「 アーカイブズ」をめぐる営み
〜沖縄における 「歴史資料 」と 「歴史意識 」 の考察〜
豊見 山和 美 †
は じめに
1 「歴史資料」 をめ ぐる営みのクロニ クル 1‑1 沖縄戦以前の歴 史資料
1 ‑ 2
米国 占領 下の歴 史資料1 ‑ 3
施政権返還後の歴 史資料1 ‑ 3 ‑1 1 9 45
年 を起点 とす る歴 史意識 と歴史資料卜3 ‑ 2 1 97
2年 を起点 とす る歴史意識 と歴史資料卜3 ‑ 3
「琉球」‑の回帰 :「琉球」王国 と 「琉球」政府1 ‑3 ‑ 4
「自己回帰運動 としての過去 に向か う心」:鹿野政直の区分 による歴 史意識 の変遷2
「公文書館」 とい う新たな語桑2 ‑1
近代アーカイブズの発生2 ‑2
アーカイブズの政治性3
「政治性」 を超 えて〜
「沖縄世」の公文書館 とは何か3 ‑1
沖縄県公文書館 と公文書館法3 ‑2
「民主主義」の礎石 としての公文書館 〜アーカイブズの鍵 を市民‑〜はじめに
本稿の 目的は、沖縄 の人々のアイデ ンテ ィテ ィー形成 において、歴 史資料が どの よ うに用い られ てきたか概観 し、公文書館 1はそ こにおいて どの よ うな使命 と責任 を持 ち うるのかを問 うことにあ る。
米国か ら日本‑の施政権返還か ら30年余 を経 た現在で も、県内では沖縄 のアイデ ンテ ィテ ィー と は何か とい う議論 が盛 んに行 われ てい る2。 私見の限 りでは、それ らの議論 は 日本 国内の他 の地域
とは異なる先鋭 さと切実 さを持 ってな されてお り、その屈託 は沖縄 の辿 った流転 の歴 史をみれ ば、
理解できるか も しれない。
「沖縄のアイデ ンテ ィテ ィー」なる言葉 を、沖縄 の人々の集 団的 自意識 と言い換 えてみ る。沖縄 の 前近代において、ベネデ ィク ト・アンダー ソンがい うところの 「日々顔突 き合 わせ る原初的な村落
T とみや ま かずみ 財 団法人沖縄県文化振興会公文書管理部公 文書専門員
1 「公 文書館」とい う言葉 の英語 にお ける対応語 はarchives(アーカイブズ )とされ る。 アーカイブ ズと言 う語 自体 が多様 な意味 を持 ってい るため、公 文書館 をめ ぐる議論 にお けるアーカイ ブズの定義 には、 当の論者 のイデ オ ロ ギーな り戦術 な りが、かな り露骨 に反映 され るよ うである。筆者 の立論 も当然その よ うな限界 を持つ。 しか しアー カイブズ‑歴 史資料 あるいは公文書館 、公 文書館 ‑歴史資料 を収集 ・保存 ・公 開す る場所 、アー キ ビス ト‑歴 史資 料 を管理す る専門職 、 とい うよ うな同語反復 に筆者 はい ささか蹄易 してお り、多種 多様 な歴 史資料 のなかで、行政 機 関に属す るアーカイブズ としての公 文書館 は、その うち何 に責任 を持つべ きか とい う問題意識 が、本稿 の通奏低 音である。
2 沖縄独立論 も決 して消 え去 ることな く脈 々 と系譜 を連ね、それ を標題 にす る新刊 も書店 に並ぶ。例 えば比嘉康文
「沖縄独立の系譜〜琉球国を夢見た6人」 (琉球新報社
2 0 0 4
年 )I .1‑ ‑
よ り大 きいすべ ての共 同体3」が、人 々の集 団的 自意識 の 中に入 り込 んだのはいつの こ とだ ったの か。 「琉球」あるいは 「沖縄 」 とい う 「われ われ」は、いつ始 まったのか。 いわゆる琉球王国の時代 に、民衆 がその構成員 と して王 国 とい う 「想像」 を どれ だけ具体的 にわが もの と していたかを立証 す ることは難 しい。 王や 中央 ・地方 の官人層 か ら構成 され る支配階層 が 「たみ ・百姓」 とされ た民 衆 を支配す る とい う身分制 にあって4、民衆 は王国の民 としての 自覚 な りプ ライ ドな りを得 ていた のか。 古謡や伝承 、古典芸能 な どに表 わ され た世界観 を解釈す る とい う手法 もあるが、前近代 にお ける沖縄 の人 々の集 団的 自意識 について論 じることは筆者 の手 の届 くこ とではない し、本稿 の意図 か らも外れ る。
少 な くとも、沖縄 の民衆が生活共 同体 を超 えるよ り大 きな共 同体意識 を持つ ことを強 く求め られ るよ うになったのは、琉球王国が沖縄県 と して近代 日本 国家 に再編 され て以降の こ とと言 うことは で きるだ ろ う。琉球 の人 々は、新 た に 「設置」 され た沖縄 県の構成員 として、近代 日本 国家の要求 に応 えなけれ ばな らなかった。 沖縄 県民が 日本 国家経営 のために 日本政府 ‑納税 し、 日本国家 を守 るた めに兵役 に就 き、琉球 国や清 国ではな く 日本 国‑忠誠 心 を持つ こ とを促進す るために、当局は 日本 国家 の一翼 を担 う沖縄 県 とい う物語 を、 さま ざまな装置 を通 じて供給 してい くことになった。
も し太平洋戦争 とその最終局面 と しての悲惨 な沖縄戦がなけれ ば、 日本 国家 の一員 と しての沖縄 県民 とい う共 同体 の幻想 は、 よ り強固 に確 立 され ただ ろ う。 しか し戦争 の勝者 た る米 国に 占領 され た とき ‑そ して 占領 者 は、琉 球 人 は 日本 人 と決 定 的 に異 な る集 団 で あ る とい う認識 を もって い た5‑、そ して 占領者 が 「沖縄 」でな く 「琉球」 とい う名称 をその被 占領者 た る集 団 に与 えた とき、
沖縄 の人 々はその集 団的 自意識 を再 び構築す るこ とを迫 られ た。 「われ われ」が 日本人 な らば、なぜ この よ うな形 で 「日本本 土」 と切 り離 され なけれ ばな らないのか、 日本本土は平和条約 の発効 とと もに独 立 を取 り戻 したに もかかわ らず 、なぜ 「われ われ 」はなお も 「異 民族」の統治 に服 さなけれ ばな らないのか、その よ うに問いか け続 けた
27
年 が過 ぎ、1972
年5
月1 5日、沖縄 の施政権 が 日本
‑ 「返還」 され た こ とに よ り、新 たな 「沖縄 県」 が 「われ われ」 の枠組 み と して呈示 され ることに なったのであ る。
この よ うに、「われ われ」とは何者 で あるか を 自問 し続 けて きた沖縄 の人 々は、そのアイデ ンテ ィ テ ィー の源 を さま ざまな事象 に見 出そ うと した。 それ は民族や人種 であ った り、言語や民俗 とい う 文化 的エ スニシテ ィ‑ であった り、大交易 時代 の歴 史 ロマ ンであった り、異民族支配 下で 自治 を求 めた民族 の闘 いの記憶 であった りした。 その よ うな営為 の 目指す ところが、 日本 と沖縄 の同質性 を 立証 しよ うとす るものであろ うと、あ るいは差異 をつ きつ めて異質性 を強調 しよ うとす るものであ ろ うと、または純粋 に 自己認識 とい う意味での文化 の探求であろ うと、その論証 の素材 となった も のはほ とん どの場合 「歴 史」 であ り、それ を裏付 ける 「歴 史資料」 だ った。
=iベネデ ィク ト.アンダー ソン 『増補 ・想像の共同体‑ナ シ ョナ リズムの起源 と流行‑』 (NTT出版 1997年 訳 白 石 さや ・白石隆 )p.
