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― ― 実用的自由と道徳的自由

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 『純粋理性批判』における自由論の典拠としては、主として、「アンチノミー」章(A405- 567/B432-595)のいわゆる「第三アンチノミー」に関する論述と、「規準」篇(A795-831/

B823-59)とがある。筆者は近来、それらの箇所での「自由」に関する論述を統合的に解釈す ることに従事しているが、その成果として次のことを明らかにした(1)

 すなわち、「アンチノミー」章の議論においては、当初「超越論的自由」は、「神」の世界 創造の活動として、世界全体の創始にかかわる「合理的宇宙論」の「思弁」のコンテクスト で導入された。だがその後議論は「実践」のコンテクストへと転換し、「超越論的自由」は、

「実践的自由」の不可欠の一契機として、われわれ人間が「世界経過のただなかでさまざまな 系列を、因果性からみて自己から始まるようにする」活動である「行為の絶対的な自発性」

として捉えなおされた。こうした「実践的自由」を筆者は、「感性界」と「道徳的世界」とし ての「可想-叡知界」との全体をその都度の行為の「いま、その瞬間」において創造する、

われわれ人間各自の根源的な活動として解釈した。その際「実践的自由」のうちには、自己 の「幸福」の実現への活動が含まれることが確認された。

 以上を表現しなおすなら、前者の「超越論的自由」とは、〈思弁的な超越論的自由〉であ り、後者の「実践的自由」とは〈実践的な超越論的自由〉であって、この後者においては、

幸福の実現にかかわる〈実用的自由〉と、道徳性の実現にかかわる〈道徳的自由〉(一層正確 には〈道徳的-超越論的自由〉)との二契機が連関しているという見通しが得られた。

 小論の意図するところは、〈実践的な超越論的自由〉が含むこうした連関を、「規準」篇の テクストを解釈することによって確証することである。

 「規準」篇の前書きには、「経験の限界を超えて」いるものの「積極的な諸認識」への「抑 えがたい欲望」に駆られた「純粋理性」が、「思弁」から「実践」へと転換する様子が述べら れている(A795f./B823f.)(2)

 具体的には、「私は〈規準〉ということで、或る種の認識能力一般を正しく使用するための アプリオリな諸原則の総括を理解している」と、「規準」という用語を導入したうえで、次の

実用的自由と道徳的自由

―「規準」篇の自由論への一視角―

湯 浅 正 彦

(2)

ように言われる。

「およそ純粋理性の正しい使用が存在していて、そこでは〈純粋理性の規準〉も存在し なければならないとすれば、それは思弁的な理性使用ではなく、実践的な理性使用にか かわるであろう。それをわれわれは、いまや探究するとしよう。」(A796f./B824f.)

 探究の標的は、明らかに、「実践的な理性使用」における「規準」、すなわち「純粋な実践 的理性」を「正しく使用するためのアプリオリな諸原則の総括」である。やがて見るように、

その内実は主として「道徳的諸法則」であるが、実際には「実用的諸法則」へも関連するの であり、前者が「道徳性」を、後者が「幸福」を志向するがゆえに、両者の連関とその根拠 が問題とされるであろう。それが「最高善」なのであるが、ともあれ、こうした両種の法則 への関連における自由として、道徳的自由と実用的自由が存することが察知されるであろう。

 さて、「規準」篇は三章から成っていて、それらの表題は順に以下の通りである。

「われわれの理性の純粋な使用の最終目的について」

「純粋理性の最終目的の規定根拠としての〈最高善の理想〉について」

「私念、知識と信〔信仰〕について」

 これによれば、「純粋な使用」における「われわれの理性」、すなわち「純粋理性」には「最 終目的 der letzte Zweck」が存在し、その内実の「規定根拠」こそが「最高善の理想」であ ることになろう。そしてそれは、周知のように、「神」と「霊魂の不死」(「来世」)に関する

「道徳的神学」、さらに「理性信仰」へと導くのである。―こうした趣旨の論述を、全面的 にではなく、小論の意図を達成するに必要な範囲において、以下では考察する。

(1)さて「規準」篇第一章は、全部で九つの段落から成っている。最初の四つの段落にお いては、「その解決が〈純粋理性の最終目的〉をなすような諸課題」として、あるいはむし ろ、そうした「課題」が関連する「対象」として「意志の自由、霊魂の不死〔すなわち来 世〕、神の現存在」という三つが挙げられて、そうした諸対象に「純粋理性」がかかわる際の

「関心」―それらの対象が「純粋理性」にとってもつ「重要性」―が「思弁的」なもので はなく「実践的」なものであると論じられる(A797-800/B825-28)。

 そのうえで、第五段落では、「実践的であるのは、自由によって可能であるものすべてであ る」と宣言されて、「われわれの自由な選択意志の行使」において、「幸福」という「唯一の 目的」の達成を目指す「実用的諸法則」―これに関しては後述する―から、「道徳的諸法 則」が区別され、こう言われる。「それに対して、〈その目的が理性によって完全にアプリオ リに与えられており、経験的に条件づけられた仕方でではなくて端的に命令するような、純

(3)

粋な実践的諸法則〉ならば、純粋理性の産物であることになろう。だがそれは道徳的諸法則 であって、だからそれだけが〈純粋理性の実践的な使用〉に属し、〈規準〉を許すのである」

(以上、A800/B828)。これは、探究の標的である「規準」の内実をなすのが、「純粋な実践的 諸法則」としての「道徳的諸法則」であることを示しているであろう。それをわれわれが自 己の「原則」とすることによってのみ、「純粋理性の実践的な使用」は「正しい」仕方でなさ れ、〈何が行なわれるべきか〉に関する「認識」、すなわち―「理論的認識」ないしは「思 弁的認識」ではなくて―「実践的認識」を達成しうるのであろう(vgl.A633ff./B661ff.)(3)  第六段落は、本章の前半のまとめとして、こう述べている。

「かくして、純粋哲学と呼びうるような作業における純粋理性の装備全体は、実のとこ ろ、上述のような三つの問題だけに向けられているのだ。だがこれらの問題そのものに は、これまた一層高遠な意図があって、それはすなわち〈意志が自由であり、神と来世 とが存在する場合には、何を行なうべきであるか〉である。ところでこれは、最高目的 den höchsten Zweck への関連におけるわれわれの振舞いにかかわるのだから、われわれ の理性を整備するにあたっての〈知恵をもって weislich われわれを管理する自然〉の最 終の意図は、本来は〈道徳的なもの〉に置かれていたのだ。」(A800f./B828f.)

