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オランダ東インド会社とその日本産銅の貿易

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(1)

オランダ東インド会社とその日本産銅の貿易

その他のタイトル The Dutch East India Company and its Trade in Japanese Copper

著者 宮下 孝吉

雑誌名 關西大學商學論集

巻 8

号 3‑4

ページ 241‑265

発行年 1963‑10‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00021626

(2)

オランダ東インド会社とその日本産銅の貿易

既存の遠国会社の合併により一六

0

二年に成立したオランダ東インド会社

( Ge n e ra l N e ed er la nd sc he   Ge oc tr oy ee rd e 

① 一七九六年に事実上消減した︒

その存続期間のうち一六二

0

年から一七四

0

年頃までは︑会社の東洋における勢力の絶頂期であるのみならず︑

この会社の発展において拡大する諸様相を含んでいた︒詳言すれば一六二

0

年頃には南アジアにおける︑最初は商

業的で漸次にすぐれて領土的となりつつある︑

会社は巨大な存在として現われ︑その外見においてはよく整備された富める商事会社であり︑その活動は一七

00

年から一七三

0

年代の中頃まで通常二十五ないし四十︒^ーセントの配当を年々オランダ本国にもたらした︒それは

黄金時代にみえた︒しかし︑漸次に下降のカーヴが認められる︒すなわち︑改革の要求が火急となり一七四

0

年頃

には会社の残余期間を特徴づける幾多の提案や報告が現われている︒

この稿ではこの期間

(1 62 0 17 40 )

における貿易の一面を取扱うのであるが︑そのまえに会社の組織・運営等に一言ふれておかねばならない︒

オラソダ東インド会社とその日本産銅の貿易

O os t , In d i sc h e   C om pa gn ie ) 

ま ︑

オランダ帝国の姿がぽんやりと認められる︒十八世紀の初になると︑

(3)

22

ーランド︵ミッデルブルフ︶以外の分社は﹁小分社﹂と呼ばれ︑ホーン︑

を作った︒地方的事項はさま ニンクホイゼンの分社は﹁北部分社﹂︑

会社の組織は一六

0

二年オランダ連邦議会

貿

となった勢力を確保した︒

( St a a te n , Ge n e ra l )

によって採用された特許状に現われている︒

いた諸遠国会社

(C om pa gn ie va n  V er re )

が連合東インド会社の分社

(K am er )

ロッテルダム︑デルフト︑ミッデルプルフ︵ゼーランド州︶に以前存在して

ロッテルダム、デルフトの分社は「マースの分社」と呼ばれた。会社の中央行政は取締役会'~十七人理事会

(H ee re n  S ev en ti en )│

ーに割当・委任された︒これは分社からの代表者十七人から成る︒

ゼーランド︵ミッデルプルフ︶から四人︑その他四つの﹁小分社﹂からおのおの一人︑第十七番目は

ゼーランドからさもなくば﹁小分社﹂から一人が交代に選出された︒十七人理事会は普通年二回春秋に総会を開い

た︒・特に緊急を要する交渉が必要であれば︑臨時に分科委員会

( Kl e i ne Ze ve nt ie n)  

アムステルダ

ざまな分社における取締役

(B ew in dh eb be rs )

によって処理された︒分社における取締役は連合東インド会社の取締

役でもあった︒取締役の欠員は欠員のある分社における他の取締役が三人の候補者をすいせんし︑そのなかから欠

員のある分社の所在する都市の市長が新しい取締役を指名する︒この規定は諸都市の支配階級である家柄に伝統的

一六二三年の特許状更新に際して︑取締役の任期が三年と限定された︒彼らは再選され

るが︑それは三年間中断した後でなければならない︒しかし︑この規定は結局実際には重要でなかった︒それは会社

の配当政策に対する出資者たちの不満の結果にすぎなかった規定である︒一六四七年には副取締役

( e x t r a o r d i n a i r e

アムステルダムおよびゼ

(4)

be wi nd he bb er s)

が追加された︒このようにしてホランド州

(H

ol

la

nd

)

の諸都市の若干やホランド州︑

ド州

(G

el

de

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an

d)

ウトレヒト州

(U

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)

ローニンゲン州

(G ro ni ng en )

の地主貴族は会社の行政に代表者を送出す機会を得た︒

pa

rt

ic

ip

an

te

n)

を導入させた︒彼らは取締役の職務執行を監督し︑

に会社の状況報告を彼らに提出せねばならぬ︒彼らは取締役となるに必要な数の出資それぞれ六︑

000

ーリンおよび三︑

000

フローリンーをもっている人々によって選出された九人である︒すなわちアムステルダ

ム分社から四人︑ゼーラント分社から二人︑小分社合せて三人︒十七人理事会はすべての重要事項については宣苦

大出資者に諮問せねばならぬ︒しかし︑この制度は結局のところ大して重要性をもたなかったようである︒

最後に附加すべきは︑

(F

ri

es

la

nd

)フリースランド

ォーヴァイッセル州

( Ov e r ij s e l)

