﹁
二
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者
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心
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|
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塩
竃
義
明
第
はじめに 善導大師が寂されて一千三百年をむかえた今日、この二河白道説の壁画一戦は我々凡夫にとってこの難しい時代にそ の進むべき指針とも又、道標とも言うべきものであることは言うまでもない。ここで善導大師の教えの根本となる この﹁二河白道説﹂が、善導大師のいかなる思想体系の中からあみ出されたものであるかということを考えていく 上で、その思想材を的確に把握しておく必要がある。そしてこの思想材だけでなく、これを土台として一歩進み出 た善導大師の真の﹁二河白道説﹂の理解を深めねばならないのである。この善導大師の﹁二河白道説﹂の誓織がい づれの経論に依ってそのような構想を練られて出来上がったのかということは、今までいろいろな説をみることが 註① できる。浄土宗において二祖良忠上人は﹃観経散善義惇遁記﹄において﹃、浬繋経﹄及び﹃大智度論﹄の二つの経論 をもって、その思想材あるいは根拠となさったのではないかと述べられている。今ここで、これらの思想材につい てはふれずに、善導大師の﹁二河白道説﹂を分科して論を進めたいと思う。善導大師の﹁二河白道説﹂を願生者の 註② 状態あるいは、心的変化・動態などを考慮に入れてこの警鳴を分けてみると次のようになる。初めに壁一一同職を、警説 ﹁ 二 河 白 道 ﹂ に つ い て 四 七傍 数 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 六 時 仇 四 八 と 合 職 に 分 け て 各 予 を 壁 一 一 向 説 川
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倒 、 ﹃ 観 経 疏 ﹄ 散 色 弱 ま ず 壁 一 一 向 喰 は 、 川w
警 如 四 有 γ 人 欲 一 ユ 向 v 西 行 一 一 百 千 之 里 一 忽 然 中 路 見 v 有 v 二河−一是火河在 v 南二是水河在 v 北二河各悶百歩各深 無 v底南北無 v漫正二水火中門一有一二白道一可間四五寸許一此道従東岸一至一一西岸一亦長百歩其水波浪交ミ過淫 γ 道孔九談亦来嬢 v 込 水 火 相 丸 依 然 休 息 一 比 人 此 一 色 一 空 瞭 週 ル 広 一 児 札 一 一 人 物 一 多 私 一 一 季 一 賊 悪 獣 一 見 一 一 此 ん 車 紘 一 ヲ 競来欲 v 殺 ム、 口U
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(A1) (D4) 区 分 し て お く v 陪 ノ 倒此人怖 v 死直走向 v 西忽然見二此大河即息念雪中比河南北不 γ 見 一 一 遺 札 一 中 間 見 一 二 白 道 一 極 是 狭b
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二岸相志 雄 v 近 何 由 可 v 行 今 日 定 死 不 v 疑正欲一一到週一筆賊悪獣漸漸来逼正欲ニ南北避走一悪獣毒患競来向 v 我 正 欲 ニ 向 v 西尋 v 道而去復恐堕此水火二河一蛍時憧怖不一一復可乙一一日 ‘ 、 P ル 陪 ナ Y ル 陪 Y ル 陪 YO
即自思念我今週亦死住亦死去亦死 一 品 島 、 不 v 勉 v 一 わ 者 我 寧 尋 一 一 此 匙 一 九 v 前 而 去 臨 時 私 ニ 此 道 一 必 臨 一 一 乱 ト 度 一 作 ニ 此 込 町 一 時 東 未 払 間 一 一 人 軌 弘 一 仁 者 但 決 応 予 比 道 一 あ 必 然 ニ 一 化 難 一 若 仲 b ハ 即 応 ト 又 西1L
ら v 人 前 知 一 一 一 目 汝 一 心 正 怠 y 島 − お 我 払 蕗 ト あ 拠 不 川 固 め v v 町 一 一 於 水 九 之 紘 一 。 比 人 民 間 附 ニ 比 匙 仇 市 町 一 即 白 昨 正 一 一 色 ゲ か 一 決 忠 君 ア 品 島 品 不v
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一 一 疑 怯 池 山 一 戎 知 一 分 こ か と 東 山 恥 蒙 賊 等 乱 一 マ 一 中 仁 者 也 p 来 一 比 一 迫 険 悪 、 一 れ v 得 v 過必死刑 v 民 営 法 一 寸 衆 紙 一 悪 心 相 夙 比 人 難 v 閤 即 一 一 喚 龍 一 亦 不 一 一 配 一 臨 一 一 心 直 匙 念 v 遁 而 一 品 ハ 須 丸 即 到 一 一 西 山 淳 一 永 離 一 一 諸 難 一 善 友 相 見 慶 築 無 v 巳此是轍也合職は 配 言 一 一 東 山 芹 一 者 郎 輪 一 一 此 裟 婆 之 火 宅 一 也 言 一 一 西 岸 者 即 聡 一 一 極 築 費 圏 一 也 言 二 重 賊 悪 獣 詐 親 者 即 輪 一 一 衆 生 六 根 六 識 六 塵 国 一 旦 ア 五 陰 四 大 一 也 言 一 一 無 ν人 空 遁 津 一 者 即 喰 下 常 随 一 一 悪 友 一 不 v 値 申 員 善 知 識 上 也 言 一 一 水 火 二 河 一 者 即 日 輪 一 一 衆 生 貧 愛 如 v 水際 ハ ナ ル ニ ノ ハ ノ ト フ ノ ノ ニ ス ル ユ ナ ル 憎如 γ 火 也 言 一 一 中 間 白 道 四 五 寸 一 者 即 喰 一 ニ 衆 生 貧 膜 煩 悩 中 能 生 一 一 清 浄 願 往 生 心 一 也 ベ ー ル カ キ 品 目 −
