近世の木頭林業
その他のタイトル A Forestry of Kito in the Tokugawa Period
著者 津川 正幸
雑誌名 關西大學經済論集
巻 6
号 5
ページ 410‑451
発行年 1956‑09‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/15690
一︑は二︑.阿波藩の林政
三︑木頭上山村の村落構造
本稿に取上げる木頭林業に関しては︑既に京都大学林業問題研究会によって︑
田︑溝川︑吉田︑河野︑市原︑西尾︑村上の諸氏の分担で︑歴史︑林業経済︑労仇問題︑公衆衛生等々の各方面よ
り検討が加えられ︑詳細な報告と多大な成果が発表されているところでもあり︑又先に半田︑森田両氏によって︑
( 2 )
木頭林業地帯における︑林業の資本主義的展開の過程の考察が発表されている︒
﹁林業地帯﹂に内藤正中氏は︑封建制下の木頭林業を森林利用における対抗を中心としてこれを取扱ひ︑厳重な
領主的規制・封建的森林制度にたいする農民の闘争を基軸に﹁伐畑山﹂および﹁取山﹂の利用形態の分析を通じて
林業発展の歴史を究明しようと試みられた︒
一
︑ は し
し
が き
が
き 五︑林産物商品化と商業資本の侵入 四︑林野所有の構造と林業経営
近 世 の 木 頭 林 業
津
( 1 )
﹁林業地帯﹂なる書に︑内藤︑半
J l l T F .
五0
幸
411
はヽ
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
内藤氏の論考では︑問題の設定上割愛されたものであろうが︑ る ︒ ち︑木頭林業は︑
流通関係の記述が少く︑
五 半
田︑
森田氏において 又半田︑森田両氏は木頭林業の資本主義的発歴の過程1それは明治中期以降を問題とするーーーの分析に先だ
﹁先進的林業地にくらべて経済的立地条件に恵まれず︑林業発達の歴史は比較的新らしい﹂もの
であり︑しかも﹁木頭の諸村は明治中期まで山間僻遠の地として永く流通経済から隔離せられおり︑村民は自給自
足的色彩の極めて濃い経済生活を営んできた﹂と理解されている︒従って木頭地方の如き閉鎖的山村における山村
経済の発展を規定づけるものは︑﹁その地方の山村経済が自ら外延的に発展する事は出来ず︑外部よりの交通の発
展に伴ふ商品経済の滲透によって展開されて行く︒特に農耕地面積が少く︑殆んど休地によって占められ︑林業が
その経済の中核をなすこれらの山村では周辺地域に於ける木材の流通機構の発展との結びつき﹂であるとされてい
﹁明治中期まで山間僻遠の地として流通経済から隔離せられ﹂ていたとされている︒
果して︑木頭林業地帯は永く流通経済より隔離されていたものだろうか︑確かに自絵自足的経済生活を営み︑そ
の経済生活も農耕地面積が少く︑殆んどが林地によって占められ︑山林稼︑伐畑耕作を生活のよりどころとしてい
た木頭地方では︑旧藩時代においては領主的規制・封建的森林制度によって︑自ら外延的に発展しえなかったが︑
領主の財政的窮乏の打開の為の木材の商品化は周辺地域の木材流通機構を通じて︑即ち領主に吸着する那賀川下流
の中島木材商人によって木頭地方も流通経済圏内に包含されていた︒しかしその指導権を下流商人に掌握され︑し
かも他方領主規制・封建的森林制度の枠の為に停滞的であり︑明治維新の林野制度の一大変革に当つても︑木頭は
立遅れ︑下流商人によって蓄積された商業資本に完全に支配されるに至ったものと見られるのではなかるうかC
る ︒
(2
)
の 林 政
﹁木頭地方における林業生産の性格とその展開過程﹂ 註
(1
) 昭和三十一年三月
闘 良
i ↑"杯業経済七〇 か4る意味において︑本稿では︑内藤︑半田︑森田諸氏の諸研究に利用されていなかった資料を添加する意味で
記述を進めようとするものである。独断、誤謬を多々おかしていると思われるが~方の御叱正をたまれば幸甚であ
