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陸羯南における国民主義の制度構想(九)

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(1)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)

山 本 隆 基

*

目  次

(1)はじめに―国民主義・適中主義と制度構想―

(2)明治維新の課題と現実  ① 明治維新と国民主義  ② 官僚制発展の光と影

 ③ 国民勢力の台頭(以上,本誌第 48 巻第 3・4 号)

(3)第二維新と国民主義の制度構想  ① 中間考察―国民主義の国家観―

  (ⅰ)積極国家  (ⅱ)積極政策  (ⅲ)行政国家     (ⅳ)権力分立

 ② 官僚制と議会

  (ⅰ)官僚制と議会の分立  (ⅱ)予算案修正問題に関して   (ⅲ)政府・自由党接近問題に関して  

  (ⅳ)初期議会観(以上,本誌第 49 巻第 1 号)

 ③ 議会と政党

  (ⅰ)議会と政党 (ⅱ)大同団結運動    (ⅲ)初期議会前の自由党と立憲改進党    (ⅳ)初期議会期の自由党と立憲改進党 

  (ⅴ)政党構想―政策政党の政策連合(以上,本誌第 49 巻第 2 号)

 ④ 議会と選挙   (ⅰ)国民主義と選挙

  (ⅱ)直接・制限選挙と自由選挙

 *福岡大学法学部教授

(2)

  (ⅲ)衆議院議員選挙評

  (ⅳ)議会・政党・選挙(以上,本誌第 49 巻第 3・4 号)

 ⑤ 中間団体(その 1)―地方団体   (ⅰ)国民主義と地方団体

  (ⅱ)市制町村制・府県制郡制・行政裁判所   (ⅲ)官民軋轢・大同団結・実業者

  (Ⅳ)構想と現実―政府・官僚制・政党に対する批判    (以上,本誌第 50 巻第 2 号)

 ⑥ 中間団体(その 2)―社会団体   (ⅰ)国民主義と社会団体   (ⅱ)実業団体と農商務省   (ⅲ)実業団体と政党

  (ⅳ)中間団体と国民主義(以上,本誌第 50 巻第 3 号)

 ⑦ 内閣政治

  (ⅰ)国民主義と内閣政治―内閣統治権論と内閣責任論   (ⅱ)政党・官僚内閣積勢論

  (ⅲ)大同団結運動と政党内閣論   (ⅳ)初期議会と官僚内閣論

  (ⅴ)制度の構想と制度の現実(以上,本誌第 52 巻第 1 号)

(4)第二維新と国民的天皇政  ① 本節の課題

 ② 朝野の功利主義思潮に対する批判  ③ 国民的天皇政の提唱 

  (ⅰ)天皇統治権―主権・執中権・精神的融和力   (ⅱ)神道思想(その 1)―皇統の万世一系性・神聖性

  (ⅲ)神道思想(その 2)―道徳神道と政教分離(以上,本誌第 53 巻第 4 号)

  (ⅳ)神道思想(その 3)―習合神道:中国・西洋思想の導入と功利主義思潮の  修正

  (ⅴ)神道思想(その 4)―国民神道

  (ⅵ)国民的天皇政―天皇・神道思想と制度構想論の協働(以上,本号)

(5)結び

 ① 制度構想と国民主義・適中主義

 ② 国民主義と世界主義―ルソー自然状態論への共鳴と朝鮮国民主義への共感

(3)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

(4)第二維新と国民的天皇政

③ 国民的天皇政の提唱

(Ⅳ)神道思想(その 3)―習合神道:中国・西洋思想の導入と功利主義思 潮の修正

前稿で見たように,羯南は,天皇統治権の思想的支柱を,幕末期以来の国 学者や神道家の神道思想の見地を継承して,万世一系天皇の観念を中核とす る神道思想に求めた。しかし,羯南は彼らとは異なり,神道は来世の救済を 旨とする宗教思想ではなくて,明治政府主流の神道観と同じく,現世の人 民の安寧・幸福を旨とする道徳思想である次第を強調し,政教分離の立場を 採った。次に羯南の神道思想に於いて注目すべきは,国学者や神道家が中世 来の習合神道の伝統を批判して,中国や西洋,特に西洋思想の導入に消極 的,あるいは否定的態度を採るのに対して,羯南が,徳川時代までの習合 神道の歴史を評価すると共に,改めて,神道思想の中に,西洋思想を導入す べき旨を主張し,新習合神道と言うべき見地を提唱している点である。さら に,その点との関連で注目すべきは,羯南が自らの神道思想の内容を,中 国・西洋思想の導入を通して形成していると言う点である。前稿で言及した ように,羯南は,明治 20 年代初頭,我が国の朝野の両領域に蔓延していた 功利主義思潮を厳しく批判したが,彼がそれに替えて如何なる内容の道徳思 想を提唱したかと言う点が,海外思想の導入に関する彼の所説を見ることに よって明らかになるのである。本項では,以上の二点について考察を進めて 見たい。

羯南は種々の論説で,国学者や神道家の鎖国・排外主義に対する批判を吐

露しているが,例えば,論説,「国風維持の要」の中では,こう言っている。

(4)

「・・・苟も其社会に生れ,其社会の一員たるを得る所の者は,其の由来せる固有の道義に 培植を加へ,固有の文化に拡充を加へ,上は先人の恩徳に報じ,下は後昆の承統に資せざる 可からず。之を社会に対するの徳義とはいふなり。」(西田長寿・植手通有編『陸羯南全集・

第三巻』みすず書房,425 頁,以下,3-425 と略記する)

「・・・吾人は有らんかぎりの心力を効して以て益々我国の道義を扶植し,愈々我国の文化 を拡充し,洪大に洪大を加へ,鞏固に鞏固を致すことを勉めざるべからざるなり。」(同頁)

神道家の復古・国学思潮は,本居宣長の反儒仏思想の系譜を徹底して,中 国・西洋思想を批判して,その導入を拒むものであった

(1)

。それに対して 羯南は,日本固有の「道義」・「文化」,つまり神道思想に関して,旧来の者 を徒に墨守するのではなく,それに,「培植」を施し,「拡充」を図ることが 重要であると主張する。彼は神道思想の発展・充実のために,中国や西洋の 思想を加味することを薦めている。羯南の万世一系天皇の思想は,排外的・

固定的なものではなくて,開放的・発展的な性格を持っていたのである。か かる見地から羯南は,「尊王攘夷派」の主張を,「偏僻なる国民主義」・「チョ ン髷風の国民主義」(1-400)と批判して自らの国民主義と峻別した。また,

斯様な見地を,「旧思想」・「反動」(1-13)の思想と批判し,「一の執着心に 過ぎざるが如し」あるいは,「執着は以て宇内の大勢に抗するに足らず」と 糾弾した(参照,1-658)。そして,よく引き合いに出されて来た次の言葉 は,斯様な文脈において発せられているのである。

「国民的精神,此の言葉を絶叫するや,世人は視て以て夫の鎖国的精神又は夫の攘夷的精神 の再来なりと為せり。偏見にして固陋なる者は旧精神の再興として喜びて之を迎へ,浅薄に して軽薄なる者は古精神の復活として嘲りて之を排したり。・・・吾輩が国民論派・・・を唱 導するや,浅薄者軽薄子の嘲りを憂へずして,寧ろ夫の偏見者固陋徒の喜びを憂ふ。」(1-64)

