マレーシア狩猟採集民の暮らしと世界観に関する報告
A note on lifestyle and world view of hunter-gatherers in Malaysia
保 坂
哲 朗 *・藤 沼
潤 一 **・新 納
雅 裕 ***・吉 田
聡***
Tetsuro Hosaka Junichi Fujinuma Masahiro Niino Satosi Yoshida
Ⅰ.オランアスリ・ジャハイとは
1.1
はじめに半島マレーシアにはオランアスリ(マレー語で
「
Orang
」は「人」,「Asli
」は「元々の」の意)と呼ば れる原住民グループが知られている。オランアスリは 一般的に「森の民」というイメージを持たれているが,現在も森に住み狩猟採集や焼畑耕作など昔のままの生 活を営む原住民は少数派である(信田
2004
)。すでに 多くのオランアスリは,市場経済や先進文明および政 府の定住化・イスラム化政策など強い外的圧力にさら され,森の周縁に政府が建てた家に住み,ゴムやアブ ラヤシのプランテーションでの労働に従事し,バイク や車を持つなどマレーシアの社会経済の中に取り込ま れている(信田2004
)。しかし,マレー半島北部の森 林には未だ狩猟採集を主生業とする「半移動生活(
semi-nomadic
)」を営むオランアスリのグループが暮 らしている。筆者らは生態学的研究で訪れた調査地で,その中の一つジャハイ(詳細は後述)のユニークな暮 らしぶりや世界観に触れる機会を得た。このような生 活形態を維持する民族はオランアスリの中でもごく少 数になっており(
Nicholas et al. 2010
),またジャハイに 関する報告例も少ないため,これらの記録は人類学的な重要性をもつ。また,オランアスリの伝統的な生活 や芸術がマレーシアのエコツーリズムにおける重要な 観光資源の一つとして近年注目されているため(
Daud
& Rahman 2011
),これらの理解は観光科学においても 重要である。1.2
ジャハイの位置づけオランアスリは半島マレーシア北部のネグリト(セ マン)系,中央部のセノイ系,南部のムラユアスリ系 の
3
つのグループに大別される(信田2004
)。各グル ープはさらに言語などで6
つずつの民族に分けられ,ジャハイはネグリト系に含まれる(
Nicholas et al. 2010
)。 ネグリト系はもっとも古くから半島マレーシアに定着 していたグループと考えられ,モンクメール系の北ア スリ語を話し,移動性が強く,小規模の焼畑やマレー 農民の農作業の手伝いなどを日和見的に行うが,狩猟 採集を主生業とする(口蔵1997
)。ジャハイはマレー 半島北部のペラ州やクランタン州の山麓部に集落があ り,2003
年時点での(政府が把握している)人口は1843
人である(Nicholas et al. 2010
)。一般に低身長で(成人男子で
150 cm
前後)肌は濃褐色,髪は縮れ毛である(写真
1
)。一方,中央部のセノイは同じモンクメール系の 中央アスリ語を話し,数年ごとの村落移動を伴う移動 焼畑を主な生業とする。南部のムラユアスリはオース トロネシア系の南アスリ語を話し,定住型の農業や漁 労を行う(口蔵1997
)。したがって,ジャハイを含む 摘 要半島マレーシアの原住民グループはオランアスリと呼ばれ,その中には少数ながら伝統的な狩猟・採集生活 を続ける人々も含まれる。これらの人々の生活や世界観についての理解は,人類学的な重要性のみならず,
オランアスリがマレーシアのエコツーリズムにおける重要な観光資源の一つとして近年注目されているた め,観光科学的な重要性ももつ。筆者らは半島マレーシア北部の山地帯で,オランアスリ・ジャハイの人々 の村の様子,生業形態,教育医療の実態,世界観について見聞する機会を得た。その結果,これらの人々の 生活は狩猟・漁労・採集や簡単な農耕など伝統的スタイルを維持する一方,農耕の大規模化や道具の近代化,
携帯電話の使用などその中身には様々なレベルの変化が見られることが分かった。今後,外部社会との関わ りがさらに密接になれば,彼らの生活様式や世界観はさらに変化することが予想される。
*
首都大学東京都市環境学部自然・文化ツーリズムコース〒
192-0397
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**
