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1イ デ ィ ッシ ュ 演 劇 の 始 ま り に つ い て は 諸 説 あ る

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(1)

「故郷 」 か ら遠 く離れ て

イ デ ィ ッシ ュ 演 劇 が ニ ュ ー ヨー ク で 手 探 り し た も の

小倉 直子

イ デ ィ ッシュ演 劇 は 、1876年 、アブ ラハ ム ・ゴル ドフ ァーデ ンの ふ と した思 いつ き か ら、ル ー マ ニア の ヤー シ とい う町 に生 まれ た と言 われ て い る。 ゴル ドフ ァー デ ン は、 それ 以前 か らもイデ ィ ッシ ュ語 に よ る詩 作 に励 んで い たが 、 あ る ときカ フ ェ で 自身 の作 品 が メ ロデ ィー に乗 せ て 歌 われ てい るの を聴 き、 オペ レッタ の創作 を思 いつ い た のだ とい う。1そ して 、 自らの作 品 を上 演 す る 目的 で劇 団 を旗 揚 げ した。

古 来 ユ ダヤ 教 の年 中行 事 のひ とつ と して行 われ て きた プ ー リム祭2に 行 わ れ る寸劇

ト フ ン

と、道化 師3が 結 婚 式 の余 興 な どで行 う小 劇 を 除 いて は 、演 劇 そ の もの が 禁 じられ て きた ユ ダヤ 史 には 、 それ まで ゴル ドフ ァーデ ンが 打 ち立 て た よ うな 「演劇 」 は存 在 せ ず 、 プー リム祭 や バ トフ ンの存 在 が東 欧ユ ダヤ文 化 に お け る 「演劇 」 を身近 な もの と してい た とは い っ て も、 これ は 、ユ ダヤ 文 化史 にお い て非 常 に画 期 的 な出 来 事 で あ っ た。

1イ デ ィ ッシ ュ 演 劇 の 始 ま り に つ い て は 諸 説 あ る 。 こ こでは 、 以 下 の文 献 を参 照 し た 。 上 田和 夫 『イ デ イ ッ シ ュ 文 化 一 東 欧 ユ ダ ヤ 人 の こ こ ろ の 遺 産 』 三 省 堂(1996) 192頁 、Sandrow,Nahma:VagabondSTARSAWorldHista」 ワofYiddish Theater.NewYork(1996)pp.41‑43,Sprengel,PeterPopularesjiidisches

TheaterinBerlinvon1877bis1933.Berlin(1997)S.23.

2プ ー リ ム祭 の 故 事 は ペ ル シ ャ 時 代 に ま で 遡 る 。 宰相 ハ マ ンが ユ ダ ヤ人 絶滅 計 画 を 練 っ て い た が 、 美 貌 を 用 い 王 妃 と な っ た ユ ダ ヤ 人 の エ ス テ ル が ハ マ ン を 泥 酔 させ 、 計 画 を未 然 に 阻 止 し た こ と を 祝 う。16世 紀 頃 に は 現 在 の 形 と な っ た と考 え られ る が 、5世 紀 に は プ ー リ ム 祭 の 原 型 と 言 え る祭 りが 行 わ れ て い た と推 測 さ れ て い る。

ま た 、 ハ マ ン が 計 画 の 実 行 日 を 「く じ」 で 決 め た こ と に 因 ん で 「プ ー リム(く じ)」

の 名 が 付 い た と言 わ れ 、こ の 日に は 酩 酊 し 陽気 に 過 ごす こ と が 善 し と され る。ま た 、 子 ど も た ち が 親 や 教 師 な ど 目 上 の 人 を か ら か う 自 作 の 寸 劇 を 演 じ る の が 慣 わ しで あ る 。(Sandrow:a.a.0.§1:PUR【MPLAYS参 照 。)

3中 世 以 来 、 ドイ ツか ら東 欧 の ユ ダヤ 文化 に 見 られ る道 化 師 。 各家 庭 を廻 り寸劇 を 披 露 し た ほ か 、18世 紀 に は 、東 欧 ユ ダ ヤ の 結 婚 式 に 欠 く こ との で き な い 重 要 な役 割 を 担 っ て お り、元 祖 東 欧 演 劇 人 と し て イ デ ィ ッ シ ュ 演 劇 と の 関 連 も 指 摘 され て い る。

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ゴル ドフ ァ0デ ンは 、ユ ダヤの伝統 に依拠 して書いた。何世代に も亘 り、 口伝 え に 受 け継 がれ て きた 英雄 潭や教 訓 物語 を巧 み に再 構 成 し、 音 楽 とと もに舞 台の 上 に 再 現 した。 あ るい は、 ヨー ロ ッパ の物 語 をユ ダ ヤ風 に仕 立 で 直 した りも した。 それ らは、 プ ー リム祭 や バ トフ ンに馴 染み の あ った 大衆 層 に瞬 く間 に受 け容 れ られ 、東 欧 で怒 濤 の勢 い で拡 大 し、1880年 には モ ス ク ワの 舞 台 に登 る まで に成 長す る。4し か し劇 団結 成 か らわ ず か6年 後 の1882年 には 、マ イ ノ リテ ィ の政 治結 社 に転 じ う

る との 理 由 か ら ロシア 帝 国領 での イデ ィ ッシ ュ演 劇 が禁 止 され 、イ デ ィ ッシ ュ演劇 はや む な く、上演 の 場 を求 めて 「同胞 」 の住 む 西へ と移 動 を始 め、 プ ラハ やベ ル リ ン な どの い わ ゆ る 「西 ユ ダヤ 人 」 の居住 地域 にま で到 達 す る。5そ れ と前 後 して 、 1880年 代 に最 高潮 とな る、ポ グ ロム を背 景 と した東 欧 ユ ダヤ 人 の移 住 の波6と と も に 、イ デ ィ ッシ ュ演劇 も海 を渡 りニ ュー ヨー クへ と持 ち込 ま れ 、第 一 次世 代 の東欧 ユ ダヤ 人移 民 の支 持 を受 け、19世 紀 末 に新天 地 ニ ュー ヨー クで 「黄 金期 」 を迎 える の で あ る。そ れ は 、言 語や 風 習 の異 な る地 で、イデ ィ ッシ ュ語 で演 じ られ るイデ ィ ッ シ ュ演 劇 が 、再 びの デ ィ ア スポ ラに よ り失 わ れ た故 郷 と、離 れ離 れ に な った昔 な じ

お も

みへ の 郷愁 の念 、 さ らには 再三 再 四 に亘 り繰 り返 され て きた 離散 の ユ ダヤ 史へ の懐 い と共 鳴 し うる もの で あ った た めで あ る こ とは想 像 に難 くない。

しか しそ の隆盛 は、 一気 に満 開 を迎 えた桜 が 、咲 き誇 りなが らす で に散 りゆ く こ とを予 感 させ る よ うに 、す で に終 息へ の歩 み を 内包 してい た。イデ ィ ッシ ュ演劇 は 、 新大 陸 へ と渡 り1880年 頃 に 「黄 金期 」 を迎 えた の ち、早 く も1910年 頃 に は一 気 に 終 息へ と向 か うので あ る。7

4西 成彦 『イ デ ィ ッシ ュ ー 移 動文 学論(1)』 作 品 社(1995)58頁

5本 論 文 で は 「ハ シデ ィズ ム」成 立 以降 の東 欧 に居 住 しイ デ ィ ッシ ュ演劇 を含 め た 動 的文 化 に 関わ るユ ダ ヤ人 を示 す 場合 「東 欧 ユ ダヤ 人 」 とい う語 を用 い 、ユ ダヤ 人 間 の居 住 圏 な い し、そ こか ら生 じるユ ダヤ 人 内部 の 対 立 お よび断 絶 を示 す 場 合 は

東 ユ ダヤ人 」「西 ユ ダ ヤ人 」とす る。 それ は 、イデ ィ ッシ ュ演劇 な どの動 的文 化 が

東 欧 」 とい う地 に根 ざ した連 綿 た る歴 史 の流れ のな か に生 じた もの で あ る こ とか ら、語 の使 い分 け に よ り文 化 と政 治 的状 況 を明確 に区別 す るた めで あ る。

6そ の最 大の 移住 地 は ニ ュー ヨー クで あ り、イスラエルがそれ に続 くが、 ドイ ツ語 圏 主要 都 市や オ ラン ダな どの 同胞 を頼 った ケー ス も多 く、彼 らは 「西 ユ ダヤ人 」 か