尚本稿は昭和三十一年三月下旬︑京都大学経済学部農業経済研究室によって行われた︑木頭地方森林組合調査に
参加し︑得られたものの一部であり︑同大学山岡亮一教授︑山崎助教授︑山口大学関講師︑.本学鶴嶋講師ならびに
農業経済研究室永尾︑吉矢両学兄よりの御指導と御便宜を戴いた結果であり︑ る ︒
高陽書院発行
二
︑ 阿 波 藩
織豊政権によって打出され︑幕藩体制に継承され発展させられた政策は︑基本的には権力集中の方向へおしす4
められ︑小農民自立策をとったが︑その本来の目的とするところは︑耕地以下︑未墾山野︑水利︑入会採草地等の
掌握を通じて生産力の統制と農民支配の強化をはかり︑幕藩財政の安定と封建支配の全きを期するにあった︒
阿波藩においても天正十三年六月(‑五八五年︶以来︑元和元年︵ニハー五年︶にいたって阿波淡路両国二十五万
七千石が蜂須賀氏によって頑有されるところとなった︒
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
心から深甚の謝意を表する次第であ
五
413
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
定
即ち慶長十一年四月には 権を掌握しようとした動ぎが推察される︒ 阿波藩は二国一領で︑その領域内に天領地をもたなかった︒その為に蜂須賀氏の入国以来の施政方針となったも
のは︑旧領主の残存勢力より起る諸般の煩瑣を避ける為に︑細川︑三好の旧慣を掛酌し︑
も︑従来の知行制を俸禄制に完全に切替える事なく︑幕末期に至るまでも知行制が多少とも残された程で︑この事
﹁できうる限り︑多くの家臣の間へ土地を分割し﹂︑生産手段と生産者を分離する事によって特徴づけられて
いる封建的生産乃至は土地所有の組織を通じてなされる封建支配の物質的土台の強化という事であり︑
中という点よりすれば︑近世幕藩体制の基本的方向より幾分ずれている感はあるけれども︑
開基︑阿波藍の改良栽培等による国産の奨励︑更に土地開墾︑治山治水の業をす4めることによって︑
ては︑土地所有の構造転換をはじめとし︑諸制度上画期的な改変を認めるには︑なお中世的要素を残存せしめ︑判
( 1 )
然とした区別をなす事は困難であるけれども︑漸進的に領主権力を確立せんとした施政が窺われる︒
従つて︑山野︑水利等に関する関心も︑ は ︑
五
一面権力集
か4る基礎の上に塩田
そこにおい
それを通じて生産力の統制と農民支配の強化の為に︑山林については一
部の山林は家臣への知行に給与しながら︑他方においては従来の所有権の明確に判明していなかった山林・或は農
民の共同の利用に当てられていた入会地等をも含めて︑漸次に藩有林へ組入れ︑拡大して行く方向において︑支配
︵成 力︶
一当谷中之儀自今以後堅令政道急度可林置候万一無沙汰に仕竹於無之者其屋敷主並隣端之者共可令成敗事
一他郷より鹿ねらい来者自今以後堅令停止之条一人も不可入候若致許容者有之者可令成敗事 家臣への給与について
更にか4る法度は農民のみならず︑ 一不及聞候へ共百姓等口論於仕者縦雖為少之儀先申懸方可令成敗事
一縦
代宮
とて
も竹
木伐
取儀
令停
止候
事
右五箇条常々守此旨可致其覚悟者也
誕長十一年卯月廿二日
第五条に示された通り︑
し﹂
︒或
は︑
一般
に
︵第九条︶等の条文に取締方針が示されている︒
︵第
六条
︶
( 2 )
との奥山定書を各郡各村に発し︑林政の方向を示している︒即ち右五ケ条の定書の内容︑特に第一条︑第二条︑
﹁万一無沙汰に仕成これなきにおいては︑其の屋敷主ならびに隣はたの者共成敗せしむべ
「他郷より鹿ねらい来者·…••一人も入れるべからず候、若し許容いたす者あらば成敗せしむべし」。
﹁たとへ代官とても﹂︑竹木を伐取る事を停止せしめる程に断乎たる態度をも
( 3 )
つて臨んでいる︒このような山林に対する仕置の方針は︑元和四年二月朔日(‑六一八年︶に発せられた︑所謂御壁
