近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
一 が 七 百 目 富 岡 町 四 百 目 立 江 町 一 請 次 安 永 三 午 年 十 月 七 日 十 ケ 年 請 一 同 天 明 五 巳 年 正 月 同 断 一 同 寛 政 九 巳 年 五 ケ 年 請 二 成
ば
︑ 従 来 は 木 材 の 仕 出 し 売 買 は 売 人 の 意 志 で 行 な わ れ て い た も の が
︑ 後 す べ て 挽 座 の 差 配 に ま た な け れ ば な ら な く
なった事にもよる︒
( 9 )
扱︑挽座株の免許の変遷を﹁挽座古来之事﹂党書によりうかゞうと︑
一初
メ
t
百廿四年二成初メ富岡中嶋請所元禄三午年か八十六年め二木頭へ相渡リ三十八年二成ル
但シ享和元辛酉迄也
一富岡中嶋二挽座売場所被仰付候事
八七
とあり元禄三年︵一六九
0年︶に富岡中嶋に挽座の免許が下げ渡され︑右の文書には︑八十六年目とあるが実際は 七十六年目の明和元申年に木頭請所に改められた︒即ち︑
( 1 0 )
覚 書
一廿五人之売人と申義取山所持仕候材木仕出申者売人と申也⁝・:近年ハ木頭二而所持いたし候者廿五人売人と申事二侯︑右
ニ付挽座請所木頭売人請所二而御座候
明和元申年十一月廿七日木頭請所二相成候︒
初 の 御 運 上 一
/ 五 百 目 中 嶋 浦
覚
︵享
和二
年︶
戌十
月
那賀郡中島浦
とある通り明和元年より享和元年(‑八
0一年︶までの三十八年間が木頭売人の請所となるところであった︒
しかし木頭売人が挽座株をうけた事は︑色々な点で不利であり︑富岡︑中嶋の売人のように見通し︑あるいは経 営面でも充分でなく︑おそらく後者に市場において牽制されたであろう︒その為に木頭売人の中には取山を下流の 商人に譲渡売買する者もあり︑又寛政九年請次ぎの場合には︑木頭売人の内部より故障を申出る者が三人も数えら れる始末で︑結局請年限を五ケ年に短縮した程で︑漸く木頭売人の挽座を請ける為の体制の不備をさらけ出し︑享
和元年の年季明けには︑
( 1 1 )
仕 渡 書 物 之 事
一是迄挽座下請人共手共二而売捌来候得共此後は問屋相定申上ハ筏壱艘も外方江相洩不申木頭上山村々ケ仕出申筏之義は私
手元二而売捌候様御願申上候事
一其御地材木方売人当山江入込仕出材木相調候は我々手元へ相下申候へ共売冗不仕何れ相調侯共各々方へ筏相下有来口銭相
渡候様家元二而相究申上二而売冗仕候事
一当山売人共ケ諸材木挽物之類直々二相下申節は相場聞合之上積出尤地売之義ハ材木屋勿論其他諸職人浦方郷中江相届之方
ハ各
々
k勝手次第二売捌候様私共ケ奉願上手配可仕事
一当山売人共荷物相下申節罷出相対致売不申候様此後相究可申侯事
右之通相究問屋相究申上は此後随分究之通相約メ諸材木筏二相下申共右様相心得猥二相成不申様各々問屋奥書一札如件
木頭上山村売人惣代
︵前
略︶
近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
連
名
八八
二·~~---―--···-
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近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
一替為銀利足之儀は同壱分五厘仕切銀之内二而引取可申事 一売れ不申木は替為銀相渡置積出可申事一仕切銀着次第銀子相受可申事 一材木入札仕売捌代銀早速相渡可申事
土 佐 屋 忠 兵 衛 殿
挽座請次ぎを願出たが︑
( 1 2 )
げ候様仰せ付けられ候ては︑木頭山売人︑百姓の為に成申さず候﹂との理由で木頭へは挽座は許されず︑富岡︑中
嶋浦売人に再び免許されるところとなった︒
ハ九
再び挽座株が川下に移るや︑富岡︑中嶋商人は︑木頭上山村々の指導権を完全に掌握し︑木材搬出の大動脈であ
る那賀川川口に位置する経済的立地条件からして︑木頭林業の喉頸を押えてしまった︒木材売買の仕法にも如実に
一材木筏著次第木数相改受取乗賃相渡可巾事並材木紛失仕候得は先年之法之通乗賃二而引取可申事
一口銀之儀は銀高百目二付五匁仕切銀之内二而受取指引仕残銀相渡可申事
一積出材木指替等二不正仕間敷事並大坂仕切金荷主へ相渡可申事
一散乱木祁々二而相対売仕間散事
一金相場之儀は時々相場仕金仕懸ケ等仕間敷事
( 43
仕 渡 約 束 書 物 之 事
そのことが窺われる︒ と体制一新︑諸般に亘つて改革を行い︑
角 屋 与 右 衛 門 殿
﹁七郎右衛門︵木頭上山之内北川村の人︶申し上
一於
山元
御年
貢諸
上納
銀指
支侯
硼古
屋口
t
出原村迄土場有之材木引合を以取替上納可仕事並木色木数切判木印間数相改証文相認所御役人御林目付衆中奥書申受候上二而銀子取かへ可申事他
一他
国木
積込
並川
長筋
不正
之荷
物取
扱仕
者有
之候
得は
私
k御
役所
へ言
上急
度行
看可
申事
︵云
々︶
天保六年己未十二月
本頭上山村庄屋五人与中
右のように年貢上納銀の銀子とりかへ︑その担保として山元土場の材木を押さえ︑川下に流送した︑材木は入札
で売
買し
︑
口銀は仕切銀で天引き︑又売残りの材木代銀は替為銀を渡して中央市場へ出荷する︑こ4において金銀
との利害は全く相反するもので︑ 相場の変動と︑替為の操作による山元百姓のはかりしらない﹁うまみ﹂があったわけで︑そうでなくとも山元百姓
( U )
同年の天保六年には再三に木頭上下山挽座再興願書を出し苦情を申し述べてい
る︒その中にF近年打続凶作仕百姓共一統極々迷惑仕居申︳一付少々宛材木仕成仕リ中島富岡へ相下候得共︑他国木
入次第故早速買取呉不申︑仕成人彼地二数日逼留仕造用多相懸リ︑其上相場下直二而不買取仕︑山方百姓共碑迷惑
仕儀二御座候⁝⁝先年£挽座被為仰付材木仕成を以渡世相凌申土地柄故御林仕成無指支出来仕儀と奉存候而植付出
情仕候処︵寛政年度の伐畑えの植林︶前段之通右商売不繁昌二付而ハ植付木も不出精二相成儀二御座候︒
何に川下商人の支配が山元に及んでいたかを察するにかたくないであろう︒
そしてこの事は︑商業資本を媒介として︑尚林業の基盤は領主的規制と封建的土地所有に基ずく森林制度にあっ 右之通当郁善右衛門約束書指出申処今承知候二付奥書如件
ー仕
切銀
替為
銀延
引仕
間敷
事 近 世 の 木 頭 林 業
︵ 津 川
︶
組 頭 庄 屋 湯 浅 要 左 衛 門
大京原村
善 右 衛 門 外 九
名 九3
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