ら 「ガ リツ ィア ・ユ ダヤ人 」 と して蔑 まれ 、疎 まれ た。

7"イ デ ィ ッシ ュ演 劇 の父"ゴ ル ドフ ァー デ ンの場 合 は 、子 であるイデ ィッシュ演 劇 がニ ュー ヨー ク で東 欧ユ ダヤ人 移 民の 第一 世代 に熱 狂 的 に支持 され た の とは対 照 的 に 、ニ ュー ヨー クへ の移 住後 ヒッ トに恵 まれ る こ とな く赤 貧 の うち にそ の生 涯 を

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故 郷 」 か ら遠 く離 れ て

この 終息 につ い て 、先 行研 究 は、資本主義社会ニュー ヨー クでの 「東欧ユダヤ人」

の生 活様 式 の変 化や 、啓蒙 主 義 の流 入 に よ るユ ダ ヤ教 宗教 様式 か らの離脱 とい っ た お もに外 的 に生 じた状 況 に理 由 を求 め る に留 ま っ てい る。 つ ま り、新 天 地 にお い て 受容 体 で あ る大 衆 の側 か らイ デ ィ ッシ ュ演劇 が 、次 第 に放 棄 され て い った とい うこ とで あ る。 な るほ ど、イ デ ィ ッシ ュ演劇 は、 ニ ュー ヨー クで の 「黄金 期 」 に こぞ っ て啓 蒙 思想 を謳 い 、それ は 、東 欧 ユ ダヤ の伝 統 は葬 り去 られ るべ き過 去 の遺 物 で あ る とい う見 解 の一 致 を示 して い る よ うで もあ る。 イデ ィ ッシ ュ演劇 の 「黄 金期 」 が わず か30年 余 りの短 さで あ った こ とを思 え ば、 今 に伝 わ る戯 曲 の数 は 、決 して少 な くは な いが 、8ニ ュー ヨー クで の 一大 ブー ム に乗 っ て多 産 され た イデ ィ ッシ ュ演 劇 の 大 半か らは、 ゴル ドフ ァー デ ンが か つ て 「東 欧 の」 イデ ィ ッシ ュ演 劇 に投 じた

よ うなユ ダヤ的 親 和性 は 消 し去 られ 、「低 俗 演劇 」9の 道 を ひた進 んで い る よ うに思 わ れ る。 戯 曲 を数 多 く読 め ば読 む ほ ど、啓 蒙 思想 との 結 びつ きを否 定す る こ とはま す ます 難 し くな り、イ デ ィ ッシ ュ演 劇 の東 欧 ユ ダヤ 性 か らの 乖離 が ます ま す顕 著 に 表 立っ 。 果 た してイ デ ィ ッシュ演 劇 に啓 蒙 思想 よ り先 の広 が りはあ るの だ ろ うか。

本 論 文 で は、 ニ ュー ヨー クで の 「黄金 期 」 に量 産 され た イデ ィ ッシ ュ演劇 の戯 曲 に見 られ る 「啓蒙 思 想」 と、 それ に 至 る まで の東 欧 イデ ィ ッシ ュ演劇 の性 格 お よび

西 ユ ダ ヤ人 」へ の影 響 を具体 例 を 用 い詳 らか に した上 で 、改めてイデ ィッシュ演 劇 の衰頽 につ いて 考 察す る こ とを試 み る。

終 え る。 そ の 最 大 の 理 由 は 、 故 郷 を 去 る こ と を 余 儀 な く され た ゴル ドフ ァ ー デ ン が 心 の 中 で は 渡 米 を 望 ま ず 、 東 欧 ユ ダ ヤ 人 社 会 を 二 分 した ニ ュ ー ヨー ク 移 住 と は 異 な る も う ひ と つ の 選 択 肢 「シ オ ニ ズ ム 」 に 傾 倒 して い っ た た め と言 わ れ て い る。 そ れ は 作 風 に も如 実 に 表 れ 、 晩 年 に な る と 、 そ の 作 品 に お い て も 「ユ ダ ヤ 民 族 主 義 」 が 主 張 され る よ うに な る。

sKurze ,RalfDasjiddischeTheaterinBerlinumdieJahrhundertwende,Koln

(2001)S.106・110,及 び 、 上 田 、 前 掲 書 、191〜195頁 に 拠 れ ば 、 ゴル ドフ ァ ー デ ン は65本 以 上 の 戯 曲 を世 に 送 り 出 し、 イ デ ィ ッ シ ュ 演 劇 界 初 の 商 業 戯 曲家 と言 わ れ る ヨゼ フ ・ラ タイ ネ ル は 、 一 人 で 少 な く と も80本 以 上 の 戯 曲 を 手 掛 け た こ と が 確 認 され て い る。

ジ ャ ル ゴ ン

9多 くの ユ ダヤ 啓 蒙思 想家 は、 「低俗 言 語 」 で行 われ る イ デ ィ ッシ ュ 演劇 もま た

低 俗 演劇 」 とみ な し蔑 ん だ。事実、ニュー ヨー クで多産 された戯 曲の多 くは、戯 曲 と して は未熟 で 、近 代 演劇 と して他 の 欧米 諸 演劇 との 比較 考 察 に耐 え うる強度 を 持 ち併せ て い る とは言 い難 い もの も多 い こ とは 否 め ない。

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1.19世 紀東 欧 ユ ダ ヤ世 界 とふ た つ の思想 潮 流

イ デ ィ ッシ ュ演劇 が 急成 長 を遂 げた19世 紀 の東 欧ユ ダ ヤ人 社会 を取 り巻 く状況 は 、12世 紀 にユ ダヤ 人 が ドイ ツ地 方 か ら東欧 へ と入 植 を進 めて以 来 、最 も複 雑 な も の となっ て いた。10外 的 に は 、と りわ け ロシ ア帝 国領 内 にお い て 、帝 政解 体 前 夜 の 混乱 と領 内 民族 間 の統 治権 争 い か ら不満 は欝積 、領 主 と結 びっ い た一 部 の特 権 階級 的 なユ ダ ヤ人 を理 由 に、そ の 刃 はす べ ての ユ ダヤ 人へ と向 か い、 それ に乗 じた反 ユ ダ ヤ 主義 へ の扇 動 が政 府 主 導 で 行 わ れ て い た。 こ の流 れ の な か で発 生 した の が 、 1881年 の ウク ライ ナで の 大規模 ポ グ ロム で あ り、これ を皮切 りに帝 国領 内す べ て の

シュ テ  トル

寒 村 に ポ グ ロム の波 が押 し寄せ た ので ある。他 方 、ユ ダ ヤ共 同体 の 内部 に あっ て も複 雑 さは増 す 一方 で あ った 。東 欧 ユ ダヤ 人社 会 、 と りわ け ポー ラ ン ド以東 の ユ ダ ヤ人 社 会 に は、領 主 と結び っ い た一部 の特 権 階級 的 なユ ダ ヤ人 か ら、 政 治支 配者 側 の言 語 を習得 しキ リス ト教 文 化 圏の 諸文 化 に も通 じて いた 知識 階級 、金 融業 や 貿易 業 に成 功 した富裕 層 、農 耕 を お もな生 業 と して シ ュテ ー トル に暮 らす 大衆 、そ して 、 そ の下 の貧 困層 ま で階 級 の差 が生 じて いた 。11そ の うち東 欧ユ ダヤ人 の 大多 数 を 占 め た の が シ ュ テ ー トル に 暮 ら す 大 衆 で 、 彼 ら は18世 紀 東 欧 に 興 っ た

三 婦 敬健 義」の宗教的な性格 を色濃 く保つ伝統的な宗教世界に生きていた。

ハ シデ ィズ ムの創 始 者 バル ・シェ ム ・トヴ12は 、形骸 化 した ラ ビの権 威 や 立法 重視 の 旧来 の ユ ダヤ 教 に異 を唱 え、 それ ま で神 聖 な言i葉で あ るヘ ブ ライ語 で の み許 され る と され て いた 祈 りを否 定 、神 との対話 はそ れ ぞれ が それ ぞれ の 言葉 で 、 それ ぞれ 10こ の章 で は お もに 、高橋 秀 寿 、西成 彦 編 『東 欧 の20世 紀』 人文 書 院(2006)61

〜93頁 所 収 、野村真理 「何 も終 わ って は い ない 一 束 ガ リツィ アにお け るホ ロ コー ス トの記 憶 を め ぐっ て」、お よび 、 野村 真 理 『ガ リツ ィア のユ ダ ヤ人 一 ポ ー ラ ン ド