北海道大学大学院地球環境科学研究院***
広島大学大学院総合科学研究科- 167 -
ネグリト系はオランアスリの中でもとりわけ森林と密 接にかかわって生きる人びとであると言える。
ジャハイの生活や世界観に関する報告は少ないが,
生活については
van der Sluys
(1999
)が簡単にまとめ ている。それによるとジャハイは狩猟(漁労含む)・採 集・交易民でまれに小規模の焼畑耕作を行い,3
世紀 頃からインドや中国で用いられる香木や樹脂,ラタン,サイの角などの交易品の採集を行っていたが,
19
世紀 にはマレー人(マレー系マレーシア人)の奴隷として 売買されることもあった。一方,移動生活を行うジャ ハイの思想,特に共有行動については,van der Sluys
(
2000
)に詳しい。それによると,彼らの社会は平等 主義でグループの長をもたず,狩猟採集の成果物はグ ループのメンバーに均等に分け与えられ,他人に何か を強いることはタブーとされる。また,彼らは森を「不 死の祖先」が創造・維持している共有の財産と考え,動物や有用植物を「親戚」,自分たちを「森の番人」と 捉えている(
van der Sluys, 1999, 2000
)。Van der Sluys
の調査から15
―20
年が経過し,伐採や林道整備の進行 とともに森の奥で狩猟採集を続ける彼らの暮らしも大 きな変化に直面している。写真
1
.ジャハイの男性(上)と女性(下)Ⅱ.方法
筆者らは
2008-2012
年にかけて半島マレーシア北部地域で生態学的調査を行ってきた。ここでは
2001
年か ら伐採業者が入り,商業伐採を行っている。調査アシスタントに雇ったのがジャハイ
K
村の人々であった。K
村はvan der Sluys
が調査を行った村から50km
ほど 離れている。彼らは,日本人やマレー人研究者の仕事 があると,村から4
時間ほど歩いて研究者の宿泊する 伐採キャンプ近くまで出てきて簡易の小屋を作り,我々の滞在期間そこに寝泊まりし,調査を手伝う。小 屋は木,タケ(
Dendrocalamus pendulus Ridl.
,現地名:buloh akar
),ヤシの葉,ビニールシートなどを組み合わせた至って簡素な造りである。村から出てくるのは 働き手だけでなく,多くの場合その妻子や幼い弟妹,
親など大家族を伴っている。彼らは調査以外の時も携 帯電話の充電や衛星テレビ,食事,暇つぶしなどを目 当てに毎晩のように伐採キャンプを訪れ,筆者らと話 をする機会も多かった。また,
2011
年と2012
年には 筆者らも短期間(1
-3
日)彼らの村を訪れ,狩猟や魚 捕り,葬式,歌と踊りの儀式などに参加した。本報告 は,これら日々の生活や調査,村への訪問などの機会 に見聞きした内容に基づく。なお,筆者らとジャハイ の人々とのコミュニケーションは主にマレー語(教育 の詳細については後述)で行われた。Ⅲ.村の様子
彼らが「半移動性」と呼ばれるのは,本拠となる村 を持ちながらも頻繁に野営を伴う移動生活を行うから である。筆者らの調査を手伝ったジャハイの人々は
K
村という本拠地をもつ。K
村は現在伐採が行われてい る林班から約4km
離れた原生林地帯に位置しており,車の入れる最奥部から歩いて
2-3
時間ほどかかる。村 が現在の場所に移ったのは10
年前とのことだが,それ 以前もその近辺に住んでいたようだ。2012
年8
月現在 の人口は50
人強である。K
村は川岸を少し上がったところに,数ha
の土地を 切り拓いて作られており,中心部に10
軒ほどの家の立 つ居住地,周辺部に畑がある(写真2
)。家は高床式タ イプと平屋タイプがある。高床式のものは木で骨組み を作り,割った竹を敷いて床にし,屋根にはヤシ科の 葉が葺いてある。この竹の家は日光を遮り,風通しが 良いので昼間は快適だが,夜は冷え,揺れやすく,背 中も痛いので寝心地が良いとは言えない。人々はここ に布団を敷いたり,ハンモックを吊ったりして寝てい る。平屋のものも基本的な作りは高床式と同じだが,大部分は砂地の土間になっており,寝るところだけ木 と竹を敷いて高くしてある。村にガスや水道はなく,
洗濯,食器洗い,水浴び,飲料水の採取,用便などす べて川ですませる。電気に関しては,小型の発電機を
