし、それでも『保元物語』の「理」が読者に強い印象をもって響いてくるのは、この言葉が物語に とって非常に重要な局面で用いられているからだと考えられる。たとえば、次のような場面がある。

①久寿二年七月廿三日、ハカラザルニ近衛院カクレサセ給ヌ。御歳十七、惜カルベキ事也。法皇・女院ノ御歎ナノメ ナラズ、申モ愚ナリ。新院、此ヲリヲヱテ、 「我身コソ位ニ不レ被レ付トモ、重仁親王ハ、今度ハ位ニハ遁ジ物ヲ」 ト待ウケサセ給ケリ。天下ノ諸人モカク思ケル所ニ、ヲモヒノ外ナル美福門院ノ御計デ、後白河院ノ四宮トテウチ コ メ ラ レ テ 渡 ラ セ 給 シ ヲ、 位 ニ 付 奉 セ 給。 高 キ モ 賤 モ、 誠 ノ 親 ナ ラ ヌ 御 隔 ニ テ、 女 院 角 被

思 食

ケ ル。 新 院 ト ハ 一ツ御腹ニテワタラセ給シカドモ、女院モテナシ奉リ、法皇ニモ内々コシラヘ申サセ給ケルトゾウケ給ル。 是ニヨ リ、新院御恨一入ゾマサラセ給ゾ理ナル 。 (上巻「後白河院御即位ノ事」六頁)

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

(2)

①は、崇徳院(新院)が恨みを募らせ、後に始まる保元の乱を予感させる場面である。この章段において崇徳院は二 つの恨みを抱えている。一つは崇徳院自身が半ば無理やり退位させられたこと、もう一つは息子の重仁親王が即位でき ず、崇徳院が政治の実権を握ることができなかった、ということである。引用部は特にその二つ目の恨みを抱く過程が 語られており、その評語として「理ナリ」が用いられている。そのため、語り手は崇徳院が恨みを抱いたことに関して は 同 情 的 で あ り、 恨 み を 持 つ こ と も も っ と も で あ る、 と 肯 定 し て い る。 『 保 元 物 語 』 の 展 開 と し て、 こ の 時 に 崇 徳 院 が 抱いた恨みが発端となって保元の乱が起こることになる。よって、この時点で語り手が崇徳院の恨みを「理」と認めて いるということは、 『保元物語』全体に関わっていく問題だといえる。

② ( 為 朝 が 頼 長 に 夜 討 ち を 提 案 す る が 却 下 さ れ て ) 御 前 ヲ 立 テ 歩 出 ト テ、 「 夜 ノ 明 ケ ン ヲ 待 セ 給 ハ ン 事、 御 方 ノ 軍 兵 ノ カ サヲ敵ニ見セサセ給ハンタメカ。軍セン事、如何アランズラン。義朝ハ合戦ノ道、奥義ヲ極タリ。明日マデノバサ バコソ、信実、玄実ヲモマタセ給ハメ。悲哉、只今敵ニヲソワレテ、御方ノ兵アワテ迷ハン事ヨ」トゾツブヤキテ ゾ 出 ケ ル。 京 中 ニ ハ、 貴 賤 上 下 皆 〳 〵 ノ ヽ シ リ テ、 「 今 夜、 合 戦 ア ル ベ シ。 如 何 ア ラ ン ズ ラ ン 」 ト、 サ ハ ギ 迷 ケ ル モ理ナリ 。 (上巻「新院御所各門々固メノ事

軍評定ノ事」三三~三四頁)

②は崇徳院方の軍議の場面である。源為朝は、藤原頼長に戦の方法を問われて「夜討ち」を進言したものの却下され て憤慨する。その際の頼長の主張は、崇徳院方は人数で劣っているため、味方の僧兵が到着する明け方を待ってから戦 を仕掛けるべきだ、というものである。それと合わせて、天皇と上皇の戦いなのだから夜討ちという野蛮な方法はする べきではない、と為朝に発言している。つまり、開戦するのは早くても明朝、と頼長は考えている。だが、同じ頃に後 白河院方でも源義朝が夜討ちを提案していた。結果、そちらは実行して勝利を収めることになる。そのため、ここで為 朝が提案した夜討ちを実行しなかったことが、崇徳院方が敗北する大きな原因として語られていることがわかる。 日本文学ノート   第五十五号

(3)

② で「 理 ナ リ 」 と さ れ て い る 内 容 は、 市 中 の 人 々 が「 今 夜、 合 戦 ア ル ベ シ 」 と 騒 ぎ 合 い、 ど う し た ら い い か と 話 し 合っていることについてである。ここで注意したいのは、戦に直接的に関わっているわけではない市中の人々でさえも 「 今 夜 」 合 戦 が 行 わ れ る、 と 話 し て い る 点 で あ る。 こ の こ と に よ っ て、 様 々 な 理 由 か ら 夜 討 ち を す る べ き で は な い、 と いう判断を下した頼長一人が「明日」戦いが始まると思っていることが際立ってくる。その上で、語り手が「今夜」合 戦が行われるだろうという人々の予想(あるいは推測)を「理ナリ」と認めている。よって、結果として「夜討ちをし ない」という決断をした頼長一人に敗戦の責任が重くのしかかってくることになる。 さ て、 ① ② の「 理 」 を み る と、 ど ち ら も「 理 」 に「 ナ リ 」 が 下 接 し て い る が、 『 保 元 物 語 』 に み ら れ る「 理( 道 理 )」 の用例を分析した結果、その意味内容によって上述の一二例を二通りに分けることができる。

(一) 「生者必滅ノ理」等、 「~の理」として語句が成立するもの (二) 「理(道理) 」に「ナリ」が下接して形容動詞となるもの

(一)は、たとえば「生者必滅ノ理」 「有為ノ理」といった形で使われる。そのため、語り手の独自な、あるいは主体 的な解釈が入り込む余地が無い。どのような人々からみても「生者必滅ノ理」といった場合には大般涅槃経が示すこの 世 の 真 理 で あ る こ と が わ か り、 「 理 」 が 示 す 意 味 内 容 を 勝 手 に 変 え る こ と は で き な い か ら で あ る。 よ っ て、 「 生 者 必 滅 ノ 」「 有 為 ノ 」 と い う よ う な 言 葉 に 修 飾 さ れ た「 理 」 は 語 り 手 の 意 思 や 考 え が 含 ま れ た 言 葉 で あ る と は い え ず、 語 り 手 の主体性がみられない。 対して、先に引用した①②を含む(二)は「ナリ」が続くことで主張・陳述の意味が強まる。これにより、一連の場 面が「理ナリ」と結ばれることによって、その出来事や登場人物に対する語り手の「立場」や「視点」が明確になると 考えられる。このことから、語り手の言葉として「理ナリ」が出てきた場合、そこで主張されている「理」は語り手の 意思や考えによって判断されたもの、といえる。

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

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( 二 ) の よ う に「 ナ リ 」 が 下 接 し た「 理 」 が 語 り 手 の 意 思 を 十 分 に 反 映 し た 言 葉 で あ る、 と い う 前 提 で 用 例 を み て い く と、 物 語 の 展 開 に 大 き く 関 わ る 場 面 で こ の 言 葉 が 用 い ら れ て い る の で は な い か、 と い う こ と が 浮 か び 上 が っ て く る。 そして、とある事柄に対して語り手が「理ナリ」と認めることは、語り手がその「理」の対象に寄り添った考えを示し て い る、 と い う こ と に な る。 し た が っ て、 「 理 ナ リ 」 と 語 り 手 が 表 現 し た 場 合、 そ の 内 容 は 語 り 手 の 主 観 を 少 な か ら ず 伴 い、 物 語 の 展 開 や 解 釈 に 大 き く 関 わ る、 と い う 仮 説 が 生 ま れ る。 つ ま り、 ( 二 ) の「 理 」 は『 保 元 物 語 』 の テ ー マ に 関わっていく重大な言葉だと考えられる。 たとえば、先程引用した①では崇徳院が恨みを募らせたことを「理ナリ」としていたが、このことによって崇徳院が 恨みを抱くという行為自体に正当性が生まれる。よって、乱の発端となった恨みを語り手が認める、ということは『保 元物語』の崇徳院自身に対して語り手が同情的に捉えている、ということに繋がる。 ②では、先述したように崇徳院方の敗戦原因が問題となってくる。虚構ではなく、確かな歴史的事実として今に伝え られる戦を題材にしている軍記物語にとって、 「勝敗」 、とりわけ「敗戦」の理由というものは非常に重要だと考えられ る。 実 際 に は 様 々 な 要 因 が 絡 み 合 っ て 崇 徳 院 方 の 敗 戦 を 招 い た こ と が 察 せ ら れ る が、 『 保 元 物 語 』 で は 頼 長 一 人 に 責 任 が 押 し 付 け ら れ て い る よ う に 思 わ れ る。 崇 徳 院 方 の「 判 断 」 と い う 面 に お い て は 頼 長 が 全 面 に 押 し 出 さ れ て い る、 と いってもよいだろう。少なくとも『保元物語』においては、頼長に敗戦責任がすべてのしかかっており、歴史的事実と して責任を負うべきはずの誰かが語り手によって意図的に隠されている。これは『保元物語』が物語である所以であり、 語り手の物語構想が絡んでいるように思われる。そのため、崇徳院方が負けたことの理由づけの一部として、 「理ナリ」 が用いられていることは決して見過ごすことができない点である。 こ の よ う に、 『 保 元 物 語 』 中 に お け る( 二 ) の「 理 」 は、 物 語 に と っ て 重 大 な 意 味 を 持 つ 言 葉 だ と 考 え ら れ る。 よ っ て、本稿では『保元物語』の「語り」における「理」について考察を行い、その特徴を明らかにしていきたい。 なお、 「理ナリ」より数は少ないものの、 「理 哉