2 5
「日々顔突 き合わせ る原初的な村落 よ り大きいすべての共同体は (そ して本 当はおそ らく、そ うした原初的村落す ら)想像 された ものである」 とい う。
4 田名真之 「身分制‑ 士 と農‑
」
『新琉球史一近世編‑ (下 )』 (琉球新報社 1990年 )p.415 沖縄県立図書館史料編集室編 「琉球列島の沖縄人‑ 日本の少数民族」『沖縄県史 資料編2沖縄戦2(和訳編
) 』
(沖縄県教育委員会 1996年)p.13 米軍の軍事戦略局調査分析部が1944年 にま とめた この レポー トは
、
「(沖縄 列島に)住む人々は現在 の 日本において人種的、言語的、民族的に少数派 (マイ ノ リティ) を形成 しているといえ る」 として、沖縄 を朝鮮 ・台湾 と並ぶ 日本の少数民族 として捉 えている。 さらに沖縄人 と日本人の間の心理的亀裂 も観察 している。 占領後 も 「米軍は沖縄人が "日本人" としてよ りも "琉球人" としてのアイデ ンテ ィテ ィーを強 くもつ ことを望んでい ると信 じ、す くな くとも1960年代前半までは、実際にそのよ うな政策を とりつづけている」と宮城悦二郎は言 う。宮城悦二郎 『占領者の眼』 (那覇出版社 1982年)p.39
‑ 2‑
沖縄の人々は、その集団的 自意識の核 となる 「沖縄 とい う物語」 を構築す るための歴史資料 を ど のよ うに蓄積 し保存 し、「われわれ」とい う主体の形成 に用 いてきたのだろ うか。本稿 では もっぱ ら 近代以降の図書館や博物館 の活動 、県史の編纂事業、公文書館 の設立に至 るまでのできごとを追 っ た うえで、現代の公文書館 の将来像 を描 き出 してみたい。
1 「歴史資料 」をめぐる営みの クロニ クル
「歴史資料」とい う概念がカバーす る範囲は無限であるといって よい。言語 を用 いた記録 は多種多 様 であ り、私的な 日記か ら系図の よ うな私文書、企業記録 、統治機 関が作成 した文書 な どがある。
また (最終的にはそれ を紙 に書 きつ けることになるとして も)伝承や体験、また話 し言葉 自体 を記 録す ることで成立す る資料 もある。 いっぽ う非言語資料 には、三次元的な有形物、た とえば遺跡や そこか ら発掘 され る考古資料、建造物、伝統工芸品や民具、書画な どがあ り、近年 はそれ に動画や 音声記録、電子記録 といった媒体依存的な資料が加 わ る。 さらに無形文化財 のよ うに物質的媒介 を 持たない ものがある。 それ らの歴史資料 を駆使 してま とめ られた論文や刊行物6まで (これは言語 を 用いた記録 とい うことになるが)、「歴史資料」 とされ る。
本稿 では、こ ういった多種多様 な歴 史資料 の うち、主 として紙 に書かれ た記録や有形文化財 的 (中 で も人工物 に限定 し、 自然物は除 く)な ものを対象に、それ らの資料 をめ ぐる人 々の行動や選択 と いった営みのあ りよ うを考察す る。 「営みのあ りよ う」とは、具体的にい うと、上述 した よ うな広範 な意味での歴 史資料 の中か ら、人々が何 を選んで収集 し保存 しよ うとしてきたか、そのための集 団 的意志の顕現 として公的な施設や組織 と して何 を作 り出 してきたか、それ ら公的な施設や組織 がそ こに集積 した歴史資料 を用 いて どのよ うに人 々の歴史意識 を活性化 し、集合的主体 と してのアイデ ンティテ ィー を供給 しよ うとしてきたか、 とい うことだ。概括的なが ら、その経過 をま とめた年表 が、表 1である7。以下 この年表 をもとに、その営みのあ りよ うを跡付 けてみ よ うと思 う。
1‑1 沖縄戦以前の歴史資料
1 8 8 0
年 (明治1 3 )
鍋 島直彬県令 は文部省 に上 申 して 「書籍借 覧所」を設置 した。 首里の国学 と那 覇久米村の明倫堂の両校 内に開設 した この施設 は沖縄 の公共図書館 の嘱矢 といえる8。続 いて各地 に、日露戦争の戦勝記念事業 として図書館 が設立 された。1 9 0 6
年 (明治3 9)
名護 に私立国頭図書館 が、1 9 0 7
年 (明治4 0)
には私立戟勝記念図書館 が那覇久米の明倫堂に開館 した。私 立戦勝記念図書 館 は那覇区会議員や有志団体の甲辰倶楽部の出資になるものだ った。 日露戦争 の勝利 とい うナ シ ョ ナ リズムの高揚期 にこれ らの図書館 の設立を見たのは興味深い事実である。大正天皇の即位後は、御大典記念事業 として図書館等 の設置が相次いだ
。1 91 3
年 (大正2)
には 中頭郡教育部会が巡回文庫 を、1 91 4
年 (大正3 )
には石垣 に八重 山教育部会が八重 山通俗 図書館 を 設立 した。 また、1 9 2 8
年 (昭和3 )
に宮古郡教育部会 によ り設立 された私立昭和図書館 は、昭和天 皇即位 の御 大典記念事業であった。新天皇の即位 とい う祝祭 を契機 に、図書館 とい う形で資料 の集 積地かつ市民がそれ にアクセスす る場所 が出現 したわけである。6 た とえば沖縄県教育委 員会 で刊行 してい る 「沖縄 県史」 は歴 史資料 で あ る とい える。
7 この年表 は雑駁 な もので あ る こ とは否 めない。若 干 の例 外 は あ るが、行 政機 関の設 置 した組織 を中心 に ま とめ た。 さらに精微 な ものにす るために、読者 諸 氏の ご教示 を乞 いたい。
8 山田勉 「沖縄 にお け る図書館 発 生試論」『沖縄 の図書館 と図書館 人』 (沖縄 図書館 史研 究会
1 9 9 0 )p p . 2 卜2 2
また城 間朝教 「沖縄 図書館 の最後 と復 興」『琉球 史料 第
3
集 』( 1 9 5 6
琉球政府) p . 4 3 3
なお 、城 間前掲 には 「古 文書 な どの郷 土資料 を羽地相 の大湿帯 に疎 開 したが戦争 で散逸 」 との記述 が あ る。ー 3‑
表 1 沖縄における 「歴史資料」に関する事項年表
1880(明治13) 書籍借覧所設立
ー906(明治39) 名護 に私立国頭図書館 開館
1907(明治40) 私立戦勝図書館 、甲辰倶楽部 によって久米の明倫堂に設置 1910年廃 LL 1910(明治 43) 那覇に県立沖縄 図書館 開館
1913(大正2) 私立国頭図書館 、巡回文庫 開始 1914(大正3) 石垣 に八重山通俗図書館 を設立 1928(昭和3) 宮古に私立昭和図書館開館 1936(昭和 11) 首里に私立首里図書館 開館
沖縄 県教育会附設郷 土博物館 開館
1945(昭和20) 米国海軍軍政府 石川市東恩納 に 「沖縄陳列館」 を開館 1946(昭和21) 沖縄陳列館 、沖縄民政府 に移管 されて 「東恩納博物館」 と改称
首里市立郷土博物館 開館
1947(昭和22) 首里市立郷 土博物館 が沖縄民政府 に移管 され 、沖縄政府立 肖一里博物館 に改称 沖縄 中央図書館お よび石川分館 、首里分館 、名護分館 開館
1949(昭和24) 沖縄 1‑tl央図書館 首里分館 が首里図書館 となる 195l(昭和26) 沖縄 中央図書館 が文化情報会館 となる
1952(昭和27) 文化情報会館 、那覇、石川 、名護の図書館分館 が独 立 して琉米文化会館 となる 八重 山琉米文化会館 、宮古文化会館 開館
琉球改作f立法院図書館 開設
首里図書館 、宮古図書館 、八重 山図書館 が琉球政府 立 となる 崇元寺石門の修復工 事竣功
1953(昭和28) 沖縄民政府立 首里博物館 、東恩納 博物館 と合併 1954(昭和29) 琉球政府文教局研 究調査課が歴 史資料 の収集 を開始
「文化財保護法」の制定公布
1955(昭和30) 沖縄 民政府 立首里博物館 、 「琉球政府 立博物館」 と改称 1961(昭和 36) 首里図書館が中央図書館 とな る
琉球政府文教局研究調査課 、 「琉球史料」の刊行開始 ー965(昭和40) 「沖縄県史」の編集刊行事業スター ト
中央図書館 が琉球政府立 中央図書館 となるO 「虎恩納文庫」の移管 を受 ける 1966(昭和41) 琉球政府 立博物館 、新館移転
1968(昭和43) 沖縄史料編集所創設 史料調査及び 「沖縄 県史」編集事業継承 1971(昭和46) 沖縄県史第8巻 各論編7 沖縄戦通史 発刊
