• 検索結果がありません。

『国家』研究序説

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『国家』研究序説"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

熊本大学教養部紀要人文・社会科学編第18号:50-64(1983

「正義」をめぐるプラトンの成熟した思考を伝える『国家』を全体として如何に読むべきか。この問いに対して答えるべく以下の小論は書かれた。多くの材料を見事な形で一つの作品に結晶せしめたこの著作を読むに当り、作品全体を貫く問題を見定めておくことの重要さは論を俟たない。筆者は、プラトンのこの問題への取り組みと解決の方向を見取図において正確に示そうと試みた。最近の英米の優れた研究者による一連の『国家』研究は、プラトンの考えた問題そのものに従来にない公平にして鋭い理解を示し、筆者も彼らの(1)研究から稗益されるところ多かった。しかしながら、プラトンが見ようとしていたことを彼らが充分に理解し得たとは筆者には思われない。以下の小論では、その不足を補うべく、プラトンの思考の途筋を「正義」「徳」「益」「幸福」といった言葉を中心にできるだけ正確に理解していきたい。

『国家』第一巻が二巻以降の著述と別の時期に一つの独立した作品として書かれたか否かは別として、少くとも内容的に第一巻は、全篇がそのために書かれることになったその主題を明確に呈示していることは疑い得ない。第一巻は、たとえば『メノン』のように胃 はじめに

、『国家』全篇の主題

『国家』研究序説

頭から勢い込んだ形で主題を対話人物に語らせ、真すぐに哲学的問答に入っていく作品と違って、極めて綿密にして自然な対話人物たちの出会いの場面から筆が起こされている。その自然さは読む者に、執筆時期と対話劇の設定時期の間に数十年の時間の隔たりがあることを殆ど忘れさせるほどである。それは、この劇で主題とされる正義がそのような時の隔たりを超えて、それを考える者にとっては常に「今ここで」という形で問題化されねばならない主題であることを示しているかのようである。そのことは、|巻前半部のケパロスとポレマルコスの答える正義についての言説が、われわれが正義について考え始める論理的な順序に沿っていることにも示されている。即ちわれわれが「道徳的正しさ」を初めに理解し出すのは通常ある行為原則によっててあり、ケパロスの「正義とは真実を語り、借りたものを返すこと」(圏]e、ポレマルコスの「正義とは友には善をなし、敵には悪をなすこと」(』邑巳は、いずれもそのような行為原則を表明したものと考えられる。正義についてのこのような行為中心の考え方は、「正義」は人によりも先ず行為に帰属する属性であるとの通念に由来するが、この考え方は後半部に登場する第一巻での主役トラシュマコスにも引き継がれる。即ち彼の言う「正義とは強者の利益である」(題舌)は明らかに「世に言われる正義とは、結局支配者としての強者の利益になる行いてある」との意に他ならない。そしてソクラテスとの問答を通して露呈されるより哲学的な定義である「正義とは他人に 篠崎

(2)

『国家」研究序説

63

とっての善」(置芹)も「正義は自分の益ではなく、他人の益になる行いてある」との意である。このようにトラシュマコスの考えては、f義は正しい行為に他ならない。この考え方からいけば、「正しい人」とは恐らく「世に言う正義を行うよう習慣付けられた人」として説明されるであろう。これに対して『国家』の一つの狙いは、このような行為中心の正義観を問い直して、正義を基本的に魂(人)に帰属させることである。この狙いは後述するように、通念上の正義とプラトンの言う正義との異同の問題を引き起すが、それだけの代償に値する狙いであった。ところで行為中心の正義観にあっては、通常正しい行為が勧められるのは、その行為自体の故にではなく、その行為によってなんらかの益Ⅱ善が獲得されるからであるが、トラシュマコスの第一の定義は、そのような善が結局は強者Ⅱ支配者にのみ集中する法による支配のからくりを暴露する。更に第二の定義はより本質的に、「正しい行為」が目指す善は自分のではなく、他人の善に他ならないことを明言する。従って彼に言わせれば、世に言う「正しい行い」をしても自分自身の利益になることはないのだから、そのような「正義」を無視して自分の利益を獲得する能力のある強者にとっては、なんら「正義」を守る合理的理由はない。何故なら少くとも他者のではなく自分の利益をはかることこそ、われわれの生きていることの目的であるのだから。このようにして一つの理を伴った説得力ある主張がトラシュマコスの口を通して形成されてくる。こうして『国家』全篇の主題が浮きぼりにされてくるのである。さてトラシュマコスの主張することは人間の生き方全体にかかわ

るものであるが、何故、人間の生き方はプーフトンにとって議論の主題になるのか。各人の生き方はそれぞれの人の選択によって決めら れるべきて、どんな生き方を「よき生」とするかは各人の自由であり、なにかすべての人に当てはまる「よき生」があるわけてはない、といった現代の自由・個人主義を支える考え方からすれば、生き方にかんする論争は趣味の問題以上のものとはならないてあろう。実際トラシュマコスはこの点で現代人に近いところに立っており、対話の後半において既に議論そのものに対する関心を失なって、「よき生」は各人の選択の問題だといった態度を取っている。そのような人間は議論において窮地に陥れば陥る程、情動的に思い入れている自分の選択に閉じ込もるであろう。その選択の拠り所は単なる思い込み(ドクサ)てしかないのだが、その確信は強固である。そのような人に対しては、「よき生」を説得力ある仕方で描いて示す他ない。二巻以降のソクラテスの対話相手の変更と長い語り方の採用は、相手の理性への信に基づく問答法の、以上のような限界から要

{3|請されたものと一一一口えよう。それにしても何故プラトンは、われわれがそれぞれよいと思われる生を歩むことを許容せずに、よき生を議論によって求めようとするのか。「よくある」と「よいと思われる」との徹底した区別を人生全体にも適用するプラトンの拠り所は何か。多くの人はそこに彼の頑固なまでの客観主義を読むが、先ず事実問題として一人の人間の生は他者とのかかわりにおいて初めて成立する。その意味で人間は社会的存在であり、ある人がいかに生きるかは他の人の生のあり方に関与することになる。とすればその人自身がよいと思う生き方が、他の人の「よき生」を生きる機会を奪うものとしてはたらく可能性を認めねばなるまい。人が正義を守るか否かは、「正しい行い」は本質的に他人とのかかわりにおいて成立するが故に、各人が「よき生」を生きる機会を与えられるか否かという問題に直接的な関連を有する。「正義とは何か」との問いはこうして、ある人にとって

(3)