4

」、 「理 ヤ

4

」というように「理」に詠嘆の意味を持つ助詞が接続する場 合がある。これらの言葉を用いる際、語り手は「理」と判断したことに対して何らかの強い感慨を持っていると思われ 日本文学ノート   第五十五号

(5)

るため、 「理ナリ」とほぼ同義であると考える。また、 「道理」という言葉も『保元物語』には数箇所みられるが、意味 と し て「 理 」 と 差 異 は そ れ ほ ど み ら れ な い た め、 「 也 」 が 接 続 し た 場 合 は「 道 理 」 も「 理 」 と 同 様 で あ る、 と 解 釈 し て おくこととする。 以 上、 本 稿 で 扱 う「 理 」 に つ い て ま と め る と、 ( 二 ) の 定 義 は、 「 理( 道 理 )」 に「 ナ リ 」 が 下 接 し て 形 容 動 詞 と な る も の( 哉

カナ

、 ヤ 等 の 助 詞 が 接 続 す る も の を 含 む )、 と な る。 す な わ ち、 本 稿 の 考 察 対 象 と な る「 理( 道 理 )」 は 語 り 手 の 「主観」 「立場」 「視点」が明確であるもの、ということができる。よって、以後、本稿では(二)の「理ナリ」を〈理〉 と表記し、他の「理」と区別して扱っていくこととする。

と こ ろ で、 〈 理 〉 と 同 様 に『 保 元 物 語 』 の 評 語 と し て 扱 わ れ る 言 葉 と し て は「 哀 れ 」 が 挙 げ ら れ る。 一 見、 規 範 意 識 や 道 徳 意 識 を 指 す「 理 」 と、 何 ら か の 感 慨・ 感 情 を 表 す「 哀 れ 」 は 対 極 に あ る 言 葉 の よ う に 思 わ れ る。 し か し な が ら、 〈理〉がその対象とする人物に対して語り手の同情や共感を示す言葉であるとするならば、 「哀れ」と〈理〉は似た意味 を示している、という見方も可能なのではないだろうか。 文学作品における「理」及び「哀れ(あはれ) 」についての研究は、 『源氏物語』を扱った上地敏彦の論がある。上地 は「 『ことわり』は『道理』 『教理』 『法理』 『論理』等を表し、美的理念たる『もののあはれ』と対峙する教戒的・観念 的な内容を表す語とされている。それは善悪理非を必ずしも基準としない人間的感情・心情とは対極にあると見做すの が、殊に本居宣長以降の通念であ る

(注2)

」とした上で、 「しかし果たして、 『ことわり』は『もののあはれ』の対義語として の 論 点 し か 見 出 せ な い も の な の だ ろ う か

(注3)

」 と 疑 問 視 し て い る。 そ し て、 紅 葉 賀 巻 の「 こ と わ り 」 の 用 例 を 検 討 し、 「 こ のもっともだという理解は、言うまでもなく知的・観念的理解などではなく、親心というものへの人間的理解であって、 深い人間的共感ととらえることができ る

(注4)

」と述べている。 上 地 は 結 論 と し て、 『 源 氏 物 語 』 の「 こ と わ り 」 は 言 葉 の 背 景 と 内 容 の 違 い に よ っ て 以 下 の 二 種 類 に 分 類 で き る と す る。

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

(6)

Ⅰ   教戒・観念的条理としての「ことわり」 「 道 理 」「 教 理 」「 法 理 」「 論 理 」 等 を 表 し、 通 常「 こ と わ り 」 の 典 型 と さ れ て、 「 も の の あ は れ 」 と 対 峙 的 に 取 り 沙 汰されるものである。

Ⅱ   人情・心情的条理としての「ことわり」 人情・心情の脈絡として当然そうだろう、無理もないという、心理的必然性を感じさせる内実を有するものである。 『 源 氏 物 語 』 に お い て 実 際 的 に 多 用 さ れ て お り、 小 論 に お い て 注 目 す る、 心 情 的 な 理 解 や 人 間 的 な 共 感 を 生 み 出 す 「ことわり」であり、 「もののあはれ」と親和性の強いものが厳存す る

(注5)

私見によれば、ここで上地が主張している内容は『源氏物語』のみならず『保元物語』にもあてはまるものなのでは な い か、 と 思 わ れ る。 先 述 し た よ う に、 『 保 元 物 語 』 に お け る〈 理 〉 と「 哀 れ 」 は そ れ ぞ れ の 言 葉 を 述 べ た 対 象 に 同 情 や共感を示し、肯定する働きがあると考えられる。そこで、本稿では〈理〉と共に「哀れ」についても検討し、その特 徴をみていきたい。 「哀れ」は『保元物語』中に一四例あ り

(注6)

、これも「理」と同様に二つに分けられる。

(一)感動詞(間投詞)として用いられる「哀れ」 (二)感動詞以外の「哀れ」

「哀れ」についてもまた、 「理」と同様の理由で(二)を扱う。 (二)の例としては以下が挙げられる。 日本文学ノート   第五十五号

(7)

①同年夏六月十二日、美福門院、成菩提院ノ御所ニテ御カザリヲオロシ、御カタチヲヤツサセマシマス。是ハ先帝モ 隠サセマシ〳〵ヌ、又、法皇モ御悩ヨクワタラセ給ハヌニヨリテ、御歎ノ余ニ思食立トゾキコヱシ。 哀ナリシ事也 。 御戒師ニハ三滝ノ上人観空ゾマイリケル。 (上巻「法皇崩御ノ事」八~九頁)

①は美福門院が出家した理由を語ったものである。美福門院は自分の息子である先帝(近衛院)に先立たれ、夫であ る鳥羽院の病状も思わしくないことが原因となって出家に至ったことがわかるが、語り手はそれに対して「哀ナリシ事 也」と感慨を述べている。語り手がこのように述べることによって、この場面は「哀れ」なものなのだ、という認識が 読者に生まれる。また、美福門院の出家に「哀れ」という語り手の感情が表現されていることによって、この場面(出 来 事 ) の 美 福 門 院 に 対 し て 語 り 手 が 同 情 を 示 し、 寄 り 添 っ て い る、 と い う こ と が わ か る。 そ の た め、 ① に お け る「 哀 れ」は語り手の意思が反映されている、ということができる。

② ( 源 為 義 が 敗 走 す る 場 面 に お い て ) 為 義、 サ ガ ス 処 ニ ハ 無 テ、 坂 本 三 河 尻 ノ 五 郎 大 夫 景 俊 ガ 許 ニ 隠 テ 居 タ リ ケ ル ガ、 十六日ニ、五十騎計ノ勢ニテ、三井寺ヲ通テ、東国ノ方ヘ趣キケルガ、運ノ極タル処ハ、為義、重病ヲ受テ、前後 不覚ニ成ニケリ。温病トゾ聞ヘシ。馬ニ舁乗テ行ニ、兵共出来テ打留トスル上ヘ、大将軍ノ重病ナルヲ見テ、郎等 等、皆ステテ逃失ヌ。子共六人ノ外、郎等四人ト雑色華沢一人残ケル。近江ノ蓑浦ニテ、船ニ乗ラントシケル所ニ、 敵 廿 騎 計 懸 出 タ リ。 戦 ニ 不

及、 四 方 ヘ 皆 逃 散 ヌ。 四 人 等 ガ 郎 等 モ 落 失 テ 無 リ ケ リ。 イ ト ヾ 心 細 ク ゾ 成 ニ ケ ル。 其 ヨリ東近江ヘ至ラントシケレ共、身ハ病ヲ受ツ、其上、鈴香、不破関塞リヌト聞ヘケレバ、東国ヘ遁下ラン事モ難

有。 道 ノ 辺 ニ テ 打 落 サ レ ン 事 モ、 命 モ 難

捨、 恥 モ 惜 ケ レ バ、 思 返 シ テ、 蓑 浦 ヨ リ 東 坂 本 ニ 帰 付 テ、 黒 谷 ノ 辺 ニ 忍テ居タリケルガ、雑色花沢ガ勧ニテ、天台山ニ登テ、月輪坊ノ竪者ノ坊ヘ行テ、ソコニテ為義出家シテケリ。栄 花ト開ケシタモト、 今黒染ニ成姿、哀也ケリ 。

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

(8)

(下巻「為義降参ノ事」九一~九二頁)

