• 検索結果がありません。

﹁築島﹂は人柱の物語である︒

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "﹁築島﹂は人柱の物語である︒"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

408

﹁築島﹂は人柱の物語である︒

マ︑

浄戒︵清盛︶が︑平大納言時忠の進言をいれて︑﹁和田の岬をすぢ

かひに︑辰巳向きに海上を三町ばかり埋めさせ︑その島の上に在家を

建て︑船の泊りと﹂しようと決心し︑五条の大納言国綱を奉行にした︒

国綱はまた暦の博士の意見を聞くように進言したので︑浄戒は清明の ︑︑︑︑ 流れ︑安倍のやすうぢ︵泰氏か︶を召した︒島はなかなか成就しなか

ったので︑やすうぢの占いに従って︑三十人の人柱を集めることにな

ったのである︒

刑部左衛門国春を最後に︑ようやくにして捕えることの出来た三十

人を︑いよいよ海中に沈める時が来た︒

去間浄戒は︑和田のみさきの観音だうにて︑御見物あるくしとて︑

御一門三百余人︑ざ公めきわたって見えざせ給ふ︒︵大頭左兵衛本︑

以下同し︶ ︑︑︑︑ この時博士のやすうぢが人々が汀に悲しむ有様を見て︑自責の念に堪

えられなくなり︑浄戒に直訴する︒.

あれjr︑御覧候へ︑さればけうしゆ尺尊の︑なむぎやうくぎやう実

舞曲の研究Ⅱ︵室木弥太郎︶

舞曲の研究Ⅲ

I﹁築島﹂

に ついてI

相と公かせ給ひて候を︑御思案あるべく候︑しやくそむ一代のせつ

けうの中に︑法花経を経王とす︑一万部の法花経を書写させられ︑

三十人の人柱の︑名字なのりを害しるし︑しづめの石には年号日

付︑竜神なうじうましませとて︑海底にしづむる物ならば︑五十て

むノ︑のずいきのくとくには︑八十おつこうの生死のつみをめつ

し︑かならず鴫は成就候くしいか蝉

と︒三十人の人柱の代りに一万部の法華経を書写して沈むれぱ︑島は

必ず成就するというのである︵三十人の人柱を沈めなければ︑島は成 ︑︑︑︑ 就しないと占ったのは彼やすうぢである︶・これには一門の人々も同

調したが︑浄戒は不機嫌であった︒ところが三十人目の人柱国春の娘

婿が︑われわれ夫婦が国春の身代りに立つと︑﹁天に仰ぎ地に伏し︑

泣涕こがれ﹂嘆いて訴えたので︑さすがの浄戒もほろりとして︑﹁国

はる一人をば︑あの女︵国春の娘名月女︶にとらせよ﹂と︑国春だけ

は許すことにした︒人柱は二十九人になったわけである︵人柱は三十

人という博士の占いに従って︑その三十人目を捕えるのに︑大変な苦

労をし︑大変な無理をしたのである︒それが徒労に終っただけでなく︑

室木弥太

(2)