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ノ ナ ル カ ニ ル ュ γ ノ ユ 見 ト ハ ヲ フ ユ テ 兵 士 M A乃 由 一 一 貧 膜 強 一 故 即 戦 如 一 一 水 火 一 善 心 徴 故 聡 如 一 一 白 道 一 又 水 波 常 淫 v 道 者 即 聡 = 一 愛 心 常 起 能 染 一 一 汚 善 心 一 也 談常焼 ν 道 者 即 職 = 旗 嫌 之 心 能 健 一 一 功 徳 之 法 財 一 也 又 火 れ 竺 一 = 口 下 人 行 ニ 道 上 一 直 向 上 V 西 者 即 喰 下 週 一 一 諸 行 業 一 直 向 中 西 方 上 也 f 1 玉 テ ノ V 陪 ヲ ル 品 ノ キ ヌ ル ユ 滅 後 人 不 v 見 由 有 一 一 教 法 可 v尋即聡 v 之如 v 整也 畳 一 口 下 東 岸 聞 一 一 人 聾 勘 違 一 尋 v 道 直 西 進 ム 者 即 喰 コ 一 種 迦 己 リ ユ テ ヲ ニ V ミ テ ヲ ス ル ニ MA 言 一 一 或 行 一 分 二 分 霊 賊 等 喚 週 一 者 即 聡 下 別 解 別 行 悪 見 人 等 妄 読 一 一 見 解 一 迭 相 惑 箆 及 自 造 ν 罪退失上也言一一西岸上 − 一 見 ア 有 v 人 喚 一 者 即 聡 一 一 禰 陀 願 意 一 也 壬 一 口 下 須 奥 到 ニ 西 岸 一 善 友 相 見 喜 上 者 即 職 下 衆 生 久 沈 一 一 生 死 一 瞬 劫 論 泡 迷 倒 自 纏 無 v 由ニ テ リ ソ セ γ ム ル 守 ヲ ニ テ ヲ エ テ γ 玉 − 一 解 脱 一 仰 蒙 一 一 通 伴 迦 護 遣 指 一 一 向 西 方 一 又 藷 一 一 調 陀 悲 心 招 喚 一 今 信 一 一 順 二 隼 之 意 一 不 v 顧 一 一 水 火 二 河 一 念 念 無 v 遣 乗 一 一 テ 7 1 ヲ ノ ニ セ ハ ソ ラ Y ト 云 ユ 彼願力道一捨 ν 命己後得 v 生一 一 彼 圏 一 血 ハ v 傍相見慶喜何極也 と い う よ う に 、ω
は願生者の現実存在への如実な凝視であり、願生者の現状況ということになる。紛において前段 階の現状況の凝視を一層深くみつめた願生者の内在性ということができる。そしてO
では、願生者の﹁自ら念言す ら く ﹂ ﹁即自ら思念すらく﹂という動態であり、釈迦の発遺・弥陀の招喚の戸を加えて願生者の自らが決定すると ﹁ 二 河 白 道 ﹂ に つ い て 四 九僻教大串大皐院研究紀要第十六競 五
。
いう﹁その時﹂である。すなわち、願生者の決断とみることができる。そしてりにおいては、釈迦の発遣と弥陀の 招喚を聞き念仏する往生人の様態と言うことができる。このように示してみると、ω
願生者の現状況 的願生者の内在性 。願生者の決断 。願生者の様態 という四つに区分することができる。このω
1
0
の願生者の状態において、倒。では﹁自ら念す﹂ く﹂という願生者自身の動態をみることができる。この願生者の動態に加えて、二尊の発遺・招喚と共にこの善導 ﹁ 自 ら 思 念 す ら 大師のもつ﹁二河白道説﹂は一層真実をもって我々に宗教体験の過程としての誓喰のもつ重要性が明らかに迫って く る の で あ る 。第二願生者の心的変化
この善導大師の﹁二河白道説﹂は、我々凡夫がこの世の中において種々の煩悩に振りまわされている姿をみられ、 あるいは自分自身のご体験をもとにして説かれたものであることは言うまでもない。そして我々凡夫はこの迷いの 世界からいかにして脱するかを克明にお示しになった。こく我々凡夫の決断としての﹁願往生心﹂が開顕すること の重要性を明確な警鳴をもって述べられている。ここで善導大師が﹃観経疏﹄に述べられている﹁安心起行﹂とい 『 う 観 教 経 範 疏 に 』= ゾフ 散 い 善 て 義註 Yこ④線料簡即篤二十一門一一者総明一一告 A ? 二 者 耕 一 一 定 其 位 二 二 者 総 奉 一 一 有 縁 之 類 一 四 者 耕 一 一 定 三 心 一 以 篤 二 正 因 一 五 者 正 明 v 簡 一 一 一 機 堪 興 一 一 不 堪 一 六 者 正 明 一 一 受 法 不 同 一 七 者 正 明 一 一 修 業 時 節 延 促 有 γ 異 八 者 明 下 週 一 一 所 修 行 一 願 v 生 中 一 繍 陀悌図上九者明下臨一一命終一時聖来迎接不同去時還疾ム十者明ニ到 v 彼華開運疾不同一十一者明一一華開己後得盆有 v 異今此十一門義者約一一割九品之文一一品中一皆有一一此十一一即矯一二百番義一也
就 二
と 述 べ ら れ 、 こ の ﹁安心起行﹂が散善九品の各々の品に対して極楽浄土に往生できる正行であることを明している。 そ し て ==官 具 見 上 観 三ゴル品無 て 上 量 一 ヲ 生 害 者ハ者ト経 必 ァI;'":, 、 』 静子者;に窃
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願 v 生 一 一 彼 圏 一 者 都 民 一 二 二 種 心 一 即 便 往 生 何 等 篤 v一三者至誠心 二者深心 者廻向護願心 とあり﹁彼の国に生ぜんと願、ず﹂という総安心と又﹁至誠心・深心・廻向発願心﹂という別安心である三心が述べ られている。ここで善導大師が﹃観経疏﹄散善義に言われる﹁安心起行﹂という教範で﹁二河白道説﹂をみてみる と、白道←安心︵三心︶であり、白道を渡る委は起行となる。﹁安心起行﹂という教範をもって、この﹁二河白道﹂ のポイントが示されている。ここで示す願生者の﹁安心起行﹂の姿は、所求︿極楽浄土﹀ ・ 所 帰 ︵ 阿 弥 陀 仏 ﹀ 去 行︿念仏︶と言うことになる。即ち﹁二河白道﹂は三心全体にかかわり凝縮された警職と考えられ、この壁画一輪を三 心の各々の心的変化の段階とみることができよう。この三心、即ち至誠心・深心・廻向発願心を﹁二河白道﹂の区 分︵前章に示した︶ω
1
0
に相当させて考えてみよう。 『w