沖縄県史第9巻 沖縄戦記録 1 発刊 1974(昭和49) 沖縄 県史第10巻 沖縄 戦記録2
1975(昭和50) 沖縄国際海洋博覧会において沖縄 県が沖縄館 を出展 沖縄 県立平和祈念 資料館開館
1977(昭和 52) 沖縄 県史全23巻 (別巻1)の刊行終√ 1978(昭和53) 沖縄県立平和祈念資料館 の展示 リニューアル
1981(昭和56) 那覇市史 「沖縄 の働実‑市民の戦時戦後体験記1.2」発刊 以後市町村 史による戦争編 の刊行が続 く
1981(昭和59) 反戦平和資料館 (ヌチ ドゥタカ ラの家 )が伊 江島に開館 1985(昭和60) 浦添市立図書館開館 沖縄 学研 究室設置
1987(昭和62) 公 文書館法制定
1989(平成 元 ) ひめゆ り平和祈念資料館 開館
教 育委員会が 「沖縄県歴代宝案編集委員会」設置 l990(平成2) 浦添市美術館 開館
1992(平成4) 首里城公園供用開始県立博物館 が 「琉球王国展」開催
字楚辺誌編集委員会編 「楚辺誌 戦争編」発刊 1993(平成5) 新 沖縄県史編集事業開始
1995(平成 7) 沖縄県公文書館開館太平洋戦争 .沖縄戦終結50周年事業 の一環 として、 「平和の礎」建 立 県立博物館 が 「廷 る沖縄 .戦災文化財 と戦後生活資料展」開催
‑4‑
1 91 0
年 (明治43)8月 1日には沖縄県立図書館 が沖縄県庁の敷地 内に開館 した。その契機 となっ
たのは、尚典が図書館建設資金 として3,000円を沖縄県 に寄付 した ことである。 尚典 は琉球王国最
後の国王尚泰の息子で、寄付 は父の遺志 によるものだった。建設資金 は6,000円、開館 当初 の蔵書
数は4,560
冊 とされてい る。先述 した私立戦勝記念図書館 は、県立図書館 の設立 を機 にその蔵書 を 県に移管 し、1 91 0
年 (明治43)3
月に閉館 した9。沖縄県立図書館 は1 940
年 (昭和1 5)
、文部省 の 認可 を受 けて沖縄 中央図書館 に指 定 され た。伊波普猷 を初代 とす る歴代館長 が収集 した郷 土史料は、6,428冊を数 えた とい う10。
いっぽ う博物館 は、1
936
年 (昭和11 )
、「沖縄県教育会附設郷 土博物館」が 旧首里城北殿 を修理 ・ 整備 して開館 した。 この沖縄初 の博物館 の運営 に尽力 したのは 「沖縄県国頭郡志」の著者 として著 名な島袋源一郎 だった11。収蔵 資料 は1 939
年 (昭和1 4) 1
1月現在 で5, 404
点 を越 えていた とされ る。園原謙 は 「収蔵 品の傾 向を図 1郷土博物館収蔵 品件数 か らみ ると、陶器 、染織 、風俗資料、書 画写真及彫刻 文房 具の順 にな る。今 日、沖縄 工芸 の代表格 であ る漆器 資料 が少 ないのは意外 であ る」】2としている。しか し、 これ らの施設 と収蔵資料 は、沖縄戦 にお ける米軍の空襲 と上陸攻撃 に よ り、ほ とん どが 消滅 した。
1 ‑ 2
米国占領下の歴史資料荒廃 した沖縄 で、最初 に歴史資料の集積 が始 まったのは、1
945
年 (昭和20)8
月、米国海軍軍政 府が石川市東恩納の民家 を転用 して開設 した 「沖縄陳列館」においてである。 この軍直属の博物館 は1 946
年 (昭和21 )4
月に沖縄民政府 に移管 され、 「東恩納博物館」 と改称 した。首里では収容所か ら帰還 した住民が生活 を再開 し、市の組織 として設置 され た文化部が文化財 の 収集活動に着手 して L:う
、1 946
年5
月 には民家 を譲 り受 けて建 て増 したバ ラ ックに 「首里市立郷土博 物館」を開館 した。 開館 時の展示会 には近隣か ら数千の住 民が観 覧 に訪れ た とい う14。沖縄陳列館 や東恩納博物館 が、米軍によって米軍人の教育のために (沖縄文化 を彼 らに見せ るために)設置 さ れたのに対 して、首里市立郷土博物館 は、住民が収集活動 に協力 し、住民が展示 を企画 し、住民が 観覧 した、 「沖縄人 による文化復興の拠点」 15だった とい う点で好対照 を示す。首里市立郷土博物館 は
1 947
年 (昭和22)1 2
月に沖縄民政府 に移管 され る と同時に 「首里博物館」と改称 した。 さらに
1 953
年 (昭和28)5
月、首里博物館 は首里龍滞池畔の元沖縄師範学校体育館跡 に拡張工事 を終 えて移転、同時に東恩納博物館 と合併 した。資金 と資材 に乏 しかった琉球政府 (沖9 沖縄県立図書館 『沖縄 県立図書館
8 0
年 の歩み展』 (沖縄 県立図書館1 9 91
年)p. 1
本稿 での沖縄県立図書館 の 設立 と経緯 に関す る部分 は全 て同書の記述 に よる。(法政大学沖縄文化研 究所
1 9 8 2 ) p.
ixll島袋の活動 も含 めて、戦前か ら復帰前までの博物館 に関す る記述 は次の論文 に詳 しい。 園原謙 「沖縄 の文化財保 護 史一 昭和初期か ら琉球政府 時代 までの活動 を中心に‑ 」『沖縄県立博物館紀要 第
2 6
号』(沖縄県立博物館2 0 0 0 )
12園原謙 「沖縄県系教育合附設郷土博物館 について」『沖縄県立博物館紀要 第
2 8
号』 (沖縄県立博物館2 0 0 0 ) p .1 9
13「首里は昔王城 のあった地 として数 々の文化財 を残 していたが、徹底的な爆撃 のため建造物 とい う建造物 はすべ て こわ された。その焼 け落 ちた焦土の陰か ら一片一片貴重 な文化財 のかけ らが拾い出 された。 とくに円覚寺跡 には 収集作業が集 中 された」 沖縄県立博物館 『沖縄県立博物館
5 0
年 史』 (沖縄県立博物館1 9 9 6
年)p . 41
以下本稿 の 沖縄県立博物館 の設立以降の経緯 に関す る記述 は、別 に注記 のない限 り、全て同書 に よるものである。14 沖縄県立博物館前掲
p . 4 2
155園原前掲 (
荏
ll) p. 1 2 4
縄 民政府 に替わって設 立 された)だったが、その年ペ リー来琉百年祭 の一環 として記念館 の建築贈 呈 を計画 した米 軍 の援助 を得 て工事 は完成 した。落成 式並び に記念館贈 呈式 には米 国大統領 か ら
「お もろそ うし」な どの文化財
5 3
点の返還16も行 われ 、式典 は 占領者 と被 占領者 の友好のペー ジェ ン トとなった。 首里博物館 が収蔵 した6 0 0
点余 りに、東恩納博物館 の収蔵 品総数3 67
点 (陶磁器1 7 9
点、漆器61
点 を含む)が加 わ り、コ レクシ ョンは充実 した 17。博物館 はまた この年 に初 めて 日本本 土での資料収集 を行 ってい る18。首里博物館 は
1 95 5
年 (昭和3 0)
、「琉球政府 立博物館」 と改称 し、1 9 6 6
年 (昭和4
1)1
1月には首 里の尚家屋敷跡 に新館 を開館 した ‑9。 この新館 が企画展用のスペースを備 えていたため、書画 ・古美 術や 旧跡 、伝統工芸 な どのテーマ を中心に、博物館 は本格的な展示活動 を重ねていった 20。 占領 下 の制約 が企画展 のテーマの幅 を狭 めた ことは推測 に難 くないけれ ども、1 9 6 8
年 (昭和5 3 )
に開催 さ れた写真展 「沖縄戦 とその直後 の生活」が 目を引 く。 しか しこれ はキャンプズケランにあった米陸 軍博物館所蔵の写真 と米海軍軍政府教育部長だった‑ ンナ少佐 が撮影 した写真か ら構成 され た もの だった2■。戦争 のス トー リーは、アメ リカの 目を通 したイ メー ジ としてな ら、博物館 においてプ レ ゼ ンテー シ ョンできたわけである。琉球列 島米 国民政府 が発行 した広報誌 の沖縄返還特別号には、 この博物館 を琉球文化の宝庫 とし て称揚 し、新館計画 を推進 したポール
・W
・キャラウェイ高等弁務官の功績 を述べた記事が掲載 さ れ てお り、その最後 は こ う締 め くくられてい る。「琉球政府 立博物館 は
1 9 6 6
年1
1月3
日の文化 の 日には じめて公 開 された。 そ して、琉球の経済、社会機構 の再建 に貢献 した人たちはまた琉球文化保存 の重要性 を認識 していた とい う快 い思い出を 刻む記念 の建造物 として立ってい る」 22
