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ニューディール期におけるフィッシャーの経済政策

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いわゆるオリジナル・シカゴ学派との対比で

Irving Fisher s Economic Policy in the New Deal Period

一As Contrasted with the Original Chicago School一

中 路   敬

1 はじめに      ら,一見失墜したかのように見えていた数量 H シカゴプラン:サイモンズの経済政策の   説が,1930年代と40年代を通じて「口伝」1

概要      の形でシカゴ大学の中で残っていたと主張し 皿 フィッシャーの不況対策         ている。その担い手が,ヘンリー・C.サイモ IV フィッシャーとサイモンズの対立点     ンズ,ロイド・ミンッらの「オリジナル・シ V むすび       カゴ学派」であるという。ケインズ革命の嵐

の中にあって,シカゴ学派は数量説の伝統を 守りっづけ,っいにはマネタリズムの反革命 1 はじめに

に至ったというわけである。

1929年秋の株式市場崩壊とその後の大恐慌    このような見解に対し,1943年から2年間 は,周知のように,当時の経済学の危機でも   をシカゴの大学院で過ごし,1947年に同大か あった。なかでも,最も議論の的になったの   らPh.D.を取得したドン・パティンキンは,

は,経済学と同じだけの歴史をもっ,あるい   シカゴの伝統は,イエールのアーヴィング・

はそれよりも古いとされる貨幣数量説(The  フィッシャーに端を発するものであると示唆 Quantity Theory of Money)であろう。   し,オリジナル・シカゴ学派とフリードマン ミルトン・フリードマンは,この時期に数量   のシカゴとの関連性を低いものと判断してい 説への支持が失墜したと指摘し,数量説が専   る(Patinkin,1969)。

門的な議論の対象に復活するには長い時間が    さらに,トーマス・M.ハンフリー(1971a)

かかったと述べている(Friedman,1956b   は,フリードマンの思想の源泉が,オリジナ p.3)。この指摘には,ケインズによる数量   ル・シカゴ学派ではなく,カール・シュナイ 説へ攻撃の徹底ぶりが念頭におかれていると   ダー(ニューヨーク連銀),ライオネル・エ 理解してよい。フリードマンは,しかしなが   ディー(キャピトルリサーチ社)2,ラフリン・

1 興味深いことに,ケインズもまた,フィッシャーの「貨幣の購買力」(Fisher,1911)への書評(Keynes,

1911)の中で,イギリスケムブリッジの数量説の伝統を「口伝」(oral tradition)という言葉で言い表し ている。いわゆるケムブリッジ残高方程式がピグーの手によって明確に定式化されるのは,1920年代のこと である。フリードマンが,ケインズのこの言い回しを意識していたかどうかは明らかではないが,数量説が まとまった書物の形で扱われることが少なかったという認識で両者は一致していると見てよい。詳細は別の 機会に譲るが,『貨幣の購買力』(1911)でこれにあえて取り組んだフィッシャーでさえ,どのような意味で

どの程度,数量説の妥当性を信じていたかは,議論の余地がある。

(2)

カーリー(連銀調査局),クラーク・ウォーバー   吟味されてはいないのである5。

トン(連邦預金保険公社FDIC)といったシ   そこで本稿では,きわめて限られたアプロー カゴ外部のエコノミストたちであったと主張   チではあるが,フィッシャーが生涯において した。シュナイダーは,1920年代に数量説に   最も精力的に経済政策提言に取り組んだニュー 関する実証分析に取り組み,エディーは,フ   ディール期に着目し,オリジナル・シカゴ学

リードマンのいわゆるk%ルールをすでに   派とフィッシャーとの政策面での共通点と相 1930年代初頭に提示し,カーリーはフィッシャー   違を明らかにしたい。「過去の経済学が全て の交換方程式による取引量アプローチを現代   無価値にさえ見えた」6ニューディール期に,

的な所得アプローチに転換させ(っまり,   彼らが主張したことを追跡することにより,

MV=PTをMV=PYと書き換え)3,ウォー   この時代の多様な経済思想を整理する手がか バートンは1940年代に,フィッシャーやシュ   りも得られるであろう。

ナイダーらの分析を徹底的に検証したうえで,   オリジナル・シカゴ学派には,先述のサイ 大恐慌の原因に関するフリードマンの見解や   モンズとミンッに加え,フランク・H.ナイ 金融政策に関する提言の先駆けとなってい   ト,ポール・H.ダグラス,ヘンリー・シュ た4,というわけである。      ルッ,アーロン・ディレクター,J.ヴァイナー,