 最後に触れられている〈自然目的論〉とも言うべき見解に関しては、ここでは立入ること を控えよう。ともあれ、「われわれの理性」ないしは「純粋理性」の「使用」が最終的に向け られている目的(意図)は、「道徳的なもの」であり、「意志が自由であり、神と来世とが存 在する場合には、何を行なうべきであるか」という問いかけへの答えは、「道徳的」に行為し て生きる―そのためには、先の「道徳的諸法則」を自己の「原則」とすることが決定的な 要件であろう―べきだということになるであろう。ここで「最高目的」(当面「最終目的」

と同一視しておく)の核心は「道徳的なもの」にあると見ざるをえないであろう。

 第七段落は、註も含めて、問題含みである。それは、『純粋理性批判』の哲学的立場である

「超越論的哲学」―それゆえ「純粋理性の批判」は「超越論的批判」とも言われる(A12/

B26)―と、目下の「純粋理性の実践的な使用」とが異質であるという主張だからである。

いわく、「すべての実践的な概念は、〈適意ないしは不適意の、すなわち快ないしは不快の、

諸対象〉へとかかわり、だから少なくとも間接的には、われわれの感情の諸対象へとかかわ (4)。だが感情は諸物を〈表象する力〉ではなく、〈認識の力〉総体の外に存するのだから、

〈快ないしは不快へと関連するかぎりでの、われわれの判断の諸要素、だからまた実践的な判 断の諸要素〉は、もっぱらアプリオリな純粋認識だけにかかわる超越論的哲学の総括のうち には属さないのである。」(A801/B829 Anm.)

 カントは「超越論的哲学には無縁な対象」たる「実践的なもの」を扱うにあたって、「ここ

(4)

でひょっとして心理学的、すなわち経験的となるかもしれないものを全面的に退ける」とい う方針を表明している(A801/B829)。とはいえカントが、批判的な形而上学の構想のうち に、「自然の形而上学」と区別しつつ、「純粋な道徳学」である「人倫の形而上学」を明確に 位置づけていることは周知のところだろう(vgl.A841/B869)。だがこの問題に立入ることは 控えよう(5)

(2)「規準」篇の残り二つの段落は、悪名高い「規準問題 Kanonproblem」を惹起する(6)。「実 践的であるのは、自由によって可能であるものすべてである」と宣言した手前、勿論問題と されるのは「実践的自由」であると期待されるであろう。だが、先行する「アンチノミー」

章ですでに「実践的自由」が扱われており、それと「超越論的自由」との区別と関連が問題 にされていたのである。そこでの議論と、「規準」篇の目下の箇所での二種類の「自由」に関 する議論が整合しないのではないか、というのが「規準問題」である。

 目下の箇所では、カント自身の論述に従うなら、「実践的自由」が「超越論的自由」から徹 底的に区別され、当面のコンテクストで問題とされるべきは「実践的自由」のみであって、

「超越論的自由」は「思弁」のコンテクストにのみ属し、「アンチノミー」章ですでに議論済 みであるから、再度取り上げる必要はない、と言われる。

 これは、「規準」篇の基調である「思弁」から「実践」へのコンテクストの転換とも符合す ることは勿論である。本節の(1)で見たように、標的である「規準」の内容は「純粋な実 践的諸法則」としての「道徳的諸法則」であることが確認された。それゆえ、「最終目的」に 関連する三つの問題のうちの「自由」の問題が「実践的自由」に関するものとして処理され、

残り二つの問題に的が絞られることになる。そこで、「規準」篇第一章(第九段落)の末尾で はこう言われる。

「それゆえわれわれは、〈純粋理性の規準〉においては二つの問題だけを取り扱わねばな らないのだが、それらの問題は〈純粋理性の実践的な関心〉にかかわるものであり、よっ てそれらの問題に関しては〈純粋理性の使用の規準〉が可能でなければならない。〈神は 存在するか〉、〈来世は存在するか〉というのが、それらの問題である。超越論的自由に 関する問題は、思弁的知識にかかわるだけであって、〈実践的なもの〉が問題である場合 には、われわれはそうした超越論的自由をまったくどうでもよいこととして無視できる。

この超越論的自由に関しては、〈純粋理性のアンチノミー〉においてすでに十分な論究を 見出すことができる。」(以上、A803f./B831f.)

 しかし、実は「アンチノミー」章において問題にされる「実践的自由」は、不可欠の「内 容」として「超越論的自由」を含むものであった(7)。可能な場合は次の二つであろう。第一と

(5)

しては、「規準」篇の「実践的自由」が「アンチノミー」章の「実践的自由」と同一である場 合であって、すると前者において排除される「超越論的自由」と、後者において内容として 包含される「超越論的自由」とは異なるものでなければならないだろう。第二としては、逆 に両箇所での「超越論的自由」が同一である場合であって、すると両箇所での「実践的自由」

は異なるものでなければならないだろう(8)。筆者は第一の場合が実相であると考えるが、それ を証示するためには、「規準」篇の当該箇所の論述を立入って考察しなければならない。

(3)第八段落では、次のように言われる。

「[1]そこで、まず述べなければならないのは、私は当面自由の概念をただ実践的な意 味において用いるであろうということ、超越論的な意味での自由の概念の方は―諸現 象の説明根拠として経験的に前提することはできないし、そのものとしては理性にとっ ての一つの問題であるが、これは―この際は処理済みとして脇に除けて置くというこ とだ。

[2]つまり、選択意志は、感性的衝動によってしか、すなわち感受的 pathologisch にし か規定されえない場合には、たんに動物的(arbitrium brutum)である。だが感性的衝 動からは独立に、だからまた〈理性によってだけ表象されるような諸動因 Bewegursa- chen〉によって規定されうるような選択意志の方は、自由な選択意志(arbitrium  libe- rum)と呼ばれるのであり、そして、この自由な選択意志と、根拠としてであれ、帰結 としてであれ連関するすべてのものは実践的 Praktisch と呼ばれる。