書と呼ばれる藩法二十三ケ条の条文中にも取入れられ︑
かくして近世初期の施政方針の中に︑
林産物の商品化であり︑
一山
に火
をつ
くる
儀自
今以
後令
停止
事
近世の木頭林業(津川•
﹁自今以後代官給人郡奉行為覚悟処々山林相止義令停止候
為在所又用水之便にも可然義に候者申伺可随其旨無左右於致其沙汰郡奉行可為越度事﹂
相背国義者歎或対代官給人致緩怠者歎加様之族尤可遂成敗者也﹂
形態であったにしろ︑近世中期の財政的危機に直而する以前に︑ ﹁国中百姓等或
その重要な一項目として山林に関する政策も組込まれていた事は︑
諸藩に於いて︑元禄︑享保の財政的危機に直面して︑これが打解の為の重要な財源の一っとして重視されたものが︑
( 4 )
その故に︑林政の整備︑強化に拍車をかけた事は確であるが阿波藩においては︑初期的な
一応の沐野管理組織の嘔制が達せられていたと若
蓬
庵
五四
ィし,̲,̲ '‑‑‑ ‑ ← ‑ ‑ ‑ ‑ ‑
41.5
0検地名負山⁝⁝個人が用材薪炭材等を伐採する山林︒ ︵ ハ ︶
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
〇稼 0野 ︵ 口 ︶
林⁝⁝手林とも呼ばれ︑藩で主管して居た山︒
( 6 . )
︵二︶承役官林ー領主が所有権を有するが︑その使用収益を領内百姓にまかせるもの︒
0定請山⁝⁝御林のうち︑年々運上銀を徴するが︑または一時に相当の料金を納めさせ︑年季を限つて︑樹木株草
などの自由採取を許したもの︒
山⁝⁝御林のうち︑木材売買人に永代請所として貸下げられた山林︒但し木末代銀札一匁を一本ンいいい︑木
末代何本と請高を定められたもの︒
管理収益の主体が村にあるもの︒
︵入 会山
︶
山・
⁝・
・村
民が
株肥
草等
を採
取す
る山
林︒
山⁝⁝渡世山︑拌山ともいわれ︑百姓が稼業の為に用材或は薪炭材を採取する山林︒
管理収益の主体が個人にあるもの︒ 〇取 〇御
︵ 一 ︶
官営林ー領主が直接使用収益せるもの︒
︵イ
︶
五五
採︑個々の点についての詳細は︑後述する関係個所において述べることとし︑先ず阿波藩における林野制度の概
( 5 )
略を記しておこう︒
一︑林野の区分
原則として管理収益の主体が藩にあるもの︒これを二種に分かつ事が出来る︒ えられるのではなかろうか︒
︵ 八 ︶ 山 番
︵ 七 ︶
御林番
︵ 六 ︶ ︵ 五 ︶ ︵ 四 ︶ ︵ 三 ︶ ︵ 二 ︶ ︵ 一 ︶
二︑林野管理に関する職制
御林に関する一切の事務を掌る︒
御林取締に関する村役人の事務を監視する︒
御林制道役御林の取締に関する事務に従事する︒
御代
官︵
地方
代官
又は
林方
奉行
︶
林方検見役︑払下林地の検地︑ 御林以外の山林に関する一切の事務を掌る︒その為に林方手代︵属吏︶を附けて其の事務を処理させた︒
その他草木の植付手入仕成の事務にも関係した︒
受払
役︵
林務
方出
納役
網被
役︶
御林の手入仕成の費用︑払下代価の見積等をなすc
御林の保護取締に従事した山番c
村々に設け野山︑稼山等の保護取締に従事した︒
置方大網について︑年代不詳の文書で︑ 右の様な林野区分︑管理職制が定められ︑か4る基礎の上に林野の仕置方大綱が定められていた模様で︑今︑仕
しかも御林については︑杉桧ではなく松林に関するものであるが︑恐らく
樹種に相異があっても︑仕置の基本的な線は変りがなかったと思われるので︑次にその史料を掲げておこう︒
( 7 )
御 林 仕 居 大 網
御林目付 御林奉行 近世の木頭林業︵津川︶
五六
417
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
分之姿を以引方差略仕候義に御度侯事︒ 但其場所々趣に寄壱様に相成不申候︒ 根伐跡三ケ年下草鎌留︒拾ケ年之間手入無︒
‑1