羯南は,ここで,先ず何よりも,国民精神=神道思想の拡充・発展を拒む

(5)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

「偏見者固陋徒」と自らの立場の違いを峻別することに意を用いたのであ る。羯南は神道と儒教の習合を認めると共に,新たな神道と西洋思想との習 合も積極的に認めるのである。  

しかしながら,同時に羯南は,中国・西洋思想の導入に際して,一定の枠 を設けている点に留意しなければならない。つまり,両者の導入は,日本固 有の道義と文化つまり万世一系天皇思想の拡充・発展に資する者であり,そ れを破壊する者であってはならないという点である。では,羯南は,日本固 有の道義・文化なる者の中身について,どう考えていたのか。彼は著書,

『近時憲法考』において,明治維新の王政復古の精神,つまり,道徳神道の 内容・教義について,次のように説明している。

「蓋し『復古』と云ふは百般の事態を古に復するの意にあらずして,為政の精神を古先王の 徳風に復するの意味たるや知るべし。故に維新改革は啻に復古の業のみにあらずして,又た 革新の業と云ふべし。我が先王の遺せる精神は国家の統一と君民の同慶とにあるが故に,苟 も此精神に違はざる限りは,智識を世界に求め,天地の公道に基くを勉むべきなり。」(1-9)

羯南は,明治維新の目的が,「復古の業」と「革新の業」の双方を含むも のであるとする上述の見地に基づいて,万世一系天皇の思想が持つ日本固有 の「為政の精神」=政治理念を,「国家の統一と君民の同慶」という簡潔な 命題を以て提示している。そして,「国家の統一」は,「君民の同慶」を待っ て成就するから,羯南の道徳神道の教義的内容の核心は,「君民の同慶」と 言う点に集約されると言ってよい。羯南の道徳神道あるいは国体思想は,煩 瑣な教義条目を掲げることによって,頑迷かつ閉鎖的になることを避けて,

「国家の統一と君民の同慶」という言うなれば,最大限綱領を提示し,それ

との兼ね合いで,他国の思想・文化を導入する余地を残し,神道思想の発

展・充実の可能性を保証しているのである。また,羯南は別の箇所で,「君

(6)

民の同慶」が,「日本の国民精神より自然に出づべき政義」(1-20)であると し,その意味するところを次のように,敷衍して説明している。

「日本の皇室は建国以来日本臣民の奉戴せる皇室なれば,日本臣民たるものは万世不易に之 を奉戴するの懿徳を守らざるべからず。日本の臣民は皆な建国以来皇室に忠愛なる臣民の子 孫なれば,日本の皇室は現在及将来に向て此の臣民を撫養し,一視同仁決して恩仇の別を為 すべからず。日本の政府は万世一系の天皇の勅命を奉じ,万世自由の人民の委信を受けて存 立すべきものなれば,民望を利用して皇権を蔑如すべからざると同時に,皇威を擅仮して民 権を軽侵すべからず。此等は皆な日本の国民精神より自然に出づべき政義にして,帝国憲法 の本文如何に拘はらず朝野共に確遵すべきの大綱なり。」(1-20)

この引用文は,前段で,「君民の同慶」なる神道思想の中核的教義を敷衍 し,後段では,政治制度たる政府や議会が,この教義を実現していくための 機関・方便である旨の思想が追加されている。羯南は,明治維新の精神は,

それまでの武門専制政治を改めて,「君民の同慶」なる神道思想の理念を再 建・成就することであったと考え,「我が日本の維新に於て第一に生起した るは政権の統一と人権の自由なり」(2-367)と述べている。帝国憲法の発布 を中心とする第二維新の政治改革は,明治維新以来の神道思想に基づく政治 改革作業の総決算として位置づけられているのである。

以上のように,羯南にとって,明治維新=王政復古は,純粋の復古=「反 動」を意味する者ではなかった。彼の神道思想=万世一系天皇の思想は,

「君民の同慶」という根幹を堅持した上で,その拡大・発展のために中国・

西洋思想との習合を積極的に薦める者であった。そして羯南は,日本人は既

に,明治維新以前の時期に,外国思想との習合を通して,神道を豊富化して

きた歴史的実績を持っていると見ていた。彼は,原始・皇室神道の時代から

神仏習合・神儒習合の時代への転回を神道・国体思想の発展と捉えているの

(7)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

である。先に引いた論説,「国風維持の要」の中で,こう言われている。

「蓋し我帝国の斯くの如く洪大鞏固なる社会を致せし所以のものは,天日嗣と継紹し来れる 尊厳無比の皇室の在るありて,寔に此一大社会の上下古今を貫ぬきて道義の幹根となり,文 化の源泉となるものあるを以てなり。先人先天に善く此大義を会得せり,印記せり。故に他 の道徳文物を採用して我国に資するに当り,未だ嘗て一たびも其義例を誤らざりしなり。」(3- 425)

  

日本史を顧みると,日本人は,万世一系の皇室が日本社会を貫く道義と文 化の礎石であることを踏まえ,他国の「道徳・文物」の導入を行ってきた。

例えば,1500 年前,儒教の導入に際して,君臣父子夫婦長幼朋友の五倫道 徳は,採用したが,決して,「禅譲放伐の義」は,取り入れなかった(参 照,3-425)。羯南は,易姓革命の思想が我が国の神道思想に悖るものとして 批判している(参照,3-672)。また,君臣の義なる思想について見ると,

中国に於ける「臣」なる者は,「在官の人士」に限られるのであるが,日本 の場合は,「凡そ皇孫のミコの知し食す所の者」は「士農工商」に関わりな く,全て,「臣」と認められた(参照 3-425)。さらに,仏教も,千有余年前 に,「民心化導の最良方便」として,「上下都鄙」の別なく広く採用された が,「国家の典礼たる神道をば決して棄廃慢侮せざりし」と言った具合であ る(参照,3-425)。羯南は,斯様な次第が生じた理由について,こう述べて いる。「然りし所以のものは此の日本なる特社会の道義の大本に照して認容 す可からざるものあるを以つての故なり。」(3-425)日本人は,外国道徳の 受容の方法に関して,既に,古くから貴重な実績を積み重ねて来ているので ある。

さらに羯南は,神儒習合の伝統は,明治維新以降も活かされていると考え

る。彼は,著書,『近時憲法考』の中で,1868 年に明治政府が出した「政体

(8)

書」の中で,儒教の道徳思想が取り入れられている点を高く評価している。

「当時の立法者は智識的立法者にあらずして道義的立法者なりし故に,泰西の法律主義を感 受したれども,又た支那の道義主義を失はずして,周孔の道は彼れ等尚ほ能く之れを尊重し たりき。見よ,三代の政道は『大宝令』と『万法精理』との旁に排列せられて在るを見よ。

曰く,親を親しみ,曰く,賢を尊ぶ。是れ皆な三代の政と世人の称道する所にあらずや。」(1- 11)

羯南は,「政体書」の中に,「三代の政」つまり尭舜禹の治世に範を取る

「儒教の・・・極めて重要な概念

(2)

」とされている親親尊賢の思想が大宝 律令と『法の精神』(モンテスキュー)と並んで採用されている点を評価 するわけである

(3)