[3]実践的自由は、経験によって証明されることができる。というのは、次のようなこ とがあるからだ。すなわち、たんに〈刺激する、つまり感官を直接に触発するもの〉だ けが人間の選択意志を規定するわけではなくて、われわれには、〈遠く離れた仕方であっ ても有益ないしは有害であるようなものの表象〉によって、〈われわれの感性的な欲求能 力への諸印象〉を克服するような能力があるということだ。だが、〈われわれの状態全体 からみて望ましい〔欲求する価値がある〕、すなわち善く有益であるもの dem,  was  in  Ansehung unseres ganzen Zustandes begehrungswert, d.i. gut und nützlich ist〉につい てのこうした熟考は、理性に基づいている。

[4]だからまたこの理性は、〈命法、すなわち自由の客観的な法則、であるような諸法 則〉を与えるのであり、それらの法則は、おそらくけっして生起しないとしても、〈何が 生起する〔=行なわれる〕べきであるか〉を言明するのであって、この点で、〈何が生起 するか〉を扱うだけの自然法則からは区別されるのであり、それゆえ、それらの法則は 実践的法則とも呼ばれるのだ。」(A801-3/B829-31. 参照の便宜のための[ ]付き数字の

(6)

挿入と改行は引用者による。以下同様。)

 続く第九段落(先に引用した末尾の箇所を除く)は次のようである。

「[5]しかしながら、純粋理性そのものが、諸法則を指令する vorschreibt そうした働 きにおいて、またもや他からの影響によって規定されているのではないか、また、〈感性 的衝動に関して自由と呼ばれるもの〉が、一層高次の遠く離れた作用原因からみると、

またもや自然であるのかもしれないではないか、―そうしたことは、われわれは差当 り理性に〈振舞い Verhalten の指令〉を問い求めているだけなのだから、〈実践的なも の〉においては、われわれにまったく関係がない。そうしたことは、たんに思弁的な問 いなのであって、それをわれわれは、われわれの意図が行状〔行ない、ないし不作為〕

Tun oder Lassen へと向けられているかぎりにおいては、脇に除けて置くことができる。

[6]かくしてわれわれは、実践的自由を経験によって自然原因の一つとして認識するの であり、つまり〈意志の規定における理性の因果性〉を認識するのである Wir erkennen  also die praktische Freiheit durch Erfahrung, als eine von den Naturursachen , nämlich  eine Kausalität der Vernunft in Bestimmung des Willens。にもかかわらず、超越論的自 由の方は、〈その理性そのものが(諸現象の一つの系列を開始するその因果性からみて)

感性界の規定する原因すべてから独立であること〉を要求するのであって、そのかぎり において、自然法則に、だからまたすべての可能な経験に反していると思われる scheint のであり、だから一つの問題であり続ける。しかしながら、実践的な使用における理性 には、そうした問題は属さない」(A803/B831)。

 以上の箇所における「実践的自由」をめぐる諸々の不可解さを解く鍵は、先にカントが設 定していた「道徳的諸法則」と「実用的諸法則」との区別と連関にあると思われる。前者に ついてはすでに見たので、後者について見るなら、カントはこう述べている。

「だが、われわれの自由な選択意志の unserer freien Willkür 行使の諸条件が経験的であ るとすれば、その場合には理性は、統制的使用しかもちえないのであって、〈経験的諸法 則の統一〉を生じさせるのに役立つだけである。たとえば、利口の教説〔処世訓〕der  Lehre der Klugheit においては、われわれの諸傾向性によってわれわれに課された諸目 的のすべてを、唯一の目的、幸福 den einigen [Zweck], die Glückseligkeit へと合一する こと、また、それに到達するための諸手段を調和させること、これが理性の業務全体を なすのである。理性がそのために提供しうるのは、〈感官によってわれわれに推奨される 諸目的を達成するための、われわれの振舞いに関する実用的諸法則〉でしかなく、だか ら完全にアプリオリに規定された純粋な法則を提供することはできない。」(A800/B828)

 ここで、われわれが「幸福」に関して行使する「選択意志」も「自由」であると言われて

(7)

いることを見逃してはならないだろう。すなわち、〈実用的自由〉にほかならない。この場合 の「自由」における「理性の業務全体」からすれば、そこに示されている「理性」の働きと は、「唯一の目的」としての「幸福」の概念を構成し(9)、それによって、「われわれの諸傾向性 によってわれわれに課された諸目的のすべてを……合一する」こと、かつまた「それに到達 するための諸手段」を、それらが「調和」するような仕方で案出することであろう。勿論わ れわれの各自に、その「感官によって……推奨される諸目的」を与えるような「傾向性」(=

「習慣的にして感性的な欲望」(VII  S.251))としていかなるものが与えられ、それを達成す るのにいかなる「手段」(さまざまな物事とかかわる行為)が必要であるか、は「経験的」な

「諸条件」として、「経験」によってしか認識されえないであろう。だがここで行使される「理 性」にもとづく「自由」が「実用的」ではあれ「諸法則」を与えること、それによって「幸 福」という「唯一の目的」へと「経験的」な「諸条件」が制限され方向づけられること(「統 制的使用」)、それによってこそ「経験的」ではあれ「実用的諸法則」のもたらす「統一」を 具現した「振舞い」の全体としての一定の生き方が実現しうるであろうこと、は否定しよう がないであろう。

 思うに、「実践的自由」とは、こうした実用的自由を不可欠の一契機として含むものであろ う。そしてそれこそが、目下の箇所ではカントの念頭に置かれていると思われる。―こう した観点から見直すならば、「自由な選択意志」とは、「感性的衝動からは独立に、だからま た〈理性によってだけ表象されるような諸動因〉によって規定されうる」と言われはするが

([2]を参照)、そこでは「感性的衝動」つまり「傾向性」との関連が断滅されるというので はなく、「たんに〈刺激する、つまり感官を直接に触発するもの〉」、換言すれば「われわれの 感性的な欲求能力への諸印象」の存在をあくまで前提しつつも、それを「克服するような能 力」([3]を参照)としての、実用的自由―「感性的衝動に関して自由と呼ばれるもの」