七 三ケ年廻り弐番枝打三番枝と段々仕成申仕候事︒但大松七車中松五車小松三車に相定枝残置筈三拾ケ年目樵木仕成比と相成定年限御払之事︒根伐御払之時大綱町数相積反に付何斗生として惣石数相建枝葉共山床費に定惣銀高之内にて伐出し賃運賃其外諸造用引残銀高にて弐割は除有合に引尚残銀高運上銀之事︒但遠近に寄出し運賃に高下有之故御益銀多少有之筈且又土地善悪に寄弐拾五六ケ年にて仕成比相至候も有之又三拾ケ年過侯ても仕成出来兼候も有之候︒上納銀目も大数に相成ては春時上納難相錮仮令は丸年拾ケ年受に侯得は山拾壱に割壱傍示は質物山に相掛九ケ度上納にして上納毎に壱傍示宛相渡皆納之上は質物山共相渡侯事︒但質物山は口山に相残壱番傍止は奥力建口山へ順に相渡侯事︒拾ケ年受以上之年限受林は伐跡壱傍示宛は順に三ケ年宛下刈指留四ケ年目力は請年限中勝手次第下刈相手懸させ候事︒生返り之上木伐取候得は請所召放侯事︒
名 負 林 仕 居 方
一・惣山四方詰相極遂御検地有町之内弐割は岩付谷間等に引残町数御検地面之事︒
付紙に本文有町之内弐割は岩付谷間等に引上相認候儀ほ大綱之見込を以相認侯義にて岩付等にて木草生不申上地は見
運上銀定方之義は前顕松御林之稽方同様之拾ケ年之樵木右数相建山床売惣銀高之内にて弐割は余有合引残銀高諸造用引 拾壱ケ年目経ては手入間伐稜運上召上仕成申付候事
松 御 林
定請銀何貫目 床 銀 何 貫 目
山崩等にて永々山地相減候時は運上銀割引之事︒
村中又ほ頭何人 床銀は右之銀高三増倍を床銀と相定侯事︒但其場所々に寄壱様には相成不申候事︒上木伐は其時々生姿に応右顕同断之漬を以相定召上侯事︒矩は上々林中上林中林下上林下林と六段之矩之事C
惣山にて遂御検地矩相定村中請相仕居候場所追て百姓共方町面定請銀等之割合相極相互帰新之上名面相居侯て連判を以 人別受に願出候得は承届候事︒但此株追て壱人立山地指上度旨願出候得共援上に相当り候故難能許容候事︒
名負林は惣て課体山相仕居侯姿にて三拾ケ年生樵木銀高之内弐割引残銀高︱‑︳拾に割壱つ分壱ケ年之運上銀に相定侯故右
弐割之余有被伐跡拾ケ年目か三ケ年廻り之手入間伐順々に三枝打とは田畑之引合作法に相当り申侯事︒但仕成比相至り
候植木と壱時に相仕居侯ては上木床銀と銀目相重り候に付外者へ御売払成侯義も御座候事︒
惣山初k
人別御検地受侯義は指上願出候とも抜植には不相当侯事︒但壱縄廻り之内壱人にて数株受候内指上度杯顎出侯
義有之候においては壱縄廻り之事故御地方御作法向之通不残召上候事︒
上木代年符上納相成候株御年符上納に相応上木相渡皆上納之上御検地帳相渡侯事︐
御検地帳認方は御地方同様之事
但抜植に相当侯認方は左之通
四万詰峯切尾切水流切谷切田畑地
何々林何百何拾町何反 尚残銀高三拾に割壱つ分壱ケ年之運上銀と定候事︒ 近
世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
ユ八
419
近世の木頭林業︵津川︶
上木
定請
林之
義は
四方
詰相
建床
銀は
不召
上定
請銀
定方
之義
は名
負林
同浙
之事
︒
名負
林と
相成
候て
は田
畑同
様売
瞭之
義手
代裏
判に
て取
行候
事︑
御林︑名負林の仕居方の詳細はむしろ︑第四節の林野所有の構造と林業経営の項でのべるべきであるが︑後述の
個所と重複しない程度で林政の一環として考察しておくと︑
御林の管理は既に合理的に規定されており︑
の鎌留をなしている︒しかしこの規定は松林についてのもので︑杉桧の場合は︑木頭地方の例によって見られる伐
替畑として利用し後植林を行ったような場合も見られるが︑それらはむしろ例外的であって︑阿波藩の御林の管理
( 8 )
保護面にしめされた林政は︑元禄元年辰正月の獨書には︑
一︑在々御林泣野山とも焼申義︑兼て御停止被仰付置候得共猥に有之候︑焼不申様に可申付旨︑長谷川主計殿被仰
渡候条︑奉得其意焼不申様に堅申付候︑尤煙草之火に至迄無沙汰無之様に可仕候︑若火など付け申者有之候はゞ︑