。しかし,明治維新以降,功利主義風潮の勃興・蔓延に 伴って,この伝統を糾弾する傾向が顕著になって来た。羯南は,論説,「原 政」の中で,「道徳政治」を「腐儒の陳論」(1-136)あるいは,「支那腐儒の 陳説」(1-138)などと糾弾する「在朝在野の政事家」(1-138)を批判してい る。

そして,1890 年,教育勅語が発布されると,二編の論説,「謹読教育勅 語」と「道論」を書き,その中に儒教思想が取り入れられた点を高く評価し た。羯南は,「綱常の道は,日本社会の柱礎」(2-748)であり,五倫は,「日 本国民固有の倫道」であり,「日本国民の慣習」であると述べている。(2- 749・750)つまり,儒教道徳は既に,明治維新に先立って神道思想と習合し て,神道思想=国民精神の重要な因子として組み込まれて来たと見たのであ る。羯南は,「皇室は仁徳の源泉である」(2-748)と述べ,「斯の道は古今に 通じて謬らず・・・国体の精華

4 4 4 4 4

(傍点は筆者)教育の淵源豈に斯の道を措き て他に求むる所あらんや」(2-749)と喝破している。

もっとも,羯南は中国から導入された儒教思想が,現実の政治

4 4 4 4 4

・経済体制

4 4 4 4

(9)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

と結びついて

4 4 4 4 4 4

,羯南の唱える天皇・神道思想の発展を阻害する負の側面を 持っていた次第について盲目であったわけではない。彼は,儒教が現実に専 制政治を招来した側面は厳しく批判している

(4)

。また,羯南は,中国の儒 教を金科玉条の如く崇めたわけでもない。

「二十四年前王政復古の必要ありしが如く,今日は実に人心復古の必要あるなり。然れど も,吾輩は天下の人をして旧幕府時代の思想を有せしめ,黒船打攘ひの精神を喚起せんとす るには非ず,又忠孝の道を明かにせんが為め四書五経を以て唯一の3 3 3(傍点は筆者)教科書,

社会道徳の標本3 3(傍点は筆者)とせんとするに非らざるは勿論なりとす。」(3-178)

だから,羯南は,古代期から明治維新期に至る神道と中国思想の習合の実 績を評価すると共に,明治維新期から本格化した神道と西洋思想の新しい習 合作業をも積極的に是認したのである。彼は新聞『日本』の創刊号の中で,

西洋精神文明の中に受容すべき点が多々ある旨を指摘している。

「『日本』は国民精神の回復発揚を自任すと雖も,泰西文明の善美は之を知らざるにあら ず。其の権利自由及び平等の説は之を重んじ,其哲学道義の理は之を敬し,其の風俗習慣も 或る点は之れを愛し,特に理学,経済,実業の事は最之を欣慕す。・・・故に『日本』は狭 隘なる攘夷論の再興にあらず。博愛の間に国民精神を回復発揚するものなり。」(2-3,同旨,

2-5)

羯南は,自紙の社是が西洋の文物を拒む「攘夷論」への回帰ではなく,

「泰西文明の善美」を取り入れて,以て,「博愛の間に国民精神を回復発揚

する」点にある旨を述べている。彼が称揚する「泰西文明の善美」は,物

質文明だけでなく,精神文明の分野も含めて,相当,多岐に渉っている。彼

は,『近時憲法考』においても,同様の主旨を次のように言っている。

(10)

「・・・日本近世の憲法は皆な前代列聖の遺意に基き,世界文明の気運4 4 4 4 4 4 4(傍点は筆者)に応 じたるものならざるはなし。刀筆の吏が文墨を舞はして製造したるにあらずして,古昔王政 の精神が文章と為りて世に現はれたるものに外ならず」(1-18)

此処で言われる「世界文明の気運」とは,世界文明の中心を占めるに至っ た西洋文明の伝播・普及を指している。羯南の神道思想は,西洋思想を導 入する余地を充分に,持っていた。羯南が,『近時憲法考』の中で取り上げ た,前掲の「政体書」を初めとして,明治憲法に至る諸々の憲法的文書はそ の所産であると理解されている。天皇・神道思想の根幹たる国民精神を基本 的に堅持した上で,他邦の精神文明を摂取するという姿勢はここでも貫かれ ている。彼の歴史主義的思想の中には,発展史観的な要素が加味されている のである。

そこで,次に,羯南の神道思想に見られる西洋思想の導入の具体相に立ち 入って見たい。彼は,上の引用文において,「其の(西洋の-筆者)権利自 由及び平等の説は之を重んじ,其哲学道義の理は之を敬し・・・」と述べて いる。以下,その中身を探って見ることにする。明治維新期から,我が国に は諸々の西洋思潮が大量かつ急速に導入されたが,その中で羯南が批判的に 取り上げた者の中に,よく知られている様に,自由党系の民権思想に大きな 影響を与えたルソーの政治思想がある。彼は,メストルのルソー批判の書を

『主権原論』と題して翻訳・出版したことを手始めに,数々の論説の中で,

ルソーの自然権思想や社会契約論を,日本の国民精神=万世一系天皇思想に

悖るという理由で以て批判した。しかしながら,同時に,羯南は,ルソーの

思想に含まれている功利主義思想に対する批判の部分に関しては,高い評価

を行っている。彼は,論説,「競争の説」の中で,次のように述べている。

(11)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

「ルーソー曰く,『人其の小智を濫用して天の秘密を撥く。此を以て天の罰を受けて其の自 由を失ふ。』吾輩は此の説を見て頗る奇矯に失するものと做し,彼れ世の学術技芸の弊を非毀 する,其の極終に社会の文明を無視するに至れることを笑ひたり。然りと雖ども,吾輩は今 まにして而後に一真理の其の説に寓することあるを見る。小智曲学の社会を害する亦た甚い かな。」(3-399)

この冒頭のルソーの引用文は,もう一箇所,論説,「原政」の中でも引か れている(参照,1-132)。上の引用文の後段で,羯南は,ルソーによるキリ スト教の原罪・堕落思想を援用した文明批判と功利主義批判に関して,「一 真理のその説に寓する」と述べ,また,別の論説の中では,「其志気の剛大 なる百世の下灼として尚ほ光輝あるを覚ふ」(2-660)として肯定的な評価を 行っている。彼がここで,「小智曲学」と批判しているのは,「優勝劣敗は生 存競争の天則なり」(3-399)と唱えたスペンサー,並びに彼に依拠した加藤 弘之たちが唱えた,所謂,社会進化論である。周知の様に,スペンサーの社 会進化論は,スミスやベンサムの功利主義思想を更に,極端に押し進めたも のであった。羯南は,前稿で言及した様に,福沢諭吉に繋がる「三田学派」

に対しても,厳しい批判を投げかけていた

(5)

。また,同じ関連において,

西洋のマキャヴェリ,中国の韓非子,蘇洵の思想も批判的に取り上げられて いる(参照,9-590,4-451)。

しかしながら,羯南の斯様なルソーに対する賛美とスペンサー・加藤弘

之・福沢諭吉たちに対する批判は,彼が,功利主義思想の諸要素を全面的に

拒絶したことを意味しない。彼は,必ずしも,スミス以来の自由・功利主義

思想を全面的に拒絶しているわけではい。彼は上のルソーの引用文の前段に

おいて,「彼れ(ルソー―筆者)世の学術技芸の幣を非毀する,其の極終に

社会の文明を無視するに至れることを笑ひたり」と述べているのである。確

かにルソーは,例えば,『人間不平等起源論』の中で,未開社会から文明社

会への移行と共に,「真の必要からではなくむしろ他人を凌駕しようという

(12)