観 願 経 生 琉 者 』 の 散 現 善 状 義時況 に窃 ﹁ 二 河 白 道 ﹂ に つ い て 五併 数 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 六 競 五 二 至 誠 心 至 者 員 誠 者 賓 欲 v F二切衆生身口意業所 v 修 解 行 必 須 一 一 員 賞 心 中 作 一 不 v 得 下 外 現 ニ 賢 善 精 進 之 相 一 内 懐 中虚仮上貧膜邪偽好詐百端悪性難 v 侵 事 同 ニ 蛇 蝿 一 難 v 起 ニ 三 業 一 名 震 一 一 雑 毒 之 善 − 亦 名 ニ 虚 仮 之 行 一 不 v 名 ニ 員 賞 業 ︸ 即ち至誠心とは、真実心であり外に賢善の相を現わし内に虚仮心をいだくことなく、身口意三業に修する所の行業 は全て真実心をもってすることである。さらに﹁二河白道説﹂に水火二河や群賊悪獣によって表わされている貧蹟 ・邪偽などの悪は止めにくく、これによって三業を起したとしても虚仮の業として真実の業とはされていない。即 0 0 0 0 0 0 0 註 ⑦ ち内外相応した心意を持つことが大切である。これによってもこの
ω
の部分においては、願生者は真実心をもって 内外相応した心で現実の状況をながめることである。又この中に﹁中間の白道四五寸﹂に聡えられる﹁衆生の貧膿 煩悩の中に能く清浄なる願往生の心を生ずるに﹂生じた心があることはこの真実をもったことを述べているのであ る。善導大師の﹁二河白道説﹂における白道についての合職の中に、①には﹁衆生の貧膜煩悩の中に能く清浄なる 願往生の心を生するに﹂として、また②には、O
において﹁彼の願力之道﹂として二つ述べられている事が問題と なる。このω
における白道は、①の願生者が起す願往生心と言うことができる。②の方については、ω
の 区 分 に お いて述べたいと思う。即ち、このω
の区分では人間存在への真実の凝視であり、又その人間存在の現状況を明確に し、この中に願生者の願往生心が述べられている。故にこのω
を願生者の現状況を至誠心をもって見ることができ、 この願生者は現状況の中で真実心をもって身口意に修する行業を理解されているのである。 ⑩願生者の内在性 さらにここにおいては、願生者が置かれているω
の状態の中で真実心をもっていこうとするのであり、そして願生 者 は ﹁此の人死を怖て直に走て西に向うに勿然として此の大河を見る﹂のである。勿然として大河を見ることによって願生者は自分自身の現在の状態を自覚するに至る。 註③ ﹃観経疏﹄散善義に 二 者 深 心 言 一 一 深 心 一 者 即 是 深 信 之 心 也 多面離之縁一 亦 有 一 三 種 一 一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫蹟劫己来常没常流轄無v とある。これは自己が罪悪深重の凡夫であり出離の縁のないものであることを深く信ずることである。即ち、願生 者がありのままの姿を自覚するという内なる方向への意識であり信機における煩悩の自覚の事実にほかならない。 この機の自覚ということは、合職に﹁貧膿強きに由るが故に即ち、験うるに水火であり、善心微なるが故に白道﹂ つやついて水波火談によって白道が滋し焼かれているということを自覚することはこの信機相である。 と 述 べ ら れ 、 又﹁愛心常に起って能く善心を染汚する﹂ の現状況から倒の願生者の内在性へとその自覚の深みを増すのである。さらに﹁即ち自ら念言すらく﹂という願生 ﹁撰嫌の心能く功徳の法財を焼く﹂と示されている。ここで
ω
の願生者 者の心的変化の第一段階をみることができる。この変化は、願生者が今現在にある自分自身をさらに深くみつめ直 しその機相を知るのである。しかし、ここにおける﹁即ち自ら念言すらく﹂のこの﹁念言﹂というのは、自分自身 の今の状態を﹁思う﹂又は﹁注意する﹂というような内在的方向への機の自覚にほかならないのである。 註① ﹃観経疏﹄散善義 又 深 ふ 深 一 一 向 ト ハ 者 決 あ 建 一 一L
自心一院 ν 教 修 弘 、 氷 除 一 一 疑 札 一 不 γ 矯 = 一 一 弘 別 解 別 行 異 皐 異 見 具 札 之 所 一 一 退 失 傾 乱 一 也 とあり、深心とは深く信ずのことであり、願生者は弥陀の四十八願を信じて、他の一切の別解別行異学異見などに とらわれて極楽浄土への往生を失ってはならないとされている。つづいて善導大師は﹃観経疏﹄散善義に﹁就人立 信 ﹂ ﹁就行立信﹂と述べられるように﹁信﹂による願生者の緊張を述べられている。とともに本願の必要をも述 ﹁ 二 河 白 道 ﹂ に つ い て 五悌 敬 大 声 子 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 六 時 抗 五 四 べられて、このことを信ずるのが往生の正機であり、若し我身を罪悪生死の凡夫であることを自覚しなかったなら ば﹁信﹂は立つことがなく﹁信﹂が立たなければ本願に乗ずることもないのである。本願に乗じなければ煩悩具足 の凡夫は苦海を出ることが出来ないのである。だから信機を出離のために真実となすのである。この場においては、
ω
における真実心をもって解するのに加えて、さらに願生者に内在する機相の自覚により展開して、次の段階に至 る基底がこの段階にもまたもたれるのである。又、ここで﹁二岸相去ること近しと雄も何に由ってか行くべき﹂と いうことである。この二岸とは即ち、極楽世界︿彼土﹀と裟婆世界︵此土﹀であり、今まで願生者の心的変化は、 真実心をもって自己の罪悪深重の凡夫であることを理解している。そこで問題となることは、仏と凡夫の関係に示 されるこの二土が願生者にとってどのように関わりをもっているかである。 註⑬ ﹃無量害経﹄巻上に エ ユ ル フ ヲ ナ リ ノ ノ ヲ テ フ ト 併告ニ阿難一法臓菩薩今己成傍現在ニ西方一去v此十寓億利其傍世界名目ニ安柴一 とあり、此土より十寓億利のころに仏の世界があるとし、安楽と述べられている。又、つづいて、 註 @ ﹃ 阿 瀦 陀 経 ﹄ に 玉 ハ グ ユ ロ ν テ ヲ テ ク ト ノ 日 目 見 上 ル ト 品 y y 下 爾時傍 A P 一長老舎利弗一従 v 是 西 方 過 一 一 十 高 億 悌 一 有 一 一 世 界 一 名 目 ニ 極 楽 一 其 土 有 v 併競阿禰陀一今現在説法− とあり、是より西方十寓億仏に世界あるとし極楽と名付けられている。そして仏を阿弥陀とされている。又、 註 @ ﹃観無量害経﹄に ル ヤ ヤ ル ー ロ ラ i j 爾時世隼告一一章提希一汝今知不阿禰陀併去 v 此不 v 遠 汝 嘗 下 関 酌 v 念諦説中彼悶即上浄業応 Y 4 h とあり、阿弥陀は此を去ること遠からずと述べられている。