   ②は源為義が出家する場面である。ここでは、源氏の棟梁である為義に伴う人物が少なくなり、進退窮まっている状 況であることが、描写からわかる。その際、これまで華やかだった為義の着物が、出家したことで黒染の僧衣になって し ま っ た。 そ れ を 語 り 手 は「 哀 也 ケ リ 」 と 語 り、 同 情・ 共 感 の 意 を 示 し て い る。 ② に 至 る ま で の 場 面 を 読 ん で い く と、 敗戦という重い結果や道中を共にする人物が少なくなったこと、為義自身の病など、為義が「哀れ」であると感じられ る部分は多々みられるように思われる。更に、出家の場面において評語として「哀也ケリ」を用いることで、一連の説 話が「哀」であることが際立ってくると考えられる。この場面に至るまでの、特に敗走中の為義の描写は「弱者」とい う側面を語ることで一貫している。そのため、この場面においても語りの誘導がある、といえる。つまり、この場面に おける為義は「哀れ」な人物であるように描かれているように考えられる。 その上で、一連の評語において「哀れ」と結ばれていることにより、為義が「哀れ」であることに読者は一切の疑問 も持たず、納得することができる。為義に対する語り手の共感・同情の念を、読者も共有している、ということである。 こ の 場 面 に お い て 語 り 手 が 述 べ る「 哀 れ 」 は、 「 語 り 」 の 誘 導 と い う 行 為 を も っ て、 為 義 の 元 に 読 者 を 接 近 さ せ る 効 果 があるのだと考えられる。 また、①②はどちらも登場人物(美福門院、為義)が「出家」したことについて「哀れ」と語り手が評している。こ れを「理(もっともだ) 」とせず、 「哀れ」と述べている点に注意してみれば、語り手は美福門院と為義が本来は出家す べき人物ではない、と考えている、ということになるだろう。出家せざるをえない状況に陥ってしまった人物はその場 における「敗者(弱者) 」として物語では扱われている、という解釈も可能なのではないだろうか。 一 般 に 物 語 の 語 り 手 に は 様 々 な 種 類 と 立 場 が あ り う る が、 『 保 元 物 語 』 の 語 り 手 は 作 中 世 界 に 対 し て 俯 瞰 的 な 立 場 か ら 物 語 を 語 っ て い る と 思 わ れ る。 し た が っ て、 そ の 語 り 手 は 作 中 の 登 場 人 物 と は 一 定 の 距 離 が あ る。 だ が、 そ の「 語 り 」 の 中 に み ら れ る「 哀 れ 」 は、 語 り 手 の 言 葉 と し て は 登 場 人 物 の 気 持 ち に 寄 っ た も の の よ う に 感 じ ら れ る。 「 哀 れ 」 日本文学ノート   第五十五号

(9)

は〈理〉のように論理的な根拠に基づいて述べられる言葉ではなく、感情から生み出される言葉だからである。つまり、 「哀ナリ」は「理」と比較すると語り手が登場人物に近い立場(視点)から語っている言葉だといえるだろう。よって、 (二)の「哀れ」は語り手の意思が十分に反映された言葉だと考えられる。 な お、 上 述( 一 ) の「 哀 」 は 感 動 詞、 も し く は 間 投 詞 で あ り、 現 代 語 訳 す る と「 あ あ 」 と な る が、 半 井 本『 保 元 物 語』において、語り(地の文)に(一)の「哀れ」はみられない。他の諸本や軍記物語には若干数確認できるが、典型 的な意味をもった言葉としては扱われていないように思われる。今回は、語り手が登場人物の行動・発言に関して発し た「哀れ」に特に注目していくことが、 本稿の趣旨に沿っているように考えられる。よって、 今回扱う「哀れ」は(二) の「哀れ」と規定する。以後〈理〉と同様に、 (二)の「哀れ」は〈哀〉と表記して他の「哀れ」と区別する。

  さて、以上のように問題点を整理した上で、以下、特に断らない限り、 〈理〉 〈哀〉といった場合には本節で定義した 意味で用いる。これは半井本『保元物語』以外の他作品を扱う場合も同様とする。 本 稿 の 大 き な 目 的 は、 『 保 元 物 語 』 の「 語 り 」 に お け る〈 理 〉 と〈 哀 〉 に つ い て そ の 特 徴 を 掴 む、 と い う こ と で あ る が、そのためにも、他の作品における〈理〉と〈哀〉の使われ方を比較する必要がある。そこで本稿では、まず最初に 『 保 元 物 語 』 の〈 理 〉 と〈 哀 〉 が ど の よ う な 場 面 を 描 い た も の か、 と い う こ と に つ い て 整 理 す る。 次 に、 保 元 の 乱 と ほ ぼ同時代に起こった合戦を題材にとった『平治物語』 『平家物語』との比較を行っていく。その上で、 『保元物語』にみ られる「理」と「哀れ」と特徴とは何か、ということを明らかにしていきたい。 本稿の目的は、さしあたり『保元物語』の〈理〉と〈哀〉の特徴を検討することにあるが、そうした考察は、最終的 に『 保 元 物 語 』 が そ も そ も 何 を 目 的 と し て 生 ま れ た も の な の か、 と い う「 物 語 」 の 意 図、 あ る い は 意 義 の 解 明 と い う、 より大きな問題に繋がっていくはずである。そこで本稿では、半井本『保元物語』を中心に扱うこととする。半井本は、 『保元物語』諸本の中でも最も古態を留めているとされているからである。 以下、本稿では特に断らない限り『保元物語』といえば半井本『保元物語』を指す。その本文は、栃木孝惟・日下力

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

(10)

他 校 註『 新 日 本 古 典 文 学 大 系

字体で表記し、当て字などの一般的ではないと考えられる読みを除いて振り仮名は省略した。 示した数字はその頁数を指す。引用文における傍線は特に断らない限り筆者によるものである。原則として旧字体は新

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  保 元 物 語・ 平 治 物 語・ 承 久 記 』 ( 岩 波 書 店、 一 九 九 二 年 七 月 ) に 拠 る。 引 用 後 の 括 弧 で      一、 『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『保元物語』の〈理〉を整理すると、全一二例の内八例が今回の考察対象として扱うものとな る

(注7)

。この分布をみると、 上巻に二例、中巻に五例、下巻に一例となっており、戦が収束して戦後処理が行われる部分になると〈理〉はあまりみ られなくなることがわかる。 対して、同様の基準で〈哀〉をみると、考察対象は〈理〉と同様に八例であり、その分布は上巻に一例、中巻に二例、 下巻に五例と〈理〉と対照的になっている。下巻に〈哀〉が多い理由としては、物語の展開上、作品が終結部に向かう に つ れ て 親 兄 弟 の 処 刑、 敗 者 へ の 厳 罰 と い っ た 悲 し み が 際 立 つ 場 面 が 増 え て く る か ら、 と い う こ と が 挙 げ ら れ る だ ろ う。反対に、まだ戦が勃発していない冒頭部や合戦の場面においては、それほど悲哀感は物語の中に立ち込めてこない、 ということが考えられる。この点においては、 『平治物語』や『平家物語』も『保元物語』と同じ軍記物語であるため、 同様のことがいえるのではないか、と思われる。 以下、本稿で扱う『保元物語』の〈理〉八例の概要を述べる。

  ①乱の発端 久寿二年七月廿三日、ハカラザルニ近衛院カクレサセ給ヌ。御歳十七、惜カルベキ事也。法皇・女院ノ御歎ナノメ ナ ラ ズ、 申 モ 愚 ナ リ。 新 院、 此 ヲ リ ヲ ヱ テ、 「 我 身 コ ソ 位 ニ 不

付 ト モ、 重 仁 親 王 ハ、 今 度 ハ 位 ニ ハ 遁 ジ 物 ヲ 」 ト待ウケサセ給ケリ。天下ノ諸人モカク思ケル所ニ、ヲモヒノ外ナル美福門院ノ御計デ、後白河院ノ四宮トテウチ コ メ ラ レ テ 渡 ラ セ 給 シ ヲ、 位 ニ 付 奉 セ 給。 高 キ モ 賤 モ、 誠 ノ 親 ナ ラ ヌ 御 隔 ニ テ、 女 院 角 被

思 食

ケ ル。 新 院 ト ハ 日本文学ノート   第五十五号

(11)

一ツ御腹ニテワタラセ給シカドモ、女院モテナシ奉リ、法皇ニモ内々コシラヘ申サセ給ケルトゾウケ給ル。 是ニヨ リ、新院御恨一入ゾマサラセ給ゾ理ナル 。 (上巻「後白河院御即位ノ事」六頁)

前節において述べたように、①は崇徳院が恨みを募らせたことに〈理〉があるとしている。ここで崇徳院が抱いた恨 みは保元の乱の発端となっていくものであるため、語り手が恨みを〈理〉としていることは極めて重大である。

②乱を前にして慌て騒ぐ人々の様子 ( 頼 長 に 為 朝 が 夜 討 ち を 提 案 す る が 却 下 さ れ て ) 御 前 ヲ 立 テ 歩 出 ト テ、 「 夜 ノ 明 ケ ン ヲ 待 セ 給 ハ ン 事、 御 方 ノ 軍 兵 ノ カ サ ヲ敵ニ見セサセ給ハンタメカ。軍セン事、如何アランズラン。義朝ハ合戦ノ道、奥義ヲ極タリ。明日マデノバサバ コソ、信実、玄実ヲモマタセ給ハメ。悲哉、只今敵ニヲソワレテ、御方ノ兵アワテ迷ハン事ヨ」トゾツブヤキテゾ 出 ケ ル。 京 中 ニ ハ、 貴 賤 上 下 皆 〳 〵 ノ ヽ シ リ テ、 「 今 夜、 合 戦 ア ル ベ シ。 如 何 ア ラ ン ズ ラ ン 」 ト、 サ ハ ギ 迷 ケ ル モ 理ナリ 。 (上巻「新院御所各門々固メノ事

軍評定ノ事」三三~三四頁)