この沖縄返還特別号は米国に よる沖縄統治の 「功績 」 を集 大成 しているが、米国に とって琉球に おける博物館事業 はそ うした輝 か しい偉業の一つであった 230
いっぽ う、図書館 の足取 りをみてみ よ う
。1 9 47
年 (昭和22 )3
月、米軍政府 か ら沖縄民政府‑図 書館設置の許可が下 りると、同年4
月沖縄 中央図書館石川分館 の開館 に始ま り、知念村 にあった沖 縄民政府 の構 内 コンセ ッ ト一棟 に沖縄 中央図書館 が、続いて首里分館 (後 に首里図書館 と改称)、名 護 分館 が開館 した。1 9 5 2
年 (昭和2
7)、 これ らの図書館 は首里図書館 を除いて、米国民政府情報数16 沖縄 県立博物館 前掲
p . 5 8
この他 に も戦争 の前後 に米国や 日本本 土‑持 ち出 され るな ど して流 出 した文化財 が、関係者 の尽 力で返還 され た例 は多い。琉球文化財 の帰郷 は、復活や再生 の比喉 で もあっただ ろ う。
17 同上
p . 4 0
10その他 県立博物館 (前身機 関 も含 む)の収集 活動 につ いては、萩 尾俊 章 ・多 良間利 恵 子 「沖縄 県立博物館 草創期 に関す る ノー ト」『沖縄 県立博物館 紀要 第
2 3
号』 (沖縄 県立博物館1 9 9 7 )
、外 聞正幸 ・萩尾 俊章 「沖縄 県立博物 館草創期 にお け る文化財 収集 とそ の背景」『沖縄 県立博物館 紀要 第2 4
号』 (沖縄 県立博物館1 9 9 8
) に詳 しい。19 開館 記念展 は 「現代画家美術展 」 であった とい う。 沖縄 県立博物館 前掲
p . 4 5
20 この他 博物館 はアー トギ ャラ リー として も機 能 した。 県立美術館 が存在 しないために、博物館 の展示室 が場 を提 供 していたわ けであ る。
21沖縄 県立博 物館 前掲
p . 9 2
22 「政府 立博物館 琉球文化 の宝庫
」
『守礼 の光 沖縄返 還 特別 号』 (琉球列 島米 国民政府1 9 7 2
年)p . 4 6
この号 にお いて博物館 の項 は 「成 長 と進 歩 (住民)」 の章 に組 み入れ られ て い る。 この章 にお いて これ と並ぶ他 の項 目は「抑圧 され たマ ラ リアー 医学 の勝利
」
「住 民のた めの医師」
「空 を飛 んで健康管理」
「万人 に学校」
「元気 で勉強一 沖縄 の学校給食 計画」 であ る。2:i平良研 一 は 「伝 統文化 重視 の政策 は主 に沖縄 の 日本 か らの分離 を意 図 して な され た ものではあったが、戦後沖縄 に伝 統芸能 の復活 ・隆盛 を もた ら した こ とも周知 の こ とです 」 と述 べてい る。 占領者 も被 占領者 も琉球文化 の称揚 とい う同 じ目標 を掲 げていたが、動機 と結果 は大 き く異 なった。 平 良研 一 「米 軍 の対住 民文化政策 」 宮城悦二郎編
『復帰
2 0
周年 シンポ ジ ウム 沖縄 占領 〜未 来‑ 向けて』 (ひ るぎ社1 9 9 3 )p . 3 3 4
一 6‑
育局に移管 され 、琉米文化会館 となった。琉米文化会館 について、平良研 一は 「琉米文化会館 で展 開 された教養主義的な側 面は、沖縄 の社会教育的な問題 か ら言 います と、それ は下か ら盛 り上が っ て くる住民の学習の意欲 を抑制す る、ある一定の役割 を したのではないか と思います」 24と言 う。
図書館がなぜ市民の郷土研究の場 にな らなかったのか とい う点で、 占領政策 は大 きな影 を落 として いるといえるだ ろ う。伊藤松彦 は 「この卓越 した図書館建設の基本的性格 ・機能 を規定 していたの は、琉米文化会館 が始 めか ら終 りまで、米軍政府 (民政府)の沖縄 占領政策 に直結す る道具であっ たことである」2:‑'と言い、 「沖縄 では公共図書館 の設置が、本土に比べてひ どく立 ち遅れ ていたのは なぜか。それは権力が琉米文化会館 にだけ力 を入れ 、競合す る施設の公共図書館 を顧み なかったか らである」としている26。 (公共)図書館法は 占領 下の沖縄 ではついに立法化 され なかったのである。
首里図書館 は
1 9 61
年 (昭和3 6)
に 「中央図書館」に、1 9 65
年 (昭和40 )
には 「琉球政府立 中央 図書館」 に改称 し、同年 「東恩納文庫」の移管 を受 けたO この文庫 は元東京都 立大学な どを歴任 し た沖縄 出身の歴 史家東恩納寛惇の蔵書3 , 3 8 4
点か ら成 るもので、琉球政府や那覇市の補助 で財 団法 人化 されていた。 この文庫の 「沖縄入 り」は、社会的に話題 とな り、後々まで県立図書館 の主要 コレクシ ョンの座 を占めてい る27。
琉球政府文教局所管の組織 で、図書館 とは別 に歴史資料 の収集整理 に携 わったのは研 究調査課で ある。研究調査課 は
1 9 5 4
年 (昭和2 9 )
に戦後資料 の収集活動 を始 め、1 95 5
年 (昭和3 0)
か ら1 9 6 0
午 (昭和3 5 )
にかけて戦後資料集 「琉球史料」 5
冊 を刊行 した。研 究調査課 は1 9 6 0
年 (昭和3 5 )
5
月に新設 された教育研究課 に琉球史料の編集お よび刊行業務 を引き継 ぎ、琉球史料全1 0
冊 を完結 す る。続 いて
1 9 6 3
年 (昭和3 8)
には沖縄県史編集審議会 が発足 した。審議会が沖縄 県史の刊行計画 を 検討す るかたわ ら教育研究課 は史料調査 ・収集活動 を継続 した。教育研究課 は、1 9 65
年 (昭和4 0)
3
月刊の 「沖縄 県史第1
1巻 資料編1
上杉県令 関係 日誌」 を皮切 りに、全8
冊の県史 を刊行 し た。 のちにこの刊行事業 と資料調査 ・収集活動 は史料編集室の所管 とな り、1 97
7年 (昭和5 2 )
沖縄 県史全2 4
巻が完結 をみた。 だが、これ らの活動 の過程 で収集 した資料 は、史料編集所が閲覧機能 を 持たないため、一般 の 自由な利用 に供 され るものにはな らなかった。1 ‑ 3
施政権返還後の歴史資料1 ‑ 3 ‑ 1 1 945
年を起点 とする歴史意識 と歴史資料日本への施政権返還後、米軍 占領 下の制約 か ら解放 され た沖縄 は、 どの よ うに歴史資料 と向き合 うことになったのだろ うか。歴史 を回顧す る時間軸のひ とつ には
1 9 45
年 (昭和2 0 )
の終戦 を起点 とす るものがある。1 0
年刻みの節 目を 日本復帰後 は じめて迎 えた戦後3 0
年 にあた る1 97 5
年 (昭和5 0 )
、沖縄県は沖縄国際海洋博覧会 に沖縄館 を出展 し、世界で初 めての海洋 をテーマに したエ キスポ24 同上p.335
25伊藤松彦 「琉米文化会館 の影 と光」『沖縄 の図書館 戦後
5 5
年 の軌跡』 (『沖縄 の図書館』編集委員会2 0 0 0
年)p . 4 4
26同上p.45
27県立図書館 は、 日本復帰後 の
1 9 7 4
年 (昭和4 9 )
に真境名文庫 (異境名安興の蔵書)、1 9 7 6
年 (昭和5
1) に山下 文庫 (山下久四郎寄贈) と比嘉春潮文庫、1 9 8 7
年 (昭和6 2 )
に天野鉄夫文庫 を設置 してい るが、沖縄 に限 らず 、 日 本の図書館全体が 自らを 「貸本屋」 と自噺す るよ うにな った趨勢 にあってひ ときわユニー クだったのは、1 9 9 0
年(平成2)、浦添市立図書館 に設置 され た 「沖縄学研 究室」だ ろ う。沖縄学の名 を冠 したその研 究室 は、伊波普猷 の 県立図書館 の理想 を体現 しよ うとす るかの よ うに、郷 土史料 の掘 り起 こ しや 「評 定所文書」の刊行事業 を行 った。
‑ 7‑
を訪れ る国内外 か らの観 衆 に、その展示 を通 して沖縄 の歴 史 と文化 をア ピール した 28. 沖縄文化 の 豊穣一 か りゆ しの海‑ と歴 史 の過酷一 無数 の米軍艦 で真 っ黒 に染 まった海‑ を示 しなが ら、なお も 開かれ た未 来 を志 向す る とい うメ ッセー ジは、それ か ら