これらを比べてみると﹃無量毒経﹄では﹁去此十万億 剰で﹃阿鵡陀経﹄では﹁過十万億仏土﹂と説かれているが﹃観無量需経﹄には﹁去此不遠﹂となっている。これ各経の表現は、各々異なっているけれども仏の心からすれば真実浄土を建立されたことは同じであるということにな る。このことについて善導大師は、 設 刊 明 ﹃観経疏﹄序分義に ト グ ス y ヲ セ γ ム ル ー ヲ ヲ チ リ ノ ユ ハ 見 ヲ リ 見 ν ハ ヲ ν ノ ナ ル ー ヲ 言 阿 禰 陀 傍 不 透 一 者 正 明 一 一 標 v境以住心即有一一其三二明下分斉不 v遠従 γ 此超一一過十高億利一即是禰陀之園ム 二 明 一 一 道 里 難 v 逢去時一念即到三明ニ章提等及未来有縁衆生注心観念定境相臆行人自然常見一有一一斯三義一 故 云 一 一 不 透 一 と述べられ、①分斉不遠 ②道里不遠 ③観念不遠の三つを述べられている。①分斉不遠とは、裟婆世界と極楽世 界の分斉が遠かではないということである。善導大師が言われる虚空法界の中には、無量無辺不可思議恒沙の世界 がある。即ち十方世界には数え切れないほどの多くの浄土が存在するわけである。その中において﹁十万億﹂とい ったところで、数からすれば七百万億・一千万億に比べれば少分である。即ち﹃観無量書経﹄の﹁去此不遠﹂とは 矛盾しないのである。②道里不遠とは、道程が遠くないことであり南無阿弥陀悌という一念に命終して極楽世界に 生じることである。この距離は道程からすればほんの近い距離である。つまり命終の一念の次の一念には彼の国に 往生を遂げているのである。このように、いかに﹁十万億土﹂を経ているとしても、往生は一念という短い間に成 就するのであるから﹁十万億土﹂の道程は決して遠かではないと言うことになる。③観念不遠とは、衆生が浄土の 依正二報を観念すれば、仏は即座にそれに対応して自らおよび浄土を現ぜられることである。即ち﹁十万億土﹂の 道程が逢かであろうとも眼前に浄土を見ることができるのであるから﹁観念不遠﹂とするのである。とあるように、 善 導 大 師 に よ れ ば ﹃ 無 量 害 時 経 ﹄ ﹃阿蒲陀経﹄の﹁十万億土﹂と﹃観無量害時経﹄の﹁去此不遠﹂の二つは言異意同と いうことになる。即ち裟婆世界にいる﹁機﹂を自覚した願生者にとって極楽世界を﹁去此不遠﹂として示され、 ﹁ 二 河 白 道 ﹂ に つ い て 五 五
併数大皐大皐院研究紀要第十六競 五 六 ﹁二岸相去ること近し﹂として述べられて、次の決断の場への地盤設定がなされている。願生者は心的変化を進め るのである。故にこの区分では、願生者の側の心的変化の基底があり、仏の側の地盤とも言うべき形の二つの基礎 が出来上がっている。 。願生者の決断 この場にいたっては﹁我今廻るも亦死なん、住するも亦死なん、去るも亦死なん、 う絶対危機の場であり何らかの決断をしいられている時でもある。そしてこの絶対危機の場にある願生者である。 この場において﹁三定死﹂ということになる。進まんとして進むを得、ず、廻らんとして廻るを能わず、住らんとし てまた住まることの出来ない願生者の心を述べている。およそ願生者の存在のあり方は、進むか、退くか、住まる かの三種類であり、ここにおいて願生者はこのように追いつめられた絶対危機の時をむかえるのである。﹁自ら思 念すらく﹂ということによって、今までの
ω
ω
の段階で真実心をもって﹁機﹂を自覚した願生者が新たな世界を展 一種として死を勉れず﹂とい 開させる局面にあり、これは白道へ第一歩を踏み出そうとする心的変化の第二段階である。この﹁思念﹂は即ち﹁ 願う﹂という念であり決断の時である。 註ω
﹃観経疏﹄散善義に ヲ モ テ V 玉 ヲ F 二者決定深信彼阿禰陀併四十八願揖ニ受衆生一無 v 疑 無 v 慮 乗 一 一 彼 願 力 一 定 得 一 一 往 生 とある。信機相を自覚することは︿罪悪深くして出離の縁のないものと信じられた自己﹀であり、ひいては阿弥陀 仏の願力に乗じて必ず往生しうることを確信することである。さらに 註切 ﹃観経疏﹄散善義に ス ノ ノ ヲ 玉 1 ヲ ヲ ツ セ 又 決 定 深 信 緯 迦 説 ニ 此 観 経 コ 一 一 幅 九 品 定 散 二 善 一 詮 ニ 讃 彼 傍 依 正 二 報 一 使 ニ 人 欣 慕 一 文決定深信禰陀経中十万恒沙諸γ 玉 フ ヲ ノ Y 1 ヲ 1 ヲ ト ハ キ 傍 詮 一 一 勧 一 切 凡 夫 決 定 得 v 生 又 深 信 者 仰 願 一 切 行 者 等 一 心 唯 信 一 一 傍 語 一 不 v 顧 一 一 身 命 一 テ ノ 玉 セ ヲ ハ γ ノ 玉 即 捨 悌 遣 v行 者 即 行 傍 遣 v去慮即去是名下随一一煩悌敬一随中順傍意ム是名 v随 一 一 順 傍 願 一 是ヲ決 名グ定ソ
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第ノ行
2
弟イ弗ノ 子ト遣γ 玉 捨テ 者ノ とあり、願生者は一心にただ仏語を信じて決定することの必要を述べ、そして生死を離れにくいのであるから、か の願力によって生じると信じて疑わずに仏願に順ずるのである。この立場を真の仏弟子と名づけるとされている。 即ち信法とは、釈迦・弥陀二尊の発遺招喚が願生者にとっては仏の願力の道に乗ずることとなる。この決断の時が、 この善導大師の﹁二河白道﹂の中心的、場であり新たな世界への関口点とも言うことができる。これはω
紛 に お け る内在性の緊張又は、絶対危機に根底をなしたものである。そして﹁我むしろ此の道を尋ねて前に向って去ん、既 に此道あり必ずまさに度たるべし﹂とする﹁此の念を作す時﹂なのである。この﹁時﹂において願生者の願力の念 が向う方向を決定している。 註 一 ⑬ ﹃無量害経﹄巻上 設 我 得 v傍 十 方 衆 生 至 心 信 楽 欲 v生 一 一 我 圏 一 こ こ に 、 願生者の心的変化の第三の段階をみることができる。 そして 乃 至 十 念 若 不 v 生 者 不 ν取 一 一 正 費 一 と あ り 、 仏の誓願が述べられていて、 註 ⑫ ﹃観念法門﹄に 若 我 成 傍 十 方 衆 生 願 v 生 一 一 我 圏 一 このことについて善導大師の解釈によれば セ γ 寸. . カ ヲ y − 一 稽 一 一 我 名 字 一 下 至 一 一 十 聾 一 乗 一 一 我 願 力 一 若不 v 生 者 不 v 取 一 一 正 畳 一 『 と 衆 若γ 往 し 生 我v生 て 稽 成 麓 説 念ス↑弗セ讃か 三』品れ 必 見 十 に @ て 得 方 / い 三千衆 る壬 生