②も第一節において触れたように、人々が「今夜」戦があると慌て騒いでいる様子に〈理〉がある、と語ったもので ある。この時点で、戦が始まるのは「今夜」ではない、と考えているのが頼長一人である、ということを如実に表した 部 分 で あ る。 「 今 夜 」 戦 が 行 わ れ な い、 と い う の は、 前 の 場 面 に お い て 頼 長 が 却 下 し た「 夜 討 ち 」 と 繋 が っ て い く。 夜 討ちをしなかったことは崇徳院方の敗戦に直接結びついていく事項であるため、その判断を下した頼長に非がある、と いうように『保元物語』では語られている。すなわち②における〈理〉は、崇徳院方が何故敗戦したのかという、語り 手の保元の乱に対する解釈に結びついていく〈理〉だと考えられる。

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

(12)

  ③義朝と為朝の問答 大庭平太、同三郎、山内須藤刑部丞父子、海老名源八、波多野次郎等、二百余騎ニテゾ追タリケル。宝荘厳院ノ西 裏 ニ テ、 返 シ 合 テ 戦 ケ リ。 下 野 守、 後 陣 ニ 引 ヘ テ、 「 此 ヲ 禦 ハ 源 氏 カ 平 氏 カ。 カ ウ 申 ハ、 今 度 ノ 大 将 軍、 下 野 守 義 朝 」 ト 名 乗 ケ レ バ、 取 不

敢、 「 同 氏 筑 紫 八 郎 為 朝 」 ト ゾ 申 ケ ル。 「 サ テ ハ 義 朝 ニ ハ、 遥 ノ 弟 ゴ ザ ン ナ レ。 何 ニ、 敵 対 シ、 兄 ニ 向 テ 弓 引 者 ハ、 冥 加 ノ 無 ゾ。 落 ヨ。 扶 ケ ン 」 ト 申 ケ レ バ、 為 朝、 カ ラ 〳 〵 ト 笑 テ 申 ケ ル ハ、 「 ヤ、 殿、 下野殿、兄ニ向テ弓引物ノ冥加ノ無ランニハ、父ニ向テ矢ヲ放ツ者ハ何ニ」トゾ申タル。道理ナレバ、音モセズ 。 (中巻「白河殿攻メ落ス事」五七~五八頁)

③は、合戦中に相対した義朝と為朝の問答を描いたものである。義朝は弟である為朝に「サテハ義朝ニハ、遥ノ弟ゴ ザンナレ。何ニ、敵対シ、兄ニ向テ弓引者ハ、冥加ノ無ゾ」と、為朝が自らの弟であることを指摘する。義朝の言葉を 聞 い た 為 朝 は、 「 兄 ニ 向 テ 弓 引 物 ノ 冥 加 ノ 無 ラ ン ニ ハ、 父 ニ 向 テ 矢 ヲ 放 ツ 者 ハ 何 ニ 」 と、 義 朝 も 父 で あ る 為 義 と 敵 対 し ている事実を述べて言い返す。義朝は為朝の指摘に〈理〉があると感じ、何も言えなくなってしまった、という場面で あ る。 こ こ で 義 朝 と 為 朝 が 論 点 と し て い る の は「 親 兄 弟 と 戦 う こ と 」、 つ ま り「 長 幼 の 序 」 を 問 題 に し て い る、 と い う 点である。このことは、以後『保元物語』中において何度も取り上げられる話題である。実際に保元の乱は親兄弟同士 で戦った戦である。軍事行動を行った武士以外の皇族、藤原摂関家といった、乱の原因となった一族も親子間で対立し て い る た め で あ る。 こ の よ う な 背 景 か ら、 『 保 元 物 語 』 に お い て 親 子 間 で 敵 対 す る こ と に つ い て 何 度 も 取 り 上 げ ら れ て いることがわかる。保元の乱(当時)の価値観、あるいは道徳観念を考えれば、子が親と敵対する、弟が兄に刃を向け る、 と い う の は 考 え ら れ な い こ と だ っ た。 し か し、 保 元 の 乱 に お い て そ の 意 識 が 崩 壊 す る。 『 保 元 物 語 』 で 英 雄 的 に 語 られる為朝の口から「兄ニ向テ弓引物ノ冥加ノ無ランニハ、父ニ向テ矢ヲ放ツ者ハ何ニ」という言葉が出てくるという こ と は、 旧 来 の 意 識 を 覆 し、 こ れ ま で の 常 識 が 通 用 し な い 世 の 中( つ ま り は「 武 者 の 時 代 」) の 到 来 を 暗 示 し て い る と 日本文学ノート   第五十五号

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も考えられる。いずれにしても、この場面は『保元物語』の語り手が保元の乱の特徴である「親兄弟と戦うこと」につ いての問題意識を明確にしている箇所である。

④勝敗の分け目 抑、 今 度 合 戦 破 ヌ ル 事、 王 事 不

危、 忝 ク 神 明 ノ 御 計 ト 覚 タ リ。 公 家 殊 御 祈 念 深 テ、 日 吉 社 ニ 真 筆 御 願 書 ヲ 七 条 ノ 座 主 ノ 宮 ヘ 奉 リ 給 ケ レ バ、 座 主 御 願 書 ヲ 神 殿 ニ 籠 テ、 肝 胆 ヲ 砕 キ 祈 請 シ 申 サ セ 給 ケ ル 験 ニ ヤ、 為 義、 忠 正 ガ 子 共、 命 ヲ 惜 共 見 ヘ ザ リ ケ レ 共、 山 王 ノ 御 計 ニ ヤ、 無

程 敵 ヲ タ イ ラ ゲ ラ レ ン 事、 法 験 モ 目 出 ク 王 威 モ 威 シ。 サ レ バ 昔 シ 将門ガ東八ケ剋ヲ打取テ、都ヘ責上ルト聞シカバ、竜顔色ヲ失、人臣悉騒テ、諸寺諸社ニテ是ヲ調伏セシカ共、其 験無リシニ、延暦寺ノ座主法性坊尊意僧正宣旨ヲ蒙テ、講堂ニシテ不動ヲ安置シテ、鎮護国家ノ法ヲ修セラレシニ、 将 門 弓 箭 ヲ 帯 シ テ 炉 壇 ノ 炎 ノ 中 ニ 影 ハ ル ト 見 テ、 無

程 被

打 キ。 両 座 主 祈 念 答 テ、 二 代 ヲ 護 奉。 目 出 事 也。 サ レ バニヤ惣持院ヲバ鎮護国家ノ道場ト申スモ理哉 。 (中巻「朝敵ノ宿所焼キ払フ事」七六~七七頁)

④では、なぜ崇徳院方が保元の乱において敗北したのか、という理由について述べられている。ここで〈理〉とされ て い る の は、 惣 寺 院 が 鎮 護 国 家 の 道 場 と 呼 ば れ る こ と に な っ た、 と い う こ と で あ る。 こ れ は 後 白 河 院 に 先 祖 か ら 伝 わ る 神 仏 の 加 護 が あ っ た こ と に 繋 が っ て い く 一 方 で、 負 け た 崇 徳 院 に は 加 護 が 無 か っ た、 と い う こ と を 示 す。 つ ま り ④ の〈理〉は、そもそも崇徳院には勝ち目が無かった、ということを表現しているのであって、なぜ崇徳院が負けたのか、 ということに対しての語り手の解釈が提示されている部分だと考えられる。

⑤憔悴する崇徳院 夜 ニ 入 テ、 家 弘 親 子、 新 院 ヲ 肩 ニ 引 懸 奉 テ、 山 ヨ リ 出 シ 奉 テ、 法 勝 寺 ノ 北 浦 ヲ 過、 北 白 川 ノ 東 光 寺 ノ 辺 ニ テ、 光

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

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弘 ガ 知 タ ル 人 ニ 輿 ヲ 借 テ 乗 セ 奉 リ、 「 何 方 ヘ カ 仕 ベ キ 」 ト 申 ケ レ バ、 「 女 房 阿 波 局 ガ 許 ヘ 」 ト 被

仰 ケ レ バ、 二 条 ヲ 西 ヘ 大 宮 マ デ 仕。 阿 波 局 ガ 許 ヲ 叩 共、 門 ヲ 閉 テ 音 モ セ ズ。 「 左 京 大 夫 ガ 許 ヘ 」 ト 被

仰 ケ レ バ、 其 ヘ 渡 シ 奉 タ レ 共、 教 長 卿 モ、 ケ サ 合 戦 ノ 庭 ヨ リ 何 方 ヘ カ 落 行 ケ ン、 残 留 跡 ト テ モ ヲ ダ シ カ ル マ ジ ケ レ バ、 叩 共、 門 ヲ 閉 テ 人 モ 無 シ。 「 少 輔 内 侍 ノ 許 ヘ 」 ト 被

仰 ケ レ 共、 ソ コ モ 人 モ ナ シ。 五 畿 七 道 広 シ ト コ ソ 思 食 然 共、 今 ハ 東 西 南 北 塞 テ、 御 幸 ナ ル ベ キ 方 モ ナ シ。 「 コ ハ 悲 事 哉。 立 宿 ベ キ 方 モ、 今 ハ 無 身 ト 成 ヌ ル 事 ヨ 」 ト 被

仰、 御 心 ヨ ワ ゲ ニ 見 ヘ サ セ 給 ゾ 理 ナル 。 (中巻「新院御出家ノ事」七七頁)