- 168 -
1
台持っているが,ガソリン切れで動かないことが多 いようだ。もっとも発電機を動かしても,電灯やケー ブルが整備されていないため夜の明かりは非常に限ら れる(我々の滞在時は蛍光灯1本が点いただけであっ た)。テレビやオーディオ機器,カラオケセットなども 持っており,ガソリンが手に入ると惜しげもなくこれ らの楽しみに使い切るようだ。アクセスの悪さゆえ,筆者らが訪れた以外ではマレ ーシア森林研究所のスタッフが
1
度訪れたことがある だけで,外部者の訪問の殆どない村である。服を着る ようになったのも伐採業者や研究者が入って配るよう になった10
年程前からのことのようである。写真
2
.K
村。居住地の手前や奥にキャッサバ畑が広がる写真
3
.政府援助により建設された木造家屋の並ぶS
村。後方の森はゴム園を造成するため伐採されている。中央の 車両は研究者の車である。
一方,多くのジャハイの人々はよりインフラの整っ た村に住んでいる。例えば,伐採キャンプ近くの
S
村(人口
100
人強)は,10
年程前に伐採道ができたため 車両によるアクセスが可能となった。そのため,マレ ーシアの政府機関や大学が生活援助や教育,布教をか ねて巡察に訪れたり,公立医療機関が2
週間に一度往 診に来たりなど頻繁に外部との交流がある。家屋は政 府の援助により建設された木造家屋が主である(写真3
)。また,村人の何人かは伐採業者に定常的に雇われ ており,米や油などの食糧や発電機を動かすためのガソリンを日常的に買うことができる。夜には家に明か りが灯り,子どもたちはテレビの前に集まる。ただ,
バイクや車などの所有は見られない。
さらに
40 km
ほど離れたJ
町の郊外には,政府の再集団化政策によって作られた
J
村があり,ここには数 百人のジャハイの人々が暮らしている(写真4
)。村ま では舗装道路が続き,コンクリート造りの家が並ぶ。電気は電線で供給され,ガスや水道も整った村である。
近くには学校もある。主な生業はゴム園労働とラタン
(籐)採集である。
このようにジャハイの村の間にも文明化のレベルに 大きな違いがあり,
K
村のように車道から遠く,イン フラが整備されていない村は現在では少数派である。これらの村は
K
村とも交流があり,結婚などを機にK
村から移る人も多い。一方,他村からK
村に移住する ケースは稀で,村の人口は流出・減少傾向にあると考 えられる。写真
4
.J
村。政府の再集団化政策により1972
年にクラン タン州の6
つの移動性ジャハイのグループが統合・定住化 され,作られた(van der Sluys, 1999
)。コンクリート造りの 家,舗装道路,電線などが整っているⅣ.生業形態
K
村の人々の主な生業は狩猟,採集,漁労,簡単な 農耕を組み合わせるもので,そこに研究者の「調査手 伝い」が加わった。「調査手伝い」には森林調査のため の用具の運搬・設置,植物や動物のサンプリングおよ び同定補助、道案内,危険動物(トラやゾウ,クマ,ヘビなど)からの警護などが含まれる。以前は伐採業 者の仕事の手伝いも行っていたようだが,現在は伐採 業者の仕事は
S
村,研究者の仕事はK
村というように すみ分けがある。従来からネグリト系は利益の大きそ うな生業パターンをその時々で日和見的に選ぶ「日和 見フォレージング」で知られており(口蔵1996
),K
村の人々にもその特徴が見られる。- 169 -
4.1
狩猟狩猟は主に吹矢を用い,樹上のリス・ツパイ(外見 はリスに似るがサルに近縁な小型ホ乳類)・トリ・サル 類を狩る。吹き筒はタケ(
Kinabaluchloa wrayi
,現地名:buloh sumpitan
)の2m
ほどもある一節を2
本用いた2
重構造で,内側には矢と密閉性を高めるための綿をつ め,外側は補強用である。また,筒の一端には円錐形 木製のマウスピースがとりつけてあり,吹く際にはこ れをくわえて固定する(写真5
)。矢は竹串の下端に「ピ ピ」と呼ばれるツル性ヤシの髄をドーム型に加工し,矢羽として刺したものである(写真
6
)。矢の上端には「イポー」と呼ばれるクワ科樹木の毒液が塗られる。
狩猟には
1
人20
-30
本の毒つきの矢を竹籠に入れて持 っていく。吹矢猟に行く前には,焚き火に何回も吹き 筒をかざして湿気により生じる筒の湾曲を修正したり,矢を新しく作ったりと
