世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ 一 アシン ・ ジナラッキタ 師と インドネシアの 現 代 仏 教 かつ てインドネシアに 花 開いた 仏 教 文 化は、 後にこの 地 域に 浸 透したイスラーム 勢 力によ っ て 徐々に 駆 逐され 、 一 七 世 紀 頃まで にバリ 島などの 一 部の 例 外を 除いて 表 面 上は 途 絶した。 し かし、 こ の 失われ た 伝 統を 復 興させる 運 動が、 一 九 世 紀の 末に 始められ た 。 そ れ 以 来、 今 日に 至るまで 約 百 年に 及ぶインドネシアの 現 代 仏 教の 歴 史は、 二〇 世 紀 半 ばにお け るインドネシア 共 和 国の 独 立をは さんで 二つの 時 期に 大 別され る。 第 一 期は、 当 時この 地 域を 支 配していたオランダ 人を 中 心とす る 神 智 学 協 会のメンバーや、 中 国 系インドネシア 人 の 郭 徳 懐( K w e e T e k H o a y ) などが 中 心になって 推 進され た。ただし、 彼らの 活 動は 主に 知 識 人 層に 対する 仏 教 思 想 の 紹 介にとどま り、 仏 教 信 仰を 人々の 間に 根 付かせるに は 至らな か っ た 。 そ の 意 味で、 第 一 期は 仏 教 復 興の 萌 芽 期、 もしくは、 第 二 期のための 準 備 期 間であ った と 位 置 付ける ことができる。 それ に 対して、 第 二 期には 諸 外 国の 仏 教 界との 積 極 的な 交 流や、 様々な 出 自の 人々に 対する 本 格 的な 教 化 活 動が 繰 り 広げら れ た 。 そ の 結 果、 現 在では 仏 教がインドネシア 政 府の 公 認する 五つの 宗 教の 中の 一つに 数えられ て おり、 同 国 内には 数 百 万 人の 仏 教 徒が 存 在する と 言われ ている。こ
世
代
交
替
を
迎
えるインドネシア
仏
教
界
──アシン
・
ジナラッキタ
師
の
葬
儀
に
参
列
して──
木
村
文
輝
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) のよ う な 第 二 期の 活 動を 中 心になって 推し 進めたの が アシ ン ・ ジナラッキタ 師( V e n . A s h i n J i n a r a k k h i t a M a h a s t h a -v i r a , 體 正 老 和 尚) である。 一 九 二 三 年に 中 国 系イン ド ネ シア 人として 生まれ た 同 師は、 一 九 五 四 年に 現 代のインド ネシア 人として 初の 比 丘になり、 一 九 五 九 年には 同 国 初の 比 丘 僧 伽の 設 立を 主 導した。また 同 師は、 多 民 族 国 家であ るインドネシアの 仏 教は 上 座、 大 乗、 金 剛 乗などの 垣 根を 越えた 総 合 仏 教でな ければな らな い と い う 信 念から 、 特 定 の 流 儀にとらわれ る ことのない 「 ブッダヤーナ 」 、 す な わ ち 「 仏 乗」 思 想を 唱 導した。 さ らに、 イ ンドネシア 国 民は 「 唯 一 神への 信 仰」 を 守らな ければな らな い と い う 政 府の 方 針 に 応じて、 本 初 仏( アーディ ・ ブッダ ) を 仏 教にお け る 「 唯 一 神」 として 導 入した。 しかしな がら、この よ うなアシン ・ ジナラッキタ 師の 方 針は、 後に 同 師に 対する 反 対 者をも 生み 出した。 そ のため、 一 九 七〇 年 代には 純 粋な 形での 上 座 仏 教や 大 乗 仏 教の 布 教 を 目 指す 人々が 独 自の 比 丘 僧 伽を 設 立し、インドネシア 仏 教 界の 分 裂は 確 定 的とな った。こうした 対 立の 発 生をも 含 めて、 二〇 世 紀 後 半にお け る 同 国 仏 教 界の 歩みは 、ほぼ 完 全にアシン ・ ジナラッキタ 師の 活 躍の 軌 跡と 重なっ てい る。 また、 今 日のインドネシア 仏 教 界が 抱える 問 題 点や 特 色の 多くは 、 何らかの 形で 同 師に 由 来する と 言っても 過 言では ない。 そのアシン ・ ジナラッキタ 師が、 二〇〇 二 年 四 月 一 八 日 に 世 寿 八〇 歳、 比 丘 歴 四 八 年にて 円 寂され た ( 1 ) 。 既にインド ネシアの 仏 教 界や 仏 乗 教 団の 内 部では 指 導 者の 世 代 交 替が 進みつ つ あ っ た と は い え 、 今だ 同 師がそ の 象 徴 的 存 在であ っ たことに 変わり はない 。 そ れ 故、 同 師の 死は、 同 国の 現 代 仏 教 史にお け る 第 二 期の 終 焉を 告げるものとなった。 私は 一 九 九 七 年 一 一 月と 二〇〇 一 年 三 月の 二 度、 生 前の アシン ・ ジナラッキタ 師と 面 会し、 直 接インタヴューを 行っ たこと が あ る 。この 時に 同 師から 得た 情 報にも とづ いて 、 私は 同 師の 活 躍を 中 心とするインドネシアの 仏 教 復 興の 歩 みと、 同 国 仏 教 界の 状 況などを 数 編の 小 論として 発 表した ( 2 ) 。 私が 初めて 同 師のもとを 訪れた 時、 師は 自 分が 既に 高 齢で あり、 「 あと 五 年 早ければ、 も っ と 多くのことを 語ることが できた で あろ う 」 と、 私の 来 訪が 遅れたことを 残 念がった。 しかし、その 言 葉とは 裏 腹に、その 当 時も 同 師は 「 空 飛ぶ
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ 比 丘」 の 異 名の 通り、 布 教のために 各 地を 精 力 的に 飛び 歩 いていた。ところ が、その 後 間もなくして 同 師は 体 調を 崩 し、 次に 私が 会った 時には 車 椅 子を 使 用し、わずかな 会 話 にも 多くの 困 難を 伴う 状 態であ った 。そ し て 今 回、 私はア シン ・ ジナラッキタ 師の 訃 報に 接し、 直ちにインドネシア を 訪れた。しかし、 訃 報を 受け 取ったの が 同 師の 没 後 一 週 間を 経た 段 階であ り 、 私が 現 地に 到 着した 時には 、 遺 体は 既に 棺の 中に 納められ 、 その 日に 行われ る 荼 毘を 待つばか りで あっ た 。 本 稿では、アシン ・ ジナラッキタ 師の 一 連の 葬 儀の 模 様 を、 後 日 現 地の 関 係 者から 伺った 内 容や 関 連の 新 聞 記 事な どをもとにして、 確 認し 得た 範 囲で 報 告する ( 3 ) 。また、 私 自 身が 参 列した 部 分に 関して は、 私の 見 聞も 交えな がら 記 述 を 進める 予 定であ る 。 そ の 上で、 約 十 日 間に 及んだ 一 連の 葬 儀を 通して 垣 間 見られた 仏 乗 教 団の 現 状と、 次 世 代に 託 され た 課 題につ いて 若 干の 検 討を 行うことにしたい。 二 葬 儀の 概 要 一 ジャカルタにて 四 月 一 八 日 午 前 七 時 二〇 分、アシン ・ ジナラッキタ 師が ジャ カルタ 市 内の 病 院( P l u i t H o s p i t a l ) で 息を 引き 取った。 その 直 後から 、 病 室に 集まった 弟 子 達によ っ て 枕 経の 儀 式 が 執り 行われ 、 以 後、 湯 潅の 間も 途 絶える ことなく、 約 八 時 間にわたっ て 阿 弥 陀 仏の 称 名が 続けられた。その 後、 同 師の 遺 体はベッ ド か ら 起こさ れて、 椅 子の 上に 坐 禅の 姿 勢 で 安 置され た。 午 後 四 時 頃、 遺 体は 病 院を 出 発し、 約 一 時 間 後に 同 市 内にお け る 仏 乗 教 団の 中 心 寺 院であ る ヴ ィハ ー ラ ・ エー カヤーナグリハ ( V i h a r a E k a y a n a G r h a , 一 乗 禅 寺 ( 4 ) ) に 到 着した。 同 寺 院では、 既に 同 師の 危 篤が 伝えられ て い た 前 日から 、メインホールの 西 側の 部 屋に 遺 体を 安 置する 場 所を 設 置して、アシン ・ ジナラッキタ 師の 帰 還を 待って いた。その 空 間は 四 方にめぐら せた 黄 色い 幕によ っ て 結 界 がはられ、 入り 口には 外 側に 向けて 釈 迦 牟 尼 像が 祀られた。 一 方、 最 奥 部の 正 面には アシ ン ・ ジナラッキタ 師の 肖 像 画 が 飾られ、その 左 右に 遺 誡が 掲げら れ た ( 5 ) 。また、 肖 像 画の
