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近世日光 をめぐる歴史意識
―― 『日光 山 志』 ・ 『 日光 巡拝図 誌 』を中 心 として ――
岩 橋 清 美
要旨
本論文は、一九世紀初頭における日光をめぐる歴史意識について、植田孟縉の『日光山志』と竹村立義の『日光巡拝図誌』
をもとに論じるものである。『日光山志』は五巻五冊からなり、天保七年(一八三六)に刊行されたもので、日光に関する最
もまとまった内容を持つ地誌である。その内容は中世以来の山岳霊場としての歴史から書きはじめられ、山内の景観・建物
の構造・奥日光の動植物・日光周辺地域の人々の暮らしにまで及ぶ。孟縉は、東照宮だけではなく周辺地域を含めて「日光」
であることを示し、江戸幕府の権威の象徴として描いている。こうした、彼の歴史意識は、八王子千人同心という身分集団
に属していたことに規定されていると言える。これに対し竹村立義は、東照宮というこれまで秘匿されてきたものを、豊富な挿絵で視覚化し、自らの考証を加えて『日
光巡拝図誌』を編纂した。特に注目されるのは、武家であっても容易に入ることができない奥院御廟を様子や東遊・延年之
舞といった儀式を描いた挿絵である。『日光山志』が日光山全体を詳細に記述しているのに対し、『日光巡拝図誌』は参詣者
の興味関心を中心にまとめられた書物と言えよう。
両者の日光へのアプローチは非常に対照的ではあるが、二つの地誌に共通することは、日光に関するまとまった情報を読
者に提供し、東照宮をより民衆に開かれた存在にしたことである。その背景には参詣者の増加や東照宮信仰の広がりがある。
こうした東照宮をめぐる社会の変化が東照宮の書物化を可能にし、多くの読者を生み出したと言えよう。二つの地誌は、まさに一九世紀初頭の読者を意識したものであり、これらを通して日光の歴史化が図られたのである。
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はじめ に
本 論 文は、近 世後 期の日光 をめ ぐる 歴史意識につい て 、 植 田 孟 縉の 『日光 山 志 』 と竹村 立 義 の 『日光 巡 拝 図 誌』を
もとに論じるもの で あ る 。
日 光 東照 宮は 徳川 幕府 初代 将 軍 徳川 家康 を祀 る神 社 で あ り 、 元 和三年 ( 一六 一七 ) の 創建 以来 、 武 家政 治の 理 想 を
体現する存在とし て 武 士 層の崇敬を 得 て きた。一八世紀半 ば 以降は、 東照 宮信仰の拡大 と相俟っ て 民 衆に も 広 く 信 仰
され た。
(1
)とくに民衆の日 光 参詣の隆盛 は 、参詣者の宿泊をめぐ る 争 いの増加 や参詣者向きの案内記の刊行 からもう か
がえる。
(2
)地誌 と歴 史 意 識の関係 を 論 じ た 研究は 、 近年、編纂者の意 図の分析 から書 物 の受容 ・ 伝 播 といっ た読書論・読 者 論
へ と変 化 しつ つある。 前者 について は白 井 哲哉氏 の江 戸 幕 府・ 諸 藩 の地 誌編 纂史 研 究 が あ る。
(3
)後者 に つ いて は 、 書 物
がどのよ うに社会 に受 容されたのか とい う視点にたち 、読書と 歴史 叙述の関 係を 論じた 研 究が ある。
(4
)筆者も地 誌の 引
用文 献の 分 析 か ら 編 纂 者が先行 する書物 をど のよう に 解 釈 し地 誌に 反映 した のか を 実 証 し 、考 証学 的 手 法を 用 い な が
らも地域のア イデンティティを論理 的に 正当化し て い た こ とを 論じた。
(5
)すで に 、 指 摘 さ れ て い る よ う に 一 八 世 紀 半 ば
以降、多 種多 様な蔵書 を 大 量に持つ者が 出現し、 読者 層も広が っ て いった。
(6
)出版流 通 の 拡 大と 読 書 の 広がり は 、 社 会
に一定程度の 「社会的 通念」を形成させ る こ とに なったが、その一 例が「名 君 」 像の形成で あ る 。
(7
)こう し た 研究 を 踏
まえ 、本 稿 で は徳 川家 康の 象徴で あ る日 光 が書 物 を 通 じて 情報 化さ れ た こ と の 意 義を 考え る。
日光 に つ いて は 、 徳 川 家康 に関わ る こ とで あ った た め 、 秘 事とされ 、 出版 物には なり え な いも ので あった 。 しか し 、
民衆 の日光参 詣が盛ん になり、東照宮信 仰が各地 に広がる と、地域の知識人層にとっ て 東 照宮 は秘匿され る ものか ら
学問の対 象あ るいは、 一度見 て み た いと いう興味 の対 象になっ て い っ た。本稿の 分析対象 で あ る『日光 山志』 ・ 『日光
巡拝図誌 』の 編纂も こ うした民衆世 界の 反映 で あ ると 考えられ る 。
こ こ で 、 日光 東照 宮の 概要 を 述 べ て お き たい 。現 在、 日 光 で は 東照 宮 ・ 二荒 山神 社 ・ 輪王 寺 を 合 わ せ て 日光 二 社 一
寺と称し て い るが、明治四 年 ( 一 八 七一) の 神 仏 分 離 以前は日光山と 総称され て い た 。日光山の歴 史は古く 、奈良時
代末期に勝道上人が二 荒山・四本 龍 寺・ 中 禅 寺 を 創建 し た こ と に始 まる。鎌 倉期 には関東 武士 の信仰を 得 て 発展す る
が、 豊臣 秀吉 に寺領 を 没収 されて か らは 衰退しつ つあ った。 し か し 、 元 和三 年 ( 一 六 一七) 、 徳川 家康の遺 骸が 久能 山
から 当地 に改 葬され る と、 日光は徳 川政 権の聖地 として 位 置づ けら れた。 正 保二 年( 一六 四 五 )には朝 廷か ら東 照 宮
の 宮 号 が 宣 下 され 、翌 年か ら は 日光 例幣 使が 派遣 され る よ うに な っ た。 社 殿 の 創 建は徳 川 秀忠 が 行 った が 、 その 後 、
徳 川 家光 が寛 永一一年( 一 六三四)から 一 年三か 月の 歳月をか け て 大 規模な 造 営 を 行い、 現 在 の 形が出 来 上 が った と
い わ れ る 。江 戸幕府は 造 営 にあたり 、中世以来、 山岳 信仰の 中 心 で あった 坊 堂を 移動させ 、その場所に 東照宮を創 建
する こと で 、空間的にも東 照 宮 が日光の 中心 で あ る こ と を 印象づけた。ま た 、 建造物 に は平和と善政 の シ ン ボ ル と し
て 龍 や 獏 等の 霊獣の彫 刻が施され 、 陽 明 門前には 東アジアにおける徳川権威 を 示 すべく朝鮮 鐘 や琉 球灯 籠等 が置 か
れた。
(8
)東照 大権 現の神 号 決定 から 寛永 の大 造 営に 至 る一 連の動 向 は、 南光坊 天 海の 主導に よ っ て 進め ら れ た。彼は中 世 比
叡 山 で 生 まれ た 山 王神 道を 基盤 に山 王一 実 神 道を 創始 し て 徳 川 政権 の 永 続を 論 理 化 し た。
(9
)近 世 にお い て 、 日 光 に 関する本 格 的 な地誌 は 『日 光 山 志』 が刊行さ れる ま で 存在しな か っ た と 言える。 こ れ は 江 戸
幕府が東 照宮 に関する 出版 物を禁 じ て い たこ とや 、東 照宮 に関わ る こ と は秘 事 で あり 、そ の記 録 化 が制 限さ れて い た
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こ と によ る 。 し か し、 その 一方 で 社 参を 経験し た 幕臣等によって 多 くの記録 が作成さ れて いた 。 し かし 、 こ れらの 多
くは、日 光 に 関する和 歌や 漢詩を 詠 み込んだ紀 行 文 で 、地 誌と は言 いがた い 。
一方、 近 世 の 日光 山 は 、 中 世以 来の山 岳 信仰の 霊場 と し て の 性 格 も 持 ち 続 け たこ とから 、将軍 ・公家 ・ 大 名の社 参
だ け ではな く 、 庶 民 の 参詣 も多 かっ た。 日 光 では 参 詣 者は 「堂 者 」 と称 さ れ 、 一 般 的 に は 山内 の 特 定の坊 の 旦 那 になっ