([5])―を意味するであろう。その証拠として、この「能力」がこうした感性的衝動を克 服しうる根拠として挙げられている「われわれの状態全体からみて望ましい、すなわち善く 有益であるもの」([3])とは「幸福」と、それへの手段的な善いもの=有益なものを指示す るものにほかならず(10)、それへと選択意志を規定する根拠としての「理性によってだけ表象さ れるような諸動因」とは「実用的諸法則」であり、これがすなわち「遠く離れた仕方であっ ても有益ないしは有害であるようなものの表象」([3])を生じさせると解しうるであろう。

 以上のような見方からすれば、「実践的自由は、経験によって証明されることができる」と いう[3]の冒頭の文言はなんら奇異ではないであろう。「実践的自由」の一契機としての実 用的自由は、「幸福」を熟考しつつその都度の欲望を行為の動機として機能させる/機能させ ないという、自他の「経験」によって証明されることができるであろう(11)。ただし、その場合

(8)

の「経験」は、なんらかの物事を対象として知覚しつつ判断的に規定するという「理論的認 識」ではなく、それを前提とはしながらも、さまざまな物事とかかわりつつ一定の目的を追 求したり、場合によって忌避する自他の行為に関する理解という意味での、言うならば「実 践的」な経験であろう(12)。それは、「実践的法則」としての「命法」によって「何が生起すべき か」、あるいはむしろ「何が行なわれるべきか」を自覚することとしての「実践的認識」にも とづく行為遂行であろう(以上、[4]を参照)。

 しかしながら、こうして遂行され生起したその都度の行為は、当該の行為主体がいかなる

「幸福」の概念を構成しつつその際の目的を立て追求したか、それを内実とする、「アンチノ ミー」章で言うところの「経験的性格」、にもとづいて説明されるのであり、そのかぎりそれ は「自然原因」による説明なのである(13)。もとより「経験的性格」の背後には、それを生じさ せた「理性の因果性」としての「可想-叡知的性格」が存してはいるが(14)、当面の箇所のよう に、「実践的自由」の一契機としての〈実用的自由〉を主として念頭に置くかぎりにおいて は、「われわれは、実践的自由を経験によって自然原因の一つとして認識する」([6])と言わ れることになるのであろう。だがそうした「実践的自由」がなおも「意志の規定における理 性の因果性」と言われることには、その背後に潜む「可想-叡知的性格」、ひいては「純粋理 性」の働きとしての「自由」、すなわち〈道徳的自由〉が暗示されているであろう。

 思うに、やはり実用的自由は、われわれ人間の「実践的自由」の、不可欠ではあれ一契機 でしかないであろう。先に見たようにカントは、「実用的諸法則」に、「純粋理性の産物」で あるような「純粋な実践的諸法則」としての「道徳的諸法則」を対置しているのであって、

それにあっては、「その目的が理性によって完全にアプリオリに与えられており、経験的に条 件づけられた仕方でではなくて端的に命令する」と強調している。そうした「純粋理性」に もとづきつつ、「端的に命令する」「道徳的諸法則」を「原則」として「遵守する」ことにこ そ、まさにわれわれの〈道徳的自由〉が存するであろう。

 よって、[5]の冒頭の「純粋理性そのもの」の「諸法則を指令する働き」に言う「諸法則」

には、当然ながら「実用的諸法則」のみならず「道徳的諸法則」も含まれているであろう(15)  以上からするならば、[1]、[5]や[6]において切り捨てられる「思弁的な問い」に属す る「超越論的自由」とは、「アンチノミー」章の当初に問題にされた「合理的宇宙論」の「思 弁」に属するもの―すなわち〈思弁的な超越論的自由〉と先に表記したもの―であると 見るべきであろう。

 かくして二種の「諸法則」の連関、すなわち実用的自由と道徳的自由との「実践的自由」

における連関、ひいては、「幸福」と「道徳性」との連関が、問われるべき事柄として浮上し たところで、「規準」篇の第二章(その一部)の考察へと移行しよう。

(9)

 「規準」篇第二章の冒頭では、「理性」の使用における「思弁」から「実践」への転換を再 確認しつつ、「理性」の「関心」という観点から、差当り課題をこう立て直している。

「はたして純粋理性は、実践的な使用においても見出されうるかどうか、はたして純粋 理性はその〔実践的な〕使用において、〈われわれが今しがた挙げた、純粋理性の最高諸 目的 die höchsten Zwecken〉を達成するような諸理念に結びつき、かくして純粋理性の 実践的関心の観点からして、〈純粋理性が思弁的関心に関してはわれわれにまったく拒絶 したこと〉を許し与えうるかどうか」(A804/B832)。

 そこで「関心」について、続けてこう言われる。

「私の理性のすべての関心(思弁的関心ならびに実践的関心)は以下の三つの問いのう ちに一括されている。

  1.私は何を知りうるか、

  2.私は何を行なうべきか

  3.私は何を希望してよい〔希望することが許される〕か」(A804f./B832f.)

 ここからは、「理性的存在者一般」ではなく、「私」を主語に立て、「自己」との抜き差しな らぬ関係において探究を遂行しようという構えが看取しうるであろう。

 ともあれ、「たんに思弁的」な第一の問い関しては、とりあえず言えば、「二大目的」たる

「神」と「来世」(不死の霊魂たちの構成する世界)に関する「知識」は原理的に否定される

(A805/B833)。勿論ここでの「知識」とは、思弁的ないしは理論的な「認識」のことである。

 「第二の問いは、たんに実践的である。この問いは、〈実践的な問い〉としてたしかに純粋 理性に属しうるが、その際には〈超越論的〉ではなくて〈道徳的〉であって、だからこの問 いは、われわれの批判それ自体そのものが扱うことではありえない。」(ebd.)―道徳にか かわる「実践的な問い」は超越論的哲学の所管ではないという、先にも披歴された見解であ るが、にもかかわらず、そうした「道徳的」問題が「純粋理性に属しうる」ことは認められ ていることに注意すべきである(16)

 「第三の問い、すなわち〈私がいま、行なうべきことを行なうならば、私はその際何を希望 してよいか〉という問いは、同時に理論的かつ実践的であって、実践的なものはただ手引き として理論的な問いの回答へと導き、そして後者の問いが高まるならば、思弁的な問いの回 答へと導くのである。」(ebd.)