0 2二ヲ稽v 又 我 名 競ヲ 下 至 一 一 十 聾 一 若不 v 生 者 不 v 取 一 一 正 費 一 γ 玉 へ p a 彼 傍 今 現 在 v世 成 悌 嘗 v知本誓重願不 γ 虚 ﹁二河白道﹂について 五 七併数大事大皐院研究紀要第十六競 五 八 とある。従ってここで注目すべき事は、 ﹁乃至十念﹂は﹃観念法門﹄では﹁称我名字下至十声﹂であり、 ﹃ 往 生 鐙 讃﹄では﹁称我名号下至十声﹂であると解釈されている。したがって、法然上人によれば善導大師はここで﹁念﹂ は﹁称﹂であると理解されているとうかがわれるとある。よって仏の誓願にあるように願生者が﹁南無阿弥陀併﹂ と念仏を称すればかならず往生を遂げさせるというのである。この時に、東岸から﹁仁者但決定して此の道を尋ね て行け必ず死の難無ん、若し住せば即ち死んと﹂という発遺の声を聞きうるのであり、又西岸の﹁汝一心正念にし て直ちに来れ、我能く汝を護らん。衆ってこの水火の難に隠らんことを畏れざれとよという招喚の声を聞きうるの である。ここにおいて、 一心正念という願生者のもつべき態度をはっきりとうち出されている。またこれは決断す る願生者の心的変化による態度とも言うべきものであり、ここにおいて壁画一聡の始めの﹁一つの警一聡を説きて信心を 守護す﹂とのベ﹁二河白道﹂をお説きになった善導大師の本意が示されているのである。この釈迦の発遣と弥陀の 招喚は同時である。弥陀の招喚を聞くということは、釈迦発遣を通して釈迦の本懐の義に達したことをもって、弥 陀の招喚を聞くというのであるから、これらは同時に起らなければならない。即ち、この時に﹁凡夫の願﹂と﹁仏 図 白道!す安心︵三心︶白道を渡る姿
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起 行 ︵ 念 仏 ︶↑
↑
極 楽 の 境 地 願 生 者﹁
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原生者の安心・安堵の願力﹂の接点をもって凡夫の意識は仏意の世界へと転換しつつ白道を歩み始めるのである。ここで再び﹁安心起 行﹂の教範についてみると、 右の図に示したように、三心を持つ ︵決断による︶心のあり方が極楽の境地に至るものであり、起行をなす姿は願 生者である。この両者が一体化となる事によって極楽世界を願う願生者は安心安堵を得るのである。そして又 註⑬ ﹃観経疏﹄定善義に 問日備修一一衆行一但能泡向皆得一一往生一何以傍光普照唯揖ニ念併者一有一一何意一也答日此有二三義二明一一親縁一 V テ ヲ 品 ス ν ハ ヲ 玉 ヘ ヲ ユ 見 レ ハ ヲ 玉 ヲ ユ ス レ ハ ヲ 玉 ヲ ス レ ハ ヲ γ 玉 ヲ 衆生起 v 行口常穏 ν 悌併即聞 v 之 身 常 龍 一 一 敬 悌 一 一 併 即 見 v 之心常念 v 併傍即知之衆生憶一一念悌一者亦憶一一念衆生 一 彼 此 三 業 不 一 一 相 捨 離 一 故 各 一 一 親 縁 一 也 二 明 ニ 近 縁 一 衆 生 願 v 見 v 併傍即庭 v 念 現 在 一 一 目 前 一 故 名 ニ 近 縁 一 也 三 明 ニ 増 テ V 玉 ノ 上縁一衆生稽念即除一一多劫罪一命欲 v 終時傍興一一聖衆一白来迎接諸邪業繋無一一能擬者一故名増上縁也 とある弥陀の三縁を得たように﹁念仏﹂を称える願生者の心的変化を言うのである。 このような心的変化の﹁出 現﹂は、仏の願力による応答の第一歩となり、 願生者は仏の救済の対象であり仏の願力を受諾することは﹁願生者 の決断﹂が根底となっている。
ω
願生者の様態 白道を歩み出した願生者は、 ﹁即ち自身心を当にして、決定して道を尋ねて直に進て疑怯退の心を生ぜず﹂とあ るように、方向を決定することによって仏意にありながらω
制。の段階の心をもっているのである。 註⑫ ﹃ 観 経 疏 ﹄ 散 卦 主 同 義 に 遡 向 護 願 心 言 一 一 週 向 都 民 願 心 一 者 世 善 根 一 以 一 一 此 自 他 所 修 善 根 一 即 ち 、 過去乃以今生身口意業所 v修世出世善根乃隠ニ喜他一切凡聖身口意業所 v修 世 出 悉皆異質深信心中沼向願 v 生 一 一 彼 圏 一 故 名 一 一 週 向 都 民 願 心 一 也 ﹁ 二 河 白 道 ﹂ に つ い て 五 九併殺大皐大皐院研究紀要第十六競 十 という即ち、他の一切の凡聖の身口意業に修する所の世出世の善根に随喜して、自他所修の善根を酒向して浄土に 生れんと願うことである。そして﹁一心に直ちに進みて道を念じて行く﹂ということについては、前に述べた﹁白 道﹂ということの合職に﹁今、二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず念念遺ること無く、彼の願力の道に乗じ て﹂とある﹁願力の道﹂と言われている。これは
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願生者の決断の場における仏凡の接点を基点として述べられて いるから、先に﹁衆生貧膜煩悩の中に能く清浄なる願往生心を生ずる﹂と願生者の願力として述べられており、又 ここでは﹁彼の願力の道﹂として仏の願力が述べられている。そして﹁道を念じて﹂は、即ち仏凡の合体の﹁念﹂ をいうのである。このことについて前記の廻向発願心釈に﹁他の一切の凡聖の身口意に修する所の世出世の善根 を﹂とあるところの凡聖の善根ということができ、この廻向発願心相は仏凡の願力の合体によって白道を白道たら しめている。即ち﹁願往生心﹂を起して、傍の願力を信ずることである。そして、 註 @ ﹃観経疏﹄玄義分 テ ス Y カ 司 ハ ル ハ ト 今此観経中十聾稽併即有二十願十行一具足云何具足言一一南無一者即是騎命亦是護願遡向之義言一一阿繭陀悌一者 即 是 其 行 以 一 一 斯 義 一 故 必 得 一 一 往 生 一 ということは、願・行とを相対に示されている。そして願生者の信心は三心︿安心﹀であり、行は念仏である。こ のことを初めの﹁安心起行﹂の教範にみると、白道は安心・白道を渡る姿は起行である。行は発願廻向の義である から、この善導大師の﹁二河白道﹂はω