3 0
年 を経 よ うとい う現在 まで、さま ざまな 意 匠に彩 られ なが ら受 け継 がれ てい る。同年 、県 による復帰特別事業 の一環 として計画 され ていた沖縄 県立平和祈念資料館 が開館 し、管 理運営は財 団法人 沖縄 県戦没者慰 霊奉賛会 に委託 され た。 当初 のあたか も陸軍記念館のそれ の よ う な展示 内容 に批判 が集 中 し
、1 97 8
年 (昭和53)
に住 民の 目か ら見た沖縄戦 とい うコンセ プ トで 「改 善展示」 され てい る 29。戦後
40
年 にあた る1 985
年 (昭和60)
の県立博物館 の特別展 は 「グス クー グスクが語 る古代琉球 の歴 史 とロマ ン」だ った。 首里城 の復元整備 の進行 に ともな うグスクブー ムを後押 しした ・川とされ、大交易時代 とグス ク とい う新 しい 「物語」 は大 きな反響 を呼んだ。
い っぽ うで民衆 の沖縄 戦 の記憶 が対象化 され は じめた。沖縄 県 は既 に
1 971
年 (昭和46)
に 「沖 縄 県史第 8巻 各論編 7 沖縄戦通史」を編 み、続 いて聞 き取 り調査 に基づ く証言集 「沖縄戦記録」
を刊行 した。 1 97 4
年 (昭和4 9)
には 「那覇市史 資料篇第2
巻 中の6
戦時記録」が証言記録集 として刊行 され
、1 980
年 (昭和55)
に 「沖縄 の働巽一市民の戦時戦後体験記1・2
」が出るが、 この 頃か ら市町村 史に よる戦争編 の発刊 が続 く。南風原 町は1 9 90
年 (平成 2)に南風原陸軍病院壕 を戦 跡 文化財 に指 定 し、町営 の南風原 文化セ ンターは常設展示 として壕 を再現 して設置 してい る。1 984
年 (昭和5 9)
には伊江 島に 「反戦 平和 資料館 (ヌチ ドゥタカ ラの家)」・"が、1 9 89
年 (平成 元)には糸満 に 「ひ めゆ り平和祈念 資料館」 32が開館 した。 どち らも純然 た るプ ライベー トセ クター の資料館 で、民衆 自らの戦争 の記憶 が、そのプ レゼ ンテー シ ョンの牽引力 となっている。1 9 95
年 (平成7)
、県立博物館 は、国際的な規模 の展示会 を初 めて 自主企画運営す る とい う、これ までにない大掛 か りな特別展 を実施 した。 「太平洋戦争 ・沖縄戦終結5 0
周年記念事業」の一環 とし て開催 され た この 「延 る沖縄 ・戦災文化財 と戦後生活 資料展」 は、その規模 の大 き さと同時 に、沖 縄戦 と米軍支配 下の社会状況 を主要 なモチー フに取 り上 げた もの として出色だ った:与・i。1
2月多出治は、この沖縄館の演出において主要な役割を果たした沖縄側のスタッフ (大城立裕や高良倉吉ら)の名を 挙げ、沖縄の文化人たちは 「この‑大作業によって、沖縄館を制作 しただけでなく、沖縄の<歴史>を制作 し、
<文化>を構築 した」という。多田治 『沖縄イメージの誕生』(東洋経済新報社
2 0 0 4 ) p . 1 1 1
29 この経緯については次に詳 しいO嶋津与志 『沖縄県を考える』(ひるぎ社
1 9 9 7 )p p . 1 4 8 11 5 6
嶋は、資料館の設 立運動が民間ベースで従来から進められていたにもかかわらず、日本政府が海洋博に間に合わせるために、開館が「閉鎖的な行政ベースで進められ」、それを放置 したことを 「沖縄の盲点」と指摘する。資料館は
2 0 0 0
年4
月1
日に 旧資料館を移転改築 し、展示内容を一新 したが、その時も展示内容の改ざんなどをめぐって、監修委員側と県当局 が対立し、大きな社会問題 となった。30 沖縄県立博物館 前掲
p . 8 7
3■設立者である安波根昌鴻は、反戦平和資料館のコンセプ トとして伊江島闘争を提案されたことに啓示を受けたと して、「伊江島の証拠品を中心に、戦争の根本の原因と結果がわかるように展示する。これが基本構想となったので あります」と書いている。伊江島の証拠品とは、投下された爆弾の残骸であり、‑ルメットを転用 した鍋であり、
安波根が 「証拠」を残すための武器として手にしたカメラから生み出された写真の数々などである。安波根昌鴻
『命こそ宝 沖縄反戦の心』(岩波書店
1 9 9 2
年)p . 7 1
32 (財)沖縄県女師 ・一高女ひめゆり同窓会が運営するこの資料館は
、1 9 9 9
年 (平成1 1 )
に年間入館者が1 0 0
万人 を突破 し、2 0 0 4
年 (平成1 6 )
には展示内容をリニューアル した。語 り部の生存者が展示の解説をすることが難しく なったことから、ガイ ドなしでも観覧できるような展示にしたという0『ひめゆり平和祈念資料館パンフレット』((財)沖縄県女師 ・一高女ひめゆり同窓会
2 0 0 4
年)より:‡:3県立博物館は
1 9 7 5
(昭和5 0 )
年にも特別展 「戦中戦後展」を開催 している。‑ 8‑
1 ‑ 3 ‑ 2 1 97
2年 を起点 とする歴史意識1 9 7 2
年 (昭和47 ) 5
月1 5
日の 日本復帰 は、沖縄 の集 団的 自意識 に新 たな時間軸 をもた らした。復帰 を直前に控 えた同年 2月か ら3月 にかけて、県立博物館 で行 われた特別展 は
「 『 5
0年前の沖縄』展一 写真でみ る失われた遣宝‑」と題 して
1 7
万6
千人の入場者 を集 めた。博物館 自身 は この よ うに 回顧 してい る。 「ち ょ うど復帰 を 目前 に して、県民が 自らの足元 をみつ め直そ うとしていた時期 で ある。県民がみずか らの伝統文化 を見直 し、 自信 と誇 りをもつためのまた とない機会 であった とい える34」博物館 は復帰 10周年 にあた る
1 9 8 2
年 (昭和5
7) に 「特別展 沖縄 県 ・熊本県交流展 『沖縄 の 美一風土 と美術工芸‑』
」を開催 した。 これ は、太平洋戦争で熊本県が沖縄県民の疎 開先であった ことか らできたネ ッ トワー クによって実現 した ものである。
復帰
2 0
周年記念特別展 「琉球王国」は、大交易時代 の琉球の気概 を象徴す る 「万国津梁の鐘」の 銘文を基調 に、琉球の 「偉大な歴 史を掘 り起 こ し、その成果 をわか りやす く紹介す ることによって、あ らためて沖縄 の歴 史 と文化 をみつ めなお してい く」 35ことがね らい とされ た。 この年度 の最後 に は「復帰
2 0
周年 と首里城復元の一連の記念行事の最後 を飾 って」 36、「尚家継承琉球王朝文化遺産展」が開かれ
、 9
万人が観覧 した。国営の事業ではあるが、同 じ
1 9 9 2
年 (平成 4)に開始 された首里城 の一般公 開について もふれて お きたい。琉球政府文化財保護委員会が首里城及びその周辺戦災文化財 の復元計画 を策定 したのが1 9 7 0
年 (昭和4 5 )
、復帰前後 の陳情要請行動 の結果 こう7、第二次沖縄振興開発計 画に首里城 の整備 が 盛 り込まれ、国費 による整備復元が発表 され たのは1 9 8 4
年 (昭和5 9 )
であった。 こ うして首里城 は国営 口号公園 として開園に至 ったが、復元のための調査 自体が一大事業だった ことはい うまで も ない。復元の歴 史考証作業のために、沖縄 の担 当者 は資料収集 か ら始 めなけれ ばな らなかった。 こ れについて、復元に尽力 した高良倉吉は こ う書いてい る。「窮すれ ば通ずで、予想以上の資料 が続 々 と集 ま りだ した。 た とえば昭和 の初期 に首里城正殿 の 解体修理 を行 った際の図面が文化庁の資料室にあった。 また
、1 8
世紀 中期 に正殿 の大規模 な修理が 行われた ことは知 っていたが、その ときの工事報告書 にあたる古文書が沖縄県立芸術大学の鎌倉 コ レクシ ョンか ら出てきたのである。 こ うした貴重な資料 が発見 されたために、正殿 に関 してはかな りの 自信 をもって復元できることになった」38歴史資料 に基づ く実証性 は、復元物である首里城 にいっそ う高度 の リア リテ ィー を与 えた。王国 の大交易時代 とい う栄光の物語 は、それ を表象す るための、 これ以上は望むべ くもない実体 を得 た のだったこ与り。