とウク ライ ナ の は ざまで 』 人文 書院(2008)を 参照 した。

11こ の よ うな 階級 は 、 ドイツからユダヤ人 がポーラン ドに入植 を始めた12世 紀、

ポー ラン ドで は まだ キ リス ト教 の影 響 が それ ほ ど強 くな く、 先進 国 ドイ ツか ら優 れ た文化 を もた らす と してユ ダヤ 人 が珍 重 され た た め生 じた。 ま た、 の ちに 触れ るプ ラハ につ いて も 同様 の状 況 で あ った。 オ ー ス トリア=ハ ンガ リー 帝 国 の支 配 下 にあ って 、 支配 者 階級 の こ とば で あ る ドイ ツ語 を習 得 し、啓蒙 思 想 の影響 を受 け た 「 化 ユ ダヤ人 」 と、寒 村 に暮 ら し、 イデ ィ ッシ ュ語 を話 すユ ダヤ人 との 間の 断絶 は、

この時代 ます ます 拡 大 しっ っ あ った。

12生 年 不 明。1760年 没 。 「神 の名 を もつ 男 」の意 。本名 イ ス ラエ ル=ベ ン=エ リゼ ル 。

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故 郷 」 か ら遠 く離 れ て

の知 識 レヴェル で可 能 であ る と説 い た。 さ らにバ ル ・シ ェム ・ トヴは 現世 の 重 要性 を主張 、 日々 の生活 に 「喜 び」を見 出 し享 受 す る こ とを神 へ の奉仕 と位 置づ けた。13 これ らの教 えは 、17世 紀 の シ ャブ タイ ・ツ ヴィ の偽 メ シア14に 落 胆 して い た大 衆 の うちに広 く浸透 し、 日常 生活 と祈 り とを急速 に近づ け、 大衆 レ ヴェル で歌 や 踊 り な ど、18世 紀 以 降 の東欧 ユ ダヤ世 界 に 見 られ る動 的 文化 が発 展 す る土壌 を調 えた。

一 方 で、モ ーゼ ス ・メ ンデル ス ゾー ン に よ り18世 紀 の プ ロイセ ンに興 った ユ ダ ヤ啓 蒙 思想 は、東 欧 の大 都 市 をお もな居 住 地 とす るユ ダヤ 人 、な か で も知識 階 級 に 急 速 に浸透 して い った。 ユ ダヤ啓 蒙 思想 は中世 的 な状 況 か らの脱 却 の試 み として 、 ユ ダヤ 人 がユ ダ ヤ人 の まま に政 治 支 配者 側 の社 会 で 対等 な権利 を得 るた め 、政 治支 配者 側 の 言語 を習 得 す る こ とを主 張 した が、 そ の思想 は、 決 して 楽観 す るこ との で きなか った19世 紀 東欧 ユ ダヤ人 社 会 を取 り巻 く状 況 に一 条 の光 を見 出 し うる もの

と して 、東 欧 で も急 速 に拡 大 し、 「東 欧 ユ ダ ヤ啓 蒙思 想 」へ と発 展 した。

ハ シ デ ィ ズム」 と 「ハ スカ ラ0」 は 、 この 時代 の東 欧 ユ ダ ヤ人社 会 を 二分 す る 潮流 で あ り、また それ は、「大 衆」と 「知識 階級 」を分 か つ メル クマ ール で もあ った。

いず れ に して も、 時代 を 下 ります ます ぐ らつ く足 元 に 、東 欧 ユ ダヤ人 た ちが なん ら か の救 済 を 求 め、 その結 果 に生 じた思想 的対 立 な ので あ る。

2.イ デ ィ ッ シ ュ 演 劇 の 変 遷

この よ うな19世 紀東 欧 ユ ダヤ 世 界 にお け る思 想 潮流 の捻 れ は 、当然 イ デ ィ ッシュ 演劇 に も形象 化 された 。

"イ デ ィ

ッシ ュ演劇 の 父"ゴ ル ドフ ァーデ ンは 、ユ ダ ヤの伝 統 や伝 説 を戯 曲化 し 13現 世 にお け る神 との一 体化 を最重 要 とす るバ ル ・シ ェム ・トヴの教 えは 、次第 に 苦 行や 忘 我 ・{光惚 に至 るい わ ゆる 「トランス 」状 態 の祈 りな ど、独 特 の様 式 に発 展 。 現 在 で は、「ハ シデ ィズ ム」は、しば しば 「ユ ダ ヤ人 」とい う語 で イ メー ジ され る 「 ひげ」「黒マ ン ト」といっ た 出立 ち の超 正統 派 の 人 び と を指 す。彼 ら現 代 の ハ シ ド(ハ シデ ィズ ム信者)は 、ユ ダ ヤ教 の な かで もっ とも中世 的 な一 派 と看倣 され て い る。

1417世 紀 中葉 の トル コに興 った 偽 メ シア 運動 。 東 欧ユ ダヤ世 界 も巻 き込 み 、熱 狂 的な メ シ アブ ー ム を呼 んだ が、 メ シ ア を名 乗 る シャ ブ タイ ・ツ ヴィが オ スマ ン帝 国 に逮捕 され 、死 刑 かイ ス ラム教 へ の 改宗 か の二 者 択一 を迫 られ る と、 あ っ さ りとイ ス ラム教 へ 改 宗 し、 メ シア と信 じて いた 人 び とにた だ な らぬ衝 撃 と落胆 を与 え た。

(6)

続 けた。 ある いは 、西 欧 演劇 の プ ロ ッ トもユ ダ ヤ風 に仕 立 て 直 した。 例 え ば、東 欧

ト フ ン

ユ ダヤ社 会 に根 付 い て いた道 化 師 をモ チー フ に喜劇 を描 い た り(『 シ ュ メ ン ドリク (SHMENDRIK)』)、 ユ ダ ヤ の 恋 愛 好 情 詩 を戯 曲化 した り した(『 シ ュー ラ ミス (S…S)』)。 これ らゴル ドフ ァーデ ンの作 品 は 、部 分 的 には 、 旧来 のユ ダ ヤ 教 の権威 体質 を茶 化 す もので あ る とは い え、全 体 的 に はユ ダヤ 教 の宗 教 的 な性 質 を留 め 、観 客層 で あ る大 衆 の属す る東 欧ユ ダヤ 世界 が織 り成す 特 有 の雰 囲気 が ふ ん

だ ん に盛 り込 まれ て い る。ナー マ ・サ ン ドロウは 、ユ ダ ヤ啓 蒙 思想 家 の家 に生 まれ 、 戒 律 で禁 じられ た近 代 演劇 へ の一 歩 を踏 み 出 した ゴル ドフ ァーデ ンを、 東 欧ユ ダ ヤ 人 が伝 統 的 かつ 宗教 的 な 世界 を打 ち破 りは じめ た 時代 の代 表 的 な存在 として い るが、

イ デ ィ ッシ ュ語 か ら距 離 を置 く こ とな く、ユ ダ ヤ の歴 史や 文化 を重 ん じ、東 欧 ユ ダ ヤ性 に共 鳴す る よ うな ゴル ドフ ァー デ ンの作 風 は 、伝 統や 宗 教か らの離 反 とい うよ りは 、む しろ 、ハ シデ ィズ ム に彩 られ た東 欧 ユ ダ ヤ文化 に こそ 、そ の本 質 を見 出 だ せ る と言 えるだ ろ う。15ゴ ル ドフ ァー デ ン がは じめた イデ ィ ッシュ 演劇 が 、この 時 代 の東 欧 ユ ダヤ 人 大衆 に 受 け容 れ られ た の も、 この東 欧ユ ダヤ性 へ の親 和 力 あ って こそ と言 え よ う。 ハ シデ ィズ ムの教 えに よ り、 戒律 か らあ る程 度 の文 化 的 自由 を手 に して いた 大衆 で あ った とはい え 、彼 らに とってイ デ ィ ッシュ演劇 が親 近感 を覚 え る もの でな か った な らば 、イ デ ィ ッシ ュ演劇 に 成功 はあ りえな か った はず だ。

こ うして ゴル ドファー デ ンが礎 を 固 めたイ デ ィ ッシ ュ演 劇 は 、そ の隆盛 とと もに、

次 第 に担 い 手や 性格 を変 え て ゆ く。ヤ コブ ・ゴル デ ィ ンは 、『リア王(KEIVIGLIER)』

16の 題 名 か ら も明 らか な よ うに、シェイクスピア作品な ど、西欧同時代の演劇や古 典 を焼 き直 した。 ゴル ドフ ァー デ ン も ゴルデ ィ ンもそ うで あっ たが 、イ デ ィ ッシ ュ 演 劇 の作 り手 は 、ほ とん どが西 欧 文化 に明 るい 知識 人 で あ った。 それ は、 西欧 文 化 に親 しんだ 彼 ら知識 人 に とっ て演劇 が身 近 な もの で あ った こ と と、 この頃 に は彼 ら 知 識 人 は、す で に啓 蒙 思想 の影響 を受 け てお り、「戒 律」に よって 隔て られ た イデ ィ ッ シ ュ演劇 へ の参 入 が 比較 的 容易 で あ った た めで ある。17そ して 、ご く 自然 な 流れ と 15註7で も触 れ た が 、事実ゴル ドファーデ ンは、東欧ユダヤ人を取 り巻 く状況が悪 化 す る と、次 第 に シオ ニズ ムへ と転 じて ゆき 、ポ グ ロ ムに逐 斥 され た あ と、 不本 意

