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貧里 こ1
法華経成立の社会背景
ついて考える
高
橋 尭 英
〈はじめに〉
「法華経」の信解品第四に、
「窮子見父。有大力勢。即懐恐怖。悔来至此。窃作是念。此或是王。或是王等。非我傭力。得 物之処。不如往至貧里。犀力有地。衣食易得。若久住此。或見逼迫。強使我作。作是念已。疾 走而去。……父知其子。志意下劣。白知豪貴。為子所難。審知是子。而以方便。不語佗人。云 是我子。使者語之。我今放汝。随意所趣。窮子歓喜。得未曾有。従地而起。往至貧里。以求衣
食。」
(窮子は父に大力勢あるを見て、即ち恐怖を懐きて、此に来至せるを悔いて、窃かに是の念を 作せり。『これは或いは是れ王か、或いは是れ王に等しきものか。我が傭力によりて物を得る の処に非ず。貧里に往至し、力を聾すに地有りて、衣食を得るに易きに如かず。若し久しく此 に住せば、或いは逼迫せられ、強いて我をして作かしめん』と。是の念を作し已りて、疾く走 りて去れり。……父は其子が志意下劣なるを知り、自ら豪貴なることが子の難る所なるを知り て、審かに、是れ子なり、と知れども、方便を以って、他人に語りて「是れ我が子なり』とは 云わざるなり。使者は之に語りて、『我は今汝を放す。意の趣く所に随え」というに、窮子は 歓喜し、未曾有なることを得て、地より起たちて、貧里に往至し、以って衣食を求めたり。)
とある。ある町に流れ着いた窮子が長者の家で物乞いをしようとしたが、その邸宅の偉容に
「王の館か、或いは王に等しい者の館」ではないかと圧倒され、貧しい自分が職を得たり、衣 食を得たりするのに相応しい「貧里」に逃げ込む。その窮子が嘗て行方不明となった自分の子 であることを見抜いた長者は、人をその貧里に行かせて彼を雇い、段階的に責任ある仕事に就 かせ自らの尊厳と資質を取り戻させたという有名な「長者窮児の喩」のエピソードの一部分で ある。このエピソードの中では、都市の中に存在する貧しい者たちが集つまって住んでいる場 所を指す言葉として「貧里」(∂α閲rα仇Dという言葉が用いられている。「貧里」とは、都市 化の波の中で、地方から都市に働きに出て来た者や貧困者層が集まり生活する場所が想定され
34 法華文化研究(第37号)
る。このエピソードから考えると、法華経が成立した頃のインド社会には、都市が栄え、その 都市の中で、一部の豪商たちは王の住居と思われるような邸宅に住んでいたと同時に、一般庶 民の中でも特に困窮した者たちが住む地域としての「貧里」が存在していたというイメージを 受ける。実際に、法華経が成立した頃のインド社会は如何なるものであったのか?という問い に対し、この「貧里」を手がかりに、サカ族・クシャン族が支配した時代の社会背景を考古学 の報告や仏教碑文をもとに、以下で再構築してみようと思う。
1,サカニクシャン時代の社会
1)都市について
法華経の長者窮子のエピソードに描か れる貧里は都市の一区画にあったらしい。
ここでは、「都市」について先ず考えて みようと思う。
「都市」の成立といえば、釈尊の時代 に遡ることが出来るといわれ、釈尊の活 躍した時代には、サーヴァッティー、
サーケタ、コーサーンビー、バラーナ シー、ラージャガハ、そしてチャンパー という6大都市が栄えていたといわれる。
釈尊の時代に始まった第二次都市化
…
(Urbanization)のピーク期を迎えたのが、西北インド・北インドを1世紀から3世紀頃まで 支配したクシャン王朝の支配下であったという。紀元前1世紀頃から紀元3世紀頃まで西北イ
ンド・北インドを支配したのがサカ族・クシャン族といった外国人為政者の諸王であったが、
特にクシャン王朝期に、西北インドのタキシラ、プシュカラーヴァティー、プルシャプラ、パ ンジャーブ・ハリヤナ地方のサンゴル、ロパール、クルクシャートラ等々、28の大都市が栄え ていたとされている。これらの都市の何れにも、紀元後2〜3世紀の居住層に堅固な焼き煉瓦 の建造物跡が認められるという;。更に、インドの古代史家R.S.シャルマは、1〜3世紀の クシャン王朝統治下の北インドの地層と、ヒンドゥー教徒が黄金時代と讃える4〜6世紀のグ プタ王朝下の地層とを比較検討して、クシャン朝下の地層は繁栄の相を示す一方、グプタ時代 の地層はむしろ衰退の様相を示し、クシャン朝期の焼き煉瓦がグプタ時代の建造物にしばしば 用いられているケースが多く見受けられると指摘しご、クシャン王朝下の都市化の波の強さ を指摘している。
貧里 について考える(高橋) 35
例えば、インドの首都ニューデリーにある動物園脇の古城Purana Quilaの中で1969−70年 に行われた発掘では、サカ・クシャン時代には、縦37cln、横22cm、厚さ5cmのサイズの焼 き煉瓦で作られた構造物が顕著であることが報告されている。この時代以前の時代の地層では、
建物は小石積みで出来たものばかりであったという(3)。
ラージャスターン州のNoh遺跡では、紀元2世紀に相当するPeriod Vの中に8つの地層 が認められるが、家の建築に焼き煉瓦(size:39cm x 23cm x 5 cm)が利用されていることが 確認されている(4)。
北インドのウッタルプラデーシュ州のメーラット郡(Meerut district)にある Hastinapura遺跡では、紀元前6世紀初頭から紀元前3世紀の地層であるPeriod IIIが大規 模な火災によって破壊され、その上に紀元前2世紀から紀元3世紀の終わりに相当する Period IVの地層があり、このPeriod IVの時代に都市が再建されていることが確認されてい
る(5)。
ソンク21層
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更に東に行くと、ガンジ ス川沿いにAhicchatraの 遺跡があり、この遺跡の Stratum VIとVは紀元
前100年から紀元100年の地 層であるといわれ、Stra−
tum IVが紀元100年から 350年の頃のものであると いう。ここでは、紀元前 100年以前の地層のStra−
tum VIにおいて焼き煉瓦 造りの建造物が初めてあらわれ、Stratum Vでは煉瓦造りの建造物は希であるのだが、それ がクシャン時代に相当するStratum IVの時代になると、独立した部屋が密集するブロック.