急度不届に可申付候︑右之趣面々組村中何者によらず一々可相燭候
とあり︑既に元禄以前にも山を焼く事が禁ぜられており︑以後再三同様の獨を発し︑これが徹底につとめている︒
( 9 )
︑︑
︑︑
又﹁於在々御林御停止野は不及言野山たりといふとも︑向後かくひ堀申儀停止被仰付候﹂と伐株を堀取る事を禁
定請
銀何
拾目
何反
何畝
定請
銀何
匁
内間左之通
何反
何畝
自然生の幼樹を保護育成する為に︑ 何兵衛 何衛門
五九
立木伐採跡︵根伐り︶は三ケ年
阿波藩には棟付帳なるものがあり︑現在所々に保有され︑ 集計表により︑簡単に見ておく事は徒爾ではあるまい︒ 策が強化されていったものであった︒ ﹁其方共組下村々御林伐跡江御明不被成内又は御検地請之山へ罷越下草刈取申間敷旨小百姓至迄堅可申付候︑
( 1 0 )
若刈取申者有之候ほゞ据捕可参侯﹂とあり伐採跡の管理は厳重なものであった︒
又中間の手入についても︑枝打については十一年目より三ケ年廻りに二番枝打︑三番枝打と詳細に規定され︑適
伐期もその所々の条件によって決定された︒
旧藩
時の
戸数
︑
右のように︑阿波藩における林政は︑初期においてその方向が打出され︑中期元禄宝永期に至って︑益々管理政
註
(1 )( 2)
︵3
)
徳島県刊︑峰須賀蓬庵
( 4 )
烏 羽 正 雄 氏 著 日 本 林 業 史
( 5 )
林野庁徳川時代に於ける林野制度の大要︑徳島県鷲敷町史等
( 6 )
植村恒三郎本邦林野ノ入会関係卜入会権 遠藤治一郎著日本林野入会権論 (7 ) 御 大 典 記 念 阿 波 藩 民 政 資 料 下 巻
( 8 )
︵9
)
︵1 0
) 日 本 林 制 史 資 料 徳 島 藩
三
︑ 木 頭 上 山 村 の 村 落 構 造
近世における木頭林業について考察するにさきだち︑先ず林業生産の基盤である村落の構造について︑二︑三D
じ ︑
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
人口を知るに益するところ大である 六0
42J
第1表 木頭上山村戸数、人数、家畜数移動表
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
口 享 保7年c1122)
I
文化9年(1812)村 名 戸 数 I人 数I.戸 海
出 和 無 田
宇 宇 宇 南 西 折 北
ー
助 計
75 114 22 70 49 109 89 101 629
110 196 35 104 78 137 134 119 955
数
l
人 数 1 牛川
原 101
99 28 68 53 118 111 168 746
407 400 111 239 228 495 473 693 3046
90 73 20 71 45 49 75 18 441
壬申戸籍(1872)
I
戸 数I
人 数i
牛97 80 21 54 47 103 98 40 540
495 357 93 220 219 491 448 225 2548
73 56 20 36 39 47 60
゜
331
(註)享保、文化とも棟附帳による
尚享保7年人数は役人数(男子成年者)のみと思われる。
か
゜
六 尚︑棟付帳と総括して呼ばれるもの4中に︑所謂棟付帳で 小の在村地主の力の強さを単的に表現しているものであろう 温存せしめている事は︑僻遠の山村なる故の後進性か︑中︑ 材の生産地でありながら︑身分差別といふ封建的桂桔を永く が︑近世初期については︑殆んど知見する事が困難である︒
( 1 )
第一表に掲げる集計は年代的に相当なひらきがあり︑且つ亨
保時のものは完全な姿で残されていない為に全体と看倣すに
する事が出来るであろう︒従って完全な姿で残されている文
( 2 )
化九年の棟付帳により︑身分︑職制︑男女︑年齢等に細分す
ると第二表︑第三表の通りである︒当該表によって見られる
平地農村︑特に吉野川流域地帯の藍作を主とする商品作物生