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) 下には チーク 材で 作られた 約 一メートル 四 方の 坐 棺が 置か れ、 同 師の 遺 体はそ の 棺の 前に 安 置され た。 さら に、 遺 体 の 前には 位 牌と 香 華 灯 燭、 供 物などが 並べられ 、 直ちに 遺 体 奉 安の 儀 式が 行われ た。 午 後 十 時、 同 師の 遺 体は 弔 問に 訪れた 多 数の 信 者が 見 守 る 中で、 坐 禅の 姿 勢のままで 棺( 龕) に 納められ た 。 そ の 際に 営まれ た 入 龕( 進 龕) 仏 事では、 中 国の 出 身で、 現 在 イン ド ネ シアで 活 躍して い る 大 乗 比 丘、プ ラ バ シ ッ ダ 師 ( V e n . P r a b h a s i d d h a M a h a s t h a v i r a , 悟 通 老 和 尚) が 導 師 を 務め、 法 語を 読み 上げた。ちなみ に、 今 回の 一 連の 葬 儀 では、アシン ・ ジナラッキタ 師の 孫 弟 子であ り 、 現 在ヴィ ハーラ ・ エー カヤーナグリハの 住 持であ る と とも に 、 ア シ ン ・ ジナラッキタ 師を 主 席に 戴く 比 丘 僧 伽、す なわちサン ガ ・ アグ ン ・ インドネシアの 副 主 席でも あ る ア ー リ ヤ マイ トリ 師( V e n . A r y a m a i t r i S t h a v i r a) が 全 体を 統 括し、 大 半の 儀 式で 導 師を 務めた。 し かしな がら、 特に 重 要な 入 龕、 鎖 龕、 起 龕、 秉 炬の 四つの 仏 事に 限って は、ア シ ン ・ ジナ ラッ キ タ 師と 師 弟 関 係にな い 比 丘が 導 師とし て 招 請され た。 翌 一 九 日 午 前 一〇 時 三〇 分、 棺の 蓋を 覆う 鎖 龕( 封 龕) 仏 事が 行われ た。 その 際の 導 師は、メ ダ ン 出 身の 大 乗 比 丘 であ る プ ラ ジ ュナヴ ィ ラ 師( V e n . P r a j n a v i r a M a h a s t h a v i r a , 慧 雄 法 師) が 務めた。そして、 遺 体の 周 囲に 香 木やジャス ミンの 花が 詰められ た 後、 棺の 蓋が 閉じら れ た 。 この 後、アシン ・ ジナラッキタ 師の 追 善 法 要は、 遺 体が 荼 毘に 付され る 二 八 日まで 毎 日 四 回 繰り 返され た。す な わ ち、 午 前 五 時から 大 悲 心 陀 羅 尼、 十 小 咒、 般 若 心 経が 読 誦 され 、 午 前 九 時から 金 剛 般 若 経、 午 後 五 時から 阿 弥 陀 経、 午 後 七 時からは 再び 金 剛 般 若 経がそ れぞ れ 読 誦され た。 ま た、それぞれ の 法 要では 阿 弥 陀 仏の 称 名も 繰り 返され た。 これら の 法 要には 、サ ン ガ ・ アグ ン ・ インドネシアに 所 属 する 約 九〇 名のす べ て の 僧 侶が 参 加しており、 台 湾やイン ド、シンガポール、ミャンマーなどに 留 学 中の 僧 侶や 中 国 在 住の 僧 侶も 、ジャ カルタに 到 着 次 第 順 次 法 要に 加わっ た。 一 方、 同 僧 伽から かつ て 分 離 独 立し、 現 在では 同 僧 伽とと もにインドネシア 仏 教 僧 伽 連 合 会( KASI ) を 構 成して いる サンガ ・ テーラヴァー ダ ・ インドネシアやサンガ ・ マ ハーヤーナ ・ インドネシアに 所 属の 僧 侶 達は、 一 連の 葬 儀 にお け る 重 要な 儀 式に 列 席したものの、 必ずしも 常に 全 員
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ が 参 集したわけではなかった。 とこ ろで、 ア シ ン ・ ジナラ ッ キ タ 師の 逝 去は、 サ ン ガ ・ アグ ン ・ インドネシアの 副 主 席であ り 、 そ れ ぞ れ 同 僧 伽に 所 属する 上 座 比 丘、 大 乗 比 丘、 金 剛 乗 比 丘の 代 表でも あ る ジナダンモ ( V e n . J i n a d h a m m o M a h a t h e r a ) 、ア ー リ ヤ マ イトリ ( V e n . A r y a m a i t r i S t h a v i r a) 、ヴ ァ ジ ュ ラ サ ガ ラ ( V e n . V a j r a s a g a r a S t h a v i r a) の 三 師の 連 名によ る 新 聞 広 告などを 通して、 同 国 内の 仏 教 徒に 通 知され た。 と り わけ 、 ジャ カルタ 周 辺に 住む 仏 教 徒の 多くが 中 国 系の 人々で ある ため、 「 国 際 日 報」 のよ う な 中 国 語の 新 聞には 全 面 広 告が 掲 載され た。 それ を 受けて 、ヴ ィハ ーラ ・ エー カヤーナグリ ハに は、 棺が 同 寺 院に 安 置され て い た 一 週 間の 間に、 約 四 万 人が 弔 問に 訪れたとい う。 その 中には 、 ア シ ン ・ ジナラッ キタ 師と 個 人 的に 親 交のあ ったアブドゥ ルラフ マ ン ・ ワヒ ド 前 大 統 領をは じめ、 開 発 統 一 党 党 首のハムザ ・ ハズ 副 大 統 領、ゴルカル 党 首のアクバル ・ タンジュン 国 会 議 長など の 政 界 関 係 者、 並びに、カトリックのレオ ・ スルヤアトマ ジャ 枢 機 卿、イスラームの サ ハル ・ マフフ ズ ・ ウラ マ 会 議 長などの 他 宗 教の 代 表 者も 含まれ ている。 さら に、 一 般 弔 問 客の 中には 、 仏 教 徒のみ な ら ずイス ラ ームの 信 者のグ ル ー プも 含まれ ていた。 四 月 二 六 日 午 前 八 時、アシン ・ ジナラッキタ 師の 遺 体を 納めた 棺をヴィハーラ ・ エー カヤーナグリハから 送り 出す 起 龕 仏 事が、 入 龕 仏 事の 時と 同じくプ ラ バシ ッダ 師( 悟 通 老 和 尚) の 導 師のもとに 行われ た。 その 際に、サ イ ド ・ ア ギル 宗 教 大 臣が 同 師の 功 績を 称え、その 葬 儀を 委ねる との 意 味で、 同 師の 肖 像 画をアーリヤ マ イトリ 師に 手 渡した。 その 後、 同 師の 棺は 集まった 数 千 人の 信 者に 見 送られ なが ら、 愛 用の 錫 杖と 払 子、 五 如 来 幡、 仏 教 旗など を 先 頭に、 すべての 僧 侶と 仏 乗 教 団の 代 表 者 達の 持つ 黄 色い 布にひか れて 同 寺 院を 出 発した。 しばらくして 移 送 車に 乗せられ た 棺は、ジャ カルタ 市 内 を 離れ、メラ 港から フェリーボートで スマ ト ラ 島のバカウ ヘニ 港へ 上 陸した。そして、 予 定より 二 時 間 程 遅れて 午 後 五 時 一〇 分 頃、 目 的 地のバンダル ・ ランプ ン 市に 到 着した。 ジャ カルタか らは 約 一 三〇 台の 車に 分 乗した 弟 子 達と 信 者 達が 従い、バンダル ・ ランプ ン では 数 千 人の 仏 教 徒が 合 掌 し、 阿 弥 陀 仏の 名 号を 唱えな がら 同 師の 棺を 出 迎えた。 到