407

人柱そのものさえ無意味になった感すらある︶・

浄戒は﹁残る二十九人をば︑時刻うつれば嘆きあり︑とく沈めよ﹂

という︒浄戒もいらいらして来たのである︒ところが浄戒の御内に三 ︑︑︑︲〃 ︑︑︑︑ 十人のわらは︵童︶がいたが︑そのうちの一人松王こむでい︵健児︶

というのが︑

世人の人柱を︑みな/︑たてさせ給ふとも︑人のなげきの鴫ならば︑

成就する事候まし︑又おぼしめしたち給ふ︑御願をむだにし給ひて

は︑君の御意にもそむくべし︑所詮はかせの御申のごとく︑一万部

マ︑

の法花経を所写させられ︑三十人の代官に︑なにかし一人たつなら

ば︑末代鳩は成就して︑たえする事候まじい

という︒博士が先に述べた法華経の書写を支持し︑なおかつ自分が三

十人︵実は二十九人のはず︶の身代りになろうという申し出である︒

浄戒はすっかり感動し︑﹁あら不便のものの申し事や︑さらばはか

せ︑ともかくもはからへ﹂という︒〃博士は三十人をことごとく解放す

る︒その後法華経の一万部の書写が終り︑博士はそれを兵庫の浦の沖

に沈め︑御へいをふって︑きやうしやく︵教籍︶のつと︵祝詞︶を申

し上げる︒ついで

誠に松王望申ける間︑かれ一人ひと柱にたてられけるそ殊勝なる

と︑松王を人柱にたて︑続いて千僧供養があって︑﹁竜神納受有るに

よって︑島は成就﹂したのである︒

築島の成功は︑法華経のせいか︑それとも松王のせいか︑はっきり

しないところがあるが︑察するところ両方のせいということなのであ

ろう︒しかし博士の進言は法華経のみをいっているのであって︑それ

で成功するはずであったから︑松王があとからとびこんできて無駄な

死を遂げたような印象はどうしても拭えないのである︒それのみなら 舞曲の研究Ⅱ︵室木弥太郎︶

ず︑右にかいつまんで述べた通り︑終りの方の筋立てに無理やら矛盾

やらがあって︑すっきりしない︒これは何が原因なのであろうか︒結

論をいえばこの作品は︑数種の素材︵語り︶を結びつけて︑一つの物

語︵語り︶にまとめようとしたのであるが︑それが十分こなれなかっ

たからである︒しかしこの不成功は︑作品の素材が何であるかを推測

するに︑便宜を与えてくれたのは幸いである︒

党一本系の﹁平家物語﹂を見ると︑巻六の﹁入道死去﹂のあとに︑

又何事よりも︑福原の経の島つゐて︑今の世にいたるまで︑上下往

来の船のわづらひなきこそ目出けれ︵日本古典文学大系﹁平家物

至胆﹂︶

と︑清盛の唯一の功績のように礼讃している︵舞曲の浄戒も物分りが

よく人情味がある︒彼を地蔵薩唾の化身とまでいっている︒築島につ

いて語る場合には︑清盛に対して十分な敬意を払ったのである︶・

彼嶋は去る応保元年二月上旬に築はじめられたりけるが︑同年の八

月に︑にはかに大風吹大なみたち︑みなゆりうしなひてき︒又同三

年三月下旬に︑阿波民部重能を奉行にてつかせられけるが︑人柱た

てらるくしなど︑公卿御念議有しか共︑それは罪業なりとて︑石の

面に一切経をかひてつかれたりけるゆへにこそ︑経の鴫とは名づけ

たれ

とある︒﹁長門本平家﹂はもっと詳しいが︑右の応保元年二月・八月

が︑承安三年・四年に︑重能が成良になっているなどの小異がある︒

しかし石の面に一切経を書いて沈めたという経島の由緒は両者全く一

致している︒た唾長門本では人柱にふれていない︒

では松王こんでいが右の筋の中はいつ割り込んで来たのであろう

か︒松王については柳田国男氏の﹁松王健児の話﹂︵﹁柳田国男集﹂

(3)

406

第九巻﹁妹の力﹂所収︶に詳しいが︑そこで引用している﹁参考源平

盛衰記﹂によると︑盛衰記には童一人を人柱にしたという本と︑止ら

れけりとある本と︑何とも書いていない本があるというから︑﹁源平

盛衰記︲一成立の頃には︑すでに成立していたとみなければならない︒

﹁和漢三才図会﹂の﹁経ノ島来迎寺﹂の項を見ると︑﹁帝王編年紀二云﹂

として︑石面に一切経を書写し︑その石で築いたとするのは右の平家

と同じであるが︑その前に一人を埋めて海神を祭ったといっている︒

しかしその名は挙げていない︒平家で︑﹁人柱たてらるくしなど︑公 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 卿御念議有しか共︑それは罪業なりとて﹂石に写経して沈めたという︑

それとは矛盾し︑写経を沈める意議はすでに失われているのである︒

しかしここに一人の人柱を立てたのには訳があったと思う︒それは

松王健児という︑普通名詞か個有名詞か︑実在かどうかも分らぬよう

な人物を︑特に顕賞する物語が別にあったに違いない︒﹁和漢三才図

会﹂は平家の右の文を挙げて後︑ ニヘテノヲソトトーノコシヤウノ 一説云捉二往来数人一既欲し為二人柱一時清盛雇従少年名一一松 ルーノヲス︑ミテクレコイテニリテ二 王一者不レ忍レ見二人悲歎一而進日我請二竜神二人代二衆人一 ソトト ース ニテクヲタリ キヲニッヲ 為し柱乃入し海死又石面害し経築レ之得二風波無涯差供養建レ寺