篠崎

62

の「よき生」が他の人の「よき生」と調和的に両立せねばならないとの要請に答える含みをもって問われる。われわれはそれに答えることによって、他者と共に世に生きている、という事態がわたしにとっていかなる意味をもつことなのか、の理解に近づき得るだろう。そのときことは、「他人に迷惑さえかけなければ、わたしにとってよいと思われる生き方をすればよいのだ」といった単純な考え方では済まされないことが明らかになってくるだろう。

以上を前置きとして、次にトラシュマコスの主張を検討していこう。先ず彼の主張を(T)としてまとめよう。(T)「強者、即ち自分の利益を他人と争いながらも獲得する力のある人間にとっては、状況によっては通念上の不正な行いをするほうが有利で幸福な生を送ることができるJつまり彼の考えては、強者にとっては通念上の(世間の人々が言う)「正・不正」はそれ自体なんら実質的な意味では行為を導く規範たり得ない。即ちそれを行為規範とする納得のいく理由がない。行為決定の唯一の基準は、「自己の利益を獲得するのに最も好都合なこと」てある。彼の立場は現代の倫理学の用語を使うならば、極端な(4)形の「倫理学的利己主義(の芹亘8-の、。】の曰)」と言えよう。この立場は常識人に対して少くとも理論的にはかなりの説得力をもっと思われる。それは常識人のもつ信念を次のように整理してみるならば理解されよう。(gわたしの益になることは時に他の人々にとっては害になり、逆に他の人々の益になることは時にわたしには害となる。(β)この利害の衝突という事実は、わたしと他の人々がその益を完全には共有することのできない異なった存在であることを示している。 (とわたしには、わたしが善(益)と思うもの(それらを獲得・経験することで自分は幸福になるであろうと思っているそれら)を追求することによって幸福になろうとする欲求があり、それに根ざした謂わば権利もある。(8)正義は、第一に他者を益する(あるいは、他者への害を阻止する)行いてある。このような信念の組み合せをもつ常識人がもし(Zでの権利を正面に押し出し、(g、(β)での事実認識に基づいて(8)での正義を行為の導き手としないとすれば、彼はトラシュマコスと同じ立場

-5|に立つことになる。だが常識人は実際にはその立場通りには行動していないし、その立場は文字通り余りに利己的だとして、自分はそのような利己主義者ではないと思っている。だが(g~(6)の信念をもつ人とトラシュマコスとの間にどれほどの本質的な違いがあるのだろうか。常識人は(γ)て言う権利に様々な制限を付し、妥協によって(6)での正義の遵守との両立を計るのに対して、トラシュマコスは「強者」の観念を基に(との権利を無条件なものと

-6し、(8)の正義を退けるという首尾一貫した立場に立つのである。彼にしてみれば次のソクラテスの言葉を、常識人の生き方の根が自分と同じことを示すものとして引用することであろう。「言葉で語られている通りになにかが←汀われるということは、そもそも可能であろうか。むしろ行為は言葉よりも真理に触れることが少ないというのが本来自然の姿ではないだろうか」(含堕已1国}。即ち大事な点は、トラシュマコスも常識人も共に(α)、(β)の想定を自明なものとして、「わたしの益になる」とか「自他が異なった存在である」といった言葉で何が語られているのかということを根本から考え直すことをしない点で、同じ根をもって生きているということである。トラシュマコスの立場が首尾一貫している分だ

 ̄、

 ̄_=

(4)

『国家』研究序説

61

け、常識人に対して強い説得力を有する所以である。であればこそ、二巻冒頭で、正義にかんして常識人を代表するグラウコン、アデイマントスは、トラシュマコスの立場を代弁してかくも雄弁にソクラテスに挑戦し得たのである。彼ら兄弟の不満は、「トラシュマコスの言うような強者にとっても、他人の益になる正義の行いをすることは理に適ったことである」ということをまだ誰も証明してくれていない点にある。そこで彼らはソクラテスに「正義はそれを所有する魂にいかなるはたらきをなすが故に、それ自体てわたしの益になり、最大の善であるのか」を説明するよう要求す

{7-ることになる。ここに至ってソクラテスは、「正義はいかなる結果をもたらそうとも、それ自体で求めるに値する善である」ことを証明することによって、トラシュマコスに対して「正義は徳(アレテー)てあり、人は正義を守ることによってのみ幸福な生を送りうる」という一貫したテーゼを納得させるという、極めて困難な課題を抱え込んだのである。いま「幸福である」を「益される」から次のように言い換えておこ一つ。(A1)「『わたしは幸福である』は『わたしは本当の意味で益さ(8)れている状態にある』に等しいjソクラテスのテーゼの後半部を示すためには、この(A1)と否みようのない(6)の事実からいって、(S)「他人を益する正義の行いは、それを行うわたしを益することである」が証明されねばならない。そしてこの(S)が示されるならば、対話の基礎として共有されている徳(アレテー)の基準(A2)「徳はその所有者たるわたしを常に益する」からいって、先のテーゼの前半部もまた示されたことになる。トラ さて以上の主題に対してソクラテスはどの途筋(メトドろで挑むのか。これを示しているのが、二巻前半部を占めるグラウコンとアデイマントスのスピーチである。ソクラテスの根本的信念は「正義こそ徳」、即ち正義とわれわれを益するものとしての徳とは本質的に結び付いているというものである。その信念は議論において証明されるべきものである以上、それを議論の中て前提するわけにはいかない。そこで次のような手続きを踏むことになる。(i)「正義とは何か」を問う。(H)そこで正義として同定された魂の状態は、その所有者を益する状態であることを示す。(斑)共有された想定(A2)と(Ⅲ)より、「正義は徳」を結論する。この場合、正義が何であるのかを無論ソクラテスは窓意的に決めることはできない。ことに「わたしを益する状態」を正義として、そこから「正義は徳」と結論付けるのは論点先取に他ならない。問題は(Ⅲ)の段階である。つまり「正義」という言葉がそれ自体で表現しているある魂の状態はわたしを益するものと判定できるか否 シュマコスが正義を徳に数え入れるのを拒否したのは、この(A2)と(6)および(α)の組み合せからである。そこてソクラテスとしては(6)の事実を否定できない以上、(S)を証明するためには、「わたしを益する、害する」とは正確にいかなる事態を意味することなのかという具合いに、(gとそれに連なる(β)の常識的信念を考え直すことをもってする他ない。以上が、『国家』全篇の主題である。

二、取り組みの途筋

 ̄、

罠--

(5)