一六二三年の特許状に宜替大出資者たち

( be i d ig d e

ho

of

d'

 

また取締役候補者の提案権を与えられた︒四年毎

オランダ王

(S ta dh ou de r)

ウィルレム四世が一七四七年に会社総裁

(o pp er be wi nd he bb er s)

に任命されたことである︒ウィルレム五世もこの地位を持った︒総裁は取締役を任命し︑形式上会社における高級

職の任命権をもつが︑親しく十七人理事会に出席することはなく︑代理人を出席させた︒

十七人理事会は会社の実際の経営の中央機関である︒会社における取締役が以前の地方会社の取締役と同一人で

あった当初の間は︑十七人理事会は彼らの権威を主張することが困難である︒しかし漸次この委員会は地歩を築き

その権威を強化した︒総会における手続は前以て分社に公示された︒それを公示するのは首班分社

(p re si de er en de Ka me r)

︑すなわち︑十七人理事会が総会を開いてそのなかから彼らの議長が選出される分社である︒

ムとゼーランドのみが首班分社として機能することができ︑前者は六年間︑後者は二年間の順序であった︒日程以

オラソダ東イソド会社とその日本産銅の貿易 出資者たちの会社経営についてのもう︱つの不満は︑

アムステルダ ヘルダーラン

(5)

244 

貿

外の議題も提出され得た︒

結果︑その対策が講ぜられた︒とくに︑

十七人理事会は分割払込金額が実状に相当する程度を調査した︒

0

二年の特許状によると︑重要な案件について協議がまとまらぬときは原則として

連邦議会がこれを決定する︒まもなく分業化が起り︑異なる分野の取扱のために諸委員会が設けられた︒かくして︑

⑧ 四つの部門に分たれ︑収入部︑艤装部︑会計部︑商業部が生じた︒十七世紀の後半には事業が極めて広般となった

インドからの報告や信書

( mi s s iv e s )

を閲読し︑回答するにはきわめて時日

④ がかかり︑この重要な業務の対策が必要であった︒

会に移すことが決定され︑これはアムステルダムから二人の取締役︑他の分社おのおの一人の取締役︑および一人

の宣誓大出資者から成っていた︒この委員会はハーグ文書係

(H aa gs ch eB es og ne s)

と呼ばれ︑後にはその成員が拡

各分社はその船舶の艤装を司り︑その取締役はこれについて彼らの出資金を以て個人的に責任を負った︒従って︑

帰荷は地方の当局に送達された︒しかし︑艤装やその分配の全範囲を決定したのは十七人理事会であって︑この委

員会は重要商品の販売をも行なった︒また分社の借入金の監督を要求したのも十七人理事会であった︒すべての分

︱つの分社は遊休運転資本をもっているが他の分社は貨幣を必要としたこ

とがある︒このような場合には︱つの分社から他の会社へ貸付が行われた︒同様に︑負債を大いに負っている一っ

の分社は︑負債の少ないかつ低利で借り得られる分社によって救済された︒負債のみならず︑資金についても平等

各分社は連合オランダ東インド会社の全資本のなかからその分社が所有している部分——アムス

一づっーに比較的相応すべき金額を運用した︒ 社は連帯して負債に対する責任を負う︒

0

年以後には︑この活動は十七人理事会以外の別の委員

五四

(6)

ると貨幣を最も多く吸引したのは織物類であり︑ 買手でありまた売手でもあったからである︒ オランダ東インド会社は︑

監督とが調されていた︑

形︑銀行預金︑現金残高の全部を示す一種の貸借対照表であった︒

﹁精算﹂は積荷︑艤装︑造船︑負債︑為替手

かくして︑単なる諸単位の複合体であるようにみえるが︑各分社は実用的な考慮と歴

史的な事情とに制約されながらも︑国民的な努力を最大限に集中化するような仕方で地方の利害関係と中央の指導

まことに注目すべき一個の併合体であった。この集中化の他の証拠は約六•五百万フローリンの出資金である︒これはイギリス人が一六

00

年に出発した東インド会社の資本金の約十倍であった︒会社を

強大な軍事的勢力にしようとする連邦議会の関心は︑会社創設の当初から決して消されなかった︱つの特徴をこの

会社に与えた︒会社は国家的な構成体であって︑自ら行政︑裁判︑外国とくにアジア諸国と条約を締結する諸権利

をもっていた︒十七人理事会は出資者であったが︑彼らには出資者たることが就中︑取締役になることを意味して

おり︑配当は多少とも彼らに利害関係をもったけれども︑それは一部分は取締役としての彼ら自身の繁栄を会社の

繁栄と同一視したためであり︑一部分には大商人および市長として︑さもなくば︑会社の運営に経済的に関与する

さて︑会社の取扱商品の変化についてその趨勢を概観すると︑十七世紀の中頃には胡椒が会社の買付︑阪売とも

主要な商品であり︑大多数の貨幣は胡椒に投資され︑またこの販売では大きな利益を与えた︒その後五十年間に︑

この事実は一変した︒胡椒は一六七

0

年頃には販売量においては依然最大であった商品であるが︑投資の点からみ

00

年頃には織物が買付および阪売ともに首位を占めている︒

⑥ さらに、胡椒以外の香料(スパイス類)ーすなわち主として丁香、肉翌菟'~はたえず大きな利益を生んだ一群

オランダ東インド会社とその日本産銅の貿易

一年または二年毎に行われる﹁精算﹂の方法によっている︒

(7)

