衛星通信技術を利用した新たな自動車 保険の経済分析
諏 澤 吉 彦
■アブストラクト
近年,衛星通信技術を利用して収集した被保険自動車の走行距離・場所・
時間帯に関する情報に基づいて保険料が決定されるPAYD自動車保険が導 入されている。この保険は,契約当事者間の情報不均衡によって生じる保険 契約者の逆選択およびモラルハザードの問題を縮小し,自動車保険の市場効 率性を高める効果があると期待できる。いっぽうで,その運営にかかるコス トはいまだ十分に低いとは言えず,このことが保険会社,保険契約者双方の 負担をかえって重くするおそれがある。さらに深刻な問題として,保険会社 間の競争圧力の存在が,コストを省みない過度のリスク細分化へとつながる 可能性もある。PAYD自動車保険をはじめとするリスク細分化に際しては,
過大な運営コストにより市場効率性が損なわれることがないよう,公的規制 の整備または保険会社間の調整など,なんらかの対策が必要であると考えら れる。
■キーワード
PAYD自動車保険,リスク細分化,市場効率性
1.はじめに
自動車保険市場に大きな変化をもたらした1998年の損害保険料率算出団体
*平成19年6月16日の日本保険学会関西部会報告による。
/平成20年2月27日原稿受領。
制度改革から10年が経過しようとしている。その間,いわゆるリスク細分型 自動車保険をはじめ,保険会社の提供する自動車保険商品の価格および補償 内容の多様化が進んでいる。
このようなリスク細分化が最も進行した自動車保険として,わが国におい ても近年販売が開始された衛星通信技術を利用した自動車保険が挙げられる。
これは,保険会社が個々の被保険自動車の走行距離,走行場所および走行時 間帯などをリアルタイムで把握し,これらの情報に基づいて,徴収する保険 料を決定するものである。同様の自動車保険は,既にイギリスおよび米国な どにおいて導入されており,直近の走行距離などにより保険料が計算される という仕組みから,一般にPay‑As‑You‑Drive自動車保険(以下,PAYD 自動車保険という)と呼ばれている。
PAYD自動車保険に代表されるようなリスク細分化の進行は,果たして 自動車保険市場の効率性を高めるものであるのか,また,保険契約者および 保険会社をはじめとする保険契約当事者にどのようなベネフィットをもたら し,反対に彼らにどのようなコスト負担を課すものであるのか。本稿におい ては,PAYD自動車保険が,保険市場に非効率性をもたらす逆選択とモラ ルハザード をどのように縮小するのか,そして,自動車保険契約の取引コ ストにどのような影響を及ぼすのかを明らかにしていく。さらに,このこと をとおして,自動車保険市場における保険料率規制と競争のあり方について,
経済学的視点から検討する。
2.PAYD 自動車保険の仕組みとそれを巡る議論
PAYD自動車保険は,過去の走行距離に基づいて保険料を決定する自動 車保険として,1990年代はじめにイギリスおよび米国に登場した。当初は,
1) 奥野・伊藤・今井・西村・ 木訳(1997),p.181では,モラルハザードを 保 険加入によって保険会社の負担が増える方向に人々の行動が変わるという傾 向 であると定義している。本稿においてもこれに従い,モラルハザードを経 済学的な視点から,情報不均衡のために取引当事者の一方の行動が,他方の損
オドメータを利用して,保険会社が半年または1年ごとに契約者の走行距離 を確認し,保険料計算を行っていたが,Rea(1992)が指摘しているように,
運営コストが大きいなどの理由から普及は遅れていた 。しかしながら,
2000年以降の衛星通信技術の飛躍的発展を受けて,これを利用した試みがな さ れ る よ う に な る。例 え ば,2003年 に は,イ ギ リ ス に お い てNorwich Union Insurance Companyが,衛星通信により走行距離をリアルタイムに
把握し,それを保険料に反映させるプログラムを導入し,米国においても Progressive Insurance CompanyやPlymouth Rock Insurance Com- panyなどが同様の自動車保険の引き受けを開始している 。やや遅れて日 本においても,あいおい損害保険株式会社が,PAYD自動車保険を販売し て い る 。PAYD自 動 車 保 険 の 仕 組 み を,Norwich Union Insurance Companyの例をとおして見ると,保険会社は,被保険自動車の走行距離,