篠崎 60

かてある。というのは、(i)てそれが正義だとして同定される魂の状態は、次の条件を満す必要があるからである。(A3)「正義は、通念上の正義と結び付く四ここて「通念上の正義」というのは、「平等の尊重」(四$&)「他者への加害を控えること」「公正さ」といった、世間の殆どの人々が認める「正しい行い」のことである。ソクラテスにその証明が要求されているテーゼ(S)における正義とは、話しの成り行きからい(9)って明らかに「通念上の正義」を意味する筈である。とすれば正義の実体として求められるべき魂の状態は、通念上の正義を説明しうるものでなければならない。即ち正義を有する人は必ずや通念上の正義を守るということが了解される必要がある。もし正義が目に見える対象であれば、それを見知ることで、通念上の正義観念の誤まりが指摘されることも起こり得よう。しかし正義は見えざる対象であり、その正義を同定する手がかりとして最も有力なものは、われわれの「正義」という言葉の日常用法なのであるから、少なくともいくつかの通念上の正義観念は「正義そのものは何であるか」との認識を規制する条件となろう。(A3)の要請される所以である。さて通念上の正義は世間の殆どの人々が一致して正しい行いてあると認めることであるから、それの何であるかについては基本的な考えの食い違いは余りないと言える。むしろ問題は、行為の場面でそのような通念上の正義として現われる、魂のある状態が、「わたしを益する」と言えるか否かである。というのは、今「益する」をトラシュマコスや世間の多くの人々に従って、「他人と争いながらも自分や身内のためによきもの(財・名声・良縁・権力など)を獲得すること」と考えてみよう。そしてこの意味での「益」を以後「利得」と呼ぶことにする。「利得」とは従って、他人と争いながら獲得される外的な善である。さて通念上の正義は、この利得の意 味で必ずしも「わたしを益する」わけてないことは明らかである。従って「益する」を「利得を獲得する」とする限り、「正義が徳である」ことを証明する途は閉ざされてしまう。即ち二巻冒頭でのグラウコンの話は、利得を獲ることが目的であれば、その手段としては公正さ・平等の尊重といった正義の行いよりは強者にとっては不正のほうがすぐれた手段であることを明言し、それは社会的経験の教えるところであるとする。続くアデイマントスの話では、通念上の正義が尊重されている社会にあっても、利得を獲るのに現実に役立つのは「正しい人である」ことではなくて、「正しい人と思われる」ことであることが露呈される。いずれにしても、利得の意味では「正義を守ることは常にわたしを益する」とは言えない。そこで考えられる一つの途は、この利得の意味での「益する」をあくまでアレテーの基準として設定しておき、(A3)の条件を脱落させて、利得を獲得する行いをそのもたらす益ゆえに「正義」と呼ぶ途である。だがそのとき、正義それ自体は骨抜きにされて、謂わば「よきものどもを獲得する最も有効な戦術、一種の功利」に他ならないものが「正義」と呼ばれることになる。グラウコンの話において明らかにされた事態とは、通常「正義」とされる「平等の尊重」が現実にはこのような戦術として実践されているにすぎないことである。即ちこの「正義」と名付けられる戦術は、他人をだし抜いて(プレオン・エケイ二利得を獲るほど有能ではない弱者たちが、この社会で長期的にみて最大限欲しいものを手にしうるための手段でしかないのである。つまり、通念上の正義を守れば手近の欲望は満たされないかもしれないが、長期的にみれば結局は最大限の欲望充足につながる、だから正義を守ったほうが有利である、というわけてある。このような意識において「正義」を語っている限りは、正義はそれ自体としては決して問われていない。たとえその戦

 ̄、

~〆

(6)

『国家』研究序説 59

術が「平等の尊重」という通念上の正義と一致したとしても、手段にすぎないその戦術と正義それ自体のあることとは事柄は別である。結局、利得を「益」の意味とするこの途では、このような戦術を「正義」と名付けて「だから正義は常にわたしを益する」と言う仕方で(S)を説得する他はない。だが、他者への加害の阻止、他者との善の配分などの形で対人関係が行為の本質的要素として入ってくる通念上の正義について、このような論法が説得力をもつには、次の条件が満されることが必要となろう。(C)人々のよきものへの欲求は同程度に強く、それを満足させる人々の能力も同程度である。ところが経験から明らかなようにこの(C)は成り立たない。そしてトラシュマコスはこのことを見抜き、かつ利得の獲得を「益する」の意味として疑わない、その地点に立って自己の主張をなしていたのである。その背景にあるのは、人々は絶えず争いながら、利得を獲ようとしているとの社会観てある。その地点から合理的に考えるならば、他人の分まで「むさぼること(プレオネクシア)」こそが、少なくとも強者にとっては徳となるだろう。そしてその時、「平等の尊重」としての通念上の正義は、利得の獲得という基準に合格する戦術ではないが故に、強者にとって(S)は成立しない。これが、グラウコンの挑戦の論理である。ここで明らかになったことは何か。それは、もし「わたしにとっての益」という言葉の意味を利得として理解する限りは、通念上の正義は、(A2)のアレテーの基準を満さないてあろうということである。即ち、「行為の正しさ」はその行為の結果として獲得される善の量に相対的に決まると考える功利主義的発想によって、通念上の正義を擁護しようとしても、その立場は、まさに「益とは利得 のこと」との考えを共有する強者の論理の前に崩れざるを得ないの(、)てある。逆に言えば、利得としての善を獲得することを目的として生きることは、必ずしも通念上の正義を守ることにはならず、状況・相手次第ではむしろ不正を行うことを意味するのである。従って、(A2)の「徳はわたしを益する」を基礎想定として保持し、「正義は徳である」を導こうとするのであれば、「わたしを益する」という表現が意味する現実を「利得の獲得」以外に探求せねばならない。このことが、グラウコン・アデイマントスの挑戦から得られる教訓である。従ってプラトンにとって、「正義とは何か」を問うことは、「『わたしを益する』と表現される現実とは何か」を考え直すことを意味する。この途筋から、アデイマントスの繰り返される要求「正義はそれ自体として、それ自身の力だけで、その所有者にいかなる益をもたらせばこそ、善であると言えるのか」が出てきたので一M)ある。

以上の途筋から、二巻十章以降で「正義とは何か」が問われる。この問いの見えざる対象を探求するのに、手がかりは二つあった。(a)|つは、人々が「正義」という言葉の意味と考えている通念上の正義である。この通念では、われわれの行動は内的状態がどうであれ、「他者への加害の阻止」とか「平等な取り扱い」といった正義の要求に合致せねばならない。プラトンは、この通念をそのまま「正義の何か」に答えるものとはしないが、しかしそれがあくまで「正しい行為原則」を指示するものである以上、求められるべき正義はこの通念上の正義を説明し得るものでなければならないと 三、問いを支える戦略