しかしながら,現代マネタリズムの源泉を   ガーフィールド・V.コックス,アルバート。

めぐるこれらの研究において,重大な一っの   G.ハートらの名を挙げることができるが,

問題が見落とされているように思われる。す   本稿では,サイモンズー人に焦点を絞り,フィッ なわち,フィッシャー以降の「マネタリスト」  シャーとの比較を試みたい。シカゴ学派の代 の「先祖」らに関しての研究はかなり進めら   表としてフィッシャーと書簡をやりとりして れているが,フィッシャー自身が果たして,   いたのがサイモンズであり,また,彼らの政 マネタリズムの先駆者であったのか,またあっ   策を提示するパンフレットや書物が,サイモ たとしていかなる意味でそうであるのかが,   ンズのサイン付きで公にされていたという事

2 エディーは,1927年にインディアナ大学で学位を取得し,コルゲート大学で1年を過ごした後,1928年か ら二年間ほど,シカゴ大学で金融論の教鞭をとっており,厳密な意味でExtra−Chicagoanなのかどうかは,

議論が分かれるところである。しかし,「彼[エディー]の短いシカゴ滞在中では,同大の経済学部と彼と の間の知的交流は事実上ほとんどなかった」 (Patinkin,1971 p.456.シカゴビジネススクール教授サミュ エル・H.ナーラブのパティンキン宛の私信)ゆえ,パティンキンもハンフリーの見解に同意している。

3 ただし,このハンフリーの論文へのパティンキンのコメント(Patinkin,1971 p.456)によれば,過少消 費説論者として知られるフォスター&キャッチングによって,1923年にすでに取引アプローチから所得アブ ローチへ転換がなされていたという。ハンフリー(1971b)はリプライにおいて,自らの誤りを認めている。

なお,フォスター&キャッチングの過少消費説は,ローズベルト政権下のケインジアンとして知られるマリ ナー・S.エックルズ(ただし本人にそういう自覚はなかったらしいが)に強い影響を与えたことが知られて いる。ケインズ革命以前のアメリカにおけるケインズ的な考え方に関しては,わが国の文献で秋元(1989,

第1章)が手際よくまとめている。参照されたい。

4 ウォーバートンに関しては,ボードー&シュバルッによる興味深い論文「クラーク・ウォーバートン:先 駆的マネタリスト」(1979)がある。

5 少々驚くべきことに,フリードマンの貨幣数量説に関する論文集(Friedman ed.,1956a)において,

フィッシャーへの言及は皆無に等しい。

6 高(1997p。360)。

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実からしても7,この限定は大きな誤りでは   シカゴ大学に在籍した。

なかろう。      サイモンズは徹底した自由主義者であり,

彼らの主張の内容に立ち入る前に,両者の   全体主義と計画化に断固として反対した1°。

略歴をみておきたい。アーヴィング・フィッ  彼の提言のうち,もっとも議論を呼び起こし,

シャーは,1867年にニューヨークで生まれ,   したがって有名となったものが,「シカゴプ 1947年に亡くなっている。彼は,学部時代か   ラン」の中心テーマである「100パーセント

ら1937年の定年退職までイエール大学に籍を   準備制」である1 。この提言にフィッシャー おいていた。1891年に同大学の数学部から博   もまた同調し,サイモンズに共著をもちかけ 士号を取得,数年間数学部で教鞭をとった後,  たという12。しばしば,フィッシャーがシカ 経済学部に移籍している。彼の活動は大学で   ゴ学派の最初期の一員とみなされる所以であ の研究・教育にとどまらず,自らの発明をも   る。両者の理論的見解を比較してみたい。

とにした会社の設立,貨幣安定同盟の設立や

国際連合への加盟運動,禁酒・禁煙に関する       II 「シカゴプラン」:サイモンズの経済政 啓蒙活動など多彩な活動にかかわっている。      策の概要

フィッシャーは,年を経るにっれ,政治家と

の接触をいっそう積極的に求めて行く。これ    「我々が最も恐れねばならないのは恐怖心 らは全て,自らが正しいと思ったことは他人   そのものである(We have nothing to fear にも勧めてみるというフィッシャーの気風と,   but fear itself)」という有名な演説によっ 社会のために役に立ちたいという彼の理想が   て,1933年3月フランクリン・D.ローズベ 生み出したものと言ってよい8。        ルトが大統領に就任したのとほぼ同時期に,

ヘンリー・クリストファー・サイモンズは   サイモンズの手によるパンフレット「シカゴ 1899年イリノイ生まれ。ある意味で両極端の   プラン」が配布されている。このパンフレッ 立場にあったケインズの死のわずか二ヶ月後,  トは,もともとは,フィッシャーを含めたこ 薬物の誤飲により1946年6月になくなってい   く少数の人々にしか配布されていなかったが,