2
時間ほどかけて入念な準備を 行う。吹き矢の精度は30 m
先のパパイヤの実(直径10cm
×長さ20cm
)を射抜くほどに正確であった。写真
5
.吹き矢筒先端部の構造写真
6
.吹き矢用の矢。先端の黒い部分は「イポー」と呼 ばれる矢毒である写真
7
.吹き矢による樹上のツパイ猟写真
8
.吹き矢猟により仕留められたツパイ(Tupaia minor)一度夕方の吹き矢猟に参加する機会を得た(写真
7
)。 狩猟場は村から10
分ほどの森で,ターゲットは1
本の クスノキ科樹木の実にくるツパイであった。吹矢を持 った男達が3
人,20 m
ほどの間隔で木を取り囲み,静 かに樹上で素早く動くツパイを目で追っている。微妙 な立ち位置の修正もゆっくりと静かで音を立てないよ うに細心の注意を払っている。濃い褐色の彼らの肌は 森の中では土や幹の色に見事に溶け込み,上半身裸で 座っていると見失うほどである。時々,静かな森にビ ュッという矢の風を切る音が響くが,それ以外は静寂 である。根競べの釣りのような狩猟で,1
時間粘った が収穫なし。暗くなったので諦めることになったが,帰るときに驚いた。なんと自分たちの頭上で村人がも う
1
人木に登って吹き矢猟をしていたというのだ。ず っと息をひそめて上を見ていたのに我々は誰も気がつ かなかった。彼が仕留めたというツパイ(Tupaia minor,
写真8
)を一匹村に持って帰ると,子供たちが受け取 り,そのまま焚き火に放り込み,毛をそぎ,内臓を出 して,丸焼きにしてくれた。鳥やカエルに似た淡白な 肉であった。なおサル類はもう捕りつくしたため村の近辺にはお らず,遠くの猟場まで足を延ばさなければならないら しい。吹き矢猟は主に大人数人が,ほぼ毎日,時には 野営をしながら数日にわたって行くようである。彼ら
- 170 -
は遠出する時は必ず吹き矢を携えて行く。また,木本 稚樹(基部直径
2
-3cm
)を生えたまま横倒しにしなら せて,その弾力を用いて足を引っ掛けるようなイノシ シやシカを対象とした罠もある。4.2
漁労ジャハイの漁労は伝統的にはトラップや魚毒による ものだが(
van der Sluys 1999
),1970
年代後半から投網 や水中メガネ,モリの使用が始まり(van der Sluys 1999
, 口蔵1996
),K
村でも現在は後者が主流だ。K
村の近くにはK
川(幅約15 m
)とS
川(幅約20 m
) が合流する場所があり,そこでたくさんの魚がとれる ことが村人の自慢である。漁場までは1
時間ほどの道 のりで,筆者らも村人もサンダルの足はヒルに食われ,血だらけになる。
一度投網とモリ漁を見せてもらう機会があった。網 は糸や金具を町で購入して自作したものである。モリ 漁に使う水中メガネ,ゴム,モリの金属棒も町で買っ たものである。金属棒の先端は鋭くなく,返しもつい ていない。
2
人の男が川の両岸近くの岩に立ち,下流 側から上流側へ向かって次々に網を投げては回収する(写真
9
)。約20 cm
のコイに似た魚が次々にとれる。捕れた魚は男達が岸の茂みに向かって次々に投げる。
岸では
3
人の子供たちが走り回って投げられた魚を集 め,持ってきたビニル袋に入れていく。一方,モリ漁 は水中メガネを使って潜り,大きな岩陰などに隠れて いる魚をゴムの反発力を利用したモリで突く。やはり コイに似た大きめの魚(約40 cm
)が捕れた。川の流 れがかなり速いので静止して魚を探すのは難しそうだ。また水が冷たいので,頻繁に陸に上がっては焚き火で 体を温める。子供たちはビニル袋が一杯になると,木 の枝を器用に魚のエラと口に通して,魚の束を作って 運ぶ。魚が十分に弱っていなければナタの背や木の枝 で叩いて息の根を止める。魚の内臓の除去も子供がナ タを使って現場で済ませてしまう。この日は1時間半
の漁労で
20-40 cm
のコイに似た魚が20
匹ほど捕れた(写真
10
)。小さい魚はカレー粉をまぶしたフライに なり,大きな魚はカレー味のスパローと言う煮込みス ープになった。魚捕りは大人だけでなく子供なども一緒に
5
,6
人で ほぼ毎日行くようだ。たくさん捕って保存することな どはあまり考えていない。写真
9
.投網による漁写真
10
.投網漁およびモリ漁で捕獲された魚4.3