⑥体力の限界が訪れる崇徳院 知 足 院 ノ 方 ヘ 渡 シ 奉 テ ン ゲ ル ガ、 知 ヌ 僧 坊 ヘ 舁 入 奉 ヌ。 軈 テ ソ コ デ 平 臥 サ セ 給。 山 中 ニ テ 水 ヲ キ コ シ 食 ツ ル 外 ハ、 夜部ヨリ今マデ何ニモ進ネバ、 御身ノヨハラセ給モ理也 。 (中巻「新院御出家ノ事」七八頁)

⑤⑥は敗走する崇徳院がだんだんと衰弱していく様子を描いたものである。なぜ崇徳院がこのような状態に陥ってし まったのか、ということをしっかりと描写し、衰弱した様子をみせる崇徳院の姿を〈理〉と語り手が更に表現すること で、読者もその認識を共有することができる部分だと考えられる。そのため、ここでの〈理〉は登場人物に対して同情 や共感を表明して寄り添う〈哀〉と似た用法で用いられているように考えられる。

⑦勲功を求める義朝の直訴 義 朝 申 ケ ル ハ、 「 今 度、 勲 功 賞 ニ ハ、 卿 相 ノ 位 ニ 昇 共、 難 ア ル ベ キ ニ ア ラ ズ。 此 官 ハ、 先 祖 多 田 満 仲 法 師 ガ 始 テ 罷 成 テ 候 ケ レ バ、 其 跡 芳 ク 候 ヘ 共、 本、 右 馬 助、 今、 権 頭 ニ 転 任、 勲 功 ノ 賞 ト モ 不

覚。 更 ニ 無

面 目

。 朝 敵 ヲ 討 ツ 日本文学ノート   第五十五号

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者 ハ 半 国 ヲ 給 ル。 其 功、 世 々 ニ 不

絶 ト コ ソ 承 ル。 父 ヲ 背 キ、 親 類 ヲ 捨、 兄 弟 ヲ 離 テ、 御 方 ニ 参 リ テ、 命 ヲ 不

惜 責戦。勅命ニ背キ難ト云ヘ共、父ニ向テ弓ヲ引、矢ヲ放テバ、人ニ越タル不次ノ賞ヲコソ蒙候ベキニ」ト、頻ニ申 バ、 道 理 也 ケ レ バ 、 隆 季 朝 臣 ノ 左 馬 頭 ナ リ シ ヲ、 則 左 京 大 夫 ニ 移 シ テ、 義 朝 ヲ 左 馬 頭 ニ ゾ 被

成 ケ リ。 サ テ コ ソ 憤 ヲ休メケル。 (中巻「関白殿本官ニ帰復シ給フ事

武士ニ勧賞ヲ行ハルル事」八一~八二頁)

⑦では、忠通に対して自分の働きに見合った勲功を与えるように直訴する義朝の姿が描かれている。ここで義朝が主 張 し て い る の は、 自 ら が 親 に 刃 を 向 け て ま で 戦 っ た、 と い う こ と で あ る。 こ れ は ③ で も 述 べ た よ う に、 『 保 元 物 語 』 に おける親子関係の解釈に関わる〈理〉である。

⑧為義と別れる子供たち サ テ サ ヨ フ ケ ガ タ ニ、 山 ヲ 出 テ、 大 竹 ノ 程 ヲ 過 テ、 水 ノ 御 本 ト 云 所 ニ テ、 六 人 ノ 子 共、 「 最 後 ノ 共 シ 終 」 ト テ 送 ケ リ。 「今ハ、迎ノ者ハ近付タルラン。ワ殿原ハ返レ」ト宣ケレバ、 「承ル」トテ、此人々ソコニ立止テ見送奉ラレケ ル ガ、 恩 愛 ノ 道 ハ 不

力 及

、 思 切 レ ヌ 事 ナ レ バ、 「 今 生 一 生 ノ 契 ゾ カ シ。 今 者 争 見 参 セ ン 」 ト 思 フ 限 ノ 別 ノ 悲 シ ケ レ バ、 「 暫 シ 留 ラ セ 給 ヘ。 可

申 入

事 ノ 候 ゾ 」 ト 声 々 ニ 被

申 ケ レ バ、 「 何 事 ゾ ヤ 」 ト テ 被

返 登

ケ リ。 可

云 事 ハ 無レ共、別ノ悲サニ、父ヲ立囲テ、手足ニ取付テ、泣ヨリ外ノ事ゾナキ。 理ヤ、サコソハ悲シカリケメ 。後ニ相見 ルベキ物ナレ共、指当ヌル別ハ悲ゾカシ。是ハ只今ヲ限レリ。二度可

合別ナラネバ、悲共云モ疎也。 (下巻「為義降参ノ事」九四~九五頁)

⑧では、為義とその子供たち(後白河院方についた義朝を除く)の別れが描かれている。これは親子の今生の別れで あり、お互いがそれを理解しているため、別れようにも別れられない、という場面である。そのため、ここでも問題に

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

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なるのは親子関係である。また、この場面は「悲」という言葉が頻出するように、悲しい場面として語り手は語ってい ると考えられる。よって、この場面での〈理〉は「悲しさ」に対しての理由づけの効果もあると思われる。 〈理〉と同様に、 〈哀〉八例についても、その概要を述べていく。

   ①美福門院の出家 同年夏六月十二日、美福門院、成菩提院ノ御所ニテ御カザリヲオロシ、御カタチヲヤツサセマシマス。是ハ先帝モ 隠サセマシ〳〵ヌ、又、法皇モ御悩ヨクワタラセ給ハヌニヨリテ、御歎ノ余ニ思食立トゾキコヱシ。 哀ナリシ事也 。 御戒師ニハ三滝ノ上人観空ゾマイリケル。 (上巻「法皇崩御ノ事」八~九頁)

ここで〈哀〉と述べられているのは、美福門院が出家したことに対してである。美福門院の出家は「是ハ先帝モ隠サ セマシ〳〵ヌ、又、法皇モ御悩ヨクワタラセ給ハヌニヨリテ、御歎ノ余ニ思食立トゾキコヱシ」という理由だったこと が語られている。その語りの直後に〈哀〉と述べられているので、息子の近衛院を亡くし、夫である鳥羽院の体調不良 を嘆いた美福門院に対して、語り手が同情・共感していることがうかがえる。

  ②為義の出家 為義、サガス処ニハ無テ、坂本三河尻ノ五郎大夫景俊ガ許ニ隠テ居タリケルガ、十六日ニ、五十騎計ノ勢ニテ、三 井 寺 ヲ 通 テ、 東 国 ノ 方 ヘ 趣 キ ケ ル ガ、 運 ノ 極 タ ル 処 ハ、 為 義、 重 病 ヲ 受 テ、 前 後 不 覚 ニ 成 ニ ケ リ。 温 病 ト ゾ 聞 ヘ シ。馬ニ舁乗テ行ニ、兵共出来テ打留トスル上ヘ、大将軍ノ重病ナルヲ見テ、郎等等、皆ステテ逃失ヌ。子共六人 ノ 外、 郎 等 四 人 ト 雑 色 華 沢 一 人 残 ケ ル。 近 江 ノ 蓑 浦 ニ テ、 船 ニ 乗 ラ ン ト シ ケ ル 所 ニ、 敵 廿 騎 計 懸 出 タ リ。 戦 ニ 不

及、四方ヘ皆逃散ヌ。四人等ガ郎等モ落失テ無リケリ。イトヾ心細クゾ成ニケル。其ヨリ東近江ヘ至ラントシケレ 日本文学ノート   第五十五号

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共、 身 ハ 病 ヲ 受 ツ、 其 上、 鈴 香、 不 破 関 塞 リ ヌ ト 聞 ヘ ケ レ バ、 東 国 ヘ 遁 下 ラ ン 事 モ 難

有。 道 ノ 辺 ニ テ 打 落 サ レ ン 事 モ、 命 モ 難

捨、 恥 モ 惜 ケ レ バ、 思 返 シ テ、 蓑 浦 ヨ リ 東 坂 本 ニ 帰 付 テ、 黒 谷 ノ 辺 ニ 忍 テ 居 タ リ ケ ル ガ、 雑 色 花 沢 ガ勧ニテ、天台山ニ登テ、月輪坊ノ竪者ノ坊ヘ行テ、ソコニテ為義出家シテケリ。栄花ト開ケシタモト、 今黒染ニ 成姿、哀也ケリ 。 (下巻「為義降参ノ事」九一~九二頁)

②は為義が出家に至るまでの経緯を描いた場面である。為義は保元の乱で敗戦した結果、連れる人も少なくなり、更 に は 病 を 受 け て す っ か り 弱 っ て し ま っ た。 か つ て 為 義 が 源 氏 の 頭 領 と し て 栄 華 を 極 め た 姿 と 比 較 し て、 語 り 手 は〈 哀 〉 と 述 べ て い る。 「 哀 れ 」 な 為 義 の 境 遇 を し っ か り と 描 写 す る こ と に よ っ て、 〈 哀 〉 と い う 言 葉 に 説 得 力 が 生 ま れ て い る。 これも読者に対する語りの誘導がみられる場面である。