246 

オランダ東インド会社とその日本産銅の貿易

0

年には会社の最も重要な つつある過渡期である︒さまざまの部類の商品についての関心の変化や貿易数量の増加には︑会社の買付および販 あった︒この期間には全貿易数量にかなりの増加がある︒それは︑十七世紀と十八世紀とを区別する特徴が発展し にかなりの変化をうけた︒特に十七世紀の最後の二十ー三十年と十八世紀の最初の二十ー三十年には変化が顕著で の商品であり︑その阪売は買付よりもたえず高い水準であった︒東方からョーロッパヘの輸入は︑十七ー八世紀中

日本産の銅もオランダ本国とアジア市場という二つの大きな地域間の相互関係を示しているが︑この銅は︑

ロッパヘのかなりの輸出をみた諸時期にもかかわらず︑オランダ東イ︑ンド会社の主としてアジア貿易に属する商品

なのである︒十七世紀の経過中に銅はますます大きな役割を演ずるようになり︑

商業的産物の︱つであった︒この意味において︑の重要な過程を反映している︒

日本の銅はオランダ人が登場する以前にアジア貿易で移動していた︒

バンタム︑そこからインド︑ペルシア︑

れた銃砲の原料であった︒といっても︑ 売の変化の諸事情が含まれている︒

日本産銅の歴史は︑十七ー八世紀のオランダの貿易における一っ

シナ商人の活動を通じて︑銅はマラッカ︑

アラビアヘと運ばれた︒ポルトガル人はシナ貿易を通じてマカオ経由で日

本の銅を入手した︒そして︑十六世紀の末︑十七世紀の初頃︑戦争のたえなかった時期に日本の銅は大いに需要さ

日本はアジアにおける唯一の銅産国ではなかった︒銅はシナ︑

インド︑ペ

ルシアにも産出したが︑北ィンドの銅生産は減退しつつありシナは全産出高以上を消費すらしつつあったのに︑ 五六

(8)

ような理由はなかった︒

船底被覆用の赤銅板︑馬具用の黄銅または真鋳︒だが︑ 銅線︑羅針盤等に用いられた︒

0

年の初における鄭成功による

0

年頃の東洋における貿易の概略から判断すると︑ 本の輸出向生産は十七世紀を通じて増加しつつあった︒ペルシアの銅採堀は十八世紀の末頃までは本格的に始らな

0

年から一七四

0

年にいたる時期では国際貿易上重要とはならなかった︒

銅の用途はさまざまである︒既にふれた銃砲の製造原料のほかに︑貨幣鋳造用の金属として第一次的に重要であ

った︒日本やインド︑香料諸島その他での小額貨幣は銅貨であった︒この金属はまた建築業に︑すなわち屋根材︑

寺院の装飾︑仏像の材料として用いられた︒数多くの家庭用具は銅製であった︒広口の水差し︑アクラ酒蒸溜用の

大桶︑火薬原料としての硝石の精製桶︒著名な銅鐸も銅製であったし︑最後に銅は造船材料として船底の被覆板︑

オランダ東インド会社は銅をョーロッパからバタヴィアその他の商館附属の工作場に規則的に送った︒例えば︑

それは多量なものではなかった︒

九ボンド︵その価格一六八フローリン︶稲んでいた︒会社がアジアで取引した銅はなかんづく日本の銅であった︒

一六一七年の秋に出帆したデソ・スワルテン・ベーア号は赤銅および黄銅を二五

その品質はヨーロッパ産の銅とくらべて概して劣っていなかった︒その結果︑若干の特殊品を除けば︑悶着を起す

0八年にオランダ人は天皇から平戸で貿易する許可を得た︒そこには会社の最初の商

館が設けられた︒イギリス人も商館を設けたけれども︑

かった︒しかるにオランダ人は地歩を確保した︒彼らは平戸を去らねばならなかったけれども︑その代りに長崎沖

の出島に商館を移した︒そこで彼らは二世紀(16381854)の間︑永代居留地を持った︒かくして︑

彼らのヨーロッパの競争者たちに比べると︑日本への直接貿易を独占した︒

貿

いろいろな理由から一六ニ︱︱一年には日本を去らねばならな

オランダ人は

(9)