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) 着 後、 棺は 車から 降ろさ れて、そ れまで 棺を 護 持してきた 仏 乗 教 団のジャカルタ 支 部の 人々から、 同 教 団のラン プ ン 支 部の 人々に 委ねられた。そして、 再び 葬 列が 組まれ 、 同 市 内の 大 興 廟( T h a y H i n B i o , V i h a r a M a h o p a d h i) に 運 ばれ た。 棺は 大 興 廟の 前 庭に 特 設され た 祭 壇の 正 面に 安 置 され 、 直ちに 遺 体 奉 安の 儀 式が 行われ た。ここでは 二 八 日 まで の 二 日 間に、 約 一 万 五 千 人の 信 者がア シン ・ ジナラッ キタ 師に 最 期の 別れを 告げに 集まったと 発 表され て い る。 二 スマトラ 島から 再びジャワ 島へ アシン ・ ジナラッキタ 師の 訃 報を 受けて 四 月 二 七 日の 朝 日 本を 発った 私は、その 日の 午 後 七 時 三〇 分 頃にジャカ ル タのヴィハーラ ・ エー カヤーナグリハに 到 着した。アシン ・ ジナラッキタ 師の 棺は 既にスマトラ 島へ 移され た 後であ っ たが 、 同 寺 院には 午 後 七 時から 行われ た 同 師の 追 善 法 要に 参 列した 人々が 多く 残っていた。 私は 約 一 時 間 後に 車で 同 寺 院を 出 発し、スンダ 海 峡を 渡り、 バンダ ル ・ ランプ ン へ は 翌 二 八 日の 午 前 五 時 頃に 到 着した。ちなみに、この 晩も 百 台 近い 車に 分 乗した 信 者 達が、 ジャ カルタか らバ ンダル ・ ランプ ン へ 向かっ たようで ある。 同 日 午 前 七 時 三〇 分、 参 列する すべての 僧 侶が 大 興 廟に 集まる と、ま ず 始めに 上 座の 僧 侶 達がパ ーリ 語によ る 経 典 の 読 誦を 約 三〇 分 間 行い、 次に 金 剛 乗の 僧 侶 達がジャワ 語 によ る 読 誦を 一 五 分 間 程 行った。その 後、 大 乗の 僧 侶 達が 中 国 語によ る 読 誦を 行った 後、 約 四 五 分 間にわたっ て 阿 弥 陀 仏の 称 名を 繰り 返した。その 間、 私も 日 本から 持 参した 僧 衣をまとい、 大 乗の 僧 侶の 中に 座を 占めた。 午 前 九 時、ウ マルソノ ・ ランプ ン 州 知 事がア シン ・ ジナ ラッキタ 師の 功 績を 称え、 同 師の 葬 儀を 委ねる との 意 味で、 その 肖 像 画をアーリヤ マ イトリ 師に 手 渡した。そして、 棺 を 大 興 廟から 送り 出す 起 龕 仏 事がここ で も 執り 行われ た。 朝から 続いていた 小 雨が 儀 式の 途 中で 一 瞬 雨 脚を 強め、や がて 天 気は 急 速に 回 復した。 午 前 九 時 四 五 分、 大 興 廟から 出され た 棺はヴ ィ ハ ーラ ・ エー カヤーナグリハを 出 発した 時と 同 様に、 沿 道を 埋め 尽 くした 数 多くの 人々に 見 送られ ながら、 僧 侶と 仏 乗 教 団の 代 表 者 達にひ かれて、 約 一キロ の 道 程を 三〇 分 程かけ て ゆ っ くり と 進んだ。その 後、 棺は 車に 乗せられ て 、 約 六キロ 離
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ れた 「 ボーディ サットヴァ ( 菩 提 薩 )」 という 名 前の 火 葬 場に 運ばれ た。 午 前 一 一 時、 火 屋の 前に 棺が 安 置され 、 付き 従って 来た 僧 侶と 仏 乗 教 団の 代 表 者 達が 着 席する と、 ア シ ン ・ ジナラッ キタ 師の 略 歴の 紹 介、イ ンドネシア 仏 教 僧 伽 連 合 会の 弔 辞、 仏 乗 教 団の 弔 辞が 読み 上げら れ た 。 そ の 後、 中 国 出 身でシ ンガポール 在 住の 大 乗 比 丘、 八 八 歳のチ ョンセン 師( V e n . C o n g S e n g M a h a s t h a v i r a , 宗 成 老 和 尚) が 導 師とな って 秉 炬 仏 事が 営まれ た。 同 師の 洒 水によ っ て 棺の 周 囲が 清めら れ、 法 語が 読み 上げら れ た 後、 棺は 火 屋の 中に 移され た。 次いで 、 参 集した 人々が 阿 弥 陀 仏の 称 名を 繰り 返す 中を、 すべての 僧 侶と 仏 乗 教 団の 代 表 者 達が 各々 白 檀の 粉の 入っ た 蓮 華の 容 器をも って 棺の 周りを 右 回りに 一 巡し、 最 後に その 容 器を 捧げて 別れを 告げた 。 そ し て 、 一 二 時 三〇 分、 チョン セ ン 師によ っ て 荼 毘の 火が 点ぜられ た 。 荼 毘は 約 八 時 間に 及んだという。 翌 二 九 日、 収 骨の 儀 式が 営まれた。しかし、 私は 遺 体が 荼 毘に 付せられ た 直 後に 多くの 信 者 達とともにジャカルタ へ 戻ったため、 残 念なが ら そ の 日の 状 況は 詳らかではない。 収 骨に 際して は、その 前 後に 上 座の 僧 侶 達によ るパ ーリ 語 経 典の 読 誦と、 大 乗の 僧 侶 達によ る 中 国 語 経 典の 読 誦が 行 われ たということで あ る。 そして、アシン ・ ジナラッキタ 師の 遺 骨と 数 人の 弟 子 達を 除き、 他の 人々は こ の 日にジャ カルタへ 戻って きた。 三〇 日、 同 師の 遺 骨はバ ン ダ ル ・ ランプ ン を 離れ、 高 速 艇でス マトラ 島をあ とに した。 そ して 午 後 一 時を 過ぎた 頃、 遺 骨は 約 三〇〇 人の 僧 侶や 信 者 達が 出 迎える 中を、 五 如 来 幡と 位 牌と 肖 像 画に 先 導され て、 ジ ャ カ ル タ 市 郊 外のパ ン タイ ・ ムティアラ 港( P a n t a i M u t i a r a) に 上 陸した 。その 後、 一 行は 直ちに 車 列を 整えて、 市 内にある 廣 化 寺( K o n g H o a S i e , V i h a r a V a i p u l y a S a s a n a ) に 向かっ た 。 同 寺 院 は、 一 九 五 三 年にアシン ・ ジナラッキタ 師が 中 国 人の 臨 済 僧、 本 清( P e n C h i n g ) 和 尚のもとで 初めて 出 家し、 大 乗 仏 教の 沙 弥とし て 體 正( T i C h e n ) とい う 法 名を 授けら れ た 所であ る 。 同 年、 體 正 沙 弥は 本 清 和 尚の 経 済 的な 支 援に よってビルマに 渡り、 翌 一 九 五 四 年、そこ で 改めて 上 座 仏 教の 沙 弥となり 、 その 直 後に 比 丘としての 具 足 戒を 受ける とともに、 ア シン ・ ジナラッキタという 名 前を 師 匠のマ ハー