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を重層的過程として示されたものである。故にこの三心の帰結である 廻向発願心釈の後に述べられているが、三心全体のかかわりを示してこの壁画鳴を示されたのである。 又ここで善導大師が﹁二河白道﹂によって示された三心を考える時、良忠上人が述べられている﹁竪の三心﹂﹁横 の 三 心 ﹂ に つ い て は 、註 @ ﹃ 浄 土 宗 要 集 ﹄ に 若 無 一 一 欣 求 之 心 一 雄 v 知而不 v 具 有 一 一 欣 求 之 心 一 不 v 皐而自備若人本無二三病一者不 v 治自安開 v説 一 一 厭 欣 一 頓 具 一 一 三 心 一 此 人 即 是 横 具 二 三 心 一 也 若 人 有 一 一 虚 仮 障 一 即 障 一 一 往 生 一 関 v 説 一 二 者 至 誠 心 一 即 除 一 一 虚 綴 障 一 有 一 一 疑 心 障 一 亦 障 一 一 往 生 一 間 v 説 一 二 一 者 深 心 一 除 一 一 狐 疑 障 一 有 一 一 不 泡 向 障 一 亦 障 ニ 往 生 一 関 v 説 一 一 三 者 遡 向 設 願 心 一 除 一 一 不 遁 向 障 一 本 不 v具 一 一 三 心 一 之者待二二三之説一始具二二心一此人是竪具三心一也 註⑧ このことについて又石井先生は と述べられている。 三心一々の必要なる所以を聞いて次第に三心をしたため、浄土の安心を完全に具する場合を竪の三心というので ある。それに対して他方に、三心一々の説明を開かずとも直に完全な浄土信仰を成就する場合のものを横の三心 と い う の で あ る 。 ﹂ と述べられている。この善導大師の﹁二河白道﹂においては﹁竪の三心﹂をもって、信仰意識が段階を追って深ま りをみせており、願生者の意識の重層性をもって決断があり往生するという過程を述べられている。そこには、願 生者の絶体危機に対する決断の緊張があり、仏の仏意が明らかにされている。この願生者の側と仏の側を総合的に 過程を追って見ていく上から善導大師の﹁二河白道﹂を理解しなければならないのではなかろうか。
第
絶対危機と決断
善導大師の﹁二河白道﹂において、願生者の置かれている危機は、願生者がしばしば現実の生活の中に出逢う所 の精神の苦痛とか心の悲しみとか言うようなものではない。この善導大師の﹁二河白道﹂においては、前節で示し たように願生者の生死にかかわる危機なのである。そしてだれもがもっている苦悩であってこの現実は逃れること ﹁ 二 河 白 道 ﹂ に つ い て ・....L.ノ
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傍教大皐大皐院研究紀要第十六競 ...L・ / 、、 ができない。また、この危機は願生者にとって外部的な苦悩でなくして、その願生者一人一人の心の中に内部的苦 註 @ 悩として考えられているものである。このことについて竹中先生は次のように述べられている。 危機は内在化されることによって宗教化され、本質化される。いうならば人聞は危機的存在としてのみ本質的に 人間たり得るのである。世俗的、外在的危機は状況の変革と手段のいかんによっては回避または超克が可能であ る。つまりそれは相対的危機だからである。しかるに、内在的な宗教的危機はそれが内在的であり、本質的であ るがゆえに解決不能であり、超克不能なのである。人間それが自体矛盾的存在としてその根底に危機を苧んでい るからである。解決不能、超克不能を何とかして可能にしようとする矛盾、これが宗教における非合理であり、 しかもここにこそ宗教の特質が認められるのである。すなわち宗教とは人間の矛盾の上に成り立つ超合理的なも の な の で あ る 。 と述べられており、この危機というのは内在的な危機であり、また本質的な危機として述べられている。解決不能 註 @ 又は、超克不能のものとして特長づけられている。この内在的な危機ということについてまた 危機観と危機意識のちがいである。筆者の意図する用語上の区別によれば、危機観とは危機観念である。特定の 状況に対してこれを﹁危機﹂とみる。そしてかかる経験の累積によって危機ということに対して観念群が体系的 に構成される。したがって危機観は危機を対象化し、客観化する傾向がある。その対機は現実具体的な﹁危機﹂ ではなく、体験を伴わない。それはいわば一種のものの見方であり、 一つの姿勢であるゆえそれ自体で完結する。 これに対して危機意識とは、特定の状況において危機を感ずることである。それはみずからの体験であり、実感 である。したがって危機意識における危機は主体がその中にあると同時に、危機が主体の中にあるのである。い わば主体自体が危機なる状態であり、 いうなれば危機が主体なのである。したがってそれはそれ自体で完結する
ものではない。その状況をのり越えようとする実践に裏づけられねばならない。 と述べて、危機観と危機意識とを主体性をもって区別がなされている。この善導大師の﹁二河白道﹂における危機 は、危機意識であり実践に裏づけられていなければならないのである。このことによって、願生者の危機意識とい うことは、善導大師の﹁二河白道﹂の中心的変化であり、善導大師の宗教的体験を含む考えとしての危機意識が述 べられているのである。その危機意識に至らしめるまでの状態として、考えておかなければならないのは善導大師 の﹃観経疏﹄にみられる末法思想を根底としているものである。 註 @ ﹃ 制 働 経 疏 ﹄ 玄 義 分 に ヨ F F y へ p 我等愚療身娯劫来流轄今逢一一種迦傍末法之遺跡調陀本誓願 註 ⑧ ﹃観経疏﹄玄義分に チ タ V Y テ 7 7 ス 寸 . ハ ヲ ス ル カ Y ト ノ ヲ ア グ ユ シ テ ア ラ 斯乃直是如来慈一一哀末代一翠勧勘 γ 修欲 v令一一積皐之者無v遺聖力冥加現盆一故也 と各々述べられており、善導大師自身を含めた願生者にとっての末法思想の意識を明確に述べられて、仏の願力の 註⑫ 存在を示している。この上に実践がともなうのである。この末法思想について数江先生によると 善導がおのれをもふくめて衆生が末法の衆生であると認めることは、道縛と同じである。しかし善導が弥陀の救 極楽之要門 済の対象として取りだす五渇悪世の衆生の破戒・無戒・惇徳は、正像末三時の年限によって必然的に現われる現 象ではなく、むしろそれは人間の負える宿命的な罪業なのである。彼にとって、末代の衆生の機根が劣悪である ことは、否定すべからざる歴史的な事実であった。だが人間の存在は悪への存在であるばかりでなく、おのれの 意志とかかわりなく他人の悪業の被害者になる危険にもたえずさらされる。﹃観無量害時経﹄における章提希夫人 の悲劇も、また彼女の罪業の深さを示すものにほかならない。そしてその罪業の深さは、末法によってさらに倍 ﹁ 二 河 白 道 ﹂ に つ い て _L..,,. /'¥