③為義と子供たちの別れ 又、 思 切 テ 下 レ バ、 子 共 呼 返 ス。 子 共 返 上 バ、 又、 父 呼 返 ス。 サ テ シ モ 可

有 事 ナ ラ ネ バ、 上 下 ヘ 別 行、 子 共 ハ 其 ヨ リ 思 々 ニ 落 ゾ 行 ク。 溟 々 ト シ テ 行 路 前 後 ヲ 不

知。 漫 々 ト シ テ 漂 心 波 引 ヲ 不

弁。 白 楊 ノ 路 モ 何 ヲ 指 テ カ 可

尋。 蒼 梧 ノ 煙 モ 靡 方 ヲ 不

知。 鳥 ニ ア ラ ネ 共、 四 鳥 ノ 別 ヲ 致 シ、 魚 ニ ア ラ ザ レ 共、 剣 魚 恨 ヲ 懐 ク。 欄 干 ト シ テ 魂 飛 揚 ス ト見ヘタリ。 哀レ也シ父子ノ別也 。二人三人モツレザリケリ。大原、静原、鞍馬ノ奥、貴布禰様ヘゾ別行。 (下巻「為義降参ノ事」九五~九六頁)

〈 理 〉 ⑧ と 同 様 に、 為 義 と 子 供 た ち の 別 れ を 描 い た 場 面 で あ る。 別 れ よ う に も 別 れ ら れ な い 親 子 だ っ た が、 遂 に そ れ ぞれの道を行くことになる。一連の場面を総括して、語り手は「哀レ也シ父子ノ別也」と感慨を述べている。そのため、 語り手はこの親子の別れを「哀れ」なものとして描こうとする意思があったことがわかる。これは〈理〉⑧の描写でも

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

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う か が え る こ と で、 〈 理 〉 ⑧ で の〈 理 〉 が「 哀 れ 」 と い う 感 情 を 前 提 に し た も の よ う に 感 じ ら れ る 箇 所 で も あ る。 〈 理 〉 と〈哀〉の関係を考察する上では重要な場面であるといえよう。

④鎌田と波多野の問答 七 条 朱 雀 ニ テ、 車 ヨ リ 輿 ニ 乗 移 ラ セ 奉 ラ ン 所 ニ テ、 「 不

知 テ、 ヤ ハ ラ 御 頸 ヲ 可

切 」 ト、 鎌 田 ガ 計 ケ レ バ、 波 多 野 次 郎 ガ 云 ケ ル ハ、 「 イ カ ニ、 鎌 田 殿。 カ ヽ ル 無

情 事 ヲ バ 計 申 候 ゾ。 八 幡 殿 ト、 朝 家 ノ 御 護 ニ テ 渡 セ 給 判 官 殿 ノ 御 座 セ バ コ ソ、 其 子 ニ テ、 殿 ハ 大 将 ヲ モ 承 テ、 朝 恩 ニ モ ホ コ ラ セ 給 ヘ。 父 ノ 御 座 セ バ コ ソ 人 共 ソ ダ ヽ セ 給 ヘ。 何事ノ恨ノ御座トテモ、正シキ親ニツラク当リ給ベキ事ハ無物ヲ。然モ是ハ、公ノ敵ニ成セ給ヌレバ、互ニ御遺恨 ヲ結バセ給ベキニアラズ。人ノ身ニハ一期ノ終ヲ以一大事トスルニ、ヤミ〳〵トシテ失奉バ、後生菩提モ徒ニ成セ 給 ベ シ。 此 事 ヲ 顕 シ 申 テ、 仏 ノ 御 名 ヲ モ 唱 ヘ サ セ 進 セ タ ラ バ コ ソ、 親 子 ノ 情 モ 主 従 ノ 哀 モ ア ラ ン ズ レ 。 昔 ヲ 思 バ、 伊予殿、相模殿ト申シ時、仕レ始テ、其御子ニ八幡殿ヲ主ト頼奉テヨリ以来、八幡殿ノ御子ナレバ、入道殿モ我等 ガ主、其御子ナレバ、頭殿モ我等ガ主、相伝ノ主ニ此事知セ奉ラザランコソ罪深ケレ。此事申テ、最後ノ十念ヲモ 進奉バヤ」ト申バ、 (後略) (下巻「為義最後ノ事」一〇〇~一〇一頁)

④の〈哀〉は、語り手ではなく波多野の口から発せられたものである。他の〈哀〉はすべて語り手によるものなので、 その点において④は他の例とは違う特質がある。また、文脈を考えると④の〈哀〉は所謂「哀れ」という感情を述べた ものではないように思われる。これにより、④は他の〈哀〉とは違い、個別的な考察を行う必要があろう。

⑤自らの処刑を知らない四人の子供 波多野次郎承テ、五十騎計ノ勢ニテ、六条堀川ノ為義法師ガ宿所ニ行向。母上ハ物詣シテ無リキ。当腹ニ、十三ニ 日本文学ノート   第五十五号

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成 ル 乙 若 殿、 十 一 ニ 成 ル 亀 若 殿、 九 ニ ナ ル 鶴 若 殿、 七 ニ 成 天 王 殿 ト テ 四 人 有 ケ ル ヲ、 波 多 野 次 郎 申 ケ ル ハ、 「 今 日 又、 都 ニ 軍 ア ル ベ シ ト テ、 入 道 殿 ハ 船 岡 山 ニ 籠 ラ セ 給 テ 候 ガ、 『 君 達、 皆 具 シ 進 テ 参 』 ト 候 ツ ル 也。 疾 々 御 輿 ニ 奉 ツレ」ト申セバ、四人ノ子共、今度ノ軍ノ後ハイマダ父ヲモ見ズ、出家トハ聞ケ共、替レル姿モ見ザリケレバ、呼 ト 聞 ウ レ シ サ ニ、 我 前 ニ 乗 ラ ン ト、 輿 ノ 中 ヘ 争 イ 入 コ ソ 無 懺 ナ レ。 道 ス ガ ラ モ、 音 々 口 々 ニ、 輿 舁 共 ヲ、 「 遅 シ ヤ 〳〵」ト勧メケルコソ墓ナケレ。羊ノ歩ノ近付共、 知ラザリケルコソ哀ナル 。 (下巻「義朝ノ幼少ノ弟悉ク失ハルル事」一〇六頁)

⑤は、為義の子供たちの中でも幼い乙若を始めとした四兄弟に関する場面である。四人の子供たちを連れ出す際、波 多 野 は「 今 日 又、 都 ニ 軍 ア ル ベ シ ト テ、 入 道 殿 ハ 船 岡 山 ニ 籠 ラ セ 給 テ 候 ガ、 『 君 達、 皆 具 シ 進 テ 参 』 ト 候 ツ ル 也。 疾 々 御輿ニ奉ツレ」という嘘をつく。この時点で為義は斬首されているので、為義が子供たちを呼ぶことはない。だが、そ れを知らない四人は喜び、自分たちの処刑場に向かっている輿を急かす。その様子に語り手は〈哀〉と述べている。

⑥乳母の嘆き 乙 若 申 ケ ル ハ、 「 ア ノ 幼 物 共 ノ 髪 ノ 乱 テ 顔 ニ 懸 リ テ、 暖 ゲ ナ ル ハ、 押 上 テ、 冷 シ ゲ ニ 結 ヘ。 頸 ノ ア タ リ 汗 巾 ヘ。 顔 能巾ヘ。死テ後ハ、面能ク洗テ、髪能摩付テ、本結能シテ、左馬頭ニハ見セ申セ、義通。サスガニ我等ガキタナゲ ナラバ、片腹イタク思ハンズル」ト云ケレバ、四人子共ノ乳母共、皆一人ヅヽ付タリケリ。乙若殿ニハ源八、亀若 殿 ニ ハ 五 藤 次 付 ク。 鶴 若 殿 ニ ハ 吉 田 四 郎 付 ク。 天 王 殿 ニ ハ 内 記 平 太 ト テ 付 テ、 面 々 ニ 有 ケ ル ガ、 前 々 ニ 舁 居 ヘ テ、 髪摩テ、高ク押上テ結、頸当リノ汗巾ケリ。是等ガ涙ノ勧メ共、幼人共ニ知セ進セジトテ、声ヲ頻ニ押ヘケリ。 絶 ヌケシキゾ哀ナル 。 (同、一〇九頁)

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

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⑥は四人の子供たちが処刑される直前の場面である。乙若は、自分たちが死んだ後の乱れたままの姿を義朝に見られ たくはないと言って、それぞれの乳母に整えさせる。普段は日常の世話をしていた乳母たちが、今は子供たちが死に向 かうための準備をしている。乳母たちはその現実に涙するが、それを四人に悟られまいと声を抑える。その状況を、語 り手は〈哀〉としている。 ⑤⑥に共通するのは、既に「哀れ」な状況に対して語り手が〈哀〉と評していることである。⑤⑥は幼い子供たちの 処刑を描いた場面であり、仮に語り手の誘導が無かったとしても凄惨且つ悲惨な状況である。だが、語り手は⑤⑥それ ぞれの評語において、 〈哀〉を用いている。そのため、 『保元物語』の語り手は、幼い子供たちの処刑を「哀れ」に語ろ うとする意識の他に、 「評語」の言葉として〈哀〉を用いる傾向があるのではないか、ということがうかがえる。

⑦忠実の心中 鳥 羽 殿 ニ ハ、 故 院 ノ 旧 臣 達 被

申 ケ ル ハ、 「 ヨ ニ ヲ ビ タ ヽ シ ク 聞 ヘ シ 内 裏 モ 別 ノ 御 事 渡 セ 給 ズ。 又、 京 中 モ 亡 ズ。 誠 ニ 神 明 ノ 御 助 ト 覚 ヘ タ リ。 末 代 モ 猶 憑 シ。 新 院 被