走行場所,走行時間帯などに関する情報 を,衛星通信技術を用いてリアル タイムに把握し,これを記録する。そして直近1か月間のこれらの情報の記 録から被保険自動車のリスク水準を判定し,翌月の適用保険料を計算すると いうものである 。
このようなPAYD自動車保険については,イギリスおよび米国などにお いて様々に議論されているが,その利点および問題点を,Edlin(2003),
Litman(2004)およびParry(2005) の議論に基づいて整理すれば,以下 のとおりとなる。すなわち,PAYD自動車保険の利点としては,⑴保険料
2)
Rea
(1992),pp
.379‑383.3)
Litman
(2007),pp
.23‑24.4) わが国においては,保険業法施行規則第12条により,使用可能なリスク指標 が制限されているが,この
PAYD
自動車保険は,使用可能なリスク指標の使用類型 にあたるとされる。
5) 被保険自動車がより頻繁に走行したのが日中なのか夜間なのか,都市中心部 なのか郊外なのかなどの情報により,リスク水準を判定するものである。
6)
Association of British Insurers
(2006),pp.12‑21.
7)
Edlin
(2003),pp
.53‑57,Litman
(2004),pp.8‑14, Parry
(2005),pp
. 4‑6.負担の公平性の向上,⑵不必要な自動車使用の減少,そして⑶一部の運転者 層に対する自動車保険の入手可能性の向上が挙げられる。いっぽうで,問題 点としては,⑷一部の運転者層に対する自動車保険の入手可能性の低下,⑸ 既存のリスク判定指標との重複による非効率の増大,⑹運転者のプライバシ ー侵害,そして⑺過大な運営コストなどが挙げられる。上記⑴については,
運転者の年齢や性別,車庫所在地など主に外形的な指標を用いてリスク判定 を行っていた従来の自動車保険に比べ,より高い精度でこれが行われること により,低リスク運転者から高リスク運転者への保険料の内部補助が縮小す るというものである。⑵については,走行距離抑制への運転者のインセンテ ィブが働き,その結果,自動車事故の減少,交通渋滞の緩和,さらには環境 汚染の緩和などが期待できるというものである。⑶については,従来のリス ク判定では高リスクと判定され自動車保険の入手が困難であった運転者であ っても,走行距離が短ければそれだけ保険料が低廉化し,入手可能性が高ま り,無保険運転者の減少につながるというものである 。反対に,上記⑷の ように,走行距離の長い運転者の保険料は上昇し,自動車保険の入手可能性 が損なわれるのではないかという議論もなされている。また,⑸のように運 転者の年齢・性別・車庫所在地などの既存のリスク指標と重複的であるとい ったものや,⑹のように運転者のプライバシーを侵害するものであるという 問題も指摘されている。さらに,上記⑺は,衛星通信技術の利用や収集した 情報に基づく保険料計算に過大なコストがかかるため,かりに低リスクと判 定されたとしても,保険料の引き下げ幅は限定的とならざるを得ず,かえっ て非効率を生じさせているのではないかというものである。
PAYD自動車保険の市場効率性への影響を考えるとき,これらの議論の なかでも,とくに⑴保険料負担の公平性の向上,⑵不必要な自動車使用の減 少,そして⑺過大な運営コストが重要となる。すなわち,⑴の議論は,高い
8)
Litman
(2004),pp
.8‑9. ここでは,自動車保険の購入が困難な低所得者層 は走行距離が短い傾向があるため,PAYD自動車保険が導入されればこれら精度でリスク細分化を行うことが可能なPAYD自動車保険の導入が,逆選 択の縮小につながることを意味している。また,⑵は,PAYD自動車保険 が厳格なリスク細分化とモニタリングによって自動車運転者のモラルハザー ドを縮小し得るものであると解釈することができる。いっぽうで,⑺の議論 は,PAYD自動車保険が,その契約にかかる取引コストを増大させ,逆選 択およびモラルハザードの縮小による市場効率性向上を相殺し,場合によっ てはかえって非効率をもたらすものであることを指摘していると見ることが できる。このことを踏まえ,次節においては,とくに逆選択,モラルハザー ド,そしてその運営にかかるコストに注目し,PAYD自動車保険の市場効 率性への影響について検討する。