て い た。 百姓 ・町人は 案内 人に先導 され 、麻上下 着用 の上 、鰐口下 ま で 進み 賽銭・ 初 穂料を奉 納した。こ う した参 詣
者の ために 門 前 町 では簡易な 案 内 書を刊行し た 。 管 見 の限り で は、 享保一 三年 ( 一 七 二七) に 御幸町 町 人 鷹 橋義武 ( 治
郎左 衛 門 ) が 執 筆 ・板行 し た 『 日 光山 名跡 誌 』 が最 も古 い 。 本 書 には 山 内 の堂 社の 説明 を 中 心に 、 日 光の 名物 や各方
面からの 里 程 が記され て い る。 堂社 につ い て は、 成 立 年代 ・由 来 ・ 建物 の特徴 を 簡略にまとめた上 で 、 位置 関係 を 示
す 挿 絵 が 添 え ら れ て い る 。 同 書 は 好 評 を 博 し 、 そ の 後 、明 和 元 年( 一 七 六 四 )・ 文 政 五 年( 一 八 二 二 ) に は 石 屋 町 の 遠
藤 喜 六、天保 一一年 ( 一八四〇)には同 町の大 島 久兵 衛か ら再版された。再版時に は 、 日 光八勝・日 光 奉行配下の役
人構成 ・ 山内の番所の 位置 等の情報 が付け加えられた 。 ま た参 詣者 への便宜を 図 るた め、 『日光 山 名跡志 』 の 内 容 を よ
り簡略化 した 『日光 山 道し るべ 』( 明和元 ・ 文政五 年) 、 『日光 山 諸所 案内手引 草』 ( 寛 政二・ 文政 五 ・天保 一 一 年) が
板行さ れ た。これらの 書物は日光社 参時 に刊行された もの で 、 本 格 的な地誌とい うべき 内 容 を 備 え て は いな い 。その
意味で 、 竹村 立義の『 日光 巡拝図誌 』は紀 行 文 で あり ながら 、 挿絵 が多く史 跡や 名所の考 証が 詳細 で 、 全体 とし て 名
所図 会的な 要 素が強い。よっ て 本稿 で は 、 こ の二 つ を 分析 対象とした。
一 『日光 山 志』に見 る日光
『 日 光山志』 (以 下 で は 『 山 志 』 と略す) 五 巻五 冊からな り、 天保七年 (一 八三 六) に幕府の 出 版 許可を得 て 、 翌八
年 ( 一八三七 )に刊行さ れ た。書肆 は和泉屋庄太郎他 九軒 で い ずれ も江戸 で ある。
序文 は若 桜藩 藩 主 松平 冠 山 ・幕府右 筆屋 代 弘 賢が 記し て お り、 前者が 漢 文、後 者 が和文 で ある 。 冠 山は 幕府 の 地 誌
編 纂事 業 におい て 『 編 脩 地誌備 用典籍解 題』 を執 筆した人物 で あ り 、 植 田孟縉 も 『新 編武 蔵 風 土 記 稿』 の 調 査に関わ っ
て い たこ とか ら 、地 誌 調所 頭取間宮 士信 を 通 し て 依 頼 した と推 測さ れ る 。冠 山の 序 文 が 文 政八 年( 一八 二 五 ) で あ る
こ とから 、 『 山 志 』は 、こ の 頃 には 完 成 して いた と 思 わ れ るが 、 天 保 三 年( 一 八三 二 ) 、 和 泉 屋庄 太郎 が町 奉 行 所 に 売
り広めの 許可を申請した際 、 社 家側か ら 内 容 に誤り が あ る との指 摘 を 受け 、 これ を訂 正し たた め 、 刊 行 が天保 八 年 ( 一
八三七) にな った といわ れ る。
(10
)著 者 で あ る植 田 孟 縉に つい て述 べ て お き たい 。 彼 は通 称 を 十兵 衛、 諱 を 孟縉 と称 し 、 宝暦 七年 (一 七五 七 ) 、 吉 田藩
の江 戸藩 邸 で 藩医熊 本 自庵 の子と し て 生 まれ た。 その 後は 八王子千 人 同 心組頭植田家の 養 子になり、安 永四 年 ( 一七
七五)に家督を 相続した。 養 父 元政の父 魯石も医 者 だ っ た ことか ら 養子 縁 組 が な さ れと 考 え ら れる 。文化 九 年 (一八
一 二) に 、 八 王 子 千人同心が『 新 編 武蔵風土 記稿』 の 編 纂 に 参 画 す る こ とにな る と、 千人頭 原 胤敦 等とと も に 多 摩・
秩父 ・高 麗三 郡の調査を担 当し た。
(11
)孟縉 は生 涯に 日 光 勤番 を 一 四回 務め たと 伝え られ て お り、 その回数 は 他 の同心と比 べ て 突 出し てい た。 晩 年 に は 、
勤務 出精 が認 められて 普請 役元 締格 に任 命されて いる。 著 作には 、『日 光 山 志 』 のほか に 『武 蔵 名 勝 図 会 』( 文 政三 年 )・
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『 鎌 倉攬勝考』 ( 文政一二年) 等がある 。このう ち 『 武 蔵 名勝図会』は地誌調査 の 副 産物 で あ る。
(一)内 容構成と引 用 書目
最初に 『 山志』の内 容 構 成と主な 引 用 書 目につ い て 表 1をも と に述べ て おきた い 。
巻 一 で は 、 冒 頭に「 日 光 古 図」 ・ 「 御山 内総 図」 を 配 置 し て 全 体 の 景観を 示 し、 続い て 下 野国 の名称の 由 来 、日光 神
領 の町村 、神橋・本宮 権 現・歴代日光座主の名前 が記 さ れ て い る 。ここで 興 味 深 いのは、孟縉が日光の 歴史を 中 世 ま
で 遡 り 、 勝道上 人 の逸 話を 取り上げて い る点 で あ る。 第二巻は 新宮 権現 ( 現二荒 山神社) ・ 瀧 尾 権 現等を 中心 に 構成 さ
れて いる。 第 三巻・ 第 四巻で は 日光 の自 然や 動植 物、 民衆の 暮 ら し に目が向 けら れて おり 、日 光 八 景 、 華厳 滝 、 男体
山といった景 勝地、岩 燕 ・ 慈悲霊鳥・白 根葵・石 楠花 等の動植 物、足尾銅山で働 く民衆 の 姿が描かれて いる。巻五は
『山志』の中 心となる 部分 で 、 東照宮の 建造物、延年之舞、東 遊 等 の 儀式つ い て 記 さ れ て い る。
『 山 志』 の特 色 の 一つ に 多 く の 絵師 が挿 絵 を 手 が け てい る こと があ げ ら れる 。既 に 指 摘 さ れ てい る と こ ろ で は あ る
が、 絵師 には 谷文晁の 系列 が多く、渡辺 崋山・高 久靄崖・椿椿 山・ 椿恒吉 ・ 依田 竹谷・喜 多武 清 ・ 大西椿牛・ 中 山青
崖・ 岡 田 閑 林 ・ 松 本 交 山 が い る 。
(12
)こ の ほか 葛飾北斎 ・ 二 世柳川重 信等 がい る 。 しかし、 『山志』 には 、 こ うし た 著名 な
絵師だ け ではな く 、 八 王 子 千人 同心河西愛 貴 や地 誌調所頭 取間 宮士信の挿絵 もあ る 。 河西 は風景画が得意 で 、『 新編武
蔵風土記 稿』編纂におい て も挿絵を 担当 し て いる。
孟縉 は挿 絵 と 文 章 の 関 係につい て 「 およそ文字は画によ り て 真 を 顕し 、 画は文字 によ り て 真を給 ふ、もし画 あ り て
字な き は その 事明らか なら ず 、 字あ り て 画な き は その 真観 る こ と な し」
(13
)と述べて おり、 挿 絵 と 文 字 が 補 完関係 に あ る