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) シ ・ サヤ ダウ 師( V e n . M a h a s i S a y a d a w M a h a -t h e r a ) か ら 授かっ たので あ る。 午 後 三 時、 廣 化 寺に 到 着した 遺 骨は、 同 寺 院の 開 創 者で もある 本 清 和 尚を 祀る 部 屋に 運ばれ 、 同 和 尚の 写 真と 位 牌 の 前に 設けられた 祭 壇 上に 安 置され た。 そこで は ア ー リ ヤ マイ トリ 師が 導 師とな って 法 要が 営まれ 、 弟 子の 代 表と 信 者の 代 表によ る 坐 拝が 順 次 行われ た。 約 一 時 間 後、 一 行は 再び 車 列を 組んでジャカルタの 南に 位 置する ボゴー ル 市を 越え、 約 八〇キロ 離れた チ パ ナス 郊 外にある ヴ ィハ ーラ ・ シャ キャワ ナ ラ ン ( V i h a r a S a k y a w a n a r a m , 釈 林 禅 寺) に 向かっ た。この 寺 院は、 一 九 七 二 年にアシン ・ ジナラッキ タ 師によ っ て 建 立され 、 そ れ 以 来 同 師が 活 動の 拠 点として いた 場 所であ る 。 午 後 六 時 三〇 分 頃、 一 行はヴ ィハ ーラ ・ シャ キャワ ナ ラ ンに 到 着した。 同 寺 院では、アシン ・ ジナラッキタ 師が 起 居していた 建 物の 南 庭に 特 設の 会 場が 設けられ、その 最 奥 部に 高さ 四メートル 程の 七 重 塔が 設 置され て い た。 遺 骨は その 塔の 最 下 層に 納められ 、 再びアーリヤマイトリ 師が 導 師とな って 約 一 時 間に 及ぶ 法 要が 営まれ た。こうして、ア シン ・ ジナラッキタ 師の 葬 儀に 関わる 行 事はすべて 終 了し た。その 後の 追 善 法 要は 七 日 毎に 営まれ 、 四 九 日 目に 当た る 六 月 五 日に、 同 師の 遺 骨はヴ ィハ ーラ ・ シャ キャワ ナ ラ ンの 敷 地 内の 仏 塔に 納められ た とのことで あ る。 三 葬 儀を 通して 垣 間 見られた 仏 乗 教 団の 現 状 一 荼 毘をスマトラ 島で 行った 理 由 さて、 今 回の 一 連の 葬 儀を 通して、 私 自 身が 特に 印 象 深 く 感じた 三つの 点を 指 摘しておきたい。そ れらはいずれ も アシン ・ ジナラッキタ 師の 遺 志を 示 唆する ととも に 、 仏 乗 教 団の 現 状を 物 語るもので ある。 まず 始めに、 最も 重 要な 事 柄は、アシン ・ ジナラッキタ 師の 荼 毘がス マトラ 島で 行われ たことで ある。 同 師の 逝 去 が 伝わる と、その 荼 毘を 地 元で 行いたいという 要 望が、イ ンドネシア 国 内で 仏 教 徒を 多く 抱える 各 地 域から 一 斉に 発 せられ た と い う。け れ ど も 、 ア シン ・ ジナラッキタ 師の 遺 言に 従って 、 荼 毘の 場 所はバ ン ダ ル ・ ランプ ン 市の 「 菩 提 薩 」 火 葬 場に 決 定され た。 既に 一 九 七 七 年に 同 師がこの 地を 訪れ、 同 火 葬 場の 裏 山に、 イ ンドネ シア 語で 「 カユ ・
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ プティ ( k a y u p u t i h )」 と 呼ばれ る 八 本の 木を 植えていたた めで ある。この 木は 通 常 香 油を 採 取する た め のも の で あ る が、アシン ・ ジナラッキタ 師はそ れらを 用いて 自らの 荼 毘 が 行われ ることを 願っていたとい う。しかし、この 八 本の みでは 薪が 不 十 分であ った 。そ の た め 、 や は り 同 師 自 身の 希 望によ り、 白 檀を 含む 三 種 類の 木が 薪としてヴィハーラ ・ シャ キャワ ナ ラ ン か ら 運ばれ たと 新 聞 記 事は 伝えている。 だが 、 そ れ に しても 何 故、バンダル ・ ランプ ン が 選ばれ たの で あ ろうか。アーリヤマイトリ 師によれ ば 、 そ の 理 由 は、インドネシア 国 内のす べ て の 仏 教 徒が、 民 族の 違いを 越えて 和 合する こ と をア シン ・ ジナラッキタ 師が 願ったた めで あるという。 先にも 述べたように、 インドネシア は 多 民 族 国 家であ り 、 同 国の 仏 教 徒の 中にも 様々な 民 族の 出 身 者が 含まれ てい る 。 そのため、アシン ・ ジナラッキタ 師は 布 教 活 動を 進める 中 で、 一 部の 民 族に 特 有の、 教 義 的な 裏 付けをも た ない 呪 術 的な 習 慣の 排 除を 目 指してきた。とりわけ、 中 国の 民 族 的 な 因 習は、その 最も 顕 著なもの で あ っ た。その 結 果、 例え ば 寺 院におけ る 巨 大なロウ ソ クや 線 香の 使 用とか 、お も ち ゃ の 紙 幣や 家 具などを 葬 儀の 際に 燃やすという 中 国 的な 風 習 は、 今 日では あまり 見かけ なく なっ てい る。しかし、 中 国 の 民 間 信 仰に 由 来する 神々へ の 信 仰は、そ れ を 信じる 人々 の 存 在を 無 視でき ないとの 理 由で 容 認され た 。 そ の た め 、 アシン ・ ジナラッキタ 師の 態 度は 不 徹 底だという 批 判も 一 方には 存 在する 。 そのような 中にあ って、 中 国 系の 仏 教 徒が 大 半を 占める ジャ カルタ 市の 周 辺で、アシン ・ ジナラッキタ 師の 葬 儀の すべてを 行うことは 好ましいことではなかった。と 言うの も、 同 師 自 身も 中 国 系インドネシア 人であ る た めに 、 同 師 の 説いてきた 仏 教は、 所 詮 中 国 系の 人々のものだという 誤 解を 招き、 他の 民 族 出 身の 仏 教 徒 達の 離 反を 招きかねない からで あ る。 もしもそうした 事 態になれば、 同 師が 提 唱し た 仏 乗 思 想の 理 念は 潰えることに な る で あろう。アシン ・ ジナラッキタ 師は、 仏 乗 教 団に 属する 中 国 系の 信 者 達とそ れ 以 外の 人々との 間で、い つ 分 裂が 起きてもおかしくない という 危 険 性をはっき り 認 識していたと 思われ る。 それ 故にこそ、 同 師は 自らの 葬 儀の 中で 最も 重 要な 荼 毘 をス マトラ 島で 行うことにしたので ある。しかも、その 地