る9。サイモンズは,1927年から1946年まで   アーロン・ディレクター編によるサイモンズ

7 デーヴィス(1971p.62)を見よ。

8 フィッシャーに伝道福音主義の気風を感じていた人は少なくない。例えば,フィッシャーを直接知る都留 重人もそのひとりである。都留(1964)を参照されたい。フィッシャーはRD.ローズベルトに「大統領,

あなた個人が政府でないことはよく心得ています」と冗談をいって大統領を苦笑させたらしいが,もっとも 力を持っ入に直接働きかけることが一番効率的であるという信念を強くもっていたようである。

9 サイモンズとケインズ,アルヴィン・H.ハンセンとの興味深い比較はブレイト&ランサム(1998pp.208一 212)においてなされている。

10 サイモンズの生涯と思想の特徴に関しては,さしあたり,スタイン(1987)が簡便である。サイモンズの 理論的貢献には本稿で扱う100パーセント準備制の他に,所得と課税の理論(ヘイグ・サイモンズの所得概 念)がある。所得と課税をめぐる議論にも,サイモンズとフィッシャーに共通する問題関心が窺われるが,

詳細に関しては後の課題である。

11 しばしば指摘されてきたように,これに類似した提案は,すでにデーヴィッド・ヒュームやデーヴィッド・

リカードゥ,19世紀の通貨学派の思想にもあり,1920年代には,フレデリック・ソディというノーベル化学 賞を受賞したオックスフォード大学の科学者が復活させていたことが知られている。もっとも,初期の100

%準備制は要求払預金準備ではなく,通貨準備であった。たとえば,W.Rアレン(1977 p.583)をみよ。

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の論文集『自由な社会のための経済政策』    革する。

(1948)に収められ,広く知られるようになっ   IV.現行の租税制度に暗黙に含まれている莫 た13。その基本的構想は,次の五項目である    大な差別的補助金の漸次的撤廃。

(Simons,1948 p.57.なお,引用文中の圏点   V.広告や販売活動における資源の浪費の制 は,原文のイタリック,以下同じ)。       限。

1.民間のあらゆる形態の独占を排除する。   1の民間独占への排除に関して,サイモン 1.(資源の有効利用の推進と無駄遣いの   ズは他の政策実現のための「必須条件(sine 抑止のための手段としての)競争がうま   qua non)」とのべている(Simons,1948 p.

く機能して規制的な要因となるようなあ   57)。このパンフレットは,スタイン(1987 らゆる産業においては,有効な競争的状   p.334)が指摘したように,ローズベルト政 態を確立・維持をめざす抜本的方策によっ  権下の全国産業復興局(National Recovery て,かっ      Administration, NRA)の時代に書かれて 2.競争がコントロールの要因として有効   おり,景気回復のために,「政府と各産業間

に機能しないようなあらゆる産業におい   に結ばれる 公正競争規約 により価格や生 ては,政府による所有と運営にゆだねる   産額…労働条件を政府の指導のもとに均一 ような制度に漸次的に移行することによっ   化することを通じて,これに協力する産業に て。       反トラスト法 適用免除を認める」(秋元,

H.貨幣に関するより明確かっ適切な「ゲー   1989p。335)という連邦政府主導の「不況力 ムのルール」の確立。       ルテル」の形成は,サイモンズにとって自由

1.部分的な準備制度に基づく民間預金銀   社会の終焉そのものに映じたわけである14。

行制度の廃止によって      実際,彼は独占を「民主主義最大の敵」と断 2.完全に同質で全国的に流通する流通媒   じ,その例として,「大企業や価格統制をも

■   ●

体の取り決めによって,かつ        くろむ事業者団体,労働組合」などをあげて 3.連邦の貨幣当局なるものが実際の貨幣   いる。これらの団体は,価格・賃金を意のま

量(もしくは貨幣量のコントロールによ   まにコントロールすることにより,円滑な価 る名目総額)のコントロールの直接の責   格調整を妨げ,ひいては不況の一因となって 任を不可避のものとしてもっ。(ただし,  いるというのである。

このコントロールとは,広範にわたる裁    IIの項が,本論文のテーマであるサイモン 量的な権限ではなく,法的に規定された   ズの100パーセント準備制を中心とした金融 単純かっ明確なルールのもとで行われる   制度改革提言である。サイモンズは,当時の べきである。)      金融政策が rulelessness であることを批 皿.もっぱら租税が富と所得の分配に及ぼす   判すると同時に,裁量的な管理に基づく制度 影響をかんがみ,全租税制度を抜本的に改   の確立に対しても慎重な立場を取っている15。