5 4 3 2 1 巻数 表1『日光山志』の概要と引用書目 御鎮座記・御宮略図・石御鳥居・巨石御燈炉・五層宝塔・御番所・二王御門・三神庫・白象図・御番所・御手洗水盤・唐銅御鳥居・輪蔵・諸家兼備御燈炉・朝鮮国献備洪鐘図・日光山鐘銘・朝鮮国献備燈台穂屋図・阿蘭陀献備燈台図・琉球献備燈台図・陽明御門・御天井昇竜二竜図・御唐門・唐銅御燈炉・御拝殿・御本殿・御廻廊・坂下御門・御門主御登社御門・相輪樘・御神号御位階・御遷座・御宮号・例幣使・将軍家御参詣之次第・東遊・御神事毎歳御執行次第・奉幣使式・御宵成神事・延年舞・渡御還御音楽・御神事御行列次第・田楽法師図 華厳滝・岩燕図・男体山禅頂小屋・什物古磬・中禅寺別所・中禅寺古棟札・走大黒影像・中禅寺境地幷びに湖水図・三社権現本社・拝殿・本地観音堂・唐金鳥居・武射祭・慈悲心鳥図・勝道上人三神影向を拝したまふ図・如宝山図・石楠花図・瑠璃壺・竜頭瀧・中禅寺温泉・前白根山・奥白根山・白根葵図・深谷岩茸取図・足尾郷・銅山濫觴・山中銅掘図・日光諸所名産 御山内寺院坊社・学頭・修学院表門図・衆徒二十箇院・別当四箇院・八十坊舎・御奉行屋敷・火之番屋敷・清竜推現・兄弟契・浄光寺・慈雲寺・鳴虫山・鳴虫紅葉図・素麺瀧図・日光八景・殉死墓碑・諸家墓碑・如宝山蔓延松・二子山・不動岩・興雲律院・久次良村・寂光念仏堂・求聞持堂跡・寂光寺・清滝権現・清滝寺・清滝観音堂・足尾道・馬返村・前二荒山・般若滝 新宮権現・田村丸参詣図・延年舞・開山堂・勝道上人墓・産宮・手掛石・飯盛杉・滝尾瀑布・滝尾社図・影向石・滝尾霊神影向図・鐘楼・二王楼門・拝殿・中門・本社・礼拝石・千手堂・本地堂・根本堂・三十番神堂・慈恵大師堂・常行堂・御霊廟・慈眼大師廟・文珠堂・求聞持堂・阿弥陀堂・御座主御廟 日光山総説・御山内略図・御山内縮図・日光御領・町入口図・松原町・石屋町・御幸町・竜蔵寺・神主山・稲荷町・下鉢石町・中鉢石町・上鉢石町・鉢石炊烟図・観音寺・下馬・星宮・勝道上人蛇橋を渡り給ふ図・神橋・大谷川・御番所・本宮権現・四本竜寺・深砂王社・当山御座主御歴代・強飯・御本坊・三仏堂 主な内容
御遷座之記・羅山集・法華八講記・続拾遺和歌集 廻国雑記・性霊集・中禅寺私記・万葉集・続古今和歌集・新後拾遺和歌集・堀川百首・夫和歌抄・新古今和歌集・新千載和歌集・六帖・鎌倉大草紙・和名類聚抄 八雲御抄・藻塩草・後撰和歌集・六帖・御神領村名寄 続日本後紀・文徳天皇実録・日本三代実録・神社考・元亨釈書・廻国雑記・日光山滝尾霊託記・吾妻鏡 先代旧事本紀・続日本紀・新撰姓氏録・延喜式・廻国雑記・和名類聚抄・吾妻鏡・建立修行記・枕草子春曙抄・万葉集・懐中・鎌倉大草紙・結城戦場物語・鎌倉年中行事・新古今和歌集 引用書目
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こと を重視 し てい た 。
『山 志 』 は編纂にあたり多くの書 物 を 使っ たと考えら れ るが 、本 文中には それ らの 引用 書 目 がほ とん どで 明記さ れ
て い ない。例え ば 巻一 で 引 用さ れて いる 文 献 は、 そ の ほとんど が勝 道 上 人 を 中心とする中世の 歴史を記 し た 部分 で 用
いられて いる 。 な お、 勝 道 上 人 につ い て 、本来は 『性 霊集 』・ 『元亨 釈 書』 ・ 『高僧伝』 を使用すべ き で あ るが 、そ れ ぞ
れの内容 に異同が多いため 、 こ れらを引用しな か っ た とある 。 孟縉は考証の 基本資料とし て 『 日光山縁起』 ・ 『 日光 列
祖 伝 』・ 『滝尾建立 伝 記 』・ 『 千部 会日記』 ・ 『 往古行事 集』 ・ 『 三月会縁 起 』 をあげ て はいるが、 これ ら は家職の秘記 で あ
る た め、 山内 の衆 中 でも見る こ と が できない も の で あ っ た 。 こ のう ち 『 千部 会日記』 は竹 村立 義も 書名 をあ げ て いる 。
日 光 関 係 の文献は、知識人の間 ではかなり共有化さ れ て い たと考えら れ るが 、山内の儀 式 が秘 儀 で あったた め、関連
文献 の 披 見 は 困難で あ った。 『 山志 』 に 引 用 文献 が 少 な いの は 、こ う し た情 報 の 秘 匿 に よ る も ので ある。
(二 ) 植田孟縉 の歴史意 識
a 実地 調 査 による 日 光の再現
『 山 志』 の特 色 の 一つ に、 山 内 の建 物に 関 す る 記 述が 詳 細 で あ る こ と が あげ ら れる 。 これにつ い て 、 孟 縉 自 身 は 参
詣 者 の 便 に 供 する ためと 述 べ て いる。一例 とし て 陽明門か ら奥院にい た る部分 を 見 て い こ う 。 陽明 門は、その装飾の
美 し さか ら 一 日中見て い て も飽き な いと いう意味で 「 日暮門」 とも 称され 、 民衆 は こ の門 の外 から東照宮を 拝した 。
武 家 も 佩 刀 を 脱 し 、 差 し 添 え の み で 中 に 入 っ た と い う 。 『 山 志 』 で は 陽 明 門 ・御 唐 門 ・御 瑞 籬 ・ 御 拝 殿 ・御 石 の 間 ・ 御
本殿 ・御 回廊・坂下御門の 項目を置き 、 その内容 は、孟縉が実 際に見たままを 詳 細に記したも の で ある。
拝殿 の記 述を 見 て みる と、 内 部 の構 造に つ い て 「 御浜 椽幷 び に 高欄 と も 黒臘 色に て、 御内 の御 柱 向 き は 摠金 だ み、
外なる御 長押 うへは素 木、鳳凰の高 彫り 、金彩色」 、「 御唐戸、黒臘 色、金の 唐草 蒔絵 、正 面の 御本間、 御天 井折揚 げ
二重の格 天井、 そ の内へ 岩 、 紺 青に て 丸 竜の 彩色、 そ の形皆 異 なり」 と いった表現が 続 き 、 意匠が細かく記されて いる 。
(14
)また内部を 飾 る 絵 画に ついて も「東 西の 御襖戸東 は金泥地にし て 竹 に麒 麟の 彩色 、西の方 は獅子の絵なり。 探幽の筆
なりといふ」 とあるよ うに 、読者が 具体 的にイメ ージでき るよ うに配慮 した 記述 がなされ て い る。 (
こう し た 記述 の 背 15 )
景に は、考証を加える こと対する 幕 府 の 制限 や披見 で きる文 献 が少な か っ た ためと 考 え られる。し かし、 詳 細な 建物
の描写 は 、 こ れ ま で 秘 匿されて いた 日光 を 可 視化 し、情報化したとも言えるの で ある。
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b 日光 の 自 然 と地 域 の 暮 らし
『山志 』 の 内 容は、 巻三 の 後半か ら 巻 四 にかけて 奥 日 光へと 移 り 、 中禅 寺 湖 や 男 体 山 の 景観 や 自然、足尾 銅 山 で 働
く人々の 暮ら しにも及 ん で いる。姫 石楠 木・岩沢 瀉・ 栂桜・岩鏡・ 岩蓬・苦桃・ 石楠花・ 肉蓰 蓉・白根 葵等 が絵 入り
で紹介さ れ、花の 開花時 期 や茎 や 葉 の様子、 食用の可否 等 の情
報が挿 絵 のなかに 書 き 込 ま れ て いる。
さら に、日光の名 産品が飛禽・ 魚虫・ 薬 品・ 走獣・ 飲 食類・
細工 物 に 分類 し て 書 き 上 げ られて い る。 孟 縉は 、 こ う した情 報
を山 内 で 薬 草 を 採 取し ている 村 人 か ら 得 てい たよ う だ が 、 一八
世紀半ば以降の本草学の影 響 も 看取 でき る 。 引用はされ て い な
いが、 記 述には、 小 野 蘭山 『日光採品 録 』 、 喜多村直 『日光採品
図説 』と の共 通点が見 られ る。
足尾銅山につい て は近 世初頭 か らの濫觴が 書か れ、 銅穴のな か
で採掘する 人々 の 姿 や 銅 と 石とを分別 す る 作 業 を する女 性 の 姿
を 紹 介し て い る。挿絵 には、女性たち が 太布 で 拵 えた「猿子袴」
という作業着を身につけ て 作業を 行 う様子や 、 そ の傍ら で は老人
が子守を し て いる姿が描かれ 、 地域の暮ら し の実態を伝え て い る。
図 1 岩沢瀉・栂桜の図
(『日光山志』巻四、国文学研究資料館所蔵」)
また、 景 勝地の一つ で ある男 体 山につい て は 、 こ の山がかつ て
「黒上山」 ( 黒 髪 山) と称 され て い たこ とに 注目し、 『万葉集 』 ・
『続古 今 和歌 集 』・ 『 新 後 拾 遺 和歌 集 』・ 『堀川百 首 』・ 『 夫 木和 歌
抄』 か ら 「黒 髪山」を 詠ん だ和歌を書き 上げ て いる 。
(16
)さら に 孟
縉は 「黒髪 山 」 にまつ わ る 村人の話を 続 け て いる。 こ れ に よれば 、
上野国の 別称で ある 「 毛の 国」 の 「 毛 」 は 「 黒髪山」 にも 通じ、
転じ て 男 体山 が樹木 が 生い 茂る豊 か な山で あ るこ とを 示すと い