リカ

来迎寺是也有二浄海公及松王影像一

とある︒これは疑えば逆に舞曲に依ったのではないかとも思われる

が︑むしろそうではないだろう︒というのは︑﹁摂陽群談﹂の﹁経之

島﹂の項に︑右と大体同意のことが載っているが︑それには阿波民部

重能が奉行して︑往来の人三十人を搦め捕ったといっている︒舞曲で

は前述したように︑奉行は五条の大納言国綱なのである︒﹁摂陽群談﹂

は右の項の末尾に﹁猶経島山来迎寺記に詳也﹂といっているから︑こ

の来迎寺記︵未見︶によったのかもしれない︒なお付け加えておくと︑

舞曲の研究Ⅱ︵室木弥太郎︶ ﹁摂陽群談﹂の﹁来迎寺﹂の項に︑

武庫郡兵庫にあり・平相国清盛公草創︑応保元年七月十三日に成り︑

築島供養の依為寺院︑山号経島山と称す︑相国自作影像︑同松王児

一プイー

童の像︑竝に弥陀像を安置せり︒仏工運慶彫刻の弥陀︑同湛慶の観

音︑弘法大師伝来の弁財天女像︑.︽・是等の宝物︑当院に寄附︑今猶

是にあり︒

とある︒この寺は恐らく浄土宗とか時宗とかいった念仏宗に属するの

であろうが︑この寺に関係の深い念仏者の唱導が︑即ちこの物語の生

成伝播に重要な役目を負うたに違いない︒つまり人柱の代りに石に一

切経を写して沈めたという物語に︑松王健児が三十人に代って人柱と

なったという物語が結び付いたのであるが︑そういう物語の複合︑発

展の過程に︑この来迎寺が何らかの働きをしたと思われるのである︒

勿論右は一つの仮説にすぎないのであるが︑平家の右の物語に松王

健児の人柱の物語が割り込んだということは重要である︒それは松王

健児の民俗学的意義ではなく︑その物語が︑三十人の命に代った松王

の献身を︑崇高な人間性として高揚している点である︒勿論人柱とい

うことは︑平家の時代でも﹁罪業なり﹂としてためらわれていたので

ある︒またそれが実際に行われたという確かな資料も見当らないよう

である︒しかし南方熊楠氏︵全集第四巻﹁人柱の話﹂︶がいわれるよ

うに︑一方では﹁人柱が徳川氏の世に全く行はれなんだとは思はれ

ぬ﹂のであって︑いわんや中世ではひそかにそれが行われていたとい

うのが当時の常識であったと思う︒従って平家のように写経が人柱の

代りをするというのではどこか空々しく感ぜられ︑松王献身の物語が

感動をもって迎えられた理由が必ずあったのだろう︒松王の民俗学的

解釈はともかくとして︑物語上の人物として強く共感を呼ぶものがあ

七 三

(4)