な が ら ゆき着 い たニ ュー ヨー クで 客死 す る。

16あ るい は 『ユ ダヤ の リア王』 と も訳 され て い る。

17こ の節 で は、 しばしばハシディズム とハスカラーの双方で、 「戒律か らの 自由」

とい った表 現 を用 い て い るが 、そ の性 質 は それ ぞ れ ま った く異 な る もの で あっ た。

(7)

故 郷 」 か ら遠 く離 れ て

して 、西 欧演劇 に 「い ろ は」 が求 め られ 、生 まれ て 間 もない イデ ィ ッシ ュ演劇 に も 西 欧 の作風 が取 り入 れ られ て い った 。

さ らに この頃 に な る と、イ デ ィ ッシ ュ演 劇 がユ ダヤ啓 蒙思 想 の色 を帯び は じめ る。

政 治 支配者 側 の 言語 や知 識 を習得 す る こ とで 、ユ ダヤ教 を保 ちな が ら もキ リス ト教 に 同化 す るこ とな く賎 民性 か ら脱 却 す る こ とが で き る と考 えて い たマ ス キ リー ム に とっ て 、 ドイ ツ語 崩 れ の よ うなイ デ ィ ッ シ ュ語 は 、悪 しき東 欧 ユ ダ ヤ性 の象 徴 の

ジ ャ ル ゴ ン

低俗 言語 」 で あ り、 イデ ィ ッシ ュ演 劇 もま た 「低俗 演 劇 」で あ った が 、 な に よ り イ デ ィ ッシ ュ演劇 は、観 客 で あ る大 衆 を啓 蒙す る打 って付 けの メデ ィア で もあ った。

こ うしてマ ス キ リー ム も、イ デ ィ ッシ ュ演劇 へ の参 入 を 開始 した。 あ るい は 、経 済 的 な 理 由か ら、 商 売道 具 と して イ デ ィ ッシ ュ演劇 に携 わ るマ ス キ リー ム も現 れ た 。 彼 らの 手 に よって 作 られ た戯 曲か らは 、 ゴル ドフ ァー デ ンの戯 曲に 見 られ るよ うな ユ ダヤ の伝 統や 東 欧 ユ ダヤ の世 界観 は 削 り取 られ 、代 わ りに19世 紀東 欧 ユ ダヤ 人 社 会 をめ ぐ る諸 問 題 が投影 され る よ うに な る。な かで も、ニ ュー ヨー ク の 「黄 金期 」 に書 か れた戯 曲 は、啓 蒙 思想 その もの と言 え る ものが 散 見 され る。

以 下 に見 る ヨゼ フ ・ラ タイネ ル の 『過 ぎ越 しの祭 りの夜 』 は 、そ れ らニ ュー ヨー クの 「黄金 期」 に書 かれ た啓 蒙 思 想 を謳 う作品 の 代表 的 な もの のひ とつ で あ る。

3.『 過 ぎ越 しの 祭 り の 夜 』

ヨゼ フ ・ラ タイ ネ ル(1853〜1935年)は 、 ゴル ドフ ァー デ ン と同 じル ー マ ニ ア の ヤー シ に生 まれ た 。 ゴル ドファー デ ンに影響 を受 けイ デ ィ ッシ ュ演劇 の劇 作家 と な り、「イデ ィ ッシ ュ演劇 初 の 商業 作 家 」といわ れ る ほ ど、とにか く数 多 くの戯 曲 を 世 に送 り出 した。 その 内容 は 当初 ゴル ドフ ァーデ ンや ゴル デ ィ ンに倣 って 、西 欧 の 文 学や 戯 曲 をユ ダ ヤ風 に焼 き直 した もの が多 か った が 、そ の拠 点 を ニ ュー ヨー クに 移 した頃 か ら、次 第 に 啓蒙 思想 へ と作 風 を変化 させ て ゆき 、1908年 にニ ュー ヨー ク で 『過 ぎ越 しの祭 りの 夜(DISSEJDERNAC且 丁)』を発 表 した。

ハ シデ ィズ ムで は 、「祈 り」へ の言 語(イ デ ィ ッシ ュ語)の 解 放 と、 「日常生 活重 視 」 の 結果 、大衆 レ ヴェル で徐 々 に 自由が拡 大 して ゆ き、そ の影響 は動 的文 化 に も及 び 、 結 果 的 に 「戒 律 」 の垣 根 が 自ず と低 くなっ てい った が 、 中世 的な宗 教 体 質 ゆ えに 対 外 的 に築 か れた 、 い わ ゆ る 「ユ ダ ヤ性 」 を 打 ち砕 くこ とで 中世 的 な現 状 打破 を試 み た ハ ス カ ラーで は 、意 図 的 に 「戒律 か らの 自由 」 を実 践 した ので あ る。

(8)

舞 台 は1859年 の ロ シア帝 国領 下モ ル ドヴ ァ。 先 ご ろ妻 を亡 く し独 り身 とな った ザ ル メ ンが 、休 息 の た め弟 家 族 の も とへや って くる。 ザル メン も弟 ドヴィ ド ・コー ン も正統 派 ユ ダヤ 教徒 で あ る。裕 福 な コー ン家 の娘 ラシ ェル は 、 ラシ ェル を数 年前 に火事 場 か ら救 い 出 して くれ た命 の恩 人 のカ ール と恋 仲 であ る。 カ ール は貴族 の 家 柄 で あ る。 しか し、 ラ シェル に は結 婚仲 介 人 に よ って選 ばれ た別 の婚 約 者 がお り、

また カー ル が キ リス ト教徒 で あ る こ とか ら、 カ ール との結 婚 は難 しい よ うに思 われ る。 ラ シ ェル は結婚 仲 介人 に よって 決 め られ た婚 約者 との結婚 か ら逃 れ るた め、 ド ナ ウ川 に飛 び込 み 自殺 をす るつ も りだ との書 置 き を残 し家 を出 る。 ラ シ ェル とカ ー ル の居 場所 に見 当 を付 けた 伯 父 ザル メ ン は二人 の も とを訪 れ 、二 人 を説 得 し別 離 を 促 す。 そ の年 の過 ぎ越 しの祭 りの夜 、ザ ル メ ン はカ ール の 弟 、 ドゥ ミ トリに よっ て 突 如 と して訴 え られ る。容 疑 は 「儀 式殺 人 」 で あ る。 過 ぎ越 しの 祭 りの儀 式 に必要 な キ リス ト教 徒 の血 を採 るた め に、 ザル メ ンが カール を殺 害 した とい うの だ。 ドゥ ミ トリに よれ ば 、数 日前 にカ ール が コー ン家 を訪 れ て以 来 、 カー ル が姿 を消 して し ま っ たの だ とい う。 ザル メ ンに は身 に覚 えの ない 容疑 で あ る。 しか し、 コ0ン 家 の 祭 壇 か らは赤 い液 体 の入 った瓶 が 、 また 地 下室 か らは カー ル が 日ごろ身 に着 けて い た名 入 りの指 輪 が発 見 され るな ど、 い よい よザ ル メ ン が疑 わ しくな って くる。 しか し、ザル メ ンを告 発 した ドゥミ トリは、 好 青年 の カ0ル とは対 照 的 に、 同 じ兄弟 と は思 えな い ほ ど素行 が悪 く、酒 や ギ ャ ンブル に金 を費 や し、 しば しば ラシ ェル の父

ドヴィ ドの も とを訪 れ て は金 の無 心 を して い たが 、最 近 で は ま った く返す 素 振 りの な い こ とか ら断 られ 続 けて い た。ま た ドゥ ミ トリは 、ラ シ ェル に好 意 を寄せ て お り、