( 3 )
産地帯においては︑既に正徳年間より﹁小家下人放し﹂に見
商品化といふ意味では︑藍玉と比肩さるべき重要さをもつ木 られる︑無償で解放が進められた地域に比して︑
生産物の
通り︑近世後期に至るも尚︑下人︑名子の数が多くあるは︑ は疑問を止めるところではあるが︑戸数︑人数の大略を把握
第2表
村 名 1家数II寺
i
堂 1神 主 ! 禰 宜1無役人1右下人1百姓 1名子 1下 人1来人1:灯
'(戸)1
65 I 16
出 原 I 99 1 2 12 3
和無田 i28 1 1 18 4 4
南 宇
l
68 2 2 2 1 59 2折 宇 118
I
15 1 60 48 1 3 北 川 111 2 1 1 42 64
助 168
I
I ' :
3 1 1 7 110 41 5
海 河 101 1 1 82 10 6 1
西 宇 53 1 1 1 37
,
3計 II 746 14 3 i
I
8 21 473 194 8 14 4木頭上山村職制、身分別戸数表(文化 9年)
第 3表 木頭上山村職制、男女、年令別人数表(文化9年)
近 世 の木頭林業(津川) 村 名 I人数 僧 神主 I1禰宜
!~ 丁 I 1 :
女 総 数 1640オ以下オ以上男 16.05オヨオマ:1病人!(人)
I
2: . , I
I出 原 II 400 193 14744 68 ' 101 5 和無田, 111 11 54 17 25 2 南 宇 II 239 2 1 115 121 53 62 6 折 宇 495 3 242 248 90 155 3 北 川 !I 473
1 2I : I '233117 233 114 109 10
助 693 372
18630 I
203
,
海 河 1 407
I l
11 187 207 117 7西 宇 228 I 4 115 101 I 51 53 3 計 I 3046 f l 3 4 l 1 ¥ 19 ! 24 I 29 11460 I 1506 I 636 I 825 45
出されず︑全く不完全なものであ
( 4 )
る が 第 四 表 に 集 計 し て 掲 げ て お く︒唯木頭上山村八ケ村の内︑出 原村分のみにつぎ︑寛永五年検地
( 5 )
帳が残存する︒これにより出原村 しては︑それを知る史料が殆ど見 てはどの様であったか︑
これに関
扱︑しからば田畑の規模につい 応右集計には加算しなかった︒ 者は三人程の記載があったが︑ については一人︑准士分︑士分の の棟付帳が見られた︒しかし穂多 があるが︑木頭上山村分にも三種 帳︑更に積多棟付人数改帳の三種 士分の者を記載せる棟付改支配外 介︑構浪人︑譜代家来等︑士分准 ある棟付人数改帳︵総帳︶と別家厄
‑
1ノ
423
第4表 木頭上山村田畑見模年別表
近 世 の 木 頭 林 業
( 淳 川
)
I
寛永5年(1628)検地 享保7年 壬申戸籍 (1872)による反畝歩村 名
田(町)
I
畠(町)i
伐畑(町)l
山林(町)田(町)
I
畠(町)'I伐畑(町)石 高石
海 ,11]I•· 臨 7 3.8523 3.1301 62.388 77. 0004 5. 3824 3. 5915
出 原 144.965 10. 8513 5. 2803 4. 4103 3.0000
和無田 8. 4019. . 8627 . 1717 41. 558 4. 7411 1. 0012 . 8601 1. 3000
閉. 子・→ , ' 81. 775 6. 3905 3.1914 2. 8024 西 宇 33.960 4. 1012 4. 4529 2. 6505 折 宇
1. 702611.9727
46.747 2.9225 5.4700 10.6518 北 川 45.302 6.2320 5.7701 8.9004
助 4.8221 30.67
第5表 出 原 村 所 有