が複数存在する形態が認められるようになり、何れもの建物は打ち固められた堅いコンクリー ト状の土台上に建てられていることが確認されている(6)。
また、マトゥラーの郊外にあるソンク(Sonkh)遺跡では、第27層のシュンガ時代から焼き 煉瓦が使用された都市の跡が認められているが、特に、第21層(カニシカ王支配時代)から第 16層(ヴァースデーヴァ王統治時代)にかけてのクシャンの地層では、建造物が密集した状態 を示していて、然もクシャン以前の地層の方が遙かにゆったりとした間取りになっていたとい う。そして、そのクシャンの地層の中でも第16層の遺構が最も組織的で発達しており、発掘者 Harbert H員telをして「隣接する家と家の間が30センチほどしかない位ぎっしりと建造されて
36 法華文化研究(第37号)
いる」と述べせしめる程の様子を示していると報告し
ている(T)。
クシャン王朝下の北インドでは、煉瓦作りの恒常的 な構造物を伴う都市が栄えていたことが明らかである。
更に、アヒーチャットラーとマトゥラーのソンクのケー スは、クシャン王朝下、都市の周辺地域から都市へ人 口の流入があって都市人口が増加していたことを示す 事例であると考えられる。
2)都市を支える農業の発展について
このような都市の増加と都市への人口の流入を示す 事例の背後には、当時の都市と都市の住人を支えた農
業の発展無しには考えられない。この点に関し、サカ・ 輪冶. 恒●・ 怜司
クシャン時代のタキシラの首都シルカップやベナレスにおける発掘は、農業に用いられた鍬や 鋤などの歯の部分の幅が数倍広くなるといった農機具における技術革新の様を報告している。
また、今日パンジャーブ地方で用いられている歯がカーブした鎌が、サカ・クシャン時代に用 いられ始めたことも指摘されている(8b
更に、このような農機具の発達とともに重要なのが、潅概等による農業用水の確保である。
この件に関して、A.H.ダニは、ペシャーワル地方における国家レヴェルで実施されたと考え られる組織的灌泡の跡を報告していて〔9)、クシャン時代における、農業に対する農業のイン フラ整備が組織的に行われていた可能性も指摘されている。その結果、米、麦、豆類、キビ、
麻、葡萄その他の果物という農産物がインドの輸出品目に挙げられる゜°)ような農業の発展を みた。事実、『エリュトラー海案内記』には、「麦、米、精製バター、ゴマ油、そしてサトウキ ビのシロップ」などが輸出品目として挙げられていて、国外にもインドの農産物が輸出されて いがことが述べられている(ID。因みに、紀元前2世紀頃から紀元2世紀頃のインド社会の状 態を示すといわれている『マヌ法典』には、農機具を盗む者、畑の境界を破壊する者に対して、
手足の切断等の厳重な処罰に処すべきであると規定されており( 2)、農機具や畑の境界線の保 護が人の身体の切断をしてまで徹底すべきことであると考えられ、法制面からも農業の保護が 行われていたと考えられる。
3)交易の発達と貨幣経済の発展
このように28の大都市が栄えたサカ・クシャン時代において、これらの都市が要となって都 市と都市を結ぷ通商路のネットワークが形成され、その通商路がシルクロード貿易の通商路に
り
貧里 について考える(高橋} 3T
繋がっていた。クシャン朝下の西北インド・北インドは、パルティアの拾頭もあってバクトリ アからインダス河口の海港都市に至るルートが用いられるようになり、このシルクロード貿易 の重要な要の地域となっていた1。クシャン王朝はローマとの貿易によって栄えていたこと が知られている])。特に、この貿易には、「ヒッパロスノの風」と呼ばれた季節風が利用され ていたことも明らかにされているFl。そして、この経済活動を活性化したのが貨幣の利用で あった。クシャン王朝の諸王は、それまでの銀本位制を改め1h、金貨と銅貨を発行した。更 に、地方の部族や、都市、そして都市内に存在したブーガと呼ばれる組合が、独自で膨大な量 の銅貨を発行していたことがわかっており、クシャン王朝下に一般庶民が頻繁に口常の買い物 に銅貨を用いるような貨幣経済の発展が顕著であったと言われている「。金貨は主に貿易の 決済に用いられ、銅貨は庶民の日々の生活で用いられていたのである。
4)職業の細分化:
都市における経済活動の活性化に伴い、それぞれの都市では様々な手工業者の活動と生産が 活性化され、職業の細分化が生じていたという。説出世部の律とされる「マハーヴァストゥ』
は、ラージャグリハに36種の職業があったと伝えているしト、「ミリンダ王問経」では75種の 職業の存在が伝えられている 。更に、マトゥラーで発見された碑文には、r員yagini(染物 師)、lohikak亘raka(鍛冶)、 sovanika(金細上師)、 gandhika(香水作り職人)、 pravarika
(外套製造業者)、sarthavaha(隊商の首領)等々という職人たちや職業の存在が述べられて いる、彼らは仏教寺院に寄進をし、中には彼らの「組合の寺二を設けていた者たちがあったこ とが碑文からも明らかにされている。
タキシラの発掘によって、金や貴石を用いた宝飾品.L のみならず、鉄!Tや銅1といった様々 な日常的に用いられた金属製品が報告されている。更に、タキシラからは様々な色の大量のカ ラス製のビーズも発見されており二、ガラス製のタイルがダルマラージ大塔の続道の荘厳に 用いられていたことも解っており、ガラスの色を操る化学の知識を有していた職人がいたこと が想像される。また、当時日常の生活で用いられた食器や皿などを製作した陶一1二の活動に関し、
Devangana Desaiは、型(mould)を用いた製品の大量生産と金持ち用の手のかかった手作 りの趣向品が製作されていたことを指摘している.㌔
このような職人・商人たちは、前時代からの風習である、各々の職種の職人たちが「組合」
を形成する風習を継続していたようで、当時の社会の富裕者層がこうした組合に資金を投資し、
その資金によって原材料や道具を共同購入して組合の構成員に供給し、生産させ、出来た製品 を回収して他の諸都市に流通させ、組織的に販売して収益を挙げ、その収益から投資者に利子 を支払っていたというシステムが運用されていた。そして、その利子から仏教僧やバラモンに 布施をすることが行われていたことが、西インドやマトゥラーで発見された碑文からも解って
38 法華文化研究(第37号)
いる。
H.社会繁栄の影響
1)富裕者の寄進
このような農業に支えられた都市の発展と都市を中心とする経済活動の活性化は、経済活動 を通じて巨万の富を獲得した「長者」(富裕者層)を作り出したと考えられる。この時代の仏 教寺院に献げられた碑文が、そのような「長者」(富裕者層)の存在を物語っている。富裕者 に集中した富の行方を考えるにあたり、富裕者らが獲得した富の一部は、その者たちが信奉し た様々な宗教への寄進という形で社会還元されていた。クシャン時代のジャイナ教の碑文は、
銘文に定型があり、出家者のアドヴァイス・指導を受けた在家信者が、リシャバやリシャバナー タ、マハーヴィーラといった特定のティールタンカラ像を寄進するといった風習が行われてい たことを述べている。仏教碑文には、このような出家者からの直接的働きかけが明記されると いった慣習はなかったようであるが、サカ・クシャン時代の経済繁栄の恩恵を受けた富裕者ら が、仏教寺院に仏像や仏舎利、寺院やチャイティヤ堂などを寄進し、一切衆生の利益安楽の為、