流 サ セ 給 ヌ。 其 外 ニ モ 十 四 人 ヲ 国 々 ヘ 分 チ 遣 ス。 即 礼 義 ノ 郷 ヲ 出 テ、 各 無 智 ノ 俗 ニ 移 リ タ リ。 妻 ハ 夫 ニ 別 レ、 子 ハ 父 ニ 別 レ、 親 昵 モ 不

随、 主 従 ニ モ 各 別 也。 別 行 悲、 残 留 ル 歎、何モ由ヲロカナラジ。 中ニモ宇治禅閤ノ思コソ哀ナレ 。憑奉ラセ給ツル左府ニハヲクレ奉給ヌ。御心ヲ憑ミ給 ツル左府ノ君達ハ配所ヘ趣給ヌ。命ノ長キモ由無事也」トゾ申合レケル。 (下巻「左府ノ君達

謀反人各遠流ノ事」一二七頁)

⑦は、 保元の乱が終わった後の世評を語る場面において、 鳥羽院の旧臣たちが口にしていた〈哀〉である。この〈哀〉 は頼長、忠通の父親である忠実に向けられた感慨である。溺愛していた息子である頼長は既に故人となり、頼長の子供 たち(忠実にとっては孫にあたる)も流罪となった。忠実は都に一人残されることになり、それに対して鳥羽院の旧臣 たちは〈哀〉と述べている。 日本文学ノート   第五十五号

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こ の 世 評 を 語 る「 故 院 ノ 旧 臣 」 は、 そ れ が 具 体 的 に 誰 な の か、 と い う こ と ま で は 明 確 に な っ て い な い。 し た が っ て、 ⑦は登場人物の姿を借りて語り手が〈哀〉と述べている箇所だと考えられる。

⑧崇徳院の火葬 其 時、 御 蔵 ト 思 シ キ 物 立 タ リ ケ レ バ、 其 ニ 申 ケ ル ハ、 「 我 ハ 都 ニ サ ブ ラ ヒ テ、 常 ニ 召 被

仕 シ 伶 人 是 成 ト 申 者 ガ、 今ハ法師ニ成テ、蓮如ト申也。爰ニ候物ヲ進セバヤ」ト申セバ、取テ進セタリ。歌ヲゾ読テ進セタル。 アサクラヤ木ノマロ殿ニ入ナガラ君ニ知レデ帰ルカナシサ 御返事ヲ給テ、月ノアカキニ拝見スレバ、 アサクラヲ只イタヅラニ帰ニモツリスル海士ノネコソ泣ルレ 蓮如、是ヲ顔ニ当テテ泣々京ヘ上ニケリ。八年ト申シ長寛元年八月廿六日、御歳四十五ト申シニ、讃岐国府ニテ 御隠レアリヌ。当国之内、白峰ト云所ニテ、薪ニ積ミ籠奉ル。 煙ハ都ノ方ヘゾ靡キヌラムトゾ哀レ也 。 (下巻「新院血ヲ以テ御経ノ奥ニ御誓状ノ事

崩御ノ事」一三四頁)

⑧は崇徳院に向けられた〈哀〉である。保元の乱に負けたことで讃岐へ流罪となった崇徳院は、その地で生涯を終え ることになる。崩御する前、崇徳院は望郷の念が強かったことと、それを後白河院に蔑ろにされたことによって生きた まま怨霊化している。そのような経緯もあったためか、 火葬された煙が都の方角に靡いたという。それに語り手は〈哀〉 と述べている。この点からみて、語り手は怨霊化した崇徳院に同情・共感を示していることが明らかである。乱の発端 部において、崇徳院が恨みを募らせたことを〈理〉としていたように、ここでも語り手は崇徳院の思いを〈哀〉として い る。 そ の た め、 こ の 場 面 の〈 哀 〉 は 語 り 手 の 視 点 と、 〈 理 〉 と〈 哀 〉 の 関 係 に つ い て、 と い う 二 つ の 重 大 な 問 題 を 孕 んだ箇所だといえる。崇徳院の怨霊化は、作中でも語られているように人々に対して大きな影響をもたらした出来事で あ る。 『 保 元 物 語 』 に は 崇 徳 院 怨 霊 鎮 魂 の 目 的 が あ る、 と さ れ て い る こ と か ら み て も、 ⑧ に お け る〈 哀 〉 は 非 常 に 重 要

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

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だと考えられる。 『 保 元 物 語 』 に お け る〈 理 〉 と〈 哀 〉 で 共 通 し て い る こ と は、 い ず れ も 物 語 に お け る 重 大 な 局 面 や 行 為・ 判 断・ 出 来 事 等 が 扱 わ れ た 時 に 用 い ら れ て い る、 と い う こ と で あ る。 ま た、 語 り 手 に よ っ て〈 理 〉 と〈 哀 〉 と 述 べ ら れ た こ と に よ っ て、 同 情 や 共 感 を 向 け ら れ て い る 人 物 が い る。 そ れ ぞ れ に 直 接 的・ 間 接 的 と い う 違 い は あ る が、 そ の 時 の 人 物 は、 す べ て そ の 場 面 に お け る「 敗 者( 弱 者 )」 で あ る、 と い う こ と も〈 理 〉 と〈 哀 〉 で 共 通 し て い る。 こ の こ と は〈 哀 〉 と い う 言 葉 の 意 味 を 考 え た 際 に は 予 想 が つ く が、 〈 理 〉 で も 同 様 で あ る こ と が わ か っ た。 こ う し た こ と を 踏 ま え る と、 や はり〈理〉と〈哀〉には相関性があるのではないか、と思われる。 〈理〉と〈哀〉が「敗者(弱者) 」に向けられる傾向 があり、作品にとってきわめて重要な言葉であるとすれば、 『保元物語』が「敗者(弱者) 」のための物語として位置づ けられる根拠にもなろう。 さて、次節以降、他の軍記物語の〈理〉と〈哀〉がどのようなものになっているか、ということを確認する。その上 で『保元物語』でみられた〈理〉と〈哀〉の傾向は、他の軍記物語でもみられるものなのか、ということについて考察 を行っていく。

     二、 『平治物語』における〈理〉と〈哀〉

『 保 元 物 語 』 に お け る〈 理 〉 と〈 哀 〉 が ど の よ う な 特 徴 を 持 っ て い る の か、 を 考 察 す る こ と が 本 稿 の 大 き な 目 的 で あ る。 こ こ ま で の 考 察 で は、 『 保 元 物 語 』 の〈 理 〉 と〈 哀 〉 は そ れ ぞ れ 重 要 な 局 面 で 用 い ら れ て お り、 語 り 手 の 意 思 が 十 分に反映された言葉である、ということがわかった。この点を『保元物語』の特徴であると位置付けるためには、他作 品 に お け る〈 理 〉 と〈 哀 〉 が ど の よ う な 扱 い と な っ て い る の か 比 較 検 討 す る こ と が 必 要 と な る。 よ っ て、 『 保 元 物 語 』 と 同 様 に 平 安 時 代 末 期 に 起 こ っ た 戦 乱 を 題 材 と し た『 平 治 物 語 』『 平 家 物 語 』 の〈 理 〉 と〈 哀 〉 を『 保 元 物 語 』 と 比 較 することとする。本節ではまず『平治物語』を扱う。 『 平 治 物 語 』 は 保 元 の 乱 か ら 三 年 後 の 平 治 元 年 に 起 こ っ た 平 治 の 乱 を 描 い た 軍 記 物 語 で あ る。 平 治 の 乱 は、 後 白 河 院 日本文学ノート   第五十五号

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派と二条天皇派の対立から始まり、後白河院の側近である信西と藤原信頼の権力争い、保元の乱後の処遇に不満を持っ ていた源氏と平家の武力衝突に展開していく。そして、信西は自害、信頼は死罪、また源氏の頭領である源義朝は暗殺 さ れ、 子 息 の 頼 朝 は 伊 豆 に 流 罪 と な っ た。 そ の 結 果、 平 清 盛 は 権 力 を 強 め、 平 家 は 隆 盛 を 極 め る こ と に な る。 義 朝 の 妻 で あ る 常 葉 御 前( 『 平 治 物 語 』 本 文 に お い て は 一 箇 所 を 除 き「 常 葉 」 表 記 で あ る た め、 本 稿 で も そ れ に 従 う ) が 牛 若 (後の義経)を連れて清盛の前に出頭する話は有名であり、それは『平治物語』でも語られている。 『平治物語』において「理」という言葉そのものは全体で一六例あり、その中で〈理〉は六例であ る

(注8)

。以下、 『平治物 語 』 に お け る〈 理 〉 が 何 に つ い て 述 べ た も の な の か、 と い う こ と に つ い て 述 べ て い く。 な お、 『 平 治 物 語 』 本 文 の 引 用 は、 栃 木 孝 惟・ 日 下 力 他 校 註『 新 日 本 古 典 文 学 大 系