〆 ̄~

(7)

篠崎 58

する。先の想定(A3)てある。(b)もう一つの手がかりは、プラトンの基礎想定(ヒュポテシろては「服義は徳」なのだから、(A2)より「求められる正義はわたしを益するものである」となることである。そしてその益は、利得としての善ではなかった。二~四巻の議論は、求める正義はこの(b)の条件を満さねばならないとの方向から、表看板としては「正義とは何か」を初めから探求する、という形をとる。論点先取の疑いも含めて、この議論の構造を更に詳しくみてみよう。議論の深層構造を明らかにするために言ってしまえば、プラトンが議論の形で遂行しようと初めから想定していたことは、次のことであった。(A4)「行為の場面では通念上の正義として現われる、わたしの益になる魂のあり方を、正義として同定する山これは、(a)、(b)の要請を一挙に満すような魂のあり方があれば、初めからそれを正義として定めようということだから、論理的には、論点を先取りする想定である。だがこれは、議論の深層におけるプラトンの戦略であって、これを表層での議論と同一平面上に並べて見るわけにはいかない。ある解釈者たちの「プラトンの示し得たことは、『プラトン的な魂の疋義(ロ一四〔○ヨロヘ己の言三O]口のはOの)はわたしの益になる』というこ(皿)とで、通念上の正義にかんする主題に彼は答えていない」との読みは、この深層構造と表層での議論のレベルの混同から生じる。というのも、(A4)の戦略を議論のレベルで遂行する際、プラトンはその後半部(A4b)「わたしの益になる魂のあり方を、正義として同定する」という部分から議論の殆どを展開するので、求められた疋義は、その前半部(A4a)「行為の場面では通念上の正義と して現われる」という側面との内的連関が見矢われ勝ちになるからである。そこから、求められたものは通念上の正義(。a曰自ミ8日目。こくロー忠『旨のはOの)とは別物と思われ、「プラトン的正義」と呼ばれるのである。以上をプラトンのために読み解いたとしても、トラシュマコスとの対立点が「正義はアレテーか」をめぐるものである以上、やはりこの戦略のうち特に(A4b)の部分は直ちに論点先取に連なるのではないか。だが、なんらかの魂のあり方を正義として同定するには、正義が見えざる対象である以上、「かくかくのあり方こそ正義である」との正義を同定するなんらかの基準が、初めから探求者に与えられていなければならない。その意味でプラトンは、(A4b)を探求の基礎想定として初めから据えているのであり、そのことと、その命題を議論の場で論点を先取りして前提することとは別であ一個)る。そして、プラトンがそのような構造で正義を問うことを通して明らかにしようとしたことは、「わたしを益する」とは真実いかなる事態を表現しようとすることなのか、であった。かくしてプラトンが最終的に理解しようとしたことは、「正義」と「わたしにとっての益」という概念の間の相互規定的な構造であった。彼の目論見はこうして、「正義」と「益」とが相互に支え合っているその事態を、言葉によって拓くこととなる。われわれは、「わたしを益するものは何か」ということすら暖昧なところで生きているのだが、そのことはプラトンからみれば、われわれが「正義の何か」を知らないことと重なり合う事実なのである。

四、正義と益

写-,

、=シ

(8)

『国家』研究序説 57

では、正義への問いと益への問いはどのような仕方で遂行され、そこで明らかになる「わたしを益する」とはいかなる事態であったのか。先に検討した利得の意味での益、つまり財・名声・権力などのよきものとは、欲求王ピテューミァ)の対象として求められる

、、1、ものであり、従って人々との競争に勝って利得を獲得すること力「わたしの益になる」と言われるのは、それが欲求の充足をもたらすからと考えられる。このように「欲求の充足こそ益になる」との考えは、「益する」という言葉にまつわる一つの強固な通念であり、プラトンは取り敢えず、「わたしの益」をその「欲求の充足」という概念とのつながりの下で考察しようとする。それは、同じく「欲求の充足」の一形態である利得の獲得こそ「わたしの益となる」と考える人々に対し、「欲求の充足」という共通の地平で議論を進めるためてある。さて、あるものにとってその存在の欠如は、その欠けた部分への欲求という経験によって示されるであろうから、「わたしを益する」のもう一つの意味として、「わたしの存在の足りないところを補われること」が考えられる。以後この意味での益を「利益」と呼んで(Ⅱ)おこう。ここで、「欲求の充足」ということと、これまで区別された二種の益とのつながりを考えてみるならば、利得の形の益はすべて、いま挙げた外的善に向う欲求を充足させることによって得られるが、必ずしもすべての利得が、利益の意味での益になるわけてはない。第八巻の「民主制的人間」の叙述の一つの柱となる「必要な欲望(エピテューミヱ」と「不必要な欲望」との区別は、この事態を語るものである。「不必要な欲望」を満すことは利得にはなっても、ここで言う利益にはならない。逆に「必要な欲望」とは、「それを満せば、われわれを益することになる欲望」(、認の』》切望三)と説明 されているが、ここで語られる「益」とは、無論ここでの利益の意に他ならない。以上からみてとれるように、同じく「欲求の充足」と呼ばれる経験のうちに、プラトンは「利得」と「利益」とわれわれが名付けた二種の益を明確に区別しているのである。利得の意味で益を語るとするならば、「通念上の正義は必ずやわたしの益になる」との命題は否定されねばならなかった。そこで、「わたしの益」を行為の基準にする人が、同時にそれ故にこそ正しい人であるという事態が可能となるには、先ず「正しい人であることに本質的に結び付く仕方で実現する、わたしの益」がなければならない。ここで「本質的に結び付く」と言うのは、「正しい人であることによって初めて、かつ正しい人であれば常に」との意味である。では、そのような益はあるのか。あるとすればいかなる益なのか。われわれはすぐ前で、「存在の欠如を補われること」という意味での益があることを確認して、それを「利益」と呼んでおいた。では、もし正義と本質的に結び付く益があるとすれば、その益は利益として経験されるのではないだろうか。そのためには、「正義は、それを所有する者の存在の欠如を補い完全にする」ということが了解されねばならない。従って先のプラトンの問いの戦略(A4)は、次のように言い直される。(A必)「それを所有する者の存在を補完し、かつ行為の場面では通念上の正義として現われるような、魂のあり方を正義として同定するjもしこのような魂のあり方があるならば、「他人を益する正義の行い(通念上の正義)は、それ自体、それを行うわたしを益する」とのソクラテスの示すべきテーゼ(S)が肯定される。つまりプラトンは、このような魂のあり方を探求し、それがあるとすることによ (一一一ハ)