3.PAYD 自動車保険のベネフィットとコスト
Doherty(2000)が指摘しているように,逆選択とモラルハザードはとも に保険契約の取引コストを増大させる要素である 。これらが顕在化するこ とを防ぐために,保険会社は,保険契約者に対してリスク細分化やモニタリ ングを行っていると見ることができるが,このような措置を行うには多くの 場合コストがかかる 。このコストは,保険契約にかかる取引コストとして,
最終的に保険会社と保険契約者の間で負担し合わなければならない。以下で は,PAYD自動車保険が,そのリスク細分化やモニタリングの機能をとお して逆選択とモラルハザードを縮小し得るものなのか,そしてそのためのコ ストが市場効率性を向上させ得るほど低いものであるのかについて検討する。
⑴ リスク細分化による逆選択の縮小
逆選択の問題は,保険契約申込者と保険会社の間の情報不均衡により,自 動車保険市場にも常に潜在するものである。すなわち,契約申込者が,自ら のリスク水準を知り得る立場にあるのに対して,保険会社は,それを十分知
9)
Doherty
(2000),pp.61‑81.
10) 米山・箸方監訳(2005),pp.295‑303。
りえない。かりに保険会社が全ての契約申込者に対して同一の保険料を適用 したなら,高リスクの者にとってその保険カバーは割安に,低リスクの者に とっては割高となり,その結果,保険契約ポートフォリオが,高リスク契約 者のみによって構成されることとなる。いっぽうで,保険会社がリスク細分 化を行うことにより,個々の契約申込者のリスク水準を高い精度で測定し,
それに見合った保険料を適用すれば,このような逆選択の問題は縮小され る 。しかしながら,ここで問題となるのが,リスク水準判定の精度と,そ のためのコストがトレードオフの関係にあることである。すなわち,保険会 社が契約申込者のリスク水準を正確に判定しようとすればするほど,それに かかるコスト負担が増大する。そして,リスク水準判定の限界コストが,逆 選択の縮小による限界ベネフィットを超えた場合,市場全体の効率性を損な うことにもつながりかねない。
このようなリスク細分化が効率性に与える影響について,Harrington and Doerpinghaus(1993) は,仮 説 的 補 償 テ ス ト(Hypothetical Com-
pensation Test)に基づいて分析を行っている。すなわち,高リスク運転 者と低リスク運転者の数が等しいこと,両者の保険需要曲線が同一であるこ と,保険への加入が任意であること,リスク区分以外に保険会社の事業費が かからないことを前提とした場合,情報不均衡があっても,リスク区分に利 用する指標が運転者のリスク水準と正の相関があり,その指標に関する情報 が十分に低コストで入手可能であれば,保険料に較差を設けることは,これ を行わない場合よりも効率的であるとしている。この仕組みは,図1を用い て説明することができる。保険契約に対する需要曲線を保険契約数と保険料 水準の関係から表すと,リスク区分を行わない場合,全ての運転者に対する 保険料水準は,運転者1人あたりの保険金支払額の期待値Pとなる。これ 11) 米山・箸方監訳(2005),p.301では,契約申込者の 期待保険金コストを,
コストをかけずに知ることができるのであれば(中略)逆選択の存在する余地 はなくなる と述べると同時に, 実際には,リスク区分にはコストがかかる ことも指摘している。
を高リスク運転者のグループと低リスク運転者のグループに区分し,保険料 を各グループの運転者1人あたりの期待支払保険金(P,P)に等しくな るように設定したとしよう。契約締結が任意である保険カバーの需要曲線