う。 足 尾地 域 を 古 歌 に 詠ま れ る 名 所 で あ り 、産 業 が発 展 し た 地
とし て 位 置づ け て いる 。巻四は他巻と比較し て 文 献による考証
が多く 見 られ 、地 域 社 会の 描き 方 に 孟 縉 の個 性 が反映 されて い
ると言 え る 。 足尾地 域 が日光の中 心 部か ら離れて いるため、記
述に 制 限 を加 える必要がなかっ たこ とが 大 き いと考えら れ る。
しか し 、 周辺 地 域 を 組 み 込むこ とで 、逆 に日光 全 体を 「徳 川 の
平和」の 象徴 とし て 表 現す る こ とを 可 能 にし て い るので ある 。
c 八王子 千 人同心の 歴史意 識
『 山 志』 は刊 行 に 至る 経緯 で幕 府の 指示 に よ り、 内容 の 訂 正が 行 わ れ て い た 。先行 研 究に よ れ ば、 刊行 さ れ た『日
図 2 足尾銅山で働く女性の姿
(『日光山志』巻之四、国文学研究資料館所蔵)
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光山 志』の ほ かに『 光 嶺秘鑑』 (四冊) ・ 幕 府 献 上 本 『日 光山 志 』(一〇巻) が あ り 、 と くに前 者 は草稿本 ではある が、
典拠を 明 記した細かい 考証 が加えられて いたと い う。
(17
)この草稿 本 を もと に献 上本 がつ くら れたが、 孟縉 自 身 の考 証 の
多くが削除され 、 山内の状 況を 詳細 に記 すにとど ま っ た。
(18
)この訂正は 本 人の意思 で は なく、数人の校 訂 者による も の
であっ た 。儀式に 関 す る部分 に 秘 匿す べき内容 が多 か っ た た めと 推 測 さ れ る。 で は 、 孟縉は、な ぜ、 内容 を 訂 正し て
まで も 『 山志 』を 刊 行 す るこ と に拘 った の だ ろ う か。 こ の 点 に ついて 、 幕 府 献上 本の孟 縉 の序 文から 考 えて みた い。
(19
)下野国二 荒の 御山は、わ が 東照大御 神の 鎮り御座ましまし て よ り、 荘 厳 新た にして 輪 奐美を つ くせり、 我が 家そ
が 防 火 の 事 を 世々の職とし て 、 安永の初よ り 長 官 に属し、 こ の 年まで に およ そ十 あまり三 たび 四たびも 役に おも
むき官舎 に年を こ へ、或はとし半もかの 地に宿りて 、 あし たゆふ べ 日 々 に一度 御 宮 を は じ め 、 其 余 の 所 々 を 巡り
て警 衞し、 又 は 暇 あ る時 ハ 佳 境 を遊観し て至 ら ぬ 隈 な け れ ば、 やたての硯 も てお ろ〳〵 か ひつけ ぬ 、 入峰 禅 頂 す
べき あ た りは 、崔嵬た る高 山にし て 尋 常 の人のえ 行べき 境 にあらざ れば 、し るべ うもあら ねど 、土人等 採薬をわ
ざ と せ る もの まれ にハ 人跡 の絶た る を 陟 り 、 岩間 に雨 露を しの ぎ日 数へて 帰 りく るとなん 、かゝ る た ぐひ ハ 土人
の世すが とすれば に や 、神も ゆ るさ せ給ふべし、 彼の 採薬のつ い で にあつら へ て 、いたら ぬ高 山の奇勝 を捜 り得
たるもあり、 行法 の秘 密、宝庫の古書のごと きは僧徒 につい て 索め 得るもあ な れ ど、其要をつくす こ と を得ず、
たゞ大 概 をとれる のみ、 こ た び 幕府の御参ある べき仰せ こ とありと 聞けるも のか ら、 かの そう し を とりて 十 の巻
のふみにかい つゞりぬ 、 供 奉 の 人々此ふみを見 て 、 御 山の あらましをも しりな ば 、 大 君の仰せご と に お ひて いさ ゝ
かのたすけともなりなんと 、 こ ひ ね がふ る こ としかり
序 文 に よ れ ば 、孟 縉 は 安 永 頃 より 千 人 頭 に従 って 十 三 、四 回 の 日 光 警衞を 勤 め 、 その勤 め の 最 中、あ る い は 余暇 を
利 用 し て 東照宮およ び 日 光 周 辺 を探索したとある。 『 山志』 を 刊行 するに 至っ た 直接の契 機は、 日 光社参の挙 行 で あ り 、
東照 宮の御 威 光 を 広 く 宣伝 する ため で あ っ た 。社参に供 奉 する武士層を読 者 とし て想定し て い たと考えられ る 。
日 光 の地 誌 を ま と め、 幕府 に 献 上し よう と し た彼 の行 動 の 背 景 には ど の よう な意 識 が ある のだ ろう か。 この 点 を 考
える 上 で 重 要 になる の が八 王 子 千人同心とし ての 意識で あ る 。 八王子千人 同 心とは、戦国 大 名 武田氏の小人 頭に由 来
すると言われ 、その編 成は 頭 ・ 組頭・平 同 心 から なる。千人 同 心の 身分は、 近世 前期より 株に よっ て 売 買されて いた
ため 、経 済的 発展 を遂げた百姓が 家 格の 上昇 や更なる 経営の拡大を目的に 千人同心に な る こ と が多 かっ た。 このため、
近世初頭から 八王子千 人同 心 を 務め る旧 家層と株 取得 によっ て 千 人 同 心にな っ た 新興層の 間に は、勤務 等を めぐって
対立 する こ と が少な く な か っ た 。また、千人 同心全 体 にお い て も「 御家人 」 とし て 幕 府 か ら認 め ら れた いという願望
があり、こ う し た状況 と相まっ て 一 九世紀初頭には集 団の内外 に矛 盾 を 抱えて い た。
(20
)八王 子千人同心 の 徳 川 忠 臣 とし て の意識は、彼らが東照宮 を 祀 り信仰し て い るこ と や 、東照宮との関係を 強調す る
由緒を形 成して い る こ とか らも明ら かで ある。孟 縉が 『山志』 中に「 火 之 番 屋敷」を 立項 し、 慶安五年( 一 六五二 )
から 八 王 子千 人同 心の 日光 火の 番が 始 ま った経 緯 、勤 務の体 制 、寛 政初 年の 鉢石 屋敷の廃 止 に つい て 細 か く 記 し て い
る こ とも 、 そ の証 左 で あろ う。 孟 縉 は 、 渡 辺 崋 山 や 松 平冠 山等と 親 交 が あり 、 『 山志 』 以外 に も多 くの地 誌 の編 纂を 手
がけた 在 村知 識人 で あ る。 その意味で 『 山志』の 編纂 には、自 身の 学問の集 大成 という意味も あった。 しか し、記 述
の細部に は、 八王子千 人同 心旧家層 の歴 史 意 識= 徳川 氏忠 臣意 識が 濃く反映 され て い る。
そし て 、 孟 縉 の歴史 意 識 は 出版を 通 して 「 日光 の 歴 史 」 と して 多 く の 読 者 に 読 ま れ る こ と に な った ので あ る 。 書 物
を通 じ た 日 光 の 歴 史化・ 情 報化 に は 、 そ れま で儀礼 を 通 じ て徳川 権 威の象 徴 とし て機 能し ていた日 光 の 記 号 化 と も言
える 現象が看取 できるの で ある 。
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二 『日光 巡拝図誌』 に見る日光
次に、 『 日光 巡拝図誌 』( 以 下 『図誌』 と 略 す。 ) を も と に 竹 村立 義が日光をどの よ うに 見 て いたのかを考えて みたい 。
竹村立 義 は独笑庵 ・ 湖橋とも称し た 新 橋の仕立屋 で 、仕事の合 間 に江戸近 郊を旅行する の が 趣味 で あ った。 彼 は、旅
行のたび に 紀 行文 をま とめて いるが 、 管 見の限りで は 、 『 図誌』 の ほ か に、 『川越松山遊覧図 誌』 ( 文化一五 年 )・ 『秩 父
巡拝図 絵 』( 文政六年) ・『 鹿 島参詣図会』 ( 文政七年) ・『杉田図 会 』( 文 政八 年) ・『小 野 六所 両 社 乃 記 』 ( 文 政 一〇 年) ・
『百草 紀 行』 ( 文 政一〇 年 )・ 『御嶽山 一石山紀 行』 ( 文 政一〇年) ・『高尾 山 石老山記』 ( 文政一〇 年) ・『 多摩郡 村 々 明 細