一度 求婚 者 として名 乗 りを上 げ

、 そ の際 に ドヴ ィ ドとラシ ェル に キ リス ト教 へ の改 宗 を要 求 した が 、そ れ を ドヴィ ドに あ っ さ り と一蹴 され て お り、 コー ン家 に恨 み を もって い る よ うで あ る。 そ の後 、 ザル メ ンへ 掛 け られ た 嫌 疑 を裁 く法 廷 が開 かれ 、 裁 判 官 と、カ ール と ドゥ ミ トリの 乳母 の カ テ ィ ンカ が登 場す る。 カテ ィンカ は 、実 は カール は主 人 に頼 まれ 自分 が撲 っ て きた子 で あ り、か つ て はユ ダヤ 教徒 で あ った が洗 礼 を受 け させ た と語 り、 カール が ラシ ェル の伯 父 ザ ル メ ンの 実 の息子 で は ない か と話 す。 ザ ル メ ンは かつ て 、生 まれ て 間 も ない 息子 を人 さ らい に奪 われ 、 以来 今 で も、 そ の生 存 を信 じ我 が 子 を探 し続 けて いた 。 実 はザ ル メ ンを裁 くべ く現 れ た裁 判官 は ドゥ ミ トリに変装 を強 要 され たカ ール で あ り、カ テ ィ ンカ の話 を 聞 きザル メ ン が実 の父 で あ る と知 った彼 が正体 を明 らか に し、ザ ル メ ン は息子 との再 会 を果 た す。 ラシ ェル は本 来 ユ ダヤ 教徒 で あ った カ ール とめ でた く結 ばれ る。

(9)

故 郷 」 か ら遠 く離れ て

過 ぎ越 しの祭 り」 は 、出エジプ トを記念 して行われ、本来ユダヤ教年 中行事の な かで も最 も重要 な祭 祀 のひ とつ で あ る。 それ は、 ユ ダヤ 史 を貫 くデ ィア スポ ラの 最 初 の もの であ り、 そ れ に よって ユ ダ ヤ史 が デ ィア ス ポ ラに換 言 され うる現 在 の 姿 とな った た めば か りで な く、先 祖 の辛 苦 と神 の恩 恵 とを再 確認 す る 日で もあ るか ら だ。18し か しこの戯 曲は 、タイ トル に このユ ダ ヤ教 の一 大 イベ ン トを冠 して い るに も拘 わ らず 、ユ ダヤ の歴 史 や デ ィ アス ポ ラ は、 ま った く中心 的な テー マ で は ない。

む しろ、 おお よそ 「ユ ダ ヤ」 とい う言葉 か ら連想 され うる宗教 性 は ほ とん ど削 ぎ落 と され 、 単純 で 明快 な筋 書 きが 際立 って い る。禁 じ られた 恋 を密 か に貫 き最 後 には 結 ばれ るラ シ ェル とカ ール の物語 は、 典型 的 な メ ロ ドラマ で あ る し、ユ ダ ヤ 人で あ るが ゆ えに 、謂 れ無 き 「儀 式 殺 人 」の 嫌 疑 を掛 け られ たザ ル メ ンが 、 キ リス ト教 徒 に よって我 が子 を奪 われ た とい う過 去 が 明 らか とな る こ とで 、加 害者 か ら被 害者 へ とに わか に転 じ、 この物語 にお け る諸 悪 が 、た ったひ と りの 純然 た る キ リス ト教 社 会 の人 間 、 ドゥミ トリに帰せ しめ られ る運 び は、受 け手 で あ る観 客 に とって の(あ

る意味 で は我 田引 水 とも言 え る)勧 善 懲 悪物 語 の 典型 で あ ろ う。 あま りに も典型 的 な物 語 の 運 び には 、拍 子抜 けの感 す らあ る。 しか し、ここで最 も問題 なの は 、「儀 式 殺 人」 とい う中世 以来 、 ドイ ツ語 圏 をは じめ とす るキ リス ト教社 会 に暮 ら して きた ア シ ュケ ナ ー ジ ムに付 い て 回 った 悪 しき冤 罪事 件 の扱 い 方で ある。つ ま り、「儀式 殺 人 」 とい う極 めて 中世 的 な ア シ ュケナ ー ジ ム 固有 の 問題 が 、 この戯 曲 に あ って は 、 勧 善懲 悪 の ヒー ロー物 を仕 立 て るた め の、 ま た メ ロ ドラマ を成就 させ るた めの 「 掛 け」 と して取 り入れ られ た アイ テ ムで しか ない とい うこ とだ。 さ らに言 えば 、 ユ ダヤ教 の一 大行 事 で あ る 「過 ぎ越 しの祭 り」 も 、 この戯 曲 に あっ ては 、 「儀 式殺 人 」 とい う冤 罪 事件 の起 こる場 を提 供 して い るに過 ぎず 、「過 ぎ越 しの祭 りの夜 」に神 愚 り的 な奇 跡 が起 こ る とい うこ とな ど もない 。

儀 式 殺 人 」は 、19世 紀 東欧 にお い て も、内 政 の悪化 に比例 して 「ガ ス抜 き」 目 的で 政府 主 導 の も と激化 の 一 途 を辿 っ たポ グ ロム を正 当化す る恰好 の 口実 で あっ た。

18過 ぎ越 しの 祭 りは、エジプ トで奴隷 となっていたユダヤ人 を解放す るために、あ る夜 、神 がエ ジ プ ト人 のす べ て の 長 子 を殺 害 す る こ とを決 め るが 、ユ ダ ヤ 人 は 、 モ ー セ に よ って 伝 え られ た 神 の 言 い っ け通 りに 、家 の 門 に 目印 と して家 畜 の 血 を 塗 って い たた め 、 災い が"過 ぎ越 した"故 事 を記 念す る(出 エ ジ プ ト記12)。 ユ ダ ヤ暦 ニ サ ンの 月(4月)に 行 われ 、種 な しパ ン を食 べ奴 隷 生活 を強 い られ た 祖 先 を 偲 ぶ 。

(10)

この戯 曲の 舞台 で あ る19世 紀 末 のモ ル ドヴ ァに も、 ロ シア帝 国領 内の 政治 的混 乱 と比例 して 高 ま る反 ユ ダヤ 主義 の気 配 が少 なか らず 漂 って い たはず で あ る。 ま して や 、 こ の戯 曲 が書 かれ たの は1908年 で あ るか ら、 ポ グ ロム は事実 としてす で に起 こっ た歴 史 で あ り、 この戯 曲 の舞 台 とな って い る地 は 、起 こって しま った歴 史 の実 際 の舞 台 とな った 地 のひ とつ なので あ る。19そ れ ゆえ に、 本来 な らば 「儀 式 殺 人」

とい うモ チ0フ には 、不 条理 との葛 藤 、逆 境 で の耐 久力 、 そ して 、東 欧 ユ ダヤ文 化

ト フ ン

に は欠 か せ ない 道化 師 が 民衆 の代 弁 者 と して そ う して きた よ うに 、 自らのた だ な ら ぬ 悲哀 や 苦 悶 を、 これ で もか とい うほ ど滑稽 に仕 立 て笑 い飛 ばす 強 さ とユー モ ア が 纏 わ りつ い てい るはず なの だ。 これ らの諸 要素 を 「東 欧 ユ ダヤ 性 」 とす る な らば 、 この戯 曲 で は、そ れ ら 「東 欧ユ ダヤ 性 」が欠 落 してい る のみ な らず 、 「儀 式 殺 人」そ の もの や 、 それ を蔓 延 らせ て きた社 会 あ るい は歴 史 の語 り部 どして の役割 を担 うよ うな台詞 も見 当た らない。 東 欧特 有 の ユ ダヤ 的親 和性 は削 ぎ取 られ 、 ユ ダヤ 文学 に 凡 そつ き ものの 、「重 み 」の代 わ りに置 かれ て い るの は典型 的 なハ ッピー エ ン ドな の で あ る。 それ は い か に も、 「東 欧 ユ ダヤ性 」 へ の ア ンチ テー ゼ の よ うで あ る。

4.「 故 郷 」 に映 され た世 代 間 の断 絶

誰 も が 知 る ブ ロー ドウ ェ イ ・ミ ュ ー ジ カ ル 『屋 根 の 上 の ヴ ァ イ オ リン 弾 き 』 は 、 シ ョ ラ ム ・ア レ イ ヘ ム の イ デ ィ ッ シ ュ 語 に よ る 連 作 小 説 『牛 乳 屋 テ ヴ ィエ 』(1895 年 連 載 開 始)を 元 に して い る 。 こ こ に 取 り上 げ た 『過 ぎ 越 し の 祭 りの 夜 』 も 、『牛 乳 屋 テ ヴ ィ エ 』 と 同 じ よ うに 、 世 代 間 の 溝 を ひ とつ の テ0マ と して い る。20