 「希望」への問いは、どのような意味で「同時に理論的かつ実践的」なのであるか、あるい はむしろ、「実践的なもの」がかの「二大目的」に関する「理論的な問い」ひいて「思弁的な

(10)

問い」の「回答」へと導くとはいかなる意味か。―取り敢えず見通しを言えば、これは「最 高善」による「道徳的神学」の根拠づけ、さらには後者を基礎とした「超越論的神学」・「自 然的神学」といった「思弁的神学」の展開を示唆しているであろう(vgl.A814ff./B842ff.)。

ともあれ「最高善」へとアプローチするために、「道徳性」と「幸福」との連関が立入って考 察されることに注目しよう。

(1)カントは、まずもって「幸福」を取り上げ直すのであり、上の引用箇所に直ちにこう 続けられる。

「というのも、次のような事情にあるからだ。すなわち、およそ希望することは〈幸福〉

へとかかわるのであり、そうした希望することが〈実践的なもの〉と人倫法則 das  Sit- tengesetz に関わってあるあり方は、知識と自然法則 das Naturgesetz が諸物の理論的認 識に関わってあるあり方と、まったく同じである。前者のあり方が最終的に帰着するの は、〈(可能的な最終目的 den letzten möglichen Zweck を規定するような)或るものが 存在する、なぜなら、或ることが行なわれる〔=生起する〕べきであるから〉という推 論である。後者のあり方が最終的に帰着するのは、〈(最上の原因 oberste  Ursache とし て作用する)或るものが存在する、なぜなら、或ることが生起するからだ〉という推論 である。」(A805f./B833f.)

 この難解な文言は、「規準」篇の以下の論述の概要を予示するものであろう。すなわち、

―おそらくは、「諸物の理論的認識」に関しては、その探求において「自然法則」とそれに ついての「知識」が求められるであろう。ひとが「或ることが生起する」ことから出発して、

「最上の原因として作用する」「或るもの」へと到達すれば、そうした探求の終極に到達した ことになろう。―そしてまた、おそらくは、「〈実践的なもの〉と人倫法則」とは「実践的 認識」、あるいはむしろそれに基づく行為、ひいては生き方、において探求されるものであろ う。そのうちで自覚された「或ることが行なわれるべきである」ことから出発して、「可能な 最終目的を規定する」ような「或るもの」―「最高善」(とくには「神」)―へと到達す れば、そうした終極において「幸福」を「希望すること」の根拠が見出されるであろう。

 ともあれ、こうした「幸福」の希求としての生における、「実用的諸法則」と「道徳的諸法 則」=「人倫法則」との区別と関連が、これまた取り上げ直される。

「[7]幸福とは、われわれの諸傾向性のすべてを(その多様性からみて外延的にも、そ の程度からみて内包的にも、また持続からみて永続的に protensive も)満足させること である。

[8]幸福という動因 Bewegungsgrund にもとづく実践的法則を、私は実用的(利口の

(11)

規則 Klugheitsregel)と呼ぶ。だが動因とするのが、〈幸福であるに値する〔相ふ さ わ応しい〕

こと die Würdigkeit, glücklich zu sein〉以外にはないような実践的法則を、そうしたも のであるかぎりにおいて、道徳的(人倫法則)と呼ぶ。前者の法則は、われわれが幸福 に与るようになろうと意欲するなら何が行なわれるべきであるかを助言する raten。第 二の法則の方は、ただ幸福に値するようになるためには、いかにわれわれわが振舞うべ きかを命令する gebieten。

[9]前者の法則は経験的諸原理を根拠とする。というのは、私は経験を介して以外に は、満足させることを意欲するいかなる諸傾向性が現に存在するか知りえないし、それ らの満足を生じさせうるような諸々の自然原因がいかなるものかも知りえないからであ る。

[10]第二の法則の方は、諸々の傾向性ならびにそれらを満足させる自然手段 Naturmit- teln を捨象し、〈理性的存在者一般の自由〉だけを考察し、また、その自由がそのもとで のみ〈幸福が諸原理に従って分配されること〉と合致するような必然的な諸条件を考察 するのであり、だからこの法則は、純粋理性のたんなる諸理念に少なくとも基づくこと がありうるし、アプリオリに認識されうる。」(A806/B834)

 そもそも「幸福」とは「人間の自然本性的な natürlichen 目的」であって、「それを断念す ることなど、有限な理性的存在者一般にできないのと同様、人間にはできない」(VIII S.278

〔Üeber den Gemeinspruch usw.〕)と言われ、「幸福を求める意図」は、「それを、すべての 理性的存在者が総じて自然本性上の必然性 Naturnotwendigkeit に従ってもつと、確実に前提 しうる」(IV S.415〔GMS〕)と言われるのだから、カントにとって「幸福」が人間の生にとっ てもつ根源性と必然性は紛れもない(Vgl. auch VI, S.386, S.387)。よって[8]や[9]に示 されている「実用的」な「実践的法則」は、「われわれが幸福に与るようになろうと意欲する なら何が行なわれるべきであるかを助言する」といった表現が想像させるような軽々しいも のではなく、まさに「自然本性上の必然性に従って」われわれ人間を支配しうることを忘れ てはならないであろう。

 こうした重要な「幸福」に関して二つのことを確認しうるであろう。第一に、[7]によれ ば、先にも述べたように(17)、「幸福」はわれわれ人間の理性によって構想される「理念」として の性格をもつであろう。「われわれの諸傾向性のすべてを(その多様性からみて外延的にも、

その程度からみて内包的にも、また持続からみて永続的にも)満足させる」というのは、各 自が一生、もしくは全時間にわたり無限に追求すべき課題とならざるをえないだろうし、そ れは、「経験」の領野としての「自然」のうちではけっして達成されえず、与えられることの ない対象であることになろう。とはいえ第二に、[9]によれば、各自の「幸福」の追求は「経

(12)

験」の領野たる「自然」においてのみ行なわれうる。「幸福」の実質をなす種々の傾向性の存 在とそれを満足させる自然原因は、「経験」をつうじてしか認識しえないからである。