反別百姓分布表
(寛永 5年)
反 高
l
戸数3反未満 3 3 5反未満 3 5 7 II 7 7 1町I/ 8 1 1 .. 5 ,, 5 1. 5町以上 I 1
計 ; I 27
六
九八石三斗四升五合三夕の村 ば︑寛永期は一三二石二升七合︑享保期は一四四石九斗六升五合で︑約百五十年の間の増加は︱二石余であり︑木頭上山村八ケ村全体の石
高より推察しても︑寛永五年
の検地高は四七0石五升七合
七夕︑貞享四年新開四石四升
五合︑寛政十一年に至るも四 ば︑よし仮令寛永期の戸数が誤りであったにしても︑ の近世初期の田畑伐畑反別及所有反別百姓分布状態をみると︑田畑伐畑総反高︑二0町五反一畝二七歩︑この分米一三二石二升七合外にか
ち︵猪︶三六五株︑茶園︱
10
六坪︑漆︱二八本が数えられるQ
所有反別百姓分布状態について︑田畑伐畑のみならず︑茶園等も加
算して集計区分すると︑第五表のように︑数においては五反より一町
歩の反高所持者が過半数となっている︒しかしこの表によって得られ
る二十七戸の戸数は︑享保以降文化年代に至る出原村の総戸数百戸前
後の戸数に比較すればその三分の一にも満たない︑若し寛永期︑享保
期︑文化期三期の戸数に相違なかったものとの仮定がゆるされるなれ
石高よりすれ
引高合十二石一斗七升八合六夕 高である︒如何様に見積り︑平均しても極零細な農耕地規模であった事がしれる︒この事は出原村のみならず他の七ケ村においても略々同様の状態であったであろう︒その為に山村農民の常食である稗︑粟︑黍をうる為に︑部郡木頭上山村々之義至極遠山にて伐畑作第一之場所﹂と記されているように伐替畑に依存しなければならなかつた
ろう
し︑
日常の渡世は︑﹁田畠無数材木仕成ヲ以渡世相浚﹂がねばならなかった状態が木頭上山村々の実情であ
ったであろうことが窺い知れる︒即ち渡世の拠り所となったものは︑山林であったといいうるであろう︒
( 6 )
諄複するけれども寛政十一未年御高物成品々受帳により今一度︑村高及物成高等を検討すると
一高四百九十八石三斗四升五合三夕
内十一石七斗七升八合六夕
︱斗一升三合
二斗八升七合折宇西宇
御林之内二有之伐畑御林二就被仰付宝永六丑年力御引
残而四百八十六石一斗六升六合七夕
内四百七十四石一斗二合七夕
四 百 七 十 石 五 升 七 合 七 夕 寛 永 五 辰 年 御 検 地 四 石 四 升 五 合 貞 享 四 卯 年 御 検 地
物成二百三石八斗六升四合御給四つ三分
但元四つ七歩之内去ル申ヶ四歩二御免被下 御蔵床 川成 木
頭上
山村
木頭上山寛政十一未年御高物成品々受帳未十二月 近
世 の 木 頭 林 業
︵ 津 J l l )
六四
﹁海
‑425
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
木頭上山村役人七十五人二分定役
覚^7
、 ー、
とあり︑物成は去ル申年︵天明八年︶より四歩引下げられ四つ三分になっているが︑隣接の平谷村四つ成︑古屋村三
つ五歩に比して︑尚高率であり︑外に掛茶として茶園利用に対しても物成が賦課されている︒更に労仇貢租︵夫役︶
である杉小桁四千二百四十挺が︑既に貢租体系が生産物貢租に移つていながら尚初期の夫役が変形され︑役数も増
加されて︑負担体係の中で可成な比重をしめている事に注意しなければならない︒即ち初期の形では︑ 米残而二百四十一石一斗一升二合三夕
外米
合十
六石
六斗
二升
三合
三タ
︱ニ
オ
内
元延
合 内掛茶九百四十斤一歩一厘
但シ米九石四斗一合一タニ而次茶一斤二付米一升宛
︵中
略ー
新開
︶
棟役八十四人八分
御殿役桁一人二付年中五十挺宛
惣物成合二百八石九斗三升九合
延米四十一石七斗八升七合八夕
二百五十石七斗二升六合八夕
九石六斗一升四合五夕茶ニテ引
一杉
小桁
四千
二百
四十
挺
六五
庄 左 衛 門 殿 治 良 右 衛 門 殿
与 右 衛 門 殿