目的から,すべての人に,たがいに害し合うという悪傾向

(6)

」が生まれた と指摘し,文明社会の存在自体を否定するかの如き言辞を吐いている。羯南 は,斯様なルソー思想の機軸をなす部分を一笑に付すかの様な態度を採って いる。彼はまた,上記の「原政」の該当箇所でも,斯様な言辞に関して「奇 矯」・「奇言」(1-132)の類であると言っている。

だから羯南は,人間が欲望そのものを完全に克服することは不可能である と共に,それどころか,必ずしも其の必要はない旨を再三,説くことにな る。以下に,代表的なものを二点,引用してみたい。

「吾輩は固より今日は,猶ほ人間社会の甚だ不完全なるを知る。故に敢て無垢無瑕疵の黄金 世界の如くなれと責むるが如き空望を抱くものに非ず。又吾輩は固より漫に道学先生を学ん で,一切集生を感化せんと試みるものにも非ず。」(1-560)

「然れども吾輩が此論題(「士」という論題-筆者)を掲るを見て,・・・或は以て封建的残 炎を郡県時代に吹き煽がんと欲する者と想うもあらん,或は又不生産的骨董を今の生産世界4 4 4 4

(傍点は筆者)に強売せんと欲せる者と想うもあらん。然れども吾輩実に此くの如きには非 ざるなり。・・・吾輩其れ何を苦しんでか,此等骨董品を今日の世界に陳列せん」(2-699 ~ 700)

この文章によって,羯南は老荘流の無我・無私・無欲の境地を求めてい たのではないことが分かる。また,徳川時代の朱子学の中には,「不生産的 骨董」たる面,つまり,人間の功利的活動を根本的に拒む見地が含まれてお り,それは,「生産世界」の展開・発展を阻害するものと避けられている。

彼は,儒教の称揚が,徳川時代の正統的朱子学の道徳思想への復古を説く者

でないことを強調し,ルソーの文明社会批判に,全面的には,与する者では

ないことを明言している。羯南は,既に,本稿の「社会団体」の項でも言及

したところであるが,旧来の士族・壮士社会ではなく,新興の経済・実業社

会こそが「国家の要素,社会の骨髄」(1-322)或いは,「全社会の根底」(2-

(13)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

74)であると喝破していた。だから彼は,次のように述べたのである。

「世界の文明は猶ほ社会の文明の如く,各種能力の協合及び各種勢力の競争4 4 4 4 4 4 4(傍点は筆者)

に因りて以て其の発達を致すものたるや疑なし。」(1-67)

「人間社会亦た争なき能はず。唯だ其の争を公且大にせんことは,庶幾くは人道に遠かるの 甚しきを免れんか。」(1-144)

かくして,羯南の主眼とする所は,「物質的文化の偏処

4 4

(傍点は筆者)を 救ふ」(2-704)点にあったのである。彼にとって,神道の道徳思想は,老荘 流の如く欲望の根絶を求めるものではなくて,赤裸々な欲望の統制・修正 を求めるものであった。彼は,欲望と競争そのものの完全廃絶を求めている のではなくて,「公正」な競争を求めているのである。無欲・無我の世界で ある「人道」なる究極理想からの遠近如何が問題とされたわけである。羯南 は,この様な観点から,老荘とルソーを並べて,次のように批判している。

「激変時代の思想は改革を好むの点に於ては多少の真理を含むや疑なしと雖も,改革に偏す るの点に於ては一の狂思想たることを免れず。・・・ジュネーヴの窮措大ルーソーなる人が其 の境遇に促されて一狂思想の代表者と為り,『自然状態』を取りて人類生存の真理なりと主張 せしは世に隠れなき所にあらずや。・・・夫の狂思想は元と幾分の真理を含むに相違なきも,

若し顧慮せずに之を敷衍するときは,自ら・・奇怪なる結果に到着せざるを得ず。尺度を折 り衡量を砕けば民に争ひ無けん。老荘の説も亦た然り。」(3-365-366)

 

羯南は,ルソーや老荘の見地の中に,「奇怪なる結果」つまり,文明社会

の解体という結果を招来する「狂思想」とも言うべき因子が含まれていると

批判する。そして,彼はそれに対して,「尺度を折り衡量を砕けば」という

適中主義の条件に見合う道徳思想を求めて,それを西欧思潮の中に見出して

(14)

行くのである。彼は,上引きの論説,「競争の説」の中で,19 世紀後半期の 西洋思想界に出現した「社会改良」の思想に注目し,その思想的意義を次の ように紹介している。

「然りと雖ども,欧州の識者は早く此の失計を悟り社会改良を以て人欲を内に制せんことを 企て,国際平和論を以て人欲を外に抑えんことを謀る。事甚だ迂に似たりと雖ども,道心の 発動を促し人間の真幸福を建つる其の目的は高しと云ふべし。欧州に在りては既に内部の競 争を厭ひ又外部の競争をも厭ふに至る。曾て文明進歩の本と為したる人欲競争をば今や視て 社会道心の破壊力と為すに至る。是れ実に方今欧州の事情なり。」(3-400)

さらに,羯南は論説,「政治界に於ける経済思想の発達」のなかで,同様 の主旨を次のように言っている。

「人情は私利に厚くして公義に薄きの傾きあり。故に往昔希臘時代の学者,並に昔時支那流 の道学者は,経済,即ち貨殖の事を以て,道義と相容れざえる如きの説を作したり。然れど も 19 世紀の今日は,斯く事実一方を標準とするの僻説4 4(傍点は筆者)を許さずして,経済の 学説は公私調和の理想を基とするに至れり。(1-644)

羯南は,「19 世紀の今日」の段階で,それまでの個人主義・功利主義の

「失計を悟り」,それを克服すべく,西欧に新しく出現した「社会改良」つ

まり,「公私調和の理想」を説く思潮に注目している。彼は,それを唱導し

た人物やその思潮について,直接には,明示していない。しかし,ここで

羯南が念頭に置いているのは,19 世紀後半期から 20 世紀初頭の時期にかけ

て,スミス,ベンサム,スペンサーなどの個人主義・自由主義・功利主義を

批判的に摂取して,J. S. ミル,ウエッブ夫妻,バーナード・ショウ,ホブハ

ウス,ラスキ,トーニーなどによって提唱され,この時期の所謂,福祉国家

(15)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

や社会政策の創設に活用された思潮である。かつて,ダイシーは,『法律と 世論との関係-第 19 世紀のイギリスに於ける-

(7)

』と題する書物の中で,

19 世紀後半期以降に,彼らの手によって遂行された新思潮の出現を,個人 主義から「団体主義 collectivism」への転換と呼んだ

(8)

。そして,羯南が上 の引用文で用いている「社会改良」という観念は,ダイシーが団体主義の エキスを説明した,「団体主義は社会改良 social regeneration の希望であ る

(9)

」という文章の中に含まれているのである。羯南は,19 世紀後半期に 新たに興った団体主義の思潮に,いち早く着目していたのである。

ここで,多元的国家論の旗手,ラスキに拠って,団体主義の道徳思想を見 ておきたい。ラスキは,羯南より後の世代の人物であるが,彼の主著『政治 学大綱』は,ウエッブ夫妻に献呈されている。ラスキは功利主義思潮の特色 を「国家を私利によって動くひとびと・・・の団体」と見る「個人主義的」