(D )は右下がりであり,低リスク運転者の厚生獲得分(台形CDGHの面 積)は,高リスク運転者の厚生喪失分(台形CDEFの面積)を埋め合わせ るに十分大きい。このため,コストがかからないリスク区分を行うことが可 能であった場合,運転者集団全体の厚生は増大することがわかる。
図1 保険料水準と運転者の厚生
D
:保険カバーに対する需要曲線P
:低リスク運転者1人当たりの保険金支払額の期待値(低リスク運転者の保 険料)P
:高リスク運転者1人当たりの保険金支払額の期待値(高リスク運転者の保 険料)P
:全運転者1人当たりの保険金支払額の期待値(リスク区分のない場合の保 険料)P
:有コストのリスク区分が行われた場合の低リスク運転者の保険料Harrington and Doerpinghaus
(1993),p.71をもとに作成。しかし現実には,保険会社が運転者のリスクに関する情報を無コストで入 手できることは通常なく,そのためのコストを負担しなければならない。運 転者のリスク判定が,例えば従来からリスク指標として利用されている年齢 のように外形的に容易に確認可能なものであればコストは低いが,自動車の 走行距離や使用目的,使用頻度などを問う場合,運転者の申告が実態に合致 したものかどうかを確かめるためには少なからぬコストが必要であろう。
Crocker and Snow(1986)は,リスクに関する情報収集のためのコストの 存在が,リスク細分化の効率性向上への効果を不明瞭にしていることを強調 している 。つまり,保険会社が情報の精度を向上させようとするあまり過 大なコストをかければ,市場全体の厚生は損なわれ効率性が下がることにな る。
Harrington and Doerpinghaus(1993) は,有コストのリスク区分につ いても,前述のモデルを使って分析している。例えば,使用目的や事故歴を リスク指標として用いた場合,情報収集のためのコストが高くなるおそれが ある。このように運転者集団から低リスクの者のみを選別するためにコスト がかかる場合,そのコストの存在により低リスク運転者の保険料引下げは,
図1においてP の水準までとなる。すると,低リスク運転者の厚生獲得分
(台形ABCDの面積)は,高リスク運転者の厚生喪失分(台形CDEFの面 積)より常に大きいとは限らなくなる。もし,ABCD<CDEFとなれば,
リスク区分がかえって市場全体の厚生を低下させ,効率性を損なうこととな る。
以上の議論を行ったうえでPAYD自動車保険を考えた場合,それは自動 車保険市場の効率性を高めるものであろうか。従来のリスク区分に用いられ てきた年齢,性別,車庫所在地などは契約申込時に証明書類などより比較的
13)
Crocker and Snow
(1986),pp.335‑338. ここでは,Miyazaki型 Wilson
均衡モデルに基づいて,有コストでリスク区分が行われることにより,効率性 向上が損なわれることが分析されている。容易に確認が可能であり,そのコストは十分に低いと考えられるいっぽうで,
これらの指標は運転者のリスク水準を必ずしも正確に表しているとはいえな い。反対にPAYD自動車保険では,従来のリスク指標と比べて情報不均衡 が大きく解消される いっぽうで,そのためのコストは,契約時に外形的に 観測可能な指標に基づくリスク区分に比べて,必ずしも低いとはいえない。
前述のとおり,かつてはオドメータの記録を定期的に確認するためのモニタ リングコストの存在が,保険会社にPAYD自動車保険の導入を躊躇させて いた 。現在においては,衛星通信技術の利用により,迅速なモニタリング は可能となったが,Litman(2007)が指摘しているように,その運営コス トは,いまだ十分に低いとはいえない 。実際に米国のProgressive Insur- ance Companyのように,いったんPAYD自動車保険の販売を開始したも のの,その運営にかかるコストが大きすぎることが障害となり,取扱いを停 止した例も見られる。以上のように,PAYD自動車保険は,リスク細分化 により逆選択を縮小するいっぽうで,その効果が,過大な運営コストにより 不明瞭となるおそれがあるといえる。
⑵ モニタリングによるモラルハザードの縮小