諸仏への供養の為、両親・家族・親族の供養の為等々の供養の目的を願文の中で述べている。
サカ・クシャン時代の社会の富裕者層の寄進を記した碑文で年代の解っている碑文は、以下の 如くである。
1.アゼス王の134年(A.D.77年)の銘を有するタキシラのシルカップ近郊のカラワーン (Kalawan)で出土した銅板碑文。ダルマ長者(grhapati Dharma)の娘でチャンド ラビー(Candrabhi)と呼ばれる優婆夷によってチャダーシラー(Chadasila、この地 の古名)の屋塔(grha−stupa)に舎利が奉安されたことが記録される」.。
2.カニシカ暦4年の銘を持つマトゥラー出十菩薩像台座銘文。隊商の首領 (Sarthavaha)であったバヴァシリ(Bhavasri)の名前が伝えられ、菩薩像の寄進が 断片的に述べられる㌔
3.パキスタンのパンジャーブ地方のサトレジ川河畔のスイ・ヴィハールで発見された、
カニシカ暦11年の年代を有する銅板銘文。説法師(dha[rma]kathi[ka])ナーガダッ タ比丘が小堂を支える柱(yathi)を建立した際、在家信者で寺主(viharasvamini)
であるバラーナンディー(Balanandi)優婆夷と彼女の母が、その柱に付随する囲い (parivara)を寄進したことを伝える。「寺主」である女性の在俗信者の存在を示す。
[願文:一切衆生の利益安楽のために]」丁
4.マトゥラーのDalpat−ki−Khirki Mohallaで発見された、破壊された仏陀立像の基 壇上に刻されたカニシカ暦14年の銘文。外套製造業者(pravfirika)ハスティン
貧里 について考える{高橋)
(Hastin)の妻サンギラー(SamghilA)が、世尊・正等覚者の供養のため仏像を建立 したことを記し、外套製造業者の寺の存在が述べられる。[願文:一切の苦を断甚せん
がために」・
5.カニシカ暦16年のマトゥラー博物館蔵菩薩座像台座銘文。ナーガダッタ比丘が、彼の 止住している材木商の僧院(KaSthikiya−vihara)内の自分の制底堂内に菩薩像を大衆 部諸師の所領として奉安したことに言及。[願文:一切諸物への供養として、一切衆生 の利益と安楽のために]」/F
6.カニシカ暦17年のマトゥラー博物館蔵菩薩座像台座銘文、金細工師(Sovanika)
Dharmakaの妻ナーガプリヤー優婆夷が、法蔵部の諸師の所領として自分の制底堂 (svakaya ceityakatiya)に菩薩像を造立したことを伝える 1。
7.元々の発見場所は判明していないが、パキスタンとアフガニスタンとの国境の地クッ ラム(Kurram)で入手されたという r一頭と傘蓋を有する小銅塔形舎利容器に点刻て記 されたカニシカ歴20年の碑文。その言語は、西北プラークリットで書かれ、カロシュ ティー写本の法句経と言語的に平行線を為すとされ、カニシカ暦20年の日付を有する。
ヤシャ(Yasa)の息子であるSvedavarrnaが釈尊の舎利を自らの園林に建てた新寺の 中の仏塔に納め寄進したことを記録し、十二支縁起についての経典からの引用と考えら れる文句が述べられる。当時の社会の有力者が、自らの所有する園林に僧院を建てるこ とが出来るほどの財力を有していたことを示唆している。[願文:一切衆生への供養と して]1
8.マトゥラーで発見された頭の破損した仏陀座像の台座に刻されたカニシカ歴22年の銘 文の断片。仏陀の像(buddha−pratilna)が外套製造業者の寺(Pravarika−vihAra)に 造立されたことが記され、外套製造業者の寺の存在に言及している一。
9.マトゥラーの典型的赤色砂岩製の仏陀像(サーンチー考古博A83)の台座に刻まれ る碑文。ヴァーシシカ王の22年の雨季の10日に釈迦牟尼仏の尊像がVidyamati……に よって建立されたことが記される。[願文:寄進者の両親と一切の生類の幸福のため
に。]
10.カニシカ歴22(26?)年の碑文。雨季の第4月26口にBuddhabalaの息子で、商人 Sattvakaの孫、貿易商Balakiti(?)の孫でであるNagarakshitaがAmit員bha仏を 建立したことを伝える。〔願文:一切諸仏の供養のため。この供養によって生じた福徳 は仏陀のすぐれた法を聞くためにならんことを。]1
11.フヴィシカ王の33年の碑文。優婆塞のBudharakshitaとDharmarakshitaが同じ家 柄のバラモンであるSomapuraと共に、彼らのviharaに礼拝者とか諸師のために寄進 したことを伝える。[願文:寄進は両親、息子たち、娘たち、そして一切衆生の長寿と
39
」O
法華文化研究(第37号)
利益のために。]it/
12.古代のプシュカラーヴァティーにあたるチャールサダ近郊のマウンドから、青色片岩 製の舎利容器が二つ(直径5.1インチと1.5インチ)発見され、その一つに刻されていた 303年の年代を有する銘文。銘文は、NGMajumdarがヴィクラマ暦と見てAD.246年 とする。新発意(naviga)のVesaがAvasauraにあるSaravaranaにおいて、一基の 塔と僧伽藍(samgharama)を建立したことが記録されている。[願文:両親、一切諸 仏、一切の独覚、一切の阿羅漢、妻と息子たち、友人、親類とifit縁の者たち、そして大 王に使える[村の首領であるAvakhajhadaクシャトラバへの供養として。P
13.現在のペシャーワル郊外に対応するチャールサダ(Charsada)から出土した舎利容 器に刻された碑文。ヴェッサ(Vessa)という在家の資産者が、その地に塔と僧伽藍を 建立したことを伝えている㌔
これらの碑文の内、1.のカラワーン出土銅板銘文のケースを取りあげると、ダルマ長者
(grhapati Dharma)の娘でチャンドラビー(Candrabhi)と呼ばれる女性の仏教信者(優婆 夷)は、説一切有部に属するカラワーン寺に自らの寄進したチャイティヤ堂(屋塔、grha−
stUpa)を有していて、そのチャイティヤ堂に舎利を奉安したことを記録している。次のセク ション皿で、カラワーンの増広過程を詳細に検討するが、このチャイティヤ堂は、この地を襲っ た地震によって紀元1世紀に建立された直後に崩壊したが、その地震の直後すみやかに再建さ れていることが、発掘によって明らかにされており、当時の長者の経済力の偉大さを物語って いる。彼らは、僧伽藍や寺院を建立したり、「自分の制底堂」や塔を建立したり、仏菩薩像や 仏舎利を奉献していた。そして、中には「寺主(viharasvamini)」というタイトルを有する 優婆夷までいたことが当時の仏教碑文から明らかである。
2)富裕な農業従事者の寄進