見地に求め,「ここには,仲間と協同してつくる道徳的秩序という利益への

個人の分け前,という意識は少しもない」と批判した

(10)

。「仲間と協同して

つくる道徳的秩序」と言う思想の中に団体主義の見地が表現されている。ま

た,同様の主旨を,「自由は・・・積極的なものであり・・・単に拘束がな

いということだけを意味するものではない

(11)

」と述べている。しかし,同

時に,ラスキは,自由主義・功利主義に含まれる諸要素を全面的に拒絶して

いるわけではない。彼はこう述べている。「法の目的は人間欲望の満足であ

る・・・。人間欲望とは少数者の欲望でもなく,法を適用するひとびとが正

当と考える欲望でもなくて,法が遭遇する欲望の総体を意味する。

(12)

」つ

まり,彼は個々人の「衝動の利己的性質を排し」,個々人の欲望が自制の力

によって,或いは国家の力によって調整されて,「社会善 sicial good」が実

現されるべきであると主張したのである

(13)

。彼は斯様な見地は,「ベンタム

の理論を特殊に応用したもの

(14)

」であると指摘している。そして,ラスキ

は,斯様な立場の歴史的位置付けに関して,「そのとき諸社会の運動は,メ

(16)

インの見解におけるように,もはや身分から契約への運動ではなく,契約か ら関係への運動である」と述べた。彼は自らの思想的拠点が,それまでの主 潮であった個人主義・功利主義の「契約論」ではなくて,自らの主著を献呈 したウエッブ夫妻以降の,現代的な「関係説 doctrine of relation」つまり団 体主義の系譜の上にあることを宣言したのである

(15)

そして,イギリスを中心として展開した団体主義思潮は,広義に採れば

4 4 4 4 4 4

, 羯南が屡,引き合いに出すブルンチュリ,シュタールに加えて,ヘーゲル,

リストなども含めた,19 世紀ドイツの国民主義思想家たちにも見られる者 であった。彼らは,イギリスを中心として展開した個人主義・功利主義の 思潮に批判的修正を施して行った

(16)

。さらに,宮村治雄によれば,1871 年 の普仏戦争以降,フランスにブルンチュリーやシュタールなどのドイツ思 潮の影響を受けた一群の人物が現れた。羯南は,その中で特に,ルロア・

ボーリュー Leroy-Beaulieu に強い関心を寄せ,1890 年に刊行された L’ Etat moderne et ses fonctions を,『今世国家論』(1894 年)と題して刊行した可 能性を示唆し,彼がボーリューの影響を受けた次第を指摘している

(17)

。稲 葉克夫も,羯南が「ルロア・ボーリューの『今世国家論』をいつも身辺にお いた

(18)

」次第を紹介している。

羯南は,斯様な西欧世界における思想転換の理解を踏まえ,論説,「自由 主義如何」を発表した。彼は,この中で,明治維新の開国によって西洋から 齎された自由主義観の諸相に反省を加えつつ,「特に近世

4 4 4 4

(傍点は筆者)に おける自由主義」(1-34)こそが,「正当なる自由主義」(1-29)・「真の自由」

(1-31)主義であると主張し,自らの自由論が団体主義思潮の系譜に立つ 者であることを明示した

(19)

。彼は,この論説の中で民権陣営の「昔時の性 法主義」(1-34)の自由観と明治政府陣営の国家主義の自由観の双方を批判 し,団体主義の自由観を「真の自由」であると主張したのである。それは,

既述のダイシーやラスキの所論と軌を一にして,「国家の権威」と「個人の

(17)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

自由」の二つの要素が,「二者互いに相い関聯

4 4 4 4

(傍点は筆者)してその制限 を相為す

4 4 4

(傍点は筆者)」(1-32)呈の者であった。彼は,西欧における古典 的自由主義から団体主義への移行という思潮の新動向を承知して,後者の日 本への導入を主張したのである

(20)

。つまり,羯南は団体主義思想が神道思 想=国民精神の保持・発展に適うものと理解したわけである。だから彼は,

「日本の自由主義は維新の改革に先立ち早く既に日本有識者の脳裏に感染し たるや明らかなり。ああ自由主義,汝は日本魂の再振と共に

4 4 4 4 4 4 4 4 4

(傍点は筆者)

日本帝国に発生せしにあらざるか」(1-90)と述べたのである。なお,西欧 の団体主義思想は,上掲の註(8)で分かるように,古典的自由主義を批判 して生まれたもう一つの思潮,社会主義・共産主義思想とは一線を画してい た。羯南においても,事情は同一であった

(21)

以上の本項の所論を纏めてみよう。彼は,国学者や神道家の万世一系天皇 の思想を受容していたが,彼らとは異なって,それを固定的に理解していな かった。彼は,日本人の国民精神を「君民の同慶」という簡潔な観念に集約 し,それに適う海外思想を積極的に導入して,その拡充・発展を志向すべき 旨を主張した。その点との関りにおいて,彼は,中国思想の導入による習合 神道の伝統を評価し,さらに,明治維新以降の西洋思想の導入にも強い関心 を示した。斯様な次第において,羯南の場合,神道思想は儒学,仏教,そし て西洋の諸思想との習合が可能であり,習合しなければならないものであっ た。かくして,彼の天皇論は,敢えて言えば,神道思想・中国思想・西洋思 想の三位一体の結びつきから成り立っていると見ることができる

(22)

次に,神道思想と中国・西洋思想の習合の態様を考察することを通して,

羯南における神道道徳の中身を探ることが出来た。彼は,20 年代初頭に,

官民の両領域に蔓延していた功利主義思潮が,憲法制定,議会開設,市町

村制・府県制などの制度改革の実効性を妨げているを厳しく批判した。そし

て,それに代わる道徳思想として注目したのは,19 世紀後半期の西洋世界

(18)

で,それまで支配的であった自由主義・功利主義に替わって興って来た団体 主義の思潮であった。団体主義の思想は,功利主義を全面的に否定し,無私 無欲の境地を唱える禁欲主義の思想ではなかった。それは,人間の功利的衝 動の暴走に一定の歯止め設けて,人間相互の社会的関係を構築して行くこと を目指す者であった。団体主義は,謂わば,修正功利主義の境地を主張する 者であった

(23)

。羯南は,道徳神道の中身を斯様な西洋思想で以て充当しよ うとしたのである。たしかに,羯南の,習合神道論の中には,儒教,仏教,

老荘思想,ルソーの思想など,禁欲主義の色合いを帯びた思潮が取り込まれ ている。しかし,これ等の禁欲思想は,そのままで,天皇・神道思想の中身 となっているわけではなく,功利的衝動の暴走を抑制し,修正する能力とし て考えられているのである。日本人が,官民共々,自らの欲望の存在を認識 し,欲望の働きを反省する手立てとして禁欲思想の有用性が認められている のである。羯南の道徳神道は,人欲その物の克服を求める者ではなくて,