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) 域の 仏 教 徒の 中には 、 古 代インドネシア 仏 教 徒の 末 裔と 言 われ る 人々が 多く 含まれ ている。 その 地で 荼 毘が 行われ る ことによって、 同 師は 自らの 説く 仏 教が、あ ら ゆる 人々に 開かれ た 普 遍 的 宗 教であ る こ と を 示そうとしたので あ る。 のみ ならず 、 仏 乗 思 想はボロブ ドゥ ール 遺 跡を 生み 出した かつ ての 仏 教 文 化の 伝 統を 受け 継ぐも の で あ り 、 他 国の 仏 教をそのまま 移 入したものでは ないことをアピールしよう としたのかもしれ ない。いずれ にせよ、そこには 多 彩な 仏 教 信 仰の 形 態をも つ 様々な 仏 教 徒を 一つにまとめ、 独 自の 「 インドネシア 仏 教」 を 創 造しようとしたアシン ・ ジナラッ キタ 師の 強い 意 思を 窺うことができる で あろう。 二 葬 儀における 禅 宗 様 式の 採 用 第 二に 印 象 深い 点は、こ れ ま で 述べてきた 事 柄とは 反 対 に、 一 連の 葬 儀が 主に 大 乗 仏 教の 様 式、よ り 正 確には 禅 宗 様 式にのっとって 行われ たことで ある。 確かに サンガ ・ ア グン ・ インドネシアに 所 属する 上 座 比 丘や 金 剛 乗 比 丘も 葬 儀に 参 列し、 それぞれ の 流 儀に 従って 経 典の 読 誦を 行った。 しかしな がら、 主 要な 儀 礼にお け る 導 師はすべて 招 請され た 大 乗 比 丘が 務めており 、そ れ 以 外の 儀 礼では 大 乗 比 丘の アーリヤマイトリ 師が 導 師を 務めている 。また、 荼 毘の 当 日まで 、 毎 日 四 回 行われ た 追 善 法 要で 読 誦され た 経 典はい ずれ も 大 乗 仏 教のもの で あ っ たし、 様々な 場 面においては 阿 弥 陀 仏の 称 名が 繰り 返され た。 さら に、 細かい 点でも 禅 宗の 葬 送 規 定に 従っている と 思 われ る 点が 幾つか 見 出され た。 最も 象 徴 的な 事 柄は、 病 院 で 横 臥した 状 態で 逝 去したアシン ・ ジナラッキタ 師の 遺 体 を、 弟 子 達が 坐 禅の 姿 勢に 直して 坐 棺に 納めたことで あ る。 北 首 西 面の 釈 尊 入 滅の 姿 勢ではなく、あえて 坐 禅の 姿 勢を 選んだことは、 明らかに 禅 宗 様 式を 意 図していると 言える ( 6 ) 。 また、ヴィハーラ ・ エーカヤーナグ リ ハにおいて、 同 師の 棺をメインホールの 西 側の 部 屋に 安 置したことや ( 7 ) 、 遺 誡が 掲げら れ た こ と ( 8 ) なども 禅 宗の 規 定に 従ったもの である 。 けれども、ここで 思い 起こせば、アシン ・ ジナラッキタ 師は 大 乗 仏 教の 沙 弥として 出 家したものの、 比 丘として は 上 座 仏 教の 具 足 戒を 受けて いる 。また 、 同 師が 一 九 五 九 年 に 現 代インドネシアで 最 初の 比 丘 僧 伽を 設 立する た め に 諸 外 国から 招 致した 一 三 人の 比 丘は、い ず れも 上 座 仏 教の 比
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ 丘であ り 、そ の 場に 大 乗 仏 教の 比 丘は 招かれ ていなかっ た ( 9 ) 。 しかも、 一 九 六〇 年 代から 七〇 年 代にかけ て 、タイの 上 座 比 丘 達がしばしばイ ンドネシア を 訪れ、 同 国の 仏 教 復 興に 関 与している。そ れ 故、この 当 時の 情 報にもとづいてイン ドネシアの 現 代 仏 教 事 情を 叙 述した 論 文などの 中で、 仏 乗 思 想は 上 座 仏 教の 混 淆 形 態として 紹 介され てき た ( ) 。 だが 、 そ のよ うな 理 解が、 少なくとも 現 在では 適 切では ないことを、 今 回の 一 連の 葬 儀は 如 実に 物 語っている 。 確 かに 今 日においても、 仏 乗 思 想とその 教 団が 様々な 点で 上 座 仏 教から 大きな 影 響を 受けて いる こ と は 事 実であ る 。 ま た、ヴィハーラ ・ エー カヤーナグリハを 訪れる 仏 教 徒 達の 多くは 、たとえ 中 国 系の 人々で さえ も、 上 座 仏 教の 教 義に 大きな 魅 力を 感じると 述べている ( ) 。しかし、その 同じ 人々 が、 阿 弥 陀 仏や 観 音 菩 薩に 対する 信 仰を 保 持し、 故 人の 追 善 法 要を 大 乗 仏 教の 様 式に 従って 営んで いるので ある。し かも 、 現 在のサ ンガ ・ アグ ン ・ インドネシアに は、 上 座 比 丘のみ なら ず 大 乗 比 丘や 金 剛 乗 比 丘も 数 多く 所 属して い る 。 つまり 、 現 在の 仏 乗 教 団は、 最 早ある 特 定の 仏 教 思 想やそ の 流 儀を 中 心とす る 混 淆 形 態では なく、むしろ、 あ らゆる 仏 教 信 仰の 形 態を 包 括する 総 合 仏 教を 目 指しているとみな すべきで あろう。そのように 理 解すれば、 上 座 比 丘であ る アシン ・ ジナラッキタ 師の 葬 儀が 大 乗 仏 教の 様 式で 行われ たとしても、 特に 問 題 視する に は 当たら ない。 同 師の 言 葉 を 借りれ ば 、 重 要なことは 儀 式の 外 観ではなく、そ れを 実 践する 人々の 仏 教 信 仰そのものなので あ る。 とは 言え、 今 回の 葬 儀に 大 乗 仏 教の 様 式が 採 用され た の は 何 故で あ ろうか。その 理 由の 十 分な 確 認はできなかった が、 一つの 可 能 性として、 葬 儀 全 体を 統 括した 首 都ジャ カ ルタの 中 心 寺 院であ る ヴ ィハ ー ラ ・ エー カヤーナグリハの 住 持が、 大 乗 比 丘のアーリヤマイトリ 師であ った こ と と 関 係があ る の かも 知れな い 。 また 、 近 年の 仏 乗 教 団の 中で 大 乗 仏 教の 要 素が 次 第に 強められ て おり、そのことが 今 回の 葬 儀に 反 映され た の か も しれ な い 。 あ るいは 、 アシ ン ・ ジ ナラッ キ タ 師 自 身の 意 向を 忖 度する こ と で、 葬 儀の 様 式が 決 定され た の か も しれ な い 。 このことは、 次に 述べる 事 柄と 大いに 関わり がある 。 す なわ ち 、 追 善 法 要にお ける 金 剛 般 若 経の 読 誦は、 アシン ・ ジナラッキタ 師 自 身が 希 望したことだという 点であ る 。 同
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) 師がそ れを 望んだ 本 当の 理 由はわか ら ない。だ が、そ れ は 恐らく、 同 師がか つて 臨 済 宗の 沙 弥であ った こ と と 関 係が ある で あ ろう。しかも、 同 師が 禅 仏 教に 親 近 感を 懐いてい たことは 確かで ある。 私が 初めて 面 会した 時に、 同 師は 「 自 分も 禅 僧であ る 」 と 述べ、 禅 仏 教に 対する 親しみを 口にさ れた。また、 終 生 瞑 想の 実 践を 貫いた 同 師の 中では ( ) 、 禅 仏 教の 坐 禅と、ビルマでマハーシ ・ サヤ ダウ 師から 伝 授され たヴィ パ ッ サ ナー 瞑 想とが 一つに 結び 付いていたと 推 測す ること も 可 能で あ る。そうだとすれば、アシン ・ ジナラッ キタ 師の 金 剛 般 若 経に 対する 愛 着は、 同 師の 禅 仏 教への 親 しみの 象 徴とみなすことも で きる で あ ろう。 そ れ に 加えて、 同 師の 最 初の 師 匠であ る 本 清 和 尚への 追 慕の 念が、 禅 宗の 中で 古くか ら 重 視され て き た 金 剛 般 若 経への 愛 着とし て、 同 師の 中で 昇 華され た の か も しれ な い 。 ま た 、 別の 可 能 性 として、この 経 典の 中で 説かれ ている 空の 思 想が、 同 師の 仏 教 信 仰の 中 核になっていたことも 考えられ る 。 いずれ に せよ 、 生 前のアシン ・ ジナラッキタ 師は、あ ら ゆる 仏 教の 教えは 究 極 的に 同じもので あり、どの 流 派の 教 えが 特に 優れている とい うこと は な い と 繰り 返し 説いてき た。