12W.R.アレン(1993 p.708)参照。

13以下,サイモンズの著作に言及する場合,全てこの論文集に依拠する。

14 アーロン・ディレクターによると,このころのサイモンズは,あたかも世の中が終わってしまうかのよう に振舞っていたという。

15 サイモンズ(1948p.63)をみよ。

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彼のいう金融政策は,おおよそ以下のよう    Hの3の項は,分権的な意図で作られた連 にまとめられよう。まず,彼のいう部分的準   邦準備制度の上位に立っ権限を持った金融政 備制度(フィッシャーの比喩では 10%準備   策を行う機関の設立の主張である。サイモン 16)のもとでは,民間の銀行が信用創造   ズはこれを National Monetary Autho一 を行うことによって,過剰な貨幣が市場に流   rity とよんでいる。当局は厳密なルールに れ出し,景気変動を引き起こしてしまうとい   基づいた運営を要求されており,いかなる裁 う17。そこで,IIの1の項に見られるように   量の余地も認められていない。ただし,スタ 民間の銀行には100パーセントの準備を義務   イン(1987pp.334−335)が指摘したように,

付けることにより,信用創造の余地をなくし,  このルールの具体的な内容に関しては,サイ マネーサプライのコントロールをもっぱら連   モンズ自身,明確なアイディアを持っていた 邦政府の権限とするということである。W.  わけではなく模索を続けていた。「シカゴプ Rアレン(1977p.582)やバーバー(1996p.   ラン」においては,その一つとしてフィッシャー 90)はこの考え方を「銀行の貸出機能と貨幣   の交換方程式を用いてMもしくはMVを一定 創造機能の分離」と的確に言い表している。   にするというルールが示唆されている(Sim 銀行機能を貸出にのみ制限し,信用創造を抑   ons,1948 p.64)19。

制しようというわけである。この方法による    皿の項は,税制改革である。サイモンズの       、

と,財政政策と金融政策とが一体化すること   税制改革は,「不平等の低減」(Simons,1948 になる。なぜなら,政府は自らの債務の大き   p.65)を目指すものであり,具体的には累 さを変更する,つまり財政政策を発動するこ   進税の強化,ならびに相続税の強化である。

とにより,直接マネーサプライの大きさをコ   IVの項は,「自由主義の信条」にもとつく当 ントロールすることになるからである。民間   時の高関税政策に対する批判である。

の信用創造の余地がないためである。      Vの項に関して,サイモンズは「大雑把に 次に,IIの2の項は,南北戦争期から流通   扱われるだけで,不正確にならざるをえない」

したままになっているグリーンバック,銀貨・   (Simons,1948 p.71)とのべ,「現行の経済・

銀証書,金貨・金証書,国法銀行券といった   政治システムの存続ためには直接必須という 様々な「貨幣」を漸次統一的な貨幣に置換し   わけではない」としている。我々は,サイモ て行くという提言である。貨幣を統一化する   ンズの「シカゴプラン」のうち1と】1の提言 ことにより,マネーサプライの管理がより容   に論点を絞り,フィッシャーの主張を踏まえ 易になるというわけである18。         たうえで,両者のやり取りを見て行こう。

16 フィッシャー (1935p.40&pαss ηz.)

17貨幣以上に信用の膨張・収縮により循環を説明するという点で,サイモンズとフィッシャーは,同一の見 解を持っている。フィッシャーの信用循環の理論は『貨幣の購買力』(1911)でまとめられている。後フィッ

シャーは,「信用」循環の理論を「景気」循環の理論へと拡張させている。中路(2000)を見よ。

18 サイモンズ(1948p.63)

19 ブレイト&ランサム(1998pp.215)は,実はサイモンズが,ルールの本質を明らかにすることに関心を もたず,ただ何らかのルールが必要であると主張しさえすればよい,と考えていたと示唆している。「シカ ゴプラン」が実際に受け入れられなかった理由の一っは,ここにあろう。

20 ブラウンは,1909年から1915年のイエール在職中に,フィッシャーの『貨幣の購買力』(1911)執筆に協 力している。

(6)

画に関し,一致団結しイニシアティヴを取っ

      ていることは明らかである」(W.R.Allen,皿 フィッシャーの不況対策

1993p.706)とシカゴ学派の行動に一定の理 1933年の年末,フィッシャーはある消費者   解を示していたが勿,それは,あくまでも 団体の会長に「貨幣的経済学の世界的権威は   「実際的な提案としてではなく,学術的なも 誰か」と尋ねられて,次の名を挙げている。   の」(Wor然14 p.120,1933年3月19日付)

