日 記 と 物 語 の 関 係 を め ぐ っ て
‑﹃更級日記﹄を中心に‑
伊藤守幸
寛弘五年二〇〇八年)という年はおもしろい年である。もっともここで「おもしろい」というのはあ‑までも我々
の立場からする言い方であって、むしろそれは特別な年であったと言った方がよいかもしれない。それが特別な年で
あればこそ、紫式部は、わざわざその年の秋から冬にかけての出来事を中心に据えた日記を書き記すことにもなった
のである。周知のように﹃紫式部日記﹄は、寛弘五年九月十一日の中宮彰子の出産前後の事情を記録にとどめること
を主要な執筆動機のひとつとしている作品である。しかもその執筆動機は、式部にとって内発的なものというわけで
はな‑、主家の命という外発的な動機に基づいた執筆であろうという推測もなされているように、敦成親王の誕生は、
やがて政治的に栄華の絶頂をきわめることになる藤原道長にとって、その栄華の道筋に決定的な一歩を画す重大事で
あり、なが‑記録にとどめるに値する出来事だったのである。
さて、寛弘五年という年が道長一族にとって「特別な年」であった所以はそのように理解されるとしても、我々は
何も政治史的な興味によってのみ、この年に注目しているわけではない。右に触れた中宮の出産をめぐる記事は、道
長の命による執筆であると否とにかかわらず、多分に公的な性格を有する記事とみなし得るものであり、そうした記
事を内包していることが、当代女流日記文学の世界における﹃紫式部日記﹄の特異性を際立たせる要因ともなってい
ることは、ことさら論及するまでもない周知の事実である。しかもさらに特異で奇妙なことには、この日記はそうし
た公的な性格を有する記事と同時に、いわゆる消息文部分に代表されるような、きわめて私的な感懐を述べた記事を
も併存させているのである。しかもそこに述懐される私的感懐は、大抵の場合、中宮の出産の事情を記した晴れがま
しい記事とまった‑の対照をなすかのように、深い憂愁と屈託にみちたものとなっているのである。本稿は﹃紫式部
日記﹄を論じることを目的としているわけではないので、この作品の特異な構造的二重性の問題についてこれ以上踏
み込むことはしないが、ともあれこの日記が中宮出産の晴儀の記録としてのみ自己完結しなかったおかげで、我々は
寛弘五年という年を、道長一族とはまた違った意味で特別な年として記憶にとどめることができたのである。すなわ
ち、﹃紫式部日記﹄の存在によってこの年が記憶にとどめられるとすれば、政治史的に敦成親王誕生の年として記憶さ
れることが重要なのではな‑、むしろ﹃源氏物語﹄成立の年としての文学史的記憶の方こそが問題なのである。もち
ろんそう言ったからといって、現存形態の﹃源氏物語﹄の最終的成立時点を、この日記によって確定できるというわ
けではないが、それがどのような形態としてであれ、寛弘五年という年にすでに﹃源氏物語﹄が相当にひろ‑流布し
うぷやしない始めているという事実を、我々はこの日記から知ることができるのである。そうした意味で、我々にとっては、産糞
の儀の様子を記した記事や喜色満面の道長の姿などよりも、たとえば次のような記事の方が、はるかに興味深いもの
として読まれるのである。
局に、物語の本どもとりにやりて隠しおきたるを、御前にあるほどに、やをらおはしまいて、あさらせたまひて、
みな内侍の菅の殿にたてまつりたまひてけり。よろしう書きかへたりLは、みなひき失ひて、心もとなき名をぞ
(1)とりはべりけむかし。
里から取り寄せて局に隠しておいた「物語の本ども」を、自分の留守中に道長が勝手に探し出して「内侍の菅の殿」(道長の次女研子)に献上してしまったと記すこの文章は、﹃源氏物語﹄の流布の実態を生々し‑伝える第一級の史料
とみなし得るはずである(右の文中に﹃源氏物語﹄の呼称は登場しないが、﹃源氏物語﹄作者としての紫式部の評判は
日記の他の箇所でもたびたび言及されており、従来の諸注も大方はこの「物語」を﹃源氏物語﹄と解している)。不本
意な草稿本の流布を心配する記述からは、現存の﹃源氏物語﹄の形態に関する根本的な疑問さえ喚起されそうである
が、ともあれ、日記中のい‑つかの記述を通じて、寛弘五年当時、﹃源氏物語﹄が、中宮をはじめとする女性達は言う
に及ばず、一条天皇や道長、公任といった男性達の間でもひろ‑読まれていた事実が知られるのである。
ところで、作者自身による﹃源氏物語﹄への言及が認められるという点で、この上ない史料的価値を有する﹃紫式
部日記﹄ではあるが、先にも述べたように、この日記によっても、現存形態の﹃源氏物語﹄の最終的成立時点を確認
できるというわけではない。現存する五十四帖の﹃源氏物語﹄とほぼ等しいであろう物語の存在を我々が確認できる