またそれ 故に、 自 分がどの 流 派の 教えを 最も 重 視して いる ということも 決して 述べなかった。 だが、 そ のことと、 特 定の 流 儀に 親しみを 懐くこととは 自ずか ら 別の 問 題であ る。 同 師は 自らが 幼 少の 頃から 培って きた 観 音 信 仰を、た とえそ れ が 上 座 仏 教の 教 義から 外れている と 非 難され て も 捨てることはなかった。そ れ と 同 様に、 上 座 仏 教に 触れる 以 前に 慣れ 親しん だ 禅 仏 教への 傾 倒も、 同 師の 中で 失われ ることが なかったので あろう。そのことが、アシン ・ ジナ ラッキタ 師の 葬 儀を 禅 宗 様 式で 行うことにつながったので はな い だ ろ う か 。 三 アシン ・ ジナラッキタ 師の 神 格 化 第 三に 指 摘すべき 点は、アシン ・ ジナラッキタ 師の 荼 毘 の 後で、 約 三〇センチ 四 方の 箱に 収められ た 遺 灰とは 別に、 約 四〇 個の 「 仏 舎 利」 が 発 見され た こ とで あ る 。 そ の 舎 利 を 見た 信 者 達は、 異 口 同 音にそ れらが 虹のよ う な 七 色をし ていたと 語っており 、ある 新 聞は、そ れ らの 舎 利が 「 米や 真 珠のよ う な 形をしており 、 赤、 青、 白、 黒、 金の 五 色で あっ た 」 と 記している。その 上で、こ れ らの 舎 利は 精 神 的
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ に 高い 境 地に 到 達した 者の 遺 骨から しか 発 見され な い もの であ り 、 ア シ ン ・ ジナラッキタ 師の 場 合、 生 前に 多くの 修 行を 積んだために 数 多くの 舎 利が 現れたの だ とい う 解 説が 付せられ た 。 私は、 そ れ らの 「 仏 舎 利」 が 生ずる 真の 原 因を 知らな い 。 だが 少なくとも、その 出 現がア シン ・ ジナラッキタ 師の 修 行によ ると いう 説 明を、 多くの 信 者 達が 受け 入れている こ とは 興 味 深い 現 象であ る 。 し か も 、 実 際には 微 妙な 色むら があるに すぎない 小さな 灰 色の 粒を、 「 虹のよ う な 七 色」 を していたと 語り 伝える ことに よ って、その 実 物を 見ていな い 人々は 色 鮮やかな 舎 利の 存 在を 空 想する ように な る で あ ろう。ここ に 、 私 達は 一つの 「 神 話」 の 誕 生を 見ることが できる 。 も っ ともアシン ・ ジナラッキタ 師に 関して は、そ の 生 前から 同 師の 特 殊な 力に 接し、それ によって 同 師の 説 く 仏 教を 信 仰する よう に な った とい う 人々が 数 多く 存 在 した ( ) 。 そ の 意 味で、 同 師の 神 格 化は 既に 早い 時 期から 始まっ ていたので あ る。しかし、その 傾 向は、 同 師の 逝 去によ っ て 今 後ますます 強められ て いくで あ ろう。 同 師の 仏 舎 利を めぐ る 人々の 反 応は、まさにその 始まり とみな す こと がで きる の で ある 。 四 次 世 代への 課 題 過 去 二 五〇〇 年に 及ぶ 世 界の 仏 教の 歴 史を 振り 返る 時、 私 達はそ れを 教 団と 思 想の 分 裂の 歴 史であ った と 言うこと ができる。これ に 対してアシン ・ ジナラッキタ 師が 目 指し たことは、それら の 再 統 合という、まさに 正 反 対の 事 柄で あっ た。 同 師のこの 挑 戦は、インドネシア 国 内に 住むすべ ての 仏 教 徒の 要 請に 応えようとしたことの 必 然 的な 結 果で あっ た。 そし て、 こ の よ う な 試みが 可 能になったのは、 皮 肉にもインドネシア 固 有の 仏 教の 伝 統が 既に 数 百 年 間にわ たっ て 途 絶えており 、いかなる 過 去のしがらみをも 受ける ことなく、 現 在の 状 況に 即 応した 新しい 仏 教を 自 由に 説く ことができたからで あ る。だが、そ れと 同 時に、インドネ シアに 仏 教 信 仰を 復 興させたいというアシン ・ ジナラッキ タ 師の 強い 意 思と、そ れ を 支えた 彼の 強 烈な 個 性と 指 導 力 をも 見 逃すことはできないだろ う。 そのアシン ・ ジナラッキタ 師が 逝 去され た 今、 同 師が 提 唱した 仏 乗 思 想とその 教 団の 団 結を 維 持する た め に は 、 数
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) 多くの 課 題が 残され て い るよ う に 思われ る。 同 師の 葬 儀に 関する 報 告を 終わるにあ たり 、その 中から 特に 三つの 課 題 を 指 摘しておくことにしたい。 第 一の 課 題は、 サンガ ・ アグ ン ・ インドネシアに 所 属す る 上 座、 大 乗、 金 剛 乗のそ れぞれの 比 丘 達の 間にお け る 主 導 権 争いを 如 何に 回 避し、 僧 伽の 団 結を 堅 持する か と い う ことで あ る。アシン ・ ジナラッキタ 師の 生 前 中は、 同 師 自 身が 同 僧 伽の 設 立 者であ る と とも に 、 上 座、 大 乗、 金 剛 乗 のいずれ の 流 派に 属する 大 半の 比 丘 達にとっ て も、 同 師が 直 接もしくは 間 接の 師 匠であ った 。 そ れ 故、 い わばアシン ・ ジナラッキタ 師を 扇の 要とす ることで、 同 僧 伽の 結 束は 守 られ てきた。 けれども、 同 師を 失った 以 上、 新たな 代 表 者を 同 僧 伽の 中から 選 出しな ければな らない。しかも、 様々な 流 派に 属 する すべての 比 丘が 無 条 件で 認める 指 導 者を 見 出すことは 容 易ではない。また、もしも 代 表に 選ばれ た 比 丘が 自らの 流 儀を 他の 比 丘 達に 押し 付ける こ と があ れば 、 僧 伽の 結 束 は 失われ る で あろう。そのようなことになれば、 混 乱は 在 家の 信 者 達にも 波 及して、 仏 乗 教 団 全 体の 団 結が 崩 壊しか ねない 。 その 意 味において、 同 僧 伽に 属する 比 丘 相 互の 協 調 関 係は、こ れ ま で 以 上に 重 要な 意 味をも つことになる と 思われ る。 第 二の 点は、 仏 教 信 仰と 結び 付いた 民 族 的 特 色、とりわ け、 中 国 的な 要 素の 排 除の 問 題であ る 。 先にも 触れた よう に、アシン ・ ジナラッキタ 師は 中 国の 呪 術 的な 因 習を 除 去 する こ と に 努めてきた。だが、その ような 要 素が 根 絶され たわけでは な い。のみならず、 公 衆の 面 前にお け る 中 国 語 と 中 国 文 化の 使 用を 厳しく 制 限していたスハルト 政 権が 崩 壊し、 現 政 権 下では そ れ らの 使 用がかなり 広 範に 認められ ている。そうした 中で、も し も 中 国 系の 仏 教 徒 達が 自らの アイデンティティーを 再 確 認する た め に 中 国 文 化への 回 帰 を 行い、 民 族 色の 強い 崇 拝 様 式を 復 活させることが あ れ ば、 彼らとそ れ 以 外の 仏 教 徒 達との 間で 摩 擦が 生ずる こ と に な るだ ろう。 そ れは 、ま さしくアシン ・ ジナラッキタ 師が 死 の 直 前まで 危 惧し 続け、ス マ トラ 島を 自らの 荼 毘の 地に 選 んだ 最 大の 理 由でも あ っ た 。 け れ ども 、そ の 危 険から 逃れ るためには 、 主に 中 国 系の 信 者 達の 自 覚に 期 待する 以 外に 道はな い 。