書』 (年未詳)がある 。 立 義 は、文化 一 五 年 (一八 一 八) 、五九才の時から、約 一〇 年 の 間に多摩地域 を 中 心に各地を
旅行し、 次々 と紀 行文を ま とめ て い った 。日光へ の 旅 行は、彼 にと っ て は唯 一、 遠方に出向 い た 旅 で あ った 。 立 義 は
頻繁に旅 行 で き る ほど 裕福 な暮らしぶりで は なか っ た が、生来 、肥 満 体 質 で 、仕 立屋が座り仕 事だっ た こ と もあり 、
健康維持のた めに旅行を し て い たよう で ある 。
(21
)紀行文 を 見る限り、旅行 は 一 人 ではな く同行 者がい た と 見 ら れ る 。 日
光の 旅に は狂 歌仲 間 で ある 新喬子・ 尚鯉 子・万子 が同 行し て い るが 、なかで も尚鯉子は病 気がち だ った た め 、平 癒祈
願 の ために立義が誘 い 出した。四人は、四月十七日 の 祭礼に 合 わせて江戸 を 出 発 し、 東照宮 を 参拝し た の ち 、中 禅 寺
や華 厳滝等を 見物し た 。
立 義 の紀行文 は 、 い ず れも 写本 で伝来し てお り、 出 版 さ れ た形 跡は な い 。し かし 、 国 立 公 文 書 館 所 蔵 の 『秩 父 巡拝
図 絵 』には「編脩地誌 備 用 典籍 」の 印が あり、昌平坂学問所内の地 誌調所に所蔵さ れて い た 。
(22
)つまり 、 その内 容 は 知
識人 の読書に耐えうると判断さ れて い た と言えよう 。
また 、 『 高 尾 山石老山 記 』 には鹿 津 部真 顔の序 文 があ る。 鹿 津 部真 顔は通称 北川 嘉兵衛と いい 、 江 戸数 寄 屋 橋河 岸で
汁粉屋 を 営んで い た。 彼は 、大田南 畝の 狂歌の弟 子 で 、宿屋飯 盛と並ぶ狂歌 師 で あっ たが戯作者とし て も知られ る。
おそ らく 、立義の周辺 には狂歌師等から な る文化ネッ ト ワーク が あり、そ こ に 集 う文化人が紀 行文 の 読者だ っ たので
あろ う。
紀行文に は、 沿 道 の景 観 、 神 社 仏閣など の名 所が 細かく 記 され て お り、 とくに名 所につい て は 、 関 連文 献の記 述を
併記し て いるこ と から 、その内容は紀行 文という より は地 誌 で ある。 本 人に よる 挿絵も多 く、 冒頭には 行程を 示 し 、
読者 の便 宜を はか っ て いる 。 全 体 と し て 記述ス タ イル はどの紀 行文 も同 様 で パ タ ーン 化して い た。
以下 に その 内 容を みて いこ う。
(一)内 容構成と引 用 書目
『図誌 』 は 四冊四巻 から な る。巻 一 は江戸から 日 光 に 至る沿 道 の 名 所旧跡 が 中 心 で 、 日光山の入口で ある 神 橋 で 終
わっ ている 。 立 義 は 出 発 に あ た り 、 『 元 禄 巡 見帳』 を もと に沿道の村 々の下調べを し て いた 。 例 えば 、 上 鉢石 町に つ い
ては 「塗 物 椀 折敷 曲物漬物等あ きなふ家 あ り 、 巡 見帳に 記 し た るより 今 ハ家 数 も はる かに増したる へし、 さ りな から
御祭 礼の 節ハ 旅人多く 、 何 れの商人家にも 旅 客多き さ まなり 」 とあ り、 『元 禄巡見 帳』 の 記述と 比 べながら、 参 詣 者 で
賑わ う 町 の 様 子を 記 し て い る。
(23
)巻二は山内の堂 社 を 紹 介する内容になっ て お り 、 二 王 門・陽 明 門・本 社 ・ 奥 院 御 廟・朝鮮国献上鐘 ・ 朝 鮮 国 献上 廻
金燭台・ 琉 球 国献上 燈 台・ 阿蘭 陀国 献上 釣金燭台 ・伊 達政宗寄 付南 蛮鉄燈籠 ・ 相 輪 塔等を 挿 絵 入 り で 紹 介 して いる。
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とくに琉 球・ 朝鮮・阿蘭陀の献上鐘・燭 台等につ い て は、 山内の案 内人の話 と自 身が文献 から 得た知識を 照合 し な が
ら記し て いる。
巻三で は 四 本 竜寺 ・ 本 宮 権 現 ・ 三仏 堂 ・ 大猷 院 殿 ・ 稲 荷川 ・ 霧 降 之 滝 ・ 華厳 瀧 等を 取 り 上 げて いる。 巻 三 は 『図誌』
の 中 心と も言 える部分で 、 東遊・延 年之 舞・ 御神 輿 行 列・ 日光 せ め といった 儀式 が絵 入りで 説 明されて いる。 立 義 は
金一〇〇 疋 を 納め、大猷 院 殿参拝の 許可を 得 て い るが 、山内の 案内 人に、別途 、 拝見料を 渡す と、特別 に参 拝が許 可
さ れ る こ とがあっ たよう で ある 。しかし、 規 制も厳しく、 大 猷 院殿 で偶然耳にした 延 年 之 舞 の 唱 歌 を書き留め よ うと
する と、 「秘 事」 であ るとい う 理 由 で許さ れ な か っ た 。 後 述する よ うに 、「 延年 之舞」 の 記述 を 『 山志』 と 比 較 する と、
典拠:『日光巡拝図誌』(国文学研究資料館蔵) 国花万葉集・四神地名録・武蔵演路・百川朝宗・元禄武蔵絵図・廻国雑記・吾妻鏡・吾妻鑑要目集成・坂東観音霊場記・日光名
勝記・庚午紀行・元禄巡見帳・日光名跡志・日光志・万葉集・木曽名所図会・日光山法華八講之記・和名類聚抄・下学集・日光
地志・朝野雑記・日光御迂座之記・塩尻之記・谷響集・空華談叢・延喜式・左入公一代記・延年之舞図・東遊之図・温故随筆・
御神輿行列次第世諺問答・日光惣絵図・大和本草・日光せめ之図・本朝俗諺志・閑田耕筆・笈埃随筆・中禅寺私記・元亨釈書・
本朝高僧伝・性霊集・堀川院百首・地蔵霊験記・日光年中行事・日本輿地図・雲林石譜・奥の細道・続古事談・鵝峰文集・土津
遺筆・大清記事・昆陽漫録
(披見できなかった書目)
日光巡覧記・日光山記・日光山縁起・日光山紀行・日光山八景詩・日光山道しるへ・日光山道之記・日光雑話・日光山道中記・
日光諸碑銘・日光紀行・日光山御祭礼行列略図・日光山御記・日光記・日光山供奉私記・日光堂舎建立旧記・二荒山千部会記・
日光山三月会記・東照宮三十三回記・下野絵図・東照新廟記 表2
『日
光巡拝図誌』の引用書目
かなり異なっ て い る こ とに気づく。 記憶をもとに 儀 式 の詳細の 再現を試み た 点に 『図誌』の特徴がある。
巻四は 中 禅 寺 ・男体 山 と い っ た 奥 日 光 の 名所を 中心 に 帰路の 様 子 が 記されて い る 。
引 用 文献は 五 二点 で 、 表2に示した通り で あ る。 『 四 神 地 名録 』・ 『武蔵演路』 ・『国家万葉集』 ・『吾 妻鏡 』・ 『万 葉集 』 ・
『 和 名 類聚 抄 』 と い っ た関東 地 域 の地誌編 纂 の 基本 史料 と な る、 地誌 ・ 歴 史書 ・和 歌 集 のほ かに 、 日 光の儀式 の 記 録
で あ る 冷 泉為景の『日光山 法 華 八講之記 』 等日光 関係の文 献収集を 試み て い る 点 が興味 深 い 。 『日光山法華八 講 之記 』
は、 『日光山志 』 にも全 文 が 引 用さ れて おり、知識 人 の 間 で は基 本 文献とし て 認 識さ れて いたので あ ろ う。 こ の ほか 、
立 義が入 手 で きた日光 関係書物には 貝原益軒『日光名勝記 』・ 鷹 橋 義武『 日 光名跡志』 ・烏丸光廣『 日 光 御 遷 座之記 』
がある 。 ま た 、 編 者不明 で はある が 『 日 光志』 ・ 『日 光地志』 といった地誌 も 含 まれ て い る。また、文 献史料が入手し
にくい秘 儀に つい て は 、「 延 年 之舞図」 ・ 「 東遊 之図」 ・ 「 日 光せめ之図」といった図の収集に 努 め て いる 。
立義は 、 実 際 に見 るこ と が で き な か った 日光 関 係 書 物 二 一 点 の 書 名 も書き 上 げて いる。こ れ ら には林 道 春 の 『東 照
宮三十三 回忌』 ・ 『東照新廟記 』といった年忌法 要や 造 営 記録 をはじめ、 社 参の 供奉 記録 や紀 行文等が含まれ る。そも