ミズーリ大学のハリー・G。ブラウン2°,コー   としての位置付けであった。

ネル大学のG.F.ウォーレンとRA.ピアソン21,   フィッシャーのこのときの政策提言は,

イエール大学のJ.H.ロジャーズ22,ニューヨー   1933年3月, RD.ローズベルトに宛てられた ク大学のW.1.キング,ウィスコンシン大学の   電報(罪or瘤14 pp.53−54)にまとめられて J.R.コモンズ,スタンダード・スタティスティ   いる。主なものを取り上げると,おおよそ以

クス社のW.M.パーソンズ,プリンストン大   下のとおりである。

のE.W.ケメラー,シカゴ大学のJ.ヴァイナー,

さらに,若干の実務家や銀行家の名を挙げた   1.金本位制度の即時見なおし。

のち,J.M.ケインズとR.プリッシュを付け   2.連邦政府が既存の全銀行の預金を保証。

加えている(Wor納14 pp.118−119)。      3.公開市場操作の再開。

ここで注意すべきことは,「シカゴプラン」  4.スタンプ付き貨幣の発行。

が配布されて半年ほどたったこの時期に,フィッ

シャーの目標物価水準を定めて物価を引上げ    1に関しては,かねてからのフィッシャー ようという政策(リフレーション政策)を批   の主張であったリフレーション政策(例えば 判していたオリヴァー・M.W.スプレイグ肥  1926年の卸売物価水準を目標に即時物価を引

はもとより,シカゴ大学の中にいて「シカゴ   上げる政策)の具体的方法と見てよい。管理 プラン」に反対して署名を拒否したヴァイナー   通貨制度に移行してマネーサプライを連邦政 を除いて,誰一人としてシカゴ大学のメンバー   府のコントロール下におく「貨幣の国有化」

の名を挙げていないことである。フィッシャー   (Wb漉814 p.95)を推進しようというわけ の経済政策と「シカゴプラン」とは,本質的   である。金本位制を維持しようとすると物価 な違いがあったことになりはしないだろうか。  引上げができないというのが彼の持論であっ

たしかに,フィッシャーは「シカゴ大学の   た。

経済学者たちは,不況から脱出するための計    2の預金保証は,実際1933年の銀行法(グ

21農業統計学者である彼らが農産物価格引上げを主張したことを,フィッシャーが「私の見解とまったく同 じ」と評価した。もっとも,フィッシャーは一般物価水準の引上げを主張しており,両者の視点に相違があっ たが。この点は,バーバー(1996p.18)の指摘による。

22 ロジャーズは,フィッシャーの最大の理解者であり,1930年代のロビー活動において行動をともにするこ とも多かった。また,彼は特使として1934年に中国・日本・インドを訪れている。フィッシャーの期待を背 負った彼であったが1939年に飛行機事故のため53歳の若さでなくなっている。

23ハーバード大。財務省諮問委員(1933)。スプレイグによるフィッシャーのリフレーション政策批判は,

その目標が適切かどうか明らかではないし,また,ねらいどおりに物価を引き上げることができるかどうか,

さらに,それができたとしても生産量がそれに伴って増加するとは限らないという点に集約される。

24 フィッシャーから,「シカゴプラン」起草者たちへの書簡。1933年3月19日付。ただし,上に引用した個所 は,『フィッシャー著作集』(Wo漉s 14 pp.120−121)ではなぜか削除されてしまっている。

(7)

ラス・スティーガル法)における連邦預金公   をかけることによって,流通速度を加速化さ 社(FDIC)設立のねらいと同一であるといっ   せようというわけである。スタンプのない貨

てよい。ただし,フィッシャーは「シカゴプ   幣は失効してしまうという規定を与えるので ラン」を通じて100パーセント準備制の概念   ある。この点に関する両者のやり取りは,残 を知ってから,預金保険制度は一時しのぎの   念ながら『フィッシャー著作集』には見当た 方策であり100パーセント準備制がそれに変   らないが,「貨幣の同質化」をめざすサイモ わる恒久的制度であると主張するようになっ   ンズが,緊急措置ながら新たに「貨幣」を追 た(W.R. Allen,1993 p.712)。いいかえれば,  加しようというフィッシャーのこのアイディ 100パーセント準備制は預金保険制度のより   アに賛成しなかったであろうことは,想像に 安定的な代替案として位置付けられているの   難くない27。