(9)

篠崎 56

って、一挙に正義と益との相互規定的な結び付きを理解しようとしたと言えよう。そのプラトンの探求の一応の成果が、四巻において語られる「魂の健康状態」としての正義論である。正義は、魂の三つの部分の間で、理性的部分が支配することによって実現する秩序・調和とされる。魂になんらかの意味での「部分」があるとの考えは、われわれのこころに生ずる、別種の善を欲する欲求の間の葛藤という経験的事実から導き出される。従って、ここで言われる「理性的」「気概的」「欲望的」の三つの部分とは、その欲求が理性の判定に従うか、それとは独立かといった観点から、われわれのこころに生ずる欲求一応}を区別したものと考えられる。とすれば、これらの部分の調和というのは、別種の善を欲する複数種類の欲求を抱え込む主体として、われわれが自己を引き裂く葛藤を経験することなく、調和のとれた文字通り一人の人として生きていけることを意味する。ということは、平たく言えば正義は、魂の各部分の欲求を理性の支配の下に、それも抑圧的な仕方ではなしに調和的に秩序立て、いずれも欲求不満に陥れることのない、魂の健康状態のことである。その意味でこの正義は、長期的・全体的な視点からみて、健全さを欲する欲求が充足された状態と言える。もし、葛藤によって自己分裂に陥る状態よりも、健全な一つの魂としてあるほうが、魂にとって存在の完成度が高いことを認めるなら(妃}ば、この正義とされた魂の状態は、欲求が充足され、かつそれによって魂の存在が完成により近づくわけだから、わたしに利益をもたらすと言える。即ち、異なる欲求間の葛藤及びアクラシアといった内的不和を除去したいというのも、われわれの一つの欲求であり、四巻で正義として同定される魂の状態は、この欲求を満すことによって、わたしを益するからである。 だが、この了解が戦略(A邸)の実現のために不可欠であることを知悉しているプラトンにとって、この部分の議論は鬼門であった。そこでこの了解を求める問答は、事の重要さに比して極めてあっさ(灯}りと済まされることになる。その議論でソクーフーァスが主張することは、次のことだけである。即ち、「魂の健康状態」としての正義を有している人は、通念上((四目○三百》一色のご不正な行いとして禁止されていることを決して行うことはないが、「その根拠(巴武・ロ)は、彼の内なるそれぞれの部分が、支配と被支配の点で自己の分を為していることだ」(←全ご’四)との主張である。これは、証明されるべき論点を殆ど議論抜きで訴えている主張にすぎない。というのは、まずプラトンの言う「正しい人」とは、魂の理性的部分が秩序正しく他の部分を支配している人、つまり理性的部分が最善と判定したことを葛藤なく行えるような人であった。とすれば、説明されるべきことは、何故このような人は決して通念上の不正を行うことがないのか、即ち理性的部分は本当に不正なことを行うよう促すことはないのか、である筈だが、プラトンはその説明をここで避け〈旧}ているからである。(i)この限りで、四巻での正義の探求は、魂の内的統一という広義の「欲求充足」がもたらす「利益」との結び付きによって、説得力という宝を手に入れた代りに、通念上の正義とのつながりを充 ここまでの四巻でのプラトンの議論の進め方は、「わたしを益するということは、ともかくわたしに起る欲求の充足という形をとるに違いない」との思い込みの下で生きている多くの人々に対して、極めて説得力あるものと言えよう。とすれば戦略(Ar)から言って、この状態にある者が常に通念上の正義を守るということが了解されるならば、ソクラテスのテーゼ(S)は証明されることになる。

(10)

『国家』研究序説 55

分に説明できないという難点を抱え込んだのである。つまりここで到達された正義観念は、「利得」としての益ではないにしても、内的調和という形のあくまで「利益」を産み出すものである以上、ある種の功利的性格を賦与されている。問題は、そのような正義観念と、他者への加害を禁止するなにか徒として、有無を言わさぬ仕方でわれわれに課せられる通念上の正義との結び付きが、明らかでないという点なのだ。(Ⅲ)逆に、通念上の正義の要求に応じる魂の状態を正義として同定しようとすれば、正義の要求はわれわれの欲求とは無関係に、従って時にはそれらに逆らう仕方で、一定の行為を控えたり為したりすることを命じるが故に、正義が「欲求の充足」として理解される益と果して結び付くのかが問題となる。その場合には恐らく、新たな「益」の観念を見出さない限り、「正義はわたしを益する」とのソクラテスのテーゼは証明されないてあろう。しかし、「わたしの欲求に逆らって行為すること」が、それにも拘らず「わたしの益となる」と真実に語り得る、そのような「益」はあるのだろうか。プラトンが第七巻で、洞窟の外に出て学びの世界を知った哲学者は、自分の欲求に反してても、正義の要求によって一定期間ポリス全体のために、洞窟に降りねばならない、と語るとき、彼はまさしくこの一四一問題に直面していたのである。今、われわれとプラトンとの前にある(i)、(h)のディレンマを整理しておけば、次のようになる。先ず(i)の方向から正義を求めていけば、それと本質的に結び付く益が内的調和といった善であるにしても、あくまでその益が「わたしの欲求の充足」として与えられる以上は、当の正義は、「啓蒙された(善を競争的に獲得される利得とはしない)利己主義者にとっての功利的戦術」を超える、なにか「正義それ自体がある」と 語り得る場で見出された、とは依然として思われないのである。他方(Ⅲ)の方向で正義を求めるならば、それと結び付く通念上の正義が、欲求主体としてのわたしに外在的なものである以上は、「正義はわたしを益する」と肯定し得る場に立ち得ない、と思われる。このディレンマに直面して、プラトンの思考を追いかけてきた解釈者の多くは、どちらか一方のレンマを採って他を捨てざるを得ない、とする。彼らは、「魂の部分の調和」をはかる謂わば「利己的戦

●●●●●●●術」としての正義を、「プラトン的」または「魂の正義」と名付けて、かかる正義概念を認める読者にとっては、四巻での「正義はわたしを益する」との(S)の証明議論は説得力があるとし、逆に「通念上の正義」の概念に正義そのものを結び付けて考える読者には、この議論は説得力に乏しいとする。このような解釈の姿勢は、四巻の議論の成否をどうみるかとの問題を読むわれわれの選択に依存させるものである。即ち、われわれが「正義」という言葉の本来的意味をそのいずれに認めるか、という選択である。だがプラトンにとっては、「正義」はその言葉が一つであることに対応して、その意味することも一つでしかない。そ