保険契約の取引コストを増大させるリスク要素として,逆選択とならんで 重要なものがモラルハザードである。保険契約者が損失防止・縮小のために 安全努力水準を引き上げるには,そのためのコストを負担しなければならな い。いっぽうで,保険契約者は保険契約の提供するカバーの範囲において損 失負担を免れる。このため,保険契約者は,追加的コストを負担してまで,
安全努力水準を引き上げるインセンティブを失うことになる。
このような保険契約におけるモラルハザーを防止する機能を有する保険料
15)
Litman
(2004),p
.6では,多くのPAYD
自動車保険が最も重要視してい る走行距離が,衝突による保険金請求件数と正の相関にあることを示している。16)
Rea
(1992),pp
.379‑383.17)
Litman
(2007),pp
.26‑27.率体系としては,経験料率の一形態である事故・無事故割増引制度が,従来 からわが国および諸外国において広く用いられてきた。事故・無事故割増引 制度においては,今期の保険成績により次期の保険料が決定されることから,
運転者は適用される保険料をより低く抑えるため事故を起こさないよう安全 努力水準を引き上げることが期待できる。経験料率のモラルハザードへの効 果については,これまでの多くの研究がなされてきた。たとえばDoer- pinghaus and Moor(1994)は,経験料率を組み入れた自動車保険契約の モラルハザード縮小の効果をシミュレーションをとおして検証しており , またChiappori and Salanie(2000)は,実際の市場データを用いてこれを 分析している 。いずれの研究も,事故・無事故割増引制度は,適切な割増 引水準とその適用ルールが設けられれば,モラルハザードの問題を効果的に 縮小すること示唆している。
この事故・無事故割増引制度が効率性向上に貢献するためには,保険会社 が低コストで運転者の正確な事故歴・無事故歴に関する情報を入手すること が前提となる。事故を起こした運転者の一部は,割増適用とならないため保 険会社を変更しようとすることが考えられ,これに対処するためには,前契 約の適用割増引率や事故件数などの情報を保険会社間で交換することが必要 となる。実際には,わが国をはじめ同様の割増引制度を採用している欧州大 陸諸国においては,保険会社が共同でデータベースを構築し相互に利用する 仕組みがとられている場合が多い。しかしながら,その仕組みを運営するた めのコストが大きすぎた場合,モラルハザード防止効果を相殺する事態とな るかもしれない。
PAYD自動車保険のモラルハザード縮小の効果は,どうであろうか。
PAYD自動車保険は,前述のとおり走行距離・場所・時間帯により次期の保 険料が決定されるため,保険契約者または被保険自動車の運転者は,保険料 節約を意図して走行距離を短縮し,交通密度の高い場所や時間帯での走行を
18)
Doerpinghaus and Moor
(1994),pp
.95‑103.回避しようとすると考えられる 。すなわちPAYD自動車保険は,そのモ ニタリング機能により,保険契約者の安全努力水準向上へのインセンティブ を高め,モラルハザードを防止する機能を有していると見ることができる。
しかも,事故・無事故割増引制度が運転者の過去のリスク実態に基づいてい るのに対し,PAYD自動車保険は,被保険自動車のリスク実態を保険料水 準に,ほぼリアルタイムで反映させるものであり,モニタリングによる事故 発生防止効果がより短期間に現れると考えられる。しかしながら,ここでも 問題となるのが,それにかかるコストである。前述のとおりPAYD自動車 保険は,必ずしも十分に低コストで運営可能であるとは言えず,それが保険 会社にとっては高い事業コストの負担として,契約者にとっては高い付加保 険料の負担というかたちで,保険契約当事者の負担を重くするおそれもある。
このように保険契約の取引コストが過大となった結果,モラルハザードの縮 小というベネフィットを相殺する事態となるかもしれない。
4.PAYD 自動車保険とクリームスキミング
これまでPAYD自動車保険について,逆選択とモラルハザードを防止す る効果と,運営にかかるコストとのバランスに注目して議論してきた。かり に,すべての保険会社が,十分な先見性を有し,常に経済合理的に行動する なら,保険料率規制が不在であり自由なリスク細分化が可能であったとして も,彼らはそれによるベネフィットとコストを比較し,利益をもたらさない 高コストのリスク区分を採用することを思いとどまるだろう 。しかしなが