「利己的欲望の制御」(4-167)を求める者であった。羯南は色々な禁欲思想 を動員して,修正功利主義の境地を実現していくことを目指したのである。

羯南は,性善説と性悪説について述べた論説,「閑文字(?)」の中で,次の ように言っている。

「悪の方面を求めて人を評すれば人も猶ほ禽獣に劣る者あり,善の方面に付て人を視れば人 にして殆んど神に近き者あり。吾輩は神に近き者を標準として立論せよといふに非るも,禽 獣に劣る人を材料として倫道を言ふが如きは甚だ取らざる所。」(4-164)

羯南は,性善説と性悪説の何れを取るかに関しては極めて慎重であった。

彼の立場は,二つの内の何れでもあり,何れでもなかった。敢えて言えば,

両者の折衷説であった。しかし,性悪説に関しては,「甚だ取らざる所」と

述べ,拒絶の態度をより強く示している。彼は,人欲を適度に抑制しうる

(19)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

人間の能力-これは,先述の如く,彼が「狂思想」と名付けた者(ここでル ソーの「自然的善性」論,さらには,孟子の「四端」論を想起されたい)の 中に含まれているのだが-に期待し,それに賭けたのである

(24)

。斯様にし て,羯南にとって,神道思想の中核となるものは,時間的・歴史的継承性

(万世一系天皇)と空間的・現在的有機性(君民の同慶と国家の統一)とい う形式であり,その内容は,儒教と西洋思想によって充されたのである。丸 山真男は,日本の道徳思想の特色について,「われわれの国における善悪や 道理の観念は,儒教・仏教・キリスト教など,いずれにしても『外来』の教 義によってはじめて明確な規範性

4 4 4

を帯びたという事情がある

(25)

」と述べて いる。羯南の天皇・神道思想の場合もその例外ではなかったのである。

 

(Ⅴ)神道思想(その 4)-国民神道

前項では,羯南が唱えた道徳神道の内容に関る所説を検討した。次に羯南 は,斯様な道徳思想を内容とする天皇・神道思想が,日本国民の一部分の者 が占有する所となるべきではなく,国民全体の道徳思想たるべき旨を強調し て行く。道徳神道は国民神道であるべきだという訳である。その際,彼は明 治 20 年代前半期に現れた,政府,神道家,歴史家などの手による様々の形 を取った天皇・神道の謂わば,私物化傾向を批判することを通して,国民神 道の立場を打ち出して行った。以下,その次第について考察して見たい。 

羯南は先ず,明治 20 年代初頭の神祇官再興問題に注目している

(26)

。先述

の様に,神道家たちは,此の時期,政府が布教条例を発布して,神道を仏

教・キリスト教などの宗教と同等に扱わんとする意図を見せたことを憂慮し

(27)

。その際,神道家並びにその支援者の中に,神道は宗教ではなく現世

道徳であるとする政府寄りの立場を取る者が現れて来た

(28)

。彼らは,その

(20)

立場を前提とした上で,神祇官を再興して,それを政府内部に設置すべき旨 を主張した。その主張を表明した代表的文書が,23 年 9 月に佐々木高行・

千家尊福らによって提出された「神祇院設置につき建議」である

(29)

。羯南 は,この事態を踏まえて,論説,「政務と典礼,神祇院」(2-734 ~ 5)を執 筆した。彼はその中で,先ず,この建議の中で,これまでの神官と教導職の 非分離の主張,つまり,神道を宗教と捉える立場を改めて,「太廟(伊勢神 宮-筆者)を教門(宗教-筆者)より分離」している点を評価した。しか し,羯南は,当建議書が,再興神祇院を政府の内部に設置すべき旨を唱えて いる点を,「祭政一致の残夢」を遺して,「国家の典礼に属すべき宗廟の事を 以て之を政事の一部に置かんとする」と批判した

(30)

。伊勢神宮の管轄を政 治部局に任せることは,明治初期の祭政一致論とは逆に,伊勢神宮が政治に 従属する形の祭政一致論に陥っていると批判するわけである。羯南は,伊勢 神宮つまり皇室を宗教神道(神道家勢力)から分離するだけでなく,政治勢 力からも分離しなければならないと主張する。

「宗廟の礼典の如きは宜く神聖なるべし。妄に之を軽重左右すべからず。而して之を政務の 便否得失に依りて処理処置する政務に混ぜんとす,是れ豈に宗廟を尊敬する所以の道ならん や。」(2-735)

羯南は,政府に代表される政治勢力が,道徳神道の根源である皇室の礼典 に介入することを危惧した。是も又,宗教政治と同じく祭政一致の範疇に属 すると批判された。国民の道徳・典礼が宗教勢力や,政府勢力などによって 攪乱されてはならない。神道は,国民神道でなければならないのである。 

羯南は,神道勢力が,神祇官を政府内部に復興しようとした運動を,政

府の神道支配に繋がる者と批判した。彼は同じ見地に立って,「日本国民の

祖宗の大廟」(2-14)である伊勢神宮の所轄が行政官庁たる内務省に属して

(21)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

いる点を批判し,天皇直属の宮内省へ移すべき旨を主張した。彼は,論説,

「伊勢の太廟,皇室と行政府との関係」において,伊勢神宮は政治施設では なくて,国民の倫理・道徳上の施設であるから,行政官庁である内務省では なく,皇室に直属する宮内省が管轄すべきであると言う。また,議会が開設 されると,行政上の費用は議会の議決が必要となり,「太廟の取扱は議院の 一顰一笑に依りて其軽重をなさざるべからず」(1-534)という次第となる。

これは「太廟の神聖尊厳」(1-534)を損なうものである。羯南は,天皇・神 道が政府あるいは議会の占有物となってはならず,国民全体に帰属するもの であるべきだと主張するのである。

さらに,羯南は,論説,「神宮及内務省官制」(2-600 ~ 601)において,

明治 23 年の内務省官制の改正で,伊勢神宮の管掌が,依然として政府の一 部局である内務省社寺局に据え置かれた次第を批判し,それを歴代天皇の陵 墓の管轄と同じく,宮内省に移すべき旨を主張した。同様の主旨は,論説,

「大廟と山陵」でも繰り返されている。彼は,政府の態度について,「太廟 の宜しく諸陵の上に在るべきを忘れたるものの如し」(2-648)と批判してい る。そして,神宮の管轄を宮内省に移し,「以て国家の太廟に奉対する深意 を示」(2-648)すことを要求した。伊勢神宮は,国民道徳の施設であり,行 政・政治の世界と分離すべきであると言うわけである。羯南は,国民神道論 の立場から,「宮内は政務府に非ず」(3-202)と唱えたのである。

同質の問題に関わる者として,羯南は伊藤博文の書,『憲法義解』(以下,

『義解』と略記)を評して,天皇と政府を混同するかの如き解釈が施され ている点に疑義を表明している。彼は論説,「天皇と政府,伊藤伯の憲法義 解」において,本書に対する「疑惑」として,「此の著書中に於て,『天皇』

及び『政府』の二詞が往々同一の意義に用いられたるが如き」(2-79)点を

指摘している。羯南は,この論説の前半部分で,憲法第八条の解釈を問題と

して取り上げている。彼は本条を,字義通り,議会閉会時の天皇の緊急勅令

(22)