あり、引用後に示した章段名と頁数は本書に拠 る 。

(注9)43

  保 元 物 語・ 平 治 物 語・ 承 久 記 』 ( 岩 波 書 店、 一 九 九 二 年 七 月 ) で    ①同五日、左馬頭義朝が童金王丸、常葉が許に忍びて来り。馬よりくづれ落、しばしは息たえて物もいわず、ほどへ て お き あ が り、 「 頭 殿 は、 過 ぬ る 三 日 の 暁、 尾 張 国 野 間 の 内 海 と 申 所 に て、 重 代 の 御 家 人 長 田 四 郎 忠 宗 が 手 に か ゝ りて、うたれさせ給ひ候ぬ」と申せば、 常

(ママ)

盤 をはじめ、家中にあるほどの者共、声〴〵に泣かなしみける。 まこと になげくも理也 。枕をならべ、袖をかさねし名残なれば、身ひとつなり共、かなしかるべし。 (中巻「金王丸尾張より馳せ上り、義朝の最後を語る事」二二四~二二五頁)

『 平 治 物 語 』 上 巻 に お い て は〈 理 〉 が み ら れ ず、 平 治 の 乱 の 戦 い が 終 わ り、 義 朝 の 最 期 を 金 王 丸 が 常 葉 に 語 る 場 面 で はじめて出現する。 ① で〈 理 〉 と さ れ て い る の は、 義 朝 の 死 を 告 げ ら れ た 常 葉 や 家 中 の 人 間 が 声 を 上 げ て 泣 き 悲 し む こ と で あ る。 「 枕 を ならべ、袖をかさねし名残なれば、身ひとつなり共、かなしかるべし」という表現は、常葉と義朝が夫婦として過ごし た 時 間 の こ と を 指 し て お り、 「 夫 」 を 亡 く し た 常 葉 の 悲 し み が 強 調 さ れ て い る。 そ の た め、 こ の 場 面 に お け る〈 理 〉 は

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

(24)

「哀れ」という感情も孕んでいるように考えられる。

② ( 金 王 丸 の 語 り ) 去 年 十 二 月 廿 九 日、 尾 張 国 野 間 の 内 海、 長 田 庄 司 忠 宗 が 宿 所 へ つ か せ 給 ひ 候 ぬ。 此 忠 宗 は、 御 当 家重代奉公人なるうへ、鎌田兵衛が舅なれば、 御頼あるもことはり也 。 (同、二二九頁)

② は、 ① の 場 面 に 引 き 続 い た 箇 所 で あ る。 金 王 丸 が 義 朝 の 最 期 を 語 り 聞 か せ る と こ ろ で、 〈 理 〉 が 用 い ら れ て い る。 なぜ義朝が長田忠宗を頼ったのか、ということが述べられており、それは長田が鎌田の舅だったから、という理由であ る。 そ の た め、 何 の 疑 い も な く 長 田 を 義 朝 が 頼 っ た の も〈 理 〉 だ、 と 述 べ ら れ て い る。 こ の こ と か ら、 ② の〈 理 〉 は 「もっともである」という意味のみで用いられていることがわかる。

  ③ ( 常 葉 が 美 人 で あ る と い う こ と に 触 れ て ) あ る 人、 申 け る は、 「 よ き こ そ、 こ と は り な れ 。 大 宮 左 大 臣 伊 通 公 の、 中 宮 御所へ、見目よからん女をまいらせんとて、よしときこゆる程の女を、九重より仙人召れて百人えらび、百人より 十人えらび、十人がうちの一にて、此常葉をまいらせられたりしかば、わろかるべきやうなし。さればにや、見れ ども〳〵、めづらかなるかほばせなり。唐楊貴妃・漢李夫人が、一度咲ば百の媚をなしけんも、これには過じ」と、 たはぶれ申人もあり。 (下巻「常葉六波羅に参る事」二五九頁)

③ は 常 葉 の 容 姿 に つ い て 触 れ ら れ て い る 部 分 で あ る。 「 あ る 人 」 が 言 っ た と こ ろ に よ れ ば、 常 葉 の 容 姿 が 優 れ て い る のは「理」で、それは「大宮左大臣伊通公の、中宮御所へ、見目よからん女をまいらせんとて、よしときこゆる程の女 を、 九 重 よ り 仙 人 召 れ て 百 人 え ら び、 百 人 よ り 十 人 え ら び、 十 人 が う ち の 一 に て、 此 常 葉 を ま い ら せ ら れ た り し か ば、 日本文学ノート   第五十五号

(25)

わろかるべきやうなし。さればにや、見れども〳〵、めづらかなるかほばせなり」といった理由による。よって、③に おける〈理〉も「もっともである」という意味で捉えてよい。

④皆人はながさるゝを嘆けども、兵衛佐は悦けり。 理かな、きらるべき身がながさるれば 。され共、都の余波、せん かたなし。所々に馬をひかへ、頻に跡をぞかへり見ける。 (下巻「頼朝遠流の事

盛康夢合せの事」二六八~二六九頁)

   ④は流刑先に向かう頼朝の心情を表した場面である。頼朝以外の人間は現在の状況に嘆いていたが、頼朝は喜んでい た。語り手はそれに「理」があるとしている。本来、頼朝は処刑されるはずが助けられた立場であったからである。頼 朝 に と っ て 流 罪 と な っ た こ と は 嘆 く も の で は な く、 喜 び で あ っ た。 そ の た め、 こ の 場 面 に お け る〈 理 〉 も、 「 も っ と も である」という意味である。

⑤兵衛佐は不破の関を越て、美濃国青墓の宿を過る時、父義朝の此宿にて、兄中宮大夫進朝長を手にかけて、うしな はれけん心のうち、思しられてかなしかりけり。株川を渡りし時は、源光が舟にて下られける川なれば、しらぬ舟 人 の 漕 行 も、 心 な き 水 の な が れ も、 な つ か し く ぞ 思 は れ け る。 尾 張 国 熱 田 宮 に 着 て も、 「 故 左 馬 頭、 討 れ 給 ひ し 野 間 の 内 海 は い づ く ぞ 」 と、 所 の 者 に と ひ 給 へ ば、 「 鳴 海 瀉 を へ だ て て、 霞 わ た り た る 山 こ そ、 そ な た に て 候 へ 」 と 申 け れ ば、 心 の 中 に、 「 南 無 八 幡 大 菩 薩、 頼 朝 を 今 一 度、 世 に あ ら せ ま し ま せ。 忠 宗・ 景 宗 を 手 に か け て、 亡 父 の 草陰に見せまいらせ候はん」と、 なく 〳〵 祈誓したるこそことはりなれ 。 (同、二七二頁)

⑤は流刑先に赴く道中での場面である。親族ゆかりの場所に立ち寄った頼朝は、熱田宮において義朝が討たれた場所

『保元物語』における〈理〉と〈哀〉

『平治物語』 『平家物語』と比較して

(26)

は ど こ に あ る の か、 と 尋 ね る。 鳴 海 潟 を 隔 て た 山 が そ の 場 所 だ と 聞 く と、 頼 朝 は 父 の 敵 を 取 り た い と 心 中 で 祈 誓 す る。 そ の 様 子 に 語 り 手 は「 理 」 が あ る と 述 べ て い る。 こ こ で 語 り 手 が「 も っ と も で あ る 」 と 認 め て い る の は、 頼 朝 の「 祈 誓」という行為そのものと、敵を討つことを誓った、という内容の二つだと考えられる。

⑥大弐清盛は、尋常なる一局をしつらひて、常葉をすませてぞかよひける。むかしより今にいたるまで、賢帝も猛き 武 士 も、 情 の み ち に は 迷 て、 政 を し ら ず、 い さ め る み ち を 忘 れ け る と か や。 「 し か じ、 傾 城 の 色 に は あ は ざ ら ん に は」と、 香山居士が書置けるは理かな 。 (下巻「牛若奥州下りの事」二七五頁)

⑥は清盛の行為に対して批判を表した箇所である。清盛は常葉を側に置くことにしたが、語り手からみれば、それは 古 今 東 西 問 わ ず、 「 賢 帝 も 猛 き 武 士 も、 情 の み ち に は 迷 て、 政 を し ら ず、 い さ め る み ち を 忘 れ け る 」 こ と だ っ た。 つ ま り、清盛が色に迷い、政治の道を見失うのが世の常だ、ということである。それを踏まえ、香山居士(白居易)が書き 置いた「しかじ、傾城の色にはあはざらんには」といったことも〈理〉と述べている。これは清盛の奢った心を念頭に 置いた措辞であり、 〈理〉は「もっともだ」という意味で用いられている。 ①~⑥の〈理〉に共通しているのは、語り手が〈理〉と認めているものが登場人物の「その時々の行動」を指してい る、という点である。例えば、①において〈理〉とされているのは「常盤をはじめ、家中にあるほどの者共、声〴〵に 泣かなしみける」という、義朝が遂に討たれてしまったことで家中の人々が泣き悲しむ、という行為である。また、② は義朝と正清がなぜ長田忠宗を頼ったのか、ということに対して、忠宗が正清の舅だったので彼らが頼るのも〈理〉と している。他、③~⑥も同様に、 『平治物語』の〈理〉はその時々の行動の妥当性を認めるものとなっている。 『 保 元 物 語 』 で も〈 理 〉 と 語 ら れ た 内 容 が 指 し 示 す も の は、 そ の 時 点 で の「 そ の 時 々 の 行 動 」 で あ る こ と は 間 違 い な い。しかし、 『保元物語』では〈理〉と認めた内容がその後の展開に大きく関与していく点が異なる。つまり、 『保元物 日本文学ノート   第五十五号

参照

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