そも日光 の儀 礼は秘事で あ り、そ れ に纏わ る 記録 類も 特定の家 が管理し て い る た め、 見るこ と は非 常に難しかっ た 。
武家が所 蔵す る記録類 につ い て も、 その 存在を 知 り得て も 披見 には 至ら なか ったこ と が わ か る 。 し か し 、 こ れらの 書
目 に つ いて 、 立義 は「 地 誌 目 録 」で 確認 した と記 し て おり 、武 家や 社 家 が 独 占 し て い た 記 録 に 関す る情 報を 入 手 し え
たこ と は 注目 され る。
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(二 ) 立 義の歴史意識
a 文献と実 地調 査による考 証
『 図 誌』 の記 述 の 特色 は、 多様 な文 献と立 義 自身 が見聞し た経験に よ る 考証にあ る 。 その手法 は 二 つあ り、 一 つ は
地誌・歴 史書 等から関 連記 述を抽 出 し、 そ れ らを 併記 する こ と で 、 史 蹟 や名 所の 説明 を す るも の で ある。 近 世地誌で
は一 般的 な手 法 で ある。も う一つは 、予 め文 献から得て い た情 報と現地 で の 見聞を 比 較し て 、史蹟 や名所の実態 を 詳
細に 記すもので あ る 。 近年の研究 で は後者の手法は、書物 の受 容によっ て参詣 者 の旅程 が 規制 さ れ 、 プ ロト タイ プ 化
した 影 響 に よ るとされ て い る。
(24
)先述のように立義が、 『 元 禄巡見帳』 の 記述と 比 較し て 日 光 周 辺の町場の 賑 わ い 記 し て
いるのが その 一例 で あ る。 こ の ほか 、 朝 鮮 ・ 琉球 ・ 阿 蘭 陀 からの 献上 品 について も、 『日光志 』 の 記述とそれ と を 比 較
した 内 容 に な っ て い る 。 『 日 光 志 』 は 三 巻 か ら な る 漢 文 の 地 誌 で 作 者 は 不 明 で あ る 。
立 義 は『 日光 志』 にお い て 、 朝 鮮国 から の 献 上品 とす る 「 三十 六缸 燭 台 」に つい て、 案内 人 の 説明 をも とに 、 琉 球
か ら の 献 上 品 で あ ると 訂 正 した 上で 、さ ら に 『日 光 山 法華 八 講 之 記 』 中 の 「 朝鮮 鐘の 前 に すえ た る 灯籠 は琉 球 より 奉
れ し となんと見へたり」と いう記述を引用し、案 内人の話 を文献 で 実証し て いる 。
(25
)つまり 、 立義は参詣 とい う 体験 を 通 し て 既存の 知 識を検証し、 見 物 によっ て 得た新たな情報を文 献 で 考 証 す る こ と
で 、知識をより確か で 豊か なものに し て いっ たので あ る 。 地誌や 文 学作品等 に記 さ れ た名所を 訪 れ 、身体を 通し て 体
得する こ とも 実証だったので あ る。
ま た 、立 義は旅 行 中に 聞い た 案 内人 の話 を、 江戸 に 戻 っ た 後、 文 献 で調 べ真 偽の 確 認 を し て い る 。 『図 誌 』 の中 に、
案内人に聞いた話とし て 朝 鮮鐘の前の獅子に纏 わ る逸話が記されて いる 。 こ れは 、 徳 川家光が 日光社参 の際 、造 営 の
出来映え に「 御称美の 御意」を示さ なか っ た こ と から 、 奉 行が 落胆 し き っ て いた と こ ろ 、 朝鮮 鐘の前の 獅子 の彫り 物
の 前 にや っ て 来 て 、 よ うや く 建 物の 見 事 さを 賞 賛 した た め 、奉 行が 面目を 取 り戻 した と い う話で あ る。 立義 は 、 案 内
人の話を 『日光 志 』 の記 述 と比 較し て 概 ね正 しいとした上で 、 獅 子 の ある場所は全体の 入口 に過 ぎな いの で あ るか ら 、
家光 が 山 内 全 て を 上 覧 した 上で 発 し た 言 葉で は な いと 述 べ て い る。
(26
)この ほか 、立 義 は 烏丸 光廣 『 日 光御 遷座 之 記 』に 東照 宮 の 改 葬 が「 元 和 一 三 年 」 と 誤 っ て 記さ れ て いる 点 を 指 摘し
てお り 、 文 献 史 料 の 内 容 を 精 査 し て い た 様 子 が 看 取 できる 。
(27
)その 一 方 で 、 久能 山で は 、 徳 川 家康 の遺 骸を 日光 へ 改 葬 し た 天 海を 「盗 人坊 主」 と 呼 んで い ると い う 噂 を 「 笑 い 話」
とし て 紹 介し て い る 。
(28
)文献や 実 地 調 査を も と に 緻 密 な 考 証を 試 みなが ら 、 他 方で 他 愛 な い 「 笑 い 話 」 を 取り上 げ て い
るのは、 読者 を 知 識人 だけ に限 定して い ない証 左 で あ ろ う 。
b 奥院御 廟 ・秘儀の 再現
日 光 にお ける 神 事 や儀 式は 秘 儀 で あ り、 そ も そ も 細か く 記 録に 残さ れる もの で は な か っ た が、 立 義 は こ の秘 儀 と 言
われ る儀 礼 や 、武家 で あって も 容易 に立ち 入 れ な い場 所を あえて 取 り上げ て 記述 し て いる。その一例 を として徳川 家
康が祀られて いる「奥 院御廟」の記 述を 見て みよ う。
江戸 時代 にお け る 庶民 の参 詣 は 、 陽 明 門 を通 り 、 拝殿 向拝 下 ( 鰐 口 下) での 拝 礼 が 一 般 的 であっ た 。 し かし 、 『 図誌』
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では 庶民 が 立 ち入 れ な い 奥 院 御 廟を様 子 に つ い て 略 図 を添 え て
説明し て いる 。
(29
)是 ハ 貴賤共に参詣かなハす 、 此図 ハ 御 普 請 の時毎日至りし
人歩
(夫)の者の 物 語り ニつきて 写 す 、 た かへ る 事 も 有 るへ し 、
( 中略 ) 御廟ハ
山 の中 を 堀 わ り 左 右 に石垣を築く、高さ四尺
程其上ハ 土手 に て 次第 に高 く、 其上 に樹 木 生 茂りた り 、 但 、
左右共 に 同 し 図に左右 画く 事あたハ す、 故ニ一方を し るし
たり、入口より御 宝塔迄凡 一 町 余、御 宝 塔有所石垣三 方 高
さ八尺程 御前 の香炉人夫十 六七人にて 外 へ移せしとぞ
右の 記述と 図 3は 、奥院 御 廟の おおよ そ の概 観を示 し たも の
であ る 。 立 義は 、 この 情 報 を奥 院御 廟 の 普 請 の携 わっ た人 夫か
ら聞 き 出 し た と述べ て いる。 こ れによれば 、 御 廟 は山 中にあり、
入口 か ら 宝 塔 まで は 凡 そ 一 町 程 の 石 段が 続いて い た。 左右は 石
垣で 囲 ま れ 、 その 外 側 に樹 木が 植 え られ て おり 外 部か ら 見 え な
いように なって い たと いう。廟の前 には 、十六・ 七人 程の力を 必要 とする大き な 香炉が置 かれて い たと ある。 『図誌 』
の挿絵( 図3 )は、実 際に目にし た かの ように描 かれて お り、宝塔 にいた る 三つの門 および宝 塔・香炉 の描写 は 詳 細
であ る 。
な お 、 『 山 志 』 に は 奥 院御 廟の 記 述 はな い 。 そ れ は、 東照 宮 に 対 す る 崇敬お よ び 幕 府 に よ る 規 制 が あ っ た た め と 考 え ら
図 3 奥院御廟
(『日光巡拝図誌』国文学研究資料館所蔵』
れる 。 こ れに対し 、 『図 誌 』 は 出 版 を意 図し てい なかっ た こと もあ り、 秘 匿 さ れ たも の へ の江戸庶民 の 興味 を反 映し た
内容にな っ て いる。
『図誌 』 には秘儀とさ れ る 東遊・延年之舞も挿絵入り で 紹 介さ れている 。東遊は、 祭礼時に御旅 所 で 行 われる神事