20) 実際の
PAYD
自動車保険の適用保険料計算方法・過程は複雑であり,それ に関する十分な情報を契約者が持つことは困難であると考えられる。しかしな がら,契約者は,走行距離・場所・時間帯など,保険会社が保険料計算に用い る要素については,知り得る立場にあるといえ,このことからPAYD
自動車 保険にもモラルハザードの問題を縮小する機能があると考えられる。21) 実際にはわが国を含む多くの法域において,自動車保険のリスク区分に使用 できる指標に制限が設けてられており,これが,保険会社の際限のないリスク 細分化に歯止めをかけている。
ら,現実の市場においては競争圧力が存在することを無視してはならない。
以下では,他の競争者に先駆けて低リスク契約者を獲得しようという競争圧 力が保険会社の行動に及ぼす影響を分析し,PAYD自動車保険によるクリ ームスキミングの可能性について検討する。
⑴ 競争圧力下におけるリスク細分化
保険会社がリスク細分化を行う目的のひとつに,優良リスクの選別が可能 であり,競争者が未使用のリスク指標を導入することにより,保険金支払の 可能性の小さい,よりリスクの低い契約者集団をいち早く獲得することが挙 げられる。ある保険会社が,このような新たなリスク指標を導入すると,他 の保険会社もこれに追従しなければ,残余の高リスクの契約集団を抱え込む ことになる。このため,コストを考慮することなくリスク細分化を行う事態 となり得る。このようにして生じたリスク細分化にかかる追加的な取引コス トは,最終的に保険契約の当事者間で負担することになり,市場全体の効率 性は損なわれる。
このようないわゆるクリームスキミングの問題については,Hoy(1982)
がRothschild and Stiglitzの分離ナッシュ均衡(Separating Nash Equi- librium)モデルに基づき議論している 。Rothschild and Stiglitz(1976)
は,低リスクおよび高リスクの契約申込者にそれぞれ一部保険,全部保険の 選択肢を提示することで,契約申込者自らの選択により,各タイプに区分さ れるという分離均衡モデルを構築した 。これに基づけば,経済合理的に行 動する運転者は,補償範囲の選択肢が適切に用意されていれば,自らのリス クに見合ったものを,それに対して支払ってもよいと考える水準の保険料で 購入することになる。すなわち,高リスク運転者は,免責金額を低く設定し たり保険金額を引き上げたりすることにより,手厚い保険カバーを,それに 見合った比較的高い保険料で購入し,反対に低リスク運転者は,起こる可能
22)
Hoy
(1982),pp
.322‑336.性の低い事故に対して高額の保険で備えることは必要ないと判断するであろ う。このようなリスク水準による保険カバーへの選好の違いを考慮した複数 の商品を用意し,それぞれに適正な価格付けを行うことにより契約申込者の 自己選択を機能させ,低リスク運転者と高リスク運転者を,両者の厚生を損 なうことなく分離することが可能であるかもしれない。しかし,Rothschild and Stiglitzのモデルは単一期間契約を前提とし,また競争者の存在を考慮
していなかった。Hoy(1982)は,このモデルの多期間化を試みており,そ の検討のなかで,クリームスキミングのメカニズムについて言及している。
これは,図2のとおり表すことができる。
図2 クリームスキミングのメカニズム
W
:事故が発生しなかた場合の財産d
:事故発生の場合の損失額AP
:リスク区分を行わない場合の適正価格線AP
:リスク区分を行う場合の低リスクタイプの適正価格線AP
:リスク区分を行う場合の高リスクタイプの適正価格線U
:低リスクタイプの無差別曲線U
:高リスクタイプの無差別曲線Hoy
(1982),p.325をもとに作成。x軸にW (損失発生前の運転者の財産)を,y軸にW (損失発生後の 運転者の財産)をとる。全部保険を付す場合,事故が発生しても発生しなく ても W =Wとなるから,その関係は起点から右上がりの45度線で表され る。