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ 第 三の 課 題は、あ ら ゆる 仏 教 思 想の 統 合を 目 指した 仏 乗 教 団の、 学 術 的な 裏 付けをも つ 体 系 的 教 義の 構 築であ る 。 そのための 試みは 従 来も 行われ てきた。だが 、 そ れは 未だ 完 全とは 言い 難い。 また、 教 義 面で 指 導 的な 立 場にある 人々 が、 諸 外 国にお け る 仏 教 研 究の 成 果をも とにして、 自 己 流 の 解 釈を 加えている 例も 時 折 見 受けられ る 。その 結 果、 極 めて 独 創 的な 理 論もしばしば 語られている よ うで ある。 しかしな がら、これまではそうした 事 柄も 大きな 問 題に はな らな か っ た 。 と 言うのも、アシン ・ ジナラッキタ 師の 存 在 自 体が 仏 乗 教 団にと っ て は 求 心 力の 最 大の 源 泉であ り 、 同 師の 語る 言 葉こそ が 仏 乗 思 想の 最 大の 拠り 所だっ たから であ る 。 し か も 、 あ ら ゆる 仏 教の 教えは 一つで あるという 同 師の 言 葉にもとづいて、 上 座、 大 乗、 金 剛 乗のそ れぞれ の 思 想に 大きな 相 違が あ る は ずは ないと 大 半の 人々は 信じ ている。インドネシアでは 世 界 的 水 準の 仏 教 研 究が 未だ 行 われ ていないため に、 それ に 対する 疑 問が 生まれ る 余 地も 小さかっ た ので ある。 けれ ども 、 今 後 同 国 内で 仏 教 研 究が 進 展するに つ れて 、 従 来 説かれ てき た 教 義の 抱える 問 題 点が、 次 第に 明らかに され て い くで あ ろ う 。 そ の 上、アシン ・ ジナラッキタ 師が 逝 去した 今とな って は、 仏 乗 教 団の 存 立 基 盤は 同 師の 存 在 そのもの ではなく、 彼が 遺した 仏 乗 思 想の 中に 求められ る ことになる。 そうだとすれば、 体 系 的な 仏 乗 教 義の 確 立は、 教 団の 維 持のためにも、また、アシン ・ ジナラッキタ 師が 目 指した 「 インドネシア 仏 教」 を 継 承する た め にも 、 次な る 世 代に 託され た 必 須の 課 題となる で あろ う。 同 時にそ れ は、 様々に 分 化した 仏 教 思 想の 再 統 合という、 仏 教 史 上に おけ る 壮 大な 実 験の 成 否の 鍵を 握っている と 言っても 過 言 ではない。 ヴィハー ラ ・ シャキ ャ ワナラン における 法 要が 終わり 、 アシン ・ ジナラッキタ 師の 葬 儀に 関わる すべての 行 事が 終 了した 夜、 私は 二〇 人 程の 信 者 達の 集まる テ ィ ー パ ー テ ィー に 誘われ た。 会 場は 同 寺 院のすぐ 前に 位 置するあ る 女 性 信 者の 自 宅であ り 、 そ の 一 室がア シン ・ ジナラッキタ 師の 個 人 的な 礼 拝 室として 同 師に 捧げら れ て い た 。 三〇 坪 程のそ の 部 屋には 、 ア シ ン ・ ジナラッキタ 師の 写 真とともに、 上 座 式の 釈 迦 牟 尼 像、 大 乗 式の 釈 迦、 阿 弥 陀、 薬 師の 三 如 来 像や 観 音 像をは じめとす る 様々な 仏 菩 薩 像、 金 剛 乗 式の 諸
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) 尊 格 像、そ れに、 晩 年のアシン ・ ジナラッキタ 師が 「 世 師」 と 呼んで 尊 崇していたインドのサイ ・ ババの 写 真と、 来 臨 する 彼のための 椅 子などが 整 然と 並べられ て いた。 そ こは 、 まさ しく 仏 乗 思 想の 具 現した 世 界であ り 、ア シ ン ・ ジナラッ キタ 師の 目 指す 「 インドネシア 仏 教」 のモデルルームと 呼 ぶにふさ わしい 場 所であ った 。 こ の 部 屋に 象 徴され るよ う な 総 合 仏 教が、 今 後もインドネシアで 着 実に 成 長していく ことができる で あ ろうか。テ ラ スのベンチに 腰 掛けて 、 目 の 前に 広がる チ パ ナス の 丘と、ようやく 姿を 現した 居 待 月 を 眺めつつ、 私は 穏やかに 語る 在りし 日のアシン ・ ジナラッ キタ 師を 思い 起こしていた。 注 記 ( 1 ) アシ ン ・ ジナ ラッキ タ 師の 世 寿( 数え 年) につ い て 、イ ンド ネシ アの 中 国 語 新 聞は 太 陰 暦に 従って 八 一 歳と 記してい る。 これは、 同 師の 誕 生 日が 太 陽 暦に 従えば 一 月 二 三 日であ るが、 太 陰 暦に 直すと 前 年の 一 二 月 八 日とな る こ と に よ る も のであ る 。 ( 2 ) 拙 稿「 イン ドネシ ア の 仏 教 復 興とその 現 状」『 愛 知 学 院 大 学 短 期 大 学 部 研 究 紀 要』 八( 二〇〇 〇、 二 一 六 - 二 四 六 頁) 、 「 全 日 本 仏 教 会とイ ン ド ネ シ ア ─ ─ 一 九 五 九 年のウ エ サ カ 祭 出 席と 戦 犯 遺 骨 送 還 運 動── 」『 禅 研 究 所 紀 要』 二 八( 二〇〇 〇、 九 一 - 一 三 一 頁) 、 「 現 代イン ドネシ ア の 仏 教 信 仰」『 日 本 仏 教 学 会 年 報』 六 七( 二〇〇 二、 一 八 一 - 一 九 三 頁) を 参 照。 ( 3 ) 二〇〇 二 年 五 月 一 日と 二 日にジ ャカ ル タ のヴ ィハ ー ラ ・ エー カヤ ー ナ グ リ ハ に て 、 Ve n . B h ik kh u A ry am ait ri, Ve n . B h ik kh u D ha rm av im al a, Mr. H en dwi W ijaya など か ら 得た ご 教 示にも とづい て い る 。 ま た 、 参 照した 新 聞は 「 国 際 日 報」 、 「 世 界 日 報」 、 「 印 度 尼 西亜 商 報」 、 “Ja w a P os” 、 “R adar La m p u n g” 、 “L am pun g P os t” などで あ る 。 インドネシ ア 語 の 読 解にあ た っ て は 、 名 古 屋 大 学 大 学 院に 在 籍 中の Suge n g Ta n to 氏の 協 力を 得た。 ( 4 ) 仏 乗 教 団に 属する 寺 院には、イン ド ネシア 語と 中 国 語に よる 二つの 寺 院 名をも つ 例が 多い。 概して 、 同 国の 独 立 以 前 に 創 建され た 中 国 系 寺 院では 中 国 語の 名 称が、 また 、それ 以 後に 創 建された 寺 院では イ ン ドネ シア 語の 名 称が 一 般 的に 用 いられ て いる ようで あ る。 ( 5 ) 遺 誡は 次の 通りであ る 。 「 體 解 大 道 播 種 善 果 在 南 邦、 正 氣 凛 然 歴 盡 艱 辛 永 留 芳」 ( 6 ) 現 存する 禅 宗 叢 林の 行 動 規 範( 清 規) の 中で、 葬 送 儀 礼 に 関する 最 古の 規 定を 収 載しているのは 『 禅 苑 清 規』( 一 一〇 三 年 自 序) であ る 。 同 清 規におけ る 尊 宿 遷 化( 一 寺の 住 職の 逝 去) の 規 定は、 「 もし 已に 坐 化せば 、 方 丈の 中に 置いて 香 華 供 養し 」 という 書き 出しで 始まる 。この 一 節に 関して 、 成 河