活発な商業活動は、都市に住む商人たちのなかに「長者」を作り出したが、サカ・クシャン 時代の繁栄の影響は農村部にも及んでいたようである。一部の農村には「村の塔」が建立され ていたらしく./、仏教の伝承に詳しい人たちが村に住み、仏像やレリーフの製作にあたって いたことを物語る碑文資料も存在する.y。更に、 harikaと呼ばれる農業従事者が仏像を寄進し たケースを伝える資料もあり1 1、クシャン時代の経済的繁栄が農村部にまで及んでいたこと を推測することが出来る。
3)僧尼の寄進例
僧尼の仏教寺院への寄進の例は、サーンチーの仏塔にも顕著で、僧尼による寄進がシュンガ
tt
貧里 について考える(高橋)
時代から行われていたことが知られているが、サカ・クシャン時代の経済繁栄はこの僧尼の仏 教寺院への寄進の風習を更に活性化したようである。そのような事実を示す事例は、以下の如
くである。
1.カニシカ王の3年には、三蔵に通達したバラ(Bala)比丘がサールナートに巨大な 菩薩立像(サールナート博蔵A3)と傘蓋を寄進しているil。
2.同じバラ比丘はシュラーヴァスティー(舎衛城)の僧院にも同様な巨大な菩薩立像と 傘蓋を寄進している㌧
3.カニシカ暦の第2年には、上述のバラ比丘の弟子で、三蔵に通達したブッダミトラー (Buddhamitra)尼が、菩薩立像をコーサーンビーのゴーシタ園に寄進。(Kosam出十 菩薩立像銘文)】
cf.同じ尼僧の名を伝えるもう一つの碑文も同じ場所から発見されている ,
4.同じ人物と考えられる尼僧が、カニシカ暦6年にコーサーンビーのゴーシタ園の僧伽 藍に菩薩像を寄進したことが伝えられる1「i。
5.このブッダミトラー尼僧の娘であるダナヴァティー(Dhanavati)尼が、フヴィシカ 王の33年に菩薩座像を建立して寄進したことを、マトゥラー近郊のチョウバーラ丘 (ChaubAra mound)で発掘された破壊された仏座像の台座に刻まれた銘文が伝えてい る。(Chaubara Mound出土菩薩座像銘文)1
6.カニシカ暦8年に、ブッダダーシ(Buddhadasi)という尼僧が、一切衆生の利益安 楽のために仏陀座像を寄進f。
7.一ヒ述のカニシカ暦16年の銘を有するマトゥラー博物館蔵菩薩像台座銘文には、ナーガ ダッタ(Nagadatta)という比丘が、その菩薩像を材木業者の僧院に寄進したことを伝 える㌧
8.フヴィシカ王の32年には、ヴィラナ(Virana)という比丘が父母とともに仏陀座像 を寄進。(Ahichchhatra出土マトゥラー仏座像台座銘文)1.
9.マトゥラーのジャマールプル出十の柱基銘文は、ブッダダーサ(Buddhadasa)比丘 が柱基(pillar−base)を二つ寄進したことを述べているt/c 。
10.フヴィシカ王の47年の碑文は、スワット地方(Uddiyana)出身のジーヴァカ (Jivaka)比丘が25基の柱基を寄進したことを伝える ,1。
11.ジャマールプル出土の碑文は、フヴィシカ王の47年にブッディシュレーシュタ (BuddhiSreshta)と呼ばれる説法師の比丘が柱基を寄進したことを伝える 一。
12.説法師ダルマダッタ(Dharmadatta)比丘の寄進を伝える碑文がある .。
13.ブッダラクシタ(Buddharakshita)比丘の寄進を伝える碑文がある ,4。
14.ダッタ(Datta)比丘も同様に柱基の寄進者として名が述べられている11i。
11
42 法華文化研究(第37号)
15.ジャマールプルからは、フヴィシカ王の51年にブッダヴァルマン(Buddhavarman)
比丘が釈迦牟尼仏の像を建立したという㌔
16.ヴァースデーヴァ王の74年には、ミヒラ・ヴィハーラ(Mihira−vihara)という伽藍 に、ナンディカ(Nandika)比丘が説一切有部の所領として釈迦牟尼像を寄進してい
る.1。
17.ヴァースデーヴァ王の79年に、ヴィナヤダラ(Vinayadhara)比丘が菩薩像を寄進 している㌔
18.カニシカ暦92年には、Vefifida viharaに止住するグラハダーシカ(Grahadasika)
比丘が菩薩像を寄進している。(カニシカ暦92年菩薩像台座銘文)..
サールナートとシュラーヴァスティーに巨大な菩薩像を献じたバラ比丘や、コーサーンビー のゴーシタ園に複数の菩薩像を奉献したブッダミトラー尼のように、一部の出家者には複数箇 所に巨大な菩薩像を寄進できるような裕福な者がいたらしい、或いは自らの影響力で裕福な信 者に寄進させることが出来るような出家者が存在していたらしい。このような出家者の存在の 背景には、当時の経済繁栄の恩恵を得た「長者」と呼ばれるような裕福な在家者の存在を伺う
ことだ出来る。
皿.古代都市タキシラの寺院に見る寄進活動の状況
長者たちや僧侶らが為した寄進は仏教寺院に対して為された。ここでは、彼らが寄進の対象 とした仏教寺院が、そのような経済繁栄の恩恵を受けてどのような造寺造塔増広活動を経てい たかについて具体的に調べてみようと思う。幸い、J.マーシャルのTaxilaには、タキシラ周辺 地域に存在した仏教伽藍の詳細な発掘報告が述べられている。更に、マーシャルはタキシラで
は、以下のような4種の時代の異なる石積み法が用いられていることを指摘し1. 、そのよう な石積み法の違いから、大まかな造立・増広年代を確認できるとしている。ここでは、この石 積み法に則って、タキシラの周辺に存在した仏教伽藍の造寺造塔増広活動について検証してみ
る。
1)ダルマラージカー伽藍
先ず、北インドにおける代表的仏塔としてアショーカ王に創建をもとめることできるという 伝承があるダルマラージカー伽藍について検証する。この遺跡は、仏塔の基壇として方形基壇 が専ら採用される西北インドにおいて、円形基壇と伏鉢からなるける唯一のインド型(サーン チー型)仏塔とされる大塔と、僧院群から成る。
貧里 について考える(高橋)
ている。その塔に、紀元前1世紀中葉
頃、大塔の周りの続道を囲むように環状に12基の小塔群が設けられたという。更に、1世紀の 初頭にあった大地震によってこの大塔が破壊されると、倒壊を防ぐ補強として大塔の内部の中 央部分に放射状に配する16本の支壁を有する構造で再建されている。そして、フヴィシカ王〜
ヴァースデーヴァ王の頃(3世紀頃)、基壇部にセミ・アシュラー積みでテラスと四方に階段 が付され、更に、4〜5世紀に大塔の胴部の基壇に石細工の装飾の帯が加えられたと報告され
ている[6い。
大塔の周りには、3.3m−3.6m幅の続道がある。この続道には、4回の改修の跡が認められ るという。最初期には、川砂に石灰を混ぜた床に貝飾りで幾何学模様を描いて漆喰で埋め込ん だ床が敷かれていたというが、その上に漆喰の床が敷かれ、それが、多分1〜2世紀の頃に25 センチ四方で、厚さ約2.5センチの空色、黒、黄色のガラス・タイルの床に敷きかえられたと いう。そして、4〜5世紀にガラス・タイル張り続道が破壊され修復不可能となると、ガラス・
タイルが取り除かれ、濃い灰色のスレート(30cm X 45cm X 2.5−5cm)で再度敷き替えられ た、という 62)。因みに、破損し免れたガラス・タイルの一部は、ダルマラージカーのRoom F1やカラワーン遺跡のチャイティヤ堂A1の後室(aps部)の床に敷かれ、再利用されてい
る。
続道の周囲では、紀元前1世紀半ばから1世紀の半ばにかけて、大塔を取り囲むように12基 の小塔が環状に設けられた。それらは、1世紀にタキシラを襲った地震によって崩壊したと考 えられている。すると、その小塔群の瓦礫の上に、初期ダイアパー積みの祠堂群が環状に設け