2‑48 

一六一七年にはハンス・デ・ハーゼ オラソダ東インド会社とその日本産銅の貿易

台湾征服までは︑オランダ人の日本貿易はバクヴィアおよびインド諸商館に日本やシナの生産物を供給する責任を

もった会社の台湾総監のもとにおかれた︒日本との貿易の場合には︑この﹁生産物﹂とは銀︑金︑銅︑樟脳その他

⑧ 若干の商品であった︒

オランダ東インド会社は︑まもなく︑

あらすことを学んだ︒ インド地方へ銅を輸送することにより︑

一六一四年︑平戸の理事官︑ シナ商人やボルトガル人の領分を

ジャック・スペックス

(J

ac

qu

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Sp ec x)

  はインド総 コロマンデル海岸は︑初期には︑パクヴィアと平戸との通信のなかで日本の銅の︱つの重要

な消費地としてあげられている︒

督ヤン・ピーテルス︒クーン

(J

an

Pi

et

er

sz

  Coe n)

に所要の銅の積荷を二五

0

( 1

Pi

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l1

11

25

  pond s)

に増加し

(H an s  d e  H az e)  

日本からの粗赤銅はキャンディにつき九〇レアール

( 1

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11

8  S

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) 

はマスリパークムから次のように報じている︒

で︑良質の銅は一〇八レアールに売れ

たと︒帰国するオランダ船隊でョーロッパに日本銅を送るという考が一六二

0

年に最初に現われている︒粗銅や精

銅を底荷として送るのが有利であると考えられた︒総督クーンの註文した少量の銅はライデン号で一六ニ︱年の四

月にパクヴィアを発してオランダ本国に送られた︒そのなかには試送品して精梓銅

( f i j n ko pe r  i n   s t a ef k e ns )

︑板銅

( bl a d t  ko pe r)

︑丸銅

( ro o t ko pe r  i n   br oo nd en

)

1

(r ou we ko pe r)

を内公合とする四包の小積荷があった︒精梓銅

はまもなく東インド会社が本国に輸出した銅のうちで支配的な品種となった︒十七人理事会は日本のこの銅をアム

ステルダムの銅匠に検査させた︒その結果は期待にそわなかった︒試送品の欠減があまりにも大きく品質も良好で

はなく︑理事たちは輸入しても引合わぬと考えた︒このため︑翌年の四月には︑バクヴィアで今後の命令が与えら

れるまでは︑帰荷としての日本銅を取消すようにと書き送った︒しかし︑平戸ではオランダ人はまだ楽観的で︑

五八

(10)

ントの利益はよい商売であり︑

000

ピクルが発送されている︒これを送ったカンプス

日本におけるこの荷物の原価は三︑二

000

フローリンであり︑

一六二四年一月に六四五個の ーロッパヘ日本銅を積込んではならぬという十七人理事会の命令がパクヴィア政庁に発送された同じ年に︑平戸か

日本の積荷が到着するまで帰航船隊をバクヴィアで待たせる価値があると考えた︒

カンプスの意見では八︑

0 0

0 0

フローリンに売

れる︒パクヴィア政庁はこの積荷の小部分を一六二三年に日ーロッパに送らせた︒丸銅二五九ピクル︑精枠銅一

00

ビクルであり︑全部で送状価格は一一︑八五

0

フローリンとなる︒原価は一ビクルにつき前者が一

0

(1 

Ta el 11 lO Ma as   Si l b e r 1 1 6 . 7 5   Silbermark)、総仝者は一0•八テールで、

生じた︒十七人理事会はこれを大した利益と考えなかった︒それ故に︑ これに日本における関税その他の費用を加

え︑原価の四︒ハーセントと計算された︒日本銅のこの積荷分はオランダ本国では丸銅は三六フローリン︑梓銅は四

九•五フローリンで、両者一00ボンドづつ売られ、それぞれ約四十四。ハーセント、八十三。^ーセントの総利益を

に日本銅をペルシアに送るようパクヴィア政庁に要求した︒ペルシアではそれは既に相当な利益を与えており︑現

送鋳貨を節約することになる︒

その頃︑バクヴ.ィア政庁は日本銅の新しい積荷をオランダ本国に送りつつあった︒

丸銅から成る全部で約三十ニピクルの銅を積んで︑二隻がパタヴィアを発航した︒遂に満足すべき利益が得られた︒

この積荷分は本国で一

00

ボンドにつき五六フローリンで売られたので︑十七人理事会はヨーロッパ向の精製日本

銅をかなり大量買付けることを命じた︒そうすれば︑総利益は約百十九パーセントとなるであろうと考えた︒

他の機会に十七人理事会は所要の銅の数量をニー︱︱

1 0

0

000

ボンド

(1 1‑

00

ーニ︑四

00

ピクル︶と

貿

( Le n a er t a  C mp us )

(11)