 このように「実用的諸法則」は「経験的諸原理」を根拠とするのだが([9])、それと対比 して「道徳的」な「実践的法則」たる「人倫法則」を特徴づける際にも、いまやカントは、

「幸福」と関連づけつつ「幸福に値すること」のみを「動因」とすると特徴づけていることは

([8])きわめて興味深く、幸福の根源性 ・ 必然性を証しているであろう。だが無論それは同 時に、きわめて当惑させることでもある。―[10]に言うように、そこで考察されるのが

「理性的存在者一般の自由」だけであるとすれば、そして「諸々の傾向性ならびにそれらを満 足させる自然的手段」が度外視されるとすれば、「幸福であるに値する」と言われる場合の

「幸福」についての理解の手段までそこでは度外視されるのであろうか。そもそもなぜここで は、「アンチノミー」章で言われたように、「純粋理性の対象」としての「善」が真先に言及 されないのであろうか(A548/B576)。また、「幸福であるに値すること」のみが「動因」で あるとすれば、道徳的諸法則に従う動機も所詮は「幸福」、ひいて経験的なものであること

(いわゆる「幸福主義」)にならないであろうか。

 好意的に見るならば、[10]では、「傾向性」や「自然的手段」という経験的なものを度外 視することをもって、道徳的諸法則が「純粋理性のたんなる諸理念に少なくとも基づくこと がありうるし、アプリオリに認識されうる」ことを確保しているのでもあろう。だが「純粋 理性のたんなる諸理念」とは「神」と「来世」であるとすれば、それに「基づく」とは具体 的にはどのようなことなのか。それが道徳的法則を遵守するよう動機づけるというのであれ ば、『人倫の形而上学の基礎づけ』以降の批判期道徳哲学の核心である、純粋実践理性の自己 立法としての「自律」に真っ向から対立する「他律」なのではなかろうか。―しかし以上 の件に関しては、小論の最後でいくらか述べるとしよう。

 ともあれ、議論の方向としては、「理性的存在者一般の自由」、それが基づく道徳的諸法則、

さらに、それに従うことによって達成される道徳的な「善」(道徳性)と、「幸福が諸原理に 従って分配されること」との合致が主題化され、それを可能にする「必然的な諸条件」が問 われることになる。

 かくして、われわれ理性的存在者各自の達成しうる道徳性(=「幸福であるに値するこ と」)と当該「幸福」の実現との必然的な連関(「最善の世界」としての「来世」)、それを可 能にする必然的な条件としての世界創造者である「神」という、要するに―「派生的な最 高善」と「根源的な最高善」を含む―「最高善」という主題へと向けて議論が展開しつつ あることを察知しうるであろう。

(13)

(2)しかしながら、カントは続く二つの段落で、「純粋な道徳的諸法則が現実に存在するこ と」の容認について語り、この「道徳的な理性諸原理」が「客観的実在性」をもつことを主 張するのだが、これをどのように受け止めるべきかは熟慮を要するであろう。すなわち、ま ずこう言われる。

「私は次のことを容認する annehmen。すなわち、完全にアプリオリに(〈経験的な諸動 因、すなわち幸福〉を顧慮することなく)行状〔行ないと不作為〕を規定する、すなわ ち、〈理性的存在者一般の自由〉の使用を規定するような、純粋な道徳的諸法則が現実に 存在すること、そしてそれらの法則は、(他の経験的諸目的を前提してたんに仮言的に hypothetisch ではなく)断然 schlechterdings 命令するのであり、だからあらゆる点にお いて必然的であるということ、これを容認するのである。この命題を私は正当に前提す ることができるのであり、それは、たんに最高に啓蒙された道徳学者たち Moralisten の 証明を引き合いに出すだけでなく、あらゆる人間がそうした法則を判然と思考しようと 意欲する場合の、そうした人間の人倫的判断を引き合いに出すことによってである。」

(A807/B835)

 ここで「道徳的諸法則」は「純粋」であって、「〈経験的な諸動因、すなわち幸福〉を顧慮 することなく」「完全にアプリオリに……行状を規定する」こと、よって振舞い方を「断然命 令するのであり、だからあらゆる点で必然的である」ことがきわめて鮮明に打ち出されてい る。批判期道徳哲学における「定言的命法」としての道徳的法則という見解と重なる主張で はある(18)。だがそれだけに、先に見た「幸福であるに値すること」を「動因」とするという見 方とは抵触する可能性があるだろう。また「道徳的諸法則」が「〈理性的存在者一般の自由〉

の使用を規定する」という「自由」の捉え方は、「自律」としての「自由」の見解にまで徹底 していないようにも思われよう。―しかし、こうした件についても、本論の最後で取り上 げよう。

 なによりも、こうした道徳的諸法則が「現実に存在する」ことを容認するための正当な根 拠として、「道徳学者たち」と「あらゆる人間」の見解に、すなわち哲学的通説と常識に訴え られていること―これは、「一般に受け入れられている信念」としての「エンドクサ」を基 盤とするアリストテレス的な哲学の方法を採用していると見ることもできよう(19)―が、「純粋 理性」に徹頭徹尾依拠する批判期道徳哲学との相違として際立っている。勿論その際「道徳 学者たち」には「最高に啓蒙された」と、「あらゆる人間」には、「そうした〔道徳的〕法則 を判然と思考しようと意欲する場合の」と、限定が付けられてはいるが、こうした言わば理 想的な条件が現実に満たされているかどうかを、どのように確認することができるであろう か。もしそれがなんらかの「経験」に訴えて行なわれるとすれば、それはどのような「経験」

(14)

であろうか。―こうした疑問に次の段落は或る種の答えを与えるように思われる。すなわ ち、こう言われる。

「かくして純粋理性は、たしかにその思弁的な使用においてではないが、やはり或る種 の実践的な使用、つまり道徳的な使用において、〈経験、すなわち、人間の歴史において 人倫的な諸指令に適合して見出されることができるであろう諸行為〉の可能性の諸原理 を含んでいるのである。というのも、次のような事情があるからだ。すなわち、純粋理 性は、そうした諸行為が行なわれるべきである sollen と命令するのだから、そうした諸 行為は行なわれることもできるのでなければならない müssen……können のであり、だ から〈特殊な種類の体系的な統一、つまり道徳的な統一〉が可能でなくてはならないの だが、にもかかわらず、〈体系的な自然統一〉の方は、理性の思弁的な諸原理に従って証 明されることはできなかったのである。なぜなら、理性は、たしかに自由一般に関して 因果性をもつが、全体としての自然に関しては因果性をもたず、道徳的な理性諸原理は たしかに〈自由な諸行為〉を生み出しうるが、自然諸法則を生み出すことはできないか らだ。したがって純粋理性の諸原理は、〈その実践的な、だが、とくには道徳的な使用〉

において客観的な実在性をもつのである。」(A807f./B835f.)