低リスクの運転者と高リスクの運転者の事故率は,それぞれpとpであ り,その関係はp<pであるとする。また,いったん事故が起これば,損 失額はともにdであるとする 。保険を付さなければ,W =W,W =W−
dとなり,それは点Aで示される。保険を付す割合が高まるにつれてその 位置は,点Aから全部保険を示す右上がり45度線に近づく 。
リスク区分を行わない場合の適正価格線(Fair Odds Line)をAPとす る 。保険会社はAPより下方において保険を提供する限りにおいて採算が 取れ,反対にAPより上方では保険を提供するインセンティブを持たない。
いっぽう,運転者を低リスクのものと高リスクのものに区分した場合,適正 価格線はそれぞれAP,APとなる 。すなわち,保険会社にとって,低 リスク運転者に対しては,より低い価格で同じ保険カバーを提供しても採算 が取れるためAPが急勾配となるいっぽうで,事故率の高い運転者に対し てはより高い価格でなければ採算が取れないため,APはなだらかとなる。
保険会社は,低・高リスクの運転者に対して,それぞれAPまたはAPより 下方で保険を提供しようとする。
他方において,運転者の保険カバーに対する無差別曲線はどうであろうか。
24) 現実には,低リスク運転者と高リスク運転者では,事故率のみならず損失額 も異なる場合があると考えられるが,ここでは単純化のため損失額は同一と仮 定した。
25) 45度線より下方では一部保険,それより上方では超過保険となる。
26) 急勾配の適正価格線は,補償内容が同じであれば,より安い保険料でそれを 提供可能であることを意味し,反対になだらかな適正価格線は,より高い保険 料でなければ採算が合わないことを意味する。
27) 適正価格線
AP
,APおよびAP
の位置関係は,低リスク・高リスク運転者 数によって決定される。両者の数が等しいときは,APおよびAP
はAPを
自らの事故率が低いことを知る低リスク運転者は,保険カバーをそれほど必 要としていない。保険カバーをより低く評価する低リスク運転者の無差別曲 線はより急勾配のU で表すことができる。これに対して,高リスク運転者 は,保険カバーをより高く評価するであろうから,その無差別曲線はなだら かなU で表すことができる。運転者はそれぞれの無差別曲線より上方で保 険が提供される限りにおいて,それを購入するインセンティブを持つ。
保険会社にリスク区分を行うことが許されていない場合,適正価格線AP と低リスク運転者の無差別曲線との接点が均衡点となり,図2における点 αにおいて保険が提供されることとなる 。ここで,保険料率規制が緩和さ れ自由な保険料率と補償内容の設定が可能となったら,どのような事態にな るであろうか。ある保険会社は,図2における点βで保険を販売すること がありえる。点βはU より下方にあるため,自らの高い事故率を知る高リ スク運転者は,保険カバーが十分でないと判断するためこれを購入しない。
いっぽうで,これはU より上方に位置するため,低リスク運転者にとって
は点αより低い価格で十分な保険カバーが得られることになる。保険会社
にとって点βは,AP の下方にあるため,低リスク運転者に保険を販売す る限りは採算がとれる。このようなことから,点βで保険を販売する保険 会社には,低リスク運転者が集中することとなる。
いっぽう,その他の保険会社は,残余の高リスク運転者のみを引受けるこ ととなるため,点αでは採算が取れなくなる。そのため,自らも同様のリ スク細分化を行わざるを得ない。こうして全ての保険会社がリスク細分化を
行い,点βで保険を販売するようになると,さらに低リスク運転者の囲い
込みを行おうとするある保険会社は,点β′で保険を販売するかもしれない。
すると,他の保険会社もこれに追従せざるを得ない。このように,保険料率
28) これは,いわゆるプール均衡と呼ばれるものである。また,全ての保険会社 が統一して運転者を低リスクと高リスクに分類した場合,保険会社の適正価格 線と,それぞれの運転者の無差別曲線が接する点で保険を販売・購入するとい う分離均衡の状態となる。