採集近年彼らは村に広大なキャッサバ畑を作るようにな り,野菜やイモ類を安定して手に入れられるようにな ったので,「生きるための仕事」としての採集はかつて ほど重要ではないかもしれない。一方,貨幣経済への 依存度が強まる中,採集はむしろ「お金のための仕事」
として重要である。交易用の林産物は,従来からのラ タン,香木(
Aquilaria spp.,
現地名gaharu
)が主であり,特にラタン採集は
K
村だけでなく,S
村やJeli
村など 他村でも未だ主要な生業の一つである(写真11
)。K
村の人々にとって研究者の仕事がない時などは,ラタ ン採集が主な収入源で良質なものでは1
本(3m
弱)で
4RM
,全員で1
ヶ月2000RM
ほど稼ぐらしい(2012
年現在1RM
≒25
円)。採集したラタンは車道の近くま で運ぶと,中国系やマレー系の仲買人が買い付けに来 るようである。彼らはこのラタン採集のために数週間 から数ヶ月間,森の中に簡単な小屋を張りながら移動 生活を行う。森を歩いていると彼らが以前住んでいた「家」の跡が至る所に残っていて驚く(写真
12
)。こ の採集旅行には小さい子供も含めた家族全員が参加す る。彼らが現在も「半移動性」といわれる所以である。元々「移動性」であった彼らには,この移動生活が本 来であり,
K
村という固定した本拠地がある生活は比 較的最近のことであると考えられる。- 171 -
写真
11
.採集され,仲買人が買い付けに来るまで車道近く に積まれるラタン写真
12
.放棄された野営跡。屋根にはビニールシートが使 われている写真
13
.木登りをして遊ぶ子供たちその他には,センザンコウやオオトカゲ(食肉用や 採皮用)やタイガー・オーキッドとよばれる大きなラ ン(観賞用)は高値で売れるらしく,我々の調査を手 伝っている最中も常に探索している。
一方,自家消費用としては野生ドリアン(
Durio spp.
), プタイ豆(Parkia speciosa
,売り物にもなる),Baccaurea
属(コミカンソウ科)やElateriospermum tapos
(トウダイグサ科,現地名
buah perah
)などの果実やシダな どの新葉,キノコ,蜂蜜などの食料を集める。また,強壮剤(木本の根),皮膚薬(
Macaranga spp.
)などの 薬草も重要である。これら林産物の採集には木登りが必須であるが,彼 らは子供の頃から木登りに習熟しており,
20m
くらい は難なく登る(写真13
)。4.4
農耕K
村は居住地を数ha
の畑に取り囲まれている。主に 栽培されているのはキャッサバ(Manihot esculenta,
現 地名:Ubi
)であり,米のない時の彼らの主食である。これは,これまで野生のヤムイモ(
Dioscorea spp.
)が ネグリト系狩猟採集民の主な炭水化物源であり(
Rambo 1979
),ジャハイの生活や世界観にも重要であった(
van der Sluys 1999, 2000
)ことを考えると,大 きな変化である。K
村の人々によると,野生のヤムイ モはキャッサバに味が劣るので現在はあまり食べない とのことである。K
村がキャッサバ栽培を始めたのは 約10
年前と古いことではないらしいが,栽培の簡単さ と収量の多さから,K
村の周りには広大なキャッサバ 畑が作られ,なお裏山にも拡大予定らしい。元来ジャ ハイは1
-2
週間でキャンプ地を変え,焼畑をする場合 でも8
ヶ月も留まっていなかった(van der Sluys, 1999
) ことを考えると,キャッサバ栽培の大規模化はK
村の 人々の本拠地の固定化に大きく関わっている可能性が ある。キャッサバのほかにはナス,トウガラシ,サト ウキビ,バナナ,パイナップル,タバコ,パパイヤ,サツマイモなどが畑や家の周辺には植えられている。
一方,ニワトリなどの家畜は「トラが寄ってくる」た めに持たない。
4.5
買出し買出しには伐採業者や研究者の車に便乗して,約
40 km
離れた最寄りのJ
町か,80 km
離れたより大きなG
町に出る。ただし,伐採業者は運び賃を取るので,研 究者に頼みに来ることが多い。町に出ることは好きな ようで(町に着くとマレー人や文明社会に緊張して大 人しくなるのだが),声をかければ買いたいものが特に なくてもついてくる。町では米,油,砂糖などの食料品のほかに,ガソリ ン,靴や服,タバコや携帯電話などを購入する。携帯 電話は彼らの村や森では殆ど電波が入らないが,丘の 上や森の外から他村の友人や仕事相手(研究者など)