 ここには、「人間の歴史において人倫的な諸指令に適合して見出されることができるであろ う諸行為」を「経験」、言うならば〈「人倫的」ないしは「道徳的」な「経験」〉として捉える 注目すべき観点が提示されている。そうした「道徳的」な「経験」の「可能性の諸原理」、す なわち「道徳的な理性諸原理」である「道徳的諸法則」、を提供するものこそが、「道徳的な 使用」における「純粋理性」なのである。「理性は、たしかに自由一般に関して因果性をも つ」、「道徳的な理性諸原理はたしかに〈自由な諸行為〉を生み出しうる」と言われ、こうし た「純粋理性」の与える「道徳的な理性諸原理」は、「客観的な実在性をもつ」と結論される のは、してみれば、上述の「経験」としての「人間の歴史」におけるそうした「道徳的」で

「自由」な諸行為に訴えることによって根拠づけられるというのであろう。だが、「理性の事 実」ならぬ「歴史」の事実に訴えるこうした道徳的法則の―そしてまた、道徳的自由の―

実在性の証明の実行には、かなりの困難が予想されるであろう。ともあれ、この問題系の追 究のためにはカントの歴史哲学的な思考の立入った考究が必要であろうが、それは別の機会 を待たねばならない。

 ちなみに、当為 sollen から必然的な能為 können を導出する論理が提示されているのは、

批判期道徳哲学の周知の見解の先取りだろうが、「道徳的」な「体系的統一」と「自然」の

「体系的統一」とが対比され、それぞれ「道徳的な理性諸原理」と「理性の思弁的な諸原理」

とに関連づけられつつ、前者は可能だが、後者は不可能であると言われている。思うに、「自

(15)

然」の「体系的統一」は、「理性の思弁的な諸原理」にもとづいてではなく、また理論的な

「自然認識」の対象としての「自然」に関してではなく、むしろわれわれ人間がそのうちで

「幸福」を達成しうる自然原因の体系―後に「幸福の体系」と呼ばれる(A809/B837)―

として問題にされるのであろう。

(3)以上を踏まえて、「規準」篇第二章の続く箇所では「最高善」が正面から本格的に論究 される。しかしその全面的で詳細な考察は別の機会に譲り、小論に関連する二つの論点に関 してだけ暫定的な所見を述べることで、当面の結びとしなければならない。

 第一に、「最高善」における道徳性と幸福とのあるべき連関に関して、次のように言われ る。

「すべての私的意図 Privatabsicht から自由な理性でさえ、すべての幸福を他者たちに分 配しなければならない者の立場に自己を置いて、しかも自分自身の利害関心を考慮しな いのであれば、別様に判断することはできない。というのも、次のような事情があるか らだ。〔最高善としての世界の〕実践的な理念のうちでは〔道徳性と幸福という〕両方の 部分は本質的に結合されているのだが、とはいえ〈道徳的心術〉が条件として〈幸福に 関与すること〉をはじめて可能にするというふうにであって、逆に幸福への見込みが道 徳的心術を可能にするのではない。というのは、後の場合には心術は道徳的ではないだ ろうし、だからまた幸福全体……に値しないでもあろうからだ。」(A813f./B841f.)

 すなわち、「すべての幸福」もしくは「幸福全体」を公正に分配する「理性」は、「〈道徳的 心術〉が条件として〈幸福に関与すること〉をはじめて可能にする」という仕方で「両方の 部分が本質的に結合されている」ことを要求するというのである。道徳性の幸福に対する決 定的な優位がここには明示されている。よって、道徳性を実現すべき「道徳的諸法則」なら びに道徳的自由と、幸福を実現すべき「実用的諸法則」ならびに実用的自由との連関に関し ても、前者が後者を条件づけ制約しつつ、「最高善としての世界」を実現すべき「実践的諸法 則」ならびに「実践的自由」のうちに組み込み統合するという構図を、ここから看取するこ とができるであろう。とはいえ、こうした統合そのものが「理性」の要求であり、つまり理 念的課題であることを忘れてはなるまい。すなわち、「道徳的心術」は「私的意図」や「自分 自身の利害関心」を度外視した場合に顕われるものであって、逆にいえば、そうした「意図」

や「関心」、さらには「幸福への見込み」によって絶えず歪められ損なわれる危険にさらされ ていることが察知されるであろう(20)

 第二に、「規準」篇における、道徳的な行為の実行にとっての「動因」ないしは「動機」の 問題に関しては議論の分かれうるところであろうが、当面次のような文言に注目しておこう。

(16)

「われわれの生き方全体 unser ganzer Lebenswandel が人倫的諸格律に従属することは 必然的である。しかしながら同時に、そうしたことが生じるのは、もしも理性が〈たん なる理念である道徳的法則〉と作用原因―道徳的法則に従った振舞いに〈現世におい てであれ、来世においてであれ、われわれの最高の諸目的に正確に対応した帰結〉を規 定するような作用原因―を結びつけるのではないとすれば、不可能なのである。

かくして神と〈われわれにとっていまは可視的ではないが、希望された世界〉がないと すれば、〈人倫性の輝かしい理念〉も、たしかに賛同と賛嘆の対象ではあるが、決意と実 行のための動機 Triebfedern des Vorsatzes und der Ausübung ではないのである。なぜ ならば、そうした理念は、〈あらゆる理性的存在者に、自然本性的に natürlich、かつま さに同じ純粋理性によってアプリオリに規定されており必然的な、目的全体〉を満たさ ないからだ。」(A812f./B840f. 一字下げない改行と、下線による強調は引用者による。)