●●の意味は、理解されるべきことであって、多のなかから選択されるべきことではない。彼は、その一なる正義が何処で「わたしの益」と「他者への加害の阻止・公正さ」の両者と結び付いているのかを見ようとして、苦闘しているのだ。ではプラトンは、果していま述べたディレンマを乗り越える途を見出せたのであろうか。

このディレンマに直面してプラトンが考えた問題は、次のことで 五、正義は、誰を益するか

一-

(11)

篠崎 54

あったと思われる。少くとも、彼がこの問題を考え抜いたとして初めて、われわれには、『国家』が四巻で終らずに続く五~七巻が書かれねばならなかった必然性が見えてくる。その問題とは次のことである。つまり、「魂の健康状態」として同定される、啓蒙された利己的観点から求められた正義が、「わたしの益になる」と言うときの「わたしの益」と、(S)の「他人を益する正義の行いは、それを行うわたしを益する」と言うときの「わたしの益」とは、果して同じ益なのか、との問題である。それらの益は、同じ「わたし」とは言っても「誰を益するか」の点で、ある決定的な位層の差異があるのではないか。そして(Ⅲ)において、時にわたしの欲求に反する仕方である行為を命じる通念上の正義は、必ずしも「わたしの益」にはならない、と思われたのは、その「わたし」を、(i)において求められる正義によって益される「わたし」と全く同一な存在と考えていたからではないか。ということは、われわれの欲求に対して外在的にある通念上の正義が、正当に「わたしを益する」と言えるような、新たな「益」とそれに応じる「わたし」の意味が拓かれる余地があるのてはないか。ところで、「わたしの存在の不完全性が補われる」という意味での益は、時にわたしの欲求には逆らう経験によって与えられることがあるが、今そのような仕方で受ける益を、利得、利益(卯)と区別して「有益さ」と呼んでおく。その場ムロ、そのよ》っな益を受けることで初めて「ある」と言い得る「わたし」は、当然のこと、欲求の充足という仕方で利益を受ける「わたし」とはその位層が異なるであろう。このように考えるならば、利益の意味での益を中心に求められた四巻の正義論は、説得の途で採られた欲求論に基づく正義の説明であって、これがプラトンの最終的な立場ではなかった。彼自身この ことを、四巻で「こうした問題を正確にとらえるのは、いま議論のなかで採用している途筋からでは決してできないてあろう。その目標へ到達するための途としては、別のもっと長い途があるのだから」(盆、Q骨’四)とソクラテスに語らせている。この「別の長い途」とは言うまでもなく、善のイデアから正義を説明しようとする六巻から七巻にかけての議論を指し(。{.m三s)、これに比べれば、四巻での正義論は当座の説明でしかないのである。即ちプラトンは、「正義のもたらす益とは何か」を考えるに、四巻から七巻にかけて明瞭な深まりを示している。それは、「わたしが益される」というときの「わたし」がそれ自体、問われるべきものであることを、プラトンが見抜いていたからに他ならない。実際、筆者のみるところ、この「わたし」の二つの位層は、『国家』における「魂の理性的部分」の二つの機能に対応するものであり、それぞれの機能に属する「知のはたらき」が、その「わたし」の二つの層を形成しているのである。この二つの機能とは、(a)(皿)魂全体の支配(b)真理認識である。即ち、魂の理性的部分には、この(且、(b)両者への欲求があり、その欲求に基いて成立するそれぞれの知のはたらきが、異なった対象に向うのに対応して、それらの知によって形成される「わたし」は全く異なった相貌を呈するのである。(i)先ず、(a)の「魂全体の支配」という機能に属する知からみていこう。この「支配」とは、魂の他の部分に対する友好的支配・世話であり、この機能に備わる知とは、人間の自然的本性に根ざした種々の欲求を、どれ一つとして欲求不満に陥らせることなく、調和的に満足させる能力である。この場合「人間の自然的本性」とは、「実現されるべき人間の姿」とは違って、プラトンからみれば(配)肉体をもつが故に、ある歪みを負わされたものてある。従って肉体

=~

(12)

『国家』研究序説 53

と結び付いている魂には、八巻での「民主制的人間」、九巻の「僧主制的人間」の叙述で指摘された「不必要な欲望」と更に「不法な欲望」が付着している。そのような欲望までも満してやることは、例えば「憎主制的魂は、魂全体について言えば、自分の願っていることを決してなしえない」(ヨヨ巴1国)と言われるように、他の適正な種類の欲望(全]&)を、欲求不満に陥らせ、魂全体としての調和を逸するであろう。従って(この機能に属する知は、現在あるがままの人間に生じる欲求のいずれを満すべきか否か、またどの程度まで満すべきか、を理解し、欲求のなかには満たさないことが「わたしの益」になるものがある、ということを理解する。そこで、この仕方で、人間の本性に根ざす各種の欲求を調和的に満足させる知を備えた魂は、身体の健康状態に類比される「健全さ(ソープロシュネーピを有するであろう。この「ソープロシュネー」と名ざされる知によって益される「わたし」とは、様々な種類の欲求の生成・満足・消滅の絶え間ない流れの場に他ならない「わたしのこころ」てある。従って、この知によって確保される「わたしの益」とは、言ってみれば「人生全般にわたって最も快よき生を送ること」として理解されることになる。九巻での正義と不正の判定議論において、「正しい生は、不正な生よりはるかに快適なものである」ことが強調される所以である。とすれば、利益としてのこの種の益を保全させる知は、根本的には、人生全般にわたって快を最大化ならしめる啓蒙された功利的戦術、という性格を超えるものではないてあろう。このように四巻で一応到達された正義の概念が功利的性格の強いものであるのは、その正義論が、「魂全体の支配」という理性的部分の(且の機能にのみ基づくものであったからである。だが、この正義論の難点は先述したように、通念上の正義との本 質的結び付きを説明しえていない点であった。というのも、葛藤という心理経験に基づいて導出された魂の三部分説を、欲求論と見倣すならば、欲求間に調和がとれて内的統一が保たれていることそれ自体は、その人が常に不正な行いを避けることを保証し得ないからである。このことは、誤まった「良心」に忠実な人の生き方を考えれば了解されよう。(Ⅲ)そこでこの結び付きを示すためにプラトンが歩んだ途は、以上の欲求論を承けて、「わたし」に生じる様々な欲求の一つ、即ち学びへの欲求(ピロソピア)に、「全体としてのよき生」を形成する欲求として、他の欲求には与えられない特権的地位を賦与する(羽}ことであった。その賦与の根拠は、プラトンのみるところ、その欲求だけが「真にあるもの」を認識する力を有していることにある。そしてその認識は、通念上の正義を根拠付ける「正義そのもの」を「善そのものI善のイデア」との本質的なつながりの相において、ということは正義を「有益なもの」として、認識するであろう(二mローす)。彼がこのような認識能力を魂の理性的部分に賦与したのは、「魂は本来的には、真にあると言えるもの(イデア)に対して自らを開くものとしてある」との魂観を基礎想定としてもっていたからに他ならない。つまり魂の理性的部分は、絶えず流れにおいてなるとしか言えない諸欲求にかかわって全体の支配・世話をする能力だけでなく、真にある対象に向うことによって、真理を認識するはたらきをも持ちうる。これがこの部分の第二の機能である。そして、このある世界に魂がかかわるとき、そのかかわりの端初は自らの欲求てあったにせよ、既に魂は単になるだけの欲求の世界を超えて自らを創造するものとなる。その時「わたし」は初めて、快・苦を主人とする生から解放されて、言葉の真の意味で統一された生を創る歩みを