の一つ で ある。もとも とは 久能山の 麓に伝わ る民 間舞 踊 で 平安 時代 に宮中に伝えられたと いう。 こ の舞 は宮 中以外で
は、 賀茂 ・ 春 日 ・ 石清水な どの勅 祭 社でのみ行 わ れて おり、 服 属儀 礼の意 味 も持っ て い た 。 『 山 志 』 で は 以 下のよ う に
記さ れて いる 。
(30
)御祭 儀の 節 、 御旅所 に て 奏 する舞曲 なり 、伶人の 内七 人に て 修 せり 、その内 舞人 四 人 は、 紅沙 の 袍 に下 襲 藤 色、
表袴は白 精好に 青摺の 模様、 下 袴は緋精 好 の 大 口 、 陪 従の三人は 紫 の沙袍に蠟虎を縫 ひた る 蛮 衣、 下襲 は玉虫色
紫の指貫、右の七人ともに騎馬に て 神 輿 に 供奉し、御 旅 所に至 る 、 入 御の節 、 伶 人 、御安 座 楽 と て抜頭を奏 す、
御三品立の御膳を奉る 、 こ れを上り 御膳 と唱へ、こ の 時十天楽を奏 し 奉 る、 そ れ より東遊を歌 舞する、陪従 の内
一人は神楽歌を唱 へ、ほか二人は 篳 篥と高麗笛 を 役す、 舞 曲終り て 御 膳 をすべすを、 下御膳と称し て 、ま たこの
時伶人、 羅陵 王 を 奏す る事 とかや
孟縉 は、 右のよ う に、 東遊 の 伶 人 ・ 舞人 の 装 束と 儀 式 の次 第 を 簡略 に ま とめ 、 こ れに 挿絵 を二 点添 え て いる 。一 点
は間宮士信に よるもので 拝 殿の方か ら儀式全体を 描いた図 で 、 もう一点は 渡 辺崋山が 描い た舞人と 伶人 の挿 絵であ る 。
こ れ に 続 い て 、 『 続 拾 遺和 歌 集 』 か ら 東 遊 を 詠 ん だ和 歌 を 引 用 し 、 宝永 五 年 ( 一 七〇 八 ) に 建 立 さ れ た 東遊 碑 の 銘文 が
記されて いるのみ で あ る。 つまり、客観 的記述に つと め、儀式 に関 する考証や 、 孟縉自身 の見 解を 排した構 成 にな っ
てい る 。 こ れ は 東 遊 が 東 照 宮 を 象 徴す る 儀 礼 であり 、 秘 儀 である こ と を 考 慮 し た ため である 。
これに対し『図誌』 で は 、 西丸書院番 で 考証家とし て も知 ら れ る大 久 保 忠寄 所蔵 の 「 東遊 之図 」 を 縮 写し て 説 明 に
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替えて い る。
(31
)これによ れば 、 東 遊は秘 曲 で古くから京 都 楽 人 が
下向 して奉奏 し て いたた め 、毎年の奉奏 は難しか っ た が、 宝 永
三年 ( 一 七〇六) に日 光楽人 が 伝 授 をうけ た こ と から 毎年 、奏
する こ と が可能にな っ たと いう 。 大 久保忠寄の 考証の 引用 で は
あるが 、 東遊 が日光で 奉奏 され る ように なっ た 経 緯が 説明され
て い る。 挿絵 を 比 較 す ると 、舞 人 等 の装 束は『 山 志 』 より詳 細
で、 袴の 模 様 が 緻 密に 描 か れ て いる 。 舞 人 が 履物 を 履 い て いな
い 点 が『 山 志 』 と 異な っ て い る 。さ らに、 立 義は 、 舞 人 が 騎馬
で神 輿 に 供 奉 し てい る 様 子 を 見 た こ と を 書 き と め ている 。
延年之舞は、毎年四月一七日 の 東照 宮祭礼 ・ 三月 二日 の新宮
祭礼に行 われた儀 式 で ある 。 『 山 志 』 に よ れ ば祭礼当日 の 朝五 つ
頃、神輿が新宮 を 出発する前に 三 仏 堂前で 行 わ れたと あ る 。 一
山の 衆 徒 二 人 が 頭 を 白 の 五 条の袈 裟 で つ つみ、 緋 緞子 に牡丹 唐
草の直垂 ・白 の大口袴 を着 し て 舞うもので あ る。 天下 泰平・国 土豊 穣を祈 願 する 秘儀 で 、 慈覚 大師が入 唐の 際に伝 え
たと言 わ れ る 。『 山志』 で は、 東遊と同 様に 、 僧 衆 の 装束や 両 僧の 舞の 様子を 順序通りに記すこ と に終 始し て い る 。 こ
れに 対し て『図 誌 』 で は 、 延年 之舞を 描 い た 挿 絵 を配し 、 そ れ に 続 け て 自 身 の 考 証 を 記し て い る 。
(32
)抑延 年之 舞 と 申 ハ 僧 徒 天 下 安 全の 為 に 行 ふ 舞 な り 、 ひ え い 山 南 都の 僧 伝 来 な り 、 或 説 然 る に今 ハ 諸 方 皆 た へ て 只
日光のミ 伝 る と云、ま た 此 うた う詞 ハ伝 教 大 師の 作にて 入 唐の 時い とま乞に 舞 給ひ し遺 風 也 と 、 昔は饗 宴 の 節 ハ
図 4 東遊
(『日光巡拝図誌』巻三、国文学研究資料館所蔵)
舞し事東鑑所々ニ見へたり、 但 舞形一様ならず、 温故随筆
ニ曰 太平 記 ニ猿 楽 ハ 佳 令延 年の 法なり と 、 或 ハ延 年の 舞と
て 舞楽の時最初に有義なりと云、 此 悪鬼魔障を 払 ふ一術と
かや 、( 中略 ) 右に て 考れハ 往古ハ今 の 能 の 如く舞たるを 次
第に わざ多く成 て 、 は て ハ 能の間の狂言の如き 事になりし
と 見 ゆ さ れハ今日 光に て舞ふ所かへ つ て 往古のさまなる へ
し、 但し日光に伝ふる所は只 一 通りなりや し らす、 延 年の
舞の図一帖世 間につ たわ る其 詞書に鳫帽子ハかぶり不申候
と有、 こ の度見たるにはかぶりたり、 さ らハ右の図あらわ
した る 人 の見 た る 時ハか ぶ らざ り しと見 ゆ、 され バ舞 形 一
通り なるべからず
立義は 延 年之 舞の伝 来 に つい て 考 察 を 試 み て い る 。こ こで は 、
まず 、 『 吾 妻 鏡 』 を用 い て 中世 以 来饗宴 の 席 で 舞 われ 、 そ の 形式
は一定 で はないとし て いる。さらに『温故随 筆』や『太 平 記』 などをの記述を 分 析しながら、往古は能 の よ う に舞わ
れて い た もの が、 狂言 に近い形へと変化 し た の で はな いかと述 べ て 、日光の延年之舞が古 い形式を伝え る舞で あ ると
結論 づけた。ここで興味 深 い の は、立 義 が 延 年 之 舞 を 描い た図をす で に 見 て い た こと で あ る 。 図と彼が実際に 見 た 舞
を 比 較し て鳫 帽 子 着用 の有 無といった細 部にま で 考証を広げ て いる。一九世紀に 入ると、東遊や延年 之 舞 は そ の音 唱
が研究対 象に なっ て お り、 本居宣長 の 『 東遊考』 等が その一 例 で あ る。 つまり、 日光 の秘儀で ある東 遊 や 延 年 之 舞 は 、
図 5 延年之舞
(『日光巡拝図誌』巻三、国文学研究資料館所蔵)
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学問の対 象 で もあり、 知識 人層におい て は、そ れ を知る こ とができ る 状 況にあったと考えられ る 。 そし て 、 そ の 知識
は、立義 に代表され る 江戸 の文人の 間にも共有化されて い っ た の で ある。 そ こ に は、儀礼 によ っ て 体現 され る日光 の
象 徴 が、書物という メ デ ィ ア を 通 じ て情報化 さ れ ていく 状 況が看 取 できる の である 。
(三)江戸町人 の東照宮信 仰 の広が り
『図誌 』 の 冒 頭にお い て 、 立義は 日 光 参 詣の理 由 を 以 下のよ うに述べ て いる。
(33
)凡 人 の世 にあ る程尤思 ふへき 事 、第 一父 母の恩 、 第二 国 王 の恩 、第 三天地の 恩 、 第四に衆 生の 恩なり、 是を 四恩
とい ふ、父母のめ くみハおのつ から し り ぬ、 国王のめく ミ のふか き い ふ もま ゝ な り、 天下 み た れたらん に ハ 父母
を置 に所 なし 、国 しつか な ら し すん ハ妻子を養ふ によ しな く、今や 四つ の海浪静 にし て 安 く、父母妻 子 を養 う事