 思うに、ここで注意すべきは、なるほど「神」や「来世」に基づいてこそ「道徳的法則」

の遵守(「人倫性の輝かしい理念」)へ向けての、われわれ「理性的存在者」の「決意と実行 のための動機」が成り立つと言われはするが(21)、前者の「神」や「来世」、それによって実現の 可能性が保証される「最高の諸目的」ないしは「目的全体」―道徳性と幸福とのあるべき 必然的な連関―も、結局は「理性が……結びつける」のであり、「まさに同じ純粋理性に よってアプリオリに規定されて」いるということだ。この点を強調するならば、〈理性の自己 活動〉(「自律の自由」のアナロゴン!)というところに帰着するであろう。すなわち、「神」

や「来世」といった「最高善」とは、「純粋理性」がわれわれ理性的存在者に道徳的諸法則を 遵守する動機を与えるために設定した媒体であり、その機能をはたすかぎりで「実在性」が 承認されるべきだと見ることができよう(22)。すると、こうした「神」と「来世」の「実在性」

を承認しえない者は、道徳的諸法則を遵守しえない悪人であることになるだろう。

 しかしながら、これで、批判期道徳哲学との関連における問題が完全に解決したと見るこ とはできないであろう。残された問題として、次の点を指摘だけしておこう。―道徳的法 則に従った〈自己幸福の追求である諸行為〉は、道徳的に善いことでありうるであろう。だ がその際の動機は何であろうか。「道徳的法則への尊敬」であろうか、それとも自己幸福への 欲求であろうか。あるいはむしろ、その場合には、両者が不可分に結合した全体―〈道徳 的に正当化されたかぎりでの自己幸福への欲求〉―としてこそ十全な動機として機能する のではなかろうか(23)

(1)拙論「『純粋理性批判』の自由論―自由の〈時〉としての「いま」」、牧野英二(編)『新 ・

(17)

カント読本』法政大学出版局、2018、150-63頁を参照。

     なお、カントのテクストからの出典や参照箇所の指示は次のように行なう。『純粋理性批判』

に関しては、第一版をA、第二版をBと略記し、頁数をアラビア数字で添え、両版に共通の場 合は併記する。その他のテクストは、アカデミー版カント全集の巻数(ローマ数字)と頁数(ア ラビア数字)を記す。訳文は筆者が作成し、強調はすべて解除した。強調と明瞭さのための〈 〉 の付加と、〔 〕内の補記は筆者による。……は省略した箇所があることを示す。

(2)そこには、『純粋理性批判』第二版の序文で高らかに宣言された「純粋理性の実践的な拡張」

という、「形而上学」におけるカントの根本的な企図が表現されていると言えよう(vgl. BXXIXf.)。

―同じ第二版に属する次の文言も参照すべきである。「形而上学は、その探究の本来の目的と して、神、自由ならびに不死という三つの理念だけをもつ……。この学問がそのほかに従事す ることすべては、この学問にとって、たんに、その諸理念とそれらの実在性へと到達するため の手段として役立つにすぎない。この学問はそれらの理念を……自然を超えていくために用い るのである。」(B395Anm.)

(3)道徳的諸法則を自己の「原則」とすること―すなわち、それらの法則を「遵守する」こと

―については、vgl.A812/B840.  そこでは、「主体の〈行為の根拠〉、すなわち主体の原則」と しての「格律」と、行為とその主体の「人倫性の判定」のための「理念」としての道徳的法則 とが対比されている。―なお、ここにも示されているように、われわれ各自が行為主体とし て「理性的存在者」であることと、たとえば「善い生き方において〈道徳的に立法する理性〉」

(A819/B847)と言われる「純粋実践理性」とは、前者が生きる際の規範的な原理として後者が 機能するという、言うならば不一不二の関係にあることに注意すべきである。

(4)これは、後で本文に登場する「感性的衝動」や「傾向性」、要するにわれわれ人間の欲求ない しは欲望が「適意ないしは不適意、すなわち快ないしは不快」という「感情」に媒介されて「諸 対象」へと関連することを意味するであろう(vgl.B28f.)。人間の行為一般に関する「実践的な もの」は、こうした感性的、ひいては経験的な諸条件へと関連せざるをえないのである。

(5)K. クラーマー(拙訳)「カントによる倫理学の基礎づけにおける形而上学と経験」、坂部恵他

(編)『カント ・ 現代の論争に生きる』下、理想社、2000所収、を参照。

(6)Vgl. D. Schönecker, Kants Begriff transzendentaler und praktischer Freiheit. Eine Entwick︲

lungsgeschichtliche Studie, De Gruyter, 2005.

(7)註(1)に掲げた拙論、さらには、拙論「自由な行為の〈時〉としての「いま、その瞬間」」、

『立正大学文学部論叢』第138号、平成27年、とくに第1節と第2節、を参照。

(8)Schönecker がこの立場である。彼は、発展史的な考察にもとづいてカントの使用する「実践 的自由」の概念を三種類に区分する。「意志の超越論的-実践的自由」、「自然因果性の一形式」

である「自然化された実践的自由」、ならびに「超越論的-実践的自由の客観的実在性が、理論 的な観点からも証明された―実際はそうではないのに―かのように als ob 行為する必然性」

としての「かのような実践的自由」である(op.cit., S.19)。そのうえで彼は、「第三アンチノ ミー」で問題になっているのは第一の「超越論的-実践的自由」であるが、「規準」篇で言及さ れているのは、第二の「自然化された実践的自由」であると見る(op.cit., S.91f.)。にもかかわ らず彼は、「規準」篇においても、「第三アンチノミー」におけると同様、「超越論的-実践的自 由」が「体系的に使用されている」と見る(op.cit.,S151ff.)―しかしこうした解釈の論判に本 論で立入ることはできない。

(9)『人倫の形而上学の基礎づけ』では、「幸福の理念 Idee」と言われる所以である(vgl. IV S.418)。

それは、『実践理性批判』において言われるように、「有限な理性的存在者」に「強制された課 題」を示す(V, S.45)。

(10)カントの以下の文言を参照せよ。すなわち、「利口」とは、「自己自身の最大の幸福のための

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