『牛 乳 屋 テ ヴ ィ エ 』 の 主 人 公 テ ヴ ィ エ は 、 「伝 統 」 を 信 じて い た 。 「戒 律 」 と 「 習 」 に 疑 い の 目 を 向 け る こ と な ど思 い も よ らな い こ とだ っ た 。 娘 た ち が 恋 愛 結 婚 を

19キ ニ シ ョフ(現 モ ル ドヴァ共和 国 の首都)は 、1903年4月6目 に発 生 したポ グ ロ ムで知 られ る。 この 事件 を皮切 りに 、1903〜06年 にか け て、 ロシ ア帝 国領 内 で は政府 がイ ニ シ アテ ィブ を握 った ポ グ ロム が頻発 す る。

20『 過 ぎ越 しの祭 りの夜 』(1908)が 、 『牛 乳屋 テ ヴィエ 』 の連載 開始(1885)よ り13年 遅れ て書 か れ た こ とを考 慮す る と、 この戯 曲が ア レイヘ ム の連 作 小説 に影 響 を受 けた とい うこ とは充 分 に考 え られ る。 娘 の異 教徒 との 恋愛 か ら親 世 代 との 意 識 の 差 を浮 き彫 りに しよ うと して い る点 の ほか 、宴 の席 にキ リス ト教徒 の暴徒 が 押 しか けて く る件 もあ り、そ の二 点 に 関 して はほ とん ど同 じと言 って過 言 で は ない。

(11)

故 郷 」 か ら遠 く離 れ て

選 び取 ろ うと闘 っ た とき、テ ヴィエ も 自 らを 自 らた ら しめ る 「伝統 」 と新 しい世 代 との狭 間 で 闘 って い た。娘 た ちが 、 もはや 「伝 統 」 の世 界 の住 人 で はな い こ とを認 めな けれ ば な らな か った。

テ ヴ ィエ と同 じ時代 を生 き る ドヴ ィ ドとザル メ ン も頑 な に 「伝 統 」を信 じて い る。

と りわ けザル メ ン は 、 キ リス ト教 徒 を毛 嫌 い し、盲 目的に ユ ダヤ教 を信 じる正統 派 の ステ レオ タイ プ と して造 形 され て い る。ザル メ ンは 、「黄金 の時代 は必ず や っ て く る」(12)21と メ シア を 主 張 し、何 の た め に トー ラー や タル ムー ドを勉強 して い る の か とい うラシ ェル の問 い に 「何 の た めに?学 ぶ こ との 目的 は金儲 けな どで は な い。

(…)こ の世 に学 ぶ こ と以 上 に 大 きな喜 び が あ る とい うの か。 学 ぶ こ と以上 に純 粋 で神 聖 な 喜 び が」(12)と 律 法 の偉 大 さを説 き、 は じめて カ ール と会 った 際 に は 、

姪 の ラシ ェル を火 事 場 か ら救 い 出 して くれ た こ とへ の礼 を述べ る代 わ りに、「異教 徒 に も善 良 な男 が い る こ との証 明 とい うわ けか」(11)と 、嫌 味 た っぷ りに言 明す る。

カー ル が どれ ほ ど真 摯 で あ って も 、彼 が異 教徒 で あ る こ とが 、ザ ル メ ンに とって は す べ て な のだ。 一方 で 、 カー ル とラシ ェル の信 じた い もの は 、 「戒 律 」 に も 「慣 習」

に も囚 われ な い 「個 人 」 で あ る。 例 えば ラシ ェル は 、遠 路 は るば る家 へ とや っ て き たザ ル メ ン を気遣 い 「で も伯父 さま 、長旅 で お疲 れ で し ょ う?お 腹 も空 いて い らっ しゃ るで し ょ うに 、な に も召 し上 が らない の?」(9)と 食 事 を進 め るが 、それ は ち ょ う ど夕べ の祈 りの前 で あ り、ザル メン に とっ ては 「祈 りの前 に(食 事 を 【=筆 者註 】) と?」(9)と 、 ま っ た くも って信 じ られ な い提 案 で あ る。 ラシ ェル に してみ れ ば 、 夕べ の祈 りよ りも 、空 腹や 喉 の 渇 き とい った現 世 的 な事 柄 の ほ うが よ っぽ ど重 要 な の だ。 そ して ラシ ェル に も増 して 、新世 代 の代 表 と して造形 され て い るの がカ ール だ。 カー ル は弟 の ドゥミ トリや 、今 は 亡 き父 が反 ユ ダヤ 主 義者 で あ る こ とを認 め な が ら、「で もそ の こ とは、そ うい った ユ ダヤ 人へ の 態度 がユ ダヤ 人 の 隣人 に降 り懸 か る不 当にす ぎな い のだ と理 解 した と きか らず っ と、僕 の 中で炎 の よ うに燃 え続 け て い る」(12)と 告 白 し、 それ ゆえ に、 小 さな ころか らず っ と、 「人 類」 に新 しい力 を 与 え られ る 「王」 に な る こ とを夢 見 て いた の だ とい う。

21引 用 はす べ て、上 田和夫 『カ フ カの見 た イデ ィ ッシ ュ演劇 台 本 の ラテ ン文 字転 写 お よび 詳 註 一 カ フカ に対 す るイ デ ィ ッシュ 演劇 の影 響解 明 のた め の基 礎 的作 業 一 第1巻 一 ラテ ン文 字転 写 編(改 訂 版)』、 福 岡大 学人 文 学 部(2001)、1〜69頁 所収 、

「DISSEJDERNACHT」 に拠 る。 尚、 日本語 訳 はす べ て拙 訳 で あ る。括 弧 内 の数 字 は頁 を示 す 。

(12)

カ ール と ラシ ェル か ら見 た ら、宗 教 に拘 泥 し、共 同体 を重 ん じ、戒 律 に拘 束 され た 生 き方 は 、 ま った くもっ て古 め か しい ものだ っ た。 帝 国解体 を 目前 に、 日毎 に 高 らか さを増 して鳴 り響 く革命 へ の足 音 は 、彼 らの 耳 には 、 自由 を約 束 す る新 しい世 界 へ の扉 を叩 く音 に 聞 こ えた。 ドヴィ ドや ザル メ ンが 守 り抜 こ うと して い る 「伝 統 」 は 、新 しい世 界 には似 つ か わ しくない 中世 の 遺物 で あ り、概 念 で しかな い故 郷 と し て の共 同 体 な ど不 要 な もの に思 われ た。わ れ こそ は革 命 児 た らん とす る若 者 た ちが 、 革命 の先 に夢 見 て い た もの は 「個 人 」を保 障 す る 「自由」な世界 で あ り、そ れ は 「 類」 とい う新 しい概 念 に裏 付 け られ る もので あ った 。 カー ル とラシ ェル もそ の若 者 世代 に属 してい た。こ う して ドヴィ ドや ザ ル メ ンに とって は疑 い よ うの なか った 「 の故 郷 」 と して の 共 同体 は、 民族 主 義 的で 単 一 的、 排他 的 な もの と して子 どもた ち に疎 まれ た ので あ る。

何 世 紀 もの あい だ キ リス ト教社 会 と折 り合 い をっ けな が ら、他 人 の土 地で よ うや く手 に した 「我 が 土地 」 が、 政治 の混 乱 に よっ て今 や 再び 危 険に 晒 され 、物 理 的 に も 「故 郷 」 を失 うか も しれ ない状 況 下 で 、 ドヴィ ドや ザル メ ン もまた 、 テ ヴィエ 同 様 、心 の故 郷 と して の 「ユ ダヤ教 」 あ る いは 「ユ ダヤ 共 同体」 を重 ん じて いた が 、 それ す ら 「人 類 」や 「個人 」 とい う新 しい 概念 に生 きる子 どもた ち に よって 手放 さ れ か けて い たの で あ る。

ザ ル メ ン が、 古 いユ ダヤ教 に縛 られ る あま りに、 ユ ダヤ 人 と異教 徒 とを線 引 きす る こ とが 、結 果 と して異教 徒 の手 で 育 て られ は した が 、 自 らの血 を分 けた実 の 息子 の存 在 を も否 定 して いた とい うこ と、 そ して それ が 、 ほか な らぬ ザル メ ン に掛 け ら れ た 「儀i式殺 人 」 の嫌 疑 を裁 くた めに 開か れ た法 廷 で の大 どんで ん返 しで明 らか と な る こ とは 、ユ ダヤ 教 内部 に潜 む 反 キ リス ト教感 情 が、 「儀 式殺 人 」の冤罪 を蔓延 ら せ てい るキ リス ト教 社 会 での 反 ユ ダヤ 主義 と本 質 的 に何 ら変 わ りの ない もの で あ る こ とを示 して い る。 そ して、 ここ に見 られ るよ うな 、宗 教や 民 族 な どの上 辺や 表 向 き では な く、個 々人 を尊重 す べ き とす る思 想 は 、ま さに啓 蒙思 想 その もので あ る。