である。

「3.公開市場操作の再開」の主張に関し      IV フィッシャーとサイモンズの対立点

ては,カーギル(1992)が重要な資料(ウォー

バートン宛てのフィッシャーの手紙)を提供    このようにフィッシャーの経済政策に関す している。それによると,ニューヨーク連銀   る主張を見て行くと,フィッシャーとサイモ 総裁であったベンジャミン・ストロングが   ンズの見解の相違点が明確になってくる。さ 1928年に若くして亡くなっており,彼の強力   らに,フィッシャーがサイモンズに共著を持 な指導のもとで行われていた裁量的な公開市   ちかけても実現しなかった理由も明らかになっ 場操作が,彼の死とともに行われなくなって   てこよう。

いたことを悔やんでいたからである25。ここ   第一の相違点として,ルールか裁量かとい から察するに,フィッシャーは,シカゴ学派   う点に関しては,両者は「どの程度の裁量が が強調していたルールではなく,より裁量的   認められるべきかはさておき」(Wor瘤14 p.

な政策を選好していたと見てよい。      129,フィッシャーからサイモンズ宛て,1934 4のスタンプ付き貨幣のアイディアは,シ   年12月14日付)とそれ以上の議論を避けてお ルヴィオ・ゲゼルに端を発するものであるが,  り,両者の見解は決定的に異なっていた。も 不況においては貨幣が保蔵される篇貨幣の流   ちうん,サイモンズ自身ルールの内容を明確 通速度が低下する傾向にあり,かっそれが不   にしなかったこともあろうが,「ルール」に 況深刻化の原因であるとフィッシャーは考え   信頼を置くことをシカゴ学派の特徴とすれば,

ていたから26,スタンプを定期的に義務付け   フィッシャーは明らかにそのグループには入 ることによって,っまり貨幣の保蔵にコスト   らない。

25バーバーがしばしば(例えば,Barber,1998 p.33)指摘してきたように,公開市場操作という政策は1922 年にまったく偶然に発見されたものであった。これを知ったフィッシャーは,その熱烈な唱導者となった。

大恐慌は,連銀の政策ミスに起因するという有名なフリードマン&シュバルッの主張は,一っには,ストロ

ングの死を念頭においている。彼らは,ストロングの死による政策の一貫性の欠如,政策ミスが大恐慌を引       曹

き起こしたと考えたが,これに対し,フィッシャーは,政策ミスそれ自体が原因ではなく,大恐慌をひどく させた一因であると捉えているように思われる。この解釈はかれの「負債デフレーション理論」(Fisher,19 32およびFisher,1933)における議論と完全に整合的である。それによれば,大恐慌の特質である負債・

デフレスパイラルは,実物的な投資機会の消滅に起因するとされているからである。トービン(1987p.375)

が1930年代のフィッシャーを高く評価したのもこの点においてである。

(8)

さらに,フィッシャーはリフレーション政   みるとさらにその債務負担を重くさせること 策にせよ,スタンプ付き貨幣にせよ即時実行   になっているという点を解明したことが,負 を強調しているが,サイモンズは,「シカゴ  債デフレーション理論の重要な意義であった。

プラン」の提言において,しばしば「漸次的    このようなフィッシャーの見解に対し,サ な」という言葉を用いていたことから明らか   イモンズは,フィッシャー宛ての手紙で次の なように,急激な政策実施に消極的であった   ように述べている。

とみてよい。このことは,サイモンズが,フィッ   「金融政策の目的は,いまでは,雇用量とい シャーよりも長期的な制度改革のヴィジョン   う観点から捉えられるべきであり,債権者と を持っていたことに起因すると思われる。も  債務者の事情にはあまり考慮する必要がない ちうんフィッシャーも,連邦準備委員会の人   というのが,我々の見解です。…[フィッシャー 選や制度上の問題点に関してしばしば発言を   が物価水準引上げの目標として掲げた]50%

し,制度的な改革を求あてはいたが聡,バー   という数値は何ら,統計的根拠を持っていま バー(Wo漉814 p.163)が示唆したように,  せん。それは,どれだけ必要かという憶測を 1937年1月の第二次ローズベルト政権発足に   表したものにすぎません。おそらく,憶測と 至るまでは,どちらかといえば短期的な緊急   いうものは間違っています。」(Wor然14 p.