られたという。当初は、祠堂と祠堂との間にはスペースを十二分にとって建築が為されていた が、次第にその間の隙間にも祠堂を設けるようになり、大塔を祠堂の輪が取り囲むという形態
に変わっていった、という(03}。
僧院群に関しては、東西に一列に設けられた僧房群E1、E2、F1−F3、T2−T7は、
43
44
法華文化研究(第37号、
1−2世紀に方形僧房が導入される以前のもの、とされている1㌔僧院E1−E2、F1−F3、
T2−T7、V1−V5、W1−W5では後期サカ時代の野石積みが、ダイアパー積みで補修 されたものとされる㌧
更に、ダルマラージカーの方形僧院は、タキシラで最初期のものとされ、セミ・アシュラー 積みで建築されている。従って、ダルマラージカーの僧院群は、1世紀以前の僧院群と1世紀 以前のものが1世紀に補修された僧院群と、3世紀頃建立された方形僧院から成り、伽藍の拡 大に伴い着実に僧院の規模が増広されていた様子が伺える。
大塔の周辺部で特に顕著な増広の跡を知らせるものは、ストゥーパKlの東にある貯水タ ンクである。この貯水タンクはサカ時代のものであったが、カニシュカ王〜ヴァースデーヴァ 王の時代(2−3世紀)に埋められ、その場にストゥーパK2、K3が建てられていた+ P.。更 に、浬繋像が納められている祠堂Hは、紀元後1世紀初頭の地震の後に補強され、三面に壁が 設けられ、又、その回りに壁が設けられて饒道が作られ、そして玄関が設けられた1.。
1世紀の終わり頃から2世紀かけて、外側の祠堂群(Outer Ring Chapels)が設けられ、
同時期にL、R1、12、13、G1−G7、M2−M9、祠堂Hの増広部、ストゥーパM7、
M10、 M16、 P1、N8、N7、D4の増広部が設けられた「 。3−5世紀には、祠堂N16、
S3、S10、祠堂P2、P2a、 P4、P5、P7、祠堂N6、N15、 N17、 N27、 N28が建立され
ている。
以上のように、ダルマラージカー伽藍では、紀元1世紀から3世紀にかけて、活発な造寺造 塔増広活動が見受けられ、また4−5世紀に新たに手が加えられていることが確認できた。こ の二つの時期に、大塔を中心とするこの遺跡の維持管理に莫大な富が動いていた様子を確認す ることが出来た。
2)カラワーン伽藍
次に、タキシラで最大とされ、北インドでも最大級の規模の僧伽藍といわれるカラワーンの 遺跡について述べてみよう。ダルマラージカーから南南東に約2キロ、ビール・マウンドから
3キロの地点にあるカラワーンの伽藍は、パティヤール山塊の南に平行して走るマーガラ山脈 の北面の急な山腹につきでた3つの岩のテラス上に建てられている。基本的な構造として、北 側に塔院が設けられ、南側の3つの異なったレヴェルに僧院が建てられた形式から成ってい
る1㌔
先ずこの伽藍の塔院に目を向けると、主塔A4は、約11メートル四方の規模の方形基壇を 有する。石積みは、当初、塔の壁は小ダイアパー積みで作られていたが、その後3世紀頃に大
ダイアパー積みで補修されている。更に、4−5世紀にカンジュール石で出来たコリント式壁 柱を配したセミ・アシュラー積みの土台が基壇の回りに築かれている㌔主塔の東隣のストゥー
貧iピについて考えるC高橋)
パ12は、小ダイアパー積みの上に、カ K・・1 LAWA ts
建てられ、次ぎに、その階段を取り囲 ・・
むように、新たなポーチが小ダイァ パー積みで設けられたという。そして、
みの祠堂がつけ加え・れた、とされ c−一→
Pl#h 「,ndthd・i− It H一ユttl+/
る 。
塔院の東の角には、チャィティヤ堂A1、A13、祠堂A15、 A16、 A17が存する。仏教碑文 の寄進例として上述した優婆夷チャンドラビーの寄進によって建立された八角形の内陣を有す るチャイティヤ堂A1は、主塔と同じ小ダイアパー積みで建てられている。崩れた瓦礫の上 に直接に壁が建てられていることから、この特徴的な制底堂は建立された直後に一度地震のよ うな大きな力で破壊され、再び建て直されていたことも知られている 。塔院Aの南側のテ ラスと祠堂A18−A26と小ストゥーパA23でも、主塔と同時代の建造物が、その後の大ダイア パー積みやセミ・アシュラー積みで補修されている、という。
僧院群に関しては、僧院CとFは、主塔と同時代の小ダイアパー積みの構造物とされてい るTI。更に、39m×40mの規模を有する僧院Bは、後の時代のセミ・アシュラー積みで建て られている㌔
以上のように、カラワーンの塔院は主塔A4と同じ頃の1世紀頃建立され、その後3世紀 頃に増広され、4−5世紀に再び改築を経ていることが明らかとされている。僧院も、1世紀 頃の小ダイアパー積みの僧院が二つあり、後に4−5世紀になってセミ・アシュラー積みの僧 院Bが建立され、増築されている。更に、優婆夷チャンドラビーが寄進したチャイティヤ堂の ケースのように、社会の富裕者がその富を十二分に仏塔再建に用いたケースも見受けられ、そ の経済基盤の豊かさを想像することが出来る。
3)モーラ・モラードゥー
クシャンの都シルスフから東南に1.6キロに位置し、山中に少し入った谷間にあるII|寺がモー ラ・モラードゥーである。この遺跡は、西の塔院と東の僧院から成る。その大塔は、東西20メー
45
46 法華文化研究(第37号)
トル、南北78メートル、高さ約5メートルの方形基壇を有し、その中心部は玉石を詰めたもの で表面の壁は2世紀のダイアパー積みで建てられていた。それが、多分、ストゥッコ像の装飾 が為された頃に、後にセミ・アシュラー積みで再築されている:t/。その塔の南に、小型のス トゥーパがあり、これも紀元2世紀頃のダイアパー積みのもので、後に大塔同様のストッコの 装飾がほどこされたというTT。僧院に関しては、最初期は大塔と同じ紀元2世紀頃のダイア パー積みで建てられ、4世紀頃にセミ・アシュラー積みで修理拡張が為されたことが顕著であ るとされるT㌔
4)ジャウリアーン
モーラ・モラードゥーの東北1.6キロ、高さ90メートルほどの山の山頂にある伽藍で、クシャ ン朝の2世紀以来の塔院と僧院がセットになった形式に中院が加わった、タキシラで唯一の中 院を有する形式の寺院である。正門を入ると祠堂の取り囲む中院に至り、2世紀の大ダィアパー 積みで建てられ、補修部分がセミ・アシュラー積みで為されている。塔院の床は3回敷き変え られた跡がある。主塔は2世紀のクシャン初期のもので、後に、セミ・アシュラーで補修され ている。奉献塔は塔院に21基、中院に5基、西側に1基あり。ほとんどがセミ・アシュラー積 みの基壇を有すが、A15のみは主塔と同じ大ダイアパー積みである。祠堂群は総てセミ・アシュ ラー積みで建立されている。また、僧院は、最初セミ・アシュラーへの過度期を表す大ダイア パー積みで建てられていたが、4−5世紀頃、セミ・アシュラーで補修された㌔
ジャウリアーンは2世紀に建立され、その後数回の増広を経ている。大ダイアパーやセミ・
アシュラー積みという石積みが見受けられ、2世紀から4−5世紀に至るまで、徐々に奉献塔 や祠堂などがところ狭しと塔や中院に増築された様が顕著に見受けられる。