に連絡するのに使われるほか,音楽プレーヤーやカメ
- 172 -
ラとして若者の間で人気がある。「米がないから」と町 に来たのに,携帯電話だけ買ってお金がなくなること もよくある。
時々,まとめて物資の買出しをする。その時は米
20-40kg
,油10-20kg
,砂糖5-20kg
,野菜,ガソリンな ど車にあふれんばかりの荷物を積み込んで森に運び,翌日に多くの人が村まで数時間担いで帰る。荷物運び は大人の男だけでなく,
5
―12
歳の子供や女達も野菜 や砂糖などを5-10kg
ずつバティック(Batik
マレーシ アの布)に包んで,背負って歩く(写真14
)。色とり どりのバティック包みを20-30
人の人々が列をなして 山道を運ぶ様子は壮観である。これらの食糧は,van der
Sluys
(2000
)も報告するように,狩猟採集の成果と同じく村の人々に平等に分配されるようである。
写真
14
.色とりどりの布に包んだ物資を担いで村まで運ぶ 子供たちⅤ.教育・医療
5.1
教育学校がないので基本的に読み書き計算は苦手である。
アルファベットと数字の読み書きができれば良い方で,
給料支払い時の領収書のサインや住所などの記入は彼 らが最も苦手とする仕事であった。アルファベットを 並べた「単語」を読むことはほぼできない。年を数え る習慣もないので,正確な年は誰も分からない。ただ,
マレー人と働く機会のある成人男子を中心にマレー語 はかなり話すことができる。数少ない教育の機会の一 つは,
S
村で1
年に1
回ほど行われるマレーシア北部 大学(University Utara Malaysia
)などの大学や政府機関 による教育プログラムで,子供たちに読み書きを教え たり,遊びを通して社会ルール(順番に並ぶなど)を しつけたりする。この教育プログラムでは,古着や食 事の配給もあるため,子供だけでなく大人もK
村からS
村に出かける。5.2
医療医療機関らしい施設は,
J
町にある公立病院が最寄 りであるが,車道から離れたK
村からは,半日以上の 時間を掛けなければ医療サービスを受けることはでき ない。車両が入れるS
村へは,2週間に1度ほどの頻 度でマレーシア保健局(Jabatan Kesihatan
)の医療スタ ッフが往診に訪れ,主に伝染病の検査や重病患者の有 無を確認し,必要があれば町にある公立病院へと搬送 される。しかし車両の入れないK
村での医療行為は,依然として伝統的治療や,街で手に入る家庭用医薬品 を用いた治療に頼っている。文字が読めず医学知識が 乏しいことから,総合感冒薬等の家庭用医薬品を用い る場合でも,過剰服用等の危険な誤用が見られる。伝 統的な医療行為として,症状ごとに効能があると信じ られている様々な植物を森で採集し,飲用・塗布する。
また,現代文化の入り交じった迷信的な医療行為も見 られ,特に外傷や蛇毒が重篤な場合は日用品(玉ねぎ・
ニンニク・ガソリン・味の素など)を塗布することも ある。
また保健局のスタッフにより搬送される公立病院で は,治療費,入院費,食費がすべて無償にもかかわら ず,彼らの多くは保健局による医療サービスを避けて いる。その理由として,長期の入院と外科的手術をあ げている。おそらくは,西洋医学を信頼していないこ とから,医療行為の必要性を認識していないことが多 いようである。このように,彼らと医療スタッフとの 間での十分な合意形成がなされぬままに行われるサー ビスに対して,恐怖心にも似た嫌悪感を抱いているよ うである。
Ⅵ.世界観とメンタリティ
6.1
世界観・死生観口蔵(
1996
)が報告したスマッ・ブリ(セノイ系)と同じく,ジャハイの彼らも世界を球状ではなく,円 盤状に捉えているようだ。水を張った洗面器に皿を浮 かべたように,
K
村(およびそれを取り巻くテメンゴ ールの森)は海の上に浮いているのが彼らにとっての 地球であって,日本やアメリカ(もしくは最寄り町のJ
町さえも)は夜空に浮かぶ星の一つと考えている。我々が日本から飛行機に乗って来ていると言うのも,
その世界観を後押ししているのかもしれない。
2012
年8
月の調査時にK
村の長老(Ketua