-、

、-〆

(13)

篠崎 栄

52

始めるであろう。それに対して(a)の「全体の支配」のための知は本質的には、そのような術が可能だとして『プロタゴラス』ての「快・苦の計量術」以上の認識を有し得ないと思われる。少くともその知が、(b)の機能において初めて可能になる、真理への問いに支えをもたない(郡)限りは。この真理への魂の開かれがなければ、「よき生」は認識の対象ではなくて、多くの可能性の中からの選択の対象となり、当然「全体としてのよき生」を指導・形成する欲求は、理性的部分のそれから、事実としては他の部分の欲求へと容易に推移することになる。なぜならば、善のイデアに基づく真理認識に照らされるのでなければ、各人にとって「よき生」は「よいと思われる生」に他ならないことになり、いかなる欲求に自らの生を指導する役を担わせるかは、各人の好みの問題となるからである。従ってその場合、正義は「よき生」を形作る本質的形相であることが理解されずに、正義と「有益さ」としての「よさ」の本質的結び付きは見失われるであろう。第八巻から九巻にかけての、どのような欲求が各人にとって「よいと思われる生」を導いているかとの議論が、そのまま不正の渚段階の生成論となる所以である。

それに対して(b)の知においては、正義を善のイデアとのつながりにおいて認識するが故に、正義が「よき生」を本質的に形作る有益なものであることが見定められている。この知によって初めてわれわれは、(A1)の想定が真であること、つまり「正義」という言葉が示している魂のあり方において、「益される」と「幸福」という一一つの言葉が表現する事態が本質的に結び付いていることを理解するのである。かくしてわれわれは言葉を正確に使うという一一弱一事が可能になる。 その知によって理解される「正義がわたしにもたらす益」は、(a)の知によって可能になる「魂の健康状態」という形の「わたしの益」に比して、「誰を益するか」の点で位層の深まりを示す。即ち正義そのもののもたらす益とは、欲求の流れの場としての「わ

●●●●●たし」を常に益するとは限らない。それは、魂そのものとしての「わたし」にとっての益なのである。そのような「わたし」が隠さ

●●れてはいるがあること、そして諸欲求の流れに還元されないその「わたし」がこの生の統一性を根源から支えていることを、プラトンは十巻で、魂の単一性を示唆する海神グラウコスの楡えて語っている(、巨。1日』四)。この二層の「わたし」には無視しえない異なりがあればこそ、欲求の場としての「わたし」には、ときに正義そのものからの要求は益にはならないと思われるのである。つまりわれわれは多くの場合、「正義を守ることは状況が悪ければ、わたしの幸福の妨げとなる」との思い込みの下で生きているのだが、そのような生き方が示していることは、その思い込みを支えているわれわれの自己理解の浅さである。プラトンは、「人間とはこんなものだ」といったその程度の自己理解の下でわれわれが生き、言葉を語るときに、いかに真実の事態が覆われたままになるかを教えるのである。「わたし」に対するそのような思い込みの誤まりに気づくためには、われわれは正義と有益さの本質的結び付きを理解せねばならず、そのとき初めて「わたしとは何か」を真に認識し始めるであろう。「正しい人と不正な人とでは、いずれが幸福か」という問いに正確に答える九巻の議論は、その意味で四巻の直後にではなく、五~七巻の後に書かれる必要があったのである。結局、プラトンの眼目は、「正義はときにはわたしの幸福の妨げになるのではないか」といった言葉遣いの根にあるわれわれの誤ま

グー~

、--

(14)

『国家』研究序説 51

った自己理解を撃つこと、そして「正義こそはそれのアレテーである」そのような存在者、即ち魂として「わたし」を実現して生きるようにとわれわれを励ますことにあった。(一九八二・九・二九)

(1)特に次の一一一人の著作が有益であった。]・少目囚の}シご旨〔『Cs&・ロ8勺一四[。》の幻の己巨ワ一一○○×{○円。]房]》Z.ご一宮【の}シ○○ヨロロヨ○口【○勺一日。》の肉のロロワ一一pox{Caこ『PH・閂『夢「旨》句一四[。)の三○『四一月彦の。『旨》。×【Ca

]①『『・

(Oα)四一(Q、lのご』⑰函已⑰、く①.(3)この読みは、アンナス(ロロ・田l『)に従っている。(4)アンナスはトラシュマコスの立場を《百日。『四一】の己と呼ぶが(□・患)、彼が首尾一貫した新たな道徳を提唱している側面を生かせば、むしろ『のS】8-の、○一の己と呼ぶ方が適切だと思われる。なおテクストの議論の展開については、]・勺・冨四、巳『の)弓ロ『囚の旨目O宮の。:。『や一四s》》勺言○口のの】のぐ○一」①)巴『〕ごC」含l]缶が正確に跡付けている。(5)尤も同じ立場には立てても互いに友(ロ三百)にはなれないことが、この立場の根本的欠陥を示してはいるが。(〈o)、{・』、①四画-←》囚ベーウー・戸I)。(四mのワニI⑦》Cの-Q四》四m⑤の、1①》』①「すい-m》□』-《っの』1m。(8)プラトンが問題にしているのは、どのような条件の下で人は「幸福であるのか」てあって、「幸福てあると思うあるいは感じるのか」てはない。その限りで彼の眼差しは客観主義的と言えるが、実際「幸福」にかんして哲学的に問い得るのはこの地点からであろう。(9)アーウィン(ご・屋の)、アンナス(ロ・ろ)は、「正義はわたしを益する」の正義が必ずしも通念上の正義である必要はないとするが、少くともそれとの本質的つながりを有することが示されなければ、トラシュマコス、グラウコンらは納得しない筈である。ホワイト(己」望)の的確な註を参照。(Ⅷ)従って、二巻の兄弟の話においてプラトンは、正義の何かを問う途筋として、現代の倫理的利己主義、功利主義を含む所謂「目的論」の発