250 

貿

指定した︒彼らはその原価を一ボンドにつき精々三一ー三ニフローリン︑

質という要因は重要と思われた︒というのは十七人理事会が銅を分析する方法を指令したほかに︑銅板一枚を標本

これらの指令がどのように実行されたかは精確には判らない︒というのは︑送状がすべての帰航船について現存

してはおらず︑現存史料からは一六二六年二月に約︱二三︑

000

ポンドの銅がオランダ本国に船積されたこと︑

東インド会社が主として平戸およびバクヴィア駐在の会社使用人の努力で日本の銅をョーロッパの市場に出そう

としていた時期には︑

⑨ ステルダムであった︒

ョーロッパの最も有力な王国イスバニアにおけ しかも良質のものを考えた︒とくに︑良

一六二八年一月に三

00

000

ポンド以上が稽出されたようである︒

オランダおよびョーロッパでは事情はどうであったか︒銅の最大産出国はスウェーデンであ

トランシルヴァニア︑

はそれは主要市場であった︒ チューリンゲン︑ノルウェイにも産した︒銅売買の主要な市場はアム

アムステルダムはスウェーデン銅の唯一の市場ではなかったとしても︑正常な状態のもとで

アムステルダムに次いでハンブルグがある︒スウェーデンの銅はハンブルグ市場で見

ハンガリヤや中部ョーロッパの生産銅の大量がこの北ドイッ都市に達した︒十六世紀の末から一六二六年頃

までのヨーロッパの銅市場への需要について︱つの重要な要因は︑

る銅貨の鋳造であった︒銅のほかに︑絶えず改鋳によってますます銅に似たものとなってしまっていた銀貨が存在

fヵ

イスバニア政府は一五九九年に純銅本位貨幣を尊入するまでに極端になった︒時折大量の鋳造が行

および一六二七年十一月︑ として送ったからである︒

(12)

九年にはド・ヘールは︑日本の銅がスウェーデンの銅ほど良くはないけれども︑

手がつき︑そしてこれは低価格の一原因であったと述べている︒オランダの日本銅輸入量がアムステルダム市場で

附表A

貿

1624‑29年のオランダの銅価格,

ドにつきフロー))ン

1624年 1625  1626  1627  1628  1629 

アムステルダムにお けるスウェーデン銅

64.55  67.27  56.82 

100ボソ

会社の売った日本 の梓銅

56.00 

43.85  44.10  55.78 

48.00  40.75  K. Glamann, Dutch‑Asiatic Trade,  Copenhagen‑

The Hague 1958, p.171. 

った既述の約三

00

000

ボンドよりは梢々少なかった︒

海外の銅を輸入し始めてしまっていた︑とくに東インド会社の輸入 イスパニアはヨーロッパにおける銅の最大の買手に変じた︒その鋳造を一五九九ー一六

0

一六ニ︱│︱六二六年の三期に分つことができる︒このイスパニアの需要は︑造船材料とか戦争資材

用の銅に対する新設の海外貿易諸会社からの需要のような他の要因とも関連して︑価格の上昇趨勢を起し︑これは

一六二六年まで続いた︒その後一六二六ーニ七年に下落が起っている

価格の下落はイスパニアの鋳造停止と関連しているであろうが︑

スウェーデンの政治家ド・ヘール

( Lo u i s de   Ge er ) 

の書いた一六

A

アムステルダムにおける価格の最初の下落は東イン

ド会社や西インド会社に原因がありこの諸会社は高価格に誘われて

が決定的であったことを示している︒ド・ヘールは東インドからの

銅は一六二六年にはフランスのニクス

( Ai x , la , C ha p e ll e )

に行ったと

述べている︒アムステルダムにおけるスウェーデン王の代理人ファ

ルケンベルク

(C on ra dv an a  F lk en be rc h)

は一六二七年のオランダの

輸入を一三六トンと評定した︒これは東インド会社があの年に受取

アムステルダムで到着後直ぐに買 一六一七ー

(13)