措置に専心していた。このフィッシャーの緊   124,サイモンズからフィッシャー宛,1933 急措置は,大恐慌を説明するために構築され   年3月24日付)

た負債デフレーション理論の直接的な帰結で    たしかに,フィッシャーの理論においても ある29Q大恐慌の特質である負債膨脹とデブ   政策提言においても雇用量への言及は少な

レの悪循環は,即刻デフレを食い止め物価を   い3°。失業者は不況の結果として表れる現象 引き上げさえすれば,断ち切れるというわけ   であるから,それを例えば,公共事業によっ である。時機を逃せば,いっそう事態が悪化   て雇い上げたとしても,不況の緩和策にはなっ するだけである。さらに,これは,経済社会   ても治癒策にはならない,というのが彼の見 を債権・債務の絡み合ったものとして捉える   解であった。つまり,あくまでも物価水準を フィッシャー固有の主張であったと言ってよ   中心におき,不況を貨幣的な現象として捉え い。恐慌に際し,債務者は自らの債務を軽減   ようとしていたのである。物価をどうコント するために借入れ更新を行うが,全体として   ロールするか,とりわけ不況期に物価をどう

26 フィッシャーは,『貨幣の購買力』(1911)や『好況と不況』(1932)で,貨幣の流通速度一定を公準とし て述べていたわけではない。

27「私[サイモンズ]は,ゲゼル・フィッシャー・ダールベルク計画[スタンプ付き貨幣案]を好きになっ たことはまったくない」(Simons,1948 p.283 The Beveridge Program;An Unsympathetic Inter pretation  (1945),引用文中の[]は引用者。)

28「我々は,連邦準備委員会に関するあなたの主張に関しては全面的に賛成です。」(Worんs 14 p.124,シカ ゴ学派代表としてのサイモンズからフィッシャー宛,1934年1月19日付)

29 中路(2000)をみよ。

30 ただし,フィッシャーが雇用量というマクロ変数を軽視していたわけではない。それどころか,フィッシャー は「フィリップスカーブ」の忘れられた先駆者でもある。「銀行政策と失業」(Fisher,1926a)ならびに

「失業と物価変化の統計的関係」(Fisher,1926b)をみよ。これらの論文において,フィッシャーは明確に 物価水準の変化率( ドルのダンス )と雇用量との間の強い相関を指摘している。

(9)

引上げるか(リフレーション)をめぐって彼   備制を,フィッシャーが積極的に導入し,実 の政策提言が打ち立てられていたと言ってよ   現を目指すことになったという意味で,両者 い。そのための具体的方法が,100パーセン   は,表面的には同じ目的を持っていたといえ

ト準備制,スタンプ付き貨幣の導入,管理通   る。しかしながら,両者の全体的構想におけ 貨制度の確立,公開市場操作政策の徹底であっ   るその位置付けなると,類似しているどころ た。       か,両極端でさえあった。いまなお経済政策

これに対し,確かにサイモンズも物価水準   に関し議論の的となるルールか裁量かという にかなりの関心をはらい,フィッシャーと同   問題が,明らかになってきていたことに注意 様の100パーセント準備制を提案していた。   する必要がある。

しかしながら,フィッシャーのように物価変    ところで,  彼ら の100パーセント準備 動に伴う債権者と債務者間の利害対立を抑え   制は実現することもなく,最近になってフリー

ることに主眼はなく,同案は「自由な社会」   ドマンが復活させるまで表だって取り上げら の回帰のプログラムの中枢と位置付けられて   れることもなかったが,ニューディール期に いた。すなわち,ルールによる貨幣のコント   100パーセント準備制が実を結ばなかった理 ロールの権限を政府にゆだね,政府と民間の   由として,W.R.アレンは次のように列挙し

「分業」の境界線を確定することにより,前   ている(W.R. Allen,1993 p.716)。

者による後者の侵犯を抑止しようとしたわけ

である。この意味では,サイモンズにおける   1.100パーセント準備制が改革と回復を同 100パーセント準備制は,事実上彼の政策の    時に目指していたため,賛成者がいたとし

「全て」であり,その他の政策によって補完    ても,関心が散漫になり,勢力が弱まって されるべきものではない。サイモンズから見    しまったこと。

れば蛇足とも言うべきスタンプ付き貨幣案や   2.コントロールの対象になる貨幣とは実際 公開市場操作という裁量的な要素を含む点で    には何を意味するのかが明らかでなかった

フィッシャーとサイモンズの見解は相容れな    こと。

かったのである。      3.フィッシャーの関心は政策の明確化より も,銀行の制度改革にあったこと。

4.フィッシャーの計画がうまく行ったとし V むすび

て,そこから得られる利益が明らかではな シカゴ学派によって提案された「シカゴプ    かったこと。

ラン」の中心的要素である100パーセント準          レ

R1フィッシャーの正式なイエール大の定年は1935年である。

32彼自身,F.D.ローズベルトの「ブレイントラスト」に倣って, unofficial brains trustを自称していた。

フィッシャーは文字通り完全に手弁当でこの「活動」に携わった。

33 シカゴ学派の一般的な特徴づけに関しては,レダー(1987)を参照願いたい。その特質とは,せいぜいの ところ,「自由放任への信頼」という抽象的な共通項しか見当たらない。構成員のひとりひとりが,関心や 手法を異にしていたからである。