いう対立構図とは別の第三の可能性を学ぼうとするが(ごpsl』)、この読み方は基本的に正しいと思われる。(u)註(7)を参照。(、)例えば、□・の四sの》(シ司巴一山目冒勺一四斤。)の内のCg-】、》》の.ご-回の〔○の一・]巨呂、の四己困:ロヨの朋冒sの”8巨三o》・両論文とも、勺一日○口・の。・の.二mの[・の)zの冨邑・鳥]召』に収録。(Ⅲ)更にプラトンは、この(A4b)の「わたしの益」は、魂の凝集力と統一性で計られるという基礎想定をもっている。註(焔)を参照。なおプラトンの探求は、層の違いを無みすれば、全体として「循環」になっていることは否めないと思われる。だが、この類の探求がこのような意味での循環なしに行われ得るものかは、定かでない。(u)この「利益」の説明については、桑原直己『国家』篇第一巻における「利益」の概念について」から学んだ。哲学会編・哲学雑誌『意味と無意味』二九八一年)所収、二○七頁参照。(旧)この解釈は、アーウィン(ロ」褐)に教えられた。プラトンにとって最終的には魂は欲求主体に止まるものでは決してない、という点を押さえておけば、四巻にかんする限り、この解釈は適切であると思われる。〈焔)ホワイト(□・田)は、プラトンの「よいポリス」の基準はその凝集力と統一性の強さにあると指摘するとき、これ(二つのほうが完成度が高い」)をプラトンの基礎想定として見抜いている。(Ⅳ)全山&Cl一室哀の部分。(旧}多くの解釈者がこの点についてプラトンの議論の弱さを指摘してきたのは当然であった。この部分については、文献紹介も含めたホワイト(ロロ」四]’四)の適切な註釈を参照のこと。またアンナス(つつ」廷!『)も結局、「プラトンの言う正義が通念上の正義を含意することを説明することはできない」と批判している。 想を退けていると読まねばならない。目的論で言う「善」には通常、競争的に獲得される外的な善(ここでの利得)と、他者を排除せずに経験される魂にとっての善が、区別されずに共に「有益な目的」として数え入れられている。プラトンからみれば、この両者を区別することこそ、正義を問う途においては決定的なことなので、プラトンの立場を巨三】国『旨昌の目という表現で解釈しようとするのは、誤解を招く読みと思う。最近では、内・国囚『『○三一勺一gPE三一厨『一目一m目四己のs‐8はCPF。&○口]召、の解釈。丘○口・P。&○口]召、の解釈。なおアンナスは、プラトンの正義論から、

〆=、

ニーー

「目的論か義務論か」と

(15)

篠崎

50

(四)四℃ロー田Cの・アンナスは、七巻のこの個所に至ってプラトンの(S)証示の目論見は挫折し、問いは振り出しに一民っていると解釈する(弓』の①l弓〕)。筆者のみるところ、それはアンナスが、「益」を表現するギリシア語のづ目の一国》を、「利得」と「利益」の意味しかない《旨【の『の⑪(》という一語だけで理解しようとし、後に筆者が「有益さ」として論じ分ける益の観念を読まないからである。もしアンナスが、英語の日『ご[の『の⑪厨という言い方と異なって、所有代名詞抜きの。gの言(特に認◎&〉がプラトンの思考の根にあったことに思い至ったとすれば、そのような速断に近い解釈を控えた筈である。またホワイト(己・室廟・)が、筆者と同様に、この個所にプラトンの倫理学の鍵をみていることには共感を覚えるが、彼の解釈では、善のイデアの超越性が強調されるだけで、それがなんらかの仕方で「わたしの益」につながる側面を読めていない憾みが残る。(別)事柄をはっきりさせるために、筆者はここまてて「益」を、才)利得(ロ)利益(ハ)有益さの三種に分けて考えた。これらの区別のもとになったギリシア語と英語を記せば、(イ)[○六のa四一の。貝口『○寡》ぬ巴ご(ロ)【。]]⑩一[のlCEp》(○のごヨロヶの8貝一員の円のの〔》四□ぐ四コ国、の(ハ)〔。。ごロの]】‐ 目○月すのロの雪(語源通り「善くされること」の意で)。以上のギリシア語は、一巻でトラシュマコスが議論に押し入るときに、すべて一緒くたにして投げつける言葉である(缶三]1画)。正義それ自体と益との結び付きを否定するトラシュマコスが、初めから、このように言葉の正確な使い分けを踏みにじろうとしていることは偶然ではない。(Ⅲ)このまとめ方は、アンナス(弓」誤-①)に倣った。(a)については四巻堂】の(b)は五巻ミ、の、九巻田]すを参照。(皿)十巻臼ご’二の、魂の現状を海神グラウコスに嘘える叙述を参照。(羽)『国家』ては、「哲学者」を、「知恵の欲求者(の。9国の①己寓三日、扇の)」(五巻s、二IC)というように、欲求論の基盤から説明していくことに注目したい。(別)この問題について、「支配する」の二義を分けて読み解いた好論文として、内・【『囚具》《丙の口のopmpQ』口の[】Oの冒勺一四s》の丙の己巨す]】、》旨ロメ‐の、研一の囚&少【四目の昌巴の・向・Z・Pの①シ・勺・ロ.二・日の一日・の》内・言・内。『ご》少閉のロ]@国》8.国ミー圏』がある。(閲)例えば『クリトン』冒頭て(全三)、ソクラテスの全生涯は「幸福であった」とクリトンに語らせるとき、プラトンの言葉遣いは極めて正確である。

--

罠_=

参照

関連したドキュメント

或はBifidobacteriumとして3)1つのnew genus

いない」と述べている。(『韓国文学の比較文学的研究』、

老: 牧師もしていた。日曜日には牧師の仕事をした(bon ma ve) 。 私: その先生は毎日野良仕事をしていたのですか?. 老:

Council Directive (( /((( /EEC of (( July (((( on the approximation of the laws, regulations and administrative provisions of the Member States relating

第二期アポーハ論研究の金字塔と呼ぶべき服部 1973–75 を乗り越えるにあたって筆者が 依拠するのは次の三つの道具である. Pind 2009

[r]

世界規模でのがん研究支援を行っている。当会は UICC 国内委員会を通じて、その研究支

世界規模でのがん研究支援を行っている。当会は UICC 国内委員会を通じて、その研究支