併教大皐大皐院研究紀要第十六競 六 四 加された。そういう五濁悪世の衆生、末法の凡夫を救済しうるものは、弥陀仏の無限の慈悲と力量と極楽浄土の 栄光を措いてはない、善導が﹁我ら愚療の身は瞭劫来流転し﹂といっているのは、彼自身の罪業の深さを告白し た言葉であろう。末法はふつう釈尊の懸記︵予言︶によってその入滅後にあらわれる修道の歴史の三段階のこと だとし、形式的に理解されていた。それゆえ像法をすぎて末法に入ると、衆生の機根は劣悪となり修道の純粋性 をまもる意力はすでにないから、破戒・無戒・惇徳は慢性病状を呈し法滅尽の様相はますます深刻になる。とこ ろが、道綜も善導もその正像末三時の外在的な時の流れを、おのれの心のなかに内在化せしめた。宿命的な罪業 によって、人間が悪へ駆りたてられて、破戒・無我・惇徳が自にあまるようになる時、末法はおのずと現われる こ と に な る 。 と述べられ、この末法思想における危機意識について、道縛も善導も正像末の三時の外在的な流れを、おのれの心 のなかに内在化せしめたとあるように、この危機意識は願生者の心の内にその根底を求めている。願生者にとって この心の内にある危機意識はさらに﹁機﹂をもって罪悪観による機根劣弱の身とするから、この意識は絶対危機と して願生者にせまってくるのである。又﹃観無旦墨書経﹄における危機について香川先毎 章提希自身の罪であると機悔する心情は、個人的危機観であり、教団的・社会的危機観が全部、自分一人の罪と して集約されていることである。このような危機観・罪悪観は浄土教の一特色である。 と述べられ、危機観は全部自分一人の罪に集約されているところに願生者の絶対危機意識をみることができる。そ して善導大師の﹁二河白道﹂において危機意識は、末法思想を内にもった危機及び﹁機﹂を自覚した願生者の心に 絶対危機として現われるものであり、どうすることもできない状態になるのである。そして、ここで願生者は絶対 危機となりその状態において二河の中にある﹁白道﹂をみるのである。願生者にとって﹁白道﹂は極楽世界へ至る
方向性の象徴としての機能を有している。象徴とは他のあるものの代わりに用いられ、その意味を表わすものであ る。即ち﹁白道﹂を象徴と考えてみると﹁仏願﹂の代わりに示され、そして仏の願力を表わしているものであると 言うことができる。又ここで付を白道とし、
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を仏の願力と考える時、ω
によって願生者の心に思い浮べるものと し て のω
がある。この付ω
の聞には念仏が考えられてくる。 註 @ ﹃観経疏﹄散善義 一 心 専 念 一 一 掬 陀 名 競 一 行住坐臥不 v 間 一 一 時 節 久 近 一 念 念 不 v 捨 者 是 名 一 一 正 定 之 業 一 順 一 一 彼 併 願 一 故 とあるように、この付ω
の聞には念仏を持続的に称えることによって、願生者には﹁白道﹂を仏の願力とする象徴 としての機能があるのである。さらに善導大師は、この﹁白道﹂が願生者には﹁此の河南北は辺畔を見ず、中聞に 一つの白道を見る﹂という視覚によって示され、さらに﹁此の人既に此に遺り、彼に喚を聞く﹂という聴覚の二つ をもって示されている。この﹁白道﹂は念仏を称えることが続くかぎり、願生者の眼前にはその願力とし機能し続 けるのである。即ちこの象徴としての﹁白道﹂のもつ機能をさらに増し、念仏を称えることを勧められている。こ こで象徴の機能を考えると、この象徴を知る願生者の絶対危機即ち﹁究極性﹂について、重要な意味を与え理論的 に展開したティリッヒ︵ち己、 H,E
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︶の所説には、この象徴に五つの特色を挙げておられるがここでは宗教的象 註 @ 徴としてのものをみると 本質的な特徴は、現実の次元や構造に対応する。われわれの魂の次元と構造を開示するというところに見られる。 偉大なドラマはわれわれに人間の世界への新しい洞察を与えるのみならず、われわれ自身の存在の隠された深み をも開示する。それによってわれわれはその劇が元来語ろうとしているものを理解できるようになるのである。 それはわれわれのうちに、象徴によってのみ意識することができる領域を与えるのである。 ﹁ 二 河 白 道 ﹂ に つ い て 六 五傍教大皐大皐院研究紀要第十六競 六 六 と述べられている。即ち我々自身の存在の中に日頃かくされている深層があり、この象徴によって呼び覚ますので ある。だから象徴は心の深層に働きかけてそれを開示すると言うことであるから願生者は絶対危機における心の関 心の方向を深層に働きかけるのである。それを開示する力として﹁白道﹂をみるのである。そしてさらに願生者の 深層に働きかけ開示されるものとして、如来蔵思想を考えると、如来蔵とは衆生の煩悩の中におおい蔵されている 本来清らかなる如来法身である。ここで願生者と仏の関係をみると、 註⑧ ﹃ 大 般 泥 湿 経 ﹄ に 日 ア リ テ ィ テ ヲ グ エ リ ル − 一 グ V パ チ ナ リ 復 有 一 一 比 丘 一 庚 読 一 如 来 蔵 経 一 号 一 口 一 切 衆 生 皆 有 一 一 併 性 ↓ 在 一 一 於 身 中 一 無 量 煩 悩 悉 除 滅 巴 併 、 即 明 顕 。 とあり一切衆生の中に﹁仏性﹂ありと説いている。この﹁仏性﹂を有している衆生が、この﹁仏性﹂をいかにして 現わずかが問題となる。