252 

事実から誘導され︑ その後は情況の激変はなかった︒

オラソダ東インド会社とその日本産銅の貿易

デンの推定輸出量は年々七三七トンであり︑

期けるアムステルダム市場での日本銅の登場は︑

のスウェーデン銅と比べてどのような数量になるかを決定することは困難である︒これらの年々におけるスウェー

しかもその一部分のみがアムステルダムに送られた︒しかし︑この時

スウェーデンの商業政策に影響を与えた︒上述の一六三三年の書

翰におのなかで︑ド・ヘールはスウェーデンにとっては大量の銅を貯蔵することが必要である︒銅を貯蔵してオラ

ンダを脅し価格を引下げこのようにして余りに多く輸入しても価格を維持するようにしなければならぬと指摘して

いる︒必要なことは貯蔵銅を売らないようにすることであった︒

一六二八ー三三年に日本ではオランダ人にとって困難な問題があり︑

年には日本は銅の輸出禁止をしたが︑これらは情況の激変を起したわけではない︒輸出禁止は銅が戦争資財である

一六四五年まで続いた︒日本の銅は最初はヨーロッ︒^人の舞台で﹁客人﹂の演技に比すべきも

この役割は次の時期のための一連の新しい予想または希望をもたせた︒この役割は十七人理事会

が遂に大量の日本銅を求めることに決定したとき︑彼らを動かしたものは百︒ハーセント以上の総利益を生んだ売価

であったことを示している︒この底荷商品の取引が有利であったのは当時のみであった︒それ故に︑ド・ヘールが

会社の東洋からの銅の大輸入に対抗する手段として︑スウェーデンに貯蔵する政策を採るべしと考えたのは目的に

適中したことになる︒競争という要素は明瞭である︒東インド会社は香料とくに胡椒︑砂糖︑茶やコーヒー︑薬剤

や染料︑硝石︑金属類︑絹織物や綿織物その他を輸入したが︑これらの輸入品の多くと同様に︑競争は日本の銅に

ヨーロッ︒^市場での品質および価格について激しい競争にさらされた︒なかんづく︑ヨーロッパ産の

⑪ 銅や程度においてこれと劣るが西インド産の銅︑すなわち南アメリカおよび中部アメリカ産の銅からの競争である︒

ノ, 

(14)

よりはかなり大きかった︒バタヴィア政庁は一六四一ー四二年には板銅一

0

一六三八ー四五年の輸出禁止の期にオランダ本国からインド向に指令された銅の数量は︑上述の本国への輸入量

一六四ニー四三年にはス

ウェーデンやハンガリアの板銅約六

0

万ボソドを註文している︒しかし︑

って枠銅が大いに流出し︑

のは一六四九年で︑次は一六五一年である︒その後︑四年間の中断がある︒

ョーロッパ産銅をもはや必要としないほどであった︒梓銅がョーロッパに送られ始めた うちで最も重要なものとなっている︒このときには︑

リソから五六フローリンに上ってしまっていて︑十七人理事会はバタヴィア政庁にできるだけ多くの銅をアジア貿 易のそとに送るように求めた︒そこで政庁は一六五七年には四万ボンドほどの銅をオランダ本国に送り︑翌年には

1 0

0

万ポンドを超えて送った︒これはその後二十年以上の間たえず大量に本国へ銅を供給した時期の序の口であ

オランダ東インド会社とその日本産銅の貿易

は全く支配的な地位を獲得した︒ ではなくョーロッパ市場に最も適することが判った︒この枠銅は日本からの輸出が一六四五年以降再開したときに 異なる数品質の買付に手を出したが︑ ︑ ︑

一六五五年の末頃には日本銅は帰荷の 一六四六年には日本からの輸出再開によ

さらに︑十七人理事会のバタヴィアヘの書翰から︑彼らが銅を会社のアジア貿易にとって重要な商品として取扱っ

コロマンデル海岸とペルツアとが重要

たことが判る︒このことは︑この時期については十分に知られていないが︑

な消費者であった︒しばしばあげられている数量は︑その大部分がョーロッパヘの輸出よりは大きい︒かくして︑

一六二七年には九九六︒ヒクルがスラトに送られた︒

一六二八年にはペルシアのガムロンは一年に四

00

ピクルを買

⑫ 

一六二九年には一︑四七七個の粗銅︑一︑二五二個の精銅がペルシアの一商館に引渡された︒最後に︑会社は

f i j n   k op er n   i  s te fk en s と呼ばれたいわゆる枠銅のみがアジアの市場だけ

オランダ本国における銅価が一

00

ボンドにつき三六フロー

(15)

2.54 

オランダ東インド会社とその日本産銅の貿易

る︒この期間にはアジアの銅はヨーロッパ市場での売物のなかでかなりなものであった︒それが最大であった一六

七ニー七五年には︑供給量はスウェーデンの推定輸出銅の三分の一または二分の一にあたり︑これは日本の銅が一

六六九年にアムステルダムの価格表にノルウェイの銅と一緒に記載され一六八八年まで目立っていた事と符合する︒

ョーロッパにおける銅価の昂騰である︒しかし︑十七人理事会が日本の銅に興味

をもったのは東インドの砂糖の価格下落にもある程度まで原因がある︒東インドの砂糖は重要な底荷であって︑

0

年代の初にはアムステルダムでの公売では一

00

ポンドにつき四五ー五

0

フローリンで売られたが︑

四年には三五フローリンに下落し︑翌年には一層下落して二六フローリンとなった︒会社の底荷容積の一部が砂糖

⑬ から銅に切換えられた︒一六五八年には東ィンド会社は年六

0

万ボンドを註文し︑翌年には八

0

三年には九

0

万ボンドの需要となり︑遂に一六六八年には二

00

万ボンドという過大数量に達し︑

ロッパにあまり多く送ることは不可能であると誌されている︒そこで︑

一六七九年十一月には底荷として必要な︑またはアジアの市場が吸収し得ない数量以外ほ本国に送ってはなら

ぬと命じている︒これらの註文は現実に積送された数量を示すものではない︒かくて︑

ダ本国への積送高は平均して︑註文された二

00

万ポンドの四分の一を超えた額である︒註文は需要の強度を知る

手がかりとして価値がある︒註文の変動は本国における競売での価格の趨勢に昭応している︒オランダ本国の受取

ったものは附表Bで判る︒そのなかには会社のインドにおける大商館の一つであるスラトで売られた棒銅の数量の この輸入期間を招いた刺戟は︑

0

ー七五年のオラン 一六七四年には註文ほ︱二

0

万ボンドにな

日本の銅をョー

(16)