首里城 の公開に先立つ
1 9 8 9
年 (平成元)、県教育委員会 は 「沖縄県歴代宝案編集委員会」 を設置34沖縄県立博物館 前掲p.83 35 同上 p.99
36同上 p.89
37 日本政府側 、また県内か らの復元反対論 もあった。 首里城復元期成会会長 の呉屋秀信 は、「『一つの県に二つの国 営公園はまか りな らぬ』 との大蔵省 の見解 に、植木 (第5代沖縄 開発庁長官一筆者注)先生は 『まず沖縄県に国営 沖縄記念公園があって、その下に祖 国復帰 の記念事業 として海洋博 覧会記念公 園があ り、復帰20周年記念事業 とし て首里城公園がある』との ウル トラCクラスの ご名案 を考案 され ま した」と述べてい る。呉屋秀信 「発刊の ことば」
『首里城復元期成会記念誌 建 った首里城』 (首里城復元期成会2003)p.9
38 高良倉吉 『琉球王国』 (岩波書店 1993)p.186
39 首里城 をシンボル とす る王国文化 の称揚 は、首里文化 中心主義 に陥 って沖縄文化 の地域的な多様性 をステ レオ タ イプ化す る危険 をも革みが ちである。
9
し、翌年編集委員会は 「歴代宝案編集基本計画について」を教育委員会‑答 申 した。歴代宝案は、
中 ・近世
5 0 0
年 にわたる中国 と琉球王府 の外交関係往復文書であ り、その校訂本お よび訳注本等の 編集刊行が編集事業の主眼 となった。 中国第一歴史梢案館 との交流 によって進 め られているこの事 業の実施は、関係す る分野の研究者が行 ってきた長年の働 きかけやネ ッ トワークを基礎 に したもの だが、具体化のタイ ミングか らす ると、琉球王国時代 を歴史的アイデ ンテ ィテ ィーの源泉 とす る意 識 の醸成 と連動 している とみ ることもできよ う。編集基本計画では、「沖縄の対外交通貿易史お よ び外交交渉史 を解明す る うえで第一級の同時代史料」であるこの歴代宝案の特色 として、「この間に おける東アジア世界の動向をも知 りうる貴重な史料であること」
「国際化時代における県勢発展の基 礎史料 として活用できること」 40が挙がっている。 「国際化」 とい う言葉が史料編集の方針 として登 場す るよ うになった初期の例である。ところで、王国のシンボルである首里城 関係 の文化財保護 は琉球政府時代か ら引き続 く主要施策 だった。戦前の国宝であった崇元寺石 門の修復工事が竣功 したのが
1 95 2
年 (昭和27 )でもっとも
早いが 4(、1 9 5 4
年6
月 「文化財保護法」の制定公布以降、琉球政府文化財保護委員会によ り、次々 と文化財指定が行われた 42。 旧円覚寺周辺の復元事業は1 9 60
年代にいちお う終了 している。 また、守礼門は守礼門復元期成会によって
1 95 8
年 (昭和33)には復元 された 43。1‑3‑3 「琉球」への回帰 :「琉球」王国と 「琉球」政府
首里城 の復元 と公 開 とい う画期 に よって もた らされ た琉球 ブー ム44は、新 しい形 のプライ ドを もった集団的 自意識 に働 きかけたが、1
9 9 0
年代後半にかけてみ られたのは、も うひ とつの 「琉球」とい う時代の再構築作業だった。 も うひ とつの琉球 とは、敗戦に引き続 く 「琉球」政府の時代のこ とである。琉球王国期の ロマ ンの主要なイメージが大交易時代の躍動感だ とすれば、琉球政府時代 を回顧す るときのキー ワー ドは戦争 と平和 とい うことになろ うか。 ことに 「平和」は、現代の沖縄 か ら 「発信」すべきメ ッセージとして広 く受容 された。
1 9 9 5
年 (平成7)
とい う年、沖縄県の 「太平洋戦争 ・沖縄戦終結5 0
周年記念事業」 として県立 博物館 が 「廷 る沖縄 ・戦災文化財 と戦後生活資料展」を開催 した ことは前述 したが、50
周年記念事 業の一環 として 「平和の礎」が建立 された ことも付け加 えなければな らない。平和の礎は 「沖縄の 歴 史 と風土の中で培われた 『平和のこころ』 を広 く内外 にのべ伝 え、世界の恒久平和を願い、国籍 や軍人、非軍人の区別な く、沖縄戦な どで亡 くな られたすべての人 々の氏名 を刻んだ記念碑」であ40 (財)沖縄県文化振興会公文書管理部 『沖縄県教育委員会 中国第一歴史梢案館 歴代宝案に関す る交流
1 0
周年 記念誌』 (沖縄県教育委員会2 0 0 0 )p . 6 5
本稿 の歴代宝案編集事業に関す る記述は、すべて同書による。41園原謙 によると、この修復工事 を推進 したのは沖縄 史蹟保存会だった。沖縄史蹟保存会は、民間篤志家の寄付金 や軍民政府 の助成金で運営 された一種の任意団体である。園原謙 「沖縄の文化財保護史一昭和初期か ら琉球政府時 代までの活動 を中心に‑
」
『沖縄県立博物館紀要 第2 6
号』 (沖縄県立博物館2 0 0 0 )p . 1 3 1
42 この頃の文化財保護委員会の活動 については園原 の前掲論文が詳 しい。 同委員会 による文化財指定の特徴な ど も論 じられてい る。 また、同委員会は宗教法人による玉陵の敷地の使用 申請や、琉球大学による放生池の埋立申請 な どの問題 で も苦境に立った。
43歴 史的建造物の保護 とい う見地か らす ると、首里城 の手厚い保護 に比べて、武徳殿や 旧立法院議事堂 (とくに旧 立法院議事堂はそ の保存 を求 め る市民運動 が大 きな問題提起 を したに もかかわ らず)の解 体が進 んだ こととの ギャ ップは記 してお くべ きだろ う。 占領下の 自治の象徴だった旧立法院議事堂は
1 9 9 9
年 (平成1 1 )
に取 り壊 され、その正面玄関にあった柱の一部が、現在 は公文書館 玄関前に眠っている0
44
NHK
大河 ドラマ 「琉球の風」が放映 されたのは1 9 9 3
年 (平成5 )
だった。初 めて琉球王国の時代がテ レビ ドラ マ化 された ことは、沖縄 の歴史が沖縄以外の人々にも翻訳可能であるとい う事実 として受容 されたかもしれ ない。‑ 1 0
‑る45。沖縄戦跡 国定公 園広場 の断崖近 くに灯 され た 「平和の火 」か ら内陸部 に向かって扇状 の配置 で犀風の よ うに刻銘碑が並ぶ このモニュメン トは、同時に巨大な ドキュメン トで もある。
この年、沖縄 の歴史 と文化意識 の形成 に新 しい役割 を果 たすべ く沖縄県公文書館 が開館 した 46。 当時の館長宮城悦二郎 は 「開館 にあたって」 とい うメ ッセー ジに こ う書いてい る。
「沖縄 は特異な歴 史体験 を持っ県である。 アジア諸 国 との交易で栄 えた独 立王国時代
、1 6 0 9
年 の 薩摩侵入、1 87 9
年の廃藩置県、1 9 45
年 の沖縄戦、その後 の2 7
年 に及ぶ米 国統治時代、そ して1 97 2
年の 日本復帰。 この よ うな県にこそ、公文書館 が必要であった。 しか し、戦前の貴重 な文書 ・資料を今次大戦で失 った沖縄 にはその必要 もなかった。公文書館建設 の構想 は、米軍 占領 時代 の膨大な 量の琉球政府文書 を どう保管す るか とい う話のなかか ら生れたのである」 47
日本復帰 を 目前に した琉球政府 は
、1 97 2
年 (昭和4
7) 1
月の局長会議 において 「琉球政府公文書 類の引継要領」 を定め、琉球政府文書 を廃棄せず に保存す ることとした。琉球政府文書 は新 しく発 足 した沖縄県の総務部文書学事課の管理下におかれた後、1 9 81
年 (昭和5 6) 4
月に教育委員会‑移 管 されて、整理 ・保存業務 を沖縄史料編集所 が引き継 いだ。沖縄 史料編集所 は1 9 8 6
年 (昭和6
1) 年 に沖縄県立図書館史料編集室 となったが、引き続 き琉球政府文書 を管理 し、閲覧や調査研 究の照 会に対応す るな どしていた。沖縄県公文書館 の設立に伴 い
、1 5