の発令権を定めたものと理解する。それに対して,彼の理解では,『義解』

は,政府が発令権を有していると解釈していると言うのである。その点が次 のように批判されている。

「此の解釈を読むものは如何なる感想を起す歟。憲法第八条の明文には『天皇は・・・法律 に代るべき勅令を発す』とあるに,伊藤伯は之を翻へして『政府は・・・勅令を発して法律 に代へ』と称せり。・・・伊藤伯は之を解して天皇は即ち政府なり,天皇が法律に代わるべき 勅令を発するは,是れ即ち政府が勅令を発して法律に代へるの謂なりと曰へり。吾輩は伯の 此の義解を見て,少しく濫に失せざる歟を怪むものなり。」(2-80)

そして,羯南は,斯様な憲法解釈は,「政府をして天皇の大権を侵さし むるもの」(2-809)であると断じている。次に,後半部分においては,第 八条と天皇の議会協賛の下における立法権を規定した第五条の関わりを論 じつつ,この『義解』批判が敷衍して行われる。つまり,羯南は,第五条 が立法権行使の「常例」を,第八条が「変例」を規定しているという点で は,『義解』の所論と一致するが,本著が,前者の権限を天皇に認めなが ら,後者の権限を,政府に属させている点を批判するのである(参照,2-80

~ 81)。天皇は国民全体に帰依すべき者であり,天皇と政府を同一視するこ とは認められない

(31)

。以上,羯南は,様々の問題局面を捉えて,所謂,「国 家神道

(32)

」とは区別された国民神道の立場を打ち出しているのである。

羯南は,政府や議会,つまり,政治世界の神道に対する干渉を批判すると

同時に,学問世界の動向に目を向けて,特に歴史学者たちの皇室・神道の扱

いを問題とした。彼らの中に,皇室の尊厳に抵触し,日本国民としての義務

を蔑ろにしている者がいると批判したのである。羯南は先ず,論説,「歴史

家及考証(1・2)」を書いて,「抹殺博士」と揶揄された重野安繹の仕事を批

判した。羯南が批判の対象とした素材は,「学士会院の講壇」(2-460)で行

(23)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

われた重野の報告であった。彼は,重野が桜井駅における楠公父子の決別の 事実性を否定し,『太平記』の著者とされる児島高徳の実在性を否定するな どの見解を吐露した点を批判したのである

(33)

「考証は事実の観察よりして事実以上の関係を明かにし,所謂故を温ねて新を知り,千百年 以前の事物と千百年以後の事物との接続を考へ得るも,穿鑿は只個々の事物を個々片々に拾 ひ上るのみにして,毫も形而上の関係を発見する能はず。」(2-461 ~ 2)「今日本歴史中に於て 比類なき忠臣孝子の遺蹟を穿鑿(而も断簡零墨に拠り)して其虚伝なるを摘発し,揚々得色 あるが如きは苟くも愛国心ある日本国人の為すべき所為なる與。」(2-464)

羯南は歴史学の重要な使命として,「穿鑿」ではなくて,「考証」,つま り,「事実の観察よりして事実以上の関係を明らかにする」,「形而上の関係 を発見する」ことを求めている。ここで「形而上の関係」と言われる時,国 民神道の確立と言う目的に照らして,それに適う有益な教訓を歴史事実の中 から導出する作業を意味する。事実を踏まえて,事実を超える理想・理念の 世界を追究すべきである。彼は,歴史学者に国民神道の育成と言う国民的課 題に沿って,歴史を編んで行くことを求めたのである。

重野安繹の斯様な実証主義の史風を受け継いだ人物として『米欧回覧実

記』の著者として知られる久米邦武がいた

(34)

。久米は,明治 24 年,『史学

会雑誌』第 2 編第 23・24 号に,「神道は祭天の古俗」という表題の論説を発

表した

(35)

。彼はその中で,神道家の神道観を「抹殺」した。例えば,「釈迦

も孔子も耶蘇も祭天の俗より生れ出たれば,我国体に戻ることなし。神道

にも戻ることなし。

(36)

」と言った調子である。そこでは,神道の起原が仏

教・儒教・キリスト教のそれと同質的なものと見なされ,神道の相対化が行

われている。そして,この論説は,それに共鳴した田口卯吉が,自分の歴史

雑誌,『史海』(第 8 巻・1892 年)に転載したことを契機に広く世に出たの

(24)

である。それに対して,神祇官再興運動に関った神道家たちの中から,当 論説が皇室・神道を歪曲・侮辱する者であるとの批判が巻き起こり,その 結果,彼は帝国大学教授を辞職に追い込まれた

(37)

。この所謂,「久米邦武事 件」に関して,羯南は論説,「神道論者の寄稿」(3-463)を執筆し,久米邦 武の論説,並びに,田口卯吉の弁護論説を批判する神道論者の寄稿文を,

『日本』紙上に掲載しなかった理由について次のように述べている。

「凡そ事の皇室に連るものは吾人は臣民の徳義として公然と之を問題とすることを慎まざる べからず。然らざれば反て不測の結果を生じ,学理の争一転して国の安寧を害せん。久米氏 の如きは唯だ其の身の学者たるを知りて稍々臣民の義務を忘れたり。吾輩は久米氏を尤むる にこの点を以てし,又た神道家の寄書を載せざるのも此の理由を以てす。」(3-464)

ここで羯南は,先ず,久米の論文に対して,「唯だ其の身の学者たるを知 りて稍々臣民の義務を忘れたり。」(3-464)と評して,重野安繹に対するの と同様な批判を繰り返している。しかし同時に羯南は,『日本』紙上に,久 米の論説や田口卯吉の久米擁護論を糾弾した神道家の投稿文を掲載しなかっ た。国民神道の構築を目指す羯南は,教条的且つイデオロギー的な神道家 の態度も,「臣民の義務」に悖るものとして容認出来なかったのである。彼 は,「抹殺」史学者と宗教的神道家の両極端の神道を巡る論争・対決が,国 民神道を構築していく上で障害になると考えたのである。羯南の念頭には,

西欧近代初頭の旧教徒と新教徒の間で戦わされた宗教戦争や明治維新期の廃

仏毀釈の騒動が惹起した国民の分裂があったと考えられる。重野や久米の

実証史学に対する羯南の姿勢は,必ずしも神道家と同一のものではなかっ

(38)

。羯南は,論説,「名実の説-教育家,学術家」の中で,「国民的道

徳」は推理によって穿鑿・論議すべき者ではなくて,「宗教家の如く」感情

の領域において共有・遵守されるべき旨を主張している

(39)

(25)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

「何れの国にても皆な其の固有の慣習ありて国民的道徳と云ふもの成立す,父子の親,夫婦 の和,兄弟の友,朋友の信,并に君臣の義,此の数者は我が日本社会の倫道なり,国民的倫 道は其の最も時勢と容れざるものを除くの外,容易に推理を以て之を論ずべからず。・・・教 育家は此点に於て殆んど宗教家の如く,推理を主とせずして感情を主とすべし。」(10-317)

さらに,羯南は,井上哲次郎が,明治 26 年,「天皇不敬事件」の渦中に あった内村鑑三を批判する書,『宗教と教育との衝突』を刊行したのに際し て,長編論説,「教育と宗教」を執筆して,キリスト者と教育家の日本国 民としてのあり方を説いた

(40)

。彼は先ず,道徳神道論という持論を踏まえ て,基督教が「俗界に侵入」(4-231)して国民道徳としての神道=「国土の 風習」(4-231)を蔑ろにすることは許されないと主張した。同時に羯南は,