以上のように、タキシラの代表的な伽藍は、何れも1〜3世紀、4〜5世紀に増広活動が活 発であった様を伝える。ダルマラージカーやカラワーンの事例が示すように、1〜3世紀にお ける伽藍の補修・改築・増広が特に活発であったことが明らかである。サカ・クシャン時代の 経済繁栄の恩恵は、このように当時の仏教寺院にも及んでいた。富を教授した社会の富裕者層 は、自らの資材の一部を寄進という形で仏教伽藍に移していたのである。その富により、石積 み職人や材木商など多くの人々が仕事を得ていたと考えられ、当時の仏教伽藍はこのような経 済活動の重要な要となっていたとも考えられるのである。
IV.クシャン時代の繁栄の特徴
クシャン時代の繁栄は、社会の富裕者層の寄進により、仏教寺院の増改築という結果をもた
貧里 について考える(高橋♪ 47
らした。しかし、その繁栄が万人に豊かさをもたらすものでなく、富める者と貧しい者という 社会の二極化を作り出すような経済繁栄であったことを示す資料がある。フヴィシカ王の統治 下のカニシカ暦28年の銘を有するマトゥラー出土ブラーフミー碑文 の英訳文を引用すると、
Success!In the year 28. on the first day of Gorpiaios、 this eastern hall of merit was given aperpetual endowment by Kanasarukamana−scion、 the lord of Kharasalera. the lord of Vakana. From what is cleared off month for month from the interest therefrom hundred Brahmanas should be served in the open hall, and day for day, having kept it at the en−
trance to the hall、 on the same day three adhaka groats, one prastha salt, one prastha saku, three ghataka and five mallaka of green vegetable bundles, this should be given for the sake of destitute people, hungry and thirsty. And what merit is herein、 may that ac−
crue to the Devaputra Shahi Huvishka, and also to those to whom the Devaputra is dear,
and may the merit accrue to the whole earth. The perpetual endowment was given to the
−raka−guild,550 purana, and to the flour maker−guild,550 purana.
とあり、クシャン王朝の配下にあったカラサレーラとヴァカナという二人の太守が、550プラー ナという金子を小麦粉製造業者の組合ともう一つの組合に永代付与し、それらからの利子によっ て日々100人のバラモンに施食し、雑穀の挽き割り・塩・野菜を飢餓に苦しむ打ちひしがれた 人々に提供する、というものである。この碑文は、二人のクシャン王朝下の太守という地位を 有する有力者が、白らが小麦粉製造業者の組合ともう一つの組合に投資した金子が作り出す利 子の一部を用いて、100人のバラモンに供養し、そしてマトゥラーの町に住む飢餓に苫しむ貧 窮する者たちに雑穀の挽き割り、塩、野菜を布施することを述べたもので、都市にある貧困に 苦しむ貧しい者たちが集まる地域の存在をイメージさせる碑文である。法華経が伝える「貧里」
の存在を伺わせる碑文である。したがって、クシャン王朝下の西北インド・北インドの社会は、
寺院を寄進できるような富ある者たちと貧里に住む貧しい者たちとの際だった二極化をともな う繁栄であったと考えられる。
〈おわりに〉
筆者がインド留学中のデリーには、オールド・デリーとニューデリー町をぐるりと取り囲む リング・ロードと呼ばれる幅の広い環状線があった。この道を通るバスを利用して、大学のあ る北デリーから南デリーにある友人宅を訪問していたのだが、比較的豊かな人々の住む南デリー のリング・ロード沿いの一角に、バラックの掘っ立て小屋が林立する地域があった。建物の屋
48
法華文fヒ研究(第37号)
根はビニールシート、そこには上下水道もなく、電気も通っていなかった。住人は近くの街路 灯から違法に電気を引いて勝手に使っていたのだが、そこは地方からデリーに職を求めてやっ てきた人たちや貧しい人たちや一次雇いの人たちが住む地域であった。それは将に、インドの 首都で政治経済の中心である大都市デリーにあった「貧里」であったと思う。
サカ・クシャン時代に目を向けてみると、農業の発展によって支えられた都市の発展と、貨 幣経済の進展や手工業の複雑化によって都市における経済活動は活性化され、周辺地域から都 市への人口の流入という現象をもたらしていたようだ。このように繁栄をみた当時の都市は、
都市と都市を結ぶ通商路と当時の国際貿易の流れなどによって更に活発化され、北インド・西 北インドに頗る豊かな経済繁栄がもたらされていたらしい。その経済繁栄がもたらした「富」
は、当時の社会の一部富裕者層を更に富ませ、彼らに仏教をはじめとするよる様々な宗教の寺 院・伽藍に対する活発な寄進活動を可能なら占めた。しかし、その繁栄は、経済繁栄の恩恵を 享受できぬ社会的弱者も生みだしていて、「富」の極端な一局集中と社会の1極化を伴うもの であったらしい。マトゥラーの28年銘を有する碑文がそれを物語っている。r持てる者」と
一持たざる者二の二極化が顕著なサカ・クシャン社会にあって、富める者は寺院に対する物的 な寄進を通じ自らの信仰を表明していたが、この経済繁栄の恩恵を享受できなかった、或いは この経済繁栄に押しつぶされた「持たざる者」たちには、このような物的な寄進は不可能であっ た。彼らの唯一の信仰表明の方法は「祈り」であったと思われる。同時代のヒンドゥー教では、
「ヴァガヴァッド・ギーター』でバクティ(信愛)による救済が説かれた。大乗仏教でシュラッ ダーが強調されたのは、そんな時代のエコーであったと考えられる。
法華経「信解品」の「長者窮子」のエピソードは、そんなサカ・クシャン時代の繁栄の様相 を如実に示し、「貧里」は将に都市化と経済発展の波に翻弄された社会的弱者の存在を示すも のであると思われる。総ての生きとし生けるものの存在意義と万人の救済を説く法華経は、自 らが「仏子」であるという自覚と久遠の本仏への「信」による救済という道を、「貧里」の住 人に示していたものと考えられよう。
注
(1) Kameshwar Prasad、 Cittes, CrLi∫ts&Com)nerce uncler ihe五2益亘zαs. Agam Kala Prakashan.