そして、 註⑧ ﹃大方等如来臓経﹄に ノ ヲ リ テ 見 ト ユ キ ヲ γ ヲ 傍 見 ニ 衆 生 如 来 蔵 一 己 。 欲 令 − 一 開 敷 一 震 設 一 一 経 法 二 除 滅 一 一 煩 悩 一 一 額 一 一 現 傍 性 。 註 @ ﹃大方庚如来識経﹄に テ ヲ 見 ヲ ム ハ セ ヲ グ ノ ト ル ニ ユ チ エ 如 来 以 一 一 併 眼 一 。 観 察 二 切 有 情 如 来 蔵 一 。 令 = 一 彼 有 情 欲 ニ 撰 療 貧 無 明 煩 悩 蔵 一 。 悉 除 遣 故 而 信 用 ニ 説 法 一 。 由 ニ 聞 法 故 則 正 見 チ テ 7 R 修 行 。 即 得 一 一 清 浄 如 来 一 賞 躍 。 といい、共に衆生が﹁仏性﹂を有していることを説いたものであり、仏の願力によってその﹁仏性﹂が開示される ことを述べられている。ところでこの﹁象徴﹂としての﹁白道﹂を仏の光明として考えてみると高橋先生は、光明 註⑧ の作用にいって もともと阿弥陀併の光明とは、阿弥陀仏が無量寿・無量光と称され、寿が体で光が用であるという理解もされる
ことながら、阿弥陀仏のそのはたらき︵用﹀が、時間的に空間的に無限であることを示す。そのいっぽうの空間 的なはたらき︿衆生救済﹀をあらわしているといえる。 と述べられて、この光明としての仏の願力が現われるのを、願生者は空間的な働らきとして知るのである。ここに 絶対危機において、その象徴機能が発動するのである。そしてこの﹁象徴﹂ ﹁白道﹂をみることによって、決断に至らしめる心を開示するとともに、決断の心を喚び起す力となる。このこと は同時的に起って、釈迦の発遺・弥陀の招喚により決断するのである。さらにこの決断にあって光明の意識化につ 註 @ いて高橋先生は次のように述べられている。 ︿白道﹀は、絶対危機にある願生者が 阿弥陀仏の側からする光明による滅罪作用は、衆生においては罪業がまさしく罪業として意識され自覚され、さ らに機悔の意識が生じてこそ、はじめて自己のうちにその作用が認められるのである。つまり機悔の意識は、阿 弥陀仏の光明による滅罪作用の衆生における内面化であり、主体化であるといえよう。阿弥陀仏の名号を称える ことによって、阿弥陀仏の光明に浴することの内容は、そこにありのままの自己が照し出されることであり、自 己の罪業がありのままに意識され自覚されることであり、さらにその自己の罪業と機悔する意識が生ずることで あるといえる。いいかえればその機悔の意識というものが、自己の罪業をありのままに認め、それを他︵仏﹀に 告白することであるとするならば、それはまさに称名念仏によってえられる仏の光明の作用である。ここに称名 ←光明←機悔という一一一つの要素からなる宗教構造をみることができる。またこうした構造をほかにして自己の罪 業をありのままに認め、それを機悔するという意識は生じないしまた論ずることもできないといえよう。 と 述 べ ら れ 、 ﹁称名←光明←機悔という宗教構造をもって、 ﹁機﹂を自覚することによって機悔の意識となって決 断し、さらに実践の念仏となって願生者の姿勢あるいは態度が示されると言うことができる。 ﹁ 二 河 白 道 ﹂ に つ い て 六 七
傍 教 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 六 競
第
四
結
び
六 八 これら述べてきたことから、末法思想を心の中に内在化した絶対危機にある願生者は、 識をもち、機悔の意識となって決断し、危機意識をもちながら進むのである。即ち、この願生者にとって眼前にあ る﹁白道﹂をみる時、進むべき方向が開示され、念仏を称えることによって、仏の光明に照し出されながら﹁白道﹂ ﹁機﹂をもって罪業の意 を一歩一歩と歩み進むのである。この﹁機﹂を自覚した願生者と仏の願力の相互関係がここに円滑に進むにしたが って、念仏信仰がますます深められて行くとともに極楽世界へと近づいていくのである。そして願生者の心におい て始めは四・五寸ばかりであった眼前の﹁白道﹂は念仏信仰が進むにしたがって広がりをみせるように、水火河の 煩悩にまどわされることなく﹁白道﹂を歩みつづけるのである。 註 ① ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ ︵ 二 巻 ・ 三 九 四 頁 、 上 ﹀ ② 藤 本 浄 彦 先 生 ﹁ 二 種 深 信 私 考 付 ︶ 参 照 ﹁ 善 導 大 師 の 浄 土 教 ﹂ 浄 土 宗 学 研 究 所 編 所 収 。 ③ ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ ハ 二 巻 ・ 五 九 頁 下i
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頁 、 下 ︶ ④ グ ︵ 二 巻 五 五 頁 、 上 ︶ ⑤ H H ︵ 一 巻 ・ 四 六 頁 ︶ ⑥ ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ ︵ 二 巻 ・ 五 五 頁 ・ 下 ︶ ⑦ ﹁ 法 然 上 人 の 至 心 釈 に つ い て ﹂ 藤 堂 恭 俊 著 ︵ 仏 教 文 化 研 究 ﹂ 第 二 五 号 ︶ 参 照 ③ ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ ︵ 二 巻 ・ 五 六 頁 ・ 上 ﹀ ⑨ グ ⑬ グ ⑪ グ ⑫ 汐 ⑬ グ ⑬ グ ⑬ グ ⑬ ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ ⑬ H H ⑬ グ ⑬ H H ︵ 二 巻 ・ 六 六 頁 ・ 上 ﹀ ︵ 一 巻 ・ 二 一 頁 ︶ ︵ 一 巻 ・ 五 二 頁 ﹀ ︵ 一 巻 ・ コ 一 九 頁 ︶ ︵ 二 巻 ・ 二 九 頁 ・ 上1
下 ﹀ ︵ 二 巻 ・ 五 六 頁 ・ 上 ﹀ ︵ 二 巻 ・ 五 六 頁 ・ 下 ﹀ ︵ 一 巻 ・ 七 頁 ︶ ︵ 四 巻 ・ 二 三 三 頁 ・ 上 ﹀ ︵ 四 巻 ・ 三 七 六 頁 ・ 上 ﹀ ︵ 二 巻 ・ 四 九 頁 ・ 上 ﹀@ h 庁 ︵ 二 巻 ・ 五 八 頁 ・ 下 ﹀ @ H M ︵ 二 巻 ・ 十 頁 ・ 上