ここで は 、イデ ィ ッシ ュ演劇 をひ とつ のツ0ル と して、『過 ぎ越 しの祭 りの夜 』 とい う戯 曲を通 じ、 舞 台 の上 か ら大衆 を啓蒙 しよ う とい う試 み が為 され て い るの だ。

カ0ル は 言 う。 「農 夫 を畑 へ 送 る代 わ りに 、 貴族 が そ の衰 え きっ た筋 肉 で 自 ら労 働 に精 を 出せ ば 、そ の頭 か らは よっ ぽ どま しな考 え が生 まれ て くるだ ろ うに」(16)

と。 カ0ル に とっ て は、 貴族 の 出で あ る こ とが範 で あ り、身 分 や 階級 よ りも人 間 の 平等 が 重視 され るべ き なのだ 。 それ は 、 カール とラシ ェル の次 の会 話 に も明 らかで あ る。

(13)

故 郷 」 か ら遠 く離 れ て

(ラシ ェル とカー ル が 、絶 望 的な ふ た りの恋 の 行 く末 につ い て話 し合 って い る 【=筆者 註 】)

ラ シ ェル 「神 が そ うお望 み な の よ」

カー ル 「違 う!神 が問題 な ので はな くて、 僕 た ちふ た りの宗 教 が もつ迷 信 が 問題 な ん だ!こ の世 で何 に もま して神 聖 な のは 、僕 た ちふ た りを結 びっ けて い る気 持 ちな んだ よ。 当然 の権 利 さ。 そ れ は神 聖 で、神 そ れ 自身 と同 じ よ うに 崇 高 なん だ。」(17)

自然 」は 宗教 に優 り、「個 人 」は伝 統 に優 る とい う啓 蒙 思想 が 、カール とラシェル の 純粋 な恋 愛 を根 拠 に 、 こ こに提 示 され て い る。

この よ うに 、 この戯 曲 にお け る東欧 へ の視 座は 、 ドヴィ ドやザ ル メ ンで は な く、

す で に次 世代 のカ ール とラシ ェル に移 行 してい る。 そ して、『過 ぎ越 しの祭 りの夜 』 に表 され た 「東 欧 ユ ダヤ性 」 か らの心 理 的離 隔 は 、 ほか な らぬ世 代 の隔 た りの顕 れ な の で あ る。

この 、 「故 郷」 と 「伝 統 」、 あ るい は 「故 郷 」 と して の 「伝 統 」 を め ぐ る世 代 間 の 隔た りは 、 この 時代 のイデ ィ ッシ ュ文 学や イ デ ィ ッシ ュ演劇 で繰 り返 し問 われ て き た主 題 だ。 しか し、こ こで見過 ご して は な らない の は、ニ ュー ヨー クで書 かれ た 『 ぎ越 しの祭 りの 夜』 とウク ライ ナ で書 かれ た 『牛 乳屋 テ ヴ ィエ 』 の 、ふ たつ の 物語 にお け る 「故郷 」を め ぐる世 代 間 の争 い に準 備 され た結 末 の違 い で あ る。『牛 乳屋 テ ヴィエ』 で は、 ロシア 正教 徒 と駆 け落 ち を した三 女 ハ ヴァ とテ ヴィエ は和 解 す る こ との な い まま 、 ポ グ ロム に よっ て土 地 を追 われ た テ ヴィエー 家 はイ ス ラエ ル へ と旅 立 って ゆ く。 テ ヴィエ とハ ヴァ の断絶 は未解 決 の ま ま 、読者 へ の問 い とい う形 で残 され た ので ある。 一 方 『過 ぎ越 しの祭 りの 夜』 で は 、啓 蒙 され た新 しい世 代 に全 面 的 に 軍配 が あ げ られ て い る。

この180度 と も言 え る結 末 の相 違 に対す る解 は、東 欧ハ シデ ィズ ム世 界 と東 欧 ユ ダヤ人 の距 離 に求 め られ るだ ろ う。 あ くま で 「ユ ダヤ性 」 に こだわ り、東 欧ユ ダヤ を生 き る一 人 の大 衆 で あ るテ ヴィエ の立 場 か ら変 わ りゆ く時 代 を語 りっ づ け なが ら も、東 欧 ユ ダ ヤ世 界 の外 に新 たな 「故 郷 」 を見 っ け られ ない ま まニ ュー ヨー クに 客

(14)

死 したア レイヘ ム に よ って ウク ライ ナで 書 かれ た『牛 乳屋 テヴィエ』の主人 公テ ヴィエ の身 に降 り懸か る出 来 事 は 、テヴィエと同 じようにロシア領 に生きるす べ てのユ ダヤ 人を 取 り巻 く状 況 、それも刻 一刻 と、ひ たす らに悪 化の 一途 をた どる状 況をありありと伝 える「 実 」で あった。それ ゆ えに 、この物 語 の登 場 人物 た ちは現 に起 こって いる歴 史 、す な わち ポグロムの立 会 人で あるとともに、これ か らの人 生 にお ける歴 史 、すな わちホロコーストの 直接 の 、あるいは 間接 的な 目撃者 になって ゆくことが、最 終場 面 の再 び のデ ィアスポラに よって予 見 され るので ある。そ れ に対 し、ニ ュー ヨー クを新 天 地 と して 選 んだ ラタイ ネ ル に よっ て ニューヨー クで 書 かれ た『過 ぎ越 しの祭 りの夜 』に見 られ るユダヤ 的な事 象 は 、 商業 演 劇 につ きもの の意 図 をもって 、戦 略 として取 り入 れ られ た<sachhch>な もので し か ありえなか った のだ。あ るい は ラ タイ ネル は 、敢 え てア レイヘ ムの 『牛 乳屋 テ ヴィ エ 』 を模 倣 し、そ の 結 末 をひ っ く り返す こ とで 自らの思想 を主 張 した か った のか も しれ な い。そ して、極 端 な 筋書 きで カー ル をユ ダヤ に帰 属 させ 、「故郷 」に対 す る本 質 的 な 問 い を も不 問 に伏 す こ とには 、各 人 を基 盤 とす る新 しい世界 で は 、 もはや そ の問 いす ら意 味 を為 さな い とい うこ とが含 意 され て い る よ うに も思 わ れ る。

この 「故 郷 」か らの別 離 とユダヤ 性からの離 析 は 、観 衆 である大 衆の側 にも当て嵌 まる。

テ ヴィエが 、全 ての東 欧 ユダヤ人 に向 け、東 欧 のシュテ ー トル に生きる貧 しいユ ダヤ人 誰 しもが 自らと重 ね 合わ せ られ るような 一 大衆 として造形 され ているの に対 して 、『過 ぎ越 し の 祭 りの 夜』の登 場 人物 には 、テ ヴィエ のように身 の丈 に合 ったほどほどの信 じ方 で 、とき に手抜 きをしつ つ 、ときに神 に悪 態 をつ きつ つ 、貧 しい なが らもユー モ アで困 難 を切 り抜 けようとす る、典 型 的 な東 欧 ユダヤ 人 の大 衆 は存 在 しない。このことは 、イデ ィッシュ演劇 の 受容 体 であるニュー ヨー クに移 住 した 、か つ て東 欧 ユダヤ 人 大衆 であった人 び とに とっ て 、東 欧 がす で に振 り返 ることが可 能 な過 去 と化 していること、そしてニュー ヨー クという未 来 の地 にあって は 、ユ ダヤ教 的人 格 が 、もは や 不 要 不急 のものとな りつ っ あったことをも 示 していると言 えるだろう。言 い換 えれ ば 、啓 蒙 の試 み とは別 次元 で 、群集 心理 と して、

東 欧 とい う地理 的 「故 郷 」とユ ダヤ 教 な い しユ ダヤ 共 同体 とい う心理 的 「故郷 」は 、 ニ ュー ヨー クに根 を 下 ろ しは じめた東 欧 ユ ダヤ 人移 民 か ら遠 ざか り始 めて いた こ と の顕れ なの で あ る。 それ は ち ょ うど、 ウク ライ ナ 生 まれ の 『牛乳 屋 テ ヴィエ』 が 、 1964年 にニ ュー ヨー クで 、ミュー ジカ ル 『屋 根 の 上 の ヴ ァイオ リン弾 き』へ と姿 を 変 え た とき、テ ヴィエ ー家 が 目指 した先 がイ ス ラエル か らニ ュー ヨー ク に変 わ っ て いた よ うに、 そ して 、原 作 に はな か った ハ ヴァ とテ ヴ ィエ の和解 が 舞台 の上 で試 み られ た よ うに 、 もはや 「故郷 」 は 、東 欧 とい う地 に も、ユ ダヤ教 の伝 統 に も存在 し て い な か った のだ 。