ーを行ったことが一層重要である︒

附表B 5年平均,ボ ノド

日本からの オラソダ本

輸出 国への輸入

469,784*  28,648  445,925  14,488  1,368,315  378,816  2,060,925  336,000  1,447,713  383,450  2,040,800  618,753  2,554,600  257,922 

1648年不詳,従って4年平均

1646‑1680

1646‑50 1651‑55  1656‑60  1661‑65  1666‑70  1671‑75  1676‑80 

スラトでの 販売

39,974  151,253  272,168  408,493  326,930  545,534  660,267 

Glamann, op.,  cit. p.175. 

ほかに日本からの純輸出量が示されている︒

0

年代の末頃に幾分阻害された︒ めて重要であった日本銅のインドネシア︑

一六六八年には一時的 ヨーロッパの需要は日本からの輸入に︱つの刺戟を与えた︒尤も︑一六五六年度における輸出ブームは︑もぐり商人たちの活動にきわ

マラッカヘのシナ人の供

給を会社が大量輸入の方法によって低下させようとしたためである︒

しかし上掲の表から︑本国へ時偶大量に供給されたにもかかわらず︑

会社の輸出の大部分は依然アジアにおいてであったのが原則である

ことが認められる︒十七人理事会もこのことを知っており︑最大の

註文をしたときですらもヨーロッパヘの船積はアジアでの阪売を犠

牲にして行ってはならぬと附け加えている︒そのアジアでの阪売は︑

その理由は日本で銅貨︵寛

⑭ 永通宝︶の大量鋳造が行われたためである︒

な輸出禁止が銅に加えられ︑それに貿易制限がつづいて起った︒し

オランダ東インド会社とその日本産銅の貿易 S

し ︑

日本がこれと同時に銀の輸出禁止ーーこれは永久的となった

日本の金貨︵小判︶の価格が一六七

0

年代に引上げられて︑東イン

ド会社の輸出のなかで金が占める割合が減少した︒この二つの要因は銅の輸入に刺戟を与えた︒銅の輸出は一六七

⑮ 

0

年代に完全自由へと戻った︒銀が消失したことや金の流出は日本からは一層まばらになったことは︑会社が第三

(17)

256 

貿

の貨幣鋳造素材たる銅を以て︑かつては日本の金銀が売られた地域︑すなわちコロマンデル海岸︑ベンガル︑

ト︑セイロン︑ペルシアその他に試みようとしたことを意味する︒とくに最初の三つの地方が重要であった︒これ

らの場所での銅の価格はオランダ本国よりも高かったから︑銅の販売は助長された︒かくして︑スラトにおける日

本銅の価格は一六五

0

年代の初から一六七

0

年代の初まで上昇しつつあった︒日本銅の絶頂の水準はこれに相当す

るオランダの水準よりも約三十︒ハーセント方高かった︒スラトではこのほかに次のことがある︒すなわち︑会社に

とっては約四十の品種を含む選択商品から︑銅に比べて丁香のみがョリ有利であった︒同時に日本の銅はオランダ

本国における会社の阪売では総売上代金収入.の精々六ないし八︒ハーセントの総収入を意味したのに︑

諸商館は会社のために現金を供するのにははるかに大きな程度に貢献した︒その後は銅の地位はアジア市場で一層

強固となった︒

一六八一年にはインドにおける動乱が北部から南部に移り︑

( Bi j a pu r )  

ムガール帝国の皇帝アウラングゼフはビャプール

⑯ およびゴルコンダ

(G ol ko nd a)

の諸王国を攻撃し︑独立のマラクス勢力を鎮圧しようとした︒これはオラ

ンダ東インド会社がコロマンデル海岸で遭遇したきわめて珍らしい販売の背景である︒すなわち︑

年には約二三

0

万ボンドの棒銅が売られ︑これは銅から生じたこの海岸での会計年度における総利益の六

0

ント以上であった︒ゴルコンダでは銅の企業が存在したが︑これは一六八七年における都市の占領によって急速に

休止した︒ゴルコンダ土着商人のチョデンダ

(Z ie ru m Ch od en da

)は一六八四年に東インド会社と年一五

0

万ボンド

に相当する日本枠銅︱二︑

0 0

0

箱の買入を契約した︒これは主としてネヴェルス貨の鋳造のためである︒受渡品

は大部分掛け売であった︒ゴルコンダが占領されたとき彼は破産し︑会社は九

0

万フローリン以上の損失をうけた︒

六六

一六八三ー八四

インドにある

(18)