万簿冊 にのぼる琉球政府文書は、沖縄県公文書館 に移管 されて 終の棲家 を得た ことになった 48。沖縄県公文書館 の打 ち出 した新 しい コンセプ トは、 「米軍 占領時代の歴史」、つま り 「琉球政府 の 時代JI19だった とい うことができよ う。米国による沖縄 占領史研究の第一人者 だった宮城館長 は 「琉 球政府文書の特異性 は琉球列 島が長期 にわたって米 国の支配下にあって、琉球政府 が他県 とは明 ら かに異なった制度 の もとで運営 されていた こと、琉球政府 がその上位 にあった米 国民政府 の命令 ・ 要請 によ り多 くの文書 を作成 した ことによる50」 としてい る。琉球政府文書 は沖縄 の苦難 に満 ちた 現代史の比愉 とな り、 さらにも うひ とりの証人が要請 され るところ となった。 それが米 国国立公文 書館その他の在米機 関に収蔵 されてい る沖縄統治関係 資料である。 とくに施政権返還前の琉球の統 治機 関だった
UscAR
(琉球列 島米国民政府) の文書 は、国立国会図書館 との5
年 間にわた る共同 プロジェク トとして、米国国立公文書館 に保存 されてい るお よそ3 5 0
万枚 の文書すべてをマイ クロ45 沖縄県平和祈念資料館運営協議会委員監修 『沖縄県平和祈念資料館総合案 内一 平和 の心 を世界 に』 (沖縄 県平和 祈念資料館
2 0 0
1) p.1 0
沖縄県 出身者 については、十五年戦争 の犠牲者 も刻銘 の対象 としてい る とい う。46 開館 のセ レモニーは8月 1日、 この 目付 は戦前の県立図書館 の開館 日と同 じである。
47 沖縄県公文書館パ ンフ レッ トよ り 宮城悦二郎 「開館 にあたって一 開かれ た公文書館 を 目指 して」 (沖縄 県公 文 書館
1 9 9 5
年 )48 この経緯 について述べた ものに、金城功 「琉球政府文書の整理 ・保存 ・利用等 について」『沖縄 県公 文書館研 究 紀要第
2
号』(沖縄県公文書館2 0 0 0 )
、大湾 ゆか り 「復帰前 にお ける琉球政府文書の保存活動 について」『沖縄 県公 文書館研 究紀要第6
号』(沖縄県公文書館2 0 0 4)
な どがある。 また筆者 に よる 「沖縄 県にお ける公文書の管理 と公 文書館‑4
年間の実践 と今後 の展望」『沖縄県公文書館研 究紀要第2
号』 (沖縄 県公文書館2 0 0 0)
で も言及 した。49 とはいえ、開館記念特別展 のテーマ に選 ばれたのは中国 ・琉球 関係相案史料だ った。 チ ラシのキャ ッチ コピー に は 「東 アジアにおける中継貿易の拠点 として栄 えた琉球王国を、梢案史料 か ら解 き明かす 、海洋王国琉球 を支 えた 進貢貿易の真実の姿」 とある。梢案史料 とは明清時代 に遡 る中国 と琉球王国の間 を行 き交 った外交文書だが、現代 とい う新 しい時代 を扱 う後発 の機 関 としての公文書館 が、歴 史資料 の保管者 としての権威 の源泉 を中国に求 めた と い うことか もしれ ない。その代償行為 の よ うに、開館記念 1周年特別展 のテーマ はま さに 「琉球政府 の時代」その もの となった。
50宮城悦 二郎 「琉球政府文書 について‑ その歴 史的背景 と意義‑」『沖縄 県公文書館研究紀要創刊号』 (沖縄県公文 書館
1 9 9 8 )
フイル ム化す る方法 で収集 が進 め られ た。 沖縄 県公 文書館 は、琉球政府 文書 と
UscAR文書 とい う
戦後資料 をその主要 コ レクシ ョン とす る とい う、国内の公文書館 にはほ とん ど例 を見ないユニー ク な存在 として (沖縄 とい う地 と同 じくユニー クな存在 として)誕生 したのだった。1‑3‑4 「自己回帰運動 としての過去 に向か う心」:鹿野政直の区分 による歴史意識の変遷
1995年 (平成 7)年 の沖縄 県公 文書館 開館記念講演 にお いて、鹿 野政直 は次の よ うに述べた。
「今 日はその文字 の文化 を対象 といた します が、そ こでの 『沖縄 とは何 か』 との問いは、みずか ら の原 点 を求 めて過去‑ 向か うのがつねです。つ ま り歴 史‑の関心です。 自己回帰運動 としての過去 に向か う心が、 この沖縄 で、 これ まで どの よ うに発現 してきたか を考 えます と、粗 っぼ く申 し上げ て、第一段 階、第二段階 と二つ の段 階 を設 定す るこ とがで きるのではないか、そ して今 回の公文書 館 の開館 に よって第三の段 階 に入 りつつ あるのではないか、 と思 うよ うにな りま した」 51
それ に よる と、この段階 区分 は、第一段階の起点 が沖縄 県立図書館 開館 の1910年
8
月1
日、第二 段階の起点が1945年 の敗戦 とそれ に引 き続 く占領 、そ して第三段 階の起点が1995年8
月1
日の公 文書館 開館 であ る。鹿 野 は、初代館長 に就任 した伊波普猷や それ に続 いた真境名安興、島袋全発 と い う 「沖縄 学」の列聖 たちが郷土史料 の収集 に力 を注いだ ことが 「沖縄社会 回復‑ の情熱」 52に貫か れ た ものだ とい う。 さらに戦後 に開始 され た 「琉球史料」や 「沖縄 県史」編纂事業が 「戦火 に踏み に じられ た あ と、異 国の軍事 占領 の も とに置 かれ 、名称 も琉球 あ るいはRyukyul s l a nds
と変更 され て、 自己 とは何 かのあ らたな危機感 に曝 され た ことが、過去 と現在 をた しかめ よ うとす る熱烈な希 求 を育んだに違 いない と思 います」 53といい、自己喪失 の危機 が、歴 史資料 の収集や編纂事業 の原動 力 となった と結論す る。「公 文書館 は、沖縄 の未 来 をつ くる うえに大 きな力 にな るで あろ うと存 じます。 沖縄学 がヤマ ト 世に向かいあ うもの と してつ くられ 、第一次 『沖縄 県史』や 『琉球史料』 がアメ リカ世に向かいあ
うもの として発刊 され た といた します と、 この公文書館 は、それ らを超 えての沖縄世 をつ くってい くた めの礎石 にな る」 54
この講演 は聴衆 を深 く感動 させ 、公文書館 を持 ちえた とい う事実 を沖縄 の人 々が誇 るに足 るだけ の真筆 な説得 力があった。鹿 野のテ キス トには、鹿 野 がい う 「文字の文化」 と しての歴 史資料 をめ ぐる営みが、人 々の歴 史意識や アイデ ンテ ィテ ィー形成 のあ りよ うと相似形 を描 く姿が端的 に表現 され てい るO そ こにお いて、沖縄 県公文書館 は、ヤマ トや ア メ リカに支配 され た時代か ら脱却 した 新 しい時代 の歴 史的結 節点 と して、新 しい 自己認識 ‑人 々を動員す る原動 力 と しての役割 を期待 さ れ たのだ った。
では、ヤマ トや ア メ リカ といった鏡 を必要 と しない新 しい時代 である沖縄世 にふ さわ しい公文書 館 とは何 か。 この こ とを考 える前 に、鹿 野 のテ キス トに差 し挟 まれ たひ とつの 「要望」 に耳 を傾 け よ うと思 う。 中国語や英語 ので きるアー キ ビス ト (公文書専門員) だけでな く、将来移 民関係 の史 料 が集積 されれ ばポル トガル語 ので きるアー キ ビス トまで必要 とされ るであろ う沖縄 県公 文書館 の
「国際性
」
「世界性 」 につ いてふれ た あ と、鹿 野 は言 う。51鹿 野政直 「沖縄世 と公文書館
」
『化生す る歴 史学 一 自明性 の解 体 に向けて』 (校倉書房 1998年)pp.123112452同上p.125
5:う同上p.128
54同上p.134
55 同上p.131
‑ 12‑
「ただ‑‑一つだけ要望 を申 しあげれ ば、そ うした 「国際性」「世界性」 に吸引 され て、県政時代‑の 取 り組みにい ささかの揺 らぎも起 きない よ うに と希望いた します」 55
県政時代 とは、戦前戦 中の第一次県政時代 と復帰後 の第二次県政時代 をい う。 この要望 を 「警告
」
と受 け止 めるな らば、公文書館 の将来像 を考 える ときに重大な示唆 とな る。2