規制が不在であった場合,保険会社は低リスク運転者のみを引きつける保険 商品を設計・販売することが可能であり,他社のクリームスキミングをおそ れる保険会社が,競争圧力によって,コストを省みない過度のリスク細分化 を行う可能性がある。いっぽうで,割高な価格で過小な補償を提示された高 リスク運転者は,保険購入を躊躇することが予想され,その結果,無保険運 転者の増加といった社会的問題にもつながりかねない。
⑵ PAYD 自動車保険とクリームスキミング
以上の議論は,PAYD自動車保険についてもいえるだろうか。この保険 は,走行距離が短く,混雑を避けた場所および時間帯に自動車を利用してい る,あるいは今後そうしようと意図している運転者にとって魅力ある保険商 品となり得る。これらの運転者が低リスクであるのは明らかであり,そのた め,保険会社はPAYD自動車保険を他社に先行して導入することにより,
低リスク運転者を自らの契約集団に取り込むことができる。
しかしながら,PAYD自動車保険に不可欠である衛星通信技術はいまだ 開発途上であり,前述のとおり現状において十分に低コストで利用可能であ るとはいえない。また,収集した大量の情報に基づいて保険料を計算するた めにも,保険会社がコストを負担しなければならない。そのため,かりに PAYD自動車保険に対する保険料率規制が存在しない場合には,クリーム スキミングを目的として,コストを無視した料率体系が採用されるおそれも あり,結果的にもう一方の当事者である保険契約者の利益をも損なうことに なりかねない。
5.むすびにかえて
PAYD自動車保険は,衛星通信技術を利用して被保険自動車の走行距 離・場所・時間帯を正確に把握することにより,契約者と保険会社間の情報 不均衡を縮小し,逆選択の問題の顕在化を防ぐ機能があることが分かった。
同時に,厳格なモニタリングにより,契約者の安全努力へのインセンティブ
を高め,モラルハザードの問題を縮小する機能も有していた。いっぽうで,
PAYD自動車保険の運営コストは,必ずしも十分に低いとはいえず,それ が保険契約にかかる取引コストとして,最終的に保険契約当事者である契約 者および保険会社の負担を重くし,自動車保険市場全体の効率性を低下させ るおそれがある。さらに現実的な問題として,競争者のクリームスキミング をおそれる保険会社は,経済合理性に基づいた先見性を失い,コストを無視 したPAYD自動車保険の販売を行うおそれもある。このことが最終的に保 険会社だけでなく保険契約者の利益を損なうことは明らかである。以上のこ とから,PAYD自動車保険の導入に際しては,この保険が契約当事者にも たらすベネフィットを明らかにすると同時に,運営コストの規模が契約当事 者の取引コスト負担を重くするものでないか,さらに,クリームスキミング を目的とした過度のリスク細分化につながるものでないか,十分検証する必 要があるといえる。
以上の議論は,PAYD自動車保険に限らず,他のリスク細分化について も当てはまるものである。現在わが国においては,保険料率規制により保険 会社が自動車保険引き受けに使用するリスク指標には制限が設けられている ことは,前述のとおりである。しかしながら,将来,自動車保険市場のさら なる自由化が議論されることも考えられ,その際にも,リスク細分化により 保険契約の取引コストが過大となり,かえって市場効率性を損なうものでな いかといった点を,十分検証する必要がある。しかしながら,このことは,
自動車保険のリスク細分化に対する公的規制の必要性に必ずしも直結するも のではない。かりに,PAYD自動車保険の導入に一定の制限を設ける場合 にも,現在のわが国のように規制により行うべきか,あるいは保険会社間の 調整など他の手段をもって行うべきかについても,この保険をわが国に先立 って導入したイギリスや米国など諸外国の動向を注視しながら,今後さらな る検討が求められる。
(筆者は京都産業大学准教授)
参考 献
奥野正寛・伊藤秀史・今井晴雄・西村理・ 木甫訳 組織の経済学 ,1997年,NTT 出 版(M ilgrom,
Paul and John Roberts
,Economics, Organization &
Management, Prentice Hall
,Inc
, 1992).米山高生・箸方幹逸監訳