オラソダ東イソド会社とその日本産銅の貿易︵宮下︶

これらの年々にはヨーロッパヘ銅が送られたことはない︒

スラト︑ペルシアに会社 アムステルダムにおける価格さへも︑

前半には低かった︒日本の銅は一六八九年まではオランダ本国に再び現われてはいない︒この十年期から︑会社の 銅貿易におけるョーロッ゜ハ市場の役割について︑興味がある光明を投げている︱つの計画が知られている︒オラン ダ本国はここでは︱つの余剰市場として機能している︒計画は就中一六八四年のバクヴィアヘの十七人理事会の信 鸞から現われており︑そのなかでは日本銅の現実独占を確保するよう努力すべしとの考えが表明された︒すなわち︑

シナ人は日本その他での買付に際し策略により負かされねばならぬ︒この方法で起るべきかなりの余剰はバタヴィ ァ政庁によってヨーロッパヘ送られるべく︑政庁は底荷としての硝石を取消す権限を与えらるべきである︒会社が シナ人の競争に打撃を加えようとしたのは︑これが最初ではない︒既に一六五七年にはバタヴィア政庁はこのよう にして長崎の商館に銅の買占を命じた︒これは前年にシナのジャンクが一七ー一八︑

0 0

0

ピクルの銅をバクヴィ

アに運んできたことによって︑

オランダ人は大いに困惑を感じていたからである︒バタヴィアではこの銅は私的貿

易商人たちに︒ヒルクにつき二

0

ーニ︱レアールで売られ︑その若干がコロマンデル海岸︑

の持船によって転送された︒オランダ人はヨーロッパ国民のうちで日本貿易を独占していたにもかかわらず︑

アにおける梓銅の彼らの取引はヨーロッパにおける彼らの銅取引と同様に競争を特徴としていた︒

易は

I

'就中生糸を甚礎としていた多量の銅を会社の支持の背後にある市場に出す結果となった︒かくして︑

マカオ︑トンキン︑シャム︑マラッカ︑ジャワ等でシナ人と取引することによって銅を入手することは︑

ポルトガル人その他にも可能であった︒そこで︑ これは商館の支配人の罷免︑その告発を招いた︒

シナ人の日本貿

日本における市場を﹁独占﹂するか︑さもなくばマラッカ︑

0

年代の

(19)

258 

ム︑バクヴィアその他で﹁自由﹂銅を高価で買うか︑どちらかを選ばねばならなかった︒あの一六八四年に十七人

理事会の作った計画は︑日本からの銅の総輸出量を一年五万ないし六万ビクルと見積っている︒この計画によると︑

彼らはピクルにつき――•九テールの価格でこの巨大量を引取ることを日本人に申込んだ。支払は会社が日本の必

要とする外国財貨を日本に供給するという方法で行う︒交易条件は輸入品の原価に従って規正さるべく︑この契約

は最初は三年または四年の期間有効とする︒しかし︑日本人はこの計画案を承認しなかった︒彼らは銅は現金支払

たる買べしと主張し︑さらに︑見積数量分を供給し得ないと考えた︒その結果︑商館には普通の条件で可能な数量

の銅を付けるよう命ずるだけで︑バクヴィア政庁にほ居留シナ人の日本への取引を途中さまざまな方法で妨害する

しかなかった︵一六八六年︶︒これと同時に︑日本人は外国貿易の全部に最高限度を定めた︒

貿

1 0

万テールと定められた︒これに相当するシナ人の割当額は二倍であり︑私的貿易商

人は彼らに四万テールの割当を委せていた︒これに対して会社は抗議したけれども効果はなかった︵一六九五年︶︒

オランダ本国に大量の余剰を送る機会は起らなかった︒その理由は簡単で︑

画は実行され得なかったからである︒ 日本からの銅の全輸出を確保する計

シナ人の貿易は極めて大きな競争をたえず意味し︑次の年々における対日貿

易におけるシナ人の参加は一六八五年に彼らに割当られた比率よりも大きくなった︒

るシナのジャンクはオランダ東インド会社に比べて三倍売ったといわれている︒他方︑

オランダ東

ステルダムでの銅価の騰貴から︑十七人理事会はその必要とする帰荷の表のなかに日本の梓銅を再び入れた︒

貿

0

年代の末頃のアム

00

年頃には長崎におけ

参照

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 オランダ連合東インド会社による 1758 年の注文書 には、図案付きでチョコレートカップ 10,000 個の注 文が見られる

インド インド インド インド インド インド インドネシア インドネシア インドネシア インドネシア インドネシア インドネシア 日本 日本 日本 日本 日本 日本

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