Delhi、1984, pp.29ff.28の大都市とは、西北インドのPushkaravati(Charsada). Purushapura (Peshawar). TaxiIa(Sirkap&Sirsuk)、カシュミール地方のJushkapur、 Hushkapur and Kanishkapur、パンジャーブ・ハリヤナ地方のSanghol, Ropar, Kurukshetra、首都デリーの Purana Quila、ラージャスターン州のNohとBairat、ガンジス川・ヤムナ川流域地帯の
Hastinapura. Atlanjkhera, Mathura. Sravasti. Ahicchatra, Bhita、 Kausambi、 Ayodhya(Saket)、
Banaras, Samath, Kasia (Kusinagara)、 ビハール州のChirand、 Vaisali、 Kumi・ahar
貧里 について考える(高橋)
(Pataliput.ra)、Campa、オリッサ州のSisupalgarhであるという。
(2) R,S.Sharma, Pe) spectives in Soc{oiαnd Economic HistorY o∫ Eαrly
∫ηdiα. Munshiram
] lanoharlal, Delhi.1983. pp,56−57.( 3 ) /η(ゴiαη A r(ゾha(iology − A Ret,ie ttT、 1969−7〔〕、 P.4.
(4 ) 1ndian .−1 rchaeotogy−A Ret、ieie、、1965−66、 P.38
(5).・.l ncient fn di:a.、 nos.10&IL pp.15−23.
(6 ) .・・1rl(lie?lt∫〃〔1∫α, no.1. P.39.
(T) Herbei a Hii rtel. Some Results of thp Excavations of Sonkh−APoliminavy Reporビ、 Get 〃2ωI
Schotars oiz Indict. VoLII. Bombay.1975, pp.75−76.(8) 」..Marshall, Tαxila. i ot.fL Delhi.1975. p,534, pL196, nos,198&199;p.559. pl.169、110s.189& 19〔〕;
1)1.169..no.191:pl、169, nos」92−g4;P,560、 pL169、 Ilos.2〔}0&2〔〕1:PP.56〔}−61,pl.169,1)os;.2〔〕3&207.
(9) A.Dani&F. Khan, Kushan Civi}izEltiOll in Pakistalゴ、 Centrut A s ia in〃lc・A tts/1(in Pε ↓θ(1.
(CL−・1 KP)i ol./.1 losco ・.1974. p.102.
⑪0) G.L. Adhs a、 Ea」.ly iftdiu)t Euonumics. Bon }ay.1966. P,41. fn.3.
(1D Periplus.14:W.H. Schoff、 The Perip/us(∬/ノlc?Ei y〃1 raean Sea. New Delhi、1971、 p、27、
(12) ,Uαノlu, X.293.
(13)通商路はTaxilaからPushkalavatiへ続き、 Khybev Passを越え、 Kabul渓谷を進み、 Ilidda、
Nagarahara. BalniyanそしてBegramに至った、. Cf. G.L. Adhya. oP.cit.、 p.155.
(1・D クシャン王Kujula KadI〕hisesはローマへの使節派遣 し、交易の活性化に努めたという,. Cf.中村 元、「インドtii代史_x−ol.1[. Tokyo.1979、 pp,168−69.
(li) ) .季節風」(.ヒッパロスの風一)の利川:TaxilaからIndus川下流のBroachなどの海港都市にた るルートが利用されていた,更に、1世紀の前半にモンスーン(季節風)の利用することが.発見され、
それがアラビア海を横切りインダス川河口地帯に至るルートが開発されるなど、海ヒ交易に革命をも
たらしたといわれる。Cf. R.S. Shayma、 Sudras in Ancient∫n.dia. p.195.
(16)ローマと同じ基準の金貨が発行された.クジュラ・カドフィーセスllは、1/4(tinaraの金貨は希 であるが、doubl〔・〔di}iara、 ctinara and quarter−dinaraといった重さの金貨を発行し、金本位制を始め
る、.Cf. P.L. Gul〕ta Coiηs. New Delhi.1979. p,28.
(17)The lndo−Greel〈sからthe laしe KushaIlas迄の諸王、諸都市や諸部族がかなりの量の銅貨を発行 しているzこのことは一般民衆レヴェルに貨幣経済が浸透していたことを意味している,:R.S.
Sharma. Perspectii・es i)1 Soclαt and Econoniic H・istoru of Eorty /ndi(1、1}p.178−80二R,S. Shavmaは、
K.K、ダスグプタの研究に則って、14部族によって発行された175種の tribal coiIls があることを 指摘し、それらのほとんどがパンジャーブ地方やラージャスターン地域からの物であると指摘してい る、.Pancala地域からも非常に多くの銅貨が発見されていて、シャカ族やパフラヴァ族によって発行
49
50 法華文化研究(第3㍗ナ)
され西北インドに流通していた銅貨には200以上のモノグラムがあり、コーサンビーのMaghas族だ けで、121種類の銅貨を発行していたという:/
(18) 」.J..Jones、 trans.、 The:}・fahat astu、 Vol.工II, PTS. pp.443−444.