「教育家」,井上哲次郎に対しても,キリスト教徒に対する教条的・閉鎖的 姿勢を批判した。上記論説の中から,羯南の所論が直截に出ている個所を引 用する。

「国俗行政の一部なる教育政は,宗教の為に国俗を変ずべきか,将た国俗の為に宗教を拒む べきか。此の問題は絶対的に決し得ずと雖も,教育其物の本旨としては其れ後者を至当とせ ん。・・・然りと雖も禁制は調和の優れるに如かず。調和とは何ぞや。宗教をして其の伴ひ来 れる所の風習を棄てしむるに在るのみ。少なくも宗教をして我国俗に触るゝに斧を以てせず して鑢を以てせしむるに在るのみ。斯の如くなれば宗教は教育と竝び行はるゝに庶幾し。」(4- 231 ~ 232)

「国の教育は確かに建ち,其の傍に基督教は明かに存す。固と双方の交渉其の宜しきを得 ば吾が社会に竝行し得たらんものを,政府は畏外の心より此の二者の関係を曖昧にし,陰謀 家は卑内の念より此の二者を離間したるが故に,種々の点に於て屡々衝突を促し,以て遂に 今日の如き問題を惹起するに至る。」(4-237)

(26)

羯南は,これ等の二つの引用文において,神道思想を国民道徳として定着 させるべきであるという立場から,キリスト教の強制的な「禁制」ではな く,キリスト者の自主的な神道思想との「調和」を期待している。「実際の 調和は思ふに(キリスト者と教育家の-筆者)双方交互の推究を以て国とい

4 4 4

ふことに一致する

4 4 4 4 4 4 4 4

(傍点は筆者)を務むるにあり。」(4-235)しかし,井上 も内村も,専ら,「衝突」を旨として事を構えている。羯南は,両名に対し て,「今や教育家は浅薄にして宗教家は偏僻なり」(4-235),「彼等は実に国 民的精神を有し得ず」(4-235)と批判している

(41)

他方,羯南は,国民道徳の涵養に寄与する時は,キリスト者でも拒んでい ない。彼は,論説,「私立学校の計画及び同志社の発達」を書き,新島襄に よる大学設立の企てに賛意を表して,新島の次の言葉を評価している。

「吾輩は基督教を拡張せんが為に大学を設立するにあらず。唯だ基督教主義は実に我が青年 の精神と品行とを陶冶する活力あることを信じ,此主義を以て教育に適用し,更に此主義を 以て品行を陶冶する人物を養成せんと欲するのみ(中略)去れば此の大学なる者は決して宗 教の機関にもあらず,又た政事の機関にもあらず。」(1-587)

羯南は,此の新島の言葉に対して,「此市立大学は,単に教育の上よりし て,国民文化の上よりして,吾輩豈之を賛助するに躊躇すべけんや。」(1- 587)と述べたのである

(42)

。羯南は論説,「名実の説-偶感二則-」の中で も,新島襄の教育家としての活動を評価した後に,次の様な言葉を添付して いる。「若し真正の教育家ならんには,縦令へ基督信者のもせよ日本人たる 以上は日本国民の倫道を是非せざるべき筈なればなり。」(10-318)

羯南は同時に,此の論説の中で,植村正久に関しても,「其信仰の上に於

て或は予と容れざる所あるべきも,教育家の本分を解して其の有名無実を嘆

ずるの点・・・」(10-318)を評価しているのである

(43)

。彼は,「新島植村

(27)

陸羯南における国民主義の制度構想(九)(山本)

等の諸彦に渉り基督派の人に真正の教育家ある」(同頁)という断を下して いる。彼は,キリスト教と神道=日本人の国民精神の習合は可能であると見 た。羯南は,中国の儒教と共に,キリスト教もまた,日本人の功利的衝動の 奔流に一定の制約を課し,国民神道の普及に貢献する働きが可能であると見 たのである

(44)(45)

羯南は,以上のように,各分野における天皇・神道の私物化の傾向を批判 することを通して,国民神道の立場を打ち出して行ったのである。彼は直截 に,こう書いている。「日本の皇室は本来に於て国民的なり。・・・皇室が一 種族又は一地方の私有

4 4

(傍点は筆者)に属するが如き姿ある間は,国民の統 一決して望むべからず・・・」(2-324・325)「・・・日本帝室は理論上にも 実際上にも日本国民の帝室たらんことを切望するものなり」(2-9)

それでは,斯様な国民神道・国民道徳を如何にして国民の間に普及させて いくか。羯南は先ず,皇室に関る礼典・儀式・法典への国民の参加・接近に よって,国民が自律的に国民道徳を養って行くことを期待した。彼はこの様 な観点から,明治元年から施行された天長節を,「役人の祝日」と考える風 潮に関して,論説,「国民の典礼,天長節」を書き,次の様に述べている。

「蓋し皇室は公卿社会の有にもあらず,二三強藩の有にもあらず,又京都人民の有にもあ らず日本の皇室は即ち日本全国の皇室たることは,建国以来の憲章なり。然れども,中葉以 降,王道或は衰へ,大権或は下に移り,国内の人民は各階級を為し又は一方に割拠したるが 為め,其の名は一の国土たれども,其実は殆んど国民的精神あらざりしならん。」(1-582)

羯南は,天長節を「役人の祝日」とすることは,明治維新以前の皇室のあ り方への逆行であり,「国民的精神」=国民神道を蔑ろにする者であり,「吾 輩の最も不心得と為す所」(1-583)であると批判している。「国民的祝典」

を「階級的祝典」にしてはならない(1-582)また,羯南は,「社会的」な行

(28)

事である正月に際して,参殿が「有爵有位有官」の者に限られている点を批 判して,「行幸の式を行ひて,万民の歓賀を受けさせ玉らんこと」(3-365)

を提案している。さらに,羯南は同様の観点から,論説,「皇室典範の公布 を望む」を発表して,全国民が「皇室典範」へ親しむ手立てを講じるべきで あると主張している。 

「夫れ一国民をして皇位継承の順序を知らしめず,践祚即位に関する儀式を知らしめず,其 他一切皇室に関する事項を知らしめざるは,人民が皇室に対する忠順の精神を振作する所以 なるや否やは,智者を待たずして利害自から明かなる可し。然れば其の典範は仮令ひ皇室一 家の御事にのみ関するものならしむるも,寧ろ之を天下に公示して国民に知了せしめんこと を要す。」(2-17)

次に羯南は,教育活動を通して,国民道徳=国民神道の涵養に努めるべき であると唱えている。

「夫れ『教育行政』の中央たる文部は国俗を扶持すといふ大任を有す。縦へ憲法に其の規定 なきも,官制に其の規定なきも,日本の文部省は国民の本性より此の大任を負はざるべから ず。況んや去る二十三年の徳育に係る勅語あるに於てをや。文部大臣たる者は少なくも此の 語によりて尋常行政官と其の観念を別にせざるべからず。」(3-665)

羯南は,文部省の教育行政は,政治・行政の世界とは区別された文化・思 想の世界に関わる職務であるという観点から,積極的に,日本人の道徳・神 道思想の涵養に務めるべきであると言っているのである。また,同様の主旨 を小学校教育の在り方に関して,次のように述べている。

「近世に至りては何れの国も皆な国民的思想の養成を主眼ととせざるは莫し,適切に之を言

参照

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