405

ったと推測される︒

写経と松王との二つの物語が︑人柱を鐙にして不器用に結びついた

のであるが︑舞曲がそれをそのまま受領したのは︑その物語の人気の

故であったと思う︒舞曲は王朝的歌物語の形式をとり︑雅語を鎮めた

七五調が全体の基調になっている︒これは時代が平家全盛期なので︑

それにふさわしい雰囲気を出そうとしたのであろうが︑根本的には舞

曲自体の体質的なものである︒この時代の王朝礼讃の風に迎合したの

であろう︒築島の奉行阿波民部重能︵成良︶を五条の大納言国綱とし

かい

たのもそれらしいが︑名月女にしろ︑藤兵衛家包︵藤兵衛は妙である

が︶にしろ︑貴族らしくふるまっている︒ ︑︑︑︑ しかしこの物語の根幹は︑津の国難波入江のみつまつに住む刑部左

衛門国春と︑その娘名月女父子の︑哀別離苦の物語である︒名月女は

鞍馬多聞天の申し子︑それが丹波の国小川の庄のせ︵野瀬か︶に居る

家包に奪われ︑母はその思いのため間もなく死去する︒﹁国春は︑一

かたならぬおもひどもに︑妻女のかたみをとりあつめ︑高野のみねに

上りつゞ︑奥の院にてもとひきり︑妻女のかたみをこめをきて︑姫が

ゆくゑをたづねむとて︑高野の嶺を下向して︑先づ三熊野にまいらる

ゞ﹂・その後熊野三山から四国︑次に播磨の室︑それから都の方に志

して︑兵庫の浦で人柱に捕えられたのである︒遠くでそれを聞いた名

︑︑ 月女は︑のせから三草山を経て兵庫の浦に着き︵大変な山道を践渉し

たわけで︑王朝時代の女性では考えられぬことである︶︑後を追って

来た家包とともに︑身を棄てて︑父の命乞いをするのである︒説経﹁か

るかや﹂で︑母と子が父の行方を尋ねて放浪するのと似たところがあ

る︒﹁かるかや﹂の場合は︑高野聖の語りものが素材になったと考え

られるのであるが︑この国春︒夕月女の物語もそれらしい感じがす 舞曲の研究Ⅱ︵室木弥太郎︶

る︒

夕月女がめのとと二人︑兵庫の浦へ向う途中︑山人が道案内をし︑

是はいにしへ兵庫へのおひ分と申候を︑近年人待がたうげと申なら

はす由来の候を︑かたってきかせ申たくは候へども︑すこしもさき

へといそがせ給ふ上らふたちにてましませば︑懇には申さぬ也︑あ

れノ︑御覧候へ︑⁝⁝

と︑東西の景観を説明する︒これは例えば﹁かるかや﹂で︑都に上っ

た繁氏が︑勧進聖から都の案内を聞く︑その語りに非常に似ている︒

山野を科撤する遊行者の投影を見るのである︒

名月女に家包や︑津の国神崎のこむどうじ︵近藤次か︶重友といっ

た恋する男を配したのは︑本文にもあるように伊勢・源氏に似せよう

としたのであろう︒しかしこれは男の側の一人相撲に終ってというよ

り︑恋物語としてはちぐはぐな結末になっているのは︑作者の力点が

そこになかったからである︒むしろこの物語の焦点は︑名月女と国春

の父子対面にある︒

名月女が父のかごにすがりつき︑﹁なふ名月こそ是まて参て候へ︑

我もろともにしづまむ﹂という︒父はこの娘故に妻に死別し︑しかも

その娘を求めて放浪を続け︑果ては捕えられて今まさに沈められよう

とする︒ここに国春の長い口説きがある︒

クトキ や氏あって父国春は︑おつるなみたのひまよりも︑げに心ざしの

ましませばこそ︑これまでは尋ねきたり給ふらめ︑何とてか人の子

の︑おやのおもふ心中に相違して有や覧︑わこせがおもひふかうし

て︑母は終に死してあり︑国春も同じみちへとて︑千度百度おもひ

つれども︑憂世にもしもながらへぱ︑わごせがゆくゑやきくとおも

ひ︑か畠る修行におもひ立て︑今さら憂目を見る事も︑ひとへにわ 七四

(5)

404

ごせゆへそとよ︑子はたからかかたきかと︑善悪ふたつをあむする

フシ

に︑人の子はたからにて︑わごせはおやのかたきなり︑かくはい

ふてあれども︑ふかき根はのこらぬぞ︒此年月仏神に︑きせい申せ

しりしやうには︑いのちの内に見つるこそ︑何よりもってうれしけ れ︑⁝⁝

﹁人の子は宝にて︑わごせは親のかたきなり﹂ということばに国春法

師の悲痛な感慨があり︑この作品のモチーフが集約されているといっ

てよい︒あとは浄戒の英断で︑国春の人柱も︑その供をしようという

名月女も許され︑あとの二十九人も松王の献身で救われるという終結

が続くのである︒

この作品は人柱の物語であると初めにいったが︑実は父と娘の哀話

なのであって︑人柱は悲劇の一モメントにすぎない︒また家包という

貴公子も︑王朝的な恋物語の一要素ではあるが︑印象に乏しい脇役に ︑︑︑︑︑ すぎない︒いわんやこむどうじ重友に至っては︑父の大事を娘に知ら

せる伝達者にすぎない︒そうして右に述べた一切の粉飾を棄ててみる

と︑写経と松王の物語の上に乗つかったのは唱導風の放浪文学という

ことになろう︒

平家の物語に松王こんでいの物語が加ったあたりに︑経島の来迎寺

と関係の深い唱導があったと思う︒それを土台にして高野聖風の国

春・夕月女の物語が出来上ったのであろう︒阿波民部重能が五条の大

納言国綱となったのも恐らくその過程のことで︑物語は全体として王

朝的な貴族趣味が横溢するようになったのである︒しかし舞曲として

独創的なのは︑どの部分でどの程度であるかは勿論分らない︒ただ全

体的に見て︑たとえ元は高野聖の語りであっても︑国春・夕月女の物

語に王朝風な肉付けをし︑潤色を施して語ったのは舞々の連中である

舞曲の研究Ⅱ︵室木弥太郎︶ う︒例えば一切経がいつのまにか法華経になっているが︑これは法華 経礼讃の表われとして︑﹁満仲﹂を始め舞曲には一般的なことである︒ これも舞々の信仰と関係がありそうで︑そうと決定する資料を欠いて いるのである︒