「公文書館」 とい う新たな語曇ここまで、沖縄 にお ける歴史資料収集 ・保存す る機 関の成 り立 ち と、それが集 団的 自意識 の形成 に どの よ うなイ ンパ ク トを与 えたかをみてきた。その結果、沖縄戦以前す なわち 日本国家の一員 と しての集団意識 を強 く求 め られた時期 には、戦勝や新天皇即位 といった一種 の祝祭的時空に、多 く の図書館 の設立が見 られた ことがわか る。 しか しその よ うな流れ に抗 うかの よ うに、伊波普猷 らが 館長 を務 めた戦前の県立図書館 では、近代沖縄 が直面 した集 団的 自意識 の動揺 を救済す るべ く、郷 土資料 の収集 と保存 に力 を尽 くした56。 戦後 は、米軍の 占領政策 としての 「琉球文化」称揚 と、被 占領者 としての沖縄 が主体のプライ ドを保持 しよ うとした 「琉球文化」の主張が複雑 に絡み合 った。
博物館が文化 「財」の訴 えかける力を挺子 に して沖縄 の人々にアイデ ンテ ィテ ィー を提供 しよ うと し、修史事業側 はゼ ロか ら記録資料 の収集作業 に着手 しなけれ ばな らない とい う困難 と戦いつつ、
沖縄の 「正史」の構築 (歴史的主体の回復) に果敢 に取 り組 んだ。
日本復帰後は、本土 との格差 と米軍基地の存在 とい う一種 の 占領状態が継続す る中で、「自立 した 沖縄」を 目指 してアイデ ンテ ィテ ィーが動員 され るよ うにな る。 もっ とも成功 した物語 は、首里城 復元前後 にみ られ た よ うな 「琉球王国の大交易時代」の給持 だった 57。それ は さらに 「万国津梁の 鐘」の銘文に導かれて、やがて 「平和 を発信す る沖縄」‑ と変容 してい く。 「歴史」はアイデ ンテ ィ テ ィーの供給装置 として用い られてきたのであ り、「歴史資料」の管理 を司 る諸機 関は、その設 立根 拠な どに応 じて、一定の役割 を果た してきた。
前節で述べた とお り、そ こに参入 したのが沖縄県公文書館 だった。鹿野が開館記念講演 において 述べたよ うに、公文書館 は新 しい 「沖縄世」 を象徴す る場 として、新 しい歴史 を刻む場 としての役 割 を期待 された。鹿野 は
「
『公文書館 (アーカイブズ)』 とい う言葉 が、 これ で正式 に県民の語嚢 として加 わった
馳
」 と言 う。 では しか し、その よ うな場 として、なぜ 「公文書館」が選択 され たのだ ろ うか。 なぜ、沖縄学の先達 らが、県立図書館 を郷土研究の拠点、沖縄県民の主体性 回復の場 と位 置付 けた聾 に倣 って、図書館 の郷 土史料部 門の拡充 に よってその理想 を実現す るこ とにはな らな かったのだろ うか。 あるいは、戦後の博物館 が沖縄文化 の コンセ ンサス形成 に果 た してきた役割 を 思 えば、新 しい 「沖縄世」の構築 は、古い皮袋 に新 しい酒 を、とい う形で も成 しえた ことではなかっ たのか。「公文書」館 とい う語感 か ら、琉球政府文書 と
UscAR文書 とい う主要 コレクシ ョンの性質 を考 え
56 ちなみに、沖縄県公文書館 の正面玄関には、伊波 の琉歌 「深 く掘れ 己が胸 内の泉 余所 たゆて水や汲 まぬ ごとに」
を記 した石版 が掲 げ られている。 この フ レーズは歴 史の再確認 による主体性 の回復 を謳 うもの とされてお り、県公 文書館 に とって も館 の本質 を象徴す る言葉 として捉 え られてい るよ うである。
57近年、沖縄 の歴史 と文化 は、観光資源 としての価値 をます ます強 く意識 され るよ うになった。過去 の暗い歴 史を 乗 り越 えて明 るくのんび りと人 々が暮 らす沖縄 で外来者 は癒 され る とい うひ とつの構 図がある。今後県 に属す る歴 史資料の収集 ・保存機 関は、その よ うな観光客のニーズに応 えるべ く、展示や その他 の活動 を通 してプ レゼ ンテー シ ョンを提供す る役 目をかな りの程度 自覚的に背負 わ され るか も しれ ない。 しか し、 これ もまた歴史資料 をめ ぐる
「営みのあ りよ う」のひ とつではある。
58鹿野 前掲p.133
一 13‑
るとそれが望 ま しく思 えたか らとい う答 えもあ りうるだろ う。 しか し図書館 も博物館 も、文書資料 も含 めて さま ざまな歴史資料 を収集す る機 関である。現実に琉球政府文書は長 く県立図書館 の管理 下にあったに もかかわ らず、なぜ 、公文書館 とい う 『新たな語嚢』が必要 とされたのか。その問い に対す る答 えを出す前 に、公文書館 (アーカイブズ) とはそ もそ もどこか ら生れ出た概念 なのかを 確認 しなければな らない。
2‑ 1
近代 アーカイブズの発生公文書館 は英語でい うところのアーカイブズ
( a r c h i v e s )
の訳語 とされている。 アーカイブズ とは 歴史資料 の保管所 を意味す るだけでな く、歴史資料その ものを言 うこともあるか ら、アーカイブズ とは歴史の発生時か ら存在 した とい うこともできる。 しか し近代的な意味での組織 としてのアーカ イブズの概念 は、近代 とい う時代 区分 と同様 、 きわめて新 しい ものである。 た とえば歴史の古い国 家で もそれが法制化 されたのは、フランスが1 794
年6
月25日の法令
59、イギ リスは1 838
年の国立 公 文書館 法 に よる。遅れ て きた 国民 国家 で あ るア メ リカ ではナ シ ョナル アー カイ ブズの設置 が1 934
年、カナ ダは1 966
年 、オース トラ リアは1 983
年 と、国家 レベル のアーカイブズが法的に承認 されたのは20
世紀 の中盤 以降の ことであ る。 日本 は公文書館法の施行 が1 988
年 (昭和63)
、国立 公文書館法の施行 は2000
年 (平成1 2)だ った。
もっ とも古い時代 に公文書館 を法制化 したのはフランスで、立川孝一は 「フランス革命 は国立文 書館 とその公 開の原則 とによって、近代的な文書行政‑の道 を開いた」 とす る60。つま り、革命前、
いわゆるアンシャン ・レジーム期 において もフランスでは王室、諸官庁、裁判所、軍、教会、領主 はそれぞれ独 自に文書館 を所有 していたが、 フランス革命 はそ うい った文書館 の組織 を統合 し、文 書の国有 とい う観念 を継承 ・推進 し、公 開の原則 を採用 し、 「かつては特権的な人間 しか見 ることの できなかった公文書が、一般 の市民にまで開示 され ることとなったのである
」
「このよ うな文書館 の 存在 を近代 国家の指標 とす るのであるのな らば、革命後 のフランスはまさにその段階に入 った とい えるだ ろ う」 61とい う。この記述 は、沖縄 にお ける近代以前の世界、「近世琉球王府 の政治的中心機構である評定所で作成 保管 され てきた文書」 62で ある評 定所文書の ことを想起 させ る。評 定所文書は、王府 の統治行為 に お ける前例 の蓄積 と参照のために保管 され ていた 63。 しか しこの文書の利用 は、当然 なが ら王府 内 の権力 中枢 にいる者 に限 られていただろ う。評定所 は歴史的文書の保管所 の機能 を持 っていて も、
文書の作成及 び保管者以外 の者 の 自由なアクセスを許す機 関ではなかった し、そ もそ も王国の歴史 を必要 とす る近代的国民 自体がまだ存在 しなかった。
59
1 7 9 4
年6
月2 5
日の政令 が文書館法 と呼ばれ る。 ただ し 「文書館 を設 立す るための委員会 が結成 され、そのプラ ンは1 7 9 0
年9
月7
日の法令 と して議会 を通過す る。 ここで初 めて 『国立文書館』とい う名称が フランスの歴史に登 場す る」立川孝一 「歴史意識の変容 と文書館 の制度 ‑フ ランスの場合」歴史人類学会編 『国民国家 とアーカイブズ』(日本 図書セ ンター
1 9 9 9
年)p. 7 6 6
0同上p. 7 3
61同上
p p. 7 2 ‑7 3
62梅 木哲人 「評定所 の機構 と評定所文 書
」
『琉球 王国評 定所文書 第4
巻』琉球王国評 定所文書編集委員会編 (浦 添市教育委員会1 9 9 0 )p. 6
6
3文書の保管場所 は首里城 の北殿 で あった ろ うといわれ る。高良倉吉 「総論 :評 定所文書刊行 の意義」
『琉球王国評定所 文書刊行事業完 了記念 シンポ ジ ウム〜百 田紙 に記 され た琉球の近世〜』浦添市立図書館沖縄学研究室編 (浦 添市教育委員会