(10)

1に関しては,先にも述べたように,シカ   カゴ学派の先祖とみなすどうかに関しては,

ゴとフィッシャーの意見の相違があったこと   シカゴ学派の特質が明確でないことはもちろ を念頭におけば,この理由づけは成立しそう  んのこと33,上のような対立点が明らかになっ である。しかしながら,W.R.アレンは,事   た以上,慎重になる必要があろう。

実上,フィッシャーとシカゴ学派を同一視し ているように思われる。先にも述べたように,

シカゴ学派が改革,フィッシャーが回復を重 参考文献

視していた。2に関しては,完全に正しい。   秋元英一,1989,『ニューディールとアメリ 3に関しては,フィッシャーとシカゴ学派の    力資本主義:民衆運動史の観点から』東京 混同が見られる。主語をフィッシャーのかわ    大学出版会.

りに「シカゴ学派」に取りかえれば正しい。   Allen, Robert L,1993,〃o ηg F∠8加r 蓋 先にも見たように,フィッシャーが短期的    B ogrαρんッ. Blackwell.

「回復」より長期的「改革」を目指すように   Allen, William R.,1977, Irving Fisher, ED.

なるのはしばらく後のことである。4に関し    R.,and the Great Depression, HZ8めrッ ては,物価の安定とそれに伴う景気の振幅の    o!Po砒 cαZ Ecoηo肌ッ9−4. Reprinted in 抑制が「利益」であろう。フィッシャーの経    Blaug ed.,1992.

済学と経済政策は,全てこれに行きつくよう     , Irving Fisher and the 100 Percent になっていたと思われるからである。これに    Reserve Proposal, Joμ㎜αZ o∫Lαωαπd 対し,シカゴ学派の実現すべき理想は「自由   Ecoπo煽0836,0ct.

な社会」にあった。       Barber, William J.,1996, Dθ8ごgπ8ω励 π バーバーは,フィッシャーの提案が実際の    Dご80r4θr」Frα肋伽D. Roo8θoθZむ,診んθ 政策に受け入れられなかった理由として,ケ   EoOπ0肌♂8お,侃砒舵S加ρ π80ノ.4濡θr 0απ インズの「ケンブリッジ・サーカス」に比肩    Eooηoηz♂o PoZZoッ,1933−1945. Cambridge しうるようないわば「ニューヘヴン・サーカ    University Press.

ス」っまりフィッシャー学派ができなかった     ed.,1997a,跣θWor納o∫1ro πg F♂8一 ことにある,と示唆している(Barber,1998    んθr,14 Vols.(Worん8)Pickering&Chatto.

p.41)。周知のように,フィッシャー学派は     ,1997b, Irving Fisher(1867−1974)in できなかった。結果はさておき,フィッシャー    Retrospect, 盆肌θr cαπEooπo而c Reび θω

は,それを求めてシカゴ学派に近づいていっ   87,May.

たという解釈は成り立ちそうである。繰り返     ,1998, Irving Fisher as a Policy Advo一 し自らの政策提言を書簡で彼らに伝え,理解    cate, in Rutherford ed.,1998.

を求めていたからである。事実イエール大学   Blaug, Mark, ed.,1992, P o舵er8 ηEooηo一 の内部には,フィッシャーへの理解者は少な    加08.Sec.IV.Vol.41. Edward Elger.

く,フィッシャーは,1930年代にはいると実   Bordo, Michael D., Goldin, Claudia, and 質上イエール大学から引退していた%フィッ   White, Eugene N.,eds.,1998,銑θD⑳η♂η8

シャーは,政策の場に立ち入ろうとするたび   Mo配θ肱銑θGrθ砒D印rθ88 oπαπ4伽 にことごとく無視されていた32ので,100パー   .4ηzθr oαπEcoηo配ッ加孟んθ7ωθηオ θ仇 セント準備制を契機にシカゴ学派に協力を求    Cθπ如rッ.The University of Chicago Press.

めようとしたと考えることができるかもしれ   Bordo, Michael D.,and Schwartz, Anna J.,

ない。しかしながら,フィッシャー自身をシ   1979, Clark Warburton:Pioneer Moneta一

(11)

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(12)

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参照

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