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ 峰 雄 氏は 「 禅 宗 僧 侶の 遷 化はかく あ る べ しと 規 定しているの であ る 」 と 論じて おり (「 禅 宗の 葬 送 儀 礼」『 禅 研 究 所 紀 要』 二 四、 一 九 九 六、 一 三 六 頁) 、 松 浦 秀 光 氏は 禅 宗の 四 祖 五 祖 六 祖がい ずれ も 坐 化した と 伝えら れ る こ と に 由 来すると 推 測し てい る (『 尊 宿 葬 法の 研 究』 山 喜 房 佛 書 林、 一 九 八 五、 三 三 頁) 。ま た 、 後に 成 立した 『 日 用 清 規』( 一 二 六 三) では 、「 尊 宿が 遷 化せば、 … … 先ず 浄 髪し、 沐 浴し、 著 衣し 趺 坐せしめ て 入 龕す 」 と 規 定して おり、 ア シン ・ ジナラッキタ 師の 葬 儀 は 事 実 上この 規 定に 従った こと になる 。 な お 、『 禅 苑 清 規』 の 引 用 文は 鏡 島 元 隆、 佐 藤 達 玄、 小 坂 機 融 共 著『 訳 注 禅 苑 清 規』 ( 曹 洞 宗 宗 務 庁、 一 九 七 二) により、 それ 以 外の 清 規の 規 定に 関して は 松 浦 前 掲 書を 参 考にし た ( 以 下 同じ ) 。 ( 7 ) 『 禅 苑 清 規』 は 「 法 堂の 上の 西の 間に 龕を 置き、 東の 間に 臥 床・ 衣 架・ 随 身 用の 具を 鋪き 設けて、 法 座の 上に 真を 掛く 」 と 記して い る 。 棺を 法 堂の 西の 間に 安 置することは、 後に 作 成され る 清 規でも 踏 襲され た。 ( 8 ) 遺 誡を 掲げることは 、 既に 『 禅 苑 清 規』 が 「 遺 誡 偈 頌を もっ て 牌の 上に 貼し、 霊 筵の 左 右に 掛けて 」 と 記している。 この 規 定は 若 干の 変 更を 経なが らも、 後の 各 種の 清 規に 踏 襲 されている。 ( 9 ) 当 時のイ ン ド ネ シ アに は 中 国 人の 大 乗 比 丘が 存 在したは ずであ る が 、 彼らは 一 人も 比 丘 僧 伽の 設 立に 招 致され て い な い。 ま た 、 こ の 僧 伽 設 立の 翌 日に、アシン ・ ジナラッキタ 師 の 発 案によ っ て 国 際 的なヴ ェーサ カ 祭がボロ ブ ドゥー ル 遺 跡 で 開 催され た。この 祝 祭に、 日 本からも 一 人の 大 乗 比 丘が 招 待されて 出 席したが、 僧 伽 設 立のこ と は こ の 比 丘に 対して も 知らさ れてい な い 。 詳しくは、 前 掲 拙 稿「 全 日 本 仏 教 会とイ ンドネ シ ア 」 一〇 二 - 一〇 三 頁を 参 照され た い 。 ( 10) 例えば 、 Hein z B ec h ert ,“ The B ud dha yana o fI nd o n es ia: AS yn cr et ist icF o rmo fT h er av ad a,” Jo ur nal of th e P ali T ext So ciet y 9( 198 1) , p p . 10– 21 は、 論 文の 題 名 自 体がそ のこと を 明 示している。 石 井 米 雄 氏も、 アシン ・ ジナ ラ ッ キ タ 師に 従う 仏 教 徒 達を 「 中 国 仏 教の 影 響を 残しつ つ 独 自の 上 座 仏 教を 発 展させよ う とす るグル ー プ 」 と 評してい る (「 イン ドネシ ア に 伝えられた 上 座 仏 教」 、 石 井 米 雄 編『 講 座 仏 教の 受 容と 変 容2 東 南アジ ア 編』 佼 成 出 版 社、 一 九 九 一、 二 五〇 頁) 。 ( 11) 前 掲 拙 稿「 現 代インド ネ シ ア の 仏 教 信 仰」 一 八 六 頁を 参 照。 ( 12) 一 九 九 七 年に 私が 面 会した 際に、 アシン ・ ジナ ラッキタ 師は 毎 日 午 前 二 時 頃から 数 時 間、ベ ッ ド の 上で 瞑 想を 行って いる と 語ってくれ た。 ( 13) 前 掲 拙 稿「 現 代イン ドネシアの 仏 教 信 仰」 一 八 六 - 一 八 七 頁を 参 照。 〔 追 記〕 前 掲 拙 稿「 イン ド ネ シ ア の 仏 教 復 興とその 現 状」 二 二 三 頁、 及び 同「 全 日 本 仏 教 会とイ ンドネ シ ア 」 九 九 頁にお い て、ア シ ン ・ ジナ ラッキタ 師によるイ ンドネ シ ア 優 婆 塞・ 優
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) 中国語新聞に掲載されたアシン・ジナラッキタ師逝去の全面広告 (「国際日報」2002年4月20日版)
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ ヴィハーラ・エーカヤーナグリハに奉安された アシン・ジナラッキタ師の遺体 (2002年4月18日、ヴィハーラ・エーカヤーナグリハ提供) ヴィハーラ・エーカヤーナグリハを出発する葬列 (2002年4月26日、同上)
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ジャ カルタ での葬 送を伝 える新 聞記 事( 「 国際 日報 」 2002 年4月 27 日版)
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ バ ンダル ・ラン プンで の葬送 と荼毘 を伝え る新聞 記事 より( “ Rad ar La m pun g ” 16 面、 200 2 年4 月 29 日版 )
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) 大興廟に安置された棺と祭壇 (2002年4月28日) 読経する金剛乗比丘と、それを見守る大乗比丘 (大興廟にて、2002年4月28日)
世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) ─ ─ 大興廟を出発した棺と、それを見送る信者達 (バンダル・ランプン市内にて、2002年4月28日) 葬儀終了後に集会を行う比丘達 (ヴィハーラ・シャキャワナランにて、2002年4月30日)
─ ─ 世 代 交 替を 迎えるイ ン ドネ シア 仏 教 界( 木 村) 婆 夷 友 好 団 体( PUU I ) の 設 立を 一 九 五 三 年のこ と と 記 載 した。け れ ども、これは 一 九 五 五 年の 誤りで あ り 、 同 師が 既 にビルマ で 比 丘として の 具 足 戒を 受けた 後のこと で ある。 〔 謝 辞〕 アシ ン ・ ジナ ラッキタ 師 逝 去の 情 報は、イ ン ドネ シア 在 住の M r. Su rja di Liunan da とその 令 室Mrs. Y u anit a Ja de から い た だい た。 また、 現 地 滞 在 中は Vih ar a E kay an a G rh a の 関 係 者のお 世 話になると と も に、 Mr . H en d w iW ija ya , M r. Hadi Ute h , M r. Janu ar K w an には 特に 便 宜をは かっ て い た だいた 。 記して 感 謝 申し 上げま す 。