)が亡く なり,その葬式に参加した際,彼らの死生観について 聞く機会があった。やや様々な意見があったが,共通 するのは,動物でも人でも死ぬと「アイル(air
マレー 語で「水」の意だが,ここではおそらく魂と同意)」が- 173 -
身体から出て,天に上がるということだった。葬式と は死者のアイルが天に上がっていけるよう祈る行為で あるが,失敗すると自分たちの日常生活に良くないこ と(洪水や突風など)が起こると考えている。葬式は シンプルで特別な儀式やあいさつなどはなく,皆が集 まってご飯を盛大に食べた(いわゆる共食儀礼)だけ で,涙ぐむ人もいなかった。天上の世界については「神 様に生前の行いを裁かれる場所がある」と言う人がい る一方,「死んでみないとわからない。飛行機で行ける 所よりももっと上の世界なのだから」とあっさりした 人もいる。「死者は雨となってまた地上に戻ってくる。」 という人もいる。同氏は「人(特にお年寄り)が亡く なると,数日間は雨が降り続く。この期間はあまり仕 事をせず,彼の冥福を祈るべきで,さもないと良くな いことが起こる(例えば,倒木の下敷きになったり,
トラに襲われたり,家が突風に飛ばされるなど)。亡く なった人は雨として森に降り注ぎ,森の至る所で自分 たちの生活を見守ってくれる。」と言う。また,「亡く なった女性は老いも若きも,スコールの前などに吹く 突風となって空を舞う。その突風が舞うと生きている 女性達に子宝をもたらす。」と言う者もいる。
van der Sluys
(2000
)は「不死の祖先」と「命ある現 在の人々」という2
つの層がジャハイの世界観の根本 にあり,この霊媒者や夢がこれら2つの層をつなぐ上 で重要な役割を果たしていることを報告しているが,これらの点について今回話を聞くことはなかった。
6.2
歌と踊りの宴葬式のあった晩,村人たちの歌と踊りの宴を見る機 会があった。村を夕闇が包む頃,
1
本の蛍光灯が広場 に設置され,竹筒をもって人々が広場に集まり,村に 宴の雰囲気が満ち始めた。若い女たちは顔を白く塗り,口紅をつけ,白い布をかぶっている。
午後
8
時,6
人の既婚の女たちが地面に横倒しにし た木の台を前に座り,長(約1m
)短(約50 cm
)2
種 類の竹筒を1
本ずつ持ち,打ち鳴らし始めた(写真15
)。 この竹のパーカッションは最初バラバラだったが,す ぐに長い竹と短い竹を交互に打つ2
拍子のリズムにま とまっていった。女たちの手前に村の男たちが1
人座 り,歌を歌い始めた(写真16
)。歌はほとんどがジャ ハイ語だが時々テミアール語(セノイ系)のものもあ る。空を飛ぶ鳥の歌あり,川を流れる木の実の歌あり,歌い手を変えながら歌の種類は
10
を越えた。男たちの 歌に竹筒の女性陣がコーラスを加える。普段控えめな 女たちが大きな声で歌い,迫力がある。写真
15
.竹のパーカッションを演奏する女たち写真
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.ジャハイの歌を歌う男写真
17
.踊る男たち竹のリズムと歌に合わせて若い男達が踊る(写真
17
)。踊りは比較的シンプルで,列を作って手足を交互 に上げながらグルグル回るパターンと,横一列で竹筒 の女性陣と向かい合うように前後に軽くステップを踏 むパターンがある。男たちの踊りはあまり長くは続か ない。数分踊って一気に盛り上がったら,しばらく休 む。あまり激しく踊ると,体が熱くなり目がチラつい て明日森を歩けなくなるので,ほどほどが良いらしい。- 174 -
一方の女たちは男たちが踊っていなくても,歌う人が なくても,ずっと
2
拍子の竹パーカッションを続けて いる。同じ2
拍子でも「長,短,長,短…」と「長,短短,長,短短…」の
2
種類があり,それらを適当に 交替させることでマンネリを防ぎつつ,女たちの足並 みをそろえ直しているようだ。3
時間にわたる宴の間,女たちは
10
分ほどの休憩を1
回とっただけだった(た だし演奏中に人は交替しているようだ)。おめかしをし た若い女たちは歌にもパーカッションにも参加せず,脇に座って宴を見ていた。
Van der Sluys
によると,このダンスパーティーは花の季節の始めに森の再生や豊穣を祈願し,「不死の祖 先」に捧げる儀式であると報告しているが,
K
村では わりと頻繁に(平均すると1