のは、時代はやや下るが、﹃更級日記﹄の記述を通してである。しかも、記録として残されている限りでは歴史上最初
の本格的﹃源氏物語﹄読者と言ってよい(一条天皇や道長らの発言は、記録されているといってもきわめて断片的な
ものにすぎない)菅原孝標女の生まれたのもまた、寛弘五年なのである。﹃紫式部日記﹄中の記事によって﹃源氏物語﹄の流布を具体的に確認できることから、物語成立の目処ともされてい
る寛弘五年というその年に、やがて自伝的日記の中で、自己の人生と﹃源氏物語﹄とのかかわりについて詳し‑書き
記すことになるひとりの女性が生まれ合わせているというのも、まことに不思議な偶然と言うはかない出来事ではあ
る。
‑‑をばなる人の田舎よりのぼりたる所にわたいたれば'「いとうつ‑しう生ひなりにけり」など'あはれがりめ
づらしがりて、帰るに、「何をか奉らむ。まめまめしき物は'まさなかりなむ。ゆかし‑したまふなる物を奉らむ」
よまきひつとて、源氏の五十余巻、横に入りながら'在中将tとはぎみ'せりかはtLらら'あさうづなどいふ物語ども'(2)一ふ‑ろとり入れて、得て帰るここちのうれしさぞいみじきや。
よ‑知られた﹃更級日記﹄の1節であるが'ここに言われる「源氏の五十余巻」が'そのまま現在の﹃源氏物語﹄
五十四帖に完全に対応するかどうかはにわかに断じがたい。しかし'ともか‑も寛弘五年から足かけ十四年後の治安
元年当時'菅原孝標女が入手することのできた﹃源氏物語﹄は、「五十余巻」というその巻数からしても'現在我々の
目にする物語とほぼ同じ内容を有するものであったろうとは推断されるのである。そして'この物語との出会いが'
たまたま一条朝期に生まれ合わせた一女性の生涯にとって'どれほど重大な意味を持つものであったのかということ
も'﹃更級日記﹄という作品を通じて'我々はつぶさに知ることができるのである。
五十余年の人生の回想として書きなされた﹃更級日記﹄は'決して単純な構造を有する作品ではないが'﹃源氏物語﹄
の存在が自己の人生にどのような影響を及ぼしたかという問題が'この自伝作品の重要なテーマのひとつとなってい
ることは、一読しただけでも簡単に見て取れる事実である。物語に旺惑され続けた少女が'長じて後いかなる現実に
直面し幻滅の悲哀を味わうことになったのかという'物語と現実'幻想と幻滅の関係をめぐる事の次第としてこの作
品を読めば、西欧の近代小説の発見したテ
ー
マ(というより'小説というジャンルの成立そのものが'そうしたテー
マの発見と切り離せないのだが)をはるかに先取りしているようでもあるが'その種の問題意識そのものは'実はす
でに﹃晴輪日記﹄によって提示されていたものでもあった。﹃晴蛤日記﹄の序文は、あたかも反物語の宣言文とでもい
ったような体裁を口王している。
か‑ありし時過ぎて、世の中にいとものはかな‑、とにもか‑にもつかで、世に経る人ありけり。かたちとて
も人にも似ず、心魂もあるにもあらで、かうものの要にもあらであるも、ことわりと思ひつつ、ただ臥し起き明
かし暮らすままに、世の中におはかる古物語の端などを見れば、世におはかるそらごとだにあり。人にもあらぬ
身の上まで書き日記して、めづらしささまにもありなむ。天下の人の、品高きゃと、間はむためしにもせよかし、(3)とおぽゆるも、過ぎにし年月ごろのことも、おぼつかなかりければ、さてもありぬべきことなむおはかりける。
ここに展開されている物語批判は、「古物語の端などを見れば、世におはかるそらごとだにあり」という言い方に端
的に示されるように、主として物語の内容にかかわる批判である。しかし、そうした批判を述べている文章であるに
もかかわらず、「‑‑とにもか‑にもつかで、世に経る人ありけり」という書き出し方は、三人称仮託の表現形式を用
いている点において、すでに物語的語り口への接近を示すものとなっており、ここでの物語批判が、物語の方法にま
で及ぶものでないことは明らかである。さらに﹃購蛤日記﹄を総体として見たときには、特に下巻において、作品が
物語的世界への微妙な傾きを示し始めるといった問題も存在するのであるが、ともあれ右の序文に示された素朴な物
語批判は、基本的には日記本文の執筆を通じて、実践的に具体化されているとみなすことができそうである。なぜな
ら、右の序文に続いて展開される日記の叙述において、あ‑までも「身の上」の事にこだわり続け、「そらごと」を排
除しようとする姿勢は、一貫して貫かれているからである。
さて、そのような﹃晴蛤日記﹄に対し、同じように物語への屈折したこだわりを示している﹃更級日記﹄の場合、
作者と物語との関係はさらに複雑なもののようであるし、物語に対するこだわりの深さも一層深刻である。