あふけな くも か し こ く も東 照大権現 の御 た まもの なり 、され は いつれ の 神仏 を お きて も詣て 物 し奉 るへ きを おの
か し ゝ 私 によ り て 他所 へハ 詣れ と二 荒の 御山へハ 登ら さる事いか に そや 、そハい へわれ も 五十 過る迄心 にハ おも
ひな が ら 過 し た る を 今 年 文 化 十 五
四
月 新 喬 子・尚 鯉 子・ 萬 子 の 三 人 思 ひ た ち て 詣 ん と す 、 お の れ に も 同 道 せ
ん事 をす ゝ む
立義は 四恩 の思想か ら 現 世の平穏を説き 、そ れ はす べ て 「東 照 宮 の 御たま もの 」 とし て いる。さら に 、 他 の 神社 仏
閣の参詣 よりも日光優先すべきと こ ろ 、 これま で 参詣でき ず 、 文化 一五年に至り 、よう や く実 現し たと述べて い る。
立 義 は 多 少、誇張し て 述べて い る も のの 、 家 の繁 栄 や 地域 社会の安定 を 東照宮の恩 恵 と考え、東照 宮 を 信仰 する 傾向
は一八世紀半ば以降、少なからず各地 で 見ら れた。民 衆 世 界おい て 東照宮は 民俗 神とし て 信仰 され る こ とも あっ た の
五月文政ト改元
であ る 。
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)その 一 例 と し て深 川 材木 町 の地主 鈴 木 家 を あ げて おき た い 。
(35
)鈴木家は近世初頭に武蔵国比 企 郡三保谷から江
戸に出 て 伊勢 町に居を 構え た。 その 後、 居住地を 変え 、幕末期 には深 川 材木 町に 住ん で い たが 、初代が 入 手 し た伊 勢
町の土地 は代々、所持 し続け て い た 。鈴 木家は、 毎年、家 康が 他 界 した 四月 一七 日 に 「 日 光 様 御祭 礼」 と称 し、東 照
宮 の 遺訓を記 し た 掛 け軸 を 飾 っ て、親戚や縁 者に食 事 を振る 舞 っ て い た 。
また 、『 江 戸 名所 図会 』 を 見 ると 、 江 戸 および そ の 周 辺地域 で 、 東 照宮を 祀 り庶 民の信仰 を集 め て いた 寺社 があった
こ とが確認 で き る 。 例 えば 浅 草 寺 で は 毎 月 一 七日に 、 終夜 、 誦 経が 行な わ れ て い た 。 鳥越の西福寺 ・ 妻恋 大明神 で は 、
東照宮の 神影や 像 を 安 置 し 、四月一七日 には特別 に民 衆の参拝を 許 し て いた とい う。徳川 家の 菩提寺 で ある 増上寺で
は、毎年四月 一七日に祭礼を行っ て お り 、家康 を 祀る安国殿は多くの人々 で 賑 わ っ た 。
一 九 世紀初頭 、 東 照宮 は家 や地 域に 繁栄 を も たらすも の と し て 信仰 の 対 象と なり 、 家 や町 ・村 の 由 緒と 結びつ い て
いっ た。 とくに江戸や その周辺地域は 将 軍 の 膝下 で あ るこ とから 、 とく にその傾 向が強か っ た と言 える。 そ れ ゆ え に 、
本来、 崇 敬の 対象 で あ り秘匿すべ き で あ る日光東 照宮の奥院御廟や 東遊・延 年 之 舞といった神事は、読者の 関心が高
く、 『図 誌』の 中心に成 り得たの で あ る。
おわりに
以 上 、雑駁 で はあるが、 『 山 志』 ・ 『図誌』 をもとに、一 九世紀 初 頭の日光を め ぐ る 歴史 意 識 に つ い て 述 べ て き た。
『山 志 』 は江戸時代におい て 、 最もまとまっ た 内 容をもつ日光の地誌 で ある 。 そ の内容の特 色は三点 に まとめ ら れ
る。 一つ めに は山内の 堂社 につい て 詳細 な記述が なされて いる 点で ある。こ の 背 景 には、 幕府 の指 示に より 孟 縉 自 身
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の考証が 削 除 された こ とに よる 。二 つめは中世以 来の 歴史を 重 視して い る こ と で ある 。 こ れ は 、 江 戸時 代に おい て も
日光が山 岳信 仰の霊場 と し て 人 々の 信仰 を集 め て いたこ と によ ろう 。 三 つ め は日 光周 辺 の 名所 ・ 地 域 の 人 々 の暮 らし ・
動植物 等 を通じ て 日 光 を包括的に捉え、そ れ を「徳川の平 和」 の象徴とし て まと め て いる点 で ある。 こ うした内容構
成は、 孟 縉が八 王 子千 人同 心 と いう特 異 な 存 在 で あ っ たこ とと無 関 係で はない。 八王子千 人同 心は集団全体 として は 、
徳川氏忠 臣と いう意識を 持 ち身 分上 昇を 志向 しつ つも 、内部に あって は 旧家 層と 新興層の 対立があっ た 。こ うし た 状
況が孟縉 に『 山志』 を 編纂 させるに いた らせたと 考え られ る。
『図誌 』 は、 『山志』 とは 異なり、 日光 全体 につ い て 記す とい うよりは、 東 照宮をはじめ 中心的な建造 物と東照宮祭
礼・東遊 ・延 年之 舞・ 日光 せ め とい った 日光の 儀 礼に 重点を お いた 構成にな っ て いる。さ ら に 、そ れを 文章 だけ で は
なく、 豊 富な 挿絵 によ っ て 視覚的に 表現 し て いる。 東 照宮の奥 院御廟の挿絵 はその一例 で ある 。 『 図誌』 は 、 狂 歌師を
中心とした文 人サーク ルが 読者 で あ り、 出 版 には 至って いない。 し かし、 『 図誌』 の 内容は 、 江 戸 庶民が 日 光 の 何に興
味 を もっ てい た か を端 的 に 示 し ている 。 秘 儀 と い わ れ た儀 礼 や 庶 民 が 立 ち入 れない 空 間 こ そ が 関 心 事 で あ り 、 こ れら
の情報は 『図 誌』が出版され な か っ たか らこ そ記 しえ たと言え る。
日光山は勝 道 上人に よ っ て 開山された 山 岳信仰 の 霊場 で あ ったが 、 元和 三 年 ( 一 六一 七 ) の 東 照 宮 の 創 建を契 機 に
徳川権威 の象徴となった。 山内 で 執 行され る 法 会 や東 遊・延 年之舞 等の儀礼 は秘 儀 で あり 、堂社も民衆が自 由にす る
こ と は許さ れ て い な か っ た 。まさに、秘匿さ れる こ と で そ の権威を 維持し て きた と言える。しかし、幕 府は 一方 で 、
東 照 宮の 神威 を高 めるた め に、一定 の規 制のもと に庶 民の 鰐口 下まで の参詣 ・ 初 穂料や 賽 銭の 奉 納 ・ 堂 社の 拝見を 許
可し て い た。 また 、万 石以 下御目見 以上 の旗 本に 対して も 、寛 政三 年( 一七 九一 )に手続きを 経れば 東 照宮 ・ 大 猷 院
殿を 拝 礼 で き る と し 、 日光 参 詣 を 奨 励 し た 。
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)こう し た 状況 が中 世 以 来 の 修験 の 霊 場と し て の 伝 統 と 相 俟 っ て 東照 宮信
仰を拡大させて い っ た の で ある。
一 八 世紀半ば以降、東照宮が家 や 地域の由 緒と結び つ き 、広 く信 仰され る よう になると 、 東 照 宮はも は や 秘匿され
るもの で はなく、民衆に 開 かれた存 在へ と変化 を 遂げざる をえ な か っ た 。日光地 誌の編纂 ・刊 行は、 こ うした社会 の
変容 を反 映したもの で あり 、秘儀と さ れ てきた儀式の情報化 を 促した。 こ の 象徴から情報 化へ という儀 礼の変質 こ そ
が日光を めぐ る歴史 意 識を 成立させ たので あ る。 孟 縉 と 立 義の 日光 への アプ ローチ は か な り 異 なるが、こ れ は情報 に
よっ て 対 象化された日光が さらに分節して い く過 程 で あり、多 様な 読者を想 定した情報空 間が 成立し て いたこ とが 看
取で き る ので あ る 。
〔註〕