(15)

故 郷 」 か ら遠 く離 れ て

こ の よ う に 、 ポ グ ロ ム とい う横 か ら の 衝 撃 は も と よ り、 作 り手 と受 け手 の双方 に そ の 理 由 を 有 し 、イ デ ィ ッ シ ュ 演 劇 は ニ ュ ー ヨー ク で 、 「東 欧 在 立 そ 」 か ら 「ニ ュ ー

ヨ ー ク仕 立 て 」 へ と転 じ て い っ た の で あ る。

5.東 西ユダヤ 人 と「東 欧ユダ ヤ性 」

さて、イディッシュ演 劇 を語 る上で 非 常 に重 要な 、避 けては通 れ ない 要素 に「西 ユダヤ 人 」へ の影 響 が ある。す で に触 れたように、ゴル ドファー デ ンに始 まったイデ ィッシュ演劇 は 当初 、極 めて 顕 著 な東 欧 ユダ ヤ的 親 和 性 を持 ってい た。そ れ は 、「同化 」の試 み や 、 モー ゼス ・メンデ ル スゾー ンに はじまったユダ ヤ啓 蒙 思想 か ら、すっかり西側社会に溶け 込ん で生 活 してい た近代 的 な 「西 ユダヤ人 」にただな らぬ 衝撃 を与えた。

いち早 く啓 蒙 思 想 の影 響 を受 けた 「西 ユダヤ 人 」と、ユダヤ教の伝統様式を保っ1東 ユ ダ ヤ人 」の間 の分 断 は 、19世 紀 に は決 定 的 となってお り、「西 ユダヤ 人」の側 か らは 、イ ディッシュ語 を話 す いわ ゆる「ガ リツィア・ユダヤ 人」へ の文 化 的優 越 感 から生 じる軽 蔑 と、

東 ユダヤ 人」の側 か らは 、正統なユダヤ教を放棄 した「同化ユダヤ人」へ の宗教的優越 感 か ら生 じる軽 蔑 という、ユ ダヤ人 同士 での反 目を生 じていた。その 東 西の 断絶 は 、西へ と移 動 したイデ ィッシュ演 劇 によってもた らされ た 「古 のユダ ヤ」が 、「西 ユダヤ 人 」にか つ てない ほどのカル チャー ・ショックを与 えるほどに拡 大 してい た。

かつ てカ フカは 、イデ ィッシュ演 劇 と出合 い 、それ を通 じて祖 父 の 時 代 と出 合 った。そ

シュテ  ト

れ は 、プ ラハ を選 んだ 父 によって放 棄 され た 寒 村 に残 る中世 的 な 東 欧 ユダヤ 世 界 で あった。イデ ィッシュ演劇 が織 り成 す 世 界 に は、伝 統 的 な様 式 を保 ったユダヤ 人 が生 きて いた。それ は 、ドイツ人 でもな けれ ば チ ェコ人 でもなく、ましてや ユダヤ人 ではありえな かったカフカの うち に 「ユダ ヤ性 」を覚 醒 させ た。のち にドイツ語作 家 として世 界 文 学史 の 要人 となるカフカへ のイデ ィッシュ演劇 の影 響 は、夙 に知 られ るところで あろう。22

22カ フ カ の 日記 に は 、1911年10月4日 か ら1912年1月24日 ま で の わ ず か4ヶ 月 足 らず の 短 い 期 間 に 、14も の イ デ ィ ッ シ ュ 演 劇 の タ イ トル が 登 場 して い る。 さ ら に カ フ カ は 、1912年11月3日 に 当 時 の 恋 人 フ ェ リー ツ ェ へ 宛 て た 手 紙 で 、 「この 詑 り言 葉 の 芝 居 全 体 は い い も の で 、私 は 去 年 そ の 上 演 に20回 く ら い は 行 っ た で し ょ

う。 ドイ ツ の 芝 居 は 多 分 全 然 行 き ま せ ん で した が 。」(DasganzeJargontheaterist schon,ichwarvorigesJahrwohl20malbeidiesenVorstellungenandim

deutschenTheatervielleichtgarnicht.)と 記 し て お り、 日記 に は 書 き残 さ な か っ

(16)

カフカ の父 ヘル マ ンが 目指 した 「19世 紀 プラハ 」は、オ ー ストリア=ハ ンガ リー 帝 国領 内のユ ダヤ人 にとって特別 な意 味を持っていた。地 理 的 にドイツに非 常 に近 く、ウィー ン、

ブ ダペ ストに次 い でオ ー ストリアeハ ンガリー 帝 国 第 三の都 市 であったプラハ に は、文 化 的に先 端 をゆくドイツ系 の移 民が 多く住 み着 いてい た。そ してそ の多 くは 、ドイツ系 同化 ユ ダヤ 人 であり、プラハ にお けるユ ダヤ系 人 口の 占 める割 合 は、総 人 口の一 割 以 上で あっ たという。23さ らに、1848年 に制 定 され たオー ストリア憲 法 によりゲ ットー は廃 止 され 、ユ ダヤ 人 であっても、居 住 地も、職 業 も、原則 として 自由 に選 択 す ることが できるようになっ て いた。カフカが そうで あったように 、ドイツ語 で 高等 教 育 を受 け、望 め ば役 人 にさえな る ことが できた。帝 国 内で貧 しい生 活 を強い られ て きたシュテ ー トル の ユダ ヤ人 はこぞ って プラハ を 目指 した。そこで成 功を収 めれ ば 、爪 に火 をともす ような生 活 に別れ を告 げ 、「 欧 ユダヤ 人」か ら抜 け出せ るというわけである。「ユダヤ性 」という中世 的 な悪 しき鎧 を脱 ぎ 棄 て、同 化 、あるいは 同化 まで いか ず とも、ユ ダヤ性 を家 庭 内の最 小 限 に留 める暮 らしを 選 び 取 ることは 、物 質 的 勝者 を意 味して いた。カフカの父 ヘ ル マ ンもそ の勝者 の一 人 で あった。ヘル マンの実 家 は、ボヘ ミア のシュテー トル で 屠殺 業 を営ん でいた が、ヘ ル マン は 単 身プ ラハ へ 移 り住 み 、そ こで ドイツ系 同化 ユダヤ 人で 醸造 業 を営む 裕 福 な一家 の 娘 ユ ー リエ ・レー ヴィと出会 い 結 婚 、ユー リエの 父 の 資産 を元 手 に 商売 を始 め 、プ チ ・ブル ジョワへ と伸 し上 がったのである。

シュテ ー トル で屠 殺 業を営 み 「東 欧ユダ ヤ人 」として生 きたカフカの祖 父 ヤー コプ 、プラ ハ を 目指 し「西 ユダヤ人 」へ と伸 し上 がった父 ヘ ル マン、そ して、チェコ人とドイツ人 のどち らでもありえず 、そ の狭 間で 揺 れ なが ら、堂 々と「ユ ダヤ 人 」としてや ってきた 「東 ユ ダヤ 人 」の 持つ ユダ ヤ性 に 自らのアイデンティティを見 出そうとしたフランツ。カフカ3世 代 の 歩 んだ道 は、東 から西へ 、そして再 び西 か ら東 へ と移行 した 「ユ ダヤ性」からの離 脱 とそれ へ の復 古 の試 み のステレオ タイプ を映 す 鏡 でもあるの だ。

プラハ は それ ゆえ に、「西ユ ダヤ人 」として生きることに異 を唱える人 び とにとっても重 要 なメタファー であった。マル ティン・ブー バ0の 著 作『ハシデ ィズムの教え による人 間 の道 』 第6章 立っているこの場 所 で」には 、夢 のお 告 げ を信 じ、宝 を探 してクラクフか らプ ラハ

た 観 劇 も 示 唆 して い る 。(フ ラ ン ツ ・カ フ カ/城 山 良 彦(訳)『 カ フ カ 全 集10フ リー ツ ェ へ の 手 紙 』新 潮 社(1992)61頁 、お よ び 、Kaflia,Franz!Hg.且ans・Gerd KochBriefe.FrankfurtamMain(1999)S.210.)

23ク ラ ウ ス ・ヴ ァ ー ゲ ン バ ッハ/須 藤 正 美(訳)『 カ フ カ の プ ラ ハ 』水 声 社(2003)、

15頁 。

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