週間に1
度くらいで)開 かれるようで,楽しみとしての意味合いの方が強くな っているように思われた。この日行われたのは筆者ら 日本人の歓迎会でもあったようだ。静かな月夜の下,竹のパーカッションとジャハイ語のコーラスはほとん ど途切れることなく続き,最後に
60
歳近いと思われる 一番年上の男性がやや長く歌い,11
時に宴は終了した。Ⅶ.まとめと
K
村の今後ここまで見てきたように,
K
村の人々は現在も狩 猟・漁労・採集や簡単な農耕に時々のラタン採集など 賃金労働を日和見的に組み合わせる典型的なオランア スリ・ネグリト系移動採集民の生活スタイルを維持し ていると考えられる。しかしその中身をみると,漁労 方法の近代化や農耕の大規模化,携帯電話による他村 とのコミュニケーションなど様々なレベルの変化が見 られる。特に,キャッサバの大規模栽培は,従来の野 生ヤムイモを求める移動生活を不要のものとし,本拠 地を固定化する方向に働いていると考えられる。また,伐採業者や研究者,テレビなどから外部の情報に接す る機会も増えた。森の伐採が始まって約
10
年,林道が 拡張し,外部社会との関わりがより密接になる中で,K
村の人々は大きな変化の中にあると考えられる。村 は今後どうなるのだろうか。外的圧力として村の人々が憂慮するのは政府や伐採 業者による森の囲い込みおよび森の外への強制移住で ある。
K
村も数年後に伐採の予定されている林班内に 位置する。立ち退きを免れても,森林環境は伐採や林 道建設で大きく変わり,生活を支える川は赤土で汚染 されてしまう可能性があり,これまでの生活を継続し ていけるのかは疑問である。こうした状況はバテック(ネグリト系)など森での狩猟採集生活を続ける他の
オランアスリにも共通である(
Tuck-Po 2004
)。 外的圧力に対しては「吹き矢をお見舞いしてやる」と強がる彼らであるが,より実質的な問題は内的な問 題,つまり歯止めのかからない村人の流出であろう。
多くの人は決して町での生活や賃金労働に憧れている わけではない。彼らは政府が作った居住区のコンクリ ート造りの家よりも,
K
村の竹の家の方が快適で美し いと主張する。またゴム園で働くよりも,漁労・採集 を嗜好する。しかし彼らの暮らしも完全に森の中で完 結することはできなくなっている。キャッサバばかり でなく米も食べたいし,鶏肉や海の魚も食べたい。調 理法もマレー料理の影響をかなり受けているので,油・塩・砂糖・カレー粉など多くの調味料を必要とす る。携帯電話をかけるにはプリペイドカードを買わな くてはならないし,充電するには発電機を動かすガソ リンが要る。自分たちで治せない病気になれば病院に 行く。外の村には恋人もいる。「(
K
村は)何でも遠す ぎる」とS
村に移住した一人が言う。森の中の生活を続ける
K
村での狩猟・漁労体験や宿 泊体験,歌と踊りの儀式などは,実際の生活に根ざし た活動であるが故のリアリティがあり,ツーリズムの 対象としても十分に魅力的であると思われた。ただし,伐採の進行であれツーリズムの導入であれ,今後外部 社会との関わりがさらに密接になれば,彼ら独自の生 活様式や世界観は変化・喪失する可能性がある(
van der Sluys 2000
)。筆者らが村を離れる際,村人の一人が真剣な眼差し で訴えた。「人が少なくなっても決して自分はこの村を 離れない。だから,日本に帰っても自分たちのことを 忘れないでくれ。そして,是非またここを訪ねてくれ。」 何ができるのかは分からないが,彼の思いが貫徹でき ることを願わずにはいられなかった。空を見上げると,
数百羽のサイチョウがいくつものV字の群れをなして 渡っていった。
謝辞
信田敏宏博士(国立民俗学博物館)には本稿をまとめるに あたり有益なアドバイスを頂いた。最後に,心温まるもてな しや貴重な経験の機会を与えてくれた K 村の人たち,特に調 査の手伝いを親身になって付き合ってくれた若い世代のオ ランアスリに深くお礼申し上げる。
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参考文献
口蔵幸雄.
1996
.吹矢と精霊.東京大学出版会.口蔵幸雄.
1997
.オランアスリの起源:マレー半島先住民の 民族形成論の再検討.岐阜大学地域科学部研究報告1:143-169.
信田敏宏.