月役年中十ニヶ月分也
但一人二付年中二百丁宛 右之通向後可被申付候若逐電仕者於致帰住旨相当之役目可有其沙汰候伯為後日如件
寛永九年十一月廿九日 木
頭 上 山 政 所
殿役之桁
R
二 口 合 三 万 八 十 丁
右同R
︳七千五百二十丁 ︳一l万二千五百六十丁 R 平井桁
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
稲 田 次 郎 五 郎 石 川 甚 右 衛 門
平 野 下 右 術 門
西 野 角 左 術 門
内 田 十 郎 兵 術
一人二付三百丁宛︑但シ壬月ニハ桁増可出侯
書判 六
六
‑427
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
とある︒本来杉小桁なるものは﹁根元之儀は御城内御普請御用二付︑年々当村より桁四千二百四十挺宛相仕成︑
( 8 )
御上納仕来り候﹂ものであったが︑後年には﹁遠路川筋積下り候節︑出水支又は水損等之あり候二付前年右之趣願
( 9 )
上奉り︑代銀を以て﹂上納する様になったもので︑
(10)
小桁
料四
通の
二
四千
二百
四十
挺 棟役八十四人八歩 木頭上山分
御殿役桁一人二付年中五十挺宛
四百
九十
五匁
三分
一厘
七毛
但シ
桁百
挺二
付銀
十一
匁六
分八
厘二
毛宛
外ニ
ニ歩
相加
ル筈
︵以
下略
︶
︵文久三亥年八月木頭上山平谷古屋︱︱lケ郁御高物成品々御請帳抄本ー明治五年︶
とあるように︑明治初年迄もちこされ︑
たが︑尚根強く貢租の賦課に存在し︑ 代銀 一
杉小
桁
六七
この変形した夫役が負担されている点︑領主的規制は漸次崩されつ4
あっ
この事がさして顕著な村落の構造変化が見られない木頭上山村の停滞性のよ
つて来るぺき原因の一っとして︑あづかつて力のあったものではなかったろうか°
註
(1
)
︵2
)
︵4
)
徳島県那賀郡上木頭村岡田互太郎氏所蔵文書及海部郡誌による︒
( 3 )
堀江英一氏綱﹁藩政改革の研究﹂阿波藩の藩政改革︵大槻弘氏︶
( 5 )
上木頭村上野茂氏所蔵文書
( 6 )
右二同ジ
(7
)
上木頭村近藤氏所蔵文書
(8
)
︵9
)
︵1 0
)
上木頭村役場蔵筆写文書
覚
( 1 )
御林制度申付覚書 四︑林野所有の構造と林業経営
︵一︶藩有林の拡大
阿波藩の林政について︑その概略と基本的方向に関しては先に略述した︒しかし阿波藩全域における林野の所有
構造︑即ち御林︑家臣へ知行として与えられた山林︑農民保有の検地名負林︑入会山林等々の夫々の比率がどの程
度の量であったかについては︑これを量的に把握するは困難であり︑寧ろ不可能事であるというべきであろう︒し
かしながら先の数種に性格づけ︑区分した山林の中で御林に属する山林が量︵反畝歩︶︑質︵樹種︑蓄積石数︶両面で
他の所属保有の山林に優先していたであろう事は容易に想像しうるところである︒
しかして御林に属する山林は蜂須賀氏治政初期に一挙に組入れられたものではなく︑徐々に拡大されていったも
のである︒その対象となった山林は︑最初は所有の明確にされていなかった山林よりはじめられ︑次第に農民の共
同の利用に供されていた山林︑或は農民保有の山林︑或は又農民の食料栽培の為に払下げられ︑代替畑として利用
されていたいわゆる伐畑山えと拡大の手がのばされていった︒従って当然そこにおいては︑山林の飼肥料としての
草苅り︑或は薪炭材採集の利用形態からではなく︑食料としての稗︑粟︑大小豆等の栽培用地の削減の為に農民に
は等閑視する事の出来ない問題として︑これに対する関心がたかめられたであろう︒阿波藩では木頭上下山村の例
によって見ても可成早くより︑伐畑の拡大を禁止し︑御林の保全をはかつている︒即ち天和一ー一年︵一六八四年︶の獨で︑
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
六八
幽
a← ‑