(19) T.W. Rhys Davis, Tlze QueStion oグκiησ、V仇η〈1α, Pt.II, SBE, pp.210−11.
(20)宝飾品(金製品等):Sirkapからは、213 itemsの宝飾品(ほとんどが金製品)が発見されている.
それらの大部分(180品目)が1世紀の地層から出十。二J.1 larsha}1, Taxila.voLL p.616.1
貴石:Nlarshallは、タキシラでは数多くの種類の貴石が宝飾品に埋め込むため(incrustation of je Jelry)に用いられていたことを指摘している:i)紅玉髄(camelian()r sard)、 iD .E髄 (chalcedony), iii)めのう (agate)、 iv)縞めのう (onyx), v)ガーネット(garnet), vi)碧玉 (jasper), vii)ラピスラズ1」(lapis−lazuli), viii)水品(rock−crystal), ix)トルコ石(turquoise and turquoise paste), and x)黒大理石と長石(black marble and white orthoclase felspar).
[入larshal1, TaxUa 、vol.L P.619こ
金細rl師の仕事に多くの貴石研磨やカット職人の存在。
(21)インドは最初期より大変質のよい鉄の生産地として有名であった、という。鉄製品に関しては、
「エリュトラー海案内記!は、インドの鉄とスチールがAbyssinian pOI tsに輸出されていた、という。
LPeriplus.6:W.H, Schoff, op, cit. p.24.」
Taxilaで発見された221のiron objectsのほとんどはサカ族、パフラヴァ族、クシャン族の支配して いた頃のタキシラであったSirkap遺跡から発見されている. MarshalIはそれらを6種に分類する :D家庭用品(household utensils), ii)武器や鎧(arms and armors), iii)馬具や象を操るため の突き棒(horse−bridles and elephant goads), iv)大llや鍛冶屋の道具(carpenters and black−
smith s tools), v)農具(agricultural instruments)and vDその他(miscellaneous articles Iike
needles、 plummets and a number of unwrought ingots.)[J.1 larshall、 op. cit. p.533.一また、
Sirkapで出十した鉄器は炭素の含有量が大変高く(between 1.2 and l.7%)、発掘をしたMarshall
は、 high carbon steei 、Tas being knowingly made as such at this period in India と指摘してい
る。[J.Marshallt Taxi[a,vol,1、 p.535.1当時の鍛冶の技術力の高さを物語る事例であると考えられ る。(22)銅と青銅製品:Sirkapからは、シャカ族・パルティア族、初期クシャン族の頃の地層から、350の 銅や青銅の清貧が発見されている。[J.Marshall, Taxi{a,vol.1, p.574:lndo−Greek strata−12 cop−
per&bronze objects;Ear・1y Saka strata−…19 copper&bronze objects−G.L. Adhyaは、これ らci1℃a B.C.200.200 AD,の頃の銅器や青銅器を5種に分類:i)道 具類(tools and instl uments),
ii)日用品(household utensils), iii)装飾品や贅沢品(ornaments and luxury goods), iv)小像 (figurines)and v)その他(miscellaneous).かれは、 H用品や食器類がタキシラのSaka−Parthian partでしか発見されていないことを指摘している。[GL. Adhya, Eαr/y∫ηdiαηEconomics, p.58.1
貧旧 について考える(高橋)
(23)ガラス.製のビーズ、腕輪、小さ器、タイル等がシルカップから発見されている、、INIarshall、
Taxila. p.684.[これらのカ ラス製品は輸入されたもの考えることも出来るが、 Marshallは、 Sirkap のSaka−Parthian時代(lllヒ紀の地層)の出土物に大量のガラス製ビーズが発見されていることか らも、班珀色(ambe1・)、灰色(grey)、黄色やオレンジ色(minute ypllow an〔l orange)がタキシ ラで製作されていた可能性が大であることを指摘している。[Taxila,vol.1, p.742,[
(24)クシャン時代に陶Ilの活動も活性化した、紀元前200年頃から型(mould)を用いる.製法が存在し たが、この製法にもクシャン時代に質的な向ヒが認められる:D際だったレリーフ感、ii)製作され た主題が、 nagaraka classの豊かさを反映している.その他、 D型をダブルで用いる.製法!usage of doublo Inoulds)やii) 一部の豊二かな者の要求に応えるべく、型を用いた大量生産されたものでは なく、敢えて手作りされたW:品なども認められる、という,[Devangana Desai, Social BackgFound
of Ancient Indian Terracottas 、 History and∫oc iety(Debiprasad Chattopadhyaya, ed.、 Cal〔・utt.a.
1978).p.li,9.1
(25) Kalawan Copper Plate lnscription of the yeal・134(r 9e谷目録!no.1745)
(26) Mathui a Bodhi: attvtt Imagc Pede.stal Inscl・iptiOll ufしhe year 4 (H,LUd〔・rs..N・fatlturαinscrip
/↓oη∫,Gotinge.1960、 p.199f.、§172;二静谷「1録!no.654)
(27) Sui Vihar Copper Plate Ins cription of the year 11(S. Konow, C∬. p.141. no.LXXrV;二静谷[1
録11780)(28) Dalpt−ki−Kii・ki Mohalla Buddha Image Pedestal Insぐription of the yc)al 14 〔1 {.Lildpvs、 JIL p.116f,§81;「静谷「1録二no.622)
(29) Mathura Nhlseull/B〔.)dhisattva Imagp Pやdpstal Inscriptiol〕of the yeaザ16 (H.1、Uders, V∫
p.191f. §157 ;二青斧谷目3求二 no.653)
(30) ] ・lathura Musρuln Bodhisattva IInage Pedestal Inscription of the ypar l7 (H.Ltidel・s、 Mi.
p.187f..§150;二静谷目録二nO,648)
(31) KurFam Casket Inseription of the year 20(S. Konow, CII. p,155, no.LXXX;」静谷ll録.二no.
1748)
(32) Mathura 1 luseum Ileadless Buddha Image Pedestal Inscription of the yeaF 22(H.Ltiders、 M I、
p.110f.、§74;「静谷口録」no.617)
(33)サーンチー考占博蔵仏陀像台座銘文 (Stya Sharava、 Dαted K2ushail∫ηsεrψri(,1・ls. Parava
Prakashan、 New Delhi、1933、 no.58、 p.51、)
(34) マトゥラー博蔵阿弥陀仏像(Acc,No.77.30)銘文(/bid. no.65、 pp.58.59,)
(35) 1 lathura.N luseum Pillar−base Brahmi Inseription of the year 33(/bid..no.78, pp.68−69.)一
(36) Charsada出ヒ舎利㌢X器銘文〔E∫. XXIV. p,8rf.:靖φ谷目録!17:31)℃ The year:3〔〕3, And in su〔・h and such〔year)as hei・p specified a i eliquary is causedτo be consecrated by us. Thus the novi℃e
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