しかしこういうことはいえそうである︒舞曲﹁築島﹂の狂言廻しの ︑︑︑︑ ような存在に︑暦の博士︵占方︶で清明の流れ安倍のやすうぢという

ものがある︒この人物は都合三回発言しているのであるが︑その発言

は一貫していない︒第一回の発言では︑占いの結果として島を築きな

さい︑しかし一度には成就しませんという︒第二回目は︑占いでは三

十人の人柱が必要だという︒そして三回目は︑人柱の代りに︑石に法

華経を書いて沈めたらよいというのである︒全くいい加減な発言で︑

浄戒はその通り実施したのであるから︑混乱の責任は︑浄戒よりもむ

しろ泰氏にあるともいえそうである︒しかしこういう陰陽師をなぜ登

場させたのか︑それは浄戒の意志快定は彼の発言によったのであるか

ら︑占方の発言の重要性を強調したかったのであろう︒特に第三の発

言は前の発言︵占方︶とひどく矛盾するのであるが︑実はその矛盾は

どうでもよいのであって︑彼の学識とヒューヒニズムを誇示したかっ

たのであろう︒しかもその発言は︑占いによったのではなく︑泰氏自

身の身を挺しての直言である︒

籾もはかせのやすうぢは︑なぎさにかなしむ︵人柱の︶有様をみて︑

是はひとへにやすうちが︑ごうとなりなむ事こそ︑何よりもって口

惜さょとおもひ︑観音堂︵の浄戒︶に参り庭上にかしこまり︑

法華経は釈尊一代の説教の中の経王であるから︑これを一万部書写

し︑三十人の人柱の名前を記し︑沈めの石には年号日付を書いて︑海

底の竜神に捧げたら︑島は必ず成就すると説くのである︒

七五

(6)

403

しかしそれ以上に重要なモチーフは︑国春と夕月女の父子の関係に

あると思う︒夕月女は父の助命のために身を棄てようと訴えるのであ

るが︑その感動的な場面については前に述べた通りである︒しかしわ

れわれが感動するのは︑娘のその潔さばかりではない︒むしろ﹁人の

子は宝にて︑わごぜは親のかたきなり﹂といいながら︑その娘との再

会を喜ぶ父の側にも︑それ以上の感動を覚えるのである︒国春は人柱

として沈められると決った時次のように思ったのである︒

角有くしと期たらば︑高野のみねにて露とも霜ともきゆべき物を︑

憂世にもしもなからへば︑姫が行衛やきくとおもひ︑かゞる修行に

おもひたって今更うき目を見る事よ︑かほとにうすき縁ならば︑何

しに生れ来りけむ︑うらめしのちぎりやとて︑おや子のちぎりをば 舞々には泰氏のような陰陽師に相当する︑生活の一面があったので はないかと考える︒それはこの作品に限らず︑例えば﹁景清﹂にも陰 陽師的な言説がかなり重要な意味を持たせているからである︒右の泰 氏の登場は︑舞々の陰陽師的側面の投影と私は考えるのである︒

先に述べたようにこの作品は︑人柱伝説︑特に松王健児のそれに乗

つかった作品なのである︒しかし人柱を肯定しているのではない︒松

王についていえば︑三十人の身代りに立った彼の献身が礼讃されてい

るのである︒泰氏という舞々自身の分身が︑三十人を救うことのヒュ

ーマニズムを熱烈に主張したのである︒これは要するに世のための献

身であり︑ヒューマニズムであって︑この作品の重要なモチーフであ

どの﹁親子の契り﹂の悲しさこそ︑この作品の最も重要なモチーフで

あるといえる︒それはまた舞曲全体を通じても︑最も重要なモチーフ るといってよい︒

今 し 更 に う 生 ら れ み 来 給 り ひ け け む り 、

舞曲の研究Ⅱ︵室木弥太郎︶

といってよい︒ 七六

参照

関連したドキュメント

新島が 8 年間過ごしたニューイングランドは 1620 年清教徒たちのプリマ

しかし,大学に入った頃から少し様子が変わって

大僧正については

「弟橘媛(オトタチバナヒメ)の入水」 人柱伝説の日本の文献における初出は、「記紀」の日本武尊神話に登場する弟橘媛入水

以二智慧一得し道。如二一国王一出在二園中一遊戯。清朝

三段論法 三段論法は三つの言明(二つの前提と一つの結論)から成り,そこに含まれる言明は A, E, I,

[巻頭コラム] 未来は目指すものであり創るもの ▪安宅 和人

 ――答